右衛門13-3
「右衛門13-3」
右衛門と柴田が天狗党の村に侵入して数日が経った。二人は龍と鈴それに床に臥せった武吉が暮らす家で、いまだにやっかいになっている。
何故か鈴は右衛門になついている。
武吉の朝飯を食べさせた鈴が、村を散歩して帰ってくる右衛門を家の前で待っていた。
「どうした鈴、朝飯は食ったのか。」
右衛門が、戸口でじっと動かず立っている鈴に声をかけた。
「沢村様と一緒に食べようと待ってたんだ。」
鈴はそう言うと、右衛門の腕に自分の腕を絡めて体ごとぶら下ろうとした。すると、右衛門が合わせるるように彼女の体をぐっと持ち上げた。鈴が笑い声をあげて、嬉しそうにはしゃいでいる。
「すごい力だ。沢村様は、剣の達人じゃないのか。」
鈴が無邪気に笑いながらそう言った。やはり右衛門の外見の見えない鈴には、彼に何か凄みを感じるのだろうか。右衛門の腕が一瞬動きを止める。
「どうして、わしが達人と思うんだ。」
右衛門が少女の言葉に戸惑いながら問いかけた。
「沢村様は、おっとうより、ずっとずっと強いと思うんだ。理由はうまく言えないけど・・。」
鈴は視力を失っているだけに、それを補う他の感覚を研ぎ澄ましているのかもしれない。
「視覚に頼ってばかりでは、鋭い感覚は生まれんかもしれんな・・。」
右衛門は死闘で窮地に陥ると、しばしば目を閉じたことを思い出していた。自分の体の動きに素直に答えるには、視覚による判断が邪魔になることがある。
「柴田先生は、どうしている。」
右衛門と清五郎は、数日前から手分けして患者の家を訪ねて患者の往診をしている。右衛門は、いつの間にかこの村では信頼される医者になっていたのである。一方、患者の相手をしている自分を、まんざらではない思いで見つめているもう一人の自分がいた。この時代は、患者を治すとは、病人の相手をしてやって相手を安心させるのが医者の大きな治療方法だったのかもしれない。
「昼にならないと帰らないって言ってたよ。患者の家で朝飯が出されるんだって・・。」
鈴が右衛門に答えた直後、鈴を呼ぶ武吉の声がした。
(右衛門たちと武吉、龍)
柴田と右衛門も、村での逗留も一週間以上が経ち、ここでの生活も少し落ち着いてきた。
「前の通りを歩いている時、侍三人に出くわしたのだが、編み笠を深くかぶって、わしの挨拶を無視して通り過ぎて行った。武吉に心当たりはあるか。」
鈴が持ってきた湯呑の茶を飲みながら、右衛門が武吉にそう聞いた。
「今では、この村は旧幕府の重鎮だった黒幕に乗っ取られたようなものさ。幕府の時代、天狗党は会津様と気脈を通じて、幕府のために諸藩の情報を集めたり、時には暗殺の手伝いもしてきた。おかげで、天狗党の息のかかった村々は、役人の目を気にしなくてもよかったんだ。わしらの転落は幕府崩壊で始まったようなもんだ。天狗党の首領たちは、会津様に代わる権力の後ろ盾を探していた・・。そんなわしらの前に現れたのが、勝沼恵三だ。」
勝沼の名が出て、右衛門の茶を飲む動作が一瞬止まった。
「勝沼と言えば、薩摩の西田と幕府崩壊を進めた旧幕臣か。」
右衛門も勝沼のことは知っていた。幕府滅亡後、旧幕臣の集結は彼の判断で動き出すと言われる程の力を持ち、新政府にとっても無視できない重要人物であった。
「わしには政治のことは分からないが、奴がこの国で大きな力を持っていることは、確かなようだ。そこで、わしら天狗党の首領連中は勝沼に頼った。会津様の代わりにな・・。」
武吉の顔に悔しそうな表情が浮かぶ。
「しかし、お前の言ってることと、編み笠の男たちとどうつながるのだ。」
右衛門にとって、天狗党と勝沼たちの政治的駆け引きにはあまり興味がなかった。
その時、龍が家に帰ってきた。武吉と右衛門が話をしているのに気づいた彼は、二人の邪魔にならないよに部屋の片隅に座り、黙って二人の話を聞いている。
「その侍は、勝沼の息のかかった浪人たちですよ。わしらは、あいつらに利用されるのはうんざりしてるんだ。会津様と違って、奴らはわしらの自由まで縛り上げている。わしはあんたが信頼できる。だからこんなことを言うんだが・・。(龍の方に目をやり)これはここだけの話だからな、龍!」
龍は胡坐をかいて武吉の呼びかけに反応しないで、黙って目を閉じている。
その時、再び家の戸が勢いよく開けられ清五郎が帰ってきた。
「おお、みんな揃っているな。」
村の患者の診察を終えた清五郎は、機嫌がよかった。鈴に会えた清五郎は、彼女の様子を遠くから見ているだけで気持ちが浮きたった。まだ、自分が鈴の祖父であることは言っていなかったが、つい最近まで天涯孤独で死んでいくと覚悟を決めた男に、玉枝が生んだ娘と自分の血を引く孫が現れたのである。そのことを考えただけで、心が沸きたつのだ。
清五郎の陽気さとは対照的に、誰も何も言わず清五郎の顔を見ている。
「何じゃ、しんみりしてるな。誰かが死んだか・・。武吉ではあるまいな。」
清五郎は冗談を言うと、大きな声を出して笑った。
「先生、わしはまだ息をしてますよ。」
武吉が、清五郎の冗談に合わせるようにそう言った。鈴が気を利かせて、清五郎に湯呑に茶を入れて持ってくる。
「ありがとう。お鈴。」
清五郎は、心を込めて礼を言った。日の差す部屋に清五郎の快活な笑い声が響き、その場に明るい雰囲気が漂っている。
しかし、次の瞬間、武吉の言葉でその場の空気が一変した。
「わしは、以前あんたを見たことがある。」
武吉が、右衛門の方を向いてそう言ったのだ。右衛門の顔から笑みが消えた。
「わしらも天狗党で、闇の世界を渡り歩いていたんだ。時には、黒龍党の連中と利害関係がぶつかることがあってな。万座屋の店主万座尚江の暗殺を企てたことも何度かあった。もちろん奴の富を狙ってな・・。そんな折、右衛門という男が万座屋の店先で三人の浪人を鮮やかに斬り捨てたのをいまだに忘れられねえ・・。あれは、鬼神の仕業だった。」
武吉の言葉に、誰も即座に反応できず、その場の沈黙がしばらく続いた。
そして、右衛門が口を開いた。
「先生、ばれていたようですな。」
柴田の方を向いてそう言いながらにやりと笑った。龍の右手が誰にも気づかれないように後ろに向かい、剣の束に触ろうとした時、
「やめな、龍!お前のかなう相手ではない。」
武吉が龍をたしなめるように一喝した。その声に従って、龍の後ろ手が前に戻される。
「しかし、妙だな。黒龍党と言えば、幕府や紀州藩筆頭家老の後ろ盾をもっていた大組織だった・・。あんたは、その黒龍党を、佐那河内の連中や幕府の柳生義親を動かしてねじ伏せたほどの策略家と聞いている。そのあんたが、勝沼の名を上げてもあまり興味を示さない。いったいどうして、あんたほどの大物がこんな村に来たんだい。」
さすがに、天狗党の元頭領ほどのことはある。右衛門の到来でそこまで推し量っていたのである。
「先生、武吉にそこまで見破られていたんじゃ仕方がない。先生の素性も明かしますよ。」
右衛門はそう言うと、柴田先生の承諾を促した。
腕を組んで目を閉じた源五郎が、右衛門の言葉に応じるように軽く頷いた。
「わしは、縁あってこの先生と会津で知り合ってな・・。玉枝さんとの経緯を聞かされることになったんだ。先生はどうしても孫に会って天狗党の村から救い出したいとおっしゃってな。先生との奇妙な縁で企てに加わることになったのだ。」
右衛門は隠すことなく、武吉に本心を打ち明けた。或る意味、彼は武吉という男の人物なりを見込んで、この作戦の成否を占ってみたのである。
「玉枝さんのことは、先代の首領の久兵衛さんから聞いてよく知っている。(改めて、清五郎の顔を見て)あんたが、蘭学医の柴田先生か。すると、鈴はあんたの孫になるのか・・。」
武吉はそう言うと、板の間でじっと立って話を聞いている鈴の方を見た。
「私のじいちゃん?」
鈴がきょとんとした顔をして、ぽつりと言った。
「ここまで話した以上、武吉と龍には、わしらの計画に乗ってもらわねば、黙って家の外には出せんことになる。」
右衛門は武吉の決断に賭けたのである。
「わしも孫の鈴をこの村から連れ出して、大阪の西(蘭学医、柴田の旧友)の所で目をみえるようにせねば、死ぬにも死にきれんところまで追い詰められたでな・・。」
清五郎の一言一言には、真に迫った凄みがあった。
「天狗党を裏切れということか・・。(武吉の顔を見て)武吉さんがその気ならわしはあんたに従う。」
龍が初めて話に加わる。
「わしの腹は決まっている。この村の仲間を奴らから解放するには、村の離散しかないだろう。ただ、相川たちを倒さねば、道は開けんが・・。あんたなら、わしらの運命をかけられる。」
武吉は右衛門を見た時からいずれこうなることを予感して、相川たちに立ち向かう決意を固めていたのである。
「この村には、会津様に代わって天狗党の黒幕になった旧幕府の大物の息のかかった武士や忍びが、本家の屋敷に陣取っている。それに、昨日から大隅冬馬という剣豪が侍二人を連れて、相川に会いに来ているようだ。」
龍が不安を隠すかのように、うつ向いたままそう呟いた。
「村人の中で、わしらに味方する者はいないのか。」
清五郎が龍に問いかけた。
「この話を広げれば、村人を敵味方に分けて、予見ができない事態が生じます。村を開放したいなら、ここにいる四人のうちだけで処理せねば・・。」
右衛門の言葉に、
「わしもそう思う。村の連中は、自分の生死がかかれば、強いものに頼ろうとする・・。」
そう言って、武吉が右衛門に賛同した。
「ここにいるのは、五人だよ。あたいだって、村から出られて目が見えるようになるのなら何だってやるよ。(清五郎の声の方を向き)だから、じいちゃん、助けて!」
生まれてから今までずっとこらえてきた鈴の感情が、初めて爆発したのである。
「わしの命に代えてな・・。」
源五郎の鈴を助けたいという気迫が、言葉に込められていた。
(天狗党の参謀たち)
一方、天狗党の村へやって来た大隅冬馬は、村の道で右衛門に偶然出会って驚愕したのであった。天狗党の司令塔である村の奥にある屋敷に入った彼は、天狗党の新参謀になった相川、佐々木、犬丸、袁基を招集した。
「間違いないのか。」
相川が、右衛門の正体を見破った大隅に念を押すように確かめた。
「わしの目に狂いはない。奴は右衛門だ。土佐で、吾が主君井伊助直様を一刀のもとに斬り殺したのだ。忘れられるはずがなかろう。あの最強の忍びの京馬ら三人組を通り過ぎる春風のごとく、一瞬にして斬り捨てたのだ・・。あれは人のなせる業ではない。」
大隅は藩主の護衛として、土佐で井伊助直が殺される現場にいたのである。
「京馬」という名を聞いた犬丸と袁基は、あの京馬が右衛門に瞬殺されたことを想像するだけでも背筋に寒気が走った。
「しかしなぜ右衛門がこんな村に来たのだ。しかも、医者と偽って・・。」
佐々木志明が、誰しも思った疑問を口にした。
「いずれにせよ、素性を偽ってこの村に入ったのだ。わしらの味方でないのは確かだ。」
相川が腕を組んだままそう呟いた。彼の言葉に、その場にいるみんなが納得する。
「幸い、奴は自分の正体がばれていることを知らない。この屋敷に誘いこんで、我ら配下の精鋭で奴を襲えば、いくら奴でもどうしようもあるまい。」
大隅は、元主君井伊助直の仇が取れる機会が訪れたことに興奮している。もとはと言えば、井伊助直が右衛門に暗殺されたことがきっかけで、名門の家に生まれた自分の人生が狂い始めたのである。恨みは骨の髄まで染みていた。また、ここにいる他の連中にしても、天下の剣豪をこの地で葬れたとしたら、自分たちがこの国の侍たちの注目の的になるのは必定だった。それだけに、彼らが右衛門殺害を避けて通る理由は一つもなかった。
「やろう!」
佐々木が身を乗り出して、興奮を抑えきれずにそう叫ぶ。
「わしに策がある。おぬしらは、我らの仲間をこの屋敷に集めてくれ。(犬丸の方を向き)それと、龍をこの屋敷に来るように伝えてくれ!」
犬丸は黙ったまま立ち上がると、ゆっくりと玄関に向かって行った。
相川の顔が次第に夜叉のように不気味な妖気を漂わせ始める。
(警視総監側近 鬼塚久)
鬼塚は実質的に警察庁の実務を一手に掌握していた。肩書は警視総監川路の側近であったが、実務面の難題はすべてこの男が処理していた。
この男、余程優れた才能があるのか、旧幕府でも幕府御庭番のトップとして忍びたちを統括していたのである。そこに目を付けたのが、大久保であった。彼は、鬼塚に表に出せない闇の難題を処理するために、新政府でも警察庁に向かい入れ厚遇したのである。大久保の思惑通り、鬼塚は期待以上の仕事をした。鬼塚の手腕もあり、新政府ができて数年で、警察庁は治安の要にふさわしい役割を果たし始めたのである。
「天狗党の壊滅作戦、お前が指揮を執ってくれるか。」
いつもの仏頂面をした大久保が、自分の執務室で鬼塚と話し合っている。
「天狗党と言えば、もとは会津が操る闇の盗賊集団だったのが、最近性質を変えてきたようですな。確かあの組織に関して、勝沼恵三の名前が時々聞こえてきていますが・・。」
すでに、鬼塚の耳にも変貌しつつある天狗党の内情を把握しているようだった。
「なんで、そのことをわしに報告してこんのだ。」
大久保は、鬼塚からの情報がないことが不満であった。
「まだ、確たる証拠がなく。」
鬼塚は意図的に隠していたのかもしれないと、大久保は疑った。
「西田には、このことは言ってないだろうな。」
大久保が鋭い目で鬼塚を見た。
「可笑しなことをおっしゃる。私と西田様の間には面識もあまりませんので・・。第一、あの方が私のことを知っておられるかどうか。」
鬼塚がそこまで言った時、言葉が止まった。そして、大久保の顔を見直すと、再び口を開いた。
「まさか、あの方が天狗党と・・。」
鬼塚の穏やかな表情が一変する。
「西田は勝沼とは立場は違っているが、少なからず信頼しあった仲だ。」
大久保は、自分が持っている疑念を鬼塚も共有するようにそう言った。
「それで、私にどうしろと・・。」
鬼塚が話の本題に戻した。
「天狗党の一件、もし西田が絡んでいれば大変なことになる。(ふっとため息をつき)今話したように、天狗党の壊滅計画はお前にしか任せられない懸案になってきたのだ。」
大久保は彼の手腕をもちあげたつもりだったが、鬼塚の表情には変化はなかった。当然のように思っているのだろう。相当の自信家かである。
「分かりました。必ず大久保さんの期待にそえるように努力します。まず、天狗党の一座で、座長である鎌田久兵衛は、栄屋襲撃をおとりとして捕縛するとして・・。」
鬼塚が独り言のように言った。
「お前、わしの計画を把握済みのようだな。」
大久保が驚いた顔をしてそう言った。
「当然、ぬいから報告は入ってます。」
鬼塚は、当たり前だと言わんばかりにそう言った。
「この計画が難題であることも承知のようだな。」
大久保が薄笑い浮かべながら、鬼塚の把握力を試している様だった。
「はあ・・。警察は窃盗以外の理由では、天狗党を取り締まりにくい。勝沼が絡んでいる以上、旧士族と警察の対決の構図にすれば、警察の取り締まりの規模を超えてしまう。そこで、大久保さんは佐那河内の連中と右衛門を利用したい訳ですか。」
大久保は鬼塚を頼ったことが間違いでなかったと確信した。
「お前の言う通りだ。天狗党を潰すことで、政府の不満分子が利用している組織を一つでも多くなくしたいのだ。ただ、この計画が世間に知られる前にな・・。お前は旧士族と言ったが、もし西田がこの組織に肩入れすれば、天狗党は政府に不満を持つ士族全体の組織になりかねん。」
大久保が、鬼塚にすべてを理解させようと熱弁をふるった。
「要するに、窃盗集団から変貌しつつある天狗党を元の犯罪集団のまま潰せばいいのですね。」
大久保の出した難題を鬼塚が要約した。大久保は鬼塚の頭の良さに感心して、満足げに頷く。そして、大久保から用件を聞いた鬼塚がドアの方に向かって歩き出す。しかし、途中で何か思いついたように立ち止まる。
「ところで、ぬいですが・・。」
鬼塚が大久保の方を振り向いてそう言った。
「あれは、右衛門の女房の春の護衛に回せばいい。」
大久保は、ぬいのことにはあまり関心がなかった。
「そうですか。ぬいは権蔵の息子と恋仲だったんです。そのことを利用しても構いませんか。」
鬼塚はそう言うと、にやりと笑った。
「そんなことはどうでもいい。それに、右衛門と春以外の問題はお前の判断に任せる。」
大久保は不機嫌そうにそう言うと、彼に背を向けて窓の外の木々に目をやった。
鬼塚は大久保の背中に一礼すると、そのまま大股でドアに向かった。
大久保は、敢えて右衛門たちが天狗党の村で企んでいる計画について、鬼塚には話さなかった。「どうせ、鬼塚はすべて把握しているのだろう。」そう思ったからである。大久保が右衛門たちの動向を解説した時、鬼塚がすべて承知していて、したり顔で追認するのが癪にさわるという理由もあった。そして、大久保の判断は間違っていなかった。鬼塚は右衛門たちの動向をすべて把握していたのである。
(ぬいと春)
神社の裏手で、社殿に向かって手を合わせている二人の女がいた。
春とぬいである。ぬいはすっかり春に信頼を寄せている。春は元来人望を集める性格だった。酒田で朱名楼と言う遊郭の女主人を務めた時も、遊女は言うまでもなく遊郭で働く下働きまで、春のためならいやな顔一つせず働くのである。特に同性には誰彼となくなつかれた。駒にしても、今では春に一座の重大な情報さえ、ためらうことなく打ち明ける。
「お前が男だったら、何処かの大親分になれたかもしれないな。」
右衛門は、しばしばそう言って春をからかった。
「私は人を分け隔てするのが嫌いなの。だから、つらい思いを経験した若い女の子が慕ってくれるのかもしれないわね。あんたには遊女に落ちた娘たちが、どれだけ歯を食いしばって生きているか想像もできないでしょ。」
春はそう言って、右衛門の顔を厳しい視線で見ることがあった。
「わしの過去にも、色々あったんだ。」右衛門もそう言い返したいところだったが、過去を振り返ってみると、苦労をしたという自覚がなかった。そこで、春の視線を避けるように照れ笑いをするだけだった。
「でも、そんなあんたの真っ白で無邪気な所に惚れたのかもしれないね・・。」
春はそう言って、いつも最後には話をはぐらかすのだった。
ぬいもまた、そんな春のめぐまれない人に接する優しい気持ちを敏感に感じ取って、彼女を信頼していたのかもしれない。
「春姉さん、お駒さんに天狗党から抜けるように説得できました。」
ぬいが、社殿に手を合わせたまま、春の顔を見ずにそう聞いた。
「右衛門たちが駒ちゃんの娘を村から救い出さないと、私がいくら口説いても無理だと思うの。うまくいったら、忍びの双栄が知らせてくれるはず。それまで待って・・。栄屋の蔵の地図と鍵の印影を座長の久兵衛に渡すのは、その後にするつもり。」
春が計画の手順をぬいに打ち明ける。
「双栄さんがこの計画に関わっているのですか。」
ぬいの声には、わずかな失望が感じ取れた。
「双栄さん以外、佐那河内の連中には、今度の計画について言っていないの・・。集団同士の争いになったら厄介だから。血なまぐさい御時世だからね。三郎じゃなくてごめんね。」
春はそう言うと、ぬいの方を見てにやりと笑った。
「別にそんな・・。」
ぬいの顔が赤らんだ。春はその時、どうしてもぬいの恋心を成就させてあげたくなった。
「いつものおせっかいが始まった。」春は自戒しながら、なぜかふっとため息をついた。天狗党の村にいる右衛門のことが気にかかったのである。
「私はこれで。」
ぬいは春との短い情報交換を終えると、すっと彼女から離れ、石段を下駄を鳴らしながら遠ざかって行った。彼女の後ろ姿は、若い娘のはつらつとした躍動感が漂っている。赤いかんざしでまとめ上げられた黒髪が、日の光を浴びて揺れていた。
「三郎の奴、あんないい娘をほったらかしにして・・。」
春は、ぬいの後姿をぼんやり見ながら、小さな声でぽつりと独り言を漏らした。
(鬼塚と権蔵)
権蔵は、九月の彼岸には江戸の深川平野町にある小さな寺の墓地に来る。殺されたり、病気で死んだ自分の手下たちを埋葬した墓の掃除をし、線香をあげるためだ。
「やっぱりここに来ていたか。」
線香の白い煙を目でおいながら、鬼塚が権蔵に声をかけた。声をかけられた権蔵の体が一瞬ピクリと動いた。そして、ゆっくりと声の方に顔を向ける。
「鬼塚さんか・・。」
権蔵はそう言ったなり、口ごもってしまった。幕府で忍びの元締めであった鬼塚は、自分よりかなり年は若いが、目上の上役のような存在ある。
「彼岸にはここへ来ると思ってな。」
鬼塚は、なるべく穏やかな表情をしようとする。しかし、権蔵は、鬼塚の目に見えない威圧で、警戒をとかない。それ程、油断のならない男であった。
「鬼塚が思惑なしに柔和な顔をするはずがない。」権蔵はそんなふうに彼を評価していた。
「またどうしてわしのような人間に会いに来たので・・。噂では、今は新政府の警視庁で働いているとか聞いてますが。いずれ、警視庁官になるつもりでもあるのでしょう。」
権蔵が、権力欲の強い鬼塚に皮肉交じりにそう言った。鬼塚は、ふふっと笑ったが、権蔵の言葉を否定しなかった。
「実は、天狗党の一件で権蔵さんの持っている情報を教えてもらいたくてな。」
そう言って、鬼塚が権蔵の表情を一瞥する。
権蔵は鬼塚の言葉の意味が分からず、無表情のままきょとんとしている。
「やはり、権蔵たちには知らせてないのか。」鬼塚の鋭い観察力は、権蔵の表情が嘘でないことを確信した。
「何のことです。わしにはあんたが言っていることがよく分からんが。」
予想通りの返答が返ってくる。
「右衛門殿の妻の春という女が、天狗党の組織からある女を救い出そうとしてるんだが・・。どうやら、佐那河内の連中は知らんらしな。」
鬼塚が、苦手な本当の事実を権蔵に話して聞かせた。鬼塚は、天狗党との争いに佐那河内の連中を巻き込みたかったのである。
「鬼塚さんには悪いが、あんたの話を鵜呑みにはできんので、わしらの配下を使って調べさせてもらいますよ。」
権蔵はそう言うと、上目遣いに鬼塚の顔を覗った。
「まあ、わしを信じろと言うのが土台無理な話だ。ましてや、幕府お庭番を務めたあんただからな。」
鬼塚はそう言って、声を出して笑った。この笑いにも意図があるのではないかと、権蔵は冷静に鬼塚の表情の変化を注視している。
「それはそうと、あんたの手下だったぬいが警察で働いているのを知ってるのかな?」
鬼塚が権蔵を揺さぶり始める。すると、「ぬい」と言う言葉に権蔵が即座に反応する。
「ぬいはあんたのもとで働いているのですか・・。さっぱり便りもないので、消息を探していたんだが。」
権蔵が鬼塚の言葉に、ぽつりとつぶやいた。
ぬいのことは、権蔵の一番の気がかりだった。彼は、三郎とぬいが恋仲であったことを知っていた。しかし、捨て子のぬいと自分の息子の三郎の仲を認めることは、どうしてもできなかったのである。権蔵は、佐那河内に移り住むことを決意した際も、三郎がいる地にぬいを一緒に連れていくことは、どうしてもできなかった。その結果、手下の中で、ぬいだけを半ば置き去りにするような形で、江戸を後にしたのである。そのことが、権蔵の心のどこかでひっかかっていた。
「三郎はどしている。」
鬼塚は、ぬいと三郎の事情をよく知っていた。この男、情報を集めることに必要以上に執着するのである、いわば「情報おたく」である。情報こそが、人の上に立つ秘訣だという信念を持っていた。
「鬼塚さんは、相変わらず痛いところをついてくる・・。(苦虫をつぶしたような顔になり)ぬいは相変わらず独り者ですか。」
権蔵は、あえて作り笑いをしながら鬼塚の方に顔を向けた。
「詳しいことは知らんが、わしの知ってる限りはそのようだ。(にやりと笑い)ぬいもこの一件では、春の護衛役をやっているんだ。どうだろう、ぬいのためにも一肌脱いでくれんか。あんただけでもぬいを助けてやったら、あの娘もどれだけ喜ぶか・・。」
鬼塚は弱みを見透かしたように、ぬいをだしに使って、権蔵と佐那河内の連中を天狗党の一件に巻き込もうとしたのである。
鬼塚は、言いたいことだけ権蔵に告げると、さっさと背を向けて遠ざかっていく。
鬼塚の遠ざかる後姿をぼんやり見送りながら、権蔵はぬいのことを三郎に打ち明けようと腹に決めていた。
(駆け引きが動き出す)
柴田と右衛門の計画は、少し狂ってきていた。
天狗党と言う組織は、盗賊集団からテロ集団に変貌しつつあったのである。天狗党の村に入るまでは、鈴をこの村から連れ出すためには、村人全員を相手にしなくてはいけないと思っていた。ところが、さほど苦労もなく密かにこの村から鈴を連れ出せるかもしれないと思い始めていたのである。ただ、この地の武装集団である相川達は、二人の計画をやすやすとは実行させないだろう。
「どうする、右衛門・・。あの武吉とかいう天狗党の元首領の言うように、この村の人間を相川らの束縛から解放するつもりか。」
朝の散歩に誘った清五郎が、そう尋ねた。右衛門は彼の問いに答えるのを躊躇っているようだった。向こうからやって来た村人が、二人とすれちがうときに笑顔を見せて深々とお辞儀をする。それに合わせて、二人も頭を下げた。
「先生のために始めた計画ですが、状況はかなり違ってきましたなあ。まあ、偶然が突きつけた宿題のようなものです。武吉が私を頼ってきたのなら無下にすることもできませんしな。」
これが右衛門の答えであった。
右衛門の言い分を聞いた清五郎は、
「おぬしは、よほどお人好しにできてるようだ。もっとも、そうでなくては、わしの願いも絵にかいた餅になっていたがな。」
と言って、大きな声を出して笑い始めた。どうやら、清五郎も右衛門と同じ考えであったようだった。対決の構図は、屋敷に陣取る相川らと右衛門との対決になり始めた。
(対決始動)
間もなく事件が起きた。龍が相川ら天狗党の首領のいる屋敷に呼び出されたのである。
「お前、あの医者の正体を知っているのだろう。」
大隅冬馬が、龍の顔を睨みながら詰め寄った。
龍のいる部屋には、他に大隅と共に、この村にやって来た浪人が二人座っている。
「知るわけないだろう。」
龍は言い逃れをしながら、大隅以外の二人の浪人が座っている位置をか確かめている。すきを見て逃げ出すつもりなのだ。
次の瞬間、大隅が横に置いた太刀を素早く手に取り抜刀した。それに合わせるように、龍が後ろに差した剣を逆手に握ると、素早く大隅の白刃を受け止めた。だが、龍の抵抗もそこまでだった。横にいたもう一人の浪人が、二人の動作に呼応するように太刀を抜いたかと思うと、躊躇うことなく龍の背中を斬りつけたのである。
「うう。」
龍のうめき声が、部屋の中に低く響き渡った。
相川の狙いは、龍に瀕死の重傷を負わせて鈴を屋敷におびき寄せ、二人を人質にして、右衛門を屋敷に誘いこむことだった。二人の人質を手にして、自分たちの仲間を屋敷に配置し、右衛門を屋敷に誘いこめば、いかに百戦錬磨の使い手であっても勝負の結果は見えていた。
屋敷で右衛門を待ち受ける相川たちの戦意は、みなぎっていた。あの天下の剣豪を、自分たちの手で葬るのである。天狗党という組織の中での成果となるばかりでなく、天下の剣豪を仕留めたとなると、世間の名声も自分たちに与えられるはずであった。右衛門さえ殺してしまえば、どんな状況で殺されたなど、後で何とでも嘘がつけるのである。
彼らの計画は順調に進んでいった。
「大変だ、龍が斬られた!本家の屋敷(相川らの占拠する住処)へ来てくれ。」
鈴を呼びに来たのは、相川の仲間の男であった。
家の土間を竹ぼうきで履いていた鈴の手が止まる。衝立の向こうでは、武吉が相変わらず床に臥せっているが、昨夜からの発作のせいで一晩中寝られず、鈴を呼びに来た相川の仲間には気づいていない。
「父さんが・・。」
鈴は動揺して竹ぼうきを放り出すと、両手で辺りを探り始めた。
「わしの手をつかめ。わしが屋敷まで連れて行ってやる。」
男はそう言うと、鈴の手をつかみ、にやりと笑った。
(死闘)
戸板の上に血だらけの龍の体が乗せられ、鈴がすすり泣きながら父の手を握って、必死に龍の意識を戻そうとしている。
龍が斬られた知らせを受けて、屋敷に駆け付けた右衛門と柴田は呼びに来た男に案内されて、屋敷の奥の間に導かれた。不思議なことに、玄関や廊下には人一人いない。
案内してきた男が障子を開けると、龍をじっと見ていた大隅と仲間の侍四人、それに佐々木志明が、右衛門と柴田の到来に気づいて、視線を二人に移した。
「先生、龍が何者かに斬られてこの館に担ぎ込まれました。まだ、息はあるようです。
治療をお願いできないでしょうか。」
柴田と右衛門が警戒しながら部屋に入っていくと、大隅が低い声で淡々とした口調でそう言った。その間、二人の男が右衛門と清五郎の後ろに回り込む。
「鈴が何でこの場にいるんだ。父の惨状を直接知らせるには、幼すぎるだろう。」
清五郎の声は、怒りで震えている。
「この村に怪しいものが入り込んでいるならば、我らはこの村を守らねばなりません。
龍を斬ったの真犯人が見つからない以上、新たにこの村に入ってきたあなた方を疑わなければならねばならぬことをご理解いただきたい。(鋭い視線を右衛門に向け)失礼だが、あなた方の太刀を検めさてはくれませんか。」
大隅がいやと言わせない威圧を込めて、右衛門に太刀を差し出すように迫ったのである。大隅の言葉に合わせるように、佐々木が鈴の後ろに立って刀の柄に手をやった。
「脅す気か!鈴から離れろ!」
自分の詰問を無視された清五郎が、佐々木をにらんで怒りに震えながらそう叫んだ。
すると、医療具の入った箱を天秤棒で担いでいた右衛門が、興奮して佐々木にくってかかっていた柴田先生に腕を突き出し自制を求めた。
「先生、疑われるのも心外です。わざわざ村人の治療に来た我々に対する態度とは思えんが、ここは我慢しましょう。」
右衛門は清五郎に鈴の存在に注意するよう目くばせしながら、腰に差した刀をあっさりと大隅の横でじっと立っている侍に差し出した。それに従うように、清五郎がもう一人の男に自分の刀を差し出す。
しかし、一連の駆け引きで、大隅たちは右衛門の動作に注意を怠った。その隙を待っていたように、右衛門はおもむろに医療箱を下に置くと、天秤棒を抜き取って、薬箱の横に立てかけた。同時に、右衛門は、ふすまの向こうに潜む敵の数を推測している。
「少なくとも、数人。槍を持っているものがいるに違いない・・。」生死をかけた状況の中で、右衛門の判断がくるったことがなかった。むろん、死闘での判断がくるっていたら、彼はこの世にまだいるはずがないかもしれない。
右衛門が太刀を手放したことで、一挙に辺りの緊迫感が薄らいだ。大隅たちは、これで自分たちの勝利を確信したのである。いかに天下の剣豪であれ、刀がなければ、ただの人間である。
大隅は右衛門の刀を調べながら、
「確かに、この白刃には人を斬った血の跡はない。」
そう言うと、目線を右衛門の方に移して睨みつけた。鈴のすすり泣く声が、部屋の中に響いている。
「だが、おぬしの嫌疑が晴れたわけではない。(右衛門を鋭い目で威嚇し)しかし不思議だ。なぜ、おぬしのような男が、この村に名を偽ってまで入って来たのか・・。教えてくれんか。」
そう言って、にやりと笑った。
「何のことやら。」
右衛門がとぼける。この屋敷の状況を把握するための時間稼ぎである。
「まあいい。おぬしもわしらの組織に関わった以上、死んでもらわねば仕方があるまい。」大隅の宣戦布告に合わせるように、六人の侍たちが刀の柄に手をやった。この時点で、清五郎はすでに自分たちの正体がバレたことを認識した。
するといきなり、清五郎が笑い出し、
「お前たち、本当に右衛門に勝てる気でいるのか。庭にいる雀を素手で捕らえるような真似はやめたほうがいい。」
そう言うと、馬鹿にしたように周りにいる侍たちを見渡した。清五郎の挑発には勝ち負けの駆け引きはなかった。ただ、この状況のもとで、自分を奮い立たせる勇気と高揚だけが苦境を抜け出す活路だと思ったのだ。
「先生、佐々木を怒らせないほうがいいですよ。因果は巡り巡ってくるもんですな。奴の祖父の佐々木半助を斬ったあなたが、またその孫と相対するとは・・。」
右衛門が油に火を注いだ。佐々木の顔がみるみる赤くなる。
「おぬし、柴田清五郎か!まだ生きていたとは・・。」
佐々木志明がそう言いながら、ゆっくりと刀を抜くと、柴田向かって刀を上段に構えて斬りかかろうとする。右衛門の挑発に乗せられ、鈴の後ろにいた佐々木の注意が彼女から離れ、柴田に向かったのである。
「佐々木、娘を忘れるな!」
大隅の叱責が佐々木に浴びせかけられた瞬間、右衛門が医療箱に仕込まれた隠し刀を清五郎に投げ渡した。
次の瞬間、柴田に振り下ろされた佐々木の白刃より一瞬速く、右衛門から受け取った清五郎の抜刀の一閃が、佐々木の横腹を通過していった。断末魔のうめき声の後、血が飛び散り、勢い余った佐々木の体が、清五郎を通り越して板の間にもんどりうって倒れこんだ。辺りは鮮血で染まっている。
「娘を斬れ!」
大隅の狂気に満ちた絶叫が修羅場に響き渡る。
応じるように横にいた仲間が刀を抜いた。しかし、龍の体を飛び越えた右衛門は、天秤棒の仕込み刀を素早い動作で抜刀し、鈴に襲い掛かろうとした男の右腕を鮮やかに斬って落としたのだ。
一瞬の静寂・・。今起こった状況の理解不能に陥った男が、刀を握ったまま斬り落とされた自分の腕を見つめている。
「ぎゃあー-!」
血まみれになった男の叫び声が、天井を突き抜ける勢いで発せられる。
ただ、男の悲劇はそれでは終わらなかった。右衛門は、腕の斬り落とされた侍と一緒にいた大隅、その横で震えながら刀を抜こうとした男に襲い掛かり、オオカミの牙のように白刃を左右に振ると、何の躊躇いもなくいっぺんに三人を斬り捨てたのだった。
「じいちゃん!」
目の見えない鈴にも、この場の凄惨さを感じ取って、恐ろしさに思わず清五郎に助けを求めた。慌てて鈴に駆け寄よった清五郎は、そのまま彼女を突き倒し、板の間に伏せさせると、自分の体を彼女の上に覆いかぶさり、襲い掛かる刃の盾にした。一方、大隅と二人の侍を斬り倒した右衛門は、鈴の無事を確かめる余裕もなく、態勢をひるがえすと、背後を襲う二人の侍に立ち向かっていった。
右衛門は、自分の背後から振り下ろされる白刃より一瞬速く、中腰に構えた態勢から膝を踏ん張って、敵の胸を突き刺した。男は声も出すこともできずに板の間に転げたかと思うと、そのまま即死した。男と同時に倒れこんだ右衛門は、死体の胸から白刃を抜くと、残った侍の狂ったような一撃を倒れたままで受け止めて、右足で相手の足を払って転倒させたのである。
数秒後、お互い同時に立ち上がると、二人の刃が互角に交差する。力で勝る右衛門は、刃を受け止めようとする相手の体を利用して、隣の座敷の襖を引き倒した。その衝撃で相手の体が右に傾くと、右衛門は刃の角度を変えて、相手の首に白刃を押し当て、まっすぐ引いた。相手の赤い鮮血が噴水のように吹きあがり、男は崩れるように地に倒れた。もちろん息の根は止まっていた。
「佐々木を含めて六人・・。」
右衛門は斬った相手の数をかすかな声を出して数えていた。
ふすまがけ破られ、赤い鮮血が噴き出した仲間の断末魔の叫びは、その座敷で右衛門への襲撃に備えていた相川らに取って、衝撃的な光景であった。ふと前に目をやると、大隅と佐々木が真っ赤な血の海に浮かんでいる。恐怖は相川の動作を一瞬麻痺させた。刀の柄を握った手が、しびれたように動かないのである。ふと横を見ると、相川と同じように仲間の動きが凍り付いている。右衛門はこの一瞬の空白時間を予想していたのである。その中の一人が、我に返ったように右衛門に槍を突き出してきた。しかし、穂先をいとも簡単にかわした右衛門は、持っていた刀を凄まじい速さで真横に払った。男は一瞬、苦痛の声を上げたが、間もなく自分の体を支えきれずにその場に沈んだ。休む間もなく、遅れて繰り出された反対側の侍の槍の棒を半分に切り落とした右衛門は、少し跳ね上がるようにジャンプすると、奇声を上げることなく無言で、その男を正面から真っ二つに斬り裂いた。その男もまた、叫び声をあげることなく、その場にうつ伏せに倒れこんだのである。その間数秒・・。正面でその有様を見ていた相川ら三人の侍は、余りの恐怖に、二人に加勢すこともできず、ただ茫然と見ていたのである。
「斬れ!」
やっと正気に戻ったように、相川が横の二人に大声で叫んだ。しかし、勝負はついていた。
右衛門の必殺三人斬の奥義を実行するのに、三人の配置は余りにも最適だった。
右に足を踏ん張り、一人目の男を水平に斬った右衛門は、流れるような動作で斬った男の対面にいた侍を斜め水平に白刃を払ったかと思うと、目にもとまらぬ速さで、逆袈裟に相川を仕留めたのだった。その光景に度肝を抜かれ、その場で逃げ腰になっていた最後の侍が、座敷の隅で刀を正眼に構えて、震える手で右衛門の所業を見ていたが、恐怖に耐えかねて、そのまま背を向け隣の廊下に逃げ込もうとした。しかし、右衛門は、その男の逃亡を許さなかった。彼はその男につかつかと歩み寄ると、問答無用で背中を真っ二つに斬り裂いたのだった。
「十二人・・。俺は野獣か・・。」
右衛門はそう呟くと、息を整えるために大きく深呼吸をした。
そして、殺した侍の槍を手に握ると、戸板に横たわる龍のもとにやって来た。
「あんた、人間じゃないな・・。」
龍が右衛門に話しかける。
「話せるのか・・。」
右衛門が、驚いて龍を見下ろす。
「武吉さんが、あんたに賭けたのが分かったよ。」
荒い息をしながら、龍がやっと言いたかったことを声に出した。
右衛門はにやりと笑うと、戸板の片隅に置かれていた龍の短い二つの刀を手に取ると、龍がしていたように帯の後ろに差した。
「借りるぞ。」
右衛門はそう言うと、龍に微笑みかけた。
そして、鈴に覆いかぶさっている源五郎の方を向き、
「先生、しばらく鈴を守っていてください。」
と言葉をかけた。
「この子の目が見えないのが幸いしたようだ。もしこの光景を目の当たりにしていたら・・。」
清五郎はそう言って、鈴の上から体をおこして柱に背中をつけると、ふっとため息をついた。状況の分からない鈴が、かすかな光を頼りに頭を振って、辺りの様子を探っている。
右衛門の顔から笑みが消えると、彼はまた残りの敵に立ち向かうべく長い廊下に向かってゆっくりと歩いて行った。
長い廊下の向こうをじっと見ていた右衛門は、すでに人の気配を把握している。
天井に等間隔に三人、床下に一人。人を斬った直後の研ぎ澄まされた感覚は、忍びの気配を消す技では太刀打ちできない。
右衛門はふっと息を吐くと、ゆっくりと天井の上にいる最初の忍びを通り過ぎて、長い廊下の中央に向かって進んでいく。スッスッス。まるで廊下にかすかな音をたてて、敵に自分の存在を教えるかのように、決まったリズムを刻んでいく。そして、中央に達すると、ピタッと足を止めた。その場にいる人間に耐えがたい緊張が走った次の瞬間、右衛門は天井向けて左手に持った槍を突き立て、間も置かず右に持った仕込みを廊下の板に突きさしたのである。
「ぎゃー--。」
天井と床から凄まじい叫び声が、廊下に響き渡ったかと思うと、天井から板を突き破って人が転げ落ち、床の板の間の隙を通って真っ赤な血が激しく噴き出した。
すると同時に、天井の両端をけ破って黒い衣服の男たちが、軌を一にして廊下に落ちてくると、そのまま剣を抜いて右衛門めがけて突進してきた。
彼らが右衛門の間合いに入ろうとした瞬間、右衛門は後ろに差してあった龍の二本の剣で同時に襲ってきた忍びの白刃を受け止めた。
「おのれ!」
忍びの一人がそう叫んで、力任せに右衛門の剣を押し込もうとしたとき、右衛門は男の腹めがけて、右足を蹴り上げる。男がもんどりうって板の間に転がった。右衛門の受け止めていた一つの剣が自由になった。すると彼は、その自由になった剣を、もう一人の忍びの首に押し当てて、躊躇いもせずまっすぐに引いたのである。斬られた首から鮮血が噴き出た男は、声も出すことができず、その場に倒れこんだ。
右衛門の動きは素早かった。次の瞬間、起き上がろうとしていたもう一人の忍びの胸に龍の剣を突き立てたのだった。
「うううー。」
とっさに、素手で右衛門の突き立てた白刃を抜こうとした男は、途中で意識を失って、白刃をつかんで手を真っ赤に染めながら、再び仰向けになって板の間に倒れこんだのである。
右衛門はふうっと一息ついて、廊下の端を見つめた。すると、視線の先に、トンボをきって右衛門の方に向かってくる忍びがいた。袁基である。
右衛門の間合いに入った袁基が、最後のトンボをきって、天井近くまで跳ね上がり、右衛門に襲い掛かろうとした瞬間、廊下の板につきたてた仕込みを引き抜いた右衛門は、目にもとまらぬ速さで、上から落ちてくる袁基の胸のあたりに、自分の刀の軌道を通過させたのである。二人の勝負はあっけなくついた。相手の動きを正確に把握する動体視力に決定的な差があった。もう一つ、右衛門の刀の動きは、人の視覚で捕らえられないほどの速さを備えていた。右衛門は袁基が勝てる相手ではなかったのだ。
「さすがだのう・・。右衛門。」
廊下に横たわった袁基が、虫の息になって呟いた最後の言葉であった。
「十七人・・。」
右衛門は、激しい攻防を制して息の上がるのを抑えながら、小さな声で呟いた。
玄関から庭に出た右衛門は、ゆっくりと歩を進める。向こうには、屋敷の出入りの立派な木の門がある。玄関と門の間は広大な庭が広がり、この屋敷の豊かさを象徴するように、点在する木々に囲まれた緑の空間とあちこちにしつらえられた花壇には色とりどりの花が植えられ、四方を囲む庭石の周辺には低い庭木の葉が青々と茂っている。
右衛門はそんな広々とした庭の玄関から門に通じる一本のまっすぐな小道の真ん中までやって来て、ぴたりと立ち止まった。彼を取り囲むように犬丸の手下が陰に潜んで右衛門の動向をうかがっている。右衛門は犬丸を中心とする忍びの配置を把握しながら、敢えて彼らをおびき出すように、庭の真ん中までやって来たのだ。
鳥のさえずりが、緑の空間の乱れそうな不安を落ち着かせるような音色となって、庭一面に伝っていく。犬丸との対決は、こんな空間で始まったのである。
右衛門を円の中心にして、五人の忍びが犬丸の合図と共にいっせいに立ち上がり、目つぶしのつぶてを右衛門にめがけて投げつけた。つぶてには石が巻きつけられていて、右衛門の体めがけて、かなりの速さで飛んできたのである。それは、右衛門に仕掛けた作戦としては、子供だましのように思われた。しかし、意外にも、そのつぶての一つが右衛門の肩に命中したのである。うまくいった原因は、犬丸だけは、自分の手下のつぶてとは少し違った細工をしていたからである。つぶてに鳥の羽を巻き付けていたのである。忍びからいっせいに投げられたつぶてを避けて、右衛門が自分の態をかわした次の瞬間、犬丸の投げた目つぶしが、他のつぶてとのわずかな時間差で右衛門に命中したのである。
つぶての白い粉がぱっと舞い散り、右衛門の目を襲った。当然、彼は目を閉じることを強いられた。始めは自覚はなかったが、次第に激しい痛みを目に感じ始める。
「しめた!」犬丸はその瞬間勝利を確信した。
右衛門の四方から彼の立ちすくむ円の中心に、等間隔で迫ってくる五人の忍び。どう見ても、勝負は決したかのように思われた。しかし、迎え撃つ右衛門には焦りはなかった。視覚を奪われたぐらいで、彼を倒せると思った犬丸達こそ大きな誤算をしていたのである。
上空からこの光景を見ている剣の達人がいたとしたら、五人の忍びこそ、右衛門におびき寄せられているのは明らかだった。彼らは、右衛門の剣の才能を甘く見ていたのである。
円が狭まり、死闘の始まる間合いに、五人の忍びが剣を振りかざして入ろうとした瞬間、右衛門は、龍から借りた短剣を、両手を交差して順手で掴むと、そのまま正面から襲い掛かろうとしていた忍びにめがけて勢いをつけてさっと投げ放ったのである。間を置く暇もなく、胸に刃を受けた二人の忍びが、ばたっと音を立てて地面に倒れこんだ。一方、右衛門は、龍の剣を投げた後の一連の動作で、腰に差した仕込みを抜刀し、くるりと態を反転すると、頭上まで迫ってきていた忍びの刃を右にかわしながら、相手の腹に刃を通し、いつもの流れるような動作で残った二人の忍びを次々と斬り捨てたのである。犬丸らの襲撃は、右衛門の卓越した剣の速さには到底及ぶものではなかったのだ。
右衛門は、最初に投げた自分の刃で刺された犬丸の方に目をやった。龍の刃が、犬丸の胸を正確に射貫いている。犬丸の表情は、薄っすらと笑みをたたえているかのように見えた。
「二十二人・・。やっと終わった・・。」
右衛門は、あらかじめ聞いていた仕留める相手の人数を確認するかのように、そう呟いた。
(忍びの双栄)
時は、右衛門の死闘の少し前にさかのぼる。
相川正三は、右衛門殺害の計画を実行するとともに、柴田と右衛門をこの村によこした医者の白鳥栄次郎への刺客を放っていた。
「白鳥先生に会いたいのだが、御在宅か。」
なりは浪人風。下あごに薄っすらとひげを蓄えた男は、対応に出た女中に栄次郎の面会を打診する。
女中は男の様子に嫌疑を抱きながらも、白鳥にその侍の来訪を告げに奥に入った。
「私が対応しましょうか。」
女中の報告に、最近栄次郎が雇った宇平が口を出した。
「先生、それがはいいよ。何だかおっかねえ侍だから。」
女中が栄次郎にそう勧める。
「宇平さんだって怖かろう。それに、わし以外の人間が対応したら、反って相手の機嫌を損ねて何をするか分かったもんでない。心配はいらん。宇平さんは患者に薬を飲ませていてくれないか。」
栄次郎は穏やかな笑みを浮かべて、宇平にここで止まるように言うと玄関へ向かった。
しかし、女中の言葉通りに、事は平穏に終わらなかった。
「おぬし、我らをだまして右衛門を村によこしたな!」
栄次郎の顔を見るなり、その侍はそう言って刀を抜いた。危うく、刺客の間合いに入りそうになった栄次郎が、這うように宇平のいる部屋に戻ってきた。
「宇平さん、逃げろ!」
栄次郎はそう言うと、床の間に置いてある自分の刀の方へ向かった。
栄次郎も元侍である。賊に襲われたので、とっさに刀を探し、相手に立ち向かう行動にでた。そして、栄次郎が自分の刀に手をつけた時、刺客が部屋にやって来た。女中の叫びが屋敷中に響き渡る。屋敷のあちこちから障子を開けて様子を窺っている患者はいたが、誰一人として目の前で起きている栄次郎の危機を救えるものはいなかった。
恐怖で足が立たず、半身を起こしたまま栄次郎がやっと太刀を抜いて、侍の正面に刀のきっさきを向けて震えている。男は、栄次郎の未熟な剣の技量を確認すると、馬鹿にしたような薄笑いを浮かべた。その時、
「お侍様、先生の命だけは勘弁してくだされ!」
宇平がそう叫ぶと、栄次郎と刺客の間に割って入って、その男に手を合わせて拝み始めた。
意外な宇平の行動に最初面くらていた刺客も、我に返ったように再び刀を上段に構えると、
「どかねば、ついでにお前も冥途に送ってやる!」
そう威嚇して、勢いよく白刃を宇平の頭上に振り下ろそうとした瞬間、懐に忍ばせていた匕首をさっと抜いた宇平が、男の胸に飛び込んだ。
二人は体を重ねたままじっと動かない。そして、その場の状況も、二人に合わせるように時間が止まったかのように静まり返った。やがて、刺客の体がスローモーションのように、あお向けに反転して畳に倒れてこみ、胸には宇平の匕首が刺さっていた。
しばらく静寂が続いた後、その顛末を見ていた野次馬たちが、堰を切ったかのように歓声を上げ始める。いつの間にか、その場の大騒ぎが頂点に達して、その歓喜の叫びは屋敷の外まで聞こえ始めたのである。
「あんたいったい何者なんだ。」
やっと栄次郎が宇平に向かってそう尋ねた。
「右衛門様の配下で、双栄という忍びです。先生を守るようにと言われていたので、悪いですが、先生に嘘をついてここで働かせてもらいました。」
辺りの歓声に戸惑ったように、双栄が自分の素性を明かす。
「そんな噓ならいつでも歓迎だ!」
栄次郎は相好を崩して、嬉しそうに双栄の言葉に応じた。
「天狗党から刺客が放たれたとなると、先生・・。右衛門様や柴田様が危ない。私は村へ向かいますから、先生は刺客が来たことを山岡様(警察)に知らせてください。」
双栄はすぐに真剣な顔でそう言うと、小走りでその場を離れ、塀を超えて屋敷から消えてしまったのである。
(村人離散)
龍と柴田を乗せた大八車を右衛門が引っ張り、車の後ろを鈴が一生懸命押している。
「右衛門、目の方は大丈夫か。」
大八に乗った清五郎が、右衛門を気遣って声をかけた。佐々木との死闘で足首を斬られた清五郎は、必死で立ち上がろうとするのを右衛門に制止されて、屋敷に置いてあった大八車に龍と一緒に乗ることになったのである。
「庭の池で目を洗ったので、余程よくなりました。(後ろを振り向き)鈴、大丈夫か。」
右衛門は清五郎に答えながら、大八の後ろを押している鈴のことが気にかかっていた。
「大丈夫だ。右衛門様があの人達をみんな殺したのだから、私は大阪へ行って目を治せるよね・・。もう私が村を出ることを邪魔する人はいないのだから。」
鈴は顔を上げると、源五郎の方を向いて自分の言った言葉に確認を取ろうとしている。
「その通りだ。わしはな、鈴・・。右衛門がわしの計画に加担してくれた時から、失敗するなど考えたことがなかった。だから、お前も右衛門を信じろ。」
死闘決着以来、一言も右衛門に礼を言わなかった源五郎が、鈴への語りかけの中で、初めて間接的に彼に感謝の意を込めたのだった。
「わしは、右衛門様に屋敷の敵の数を打ち明けた時、右衛門様はきっと死闘を避けるものと思っていた。なにせ、奴らは百戦錬磨の精鋭ぞろいだからな。村の連中や武平さんでも、従うしかどうしようもできなかった・・。(右衛門に笑顔を見せて)世の中には化け物がいることを改めて思い知ったよ。」
龍が寝ていた上半身を持ち上げながらそう言った。彼にとって、右衛門のような天下の剣豪は憧れの対象だった。
「寝ていなくていいのか。」
右衛門が、龍を気遣う。
「わしも鈴と同じだ。この村から出られると考えると、気持ちが高揚して痛みも吹っ飛んでしまった。(急に不安そうな顔をして)ところで、わしも鈴と一緒に連れて行ってくれるのだろうな。そうでないと、鈴が大阪に行くのは認めないからな。」
龍の声が次第に大きくなっていく。
「お前が鈴を養わなくて、誰が面倒を見るんじゃ。」
源五郎が龍に気合を入れた。
「それにしても龍、どんな体をしてるんだ。不死身だな。化け物は、わしではなく、お前の方かもしれんぞ。」
右衛門は、龍の背中にさらしを巻いたときのことを思い出しながら、龍の強靭な体に感心していた。源五郎が押さえていた笑いを堪えながら、
「化け物が二人もいれば、心強い限りだ。」
そう冗談を言うと、四人が一斉に笑い出した。右衛門はこの時初めて、自分の関わった死闘に報われたような気がしたのである。
しばらくして、右衛門の足が止まった。龍の家の前に村人たちが群れを成していたのである。彼らの前には、三つほど積み重ねた千両箱の上に黒装束をまとった武吉が座っている。
「そんなところにいて大丈夫なのか。(周りを見渡し)何事だ。」
右衛門が武吉に声をかけると、村人たちがほぼ全員、右衛門の方に視線を向ける。
「右衛門様が屋敷の連中を倒したと聞いて、村の連中を集めて、村の主だったものと話し合っていたんだが・・。あんたがもし相川らに勝ったら、わしらこの村を全員で離れることにしたんだ。天狗党の村も今日が最後、みんなちりじりばらばらじゃ・・。ようやく我らにも進むべき道ができた。礼を言いますぞ。」
武吉が頭を下げると、百人近い連中が一斉に右衛門に向かって頭を下げた。驚いた右衛門が、振り向いて源五郎と目を合わす。
「鈴とわしは右衛門様についていくが、それでいいんだな。」
龍が武吉にそう尋ねた。
「好きにしろ!」
武吉がにこにこ笑っている。その笑顔を見て、龍と鈴も嬉しそうに笑った。
「武吉、その千両箱はなんだ。」
源五郎が尋ねる。
「盗賊として貯めてきた金だ。屋敷の奴らからわしらを解放してくれた右衛門様に渡そうと村のものに運ばせたんだ。余りまっとうなな金ではないが、わしらの感謝の気持ちだ。右衛門様、受け取ってくれ!」
武吉と村人にとって、右衛門への精一杯の感謝の気持であったのかもしれない。
「悪いが、龍と先生を運ぶだけでも難儀をしてるのだ。お前の申し出だが、気持ちだけ受け取るので、その金は村人のこれから先の生活のために使ってくれ!それに、わしはそれぐらいの金をもらっても嬉しくもなんともないしな・・。見くびるなよ。こう見えても元見能林藩の藩主だったわしが、天狗党の金を受け取ったと噂が立つと、わしの取るに足らない誇りに傷がつく。まあ、埃か誇りかわからんような名誉だがな。」
右衛門の拒絶の言葉を悪くとる村人は一人もいなかった。右衛門の予想もしなかった言葉に辺りがどよめいた後、静まり返った。
「それより武吉・・、明日にも、村の外に集結している政府の警察が、村人を捕縛するためになだれ込んでくるぞ。」
右衛門が武吉に警告した。
「分かっています。この中にも、一人や二人は警察の息のかかったものがいるはずだ。(後ろを振り向き、ぐるっと村人を見渡す。)その方々にも言いたいのだが、屋敷の連中とわしの死体の引き換えに、村人は逃がしてくれんか・・。二度と政府の迷惑はかけんと誓う!」
武吉はそう言うと、箱から降りて地面に頭をこすりつけ、村人の赦免を姿の見えない役人に懇願した。
「ぶきっつあん。」
あちこちで、村人の口から武吉の名を呼ぶ涙声が湧きあがる。
すると、武吉は龍の方を向いて、
「後はお前が村のみんなに金を配ってくれ。(右衛門と柴田の方を向き直り)どう礼を言ったらいいか・・。わしに死に場所を与えてくれて・・。」
武吉がそう言った瞬間、源五郎が大声を張り上げた。
「武吉!」
その声が響き渡るのを合図にしたかのように、武吉は腰に差した刀の白刃を首にあてると迷うことなくさっと引いたのである。武吉の首から赤い鮮血が舞い上がる。
「武吉!」
右衛門の悲痛な叫びが、その場の悲壮感を一層引き立たせる結果になった。
翌日、西田率いる警察隊が天狗党の村に入ってきた。
西田は、勢い込んで百数十人全員の警察官を村に進行させたのだが、そこには村に残った密偵以外には、死体が二十三体残っただけだった。
「右衛門はどうしたんだ。」
西田は、怒りで今にも爆発しそうであった。
「すでに、村を出たかと・・。」
西田の表情を窺いながら、密偵が口ごもりながらそう言った。
「お前は、これだけの異変をただぼーっと見ていたというわけだ。百人以上の人間がいっぺんにいなくなるのをな・・。」
西田の怒りは、村の内情を探らせていた密偵へと向かいかけた。
「お言葉ですが、私に何ができるというのですか。右衛門に歯向かって、勝負でも挑めばよかったのですか。」
密偵が西田に逆切れする。
「もういい。下がれ!」
西田の余りにも大きな声に、集結して命令を待っている警察官の集団に動揺が起こった。
「まあ、鬼塚様には天狗党の首領たちは何とか片が付いたとでも報告するしかあるまい。あの人のことだ。この村で起こった詳細はすぐに耳に入ると思うが・・。おかげで、わしの昇進どころか、一生、片田舎の警察官で終わるかもしれんな。」
西田は側にいた部下に、抑えきれない不満を自虐を込めて呟いた。だが、心の片隅で、命だけは失わずに済んだという安堵感が、西田の脳裏に去来したのも事実であった。
結局、政府の警察による掃討作戦は、武吉と屋敷の連中の死と引き換えに決着を見ることになったのである。
(右衛門たちは大阪へ)
右衛門、龍、柴田、鈴、それに村のはずれで合流した忍びの双栄達は、大阪へ向かう大前屋の北前船が停泊する、天狗党の村から二山越えた出雲の港へと向かっていた。
やはり、右衛門の見通しは甘かったのかもしれない。最後の山越えを強行した結果、山の山中で日が暮れてしまったのである。
「弱りましたな。この分なら、山中で野宿も覚悟しなければならないかもしれませんな。」
双栄が右衛門に向かって不安を吐露した。
「しかしな、病人もいるので野宿はこたえるな・・。」
そう言った右衛門が、背中に背負った柴田先生を道端の切り株に下ろした。
傷を負った龍の回復は奇跡的なほど順調で、今では自力で山道を歩けるほどに回復していた。それとは対照的に、佐々木との死闘で足に傷を負った源五郎の具合が次第に悪化し始めたのである。山越えができなかったのも、双栄と右衛門が代わる代わる源五郎を背負って歩かねばならなくなったせいかもしれない。
「どこぞに民家がないか、見て来ましょう。」
双栄はそう言うと、あっという間に夕暮れの木立ちが茂る暗闇に消えて行った。
「すまんな、右衛門。」
責任を感じた清五郎が、日頃の強気が影をひそめて、素直に右衛門に謝った。
「先生らしくもない。いつもの強気な先生でいてください。」
右衛門が、弱気になった源五郎を励ました。
「そうだよ、ここには天下一の剣豪もいるんだ。山の中でも怖がるものは何にもない。」
龍は屋敷の死闘以来、右衛門に心酔し始めていた。
「私も何も怖くない。じいちゃんが大坂で私の目を直してくれるんだもの。」
鈴の言葉に源五郎も少し元気になって、足の痛みも我慢できるような気がした。
双栄は奇跡的な幸運で一軒の山小屋を見つけてきた。
小屋には老婆と息子が住んでいて、一夜の宿として五人が泊ることを快く引き受けてくれた。山の中は冬でもないのに冷え込んで、囲炉裏に火を入れなくてはならなかった。
白髪の老婆の横顔が、囲炉裏の炎に照らされ怪しく揺れている。老婆が作ってくれたひえの粥を口に入れた龍と鈴それに清五郎は小屋に落ち着いて、すぐに囲炉裏の周りで寝転んで眠りに落ちた。右衛門と双栄は、小屋の老婆と土間でなたを研いでいる老婆の息子が気になって、ゆっくり眠ることができないので、囲炉裏につるされた鍋で沸き立つ白湯を何度も尺ですくってはゆっくりと口に運んでいる。
土間の猟師は、熊の毛皮の上着を身に着け、大きな体がなお一層大きく見えた。時折、横目で右衛門の方をうかがっている。
「ところで右衛門様、四国山中での化け物は手ごわかったですか。あなた様の三人合わせ斬りは、あの化け物を仕留めたことで習得したと聞いておりますが・・。」
双栄が、いきなり右衛門が四国の山中で斬り殺した化け物狩について尋ねる。
その時、老婆と息子の体が緊張のあまり凍り付いたのを、双栄は見逃さなかった。
「物の怪を斬る時の恐怖に勝とうとする闘争心は、人を斬る高ぶりとは比較にならん・・。わしの刀を抜きたいという本能が、あの時の血に飢えた獰猛な化け物の殺気を完全に圧倒していたような気がする。自分の中で、自制を失った鬼のように残忍な気持ちが湧きあがり、不思議なことに、抑えきれない快感さえを覚えたのだ・・。あの時のことは今でも忘れられん。」
右衛門の言葉に息子の手がぶるぶると震え始めている。
「あんたが四国の主を斬り殺した侍かい・・。」
老婆が一歩身を引いて、右衛門を遠目で見ている。
「ちょうど、こんな山奥の一軒家に住んでいる老婆と息子たちだったな・・。老婆の顔が夜叉に変わり、横にいた息子たちが獣に変わったとき、わしは自分が鬼になった錯覚を覚えたのだ・・。奴らが襲い掛かった瞬間に、わしの剣は勝手に奴らに反応した・・。気が付いてみるると、辺りに血だらけの三つの物の怪の躯がころがっていて、わしの刃は、べっとりと血で染まっていた。何とも凄惨な光景だった。」
右衛門の言葉を聞いた息子が、なたをその場に置くと、腰を抜かして立ち上がれず、這うように自分の寝所まで来ると、囲炉裏のある板の間の隣の部屋の戸をゆっくり開けた。
「かあやん、わしは寝ることにする。お侍様も早うお休みを・・。」
そう言って、右衛門にひきつった笑顔を見せると、そのまま這って部屋に入って行った。
「わしもそうするか。」
老婆はかすれた声を必死に引き絞り、息子と同じように右衛門にひきつった笑顔を見せると、息子を追うように同じ部屋にもぐりこんでいった。双栄がふと見ると、老婆の野良着の足元から小便が流れている。よほど恐ろしかったのだろう。
「物の怪も人と同じですな。恐ろしいものには人と同じように反応する。右衛門様は、本当に鬼になられたのかもしれませんぞ・・。」
双栄は小声で右衛門にそう言うと、下唇を必死に噛んで笑いをこらえていた。
山中の朝はすがすがしかった。空は晴れ渡り、足を負傷した清五郎の気分も傷を治そうとする意欲が湧き上がるほどだった。最後に薄暗い小屋の土間でわらじをの紐を結んでいる右衛門を、背後で用心深く見つめている老婆と息子は、彼が出ていくのを一刻も早く見届けたかった。。
「ところでばあさん・・。」
右衛門が背を向けたまま声をかける。二人の体がピクリと動いて凍り付く。
すると、右衛門は懐から五両の小判を板の間にゆっくり置いた。彼の行動の意味が分からない老婆と息子がぽかんとその小判を眺めている。
「これは、お前たちがわしたちを食い損ねた代償だ。もし腹が減ったら山里に降りて、うまいものでもたらふく食ってこい。もちろん人ではないぞ・・。」
右衛門は二人の方に一度も振り向かず、そのまま勢いよく立ち上がると、右手を挙げて、
「あばよ。」
そう言って、悠々と小屋を出た。
しばらくして、遠ざかる五人の方へ小屋から手を振る老婆と息子の姿が見えた。
「今度来たらご馳走するからな!また来てくだされや!」
老婆の甲高い声が、山麓に響き渡る。
「二度と来たい所ではありませんがな・・。」
双栄が源五郎を背負いながら、右衛門にそう呟くとにやりと笑った。
「情のない奴だ。」
背負われた源五郎が双栄の薄情さに意見した。
右衛門は可笑しさがこらえ切れずに、思わず笑いだす。龍と鈴が、右衛門の笑った理由がわからず不思議そうに彼の顔を見つめていた。
(駒の脱出)
天狗党の村で起こった出来事は、鬼塚が力を入れて構築した警察組織の連絡網を通して素早く江戸に知らされた。もちろん、その情報は春の耳にも入った。一方、天狗党の裏の支配者となった勝沼恵三と側近たちは、直接命令が下せる相川や大隅達が右衛門に皆殺しにされたので、村からの連絡を受けることができなかったのである。このことが、警察の作戦を有利に進める決定打になった。鎌田久兵衛たち天狗党窃盗団の捕縛は、鬼塚の筋書き通りに進んでいった。
宿に帰った春は、天狗党の村で起こったことをすぐに知らせるために、駒のいる宿に向かった。
「本当なんですか。」
駒は春の話が信じられないようだった。
「私を信じてちょうだい。あなたの娘の鈴ちゃんは村から脱出して、すでに大坂に向かっているの・・。もう駒ちゃんを束縛するものは何にもないのよ。」
春の表情は真剣だった。
「あなたは、何者なの。」
春への不信を払拭できない駒が、彼女の言葉を疑うようにそう問いただした。
「私はあんたの父親と知り合いでね。柴田清五郎という名に覚えはない?その柴田先生から頼まれて、あんたたちを救い出しに来たの。すでに、私の主人の右衛門があんたの村へ入って、あんたの夫と鈴ちゃんを助け出したのよ。」
春の言葉に駒の怪訝な表情が薄れた。彼女は母親の玉枝から何度か清五郎の名を聞いていたのである。それに、右衛門は天狗党の連中からも、最強の剣豪だと噂されている侍の名であった。
「春さんの夫が右衛門なの?」
駒が確かめるように春の顔を覗き込む。彼女に応じるように、春が頷いた。
「時がないの。私は栄屋の屋敷の見取り図と鍵を座長の鎌田久兵衛に渡したの・・。恐らく、今頃奴らは栄屋に向かっていると思う。逃げるなら今しかないのよ。一緒に来るわよね。」
春の駒を見る視線が厳しくなった。戸惑う駒がしばらく沈黙を保った後、
「もう春さんを信じるしかないみたいね。(すがるような目をして)助けて、春さん。」
駒は心から訴えるように声を絞り出し、自分の窮状を、春に救い出してくれるように哀願したのである。
一方栄屋では、屋敷に難なく侵入することができた天狗党の首領である久兵衛が、店の主人の部屋に近づいていく。春の手に入れた見取り図によると、栄屋の主人の部屋の床の間にからくりが仕掛けられ、そのまま土蔵に直結していたのである。
「おかしいな・・。ここまで誰も出てこない。店の使用人たちは何処にいるんでしょうな。」
久兵衛の片腕の青が、次々と屋敷の襖を開けながら、不思議そうにそう言った。
「恐らく、主人の部屋に駆け込んだのだろう。下の土蔵のには外に出られる隠し通路が仕掛けられているようだ。」
久兵衛の言葉に納得したように青が、にやりと笑って頷いた。そして、何枚かの襖をあけ放っているうちに、襖から光が漏れている部屋に出くわした。茂吉が後ろを振り向くと、久兵衛と手下の盗賊十数人が歩みを止めた。
茂吉が主人の部屋の襖を開ける許しを得るため、久兵衛の目をじっと見る。久兵衛が答えるように軽く頷く。
襖が開くと同時に、盗賊たちが刀の束に手をやった。行灯の蝋燭の灯が部屋の中をはっきりと照らし出している。
「お前が鎌田久兵衛か。」
部屋の真ん中で床几に座り、大小二本の刀を差した鬼塚久が、久兵衛の顔をじっと睨んで、抑揚のない低い声でそう言った。久兵衛は、鬼塚の余りにも冷静な声に、得体のしれない不気味な迫力を感じた。
「警察の犬か。」
鬼塚を見た瞬間、久兵衛は盗みの計画が失敗したことを悟った。同時に、春に騙されたことを見破れなかったことに、悔しさがこみ上げてきたのである。
「屋敷は囲まれている。外を固めるお前の手下はすでに捕縛されているはずだ。悪いことは言わん、刀を捨てろ!言うことを聞けば命だけは助けてやる。」
鬼塚が不気味な笑みを漏らした。しかし、彼は久兵衛たちが従うことなど期待はしていなかった。あくまで、力でねじ伏せるつもりだったのだ。鬼塚の周りには、彼の側近が五人で固めている。いずれの家臣も、江戸幕府お庭番の統括者だった時からの腹心であった。彼らは、数々の修羅場を潜り抜けてきた鬼塚の精鋭たちだ。久兵衛の盗賊の人数より少ないにもかかわらず、すでに勝負は見えていたのである。
相手の剣の力量を知らない久兵衛の手下が、自分たちの多勢に自信を持って、いきなり鬼塚たちの集団に斬り込んできた。鬼塚の家臣の半蔵が中段に構えて相手を迎え撃つ。
「ぎゃー。」
半蔵の抜いた刀は、正確に相手の腹を通過した。苦痛に堪えかねた盗賊の叫び声が座敷に響き渡る。次の瞬間、半蔵は大きく跳ね上がり、上段から二人目の盗賊を袈裟に斬り倒した。斬られた男の血しぶきが天井まで真っ赤に染める。それを見て、突進しようとした後発の盗賊たちの歩みが止まる。半蔵の刀が鞘に収まり、カチッと音がすると、今度は足を止めた男たちが畳にへたり込んだ。
「あんた、ひょっとして・・。」
久兵衛の怯えた目が、再び鬼塚の顔に視線をやった。
「お前らのかなう相手ではない。鬼塚久様だ。」
鬼塚の隣に立っていた家臣が、自分の主人の名を明かした。その声に反応するかのように、しばらく沈黙が続いた。そして、
「みんな刀を捨てろ!争ってかなう相手ではなさそうだ。」
久兵衛はうろたえた様子を見せず、手下に降参するように命じたのであった。この命令は、彼の精一杯の見栄を張った言葉のように聞こえた。
栄屋襲撃事件は、あっけなく決着がついたのである。
久兵衛捕獲の知らせは、すぐに勝沼の耳に入った。
「天狗党も地に落ちたもんだ・・。」
一連の事件の報告を受けた勝沼恵三(天狗党の新支配者)はそう呟くと、久兵衛たちの失敗をあざけるように笑みをこぼした。
「しかし、裏切者は始末するのが天狗党の決まりではないのか。」
勝沼はそう言うと、山下嘉吉(勝沼の側近)の顔を見た。
「それでは、始末しますか・・。」
山下は、勝沼の言葉に応じるようにそう言った。
「わしらを頼って集まった腕の立つ浪人や忍びは、いくらでもいるからな。(しばらく考えて)仕方ない、刺客を向けようか。侮られては、後々厄介だ。それに、この一件、鬼塚が直接関わっているらしいしな・・。奴の後ろには大久保がいる。」
勝沼の淡々とした口調は、士族の間で知られている人徳のある人物という評価とは正反対の、冷淡な一面を垣間見させる言葉であった。彼はまだ、右衛門の存在も佐那河内の集団が動き始めたことも知らなかったのである。
(女三人逃避旅)
春、駒、それにぬいは、天狗党の報復を避けように旅を続け、駒の家族の再会のため大阪へ向かった。同じ頃、天狗党の村を出た右衛門や柴田先生、それに駒の娘の鈴と夫の龍も大阪に向かっているはずだった。大阪には小野忠成の小野道場がある。幸い、鈴の目の治療にあたる医者の西は、小野忠成の屋敷を頻繁に出入りしていた。さすがに天狗党も、門弟数百人をかかえる小野道場には、襲撃をかけることはできない。大阪に入れば、春たちの計画は成功したと言ってよかった。
「しかし、なんですね。おんな三人旅とは随分大胆ですね。それに、三人とも粒ぞろいの美人ときてる。さっきお三人がすれちがった男のお客たちも、あなた方のことを噂してましたよ。(大きな声で笑い)伊勢参りでもなさるので・・。」
宿の番頭は仕事そっちのけで、さっきから春たち三人の座敷で長話をしている。
「番頭さん、この宿の料理はちゃんとしてんでしょうね。」
春が番頭のお世辞に、まんざらでもなさそうな表情を見せている。
「そりゃもう、この辺は海にちこうございますから。海の幸を満足いくまで堪能できますよ。」
春に話しかけられた番頭が、なお一層声のトーンを上げて返答した。
「駒ちゃんは魚どうなの?」
春が番頭の説明に呼応するかのように、駒に尋ねた。
「おっかさんは、島で海女だったけど、私が生まれた村は山の中だったので、魚なんてあまり食べられなかった。」
駒は、のんきに料理の話なんかする春のような気分にはなれなかったが、一生懸命答えようとした。
「立ち入った話をしますが、あなた様は料亭の女将か何かをなさっているのでは・・。」
番頭はそう言って、春の顔を見た。
「あら、番頭さん。ずいぶん勘がいいこと・・」
春が驚いたように番頭を見た。
「やっぱりね。いえね、三人ともお美しいが、お二人は飛びぬけて色気がある。」
番頭はそう言うと、駒と春に笑いかけた。二人は番頭の言葉に声を出して笑ったが、ぬいは番頭の会話には何の関心も示さず、もくもくと出された茶菓子を食べている。
春は緊張の連続だった旅の合間に、心が和む会話をする番頭が気に入ったのか、彼への心づけに懐から一分金を二枚取り出そうとしている。
「ところで、一番若いお嬢様はどちらの娘さんなので・・」
番頭の放ったこの言葉で、駒と春の笑顔がぴたりと消えて、春の出しかかった二枚の銭が元の懐に戻された。
事件は夜明けに起こった。
「来る・・。」
ぬいのささやきに春と駒が目を覚ます。元々、天狗党の報復を恐れている三人は、この旅で熟睡したことがなかった。いつも微かな物音にも敏感になっている。
「何人?」
枕元に忍ばせていた武器の入った包みを手繰り寄せながら、春が小声でぬいに尋ねた。
三人の座敷は宿の庭に面した一階にある。いざという場合に逃げ出せる空間が欲しかったのである。しかし、刺客はその庭から彼女たちの座敷を狙ってきた。駒が身軽な着物に着替えると、そっと障子に近づき戸を少し開けて庭の様子を見る。
「誰もいない。」
駒も小さな声で二人に知らせる。一瞬の沈黙・・。
次の瞬間、いきなり座敷の障子が蹴破られ、三人の忍びがなだれ込んでくる。その襲撃を食い止めるように、ぬいが刺客に立ち向かう。薄暗闇で激しく白刃が打ち合い、火花がとんだ。すると、その争いに気を取られている春と駒を殺すために、庭に潜んでいた他の忍びが、障子を蹴破り、声も出さず襲ってきた。座敷は刺客の襲撃に騒然としているが、女三人も忍びも声一つ上げないので、バタバタと踏み鳴らす足音だけが、けたたましく響き渡った。
すると、その雑然とした混乱に終止符を打つかの如く、一発の銃声が座敷に鳴り響いた。
「バーン」
「ううう。」
うめき声が聞こえたかと思うと、庭から襲ってきた忍びの一人が畳に転がった。それを機に、忍びたちが一歩飛びのく。ぬいが立ち向かった忍び三人は、ぬいの激しい防戦で、一進一退の攻防を繰り広げていたのだ。彼らの激しい息づかいが、春の耳に聞こえてくる。
「最初に動いたものを撃ち殺す!」
春の目は、野獣のように鋭かった。彼女は、一瞬の隙を作ることで、自分たちの逃げ場所を探ったのである。しかし、相手は殺される恐怖にひるむことなく、態勢を整えているようだった。相手の気迫を感じ取った春の表情に焦りが生じた。
そして、「誰かもう一人撃つしかない・・。」彼女は咄嗟にそう判断した。彼女の銃は、二連発の最新鋭の英国製だった。春は意を決して銃の引き金を引こうとした瞬間、その動きを察知した忍びの一人が、春の方に突進しようとした。ぬいが守るために、春の方へ向かう。その行動を待っていたかのように、ぬいに対峙していた三人の忍びが、後ろを見せたぬいの背中を斬り裂こうと、剣を振り上げた。
恐怖の絶頂に達しようとした瞬間、天井の板が蹴破られ、激しい轟音と共に、三人の男がぬいを襲おうとした忍び達の背中に覆いかぶさり、短剣で首を引き裂いた。
「ぎゃあー!」
ぬいを襲おうとした刺客たちの叫び声が響き渡るとともに、真っ赤な血を吹き上げ、彼らを襲った男たちと共に座敷にころがりこんだ。天井から襲われた刺客三人は即死であった。その襲撃に合わせるように、春の銃が自分を襲うとした庭からの刺客の頭に炸裂する。
「うう。」
忍びは短く唸った後、畳にうつぶせに倒れこんだ。残った忍びがトンボをきると、庭に飛び出て、そのまま塀を超えて消え去った。
残された五体の遺体と三人の女。それに、天井から飛び出た三人の黒装束の男達・・。その騒ぎを、遠目から恐怖に耐えながら見ていたやじ馬・・。その状況は、あたかも映画の中の戦場のようだった。すると、
「権蔵さん!」
初めに黒装束の正体を確認したのは、春だった。
「さすがに、春様だ。肝が据わっとる・・。」
権蔵が笑顔を見せた。
次に、ぬいの驚いたような声が辺りの注目を集める。
「三郎!」
ぬいの目がうるんでいるように見えた。丹波と共に三郎が激しい息づかいをしながらぬいの顔を見つめている。
「ぬいに声をかけてやれ。」
丹波が、何も言わずにじっとぬいを見ている三郎を促した。
「親父が、ぬいを迎えに行こうって・・。(手で目をぬぐい。)一緒にきてくれるよな。わしと・・。」
凄惨な死闘の後には似つかわしくない甘い雰囲気が、辺りを覆い始める。
「ぬいちゃん、三郎に答えてやらなくちゃ。」
春が笑顔でぬいの返事を促した。ぬいは涙を隠すように手で顔を覆うと、軽く頭を下げて頷き、三郎の誘いを受け入れた。
「何だか変な気持ち・・。生き死にの後に、幸せが舞い込むなんて・・。ねえ、ぬいちゃん。」
駒の言葉に、座敷にいた連中が共鳴するかのように同時に笑顔を見せた。
「番頭さん!この後始末は、警察が責任をもってつけますから。」
遠くで震えながら見ていた番頭に向かって、ぬいが気を取り直したように凛として、そう告げた。駒の夢を実現する大阪まであともう少し・・。
(柴田との別れ)
「私、じいちゃんの顔がはっきり見える。じいちゃんと西先生やみんなのおかげだよ。」
病床に横たわる柴田清五郎の手をしっかりと握って、鈴が訴えかけるように喋っている。
柴田の顔が思わずほころぶ。大阪にたどり着いた鈴は西の治療で目の病を治すことができたのである。
隣の部屋では、右衛門と木内又五郎(右衛門の親友、四強、小野道場で師範代を務める)、それに西先生が座っていた。
「柴田先生の具合はどうですか。」
右衛門が心配そうに西先生に聞く。その問いに、西が首を横に振った。目にはうっすら涙を浮かべている。
「年を取った柴田さんには、村での修羅場は過酷すぎた。それに、足の傷は思った以上に化膿していて・・。」
柴田は、西にとっても医学を志した修行時代の仲間である。夜が迫り、辺りがうっすらと暗くなり部屋に重苦しい沈黙が続いた。又五郎が行灯に灯を入れる。
「せめて、娘の駒さんが大阪に来るまでもってくれればいいが・・。」
柴田の容態を聞いた又五郎が、ぽつりと呟く。
「柴田さんは、いつも玉枝さんのことを思い続けていたような気がする・・。正雪先生の診療所でいた時、柴田さんは夜中に酒が入いって酩酊すると、いつも玉枝さんの名を呼んでいました。」
西の声は涙声になっていた。その言葉を聞いた右衛門は、悲しみを押さえきれなくなって涙を隠すためにその場から立ち去ろうとする。
「右衛門!」
又五郎の呼び止める声が右衛門の耳に入ってきたが、振り向くこともなく部屋を出て行ってしまった。
夜も更け、清五郎を寝ずに看病している鈴が彼の布団の傍らですやすや眠っている。
柴田の寝ている近くの行燈の明かりの傍で、右衛門が湯飲みに酒を注いで飲んでいる。
「どうしたんだ、右衛門。おぬし、酒はあまり好きではなかったのではないか。」
柴田の声はかすれていた。
「今夜は、無性に飲みたくなりましてな。」
一気に湯飲みの酒をあおった右衛門が、柴田に笑顔を見せてそう言った。
「おぬしには、わしのために過酷な荷を背負わせてしまった。礼を言う・・。わしが死んであの世で閻魔様に会えたら、おぬしの村での殺戮の所業は、わしが償いを引き受けると申し出るつもりだ。」
柴田はそう言うと、ちゃめっけたっぷりに笑った。
「先生、それは無用です。私は度重なる殺生を犯した人間・・。今更、一つや二つの所業を償ってくれても同じことです。」
右衛門はそう言うと、憔悴した柴田の顔を見て笑顔を返した。
「それにしても、死んだら人間はどうなるんだろうな・・。(じっと何かを考えて、黙った後)わしには坊主の経はいらんからな。焼いた後は、何処かの海に骨粉を撒いてもらえばそれでいい。これが、おぬしに頼む最後の願いだ。厄介なじじいを引き受けた因果と思ってかなえてくれんか。」
柴田は必死に笑顔を見せようとしたが、顔がくしゃくしゃになって目じりから一筋の涙がつたっている。
「必ず・・。」
右衛門が、柴田の願いに応諾する。
「右衛門・・。本当に、あ り が・・。」
そこまで言って、柴田の息が絶えた。死んだ柴田の手を握りながら、右衛門は子供のように泣きじゃくっていた。
やがて、柴田の死んだ部屋では、鈴の泣き叫ぶ声が夜明けまで聞こえていた。
柴田の死を見届けた右衛門は、春や柴田の娘の駒に合うために東へ向かうべく旅支度を整えて、土間でわらじの紐を結んでいる。
「右衛門、わしも連れていけ!」
右衛門の背中に声をかけたのは又五郎だった。
「お前のことだ、断ってもついてくるだろう。」
又五郎の方を向いて、右衛門が笑顔を見せながらそう言った。
(最終決戦)
「三郎さん、ぬいちゃんと一緒でよかったわね。」
駒が茶屋の長椅子に、二人が座って団子を食べている様子を見ながらからかった。
権蔵は宿で春たちを襲った忍びを撃退した後、春と駒が大坂に着くまでの護衛に、三郎を就けたのだった。ひょっとしたら、三郎とぬいへの心遣いだったのかもしれない。
「そんなんじゃないです。これはあくまで頭の命令で・・。」
ぬいがむきになって駒の言葉を否定する。三郎とぬいは、夫婦ずれの商人の成りで駒と春の後ろをついて旅を続けていた。身なりや組み合わせからしても、女三人連れの旅より、余程目立たない旅になった。
春はさっきから、茶屋の片隅で茶を飲んでいる編み笠をかぶった二人の浪人が気になっている。前の街道には人は通るが、主要街道でない脇道のせいもあって、余り多くの人でにぎわっているという訳ではなかった。向こうに見える山には有名な禅寺があって、やたらと編み笠をかぶった僧侶の一行が通り過ぎて行った。
「三郎さんは、私たちに会う前に大坂に寄ってきた?」
春が三郎に尋ねる。三郎が首を横に振る。
「親父が佐那河内に帰ってきて、わしと兄貴をすぐに呼んだんです。」
ぬいが三郎の話に関心を持ったのか、彼の方に視線を送る。
「そしたら、急にぬいのことを話し出して・・。」
三人の注目が三郎に集まる。
「どんな話だったの。」
春が三郎の話を促す。
「鬼塚さんと江戸で会って、ぬいのことを知らされたらしいんです。」
三郎が春に促されるように話し始める。
「鬼塚って、あのかつて幕府の忍びの元締めだった?」
駒も鬼塚の名は聞いたことがあった。
「今は私の上司です。」
すかさず、ぬいが鬼塚との関係を説明する。
すると、三郎がまた話を戻して、
「それでいきなり、親父がわしに、ぬいのことをどう思ってるんだ・・って、問い詰めたんです。」
と、独り言を言うように言った。彼には鬼塚という男には関心がなさそうだった。
「うん・・。」
春と駒が、三郎の方にいっそう乗り出した。
「わしが今まで所帯を持たないのは、ぬいのことが気にかかって誰も好きになれないからだ・・って、親父に言ってやったんです。ほんとは親父のせいで・・って、言ってやりたかったんだがな。」
三郎の言葉に、ぬいの顔が真っ赤になった。
「言うね。あんた・・。」
駒があきれたようにからかうと、三郎の真面目腐った顔を見て笑い出した。
「馬鹿!」
堪えかねたぬいがそう言うと、三郎の頭をぽかりと小突いた。三郎はあくまで誠実に事情を説明したのに、どうして春と駒に自分の言葉がうけたのか理解できなかった。ましてや、ぬいに頭を小突かれるなど想像もしていなかった。それでも、こずかれた頭をさすりながら会話を続ける。
「そしたら、親父からぬいと春さん事情を聞かされて・・。その日のうちに親父と兄貴と佐那河内を飛び出したんです。春さんは佐那河内の仲間だから、放ってはおけないしな。」
三郎は話し終えると、ほっとしたように団子を砲張り茶を飲んだ。彼が本当に言いたかったのは、最後の言葉だったのだ。
次の瞬間、春の笑顔がサッと消え、緊張した表情で視線を街道の方に向けた。
向こうの方から僧侶が十人ほど列をなして茶屋の方に進んでくる。一方、ぬいには、今まで往来していた通行人とは違う異様な殺気をこの集団に感じ始めていた。
「三郎!」
ぬいが三郎に警戒を促す。三郎もまた、その集団に異様な威圧を感じていた。
二人はゆっくりと立ち上がると、駒と春の前に立ち、雲水の集団からの襲撃の盾になろうと身構えた。
その時、さっきから茶屋の片隅で編み笠をかぶって黙って茶を飲んでいた浪人の一人が、春たちに声をかけてきた。
「三郎!おぬしたちのかなう相手ではない。向こうが仕掛ける前に動いてはならんぞ!」
三郎はその声に聞き覚えがあった。
「又五郎さん!」
三郎はそう叫ぶと、声の発せられた方を向いて笑顔を見せた。
「それに、せっかく可愛い嫁さんができたのに、こんなところで死んだらもともこもないぞ。」
又五郎はそう言うと、声を出して笑った。
「やっぱり、右衛門だったのね。」
春はもう一人の浪人の方をに目をやって、そう呟いた。
駒とぬいが一斉に、春が声をかけた浪人の方に視線を送る。
「無茶ばっかりして・・。お前の後始末をするために休む暇もない。」
右衛門はそう言うと、編み笠をとった。髷を切り落としぼさぼさ髪で、にこにこ笑っているその表情は、まるで今迫っている危機に頓着していないようであった。
「この人が、あの右衛門なのだ。どう見ても人が恐れる剣豪には見えないけれど・・。」駒とぬいは心の中で同じことを考えていた。
「春さん、久しいですな。」
右衛門に続いて又五郎が編み笠をとって、春に声をかけた。
「あの人の方が、余程強そうに見えるわね。」
思わず、駒がぬいに小声で話しかける。
「聞こえたぞ。「・・強そう」ではなくて、右衛門より強いのだ。駒さんとやら!」
又五郎が、にこにこ笑いながら駒に話しかける。
「ご無礼を・・。」
駒が恐縮して深々と頭を下げる。
「まあ見といてくだされ・・。」
又五郎はそう言うと、歩み寄ってくる雲水たちの方に目をやって不敵な笑顔を見せた。
前の雲水たちの様子がざわつき始める。どうやら、右衛門と又五郎がいることが分かったようである。その一瞬をついて、右衛門が春に声をかけた。
「春、お前の銃をあの集団に打ち込んでやれ。命中はしないかもしれないが、それでいいから!」
右衛門の言葉に頷いた春が、銃を集団めがけてためらうことなく発射する。
その銃声で集団の統率が乱れた。その機を逃さず、右衛門と又五郎が、刀を抜いて集団の中へ突進していったのである。
又五郎は、戦闘の数人に斬りかかり交戦し始める。その側を右衛門が一陣の疾風のごとく駆け抜ける。彼が一団を突っ切って最後尾に達した時には、五体の死体が街道にころがって、真っ赤な血で地面を染めていた。右衛門は、行列の交尾に達すると、左足を踏ん張り、返し刀でもう一人雲水の横腹に白刃を通過させた。
「ぎゃあ!」
雲水は仕込み刀を上段に構えたまま、横腹から激しく鮮血を飛び散らせて地に倒れた。すると、右衛門は休むことなく、あまりの恐怖に逃げかかったもう一人の雲水の背後から、背中にまっすぐ白刃を浴びせた。男は悶絶うって転倒した後、ぴたりと動かなくなった。即死である。
その間、又五郎が三人目の雲水を正面から真っ二つに袈裟に斬って仕留めいた。
目の前の死闘の様子を呆然と見つめる駒とぬい。
「どうだ、これが右衛門様だ・・。」
あっけにとられて呆然としているぬいに向かって、まるで自分のことのように誇らしげに三郎が声をかける。すると、ぬいが納得したように頷いた。
春と並んで見ていた駒が、春の方を向くこともなく、
「春さんは、こんな恐ろしい人と夫婦なんだ・・。」
と呟いた。一方、春は駒の言葉に複雑な笑みを漏らしていた。
「右衛門、おぬし一人目立つなよ!」
又五郎の不満を漏らした言葉が、右衛門の剣の圧倒的な迫力をかえって際立たせていたように思えた。
すると、ようやく春が、
「でもね、戦う相手には鬼かもしれないけど、守ってもらえる人には仏のように見えることがあるのよ。」
と、駒の言葉に反論するようにそう言った。
駒は春の言葉に納得したのか、共感したように頭を縦に振って同意した。
(再会)
「昨日は飲みすぎた。」
又五郎がこめかみを指で押している。
「馬鹿のように飲むからだ。」
忠成(小野一刀流頭首、四強)が、又五郎の大はしゃぎした昨夜の酒宴を思い出しながら、薄笑いを浮かべた。
「目の見えない娘が、見えるようになったのだ。あの時の駒と鈴の再会の喜びようを見ていなかったのか・・。お前には情と言うものが欠けている。」
又五郎が忠成に言い返す。横にいた右衛門が、どちらの肩を持つ様子もなく、くすくす笑っている。
弥吉の船が大阪の港に着くと、忠成が小野道場の門下生十数人を引き連れて、護衛もかねて、駒やぬいたちを見送りに来た右衛門と又五郎と一緒に彼らの乗船を眺めていた。
桟橋では、駒と鈴と春が、一つの塊になったように抱き合って別れを惜しんでいる。その傍らでは龍がどうしたらいいのかわからず、彼女らの周りをうろうろ歩いている。船の甲板では、ぬいと三郎がその光景をじっと見つめている。
「佐那河内もこれでまた賑やかになるな。」
忠成が目線を向こうに向けたまま呟いた。
「わしも、また佐那河内へ行こうかな。早苗(又五郎の妻)は、やたらと佐那河内へ帰りたがっている。娘もあの地でいるしな。」
又五郎の顔が真剣になっている。
「まあそう言うな。おぬしが抜けると小野道場も困ってしまう。」
日頃、又五郎とはまともに話したことのない忠成だが、やはり一番頼りにしてる友であった。忠成にそう言われて、又五郎は自分の願いをあきらめたように黙ってしまった。
「それにしても右衛門、おぬしこれからどうするのだ。佐那河内には帰らんのか。」
忠成が右衛門のことに話題を変えた。又五郎もそのことが気にかかっていたのか、右衛門の方を向いて、彼が口を開くのを待った。
「わしか・・。(ふっと顔を上げて快晴の空を見上げる。)今度の一件で、いささか人を斬りすぎた。挑まれた死闘に後悔はせんが・・。」
知らぬ間に、右衛門の顔に憂いが浮かぶ。
「悔むな悔むな・・。おぬしの剣の天分が、死闘を避けて通させぬのだ。それがいいか悪いかは、死んで仏に聞いてみるまでは、分かるはずもないのだろう。わしは、死闘で人を殺めたらそう考えることにしている。ただ一点、自分の私欲で人を殺めたことはない。」
又五郎は、真剣な顔をしてきっぱりとそう言った。
「おぬし、たまにはいいことを言う。」
忠成が、又五郎の信念に感心したようにそう言った。
「「たまに・・」は余分だ。」
又五郎は、忠成を咎めるように大きな声を出したが、その後で突然笑い始めた。つられるように、右衛門と忠成が笑い始める。すると、船に乗り込んだ駒や鈴たちも、向こうの方から右衛門の方に向かって手を振り始めた。
「見てみろ、みんなおぬしに手を振ってるぞ。おぬしのやったことは、敵に回れば鬼に見えるが、味方になれば仏に見えるのだ。」
右衛門は、その言葉を春から聞いたことがあった。あの時は、春の言葉に何の関心も示さなかったが、今、同じ言葉を忠成から聞いて、何やら沈んだ心が救われるような気がした。
「過去はこの場で捨てていくか・・。」
右衛門は吹っ切れたかのように、もう一度晴れ渡った青空を見上げて、大きく深呼吸をすると、
「春、出かけるぞ!」
大声を春にかけると、忠成と又五郎をその場に残したまま、すたすたと港に通じる坂道を下って、小走りで歩を進めた。背を向けたまま、忠成と又五郎に右手を挙げて手を振りながら・・。
船がゆっくり遠ざかっていく。
やがて、四国へ向かう弥吉の船の甲板では、駒と鈴の手で、柴田源五郎の遺骨の灰が紀伊水道の海の水面へと少しずつ撒かれて、白波の立つ海へと飲み込まれていった。
「ありがとう。おとッつぁん」駒は見たことのない源五郎の面影を想像しながら、何度も何度も心の中で、そう呟いていた。
「右衛門13」おわり




