右衛門13-1
「右衛門13-1」
白壁に沿って延びた小石の敷き詰められた道を、会津藩家老 白鳥兵衛が三人の護衛役の側近に囲まれて歩いている。側近の一人は、会津藩お抱え道場溝口派の師範代を務める佐々木半助であった。佐々木は会津藩随一の一刀流の使い手で、相手の攻撃を左右にさばいて攻撃に転じる変化技を得意としていた。
「佐々木様のさばきを撃破するのは、余程の居合の達人でしか無理だろう。」
日新館で剣を学ぶ門弟たちの間では、佐々木に勝る剣の相手を予想しては、まるで勝負の番付を付けるかのように、佐々木のライバルになる使い手を想定して、自分たちの会話を楽しんでいた。
「おぬしらの言いたいことは分かっておる。柴田殿ならもしや佐々木様に勝てるのではと思っておるのだろう。」
集まった門弟のうちの年長らしき男が、口を開いた。
彼の言葉を機に、今までの談笑が真剣な会話になり、次第に熱を帯びてくる。
「わしは柴田殿の居合を見たことがある。以前、あの方が賭場に出入りしていたころ、そこの若い者と喧嘩になり、奴らをさんざん打ちのめして賭場を出たらしい。すると、仕返しに追ってきたやくざ者が、柴田殿を殺そうとしたのだ。あの方はその気配に気づくと、刀を抜いてあっという間に奴らを瞬殺してしまった。わしはたまたま通りかかったときに目撃したのだが、体の震えが止まらなかった。」
どうやら柴田は、侍としては余り品行よろしくない侍らしい。
その話に聞き入っていた門弟たちは、何も語ることなく、佐々木のさばきと柴田の居合を想定しては想像をめぐらしていた。
場面は、家老たちが白壁の並ぶ屋敷に沿った道を歩いている時点にもどる。
手前の方から家老白鳥らに近づいてくる侍がいた。
佐々木の歩みが一瞬止まり、両足を地面に踏ん張った。前方から近づいてくる相手に異様な殺気を感じたのである。佐々木の緊迫した動作を察知した他の二人の侍が一歩退き、後ろをついてきていた家老の両脇を固める。
「おぬし、何ようだ!」
佐々木が、刀を抜く間合いに入った柴田に声をかける。
次の瞬間、柴田は無言のまま、佐々木めがけて抜刀した。それに応じるように、佐々木が柴田の一刀をさばこうとする。しかし、佐々木の反応より早く、柴田の刀の一閃が彼の体を通り抜けていった。一瞬、その場にいた他の人間は、何が起こったのか認識出来ないまま、佐々木の体が地面にばさりと倒れこむのを確認した。
「おのれ!」
家老の側近が、一番鳥の泣き叫ぶような声で刀を抜いて柴田に襲い掛かってくる。
ばさっ、ばさっ。・・・鈍い音が静寂の空間に響いた。
気づいたときには、側近の二人がうつ伏せに倒れ、真っ赤な鮮血が流れていた。
「ぎゃー!」
その状況に動転した家老が、背を向けて逃げ出そうとした瞬間、叫び声がぴたりと止まった。柴田に背中を袈裟に斬られた家老は、絶命してその場に崩れ落ちたのである。
(春と柴田先生)
春(右衛門の妻)と柴田先生は、妙に気が合った。春は酒田の遊郭の女主人であったし、柴田も昔はかなり悪い遊びもして、放蕩者だったせいかもしれない。
「それで、なぜ先生はご家老を暗殺したの?」
春が柴田の話を促すように、彼の盃に酒を注いだ。
右衛門が酒田から柴田と共に江戸に帰り、春に引き合わせると、二人は次の日から何の違和感もなく暮らし始めた。春は朝夕柴田の食事の支度をし、右衛門に対する扱いと変わることなく彼の面倒をやいた。柴田も春の前ではいつも上機嫌で、彼女に冗談を言っては笑いを誘った。
右衛門と柴田と春は、時折三人一緒に料亭に出かけては、主に柴田の昔話に耳を傾けるのだった。
料亭の二階の部屋に上がりこんだ三人は、いつものように酒を楽しんだ。普段、余り酒を飲まない右衛門であったが、何故か三人で無駄話をして、何の目的もなくゆっくり流れる料亭でいる時間には、人並みに酒がすすんだ。
右衛門があけ放たれた窓から向かいを見ると、飲み屋街の浮かれた雰囲気を彩るかのように、提灯があちこちに灯り、始終ざわめいて、人の笑い声や叫び声が聞こえる界隈の陽気な雰囲気が、街に不思議な熱気を帯びさせていた。どこからとなく、三味の音が聞こえてきて、人の笑い声が夜空に浮かれたように響き渡っている。
春の質問に、苦い過去を後悔するようかのに柴田の顔が少し曇った。
「あの頃、わしには賭場で背負ったかなりの借金があってな。思えば、いい加減な生活をしていたものだ・・。」
柴田はそう言うと、春が満たした盃の酒を一挙にあおった。二人から少し離れて外を見ていた右衛門が、柴田の後悔の話を聞きながらにやりと笑った。
「それがご家老の暗殺と何の関係があるのですか?」
春は興味があるらしく、柴田の昔話に熱心に耳を傾けている。
「話は長くなるのだが、わしが殺した家老の白鳥兵衛というのは、わしの義父の政敵だったのだ。ご多聞に漏れず、我が藩でも藩主の跡継ぎ問題が勃発してな・・。いずれ、私の義父の派閥か、家老一派かどちらかが倒されねば、会津の藩政は立ち行かぬところまで深刻な状態になっていたのだ。」
どの藩でも起こりうる、ありきたりな内紛だった。
「このへんの内情は、右衛門にも覚えがあるだろう。」
柴田が、じっと黙って聞いていた右衛門を巻き込むように話題を向けた。
「はあ。(またにやりと笑って)娘の婿の放蕩に愛想をつかしていた義父殿には、先生のばくちの借金を肩代わりする代わりに、婿のあなたを刺客に使えば、自分の家の問題と藩政の問題が同時に片が付く・・。そんなところですか。」
右衛門が、柴田の話から推察して、一挙に春の質問に答えを出した。
「おぬしは、剣だけでなく頭の中もようきれる。」
柴田の駄洒落に春がくすくすと笑い出した。
「おぬしの言う通り、わしは賭場の元締めから訴えられて、評定所に引っ張り出される寸前だった。そうなると、義父殿の顔は丸つぶれ・・。そこで、義父は一計を案じて、事件をもみ消す代わりに、わしを殺人者に仕立て上げて娘と離縁させ、藩から追放する。同時に、自分の天敵だった政敵を抹殺する。(ため息をつく)美味いことを考えたものだ・・。わしとて、自分の不始末が公になれば、これは免れん。」
柴田はそう言うと、自分の腹を掻っ捌く真似をした。
その動作を見ていた右衛門は、昔、自分のために切腹した与助の父の田崎文衛門のことを思い出していた。「どこでも似たようなことが起こるものだ。」右衛門は、柴田にそう言おうかと思ったが、自分の話題になるのを恐れて口をつぐんだ。
「それで、柴田様の義父の策略はうまく運びましたか?」
春が、事件の結末を教えるように促した。柴田は、黙って頷くだけだった。
「それで、御内儀とは・・。」
右衛門は、そう聞いた後、余計なことを聞いたと思って後悔した。
「わしは、家老と側近を斬った後、義父に報告してすぐに会津を出た。それっきり、妻とは二度と会うことはなかった。噂では、大判役の男と再婚したらしい。」
柴田はそう言うと、口元に薄笑いを浮かべた。
再び、かなり酔いがまわった柴田が昔の記憶をたどっている。
家老暗殺を告げに義父の屋敷を訪れた柴田は、玄関から入ることなく、裏木戸をくぐって行燈の光がほのかに光る裏庭で義父の綾部左近と面会した。
「側近も亡き者にしたのか?」
綾部の質問に、柴田はうつ向いたまま頷いた。思わず義父の顔がほころんだが、柴田には悟られないように、すぐに眉間にしわを寄せる。
綾部は懐から小判の束を出すと、黙って柴田の袖にねじ込んだ。柴田は、義父の行動に抗うことなく、その金を黙って受け取った。
「まるで、殺し屋だな・・。」柴田はふとそう思ったが、義父に金を突き返す理由も見つからなかった。彼は、義父の命令に従うしか生きる手立ては見つからなかったのである。
「文(柴田の妻)は・・。」
思わず柴田がつぶやいた。
「会えるわけなかろう。(怒ったような顔をして)心配するな。あれはわしが守ってやる。人に暗殺者の妻などとは決して言わさぬから・・。娘にはつらい思いはさせられぬからな。」
綾部は、柴田を突き放すようにそう言った。柴田には、何もかも義父の狙い通りの結果になった勝者の言葉のように聞こえた。
藩に大騒動が起こったことが発覚したころには、柴田は会津を脱藩して他藩をうろついていたのである。
「先生は、その後どうなさったのですか。」
酩酊し始めた柴田に春が聞いた。
「義父から受け取った金は、半年余りで賭博と女遊びで底をついてな。」
右衛門は、予想した通りの結果にこらえていた可笑しさがこらえきれずに、つい笑いがついて出た。
「右衛門、何がおかしい!おぬし、端でわしの苦い思い出話を聞いていながら、馬鹿にしていたんだな。」
かなり酔いがまわった柴田が、右衛門に大きな声を上げて叱責した。
「いや、そんなつもりは・・。」
右衛門が困り切った顔をして柴田の方を窺ってみると、彼はいびきをかきながら寝入っていた。
「あら、先生ったら、これからが面白くなると思ったのに・・。」
春が、柴田の寝息を聞きながら、がっかりしたように呟いた。
「先生のことだ。酒が入ればまた続きが聞けるだろう。それより、先生を背負って家に帰るのも難儀だな。」
右衛門が、柴田を背負って飲み屋街を歩いて家まで帰る自分の姿を想像して、諦めたようにそう言った。
「先生はこの座敷で寝かせればいいわ。女中さんに布団もってこさせるから。」
春が、そうするのが当たり前のように淡々と答えた。
「しかし、この店は来た客の宿屋じゃないのだからな。」
右衛門が、春の言葉に異議をはさんだ。
「いいのよ。この店は私が買った店だから・・。」
春が平然とそう答える。一瞬、間が開き、呆気にとられた右衛門がぽかんと口を開けて春を見ている。
「冗談だろ。」
それでも、右衛門は春にそう言って、春の顔を見た。
「ほんとよ。ちょうどここの主人が店を閉じると言ってたから・・。それなら私が買うと言ったら、私ならこの業界を知っているようだから、働いている人たちを続けて雇ってくれるなら売ると言ってくれて・・。とんとん拍子に話がまとまったの。」
春にとって、この取引は大した決断もせずに、ただの思い付きで決めた商談のようだった。
「金はどうしたんだ。」
右衛門は、そうは言ったものの察しはついていた。
「佐吉(大阪の両替商)さんに頼んだら、二つ返事でお金を送って来たわ。足りないならいくらでも都合はつけるからって・・。あなた、佐吉さんに百万両もの大金を預けているらしいじゃないの。」
春が問い詰めるようにそう言った。
「宗衛門殿が死ぬ前にわしに残してくれた金だ。わしの金であって、わしのものではない。つまりそんな金だ。」
春は、右衛門の訳の分からない説明を無視するかのように、
「あんたのものは、私のもの。そうでしょ。」
それっきりこの話はたち切れになり、柴田が翌朝までこの料亭で寝ることになった。おかげで、右衛門は彼を担いで帰らなくてもいいことになったのである。
(玉枝と柴田)
居酒屋で酒を飲んでいた柴田の視線が、さっきから奥の座敷で座っている女の方に向いている。女も柴田の視線に気づいたのか、柴田の顔を見てにこりと笑った。その笑みを見た柴田が慌てて視線をそらした。
「ぶるっとするほどいい女だ・・。」彼はそんなことを思いながら、湯呑の酒を勢いよくあおった。
すると、その女は柴田に興味を持ったのか、笑みをたたえながら柴田の席までやって来て、軽く会釈をした。つられるように、柴田も会釈を返す。
「私の顔に何かついてるかしら?」
女は、男をあしらうのに慣れているようだった。
「あまり美しかったのでな。つい見とれてしまった。気に障るなら謝る。」
柴田は思っていたことを正直に吐露すると、座ったまま軽く頭を下げた。
「わたし・・、素直な男、嫌いじゃないの。」
女はそう言うと、柴田の横に座ってぴたりと体を寄せてきた。普通の男なら、こんなきれいな女にいきなり近寄られただけでも、心臓の鼓動が激しく打つものだ。ましてや、自分の体にぴたりと体を寄せられて、慌てない男は稀である。
だが、柴田は動揺を見せずに女の顔をちらっと見て、口元に笑みを浮かべて、また湯呑に酒を注ぐと口に運んだ。
「あんた、相当遊び人だね。」
柴田の動揺もしない態度に女が興味を持ったのか、そう言って彼をからかった。
柴田は女の言葉に反応せずに、
「名前は何と言うんだ。」と尋ねた。
「玉枝。あんたは・・。」
「わしの名を聞いたところで、明日には忘れるだろう。」
柴田が突き放すようにそう言った。
「だったら、「あんた」と言っていいわよね。」
玉枝はそう言うと、にやりと笑った。柴田が黙って頷いた。
その時、店に入ってきた男が玉枝に声をかけた。
柴田は何故かその男を警戒し、睨みつけるような鋭い視線を男に送った。
男は柴田の威嚇するような視線をかわすように、
「お侍さん、そんなに怖い顔をしないでくださいよ。いえね、私はあなたの横に座っている女の知り合いのものでしてね。たまたまこの居酒屋で待ち合わせていたものでして・・。」
そう言うと、柴田の緊張した気配をそらすように、ことさら笑顔を振りまいた。
「それは失礼した。」
柴田が素直に謝った。その間に、男はにこにこしながら柴田と玉枝の座る長机の対面に腰を下ろした。
どうやら、この男も柴田に興味を持ったらしい。
「おい、酒!どんどん持ってきてくれ。」
男が陽気な声で女中に注文する。
柴田は横の女と正面に座る男を警戒しながらも、盃に注がれる酒を勧められるままに口に運んだ。
「あなた様は、相当の酒豪でございますな。」
男が柴田をおだてるようにそう言うと、感心したように大げさに首を振った。
彼の名は、鎌田久兵衛。身なりは商人風で、派手な羽織をはおり、身に着けているものは一流品に見えた。ただ、柴田は久兵衛を商人とは思っていなかった。自分の横に置かれた刀を意識しなくてはならないような、どこか安心して酒が飲めない緊張感を彼の存在が示威していたのである。
玉枝がさっきより柴田の体に近づいて、彼の欲望を誘ってくる。そのタイミングを計ったように、久兵衛が柴田に語りかけてきた。
「あなた様、「人斬り清兵衛」と呼ばれておられる柴田様でございましょ・・。」
久兵衛はそう言うと、にやりと笑った。柴田の口に運びかけた盃がぴたりと止まる。
柴田が会津を出奔して一年半になる。彼がこれまで生きていくためには、刀に頼るしかなかった。用心棒を生業として、時には人殺しもいとわなかった。人を斬っては街を去り、また新しい街で金のために危ない橋を渡るのである。いつしか、彼は闇の世界で「人斬り清兵衛」という有難くないあだ名を付けられていたのである。
「おぬし、やはりただの素人ではないな。」
柴田は止めた杯を再び口に運んでぐっと飲むと、上目遣いに久兵衛を見てそう言った。
久兵衛は、柴田の言葉に反応することなく、
「一つ私の頼みも聞いてくれませんか・・。」
そう言って、柴田の顔をじっと見た。
「誰を斬れというのだ。」
柴田はそう言うと、ふんと鼻を鳴らして、また盃の酒を一挙にのんだ。どうやら呑みだしたら止まらない酒飲みのようだ。
「絹問屋の主人で、山谷幸四郎という商人でしてね。用心深い男で、いつも自分の周りに腕のたつ浪人を三人、護衛につけてまして・・。なに、あなたの腕があれば、そう難しい仕事でもないと思うのですが・・。」
久兵衛はそう言いながら、玉枝に代わって柴田の盃に酒を注いだ。
「報酬は・・。」
注がれた酒をあおりながら、柴田が尋ねた。
「十両。」
久兵衛の条件に柴田が眉をひそめた。不足なのである。
「それと、玉枝をあなた様に・・。(玉枝の方を向いてにやりと笑い)なあ、お前も承知だな・・。」
久兵衛の言葉に、玉枝がこくりと頷いた。
三人で酒を飲んだ後、柴田は、玉枝の体を包み込むように腕を回して、二つの体を一つにして闇の虚空に消えていった。
(清兵衛と玉枝)
玉枝は、清兵衛との情事に違和感を感じていた。今まで抱かれた男たちの肉欲とは違った相手を思いやる優しさがあったのである。暗闇の中で絡み合った二人は、闇の中に落ちていく。二つの肉体が一つに溶けていくように、お互いの性欲を満たしていった。
玉枝は清兵衛と肉体を合わせることで、この世で自分が独りぼっちでないことに気づき始めている。
「不思議な人ね、あんたって・・。」
情事を終えて眠りにつこうとしていた清兵衛に、玉枝がささやいた。
「何が・・。」
そう言って顔を傾けると、玉枝の吐息が清兵衛の顔を撫でていく。
「今まで私を抱いた男たちは、私の体だけが目的だった・・。多分、私よりいい女が相手をすると言ったら、喜んで相手を変えていたと思うの・・。」
玉枝はそう言うと、上半身を持ち上げて床を離れると、行燈に灯をともしに行った。
清兵衛が眩しそうに目を細め、灯りに照らされた玉枝の横顔を確認する。
「俺だってそんな男たちと同じだ。」
清兵衛はそう答えながらも、この女と交わした情事を思い出していた。彼は初めて玉枝を見た時、妖艶な女の魅力と同時に、彼女に処女のようなあどけない魅力を感じたのである。今、清兵衛はその理由を探していた。
「違う!あんたは、私を愛しい女のように大切にあつかってくれたわ・・。」
玉枝は、むきになって彼に反論した。清兵衛が声を荒げた彼女の目を覗き込んだ時、自分が探していた答えを見つけたような気がした。
「お前、むきになったら少女のような目になるな。」
清兵衛の口からふと漏らされたその言葉は、自分でも思ってもみなかった自然な吐露だった。そして、清兵衛の言葉に、自分でも思いもよらないほど狼狽したのは玉枝であった。
「馬鹿なこと言わないでよ。」
自分の慌てた様子をごまかすように、清兵衛にくってかかった。
彼も自分の言葉に動揺していたのか、
「すまん。」
と、ただ一言いうと、ぎこちなくなった雰囲気を打ち消すように、彼女に背を向けて寝るふりをした。玉枝は、そんな清兵衛に吸い込まれるように、行燈の灯をふっと息を吹いて消すと、清兵衛の布団にもぐりこんできて彼の背中をぎゅっと抱きしめた。
「あんた、親方(鎌田久兵衛)に頼まれた人殺し・・、本当に受けるつもりなの。」
玉枝は話題を変えた。
「お前を抱いてこんなことを言うのも何だが・・。わしは商人を斬る気はない。(ふふっと笑って)わしは、ある事情で国を出て放浪をし始めたが、その間に一つ分かったことがある。(間をおいて)裏街道でうごめく悪党を斬っても、役人たちはわしを捕縛する気など決してない。かえって、大掃除ができて有難いと思っているくらいだ。だが、堅気の人間を殺めたらそうはいかん。わしは、未だに仇討の追手からつけまわされるおたずねものだしな・・。堅気の人間を殺めることが、どんなに厄介なことか知ってるつもりだ。」
清兵衛は、何故か玉枝に警戒することなく本音を言った。
「へえ、仇討ね・・。お侍も大変だ。義理だの大儀だの・・。」
清兵衛は、玉枝の言葉に満足したのか、ぐるっと体を反転すると、また、玉枝の体を抱きしめて、情欲に自分をまかせ、刹那の情事にふけっていった。彼女はそのタイミングを待ってたかのように、積極的に彼に応じていったのである。
「私は、この男が心底好きになったのかしら・・。」清兵衛の愛撫に応じながら、何度か玉枝の心にそんな思いが到来した。
(柴田と春と右衛門)
時は現在にもどる。
いつものように春と右衛門と柴田先生が、旅館の二階で集まっている。この頃、春は二日に一回は二人を自分の店に誘うのである。もちろん、目当ては柴田先生の昔話にある。
「それで玉枝さんは、親方と闇組織を裏切って先生についてきたの・・。」
春は、自分の過去を重ね合わせたのだろうか。目を輝かせて質問した。
「右衛門と春さんも、わしと同じような経験があるようだな。」
先生はそう言うと、右衛門の顔を見て、にやりと笑った。右衛門は、素知らぬ顔でいつものように夜の界隈を眺めている。
「おかみさん、お酒もってきましょうか。」
この旅館の切り盛りを任せている仙太が部屋の障子をあけて声をかけてきた。
「頼もうか。」
仙太に答えたのは柴田であった。仙太がにこりと笑顔を見せて、頭を下げた。
仙太は、前の主人の時代からこの料亭「菊屋」で働いている番頭である。年は四十をとっくにまわっているようだが、顔は童顔で、よく働き機転もきいた。春は、この店の運営を彼に任せていたのである。
仙太が障子を閉めて勢いよく階段を下りていく足音が聞こえてくる。
「玉枝さんは、先生についてきたに決まっている。そうでないとこの話は何の興味もなくなるからな。」
意外にも、今まで無関心を装うって黙っていた右衛門が、二人の会話に入ってきた。
「おぬしは、肝心の話を言おうとすると先回りをする。(右衛門を睨みつけ)それでは聞くが、わしと玉枝の駆け落ちの行方を思いつくままを話してくれんか。」
先生は、少し右衛門の推察力に嫉妬を感じていた。
「そうね、それがいい。右衛門、言ってみなさいよ。」
春も、右衛門の抜群の推理力を少しやっかんでいた。
二人に迫られては、右衛門も先生と玉枝の逃避行の予想を避けるわけにはいかなかった。しばらくの間、この場に沈黙がおとずれる。
右衛門が外を見るのをやめて、二人の方へ向き直り、
「玉枝さんの手引きで、久兵衛が斬る手筈だった商人に会って、陰謀を暴露して命を助ける代わりに奴から金をせしめる・・。うまくいったら、二人はその金を使って、盗賊団から姿をくらますために逃避行する・・。そこまでは、見当はつくが、後は私の予想も限界ですな。」
右衛門の推理に柴田先生は驚いた様子を隠しきれなかった。
「おぬし、やはりみんなが言うように、先が見える策士だな。右衛門が言った通りだ。」
先生はそう言うと、感心したように目を大きく見開いて、右衛門の顔をまじまじと見た。
「わたしだってそのくらい予想はつきます。」
春が、悔しそうにそう呟いた。
「先生、その闇の組織の名は何というのです。」
春の言葉を無視するように、右衛門が積極的に柴田に質問した。
「天狗党・・。」
柴田がぽつりと言う。思わず春と右衛門が目を合わす。その集団は、誰もが一度は名を聞いたことがある大窃盗団だった。そして今もその集団は存在しているのである。
(逃避行の末の玉枝と柴田)
天狗党から逃れ、玉枝の生まれ育った長崎の壱岐の島にようやくたどり着いた二人は、漁師村から少し離れた、周りが野原に囲まれた小さな家に住み家を構えることができたのである。玉枝のふるさと壱岐では、両親も亡くなり、彼女の素性を知っている村人もごくわずかになっていた。もちろん、こんな小さな村に得体のしれない男と女が、いきなりあばら家に住み始めるのは、村人にとっても気にならないわけがなかった。しかし、玉枝の唯一の親戚である栄三という漁師の世話だったので、島に住み着いた玉枝と柴田に対して、表立った拒否反応を態度で示す村人もいなかった。というのは、栄三は、玉枝の両親とはいとこ同士で、今はこの村の誰もが信頼する長老だったのだ。村人たちは、村で起こったもめごの解決に、栄三の分別と経験をもった意見に耳を傾けていたのである。
「魚もってきた。ここに置いとくから二人で食え。」
栄三は、桶に入った大きな魚を家の入り口に置き、大声を張り上げて家の中にいる玉枝に声をかけると、直接会うこともなく、とぼとぼとやって来た道をもどって行った。
「栄三さん、すまないね。」
背を向けて遠ざかっていく栄三の背に、張りのある甲高い声で、玉枝が礼を言う。栄三は、振り向きもせず、歩みを止めることなく遠ざかって行った。
「あんなに寡黙で人に優しい老人は、何処にでもいるわけではない。会津藩の上役にもああいう人物がいたら、少しは風通しのいい政治ができるのだが・・。」
清五郎は、余り栄三と面と向かって話をしたことがないが、彼の立ち居振る舞いには一種の風格さえあった。
「あら、あんた会津の侍なの。」
玉枝は、今まで清五郎の素性を聞いたことがなかった。
「ああ、今は脱藩して藩士ではないがな。」
彼は、玉枝の驚いた顔を横目に、苦虫をつぶしたような顔になりしぶしぶ認めた。
「やっぱりちゃんとしたお侍だったんだ。」
玉枝が彼の顔を見てにこりと笑う。玉枝にとって、自分が好きになった男が大藩の藩士であったことが誇らしくなってきた。
「だが、今はその藩からも追われる身だ。因果なもんだ。」
清五郎が玉枝の満足そうな顔を見て、勘違いを正すようにそう言った。
「わたし、親方から天狗党が会津藩と関係があるって聞いたことがある。」
玉枝が思わぬことを言った。
「面白いことを言うな。あの男の得体のしれない凄みは、闇の深い謎を背負っているからかもしれんな・・。」
清五郎は、鎌田久兵衛と初めてであった時のことを思い出していた。
「あんた、知らないからよ。天狗党の恐ろしさを・・。私は、あんたと一緒に闇の組織を逃げた時から、いつかあの連中がやってくるのを覚悟してるの・・。(不安を吹き払うように、清五郎の方に笑顔を見せて)でもいいの、あんたとこうやって束の間の幸せが味わえれば・・。本当の幸せをつかめないまま死んだんじゃ、生きている甲斐ないもんね。」
玉枝はそう言うと、座っている清五郎の胸に飛び込んでいった。
「おいおい。」
玉枝を受け止めた清五郎は、彼女のとっさの衝動に抗うことなく、二人一緒にそのまま板の間に転がって、漠然とした不安を振り払うかのように、お互いの愛情を確かめあうのだった。
二人の生活は、不安定なものだった。
玉枝は、栄三の紹介で海女の見習いとして、お由衣の海女グループで働くことになった。元々、壱岐の海で育ち、母も海女だった玉枝にとって、海女の仕事はなじみの仕事であった。そんな理由もあり、玉枝は数か月も経つと海女として最低の仕事はこなせるようになったのである。
「由衣さんは、私の母親のこと知ってるの・・。」
海からあがって、海女仲間と焚火を囲んでいるときに、玉枝が何気なく由衣にそう尋ねた。
「あんたのおっかさんは、海女の名人と言われた人だった。この辺の年のいった海女ならあんたのおっかさんのことは大抵知ってるよ。」
由衣は玉枝を大事に扱ってくれた。恐らくその理由は、玉枝の死んだ母親への敬意からきているのかもしれない。
そう言われた玉枝は、幼かった時の母の面影を探し求めるかのように、下を向いて浜の砂をじっと見つめている。
「玉枝、幸せになりなよ・・。おっかさんが空から見てるからな。」
そう言った由衣の目から薄っすらと涙が浮かんでいる。
その時、一緒に火を囲んでいた海女の一人が大きな声で、
「あら、玉枝の色男が歩いているよ!」
玉枝をからかうようにそう叫んだ。その言葉を聞いた玉枝の頬が薄っすらと赤くなる。
「でも、いい男だね。まあ、玉枝の器量ならお似合いか・・。」
もう一人の海女が、羨ましそうに呟いた。
焚火を囲む海女の中に玉枝を見つけた清五郎が、右手を挙げて一生懸命手を振った。
「玉枝、答えてやんなよ。」
同僚が、からかうようにそう言う。
その言葉に応じるように、玉枝が恥ずかしそうに頬を赤く染めて清五郎に手を振った。
(蘭学医 平林正雪)
柴田清五郎と玉枝がこの壱岐の島に来て半年が経った。
二人の暮らしは、玉枝の海女の仕事で何とか支えられていた。
「わしも用心棒の仕事でもあればいいが。この島ではな・・。」
そう言って、清五郎がため息をつく。
「いいわよ。今に海女で一番の稼ぎ頭になるから。」
実際、玉枝はぐんぐん腕を上げていた。
「いっそ、栄三さんに頼んで漁師の見習いでもなろうか。」
清五郎は、自分の無職に悩んでいた。それにしても、好きな女ができるとこんなに気持ちが変わるのかと、自分でも驚いていた。脱藩後、裏街道の人間ばかりと付き合っていた清五郎が、血と欲にまみれた生活とは真逆の生活をしているのである。朝夕質素に暮らし、贅沢など思いもやらぬ生活。それでも玉枝といるだけで日々の時間が満たされていた。
「釣れますか?」
清五郎が振り向くと、二人の男が笑顔を見せて立っている。
一人は、背に重そうな荷物を背負った青年。もう一人の男は、釣り竿を手に持った白髪交じりの初老の男であった。
海岸の崖っぷちの岩の上で魚を釣っていた清五郎だが、黒鯛が一匹釣れただけだった。
「御覧の通りです。」
清五郎はそう言って、岩の窪みに置いている魚の方に目をやった。
「ほう、立派なものだ。」
老人の方が、岩の裂け目をのぞきながらそう言った。青年の方は、二人の会話を聞きながらにこにこ笑っている。
「釣りは道連れ、ここに座っていいですか。」
老人の名は、平林正雪。長崎の蘭学医であった。青年の名は西洋英、平林の弟子である。この島の網元に頼まれ、長崎から船で訪れ、怪我をした漁師の治療を施した後、釣りを楽しむためにこの海岸にやって来たのである。
西はどうやら釣りをする考えはなく、二人の横に座ったが、ぼんやり遠くの水平線を眺めている。
「あなたは、この辺の人間ではないようだが・・。もしやして北のお方かな。」
自分の釣り竿に目をやりながら、平林が清五郎に尋ねた。
「この訛りだと、すぐに見破られますか。(苦笑いをして)会津の生まれです。たまたま故あってこの地で住むことになりました。」
清五郎は、遠回しにこの地に来た本当の理由を喋るのを避けた。
「そうですか。壱岐はいい島でしょ。」
平林も清五郎の気持ちを察したのか、敢えて会津の話はしない。
「お見受けしたところ、お二人とも侍ではないようですが・・。」
清五郎も平林に気を使いながらも、彼らの素性に興味を示した。
「長崎で蘭学医をやっております。(西の方に目をやり)そっちは私の弟子です。」
平林にはためらう理由もないので、即座に身分を明かした。
「そうですか。医者をなさっているのですか。どうりで侍のにおいがしない。」
「医者」と聞いて、清五郎は彼らに興味を持った。今までこの種の人間とは接したことがなかったのである。
「侍とは独特のにおいがするものですか。」
平林が、清五郎の言葉に絡んできた。
「しますな。二本刀を差せば、自分がどういう人間かなど考えずに、とりあえず侍という身分を誇示できる。だから、その匂いがきついか薄いかはともかく、とりあえず侍という集団の持つ匂いが身に染みる・・。そんなもんです。」
清五郎は、自分なりの理屈を淡々としゃべった。
「面白いことを言いますな。ところで、あなたは刀を藁に包んで隠しているようだが。侍の匂いを消すためですか。」
平林は、清五郎が藁に包んだ太刀を自分の横に置いていることに気づいていた。
「目ざといですな。これは、自分を守るために持っているのです。私には、何処で襲われるか分からない事情がありましてな。かといって、村の人の威嚇になっては、都合が悪い。そこで、こんな状態でいつも持ち歩いているのです。」
平林は、清五郎の簡潔な説明が気に入った。
「この男、意外と明晰かもしれん。」平林は、清五郎に興味を持った。
その日の釣りでは、平林は坊主(収穫なし)に終わった。
玉枝が、清五郎と平林、それに西が浜辺を歩いてくるのに気づき手を振っている。
「ほう、海女さんですな・・。それにしても美しい女性だ。」
白い衣をまとった海女姿の玉枝の肉感的な肢体が、ところどころ露出して官能的にさえ見えた。平林の正直な感想に、西が納得したように頷いた。
「私の・・。」
清五郎は、玉枝との関係をどう説明たらいいのかためらった。
「恋人ですか。」
余り会話に入ってこなかった西が、清五郎にそう尋ねた。
「恋人?」
清五郎にはその意味が分からない。
「相思相愛の二人のことを言うのです。」
西が説明する。
「そうか。「恋人」か・・。」
清五郎が、満足そうにその言葉を声に出した。
その時、向こうで手を振っていた玉枝の顔が突然恐怖でひきつった。
二人の侍が清五郎の方に向かって刀を抜いたまま、襲い掛かろうと砂浜を突進してきているのである。彼らの足元に打ち寄せてきた波が激しく跳ね返り白波をたてる。すると、清五郎が彼らに応じるように、刀をむしろから出すと、腰に差して足を踏ん張り身構えた。身の危険を感じた西と平林が、清五郎から遠ざかる。
「ようここまで追ってきたものだ。」
清五郎がそう言った次の瞬間、二人の侍が走ってきた勢いを保ったまま、ためらいもせず清五郎の間合いに入ってきた。
二人のうちの一人が、大きな奇声を上げて清五郎に斬りかかったが、清五郎の居合が一瞬速く相手の腹をはらった。そして、そのまま流れるような動作で、もう一人の侍が振り下ろした刀を受け止めたのである。しばらく、白刃を交えたままの状態で、二人の態勢は動かなくなった。お互いの力比べが始まったのである。二人の吐き出す荒い息が、離れてみている平林たちの方まで聞こえてくる。
先に動いたのは、清五郎だった。一瞬押しやる構えで腰を入れたと思った瞬間、相手が応じようと態勢を動かすのを見計らって、後ろに体を引いた。不意をつかれた相手の態勢が崩れる。清五郎はその機を見逃さなかった。清五郎の刀の弧を描いた軌道が、相手の肩を正確に払ったのである。たまらず、相手はもんどりうって砂の上に転げ落ちた。あたりは、清五郎に倒された二人の血で真っ赤に染まった。
西が死闘の決着がついたのを確認して、倒れた二人に駆け寄り、彼の耳を代わる代わる二人の口に押しあてた。
「息はあります。」
西はそう言うと、平林の方を見た。
「網元の所へ行って人を呼んできなさい。」
西の言葉に応じるかのように、平林が清五郎と西に大きな声を出して命令した。間髪いれず、平林は応急処置をするために、西が担いでいた荷物の中から医療道具と薬を引き出し、倒れた二人の方に駆け寄ってきたのである。西と平林のためらいのない果敢な行動は、側でぼんやり見ていた清五郎に、一種の感動さえ与えた。
(仇討)
時はさかのぼる。
白鳥栄次郎と白鳥家家臣 鹿取彦九郎は、会津藩から送られたはずの旅の路銀を受け取りに長崎奉行所を訪れていた。二人が柴田清五郎を追って元会津藩家老白鳥兵衛の仇討のために会津を旅立ち、九州の地でやっと仇の消息がつかめたのである。
二人は、部屋に入ってきた長崎奉行所の役人に頭を下げてかしこまっている。役人は、間が悪そうに、平伏している二人を見た後、咳払いをした。
「実は、おぬしらの路銀はここには届いておらぬのじゃ。」
役人はそう言うと、なお一層難しそうな顔をした。
「しかし、我らはすでに国元に事情は手紙で知らせております。返事では、長崎奉行所で受け取れ・・とのこと。」
鹿取が、今までの経緯を説明する。
「確かに、会津藩から手紙は届いている。ただ、金は届いておらぬということだ。」
戸惑う二人を無視するかのように、役人は淡々と話した。
「それは、どういうことですか。理由をうかがいたい。」
栄次郎がたまりかねて、役人に詰め寄った。
「おぬしの殺されたお父上の不正が発覚して、会津藩の体制が一変された模様だ。どうやら、おぬしの仇である柴田清五郎の義父も藩の重役に抜擢され、おぬしらが仇を取って会津に帰っても、報いてくれる藩の重役がいないというわけだ。」
栄次郎は、役人が話し終わった後、口に笑みをたたえたのを見逃さなかった。
「おぬし、よくも平気でそんなことが言えるな。我らがどんな苦労をしてここまでたどり着いたか・・。」
栄次郎が、刀に手をやった。
鹿島が慌てて栄次郎の手をつかんで押しとどめた。役人の顔に動揺がうかがえる。
「わしはおぬしの藩に頼まれて、手紙の詳細を話したまでのこと。逆恨みされても迷惑だ。」
役人は大きな声でそう言うと、さっさと部屋を出て行ってしまった。
奉行所でしばらく二人で話し合った後、立ち去ることしか選択がないのを確認した。
二人が長崎奉行を出た時、すでに夕暮れ近くになっていた。
「これからどうしよう・・。」
栄次郎の沈んだ声が、薄暗くなった空間にむなしく響いた。
「ここまで来て、やっと柴田の居場所が分かったのです。本願は遂げましょうぞ。
たとえ返り討ちにあったとしても、武士の一文は通したことになるではありませんか。」
栄次郎は、鹿島の言い分に納得がいかなかった。
「柴田を斬って何になるのだ。仇討を果たしても家の再興も望めない。それでは、わしはどうやって暮らしていくのだ。鹿島は何もわかっていない。」栄次郎はそう思い、鹿島の言葉に怒りさえ感じていた。
元々、栄次郎は兵衛の妾の子であった。周りから「仇をとれ」と口うるさく要求されたときも、父の愛情さえあまりなかった彼にとって、仇の柴田に恨みなど抱くこともできなかったのである。ただ、仇を取れば、会津での自分の立場が認められるという見返りがあったからこそ、いやいやながらこんな役目を引き受けたのである。それが今ではそんな報いもないとなれば、鹿島の言葉に納得がいかないのも当然であった。しかし、結局、「武士の一文」という大儀を振りかざされては、鹿島の言葉に真っ向から反対する勇気もなかった。
「武士とは因果なものだ・・。」栄次郎は、無駄死にになるかもしれない自分の立場に諦めながら、ふっとため息をついた。
(平林の療養所での栄次郎と鹿島)
鹿島と栄次郎は正雪先生の治療のお陰で、一命をとりとっめた。その後、どういう奇遇か、二人は正雪先生の診療所で厄介になることになったのである。
平林の療養所は、清五郎の想像よりはるかに大規模な施設であった。広大な屋敷に何人のもの蘭学医が働いていて、患者も数十人が常時寝泊まりしていた。
そんな屋敷の一画に、栄次郎と鹿島もいた。
「かなり回復したと思うのだが、ものも言わず黙って目を閉じたままだ。」
平林は鹿島の肩に巻かれた晒を取り替えながら、島から様子を見に来た清五郎にそう言った。
「栄次郎の方はどうですか。」
清五郎が若者の方を見ながらそう聞いた。
「おぬし、斬っておいて容体を尋ねるぐらいなら、初めから刀を抜くな。」
平林が咎めるような口調で清五郎を睨んだ。
「しかし、あの時の柴田さんの立場なら、斬らなければ斬られていたのでは・・。」
平林の横にいた西が、清五郎をかばった。平林はそう言われて反論もせず、ふんと鼻を鳴らした。
「危険な峠は越えました。恐らく明日になれば、この若者も回復の方に向かうのでは・・。」
平林に代わって、西が清五郎の質問に答える。
「聞いての通りだ。わしの一番弟子の西がそう言うのだ。間違いなかろう。」
平林が西の言葉に付け加える。
「申し訳ありません。出過ぎたことを言ってしまって・・。」
西が平林に頭を下げた。平林は気にした様子もなく、西の肩をポンとたたくと、そのまま部屋を出て行ってしまった。
「鹿島、じゃべれるなら喋ったらどうだ。」
清五郎が、床で横になっている鹿島に声をかけた。
「知っておられるのですか?」
西が驚いた顔をして、清五郎を見た。
「日新館(藩校)での同期だ。まさか、彦九郎と剣を交えるとは思っていなかったが・・。」
清五郎が、沈痛な面持ちでそう呟いた。
その時、障子が開けられ平林が再び入ってきた。
「侍とは厄介な生き物よ・・。おぬしが言ったように、自分である前に侍でなくてはならぬと頑なに思っている。」
平林は、手に酒の徳利を持ったまま、畳に胡坐をかいた。
「どうだ一杯やらんか。」
正雪はそう言うと、持ってきた湯呑を清五郎と西に手渡した。
「いいですな。最近、ご無沙汰でしてな。」
清五郎が、にこにこしながら湯呑を受け取った。
「先生、患者の前ですぞ。」
西が戒めるようにそう言う。
「この男には、こういうところがある。この堅物なところがなければ、いい医者になれるのだが・・。」
正雪はそう言うと、声を出して笑った。
「それにしても、清五郎さんは酒を飲めないほど貧乏暮らしですか。」
西が遠慮もせずそう聞いた。清五郎が、照れ笑いをしながら頭をかいた。
「でも、あんな綺麗な恋人と暮らせるのだから・・。私が同じ立場でも、どんな赤貧にも耐えられると思うな。」
西は、真面目な表情で本音を言ったようだった。
「恋人か・・。いい響きだ。」
清五郎は西の言葉に照れるでもなく、ぽつりとそう言った。
「どうだ、おぬし・・、医者になる気はないか。」
平林が、いきなり清五郎にそう言う。
「私なんかになれますか。」
清五郎も、平林にそう誘われて、まんざらでもなかったのである。彼は、恨みもない栄次郎や鹿島を斬った時から、刀を持つことにある種の嫌悪感を覚え始めていた。そんな時に、正雪に持ちかけられた医者への勧めは、自分の将来に光明が差し始めたような気がしたのである。
その時、意外なことが起こった。
「先生、私も医者になれないですか。」
眠ていたはずの栄次郎が、いきなりそう言ったのである。
「おぬし、意識が戻っていたのか。」
正雪が驚いたように栄次郎の方を向いた。栄次郎の顔に薄っすらと笑みがこぼれている。
「決めた!先生、よろしくお願いします。」
清五郎が、平林の方に向いて手をつき頭を下げた。
「鹿島さんとやら、あなたはどうします。」
西がさっきから口を利かない鹿島にそう聞いた。すると、
「わしは、医者になれるほど頭がよくないし、やっていけるとも思わない。出来れば、この館で下働きでもしたいのですが・・。その間に、自分の道を探します。」
そう言って、ようやく鹿島が口を開いた。
「決まった。おぬしらの面倒は俺が見る。とりあえず、酒だ!」
正雪の愉快そうな声が、部屋に響いた。
「先生!患者には飲ませないでくださいよ。」
西が慌てて、正雪に忠告する。
「もう一ついいですか・・。」
再び、床の中から栄次郎がためらいながらそう言った。
「何だ。まだあるのか。」
正雪が、陽気な声でそう応じる。
「私と鹿島は、柴田さんに返り討ちにあった・・と、長崎奉行に届け出てはくれませんか。」
栄次郎が、声を潜めながらそう言うと、
「心得た!まとめて面倒見てやるから大船に乗ったつもりでいろ!」
正雪の、栄次郎の声とは対照的な大きな声が部屋の中を駆け巡った。
(玉枝に忍び寄る影)
浜の仕事を終えた玉枝が、家路を歩いている。
道の向こうから見慣れない行商姿の男が大きな風呂敷包みを背に背負って、体を丸め,、目を下に伏せがちに歩いてくる。
玉枝はその男を見た時から何やら胸騒ぎがし始めた。彼女にしみついた昔の仲間を見分ける嗅覚のようなものだ。
「玉枝さんだね。」
案の定、男が玉枝とすれ違う時に声をかけてきた。玉枝は黙ったまま歩みを止める。
「お頭は、あんたが帰って来るなら、今までのことは水に流そうとおっしゃってるよ。」
男が顔を上げて、玉枝の方を見て不気味な笑みを浮かべる。
玉枝は男の呼びかけに返事もせず、ただ呆然と立ちすくみ、男がそのまま立ち去って行くのを見送った。しかし、男のささやきは、玉枝の人生を一変させてしまったのである。
翌日、長崎の療養所から帰ってきた清五郎は、玉枝がいないことに気付いた。その時、彼はなぜか玉枝がもう帰ってこないではないかと、漠然とした不安に襲われた。
「玉枝がいないのですが、何か知りませんか。」
昼過ぎまであちこち玉枝を探し回った清五郎は、切羽詰まって栄三の所を訪ねた。
栄三は沈痛な面持ちで、清五郎に答える言葉を探しているようだった。
「昨日の夕方、玉枝がわしの家にやってきてな・・。」
栄三は、ようやく重い口を開いた。
「玉枝の居所を知っているのですか。」
清五郎は、必死にすがるような表情になっていた。
「清五郎さんがわしの家に来たら、自分のことは探さんでくれ・・と、そう言っとった。」
栄三はそう言うと、うつ向いて深くため息をついた。
「やはり奴らが・・。」
清五郎の顔が怒りでみるみる険しくなっていく。
「玉枝は、あんたのために姿を消したんじゃ・・。玉枝のいた集団は、一人の人間でどうにかできるような組織でない。逆らえば、皆殺しになるのがおちじゃ。奴らに見つかった以上、玉枝は、ここでの暮らしも、あんたとのことも、諦めなくてはどうしようもないんじゃよ・・。」
清五郎は、栄三の言葉を聞くなり外へ飛び出した。どうしようもないむなしさと、抑えようのない怒りが交互に湧きあがり、走りながら涙が止まらなかった。
「なんでこうなるんだ・・。玉枝、玉枝!」清五郎は、心の中で叫び続けた。彼の慟哭は、このまま息絶えるまで終わらないかのように続き、自分の体と心が制御できなくなっていた。
(再び料亭菊屋での柴田、春、右衛門)
「その後、わしは玉枝を見つけることはできなかった。」
清五郎はそう言うと、春がお銚子に注いだ酒をぐっと飲みほした。
「余程綺麗な人だったんですね。先生の思い人の玉枝さんとは・・。」
清五郎と玉枝の愛の逃避行の結末を聞いた春が、しみじみとそう呟いた。
「ああ、美しい女だった。春さんのようにな・・。なあ、右衛門!おぬしは、わしと違って幸せ者だ。こんなきれいな春さんと、こうやって何の支障もなくずっと一緒にいられるのだからなあ。」
自分の肘枕で寝転がって清五郎の話を聞いていた右衛門が、驚いて体を起こし、まじまじと清五郎の顔を見つめる。
「先生、いくら酔ったとはいえ、春の機嫌を取りすぎですぞ!」
右衛門の顔は真剣だった。
この言葉にすかさず春が反応する。
「何よ!あんた先生の正直な言葉を素直に取れないの。(右衛門を睨みつけ)私は先生を死んだ父のように思ってるの。先生の面倒はこの私が見ますからね。それが、私の親孝行の代わりなの。」
春は今まで見たことがないほど上機嫌になった。側で清五郎が、春の言葉に感激したのか、うんうんと頷いている。
右衛門が、「ああーあ!」と大きな声を出し、思いっきり両腕を上に伸ばして、そのまま大の字になって寝てしまう。
「先生、お酒頼んできますね。」
春はそう言うと、立ち上がっていそいそと下の厨房に降りていった。
すると、再び右衛門が起き上がり、
「それにしても不思議な話だ。なんで天狗党は先生の命を狙わなかったのだろう・・。」
右衛門は、さっきからそのことが気になって仕方がなかった。
「うん・・」
清五郎にも右衛門の疑問に答えることはできなかった。
「先生、さっき春に言った言葉、本心ですか。」
右衛門が話題を変えた。
「わしは嘘など言ってはいない。」
清五郎が侮辱されたように、怒った顔でそう答える。
「先生の言葉は、春には最高の誉め言葉ですな。真剣なら、なお厄介だ。春のやつ、明日から先生の世話で、私は当分無視されそうですな。(ため息をつき)仕方ない、自分のことは自分でやるか。」
右衛門はそう言うと、苦笑いをしながら頭をかいた。
「しかし、考えようによっては、玉枝との突然の別れは、長崎でのその後のわしの医学の道にはよかったのかもしれんな。あの頃のわしにとって、玉枝を忘れさせてくれるのは、医術の修行だけだった・・。おかげで、三年後には正雪先生に患者を任せてもらえるようになったんだからな。」
清五郎は、自分の過去を回顧しながら冷静に分析していた。
(玉枝と別れた後の柴田先生)
この年の江戸は酷暑が続いた。
春と右衛門の家には、縁側にすだれがかかり比較的表通りからの風が通って、軒下にかけられた風鈴がそよ風が吹くたびに風流な音色を奏でた。外では夕暮れ時に、家路に帰る子供たちの仲間と別れる声が、どこかもの悲しさを誘うのだった。
春が清五郎の盃にお酒を注ぐ。右衛門の予想通り、春は清五郎が玉枝の美しさを自分の容姿と並べて以来、清五郎に何かと気を使い、家で夕食をとるときは必ずお銚子が添えられた。
「どう考えても、先生のふと出た言葉は春を喜ばせすぎだ。よくあんな言葉が自然に出るものだ・・。」右衛門はそんなことを思いながら、二人から少し離れたところで、膳に出された里いもを箸で突き刺し、一気に口に入れてほおばった。
「でも、どうして先生は、会津に帰ったの。」
春が清五郎に酌をしながらそう尋ねる。
「ちょうど長崎の医術の勉強を一通り正雪先生から教わり、療養所でもそれなりに患者に信頼されたころに、義父の青山孫右衛門殿から手紙があってな。わしの会津での殺傷事件の罪が殿から恩赦され、柴田家の復活が許されたので帰って来いと知らせが届いたのだ。」
清五郎はそう言うと、すだれ越しに入ってくる通りの提灯の光に目をやった。
「それで、先生の御内儀はどうなさったので・・。」
春が重ねて質問した。
「とっくに他家へ嫁いでいた。あの女がわしをずっと待っているわけがなかろう。ましてや義父は会津の主流派の重鎮だ。後妻の相手を探すのには苦労もしなかったはずだ。」
清五郎にしても、元妻がどこに嫁ごうがまったく関心はなかったのである。
「へえ、そんなものなの。冷たいわね。」
春が呟く。
「まあ、わしの会津での行状を考えれば、無理もないのだ。(右衛門の方を見て)うまいか、その里芋・・。」
清五郎はそう言うと、にやりと笑った。すると、右衛門が口を開いた。
「ところで、先生に仇討をしたお二人はどうなりました。」
無関心を装うっていながら、右衛門はちゃんと清五郎の話を聞いているのである。
「白鳥栄次郎は、そのまま長崎に残って医者になっているだろう。今頃どうしていることか・・。(懐かしそうに天井を見上げた。)もう一人、鹿取彦九郎はわしと共に会津に帰って、わしの家で家臣として仕えてくれた。おぬしも知っているだろう。会津戦争の負傷者をわしの屋敷で手伝ってくれた男。」
清五郎がにこにこ笑いながら右衛門にそう言った。
「ああ、あの人ですか。それでは、今頃上杉殿の所で・・。」
右衛門が、会津戦争の時の記憶をたどりながらそう答えた。
そうれに応じるように、清五郎が頷いた。
「わしは、帰郷した後しばらくは会津藩藩士としてお役目に付いたが、長くは続かんかった。わしの与えられた役職は、お城で汲み取った糞尿を百姓に配分する務めでな・・。」
清五郎がそう言うと、二つ目の里芋を口に入れかけた右衛門の箸が途中で止まった。
二人を見ていた春がいきなり笑い出し、右衛門がいくらたしなめても、彼女の笑いは止まらなかった。
「わしが、藩士の身分を返上した時も鹿取だけはわしについてきてくれた。おかしなものだ。わしを仇としてつけ狙った奴が、わしの一番の友になったのだからな・・。」
清五郎がしんみりと言った時、やっと春の笑いがぴたりと止まった。
(大久保の到来)
「大久保様というお方が右衛門様に会いたいと下に来ておられますが。」
仙太が障子を開けると、右衛門に来訪者を告げる。
いつものように料亭の二階の部屋で酒を飲んでいた右衛門、柴田先生、春は、通りを三味線で流して歩く芸人たちの歌の音に耳を傾けながら、夏の開放的な花街の雰囲気を楽しんでいた。
「大久保様って、あの薩摩の?」
春が驚いたように目を大きく見開いて右衛門の方を向いた。
「ほう・・、酒田で命を懸けて戦った敵の大将が、いきなりおぬしを訪ねて来るとはな。」
さすがに柴田先生も驚きを隠しきれなかった。ただ、右衛門は大久保の豪胆な性格を知っているだけに、慌てる様子も見せなかった。
「私が挨拶に行こうかしら。」
そう言いながら、春が右衛門の承諾を打診した。
しかし、仙太の知らせから間を置かず、大久保が右衛門らの二階の部屋につかつかと上がってきたのである。慌てて仙太が小さく開けた障子の横に退くと、大久保が障子の戸を大きく開けて、右衛門に一礼すると座敷の畳に胡坐をかいた。
「久しぶりですな、大久保さん。」
右衛門が、にこにこ笑いながら大久保に声をかける。大久保は、右衛門の愛想のいい笑顔にもことさら応じることもなく、いつものように仏頂面でこくりと頷いた。
「右衛門殿が江戸に帰ったと聞いて、挨拶に来ました。酒田ではいろいろありましたが、あなたといつまでもいがみあっていては、私の都合も悪いと思いましてな・・。こうやってまかり越しました。一つ、前の一件は水に流してくれませか・・。」
大久保はそう言うと、改めて頭を下げた。
すると、いきなり柴田が口を開いた。
「大久保殿は、右衛門もあなたといがみあっても何の得にもならないことを、よく知っておられる。おぬしはそれだけの大物ということだ・・。(にやりと笑い)おぬしほどの立場の人物なら、何処へ行っても怖いもの知らずでしょうな・・。ただ、世の中には都合ばかりで動かない奴らもいますからな。用心なされよ。」
柴田が、酒田の一件もあって、チクリと大久保に嫌味を言った。しかし、大久保は柴田の言葉に意を介する様子もなかった。
「ところで、今日は何の目的で私に会いに来たので・・。」
右衛門が、柴田と大久保の様子を面白そうに見ながらそう尋ねた。
「本当に何の要件もないのです。ただ、右衛門殿と仲直りのつもりでやって来ただけです。
もちろん、佐那河内の弥吉さんには、これからも頼み事はありますが、それはそれ、これはこれです。」
大久保は淡々とそう言うと、座った場所の近くのあけ放たれた障子の窓から、行きかう群衆の雑踏の方に目をやった。大久保は、右衛門を信奉している弥吉と気まずい関係になるのを嫌っていた。それに、長州の木場からやかましく右衛門との関係修復を忠告されていたのである。
すると、いきなり春が笑いながら口をはさんできた。
「あなたにはそう言う無邪気な可愛らしいところがあるわね。世間では陰謀家なんて噂する人もいますけど、どこかで正直に本音を言う・・。(右衛門の方を向いて)大久保さんの性格、私、嫌いじゃないわ。」
大久保は、春の言葉に動揺したのか、顔を真っ赤にした。この場を自分のペースに引き込もうとした大久保にとって、大いにあてが外れる形になった。
「まあ、せっかく来たんだ、大久保さん一杯やらんか。」
柴田が徳利をかざして、大久保法に近寄った。酒の勧めに、大久保の気持ちが幾分和んだ。そのうち部屋の雰囲気は、自然な形で大久保の出現を受け入れた。大久保は酒におぼれることはなかったが、かなりの酒豪であった。
大久保と柴田がかなり酔っぱらったころ、また一人の思いもかけない客が現れた。元会津藩家老 折田周明に仕えた忍びで、今は佐那河内に移住した双栄である。彼は、右衛門の依頼で江戸にやってきていたのである。
「よろしいので・・。」
敷居のところで部屋に入るのをためらっている双栄が、大久保の様子をうかがいながら右衛門にそう言った。
「いいのだ。入ってくれ。大久保さんは自分にかかわりがないことには何の関心も示さない人だ。」
右衛門の言葉に大久保は少しむっとした。
「右衛門、それは大久保さんに少し失礼ですよ。」
大久保の気持ちを察したかのように、春が右衛門を叱責した。その時、春の方を見た大久保が珍しくにこりと笑った。
「先生の昔話を聞いてるうちに、どうしても腑に落ちないことがあって、わざわざ双栄に来てもらったんです。」
右衛門は、大久保の存在をすっかり忘れている。大久保もことさら会話にはいる様子もなく、手酌で酒を飲み始めた。
対照的に、柴田が飲んでる酒をぴたりとやめると、右衛門と双栄の会話に耳を傾けた。
「右衛門様の察しの通りです。天狗党は、以前、会津藩が密かに育てた闇の集団でしてな。恐らく、柴田先生が無事でいられたのも、会津藩士であったからではないかと・・。ここからはわしの想像ですが・・。天狗党の犯罪を見て見ぬふりをしていたのは、会津だけではなく、幕府も一枚かんでいたのではないかと思うのです。政治には裏で動く輩が必要ですからな。わしらも天狗党まで犯罪に関わらなかったが、闇を担っていた忍びですから、天狗党の存在意味が分からんでもない。」
双栄の話に素知らぬ顔をしていた大久保だが、明らかに話題に関心を持ち始めている。
「ところで、先生と関りのあった玉枝という女の人に関して、何か情報を得られたかな。」
右衛門たちの関心は、むしろそのことであった。
「あの頃、会津の忍びには、藩の重役の意向を天狗党に伝える橋渡し役がいましてな。今は江戸に住むその忍びの仲間に、事情を聞いてきました。会津藩がなくなった今では、昔の事情を隠す理由もないのか、色々聞きだすことができましたよ。」
双栄はそう言うと、かなりの事情が聞き出せたのか、自信たっぷりに笑みを漏らした。
いつの間にか、柴田先生は正座をしたまま両手をつっかい棒のように膝に当てて、真剣なまなざしで双栄の言葉に耳を傾けている。
「玉枝という女の人は、とっくの昔に死んだそうです。天狗党の隠れる村で数年は過ごしたそうですが、病にかかってあっけなく・・。」
「ああ・・。」
双栄の言葉に、春が思わずそう言ってため息を漏らした。柴田の目には涙がたまり、今にも頬に伝わりそうだった。緊張の糸がぷつりと切られたように、右衛門が天を仰いだ。
柴田先生は、悲しみを押し殺しながら双栄の方を向いて、
「よう調べてくれた。双栄とやら、礼を言う。(右衛門の方を見て)おぬしにもな。」
と言うと、軽く頭を下げてた後、うつ向いたまま自分の悲しみを隠そうとした。
その場の悲しみに包まれた雰囲気に気づいた双栄が、さらに話を続ける。
「ただ、玉枝さんは村に帰ると間もなく、女の赤ん坊を生んだそうです。どうやら、帰る前に身重だったようで・・。」
双栄はそう言うと、ちらりと柴田の様子をうかがった。
「まあ、先生!」
一番強く反応したのは、側で聞いていた春だった。
大久保の口元に笑みが漂う。彼は、他人事とはいえ、話の内容にますます興味を持ち始めた。なにより大久保の関心を向けさせたのは、「天狗党」いう言葉が、双栄の口から飛び出したことだった。政府にとっても、闇の集団を撲滅すれば、権威の回復につながるだろう。ただ、闇の集団を公然と潰そうとして、失敗すれば政府の威信に傷がつく。一方、ただでさえ世上の不安が高まっている時期に、闇の犯罪集団が世の中に拡散するようなことになれば、民衆は政府の治安への不審を増幅しかねない。世情での不安は新政府とって一番都合が悪かった。そんな折、佐那河内の連中が闇の集団に関わってきそうなのである。大久保にとっては、これほど好都合なことはなかった。
右衛門は、そんな大久保の意図を察したかのように、
「双栄、長旅で疲れただろう。今日はこの辺でいいから、ゆっくり休んでくれ。」
そう言って、天狗党の話題を中断させた。やはり、右衛門は大久保の陰謀家としての性格を油断はしていなかったのである。
右衛門の意図に気付いたのか、
「それでは、この辺で・・。」
双栄はそう答えると、彼らのいる部屋を退いたのである。
「右衛門殿、今の話・・。わしにも手助けできるかもしれませんぞ。」
大久保は、潮時とみて立ち上がると、意味深な言葉を残して帰って行った。




