右衛門13-2
「右衛門13-2」
右衛門と柴田は、天狗党の支配する村近くの庄屋の屋敷の離れ屋を宿として、すでに一週間余り逗留し、天狗党の村の情報を集めていた。彼らの村は山陰の山深い渓谷にあり、人を余り寄せ付けない自治社会を創り上げていたのである。
「山岡様が来られましたが、直接こちらへ来てもらいましょうか。」
母屋の玄関で対応した庄屋の下男が、山岡の来訪を知らせに来た。
山岡半蔵は、大久保の命で右衛門に差し向けられた、天狗党の捜査にかかわっている警察官である。元々薩摩藩士だった彼は、明治政府が樹立され、警察組織が編成されると間もなく侍の身分を捨てて警察官になった。務める給料は低かったが、侍としてのプライドが保てる職業であり、同郷の英雄である西田に憧れていたのがこの職に就く動機だった。
彼は警察官になると間もなく、天狗党の実態を探るために村の近くの警察署に転任してきたのである。
「天狗党を壊滅させれば、お前も大阪の警察署長に昇進させてやる。せいぜい気張って来い!」
大久保が、山岡を右衛門のもとに送り込むときに言った約束だった。
(時はさかのぼる。)
山岡は江戸に上ると、大久保の指図通り右衛門の家を訪ねた。もちろん彼も剣豪としての右衛門の噂は耳にしていた。
玄関で対応した右衛門は、始終山岡にやわらかい表情を見せていた。大久保の側近からは、右衛門は最強と言われる剣豪としての先入観は持たないほうがいい、と助言されてはいたが、実際会ってみると彼らの言ったことが本当だったと実感した。
「この人なら天狗党の村に潜入したとしても、疑われなくても済みそうだ・・。」山岡は、右衛門の身の処し方を密かに観察しながら、そんなことを考えていた。
「どうです。柴田先生と私の妻が料亭にいるのですが、一緒に行って山岡さんが集めた天狗党の情報を先生に直接語ってくれませんか。」
最近、余り酒を飲むのを好まない右衛門は、二人が料亭に行くときも家の留守番をすることが多かった。
そんな折、山岡が大久保の命を受けてやって来たのである。
「料亭ですか。」
山岡は少し戸惑ってはいたが、酒の匂いについ心が動いた。彼は、無類の酒好きだったのである。
春と柴田先生に合流した山岡は、予想通り出された酒を拒まなかった。
春に勧められた山岡の酒の器は、いつの間にか盃から湯呑みに変わっていた。
「山岡さんは、蟒蛇ね。」
山岡の湯呑に注いだ徳利を盆の上に置いた春が、笑みを浮かべてそう言った。
「あなたのような美しい方に注がれた酒を断るわけにもいきますまい。」
山岡のお世辞に、春は口を手で覆って笑い声を抑えている。
「こいつは、褒められると天に昇って降りてこない。」右衛門はそんなことを考えながら、薄笑いを浮かべた。
いつものように、部屋の下を通る人々のざわめきに混じって、三味線の伴奏に合わせて小唄を歌いながら、店を流して歩く流しの芸人が行きかっている。花街の浮かれた雰囲気は、酒の助けを借りて人の心を浮き立たせてくれる。
そんな空間に浸って、なんとなく陽気になった三人の気持ちとは対照的に、柴田だけは、ここに来るといつも多弁になる普段の様子と違って、さっきから腕を組みじっと目を閉じて、山岡の話に耳を傾けている。
「それで、わしの娘はその村に住んでいるのですか。」
柴田先生は、雑談に逸れそうになった山岡の話を本題に戻させる。
「駒は天狗党の首領と旅に出てるようです。私が村に忍び込ませた密偵の情報では、首領の姿が村で見受けられないとのことでした。奴は、一年の半分を旅芸人の一座の座長を装い、目星をつけた大店を狙って盗みを重ねているようです。恐らく、駒も盗賊の一味として加わっているのでは・・。奴らの盗みは、一度の押し入りで数千両を狙う大泥棒です。」
山岡は、相当の酒量にもかかわらず、表情ひとつ変えず真剣な顔に戻ってそう言った。
「そのついでに、奴は色々と裏の情報を集めては、幕府の権力者に密告して取り入っていたわけだ。」
右衛門が、山岡の説明に付け加えるようにそう呟いた。
「なにせ、奴らの情報網は、あらゆる場所に張り巡らされた草の根の情報ですからな。私はいまだに誰が天狗党を統率して、動かしているのかわからない。駒と旅をしている首領にしても、その後ろで操っている裏の大物がいるに違いないのです。そして、組織の手下がどのような身分で社会に潜んでいるのかも分からない・・。ただ、天狗党の村の一つが、人里離れた山陰にあるということしか把握出来ていないのです。」
山岡の話を聞いている三人にしてみれば、天狗党の実態はますます漠然とするばかりだった。
「山岡さんは、わしが天狗党の巣窟に乗り込んで、娘を助け出そうと企んでいるとでも思っているようだが、玉枝との出会いは昔の思い出だ。たとえ、駒とやらがわしの子だとしても、その娘に会いたいなどとは思っていないのだ・・。すべては遠い昔の話だ。」
柴田の言葉に、右衛門と春が思わず顔を見合わせる。それほど意外な言葉であった。もちろん、山岡にとっても考えた計画が違ってきた。自分がどうしてはるばる江戸へ上京してきたのか、分からなくなってしまう柴田の言葉であった。
「先生、強がりは言わないで・・。先生の顔に娘と会ってみたいと顔に書いていますよ。」
春が柴田の本心を見抜いたようにそう言った。
柴田が春の言葉に反応して、慌てて自分の顔に手をやる。
「先生は、我が子はともかく、孫にも会いたくないのですか・・。」
山岡の言葉に、柴田の虚勢を張っていた頑な気持ちが溶け出すように、弱気な一面が表情に表れる。
「娘には孫がいるのか・・。」
そう言ったなり、柴田は考え込むようにうつ向いてしまった。やがて、長い沈黙の後、柴田のむせび泣くような声が、その場にいたみんなの耳に伝わってきた。
「先生・・。」
驚いた右衛門が、泣いている柴田を気遣うように声をかける。
「右衛門、わしに手を貸してくれんか。自分の孫がいると聞いて、わしはこのまま何もせずに死ねなくなった。」
柴田はそう言うと、畳に両手をついて右衛門に頭を下げた。
「もとより、そのつもりです。」
柴田に答えるように、右衛門が真剣な顔をしてそう答えた。
「先生、私もお手伝いさせてくださいね。」
春の目にも薄っすらと涙がにじんでいる。
彼らの話を聞いていた山岡は、やっと自分の目的が果たせる気がして、ほっと一息ついたのである。
(再び、話は山陰の右衛門と柴田が潜んでいる村に戻る。)
山岡が、柴田と右衛門が潜む天狗党の村に近い庄屋の家を訪ねた。二人とこれからの策略を相談するためである。
「ここでの生活は不自由ありませんか。」
この家を見つけたのは、山岡だった。右衛門と柴田の暮らすこの部屋は、庄屋の本家の離れ屋になっていて、彼らの食事や身の回りの世話は、庄屋の家の手伝いがやってくれていた。
「手厚い配慮をいただき、庄屋殿にはおぬしの方からも礼を言っておいてください。」
右衛門がそう言うと、横にいた柴田が同調するように頷いた。
「ところで、今後の天狗党攻略の策ですが。」
山岡が、いきなり本題に入ってきた。
柴田が体を前にのめりにして、聞き入る準備をする。この地に来てから、柴田はすっかり冗談を言わなくなった。以前はどこかゆったりとした振る舞いで、心のゆとりを感じさせていたのだが、自分の孫を救い出したいという一念に執着しているのが、横で見ている右衛門にも感じ取れた。
すると、障子の向こうから声がした。
「よろしいでしょうか。」
手伝いの与平の声である。
「なんだ!」
障子越しに山岡が大きな声を出す。今まさに、これからの策を話そうとしたときに邪魔をされたことに苛立ちを感じたのである。
与平が障子を開けたとたん、朝の光が部屋に差し込んで畳に日差しが反射する。
「お茶をもってまいりました。」
三つの湯飲みに茶が満たされた横に、酒の徳利が添えられている。恐らく酒好きの山岡のことを考えて、庄屋が持ってこさせたのだろう。
それを見た時、山岡の顔がほころんだ。
「この男の酒好きは、異常だ。」ふとそう思うと、右衛門が苦笑いをする。
やがて、山岡が湯飲みに酒を注ぎながら、おもむろに作戦を語り始めた。
「我ら警察隊は、近々奴らの村に一斉に踏み込むつもりです。あの村の住人は、大半が盗賊の仲間ですからな・・。それだけに、おとなしく捕まるはずがない。我らの方も大久保さんの権限で、百十数人程の警察官をこの近隣に集結させる手はずです。(右衛門の方見る)あの村には、集団を組んで村人を仕切る、他国から来た数人の侍と忍び、それにその手下がいるんですが・・。いずれも腕が立つのです。あいつらがいる限り、我ら警察官だけで村の盗賊を捕縛できるとは到底考えられない。それどころか、奴らが村人をまとめれば、かえって我らの命が危なくなる。なにせ、あの村には、女、子供を除いて百人以上の戦える村人がいますからな。」
山岡がそう言うのを聞いて、柴田が笑い始める。
「それは無理だ。手練れの集団を二倍にも満たない警察官で捕縛できるはずがない。」
柴田は、山岡の策に失望を感じた。
「しかし、それ以上の増員は無理なんです。この山深い村里に軍隊並みの警察官を移動させれば、奴らは必ず察知するはずです。それに、もしも軍隊を出動してまでして、主だった盗賊を取り逃がしたとなれば、大久保さんの面子にも関わってくる。もちろん、こんな片田舎に軍を出すほど、政府には余裕もないですが・・。」
右衛門は彼の話を聞きながら、山岡が他にも策を持っているように思った。
「それでも山岡さんがこの作戦を強行しようとするのだ。何か他に策があるのでしょう。」
二人の話をじっと聞いていた右衛門が、おもむろにそう言った。その言葉を待っていたかのように、山岡が右衛門の顔を見てにやりと笑った。
「そこで、あなたの剣に頼りたいのです。私も、他の腕におぼえのある侍なら、こんなことを頼まないのだが・・。(右衛門の顔をまっすぐ見て)あなたは、あの薬士先生や大川さんに剣で勝った侍だ。あなたの剣の腕があれば、うまくいくかもしれない。(息が荒くなる。)、右衛門殿が、村を統率する首領達とその手下を斬ったら、村の他の連中の統制は取れなくなる・・。そうなれば、我らの計画は成功する可能性が出てくると思うのです。ただ、あなたが失敗すれば、我らの介入できる余地はない。どうです、柴田先生のためにやっていただけないでしょうか。」
ふと見ると、山岡は与平が持ってきた徳利の酒を空けていた。この男は酒が入ると、普段より饒舌になるようである。山岡が話し終わると、横にいた柴田先生が祈るような目をして右衛門をじっと見ている。二人に追い詰められた右衛門には、逃げ道が絶たれていたのである。
彼は、あきらめたようにため息をついた。
「それで、我々が村に忍び込む手だては考えているのでしょうな。」
右衛門がそう言うと、柴田先生が感謝を込めて、右衛門の手をきつく握ってきた。
「右衛門・・。」
右衛門が計画に乗ってきたことで、先生の言葉には気迫がこもっている。
「あの村には医者がいない。そこで、村の近くの医者を月に一回村に招き入れては、病人の治療をさせているのです。その医者の代役として二人が村に入れると思うのですが・・。まずは、その医者を説得するしかないと思うのです。」
そう言って、山岡が手を顎にやってさすり始めた。
「その医者を味方にしていないのか。」
右衛門が、困った顔をしている山岡の様子を見て、あきれたようにそう言った。
もし、その医者が加担してくれなければ、この策は振出しに戻るのである。
「これから何とか説得しようかと・・。その医者とて、政府の権威に逆らうことはない思うのですが。」
今まで豪胆に見えた山岡の態度が、急に弱弱しく見え始める。
「その医者、どういう素性の男なのですか。蘭方医がそんな山里にいるとは思えんが。」
柴田の表情が曇り始める。
「いや、長崎で西洋治療を学んだ男だと言うことで、近隣の村からも患者が絶えないようです。確か、名は白鳥栄次郎とか・・。」
山岡の言葉の最後に、名を聞いた右衛門と柴田が思わず目を見合わせた。
「先生、確か白鳥栄次郎と言う方は・・。」
右衛門は、以前先生の昔話で聞いた時、その名を覚えていた。
「栄次郎の奴、こんなところにおったのか・・。」
柴田が懐かしそうに呟いた。
「知り合いなのですか。」
山岡の自信のない表情が一変した。
「奴は、昔、正雪先生のところで医学を学んだ同門の友人だ。もっとも、その前はわしを仇討の敵と狙っていた同郷の男だがな。」
柴田はそう言うと、彼との奇遇な関わりに驚きながらも、大きな声で笑い始めた。傍らでは、右衛門が先生と旧友の因縁を考えて、思わず笑みをこぼしている。山岡は、柴田の言葉の意味が分からず、ただぼうっと二人を見ていた。
(仕込み刀)
「おやじ、どうだ仕上がったか?」
右衛門が訪ねたのは、仕込み刀を作らせては右に出るものがいないと噂された職人の仕事場だった。
「なにせ、旦那の持ち掛けた仕事料は半端じゃないからな。わしは、旦那がわしの仕事を気に入ってくれたら、これを限りに仕事から足を洗おうと思ってるんだ。」
おやじはそう言うと、笑顔を見せた。右衛門は、彼のやる仕事に三百両という大金を提示したのだ。条件は二つ、誰にも見破られない仕込み刀であること。そして、自分に最適な重さと形状であることだった。仕込む刀に名はなかったが、右衛門が一目でほれ込んだ一振りだった。
「これですがね・・。」
職人が差し出した仕込みは天秤棒に偽装され、荷物を肩に担いでずれないように白刃を抜く境目辺りに、微かに真鍮の留め金が巻かれていた。
「ほう・・。」
右衛門はそう言ったなり、彼からその棒を受け取ると、刀が飛び出さないか何度も左右上下に振りながら、同時に持った感覚と重さを確認している。
「形状と重みに問題はない。後は、誰にも仕込みと見破られない精密さだが・・。」
右衛門はそう言うと、宇平(職人)の顔を見てにやりと笑った。どうやら、彼は宇平の仕事に満足している様だった。
「あっしの心血注いだ一刀でさあ。見破られはずがないと信じてますがね・・。旦那、抜いてみますか。」
宇平は、右衛門が刀を抜く瞬間をうずうずした気持ちで待っていたのである。
「うん。」
右衛門はそう言ったなり、まだ仕込みの感触を確かめている。
その仕草にじれた宇平が、右衛門の前に、手に持っていた数枚の小さな紙片を空中に放った。
紙片が空中に舞った瞬間、右衛門が軽く力を入れると、手に持った刀の仕込みがさっと抜かれ、宇平が気づいたときには再び鞘に収まっていたのである。
「カチッ。」
宇平の耳に鞘に収まる白刃の音が微かに響く。宇平が地面に目をやると、彼が宙に舞わせた三辺の小さな紙切れが、真っ二つに斬られて六辺の小さな紙切れになって地面に敷き詰められていたのである。
「旦那・・。まさか投げた紙切れが全部切られるとは・・。」
宇平はそう言ったなり、口をぽかんと開けたまま、右衛門の顔をじっと見つめている。
宇平は、仕込みを頼んだ客の侍に何度か同じように紙切れを空に舞わせて、剣の腕前を試したことがあった。しかし、空中に舞った紙片を一枚切った侍は、何度か見たことがあったが、すべて綺麗に真っ二つに切った客は見たことがなかったのである。
「おやじ、気に入ったぞ。」
右衛門はそう言うと、板間においていた三百両の入った包みを宇平の前に差し出した。
「旦那の名はなんていうんだい。」
宇平はその包みを受け取りながら、どうしても目の前にいる男の正体が知りたくなった。
「名は言えぬ・・。」
右衛門が名乗るのを渋った。
「それじゃあ、この仕込みは売れねえ。」
宇平はそう言うと、包みを押し返そうとする。宇平の反応に、右衛門は戸惑った。
そして、口ごもるように、
「佐藤右衛門だ。」
そう名乗って、宇平に包みを押し返した。
「そうかい。あんたが、あの右衛門かい・・。(にこりと笑って)わしは、最後の仕事で日本一の剣豪の仕込みを作らせてもらったってわけだ・・。」
宇平の目に薄っすらと涙がにじんでいる。
「おやじ、このことは他言無用だからな。」
右衛門が、宇平を睨みつけながらそう言った。
「心得ていまさ。この仕事で何年飯を食っていると思ってられるので・・。仕込みの持ち主が分かれば、仕込みの意味がない。」
宇平はそう言うと、右衛門の顔を見て無邪気な顔になり声を出して笑った。
そして、宇平は金の入った包みを自分の前に置いた。すると、ズシンと小判の音がした。
「だんな、天秤棒の仕込みが担ぐ荷物箱も作っておいたんだ。持って行ってくんないか。
箱の支柱にも仕込み刀の細工をしてるからな。命が危なくなったら、使ってくんな。大金に見合うだけの仕事をしなくてはな・・。」
宇平は、自分の仕事が右衛門の持ち物になることに、心底満足していた。
「すまんな。」
右衛門はそう言うと、荷物箱を天秤棒にひっかけて肩に担ぐと、宇平の仕事場を後にした。
(蘭学医白鳥栄次郎)
山岡、右衛門、柴田先生が、白鳥栄次郎の屋敷を訪ねた。
「清五郎さんか。」
栄次郎は柴田の顔を見て、笑顔で大声を出した。
「ようわかったな。このとうり老いぼれたわ。」
柴田と栄次郎の再会は、たちまち長崎の正雪先生の療養所で過ごした過去に連れ戻したようだった。
栄次郎の屋敷は閑静なたたずまいで、一目で彼の暮らしぶりの豊かさが推察された。
母屋を中心に離れ屋が周りに軒を連ね、建物の間を手入れのいき届いた庭が訪れる人々の安らぎを与えてくれる。
「おぬし、余程の財をなしたようだな。」
柴田先生は栄次郎に案内されて、母屋の客間に導かれる途中、何度もあたりを見回しながら思わずそう言った。白鳥は笑顔で応じて、否定もしなかった。
「わしを仇とつけ狙っていた栄次郎が、これだけの栄華を誇るとは・・。人の一生というものは分からぬものだ。」柴田の心にふとそんな思いが去来した。
右衛門と山岡は、余り屋敷の立派さには興味がないようで、前を進む二人の後に淡々と従っている。
天狗党の村に入り込むために、柴田は自分の事情を話し、白鳥の助力を求めた。さすがに身の危険を感じた栄次郎は、最初は承諾を渋っていたが、旧友への同情と警察の依頼となれば断ることもできず、しぶしぶ受け入れることになったのである。
「天狗党の村には定期的に病人の診察に行っているので、わしの文を持参すれば、わしの代わりに清五郎さんが村に行ったとしても理屈は通る。ただ、奴らは用心深いでな。
命の保証はできんですよ。」
そう言いながら、栄次郎が柴田の様子をうかがった。
「もとよりその覚悟だ。」
そう言って、清五郎がためらうことなく頷いた。
「そこまで言うなら・・。ところで、失礼だが、清五郎さんも年を取った。万が一企みが発覚したら、身を守るだけの護衛は考えておられるのか。」
栄次郎がそう言いながら、さっきからじっと黙って二人の話を聞いている右衛門の方を見た。その視線を感じた右衛門が、栄次郎の方に向いて頭を下げた。
「おぬし、(腕を左右に動かし、刀を振る真似をして。)こっちの方には自信がおありかな。」
栄次郎には、右衛門が頼りなかったのだろう。
すると、西岡が自分のことのように得意げな顔をして、
「どうです、右衛門殿。あなたの前をうるさく飛び回っているハエを斬ってはくれませんか。」
右衛門の目の前を立派な座敷に不似合いな蠅が飛んでいる。西岡は、さっきからその蠅が気になっていたのだ。
「右衛門なら斬れるのだろうか・・。」西岡の想像力は、彼が蠅を真っ二つに座敷に斬り落とすイメージで一杯になっていた。西岡にしても、最強の剣豪の実力を自分の目で確かめたかったのである。
「見世物ではないぞ。」
右衛門が不快な表情を浮かべて、西岡の依頼を拒絶した。
「右衛門。頼む!」
その時、清五郎の哀願とも聞こえる声が聞こえてきた。
柴田先生の栄次郎を説得したいという願いが、右衛門へのすがるような気持となって、思わず声となって口をついたのである。
右衛門が清五郎の言葉にあきらめたように薄笑いを浮かべたかと思うと、次の瞬間、右衛門の刀が一瞬その場で光った。部屋にかすかな揺らぎが生じ、空気の動きがざわついた。次の瞬間、山岡がふと畳に目をやると、さっきまで飛んでいた蠅の羽根が胴体から離れ、虫は畳の上でのた打ち回っていたが、やがて動きを止めた。
「うわー!」
驚いた西岡が、いきなり立ち上がり、じっと死んだ蠅を見つめている。
「おぬし、あの剣豪の右衛門か・・。」
栄次郎もまた、そう言ったなりじっと右衛門見つめている。
ただ、清五郎だけは誇らしげな顔になり、にこにこしながら栄次郎の顔を見入っていた。
程なく、白鳥の妻が柴田ら三人に挨拶するために座敷に入ってきた。
「夫は、柴田様とは長崎の療養所で一緒に医学を学んだとか・・。主人は、過去の事は話したがらず、私は余り若いころの話を聞いたことがありません。ただ、正雪先生と柴田様、それに、西様のことは何度か聞いたことがありますの。正雪先生の弟子の中では二人が群を抜いて優秀で、生活においては柴田様は自由奔放、西様は品行方正だとか。」
よくしゃべる内儀であるが、気取ったところもなく気さくで、栄次郎とはお似合いな印象であった。
「御内儀は、天狗党の村のことはご存じですか。」
意外にも、紗枝(白鳥の妻)に最初に話しかけたのは右衛門であった。
紗枝は、自分が話してもいいかを確かめるために、栄次郎の方に視線を向けた。彼が答えるように軽く頷く。
「夫があの村の病人を診ているので、何人かの村の重病人はこの屋敷の診療所に来て、何日も泊っていきますの。もっとも、村の重鎮格の家族以外は無理かもしれませんが・・。」
紗枝は、右衛門の質問にできるだけ正直に答えようとしている。
「駒と言う女のことは知りませんか。」
紗枝の話に清五郎がすかさず質問を重ねた。
「清五郎さんから事情を聴いて、わしが話そうと思っていたのだが、家内が話しているついでだ。紗枝、駒さんのことと娘の鈴のことを柴田先生に教えてやってくれんか。」
栄次郎がいきなり紗枝にそう促した。どうやら駒親子には、何か特別な事情があるようだった。
「はい。」
そう言ったなり、紗枝が不思議そうな顔をして、柴田の方を見ている。
「仔細は長くなるが、柴田先生は、昔、駒さん母の玉枝さんと一緒に暮らしていたのだ。二人の間にできた子供が、駒さんらしい。」
栄次郎から話を聞いた紗枝は驚いたようで、一瞬言葉を失った。
「事情を話してくれないか。」
清五郎の真に迫った口調に、紗枝は改めて座りなおした。
「それじでは、鈴ちゃんは柴田様のお孫様で・・。」
今度は、紗枝が柴田に確認した。柴田が黙って頷く。
「そうでしたか。(思い直したように)あれは、鈴ちゃんが七歳の時でしたか。高熱の病にかかりましてね。お駒さんが夜中にこの家にいきなり鈴ちゃんを抱えてやってきまして・・。夫が夜中に手当を施したのですが、その間、鈴ちゃんは火がついたようにずっと泣き叫んでいました。あの時の記憶は、私の耳にも今でも残っています。可愛い女の子でね。次の日から一週間程、この家に療養のため居ましたの。その間、お駒さんがずっと看病してました。幸い、一命は取り留めたのですが・・。」
そこまで話して、紗枝は話を続けるのをためらった。そして、再び夫の顔を見た。
「その子は、失明しましてな。できる限りのことはやったのだが・・。」
栄次郎が、紗枝の話を受け継いだ。そう言われた瞬間、清五郎が腕を組んで、目を閉じて黙ってしまった。
話の途中に、手伝いが酒と料理の膳を座敷の客の前に置いていった。その配膳を見ていた西岡の顔に笑みがこぼれていたが、柴田の沈黙と右衛門が眉間にしわを寄せて沈痛な面持ちになったのを見ると、二人に合わせたように静かにうつ向いて、何か言うのを控えてしまった。
「その病、治らんのか・・。」
長い沈黙の後、清五郎がぽつりと言った。
「私の力でわな・・。これも何かの引き合わせかもしれん。清五郎さん、お鈴の目の病を見てやってくれんか。おぬしなら、ひょっとして・・。」
白鳥はそう言うと、改めて、柴田の顔を見た。柴田の目から幾筋もの涙の線が頬を伝っている。
「先生は、この一件以来、随分涙もろくなったものだ・・。」右衛門は、柴田の涙を見ながら、柴田先生の今の心境を推し量っていた。
(天狗党のある村)
右衛門は、西岡が柴田先生と自分が天狗党の村に入る前に話したことを思い出していた。
「天狗党の村には、袁基、犬丸という二人の元幕府お庭番、それに佐々木志明、相川正三という侍が、鎌田久兵衛の留守の間、首領として村を仕切っております。中でも相川は旧幕府旗本で、彰義隊の生き残りです。剣の腕は千葉道場で師範代を務めた達人で、あなたとの死闘なら喜んで受けて立つでしょう。(右衛門の顔を見てにやりと笑い)それにもう一人の侍、柴田先生は佐々木と言う名に聞き覚えがあるのでは・・。」
西岡の言葉に、清五郎の体がピクリと動いた。
「佐々木半兵衛の縁者か・・。」
佐々木半兵衛とは、柴田が家老を斬った時の、護衛として彼と死闘を演じた侍である。
「孫です。」
「そうか、偶然とはいえ、天狗党は会津藩とそこまで縁があったのか・・。」
柴田は、西岡の調べ上げた情報に驚き、自分が関わった過去に起こった因果に、改めてこの計画の必然性を感ぜざるを得なかった。
「要するに、幕府滅亡で行き場を失った連中は、自分の武力を頼って、行き着く先が天狗党のような闇の集団なのです。だから、大久保さんとしても放っておく訳にはいかない。もちろん我ら警察もですが・・。」
西岡の正義の信念は、新政府の立場で判断していた。
「新政府への不満が、旧幕府の連中だけなら、おぬしのような警察にとって分かりやすいが・・。これからは、士族の階級自体が敵に回るかもしれんぞ。」
西岡の言葉を聞きながら、右衛門が彼の考えを見透かしたように皮肉を言った。
そう言われた西岡は、半分自分の士族としての立場に置き換えて、今頼っている新政府と言う組織に一抹の不安を感じた。
「大久保さんの言ったとおりだ。右衛門殿は先を読む力があると言っていたが・・。何とも耳の痛い話をする。」
西岡はそう言うと、手で頭をなでながら苦笑いをした。
「右衛門!いらぬ推察を披露せんでくれ。今は、この計画だけに集中してくれんか。」
柴田が右衛門に注文を付けた。彼にとって、世の中の先の見通しなどどうでもよかったのである。自分に残された血縁を天狗党から解放したい。その一念であった。
「この計画は、わしの人生のけじめなんだ。」柴田は、いつの間にかそう固く信じるようになっていた。
(柴田、右衛門が村に入る)
柴田と右衛門は、村の館で相川と佐々木と対座していた。
「洪庵(柴田の偽名)先生は、長崎で白鳥先生と西洋医術を学んだ同門の仲間だと書かれておられますが・・。どちらのご出身ですか。」
片手に白鳥の手紙を持った相川が、柴田の顔をじっと見ながらそう尋ねた。
「生まれは庄内です。長崎に行く途中、白鳥君に会いに立ち寄ったところ、彼は緊急の用ができて、あなた方の村を回診できなくなったので、代わりに村人の患者を診療してくれないかと頼まれましてな・・。医学に携わる者として無下に断ることもできず、弟子の沢村(右衛門の偽名)を伴って、やって来たというわけです。」
清五郎は、白鳥と打ち合わせたとおりの説明を佐々木と相川に語った。
「それはどうも。」
相川はそう言うと、軽く頭を下げた。盗賊の親玉とは思えぬ育ちの良さがうかがわれ、一見真面目そうな侍である。
「お二人は、刀を差されているようだが。侍ですか。」
佐々木の横で、疑い深い目で二人をじっと見ていた佐々木が初めて口を開いた。
「どういう因果か、医者になっても侍である誇りは捨てられなくてな。なあ、沢村・・。」
柴田はそう言うと、右衛門の方を見て、わざとらしく大きな声で笑った。さっきから、俯きがちにじっと黙って、三人の話を聞いていた右衛門が、初めてまっすぐ顔を上げて、無邪気な笑顔を見せた。
「沢村殿。失礼だが、おぬしの腰の刀お見せ願えんか。」
相川はそう言うと、右衛門の顔をじっと睨んだ。
右衛門が素直に太刀を腰から抜いて、相川に差し出す。右衛門はこのことを予想していたのか、西岡の太刀を借りていたのである。
じっと白刃を見つめる相川の顔から、ひとまず安心したような笑みがこぼれた。
「なかなかの差し物ですな。」
相川がそう言いながら、白刃を鞘に納めて、右衛門の前に差し出した。
「嘘を言え・・。」右衛門は心の中でそう思いながら、真剣な顔をして刀を腰に収めた。
「これからのことは、龍と言う男に案内させます。奴は程なく来ると思いますので、しばしこの部屋でお待ちください。」
相川はそう言うと、佐々木と共にさっさと立ち去った。どうやら、彼らは余り二人の医者には興味がないように見えた。
相川は、右衛門と同年代の中年にさしかかった元幕府直参の侍である。時代の変動がもう少し遅ければ、盗賊集団に加担する必要もなかったのかもしれないが、今ではそんなことを言っていられる立場ではなかった。それでも彼は侍としての誇りを捨てきれず、この地に来て以来、剣の鍛錬を欠かしたことがなかった。妻は、相川が彰義隊に加わるのを機に離縁し、妻の実家に帰ったまま音信不通になっている。一方、佐々木はまだ青年である。会津藩滅亡となった時に、たまたま天狗党に加わることを鎌田久兵衛(天狗党頭首)に誘われた。彼の誘いは、他に生きる道を見いだせない佐々木志明にとっては渡りに船であったのだ。
「どうでしたか。白鳥先生の代わりにやって来た医者は・・。」
相川が障子を開けると、袁基と犬丸が昼間から酒を飲んでいたのだろう、少し顔を赤らめて相川に聞いてきた。
「うん・・。」
柴田たちの前では無関心を装うっていた相川だが、この部屋に来る途中ずっと彼らのことが気にかかっていた。
相川と佐々木が畳の上に胡坐をかく。すかさず、袁基が相川と佐々木に湯呑を渡すと、酒の徳利を器に傾けた。
「あの沢村という男・・。」
酒をあおった佐々木が、思わずそう言った。
「お前も何か感じたか。」
相川が佐々木に同感した。
「ほう、その男に何か不審でもありましたか。」
犬丸が、二人の怪訝げな表情を見ながらそう聞いた。
「いや、いつも柔和な表情だし、別に警戒をしなくてはいけない男ではない。ただ、奴には、脅しが通用しない気がするのだが・・。(にやりと笑い)わしもだんだん悪党になってきている気がする。」
相川の言葉に、佐々木が笑いをこらえた。袁基と犬丸は、相川の言葉に耳を傾けた自分たちに後悔した。二人は、もうそれ以上相川と言葉を交わすのがいやになり、畳にごろりと横になると、腕枕をして目をつむってしまった。
(春と駒)
「春姉さんはいいよね。誰にも縛られず自由に生きられるんだから。」
駒が三味線を弾きながら窓の外を眺めている春に声をかけた。
春が鎌田久兵衛(天狗党首領、座長)に潜り込んで一か月になる。
春はいつも駒と相部屋である。旅は青森から始まって南下を続け江戸にさしかかっていた。
この一座、行く先々で盗みを働き、今では数千両が天狗党の謎の本部に送られていた。春は彼らの動向をじっと観察しているが、未だに組織の概要がつかめない。旅の行程が進むにつれて、何人もの団員が入れ替わり、一回も芝居が行われたことはない。ただ、駒と座長だけは常に入れ替わることはなかった。駒はめぼしい盗みの標的が見つかると、その関係者に近づいた。もちろん、相手の富豪たちも見知らぬ女が近づくのを警戒しないわけがない。しかし、久兵衛たちの標的に対するリサーチは入念で、彼らに近づいては相手の弱点をついてくるのである。彼らが目星をつけた大金持ちは、色仕掛けにはもろいところがあった。駒のような、とびっきりの美女が近づけば、案外簡単に落とせたのである。久兵衛にとっては、駒はお宝を生み出す金の卵である。そんな一座に、偶然近づいてきたのが春であった。久兵衛にとって、二つ目の金の卵が転がり込んできたようなチャンスであった。ただ、春は駒とは違って、久兵衛の意のままに動かせるような弱点を握っていたわけではない。今のところは、彼女の自由意志で自分の一座に同行させて、様子を見ながら一味に引き込むのが久兵衛の企みであった。
「お駒ちゃんも自由に生きればいいじゃない。」
春は、三味線をやめることなく、ぼそりといった。
「私は、生まれた時からこの暮らししか知らないの。座長は私の親代わり。私の亭主だって、同じ村で育った幼馴染・・。でもね、こうやって旅を続けていると、いろんな人と出会うでしょ。姉さんのような人を見ていると、時々自分が分からなくなるの。こんなことやっていていいのかって・・。」
下の通りを小間物売りの行商が、大きな声を張り上げて通っていく。
「今に救い出してあげるから。」
春はそう言って、初めて駒の顔をまともに見た。駒は、春が言った言葉の意味が分からずぽかんとした顔で春を見返した。
すると、
「いるかい。」
久兵衛の声がして、障子の戸が開いた。彼は二人が座っているのを見ると、笑顔を見せて座敷に入ってきて胡坐をかいた。久兵衛は、ここ二三日機嫌がいい。駒の手引きで盗みに入った大店の蔵には、配下の調べた額以上のお宝がねむっていたのである。春は盗みに加担はしなかったが、座の団員たちや久兵衛の態度から、盗みがうまくいったと感じ取っていた。
「少しは涼しくなってきたが、どうだい春さん、わしらとの旅は気に入ってくれたかい。
春さんの三味線のおかげで、どの座敷に呼ばれても客が喜んでね。約束よりは、いい報酬が渡せそうだ。これからもよろしく頼みますよ。」
久兵衛はそう言うと、満面の笑顔を春に見せた。彼らの表向きの家業は芝居だが、各地の遊楽地を訪ねては、宴会を盛り上げる芸を披露することが多かった。
「おかげさまで、一人で花街を流して稼ぐよりずっと実入りがいいみたい。座長さんが誘って下すって、ほんと助かりました。」
春はそう言うと、座長に頭を下げた。
「いやいや、そう言ってくれれば、春さんを誘った甲斐があるというもの。(笑顔を崩さず、うんうんと頷きながら)ところで、昨日の宴会のお客で栄屋さんの主人という方が、酒宴の後で、少し話をする機会がありましてね・・。」
栄屋と言えば、この地の着物の反物を扱う大店であった。
「何か面白い話でも・・。」
春が笑顔で応じた。
「ご主人がおっしゃるには、昔、春さんを見たことがあるって・・。(笑顔が消えて、少し真剣な顔になる)春さんは、酒田の朱明楼という遊郭の女主人だったのでは・・。」
春の顔から笑顔が消えて、背中に冷たい水を浴びせられたような感覚が走った。
「栄屋さんのご主人、他に私のこと何か言ってましたか。」
心臓の高鳴りを抑えながら、春が久兵衛に聞いてみる。
「いや、それだけだった。(また笑顔を見せて)やはり、本当だったのか・・。春さんを初めて見た時から、ただの芸人ではないと睨んでいたが・・。やはり、大した人だ。」
久兵衛は、そう言って春を持ち上げた。春は、内心ほっとした。
「ところで、春さん。栄屋のご主人ともう一度会ってはくれませんか。いえね、ご主人がどうしても春さんともう一度話をしたいというもんだから・・。」
久兵衛はそう言うと、上目遣いに春の顔を見た。
「でも、どうして・・。」
春がとぼける。
「野暮なことお言いなさんな。春さんもわしらと旅を続けて一月になるんだ・・。駒を見て、わしらが何をやっている集団か分かってきてるはずだ。(間を置いた後、にやりと笑い)こんなことを言うのも、あんたが世の中の裏も表も知っている遊郭の女主人までやっていたお人と聞いたから打ち明けるんだが・・。」
久兵衛はそこまで言うと、春の出方をうかがった。
「その栄屋の主人とねんごろになって、何をしろと・・。」
春は、まるで他人事のように久兵衛にそう聞いた。
さっきから、駒はうつ向いたまま、二人の話をじっと聞いている。
「春さんは、平気で体を売るのかしら・・。」駒の頭にふとそんな思いが去来した。しかし、彼女は決して口は挟まない。
久兵衛が手を膝に当てて、体を前に乗り出した。
「栄屋の主人があんたに夢中になれば、必ず蔵のお宝の話になる。金のある男というものは、惚れた女に自慢したいものなんだよ、自分の力をね・・。奴にとってはそれが金なんだ。なあ、駒。」
久兵衛はそう言うと、駒の方を見た。駒が顔を上げると、笑みを浮かべて頷いた。
「それで鍵の印証でも取れと・・。」
春がそこまで言っので、久兵衛にとって話は早かった。
「百両でどうだい。」
久兵衛の顔が、興奮したせいで心なし赤らんでいた。
(ぬいと春)
構えは立派だが、この宿は男女が逢瀬を楽しむ逢引き茶屋に変わりはない。
その宿の一室に栄屋の主人と春がいた。
「朱明楼で春さんを見かけて数年が経ちましたが、春さんは少しも変わらないね。相変わらずお綺麗だ。」
栄屋の主人は、さっきからどこかそわそわして落ち着かないのか、しきりに扇子で自分の顔を扇いでいる。春は、そんな店主を気にとめるでもなく、手酌で酒を飲んでいた。
彼女は、栄屋の主人のことは記憶があった。やたらと羽振りの良さ見せびらかすかのように、春の店の女の子に金をばらまいていた。彼の陽気な甲高い声は、いかにも遊郭で遊びなれている旦那衆という印象だった。
「栄屋さんは、座長の久兵衛さんのことはよくごぞんじで・・。」
初めて、春がまともに店主の顔を見る。
「いや、初対面だ。しかし、なかなか愛想のいいお人でね。いっぺんに気が合ったよ。」
やっと自分の方に注目してくれた嬉しさで、店主の顔が一層緩んでくる。
「そうですか・・。でもね、あまり見知らぬ人に、素性も確かめないで親密になるのも考えものですよ。いらぬおせっかいかもしれないですけど。」
春は、意味深な言葉を言うと、彼の顔を見てにやりと笑った。
「といいますと・・。」
店主は、春の言う言葉をはかりかねたかように問いただした。
「栄屋さん、天狗党という盗賊集団を知ってるでしょ。」
春は天狗党の名を出したが、それ以上の説明はせずに、ただ不気味な笑顔を見せて店主の想像力に委ねたのだった。案の定、栄屋の主人を仰天させるには、春の言葉で十分だった。店主の顔がみるみる歪みはじめ、顔色が真っ青になっていく。
「春さん。私はどうすればいいのかね。」
店主の声は恐怖でかすれ、春にすがるようにそう言いだした。しかし、春は店主の言葉に答えることもなく、しばらく黙っいたが、やがて言葉を無視するかのように、持ってきた三味線を爪弾き始めたのだった。
「春さん、よろしいですか。」
部屋の外から、声をかける男がいた。普通、こんな場所で声をかける事は余りない。
「はい。」
春が、その声に即答する。
ふすまが開くと、そこには地味な着物を来た若い女性と三十代後半の男が並んで立っていた。
「この様な場所には、二人連れの男と女でなくては怪しまれるので、私の配下の者と一緒に来た次第でしてな・・。」
男は春との対面の場面を想定していたのか、まず最初に誤解を避けるようにそう説明した。
「大久保さん!」
男の顔を見た春が、驚いたようにそう叫ぶ。栄屋の主人が、狼狽しながらも、突然の侵入者の方を見て、怒りの表情を顔に浮かべた。しかし、大久保は栄屋の店主など少しも気にしていない。
「どなただね。失礼にも程がある。」
それでも、栄屋は虚勢を張った。
大久保はその声に関心も示さず、春の前に座ると、軽く頭を下げた。その行動に従うように大久保と一緒に来た若い女が大久保の横に座って、同じように春に頭を下げた。栄屋は、まるで自分が一人取り残されたかのような孤独感を味わっていた。
「なんだね、あんたらは・・。何の用でここへ来たんだい。厚かましいにもほどがある。」
栄屋は、すっかり天狗党の一件を忘れたかのように声を荒げた。
「この方は、薩摩の大久保万蔵さん。栄屋さんも名前ぐらいご存じでしょう。」
春が、栄屋を黙らせるために大久保を紹介した。
「あの大久保様で・・。これはご無礼を・・。」
栄屋はそう言ったなり手をついて平伏し、肩を震わせながら押し黙ってしまった。彼は、さっきから春に言われた一つ一つの言葉に何をどう対応すればいいのか、完全に状況の理解不能に陥ってしまったのである。
「でも、どうやってここに私がいるとわかったのですか。」
春が不思議そうに、大久保に尋ねた。
「このぬいに、春さんや天狗党の久兵衛の動向を探らせていまして・・。」
大久保は、春に隠すことなく打ち明けた。
「警察庁のぬいと申します。大久保様の命で天狗党の調査に関わっております。」
大久保の言葉に乗じて、ぬいが自分の身分を打ち明けた。
大久保は、栄屋が天狗党に狙われていることをすでに把握していた。
「どうです、春さん。あなたの目的と我々の作戦は違うと思うが、私もどうしてもあの闇の集団を潰さねばならん理由ができましてな・・。あなたの計画に協力させてくれませんか。」
大久保の言いたいことを春は理解していた。彼女にとっては、天狗党をつぶすことは、余り関心がなかった。ただ、闇の集団から駒を離脱させればそれでよかったのである。
「天狗党の真の黒幕は、久兵衛のような小者ではないようですね。」
春は大久保の真意を探るように、薄笑いを浮かべながらそう尋ねた。
春は今まで天狗党という組織がつかめなかったが、大久保が自ら乗り出すのを見て、ぼんやりと彼らの集団の規模が想像していた以上だと感じ始めていた。大久保は春の言葉には直接答えず、ただ笑みをたたえている。
「栄屋襲撃の際に、我々警察は一味を捕縛するつもりです。ご協力願えますでしょうか。」
ぬいが、息せき切ったように春にそう頼んできた。どうやら、彼女はこの一件にかなりの思い入れがあるみたいだった。春が、笑みをたたえながら静かに頷く。
ぬいはほっとしたように、ふっと息を吐いた。
「栄屋、聞いての通りだ。おぬしは我々の言われたままに動けばいい。」
大久保の高飛車な命令に、栄屋は甲羅に手足をひっこめた亀のように小さくなってその場でかしこまっている。
「春さんは、右衛門殿から何か指図を受けてるのでは・・。」
今度は、大久保がそう言うと、春の様子を覗った。
春は首を横に振ると、
「大久保さんも知っての通り、右衛門は柴田先生と天狗党の村に行ったはずです。私は、柴田先生のために勝手に動いているだけ・・。」
春が正直に打ち明けたが、大久保は半信半疑で春の言葉を聞いていた。
(天狗党の実態)
話は数か月前にさかのぼる。
「大久保さん。天狗党という犯罪集団のことはご存じか。」
木場(長州のリーダー的存在。政府の重鎮)が、珍しく大久保の執務室にやって来た。大久保は、別段木場の性格や人物なりが嫌いではなかったが、やはり長州出身の重要人物だけに警戒心をもって彼と接していた。
「その集団の存在は知っとるが、それが何か・・。」
大久保は、新政府の治安安定と、右衛門との関係修復に恩を売るためもあって、天狗党への侵入に手を貸していたが、別段その集団に大きな関心を持っていたわけではなかった。
「勝沼恵三が、会津藩に代わってこの闇集団の後ろ盾になっているみたいだ。」
木場が顔をしかめてそう言った。
勝沼は、幕府崩壊の際、西田と一緒になって幕府崩壊の後始末に奔走した旧幕臣である。彼は、幕府崩壊後も旧幕府の重鎮達に頼られる人望を備え、新政府に不満を持つ士族たちの中心人物として、大久保たち新政権にとっても無視のできない男であった。
「しかし、勝沼は何のために天狗党と関わるのだろうか・・。」
大久保は独り言のようにそう言ったなり、何か考え事をするようにしばらく黙ってしまった。
「おぬし、天狗党という組織を甘く見ていないか。今やあの窃盗集団に入ろうとする士族や政府に不満を持つ分子は、世の中にあふれかえっているのだよ。奴らにしてみれば、あの集団に入れば生活に困ることはない。もしそんな武装した不満分子があの組織で膨れ上がっていけば、政府の脅威になるのは目に見えている。」
大久保は、木場の言い分に反論することができなかった。やがて、木場の厳しい忠告に抗しきれなくなった彼は、今まで隠していた右衛門との関係修復の面会を話さざる得なくなった。
「実は、わしも天狗党の壊滅に関わっていないわけではないのだ。」
大久保の組織への関わりは、右衛門たちを助けるために少し手を貸している程度だったが、天狗党の事情をすでに十分把握しているかのような様子でそう言った。
「さすが大久保さんだ。(笑顔が消えると、大久保の顔をじっと見て)取り越し苦労だったらいいのだが・・。わしの配下の知らせでは、西田さんが勝沼と何度か密かに会っているらしい。」
木場の言葉に、大久保は内心度肝を抜かれそうになったが、
「そうか。」
と言っただけで、後は机に置かれた書類を手に取ると、木場の言葉に動揺していないふりをして目を通し始めた。ただ、紙を持つ手がかすかに震えていたことで、あの豪胆な大久保がいかに動揺していたかがうかがえた。
(時は再び元に戻す。)
春に会いに来た大久保は春の協力を取り付けると、栄屋をおとりに久兵衛たちを捕縛する計画を成立させた。
春とぬいが並んで歩いている。ぬいは、片手に提灯を持ち、春の歩く先を照らしている。
ぬいは大久保の命で、春を宿まで送り届ける途中であった。
「ぬいさんは何故警察に入ったの・・。女の人としては珍しい職に就いたものね。」
春が、寡黙についてくるぬいに話しかけた。
「私は幕府が倒れる前までは、権蔵さんの配下で働いていた秋山様のお庭番だったんです。」
ぬいは、問われた質問に素直に答えた。
「あら・・。」
ぬいの返答に驚いた春はいきなり立ち止まり、ぬいの顔を見た。彼女の視線を感じたぬいが照れ笑いをする。
「頭(かしら、権蔵)は、私を佐那河内に連れて行ってくれなかったんです。」
少し俯き加減に、ぬいがそう呟いた。
「どうして?丹波や三郎は一緒にいるのに・・。今では、丹波なんか権蔵さんの孫までいるのよ。」
春には、権蔵がぬいを佐那河内に誘わなかった理由が分からなかった。
「頭は私に忍びをやめさせたかったのでしょう。普通の女になって幸せに暮らすようにしきりに言ってましたから。それに・・。」
そこまで言って、ぬいは押し黙ってしまった。
「そうだったの。」
春は、ぬいの言葉に詰まった理由を深く詮索しなかった。彼女を傷つけるような気がしたのである。
「ぬいちゃんは、亭主がいるの。」
ぬいはすでに二十歳はとっくに過ぎているようだった。ぬいは、ためらうことなく首を横に振る。
「そう。三郎も嫁を取ろうとしないのだけど・・。ぬいちゃんとならお似合いなのにね。」
何の気なしに春がそう言って笑った。そして、ふとぬいの顔を見た春は、彼女が予想もしない動揺ぶりを見せていることに驚いた。
「もしかして・・。三郎との仲のせいで、権蔵さんがぬいちゃんを佐那河内に連れて行かなかったの?以前、丹波から聞いたことがあるの。仲間同士の色恋はご法度だって・・。」
事情が分かり始めた春は、ぬいが可愛そうに思えてきてつい余計なことまでしゃべってしまった。
「私は頭を今でも尊敬してるんです。あの人は、孤児の私を自分の子の三郎や丹波と同じように育ててくれたんです。だから、頭が決めたことは・・。」
ぬいは春の推測を否定しなかった。
「そうだったの・・。」
いつの間にか、春はぬいのことを親身に思いやっている。
元来、彼女は他人に優しく、そのせいで、こうやって柴田のために危ない役割をかって出たのかもしれない。右衛門は、春のそんなところが好きだった。
突然、ぬいの歩みが止まり、表情が険しくなった。
「春様、明かりを消しますよ。」
ぬいは提灯の灯を消すと、春に手渡した。明かりのない暗闇に、ぬいの着物を脱ぐ衣擦れの音だけが、不気味な静寂を助長する。
しばらくして、いきなり、
「うりゃー!」
ぬいは隠し持った短い刀を振りかざすと、凄まじい声を上げて前方へと突進していった。
春は動揺することなく、何も見えない暗闇に聴覚の感度を研ぎ澄ます。
前の方で、鉄の打音が激しくぶつかり、火花が何度か暗闇に点滅しては再び深い闇に戻っていく。
「ぎゃー!」
少なくとも悲鳴が二度、漆黒の暗闇に響き渡った。
「春様、提灯に灯を・・。」
ぬいは激しい息遣いの合間に、苦しそうな声を出した。火打ち石の小さな火花が何度か辺りを明るくしたかと思うと、やがて提灯に灯がともる。
「ぬいちゃん・・。」
春は、ぬいの方に提灯の灯りをかざした瞬間、そう叫んだなり絶句した。
ぬいは、男のようにふんどしをしている以外全裸であった。
肩には血しぶきを浴びた鮮血がべったりとこびりついて真っ赤に染まり、白い乳房は、玉のような汗が何筋となくつたっている。
春は、ぬいの体の凄惨な返り血に驚くとともに、彼女のアスリートのような均整の取れた体に思わず息をのんだ。
「もし、死闘の最中、光がぬいの肉体をさらけ出していたなら、戦った相手は欲情を感じないのかしら・・。」春はぬいの体を見ながら、不思議な思いに捕らわれた。女の春にとっても、全裸に近いぬいの体は、それほど肉感的で官能的だったのである。
「命を狙われれば、女も男も関係ないですから・・。死体は屯所に帰って配下の者にかたずけさせます。」
ぬいの言葉は毅然としていて、凛々しかった。
「でも、誰が私を狙ったのかしら・・。」
春は、修羅場にいても動揺するような女でなかった。冷静に現状を判断しているのである。
「恐らく春様を狙った刺客ではないです。」
ぬいは、半ば断言するようにそう言った。
「それじゃあ、あなたを狙ったの・・。」
春が半信半疑で尋ねた。
「大久保さんを守る護衛は、命がけなんです。あの方はますます敵が多くなる。同じように大久保さんを狙う暗殺者は、警護する私たちさえ見境なく狙ってくるんです。あの方は、新政府に恨みを持つ大勢の人間と戦っているみたいです。」
ぬいはそう言うと、さみしそうな笑顔を見せた。
「ぬいちゃんにしたら、たまったもんじゃないわね。最も、私の亭主の右衛門もぬいちゃんと同じように、名前も知らない侍からしょっちゅう挑まれるのだけどね。やってられないって、よく言ってるわよ。」
春はそう言って、大きな声を出して笑った。春にとってみれば、夫の刺客も笑い話のように茶化して話せるのである。
「へえ、右衛門様か・・。よく三郎が話してました。日本一の剣豪だって・・。」
ぬいはそう言うと、無意識に夜空を見上げた。
「そんなものなってほしくないけどね。」
春はそう言いながら、ぬいの着物をそっと彼女の肩にかけて、右衛門の安否を心配するかのように深いため息をついた。
(天狗党の村)
天狗党の村に侵入した右衛門と清五郎は、龍(駒の夫)に案内されて病人の集まる家へと立ち寄った。この龍という男、口数が少なく、清五郎が何度か話しかけても「へい」と小さな声で言ったきりまともに答えようともしない。
「お前、女房はいるのか。」
患者の家へ向かう途中、清五郎が龍に声をかけた。
「へい。」
龍がそう声を出すと、軽く頭を下げて二人の前を大股で歩いて行く。
「子供はどうなのだ。」
しばらくして、また清五郎が声をかける。
「へい。」
龍がまた同じように返答する。こんな具合であった。
「お前、後ろに刀を差して逆手で刀を抜くのか。」
右衛門がそう尋ねても、軽く頭を下げて頷いて、薄笑いを浮かべるだけだった。
龍はそれほど長くない刀を腹に巻いた帯の後ろに差していた。右衛門にとって、このような刀の差し方をする男を見るのは初めてだった。余程子供のころからこのスタイルに慣れているようで、一見不合理に見える差し方だが、逆手斬りを得意とするなら、理にかなっているのかもしれない・・と、さっきから興味を持って見ていたのである。
「無口だが、悪い男には見えない。」清五郎は、まだ見ぬ孫の駒の亭主に悪い印象は持たなかった。
彼らが最後に訪れた、比較的大きな家に集まった連中は十人を超えていた。皆、栄養不足からくる貧血や鳥目の類が多く、どの村にでも見られる患者の症状が多かった。柴田は、そんな村人を一人一人丁寧に診察して回った。この村に来た目的が患者の救済でないにしても、医者の習性かもしれない。病気に苦しむ人間を放っておけないのである。ただ、その家の奥で横たわる初老の男は、見るからに憔悴していた。他の患者が清五郎に冗談を言ったり、体の心配事を打ち明けたりしている最中も、その男だけは部屋の片隅でずっと横たわっていた。
右衛門と柴田が、一通り患者に手当を施した後、右衛門が男に話しかけた。
「お前がこの家の主か。」
男は何も言わず目を閉じている。
「そうだ。この武吉さんはこの村の首領だったんだが、今は病にかかって久兵衛さんにその座を譲ったんだ。」
後ろで二人の診療を見ていた龍が、初めてまともに口をきいた。彼らの働きぶりを見て、二人が医者であることを確信したのか、少しだけ心を許した表れかもしれない。
「それでは、我々が始めに会った相川や佐々木とか名乗った連中は、この村の首領ではないのか。」
右衛門が笑みをたたえて、龍に聞いてみる。
「奴らはいつの間にかこの村に居座って、わしらに命令しやがる・・。これも、久兵衛さんが天狗党の幹部に言いなりになっているから、こんなざまになってるんだ。」
龍は忌々しそうな顔をして、吐き捨てるようにそう言った。
「どうやら、この村の天狗党は、古い集団と新しく出来た組織との二重構造になっているようだ。」龍の言葉を聞きながら、右衛門はそんなふうに感じ取った。
「龍!めったなことを口に出すもんではねえ!」
横たわっていた武吉が初めて口を開いて、龍を叱責する。
すると、家の出入口の引き戸が開いて、少女が杖をつきながら入ってきた。
少女は質素な身なりをしていたが、美しい容姿をしていた。色が白く、鼻筋が通り、口元は、少し笑みをたたえているようにすずやかだった。
「鈴、何処に行ってたんだ。武吉さんの世話を忘れたのか!。」
龍が少女をたしなめるようにそう言った。
「鈴」という名を聞いた清五郎の表情が、一瞬こわばった。
「鈴を責めるな。この子は目も見えないのに、一日中このおいぼれの世話をしてくれてんだ。わしは、この子を観音様のように思ってんだ。なあ、お鈴。」
武吉の口調は、この時だけはしっかりとしていた。
「お鈴ちゃんていうのか。」
清五郎は、必死で涙をこらえながらそう言って少女の顔を凝視している。
少女は声の方を向いてにこりと笑い、
「村に来てくれたお医者様ですね。」
そう言って、頭を下げた。
「先生、何で泣いてんだ。」
龍が清五郎の様子を見ながら、不思議そうにそう言った。
「先生には、亡くされたお孫さんがおられてな。ちょうど、鈴ちゃんと同じ年頃だったんだ。」
とっさに右衛門が、不審そうな顔をしている龍に言い訳をした。
右衛門と柴田は、武吉の家で寝起きすることになった。
「すまんな。まさか、お侍に体を拭いてもらうとは思ってもみなっかったよ。」
右衛門は、武吉の下の汚れをぼろ切れで拭っている。
「これも医者の務めらしい。ねえ、先生。」
右衛門はそう言って、笑顔で清五郎の方を見た。振り向いた清五郎が笑顔を返して、再び鈴の目の近くに、手に持った蝋燭をかざした。
「いつも来てくれてる先生は、鈴の目は治せるかもしれないと言っていたんですよ。」
龍が、清五郎の後ろで心配そうに鈴の様子をうかがっている。
「鈴、蝋燭の明かりが分かるか。」
清五郎の問い掛けに、鈴が笑顔で頷いた。龍が清五郎の肩越しに乗り出してくる。
「先生、どうなんです。」
沈黙にじれたように、傍で横たわる武吉が清五郎に声をかけた。
「鈴はいくつになる。」
清五郎は、武吉の問い掛けには答えず、鈴に話しかける。
「十一・・。」
鈴が彼の質問に素直に答える。
「そうか、十一か・・。可愛そうに、そんな長い間、暗闇の世界で頑張ってきたんだな。」
清五郎の声が震えている。
「でも、目の見えない人はいっぱいいるよ。この村のお米さんだって・・。」
鈴は同情されるのが嫌だった。
「鈴は偉いな。自分を悲観しないのだから・・。」
清五郎が鈴を褒めた。
「先生、大阪にいる西先生なら何とかできるのでは・・。」
そう言って、右衛門が清五郎の顔を見る。
「鈴を治せるとしたらやつしかいないだろう・・。」
清五郎は独り言のようにそう呟くと、じっと黙ったままうつ向いて、何かを考えているようだった。
「結局、無理な願いと言うことか・・。大阪など行けるはずがない。行っても、治療費が払えるわけもなし・・。」
二人の会話を聞いた龍が、あきらめたようにそう言った。
「何とかする。そのためにわしという人間が生かされてるのだから。そうだよな、玉枝・・。」清五郎の脳裏には、玉枝と過ごした若き日の彼女の姿がはっきりと思い浮かんでいた。




