表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
右衛門シリーズ全編  作者: FZ
37/43

右衛門12-3

「右衛門12-3」


(正幸率いる長谷部軍)

会津開戦と同時期、上野戦争で敗走した長谷部軍は庄内で政府軍と戦っていた。度重なる戦闘で、長谷部軍百五十名程の兵士は、すでに七十名程になっている。政府軍は、幕府兵の皆殺しを目的とし、苛烈な攻撃を続けていた。それでも、これだけの集団を維持できたのは、正幸の副官である伊勢逸郎の優れた戦術のおかげかもしれない。彼は正幸の義父から全幅の信頼を得て、長谷部家を引き継いだ正幸の右腕としていかんなくその知略を発揮していたのである。

伊勢の戦略は、当初から正幸が佐那河内から持ってきた五十丁の銃の使い方を中心に組み立てられた。「一丁の銃も失わず、どう有利に使うかが鍵になる。」伊勢の戦術は、その一点に絞られていたのである。鉄砲を持つ兵士が倒れると、その銃は他の兵士に引き継がれ、今では銃を持つ兵士が五十名に対し刀で接近戦を挑む兵士は、正幸を中心に二十名あまりになっていた。


長岡藩を中心とする幕府軍の一翼を担っている長谷部隊は、今、小さな山の中で新政府軍の大軍に包囲されている。

「わが幕府軍は、明日早朝、一斉に山を下山して包囲網を突破するそうです。」

小さな焚火を焚いて寒さをしのいでいた正幸のもとに、長岡藩の兵士の一人が本隊の作戦を知らせに来た。髭が生え、頬がこけ、憔悴しきった正幸の顔は、知り合いが見ても判別がつかないほど変貌していた。彼の横で、焚火に手をかざしている副官の伊勢の表情も正幸と変わらなかったが、鋭い眼光だけは未だに変わっていなかった。

「長岡藩の指揮官は、全員討ち死にを覚悟しているのだろうか。誰が考えても、大勢の中に斬りこんで活路が見いだせるとは思わんがな・・。」

正幸が口惜しさをにじませて、そう言った。

「このまま兵糧攻めにされて、みじめに飢え死にするのを嫌ったのでしょう。」

伊勢の推察は正しかった。

「仕方あるまい・・。この先、生き延びたとしても我々の末路は似たりよったりだ。」

正幸は、半ば自分の命運を捨てていた。

「正幸様、われらは他の幕府軍と行動を共にする必要はありますまい。」

伊勢はそう言うと、にやりと笑った。正幸は、伊勢の言葉に一縷いちるの望みを見出した。

裏手の山は、傾斜が急でふもとには川が流れている。ただ、山の中腹に平らな空地があり、政府軍の兵士がそこに集結していた。

伊勢は山の地形を書いた地図を正幸の前に広げて、焚火の火を頼りに説明し始めた。

「確かに、この平地に百五十程の兵士が守っていますが、この陣営は周りが急峻な傾斜の崖に囲まれ孤立しており、いったん騒ぎが起こっても素早く援軍は駆けつけられません。」

伊勢の語気が強まった。

「ほう、ここを突破して、遮断された山道を突き抜け川を渡るつもりなんだな。」

正幸の体が、地図に引き寄せられて前のめりになっている。

斥候せっこうを出したところ、奴らはその中腹で点々と焚火を焚いているそうです。その火を標的に、われらの銃を発射すれば、部隊は上へ下への大騒ぎになるのは必定。その間隙を縫って、正幸様が手勢で斬りこみ、その後を残りの鉄砲隊が発砲しながら突入すれば、必ず活路が見いだせるはず。」

伊勢はそこまで言うと正幸の顔を見た。彼は興奮して大きく息を吸っている。


伊勢の作戦は見事に的中した。正幸の隊は、一丁の銃を失うことなく、数人の死者を出しただけで政府軍の包囲網を突破したのである。

結局、この包囲網を抜け出したのは長谷部隊だけだった。長岡藩を中心とする幕府軍は、大半が討ち死にして、軍は壊滅した。


(長谷部隊の行方)

「みんな、酒じゃ!」

正幸の大声に応じるように、寺の講堂に歓声が沸き上がった。冬が近づいてきている北陸の寒さを実感していた兵士たちは、やっと人心地着いた思いであった。

「酒を飲めるのは何日ぶりかのう。」

お互いの背中を合わせて、体のぬくもりを頼りにじっと黙って動かなかった兵士の顔に久しぶりに笑顔が戻った。

兵士たちの大騒ぎを笑顔で見ている正幸は、副官の伊勢と共に兵士たちと少し離れたところで、湯呑に酒を注いでは一挙にあおっている。

「どうだった。酒田の町は・・。」

町から帰ってきた伊勢に、正幸が尋ねた。

正幸は伊勢に最後の金を全部預けて、酒を買いに酒田の町に送り出した。伊勢と数名の家臣は、寺から僧侶の衣を借りて変装し、町に出かけて帰ってきたのである。この寺の和尚は庄内藩に同情的で、幕府軍の敗走兵にもかかわらず、長谷部隊をかくまってくれていた。

「残党狩りをやってるようです。もしわれらが侍の格好をしていたなら命はなかったのでは・・。」

正幸は、伊勢の言葉を黙って聞いていたが、おもむろに重い口を開いた。

「伊勢・・。ここらでよかろう。」

正幸のあいまいな言い回しにもかかわらず、伊勢はすべてを理解した。

「亡き春継様の意をくんで、よくぞここまで義理を果てしてくれました。お礼の言いようもありません。」

伊勢はそう言うと、涙を流しながら正幸の前で深々と頭を下げた。正幸は伊勢の感謝に返す言葉が見つからず、急に込み上げる感情を抑えることができず、目から大粒の涙があふれ出た。

遠くからその様子を見ていた家臣の中から、すすり泣く声が漏れてくる。

「せっかく久しぶりの酒で、盛り上がったのに水を差したな。」

正幸が家臣たちのうつ向く様子を見ながら、手で涙をぬぐうと、笑顔を見せてそう言った。

「殿、飲みましょうぞ!」

一人の兵士が、大声でそう叫んだ。

「そうだな。みんな、酒を飲みながら聞いてくれ!」

兵士の言葉に応じて、正幸はこれからのことをみんなに聞かせようとする。

正幸の言葉に耳を傾けようとして、兵士の間に静寂が戻った。

「わしらの銃の弾薬は尽きてしまった。いわば、からっけつだ。(苦笑いをする)戦の行方も見えてきた。だがな、おぬしらをこのまま北に向かわせるのは忍びない・・。伊勢も分かってくれたようなので、わしはこの地でわれらの戦に終止符を打つことにする・・。」

正幸の言葉に、わっと泣き出すもの、うつ向いて黙ってしまうもの、皆それぞれに自分の関わった戦に終止符を打とうとしているようだった。

「だがな、生き残ったお前たちに先のめどを立ててやるのは、わしの務めだ。そこで、わしの計画を聞いてくれるか。」

正幸はそう言うと、兵士一人一人の顔を確認するように見て、考えていた計画を彼らに説明しようとする。

その内容は、最後に残った財産である銃を売り払って金を作り、兵士たちの生計にめどを立てたうえで、見能林藩に彼らの面倒を見てもらうと言うものだった。

「おぬしらに不服があるかもしれんが、わしはこれ以上戦いを続けて、北へ向うことをおぬしらに命令することはできん。幸い、見能林藩の藩主は、わしの甥だ。このことは、すでに藩主伊織にわしから頼んでおる・・。」

正幸の言葉に、兵士たちは合わせたように床に手をつき深く頭を下げて、素直に正幸の計画を受け入れる意思を示した。

「伊勢、最後のわしの務め助けてくれるか・・。」

正幸は側にいた伊勢の方を向くと、軽く頭を下げて彼が承諾してくれるように頼んだ。

「殿の温情に逆らうものなどありません。もちろん、この伊勢逸郎、最後まで殿に仕える覚悟です。」

伊勢が、姿勢を正し、語気を強めてそう宣言した。



(右衛門達三人の旅)

右衛門達は、やっと会津を抜け出し北へ向かい始めた。

「行くところ新政府軍の兵士ばかりだ。今では、政府軍でなければ人ではないような振る舞いだな。」

柴田老人が、皮肉を込めてそう呟いた。

「右衛門様はまっすぐ庄内へ向かうのですか。」

口数の少ない早紀が、小声で話しかけた。右衛門が応じるように、早紀に笑顔を見せる。

「まずは、わしの友人(正幸)の動向が知りたいのだが・・。政府軍の各陣を見ているが、どうもわしが知っている指揮官の陣が見つからん。」

その話を聞いて、柴田が口を出した。

「確か、友人は幕府軍に加わっていると聞いたが・・。新政府軍の参謀にそんなことを聞いては都合が悪いのではないか。」

柴田の疑問ももっともだった。

「はあ・・。しかし、わたしは幕府軍にも政府軍にも加担した覚えはないのです。それに、幕府軍の状況は敵が一番知っているのではないでしょうか。」

右衛門は、妙な理屈を柴田に説いて聞かせた。大体、長州征伐では、会津軍の指揮官を斬ったのは右衛門である。いわば、戦況を大きく変えた張本人である。その男が、中立面をするのは、余りにも厚かましいような気がする。しかし、柴田老人は、右衛門の説明に納得したのか、何も反論をしなかった。もちろん、柴田が右衛門の過去の経験を全部知っているわけではないのだが。


「じいさん、面白い刀を差してるな。」

茶屋で休んでいた三人に、通りかかった兵の集団の一人が言葉をかけた。

柴田老人はまるでその言葉に気づかなかったように、平然と湯呑を口に近づけ茶を啜った。

「どうやら耳が遠いらしい。」

この兵士は嘲笑するようにそう言うと、同僚の兵士たちの方に顔を向けた。同時に、同僚の兵士の間で笑いが起こり、長椅子に座る三人の周りを囲み始める。早紀が、なるべく彼らに視線を合わさないようにうつ向いた。

「見知らぬ人に言葉をかけるときは、もう少し丁寧な言葉使いをしなくては・・。まあ、新政府の兵士の大半は、百姓町人らしいから無理もないが。」

今度は、柴田の方がさっきの兵士をからかうようにそう呟くと、自分たちを取り囲む連中を上目づかいで見上げると、ふふっと鼻で嘲笑った。途端にその場に緊張が走り、兵たちが一歩下がって身構えた。すると、

「先生、私をあてにして、つまらぬいざこざを起こそうとするのは止めてくださらんか。」

右衛門がそう言いながらため息をついた。

「おぬし何者なのだ・・。」

自分たち集団の威嚇に動揺しない右衛門を見て、他の兵が声をかけた。反応がなく、沈黙が続く。たまりかねたさっきの兵士が、

「まあいい。おぬしが何者であろうと、政府軍の兵士を挑発すには、それだけの覚悟はあるのだろう。」

どうやらこの侍らしい男が、この兵士たちを統率しているらしい。

彼の言葉と同時に、後ろで銃を持っている数人の兵士が右衛門と柴田老人に銃口を向けようとする。次の瞬間、右衛門の刀が抜かれ、銃を持つ兵士たちの手首を一瞬にして切裂いていった。

何が起こったのか未だに理解できない兵士達が、何故か銃を持つ手に力が入らなくなった手首に目をやった。

「わああ!」

彼らの口から一斉に叫び声が湧きあがり、あたりが騒然とし始める。何事が起ったのか見物するために、通りかかった野次馬が兵士たちの集団を遠巻きに取り囲みだす。

その時、

「右衛門殿ではござらぬか!」

そのやじ馬たちの中から右衛門に大きな声をかけると、囲んだ兵士たちを押しやりながら、地位の高そうな軍服の男が右衛門に近づいてきた。右衛門が確認するようにその男の顔を見る。

「私は高津源九郎の副官で、長州藩士柳瀬英二と言います。草津があなたの江戸の住まいに立ち寄る際、途中まで同行して、あなたを見かけたことがありまして・・。」

柳瀬はそう言うと、姿勢を正して頭を下げたかと思うと、兵士たちの方を振り向き、

「お前らのかなう相手ではない。それよりすぐ医者に行って、手を負傷した鉄砲隊の手当をしてやれ!馬鹿者が!」

柳瀬が兵士たちに大声を張り上げた。その叱責を聞いた兵士たちが、右往左往しながら、負傷した兵士を支えて街道を遠ざかって行こうとする。

再び、柳瀬が右衛門たちの方を見て、

「高津も右衛門殿がここにいることを聞いたら、喜ぶと思います。早速ですが、どちらでお泊りで・・?」

気の早い男である。高津と右衛門の面会をすでに想定しているのだ。

「いや、今日の宿までは・・。」

右衛門は、すっかり柳瀬のペースにはまっていた。

「それなら、瀬戸屋がよかろう。早速、部下に案内させますので・・。」

知らない間に、数人の部下が柳瀬の後ろでじっと立っていた。

「政府軍の高官が勧める宿なら、上等の宿だろうな。」

柴田が、いきなり口をはさむ。

「それはもちろん。この辺では最高の宿かと。」

柳瀬は柴田の質問に答えてそう言うと、余裕たっぷりの笑顔を見せた。

「右衛門、柳瀬殿の言葉に甘えようではないか。」

柴田は、宿で出される久しぶりの高級料理を頭の中で想像していたようだ。

「先生にはかないませんな・・。」

右衛門はそう言いながら苦笑した。側で見ている早紀が笑顔を見せている。

「案外、柴田先生を連れてきたのはよかったかもしれん・・。」右衛門は、そんなことを思い始めていた。


右衛門たちが、宿について程なく草津がやってきた。

「右衛門殿が北陸に来るのではと、木場とも話していたんですが、まさか私の陣営に知らせが届くとは・・。木場に言ったら悔しがるでしょう。何せ、奴は右衛門殿のことを相当気にしていたのですから。」

草津の会話は滑らかで、始終機嫌がよさそうだ。

「何か私に用でも・・。」

右衛門にしては、なぜ木場が自分に関心を持つのか理解ができなかった。

「そりゃ、佐那河内の中心人物ですからな。それに、天下に聞こえた剣豪と昵懇じっこんになりたいのは、木場ばかりではありませんよ。わしだって、右衛門殿には関心がある。それに、薩摩の連中も・・。」

草津は最後にそう言うと、にやりと笑った。

「おぬし、よほど重宝な人間らしいな。」

側で聞いていた柴田が、そう言ってからかった。

「わしではなく、弥吉や喜一郎の武器だろう。」右衛門はそんなことを推察しながら、草津と同じように、にやりと笑った。

「私の方も草津殿に聞きたいことがあってな・・。」

先に、右衛門の方が草津を利用しにかかった。

「ほう、何ですかな・・。」

草津の顔から笑顔が消えた。何を言い出すのか警戒しているようだ。彼が聞いた噂によると、右衛門はかなりの策士と聞いていた。

「幕府軍長谷部隊の正幸殿のことだが・・。私には一向に消息がつかめんのだ。おぬし、何か情報を持っておらんか。」

右衛門の質問に、草津の顔が曇った。

「右衛門殿も人が悪い。敵の私に幕府軍の指揮官の動向を確かめるとは・・。」

聞いていた柴田が、やはり自分の方が正しかったのを確認して、嬉しそうに笑い始めた。

「こちらの方は・・。」

笑い始めた柴田に気付いた草津が、右衛門に尋ねた。

「蘭学医の柴田周明先生です。」

右衛門からそう聞いた草津の目が輝いた。

「われらの隊でも医者を探していましてな・・。蘭学医となれば、こんな有難いことはない。どうですか先生、われらの軍に加わってはくれませんか。報酬ならお望み通り・・。」

草津が、唐突に柴田に頼んできた。よほど医者を探していたのだろう。

柴田の顔から笑顔が消えた。

「やめとこう。わしは、これでも元会津の藩士でな・・。」

柴田は、元会津藩士である自分の素性を草津に話した。やはり、会津を捨て去ることはできないようだ。

「そうですか。これは無神経なことを言いました。わしが、幕府軍に仕えよと言われるようなものでしたな・・。」

草津が素直に謝った。この言葉に、柴田は初めてまともな政府軍の侍に出会ったような気がしたのである。

「この娘も会津の侍の子供でな。」

右衛門が、草津に早紀の身の上も説明した。

「右衛門、そう草津殿を責め立てるな。」

柴田の言葉に、右衛門はあきれたように彼の顔を見る。「最初に言い出したのは先生ではないか。」そう言いたかったが、ぐっとこらえた。

草津が二人の会話を聞いて、含み笑いをし始めながら、

「仕方ない。私の知っている限りを話しましょう。(右衛門の顔を見て)長谷部隊は、庄内近くの山に立てこもり、長岡藩の家老と行動を共にしていたのですが、黒川の軍に包囲され、壊滅しましたぞ。」

草津の言葉に、右衛門の顔が曇り始める。

「ただ、敵の一隊だけこの包囲網を抜け出したそうで・・。」

草津はそう言うと、笑顔を見せて、右衛門の顔を上目づかいに見る。

「長谷部隊ですか・・。正幸には、伊勢という優れた副官がいると聞いておる。」

右衛門の曇った顔が晴れてくる。

「よくご存じで・・。われらも伊勢とかいう知略家には手こずったようで・・。やはり、佐那河内の武器は侮れん。優れた知将がいれば、更に始末が悪い。」

草津の本音がちらりと見えた。

「なるほど、どうやらこのへんが右衛門に執着する理由らしい。」勘のいい柴田がそう納得した。

「それで、その後の足取りはご存じか。」

右衛門が、重ねて草津に質問する。草津は、左右に首を振った。

「ところで、右衛門殿は、美桜様と美代様がこの近くにおられるのをご存じか・・。」

草津が話題を変えた。草津はこのことを最初に言いたかったのである。

「知らん。」

右衛門の目が輝いた。興味を持ったしるしである。

「私と木場の考えで、われらの家臣で長州藩藩士の小島という者を二人につけてお助けしています。なにせ、美桜様と源一郎をはじめ佐那河内の方々は、長州征伐ではわれらのために多大な働きをしてくださり、恩義に答えるためにも、できるだけのことはしたいと思いましてな・・。」

草津は、美代の名を避けながら、長州と佐那河内の縁を強調しているように思えた。

この時、右衛門は、美代と美桜に会いに行こうと決めたのであった。


(慎吾と正幸の遭遇)

「旦那様、店に幕府の残党らしき浪人たちが来ております。」

奥で飯を食っていた慎吾のもとに、店の使用人が息せき切って駆けこんできた。慎吾と美津の視線が思わず合う。

「何人ぐらいいるのだ。」

そう言いながら、慎吾は横に置いてある刀を手繰り寄せた。

「外に大八車を引いてきた男たちが二名、玄関で平蔵さんが対応されているお侍が二人。

特に、玄関の二人は着物はかなり汚れていて、屈強そうな浪人です。」

使用人は早口で説明しながら、一人慌てている様子である。

「将太と哲太を呼んできてくれ、離れの部屋にいると思うので・・。」

慎吾がそう言うと、

「私が呼んできます。」

美津がそう言って、立ち上がった。同時に、慎吾は刀を畳に押し当てて立ち上がり、知らせに来た使用人を尻目に玄関にすたすたと歩いて行った。


正幸と伊勢が、慎吾の店先で平蔵と言い争っている。

「ですから、手前どもの店では武器など買うつもりなどありません。たとえどんなに貴重な最新の銃でも、そのようなものに興味ありませんのでお引き取り願います。」

さすがに、本間光秀の見込んだ番頭だけあって、二人の侍にも気後れすることなく、相手の要求を突っぱねた。

「お前では話にならん。この店の主人を出してくれんか。」

正幸に同行してきた伊勢が強い口調で平蔵に言いよった。

その時、慎吾が右手に刀をもって現れた。

「わしが主人だが・・。今聞いての通り、この店はこの番頭が差配している。わしはこの平蔵に全幅の信頼を寄せているのだ。悪いが、番頭が駄目だと言ったら駄目なのだ。」

慎吾はそう言うと、正幸の方を向いて顔を睨みつけた。

「伊勢、どうやらここの主人は商売人ではないようだ。いささか剣の腕は立ちそうなので、用心棒役でもしているのだろう。」

さっきから伊勢と番頭の交渉にいらだっていた正幸は、突然現れた慎吾の人を突き放すような話を聞いて、ますます怒りがこみあげてきたようだ。

「おぬし、人の店に勝手にやってきて、言いたい放題言ってかえるつもりか。」

やはり腕に覚えがあるだけに、慎吾は血の気が多かった。平蔵は慎吾に感情を抑えるようにと目くばせをする。

この番頭の仕草に、今度は正幸が完全にきれてしまった。度重なる戦での心労もあったのだろう。正幸が思わず慎吾の方に一歩近寄る。

伊勢は、その正幸の気持ちを察したかのように、

「主人、この方に喧嘩をけしかけるような物言いはやめとけ。争っておぬしのかなう相手ではない。店先で店の主人を斬ったところで、殿も何の手柄にもならんしな・・。」

二人の仲介をしたつもりで、そう言った。伊勢が二人に割って入って、間を取ったことで、正幸にしてもこんな場所で斬りあいになるのを避けたい事情もあり、じっと目を閉じていらだった気持ちを抑えている。

しかし、伊勢の言葉は慎吾の闘争心に火をつけた。

「わしも薩摩の人斬りと言われた男だ。おぬしの剣の実力見せてもらおうではないか。」

そう言って、鞘から刀を抜いた。

正幸も慎吾の「薩摩」という言葉に反応し、これ以上は避けられないと、刀を抜いて慎吾の挑戦に応じたのである。

その時、慎吾の後ろから哲太の叫び声が聞こえてきた。

「正幸様!」

その声は、熱くなったその場の雰囲気に水をかけるには十分だった。


奥に通された正幸と伊勢は、慎吾、哲太と将太、平蔵、美津と対面することになった。

「お連れの家臣の方は、別部屋でくつろがれておられるのでご安心を・・。」

番頭の平蔵が、正幸と伊勢に気を利かせた。二人が頭を下げる。

「正幸様、お久しぶりです。」

嬉しそうに話しかけたのは、将太であった。正幸が彼の顔を見て笑顔を見せる。

「申し訳ありませんでした。」

慎吾が、正幸に取った態度に謝罪をする。

「わしこそ、いい年をして分別のつかぬ子供のようだった。」

正幸の方も彼に応じて、頭を下げた。

「詳しい事情は伊勢様からうかがいました。私どもにできることなら何でもさせてもらいます。」

哲太から正幸の素性を確かめた平蔵は、その後伊勢から事情を詳しく聴いて、即断で伊勢の依頼を受け入れたのだった。

「弥吉さんの銃なら間違いはない。私どもの方で、商品として利用できる時まで置いておきます。いくら金になっても新政府軍には売りませんから。」

慎吾にしては、気を使った配慮である。やはり、佐那河内の連中には特別な親近感があり、相手の気持ちもわかるのだろう。

「すまんな。」

普段なら考えられないことだが、正幸の目に薄っすらと涙が浮かぶ。やはり、これまでの苦労は並大抵のものではなかったことがうかがわれた。

「私と慎吾は、右衛門様には言い尽くせない程のお世話になったのです。その右衛門様の親友である正幸様からの依頼となれば、断れるはずがございません。」

美津が正幸の涙に気付き、すかさず、みんなを自分に注意を向けさせた。

「それにしても、正幸様と慎吾さんの真剣勝負、見たかったな。」

哲太が、湿っぽくなった場の雰囲気を変えようとする。

「馬鹿を言うな。四強で元柳生師範代の正幸様に勝てるわけがない。哲太がいなかったったら、この首が飛んでいたかもしれん。」

慎吾がそう言うと、笑いながら正幸の方を見た。

「そう言えば、右衛門からおぬしのことは聞いていた。確か、右衛門とは長崎で知り合ったそうだな。人斬り慎吾・・とは、おぬしのことか。」

正幸は、慎吾のことを右衛門から聞いていたのをやっと思い出した。

「長谷部隊の方々は、少しづつ別れて北前船に乗せて見能林藩に送ります。その間、慎吾さんの屋敷にかくまってもらっては・・。」

平蔵がそう提案して、慎吾の方を見る。

「平蔵さん、お願いします。」

慎吾が平蔵に頭を下げる。合わせるように、正幸と伊勢も頭を下げた。

「こんなにうまくいくとは、夢のようだ。」

頭を上げた伊勢が、戦が始まって以来初めて屈託のない笑顔を見せた。



(伊勢と正幸)

慎吾の屋敷で伊勢と正幸が久しぶりに畳の上に寝転がって、暫くお互い何も言わず、じっと天井を見つめている。戦いから解放された安堵感から心の平穏をじっくり味わっているようだった。

「これからどうします。」

長い沈黙を破って、伊勢が正幸に話しかける。

「うん・・。まずは、家臣全員が船で見能林藩へ送り出されてだ。慎吾君は、本間光秀殿の護衛をしてくれんかと言ってきたが・・。幕府のために戦った人間ではまずかろう。」

正幸の言葉に、伊勢が苦笑いをする。正幸は今後の身の振り方を決めかねているようだった。ただ、とりあえず佐那河内に残してきた子供と美代のもとに帰るのだけは決まっていた。

「藩主という身分を捨て佐那河内に仲間を集めた右衛門という方は、どのようなお人なのですか。」

伊勢は、正幸から戦の間何度か右衛門のことを聞かされた。伊勢にとって、剣豪としてより佐那河内の村を作った右衛門に興味があった。

「妙なことを言うようだが、奴は一見何の変哲もないそこいらの侍だ。ただ、剣の死闘におよんで、際立った気迫も緊張も見せない。ただ淡々と人を斬る。言っとくが、残虐という意味でない。死を前にしても平然となすべきことをやる・・。そんな男だ。少なくとも剣においてはな。」

伊勢の知りたいのは、剣豪としての右衛門ではなかった。

「佐那河内には、掟も身分の差もないと言ってましたが・・。」

伊勢が、改めて質問する。

「自由な村だ。来るものは拒まず、去る者は追わずだ。おそらく、あの地の和尚と右衛門の考えが反映されたのだろう。彼らは何にも言わないが、それがあの村の暗黙の了解となっている。」

「そうですか。」

正幸の話を聞いて、伊勢は佐那河内に行ってみようかとふと思った。彼にはまだ子供がいない。国に残してきた妻の綾乃は、自分の決めたことなら黙ってついてくるだろう。

その時、彼らの部屋に慎吾が酒を持って入ってきた。二人は体を起こして、胡坐をかいて座った。

「どうですか、酒はお嫌いではないでしょうな。」

慎吾はそう言うと、にこりと笑った。二人とも酒は嫌いではなかった。

「慎吾さんは、右衛門殿ことはよくご存じですか。」

伊勢は、再び慎吾に右衛門のことを聞いた。よほど気になっているのだろう。

「私は示現流の薬士先生と右衛門殿の果し合いを見ました・・。」

そう言うと、慎吾はその果たし合いをまるで目の前に起こったことのように思い浮かべ、じっと黙ったまま、一点を見つめている。

「また剣の話か・・。」伊勢はそう思うと、思わずため息をつきそうになった。

「元主人長谷部春継様の話では、右衛門殿は相当の策略家だと聞きましたが・・。」

伊勢は、敢えて知りたい話題に変えてみた。

「そうでしたか?」

慎吾は、正幸に助けを求めるように彼の顔を見た。正幸が首をかしげる。

「柳生義親様は、右衛門のことを知略家として高く評価していたが・・。外見だけ見てると、それほど聡明そうには見えんがな。」

正幸がそう言うと、慎吾が同意するように頷いた。伊勢はそれ以上右衛門のことを聞くのをやめた。

結局、その夜遅くまで三升の酒を三人で飲み干して、やっと夜明けを迎えることになったのである。その間、正幸と伊勢の将来について何の結論も出なかった。



(右衛門、美桜・美代のところへ向かう)

小島が、街道の茶屋で右衛門たちが通りかかるのを待って二日になる。

「もしや、佐藤右衛門殿では・・。」

小島が、三人連れの通行人のところに駆け寄り声をかけた。

「いかにも、右衛門だが。」

右衛門が怪訝そうな顔で小島の顔を見る。

「やっと会えました。草津様からの連絡で、右衛門殿が美代様に会いに来ると連絡を受けて、連日このあたりで待っておりました。私が二人の所へ案内いたします。」

三人の戸惑った様子にも、小島は無頓着に陽気な笑顔を見せている。

「しかし、なぜ私が右衛門だとわかったのかな。」

もし、小島が「あなたの剣豪としての気配で分かりました。」などと答えたなら、右衛門は彼についていくのを断ったかもしれない。

「右衛門殿に同行する老人が、不釣り合いな刀を差していると聞いていましたので、すぐに分かりました。」

小島は、柴田先生に遠慮することなく正直に答えた。

「そうか、不釣り合いか・・。(苦笑して)右衛門、この刀・・おぬしにやろうか。」

柴田が小島の言葉に意気消沈して、冗談交じりにそう言った。

「頂けるものなら、ぜひ・・。」

右衛門は遠慮しなかった。それほど柴田の同田貫がほしかったのである。彼は、会津で大川の門弟三人を斬った時の感覚が忘れられなかった。「この刀は、わしの意思を無視して、勝手に軌道を舞う。」相手を斬った後、刀に滴る血を見ながらそう思った時の衝撃は、一種快楽に近い官能のように右衛門の心に残っていた。

「まあいずれな。」

柴田が渋った。やはり、柴田もこの刀の凄みを感じているのかもしれない。秘宝を誰にも渡したくないのは、子供だけではなく、老人になっても同じ気持ちなのだろうか。

横で二人の会話を聞いていた小島がぽかんとしている。その三人をじっと見ている早紀も何故か三人の言葉と表情が面白くて、笑いをこらえてうつ向いた。

ともかく、三人は美代と美桜の滞在する宿に小島の案内で向かうことで同意したのである。


美代は突然の病に襲われ、ここ二日ばかり容態は悪化するばかりだった。美桜の出したお粥も口を少しつけただけで、愛想笑いを美桜に見せて布団に戻って横になり、目を閉じて何も言わないのである。

「美代様、元気を出さねば・・。旦那様に再会しても、喜ぶどころか心配なされますよ。」

美桜は困難に直面しても気丈な性格だけど、人を慰めることは苦手である。苦境で打ちひしがれて、立ち直れないような気持ちになったことはないだけに、そんな目にあった当事者に共感もできない。

美桜たちが越後を旅して間もなく、美代の容体が悪くなり、この宿に逗留して三日になる。肝心の正幸の行方は特定できず、小島の情報では、恐らく庄内のどこかにいるということで、漠然と北へ向かうしか仕方がなかった。

「美代様、美桜様。」

部屋の外で、小島の大きな声が聞こえてくる。

「小島さん。どうかなさいましたか。」

障子を開けた小島の陽気な顔を見て、美桜が尋ねる。

「思いもよらぬお方が来ましたよ。」

小島は二人を驚かそうと、敢えて名前を言わなかった。

すると、柴田老人が手に刀を持ち、部屋につかつかと入ってきて、畳に胡坐をかいて座った。小島の大きな声に驚いて目を開いてじっと様子をうかがっていた美代が、不思議そうに見たことのない老人の顔を見ている。

「そうじゃない。こちらです。」

小島が慌てて体を横にずらして、彼の後ろに立っている侍を見せようとする。

髷のないぼさぼさ髪をし、どこか照れ臭そうに苦笑いをしている右衛門が、右手で頭をかきながら軽く頭を下げた。

「どなたです。この人・・。」

美桜の怪しむような視線が、右衛門を直視している。美代も長く会っていないせいもあって、髷を切った右衛門が分からない。二人の女性の意外な反応に、今度は小島が困惑し始め、目がきょろきょろし始める。そして、「美代様は右衛門殿のことを知らないのだろうか・・。」ふと、そんなことを考え始める。早紀が、不安そうに二人の女性を見ているが、一切口を出さない。彼女は元々口数の少ない少女だったが、両親の死後なお一層寡黙になった。

すると突然、

「ああ、右衛門様!」

美代が今まで出したことのないような大きな声でそう叫んだ。

「右衛門、やっと分かったようだ。おぬしも入ってきて座らんか。」

右衛門よりも柴田の方が、即座に美代の叫び声に反応した。

「美代さん、今頃分かったとは薄情だなあ。」

柴田老人の横に座りながら、右衛門が笑顔でそう言う。続いて、部屋の片隅に早紀が座った。美桜は、ぽかんとしたまま右衛門が座る動作をじっと見ている。

「美桜、お前が小さい時、大阪の小野道場に行ったとき、お前を見たことがある。忠成には似ていないが、美人になったな。源一郎が一目ぼれするわけだ。」

右衛門は、照れくささを隠すように一挙に早口でしゃべった。

「これが右衛門様か。普通の人のよさそうなおやじ・・。この人が、果し合いで、父を破ったなんて・・。」美代は、父の忠成と比較しながら、父の方が重みがあると判定した。

「源一郎の妻の美桜です。お初にお目にかかります。」

それでも、美桜はそんな思いはおくびにも出さず、礼儀正しく手をついて頭を下げた。

胡坐をかいていた右衛門が、慌てて座りなおして、応じるように頭を下げる。

「まあ、挨拶はこのぐらいにして・・。美代様は、横にならなくてもいいのですか。」

小島が口をはさんできた。

「何やら、右衛門様の顔を見たら元気になりました。」

美代は、久しぶりに晴れ晴れとした顔をして笑顔を見せた。

「わしが見立てるに、それは心労が重なった気うつ病だろう。元気になるには美味いものを食べるのが一番・・。のう、小島殿。」

柴田老人はそう言うと、小島の顔を見た。

「これは気づきませんで。すぐに、再会の祝いの宴をしましょうぞ。」

柴田の意図を了解した小島がすぐに応じた。こういうことになると、よく気の利く男である。

その後、小島が注文した料理が運んでこられ、大騒ぎはないが、小島と柴田は大いに酒を飲んだ。柴田は、昔かなりの酒豪であったようだが、年を取るにつれて、酒より美食を楽しみにするようになった。早紀も美桜や美代になついたのか、二人の女性の傍を離れず、久しぶりに屈託のない笑顔を見せている。「そいえば、この子はわしと先生の愛想のない男とずっと一緒に旅を続けて、打ち解けて頼れる人間がいなかったのかもしれん・・。」少しだけ酒を飲み、ひたすら料理を食べていた右衛門が、ずっと気にかけていた早紀を横目で見ながら、やっと安心したように笑みを漏らした。


右衛門と再会して以来、美代の病は急激によくなり始め、右衛門らと合流して三日後には、庄内へ旅立つことができたのである。


「美桜、そんなに緊張したら人は斬れんぞ。」

隙だらけの右衛門の背中を見た美桜は、彼の剣豪としての実力を知りたくて、斬りかかって試してみたいという衝動を抑えることができず、刀の柄に手をやっていた。

右衛門の横で団子を頬張っていた柴田が、驚いて美桜の顔を見た。美桜の顔は、いつもの穏やかな表情を一変させていた。

「まるで夜叉になったようだのう。若い娘がそんな顔をするものではない。」

柴田老人はそう言って、美桜に微笑みかけると、向きを戻して街道を行きかう人の流れをぼんやり眺め始めた。

「小島殿から聞いたのだが、美桜は最近、山賊を斬ったらしいが・・。その時、そんなに緊張したか。」

右衛門の質問には答えず、ただ首を横に振って穏やかな気持ちを取り戻した美桜が、右衛門の横に座る。

「こうやって右衛門様の横に座ると、子供のころ、父が遊んでくれたことを思い出す・・。」

右衛門に美桜の優しい気持ちが伝わってくる。

「ずいぶん豹変するものだ。忠成が、お前が男だったら・・とよく言っていたが。なるほどな。」

右衛門は、一人自分で納得している。

「父がよく、心が無になった時、勝負に勝てる自信が湧いてくると言ってましたが・・。」

美桜はそう言うと、右衛門の顔を見てにこりと笑った。

「忠成がそう言ったのだったら、その通りだろう。(向こうの方を見て)美代さんと早紀が帰ってきた。湧水を汲んできたのだろう。そろそろ出かけるか。」

右衛門はそう言うと、ゆっくりと腰を上げた。それを見て、柴田と美桜が立ち上がる。

「小島さんは、もう帰ってこないんですか。」

美桜が右衛門に尋ねる。

「木場殿のもとに帰って、われらが庄内に向かうのを知らせるそうだ。また会えるだろう。」

右衛門が美桜にそう答えて、向こうにいる美代と早紀の顔を見ると、二人が嬉しそうに手を振った。

「虫を捕るときも、普段のように何気ない気持ちで歩いていると、虫の方から近づいてくる。それをひょいと摘み上げれば、虫はいくらでも取れるものだ。気迫をみなぎらせれば、相手も警戒する。簡単には勝負には勝てんかもしれんな・・。」

さっきから右衛門と美桜のやり取りを聞いていた柴田が、ぽつりとそう言った。

「美桜、柴田先生に剣の教えを乞うたほうが、わしより余程いいと思うぞ。つまらぬ奇策を考えなくてもいいしな。」

右衛門は美桜の顔も見ずそう言うと、一人先頭を歩き始めた。

美桜は、剣豪としての右衛門を疑っていたが、少しだけ彼の強さを垣間見た気がした。

「先生は、名医なのですか?」

美桜が、何気なく柴田に尋ねる。彼女は、心の中を見透かされないように、話題を柴田のことに変えたのだ。

「失礼なことを言うな!」

柴田は彼女を一括すると、その後、笑いながら右衛門の後に続いて歩き始めた。



(大久保の野望)

大久保万蔵には一つの野望があった。それは、自分が自由に操れる巨大な豪商を手なずけることだった。確かに、佐那河内の弥吉は、多額の金と引き換えに薩摩のために西洋式の武器を調達し、新政府軍のために貢献した。しかし、弥吉が右衛門や陽明を裏切って、築き上げた財力を薩摩のために使うなど到底考えられなかった。第一、彼が大久保の要求を拒絶しても何の支障もなかったのである。弥吉には、自分の身を守ってくれる佐那河内の仲間がいた。最近では、佐那河内には、暗殺などの裏の陰謀を未然に防ぐ忍びの組織も存在していた。それでは、大前屋の喜一郎はというと、誰もが認める長州びいきの商人である。そんな中、弥吉や喜一郎よりはるかに巨大な財を持つ商人が、大久保の野望の標的として浮かびあがってきたのである。それが、北前船で巨万の富を貯えた本間一族である。その筆頭でもある本田光秀を新政府の権力を使って手なずければ、大久保の念願は現実のものになるかもしれなかった。

西田を大将とする新政府軍は、予定通り幕府軍を次々に降伏させて、薩摩藩の実力は全国的な権威を手に入れつつあった。その権力を利用して、大久保は確実に本間家の財力に襲いかかろうとしていたのである。まずは、本間光秀に薩摩のために六万両を要求して、相手がどう出るか、じっと出方を見守っていた。そんな中、思いもよらぬ朗報が田中からもたらされたのである。


「どうやら、幕府軍の長谷部正幸とその家臣が、本間光秀の婿養子になった元薩摩藩士の本橋慎吾の屋敷にかくまわれているらしいです。」

田中の知らせに、大久保の目が輝いた。

「あの人斬り慎吾のことか・・。」

田中が、大久保の問いかけに頷く。

「それは面白くなってきた。どうやら運が向いてきたようだ・・。本間には六万両要求していたが、十万両に吊り上げてみるか。出し渋ったら、長谷部の件を脅しに使えば、どうすることもできんだろう。幕府軍をかくまえば、本間自身も戦犯と言われても仕方がない。言い訳のしようがないしな。」

大久保の口元から笑みがこぼれた。

「しかし、十万両とは想像もつかん金ですな。」

田中は大久保の大胆さと策士としての手腕に感心していた。

「十万両は、本間を手なずける手段にすぎん。狙いは、本間家の財力丸ごとよ。」

上機嫌の大久保が、唸るような笑い声を立てながら目を輝かせている。

「西田さんとは、この計画について話し合わないのですか?」

田中がそう言って、大久保の顔を見た。

「西田は正面から幕府を追い詰め、わしは裏から奴を支えるつもりだ。新しい薩摩中心の政府のためにな・・。」

大久保にとって、この陰謀も新しい世の中を作る大義のためだった。


一方、大久保の企みが長州の木場に伝わった。木場の怒りはすぐさま行動に移された。

大久保が田中から長谷部隊の行方の報告を受けた翌日、木場が会津から大前屋の喜一郎と共に酒田にやってきたのである。酒田へ来る途中、木場は庄内にいる高津にも大久保の企みを伝えて、自分と同行するように誘っていた。高津は、木場にとって苦難を共にしてきた盟友である。それだけに、難題が持ち上げれば必ず二人は協力し合ってことに当たった。


「大久保さん、我ら長州藩を出し抜いて、勝手に新政府の権威を振りかざしては困りますな。新政府のために戦っているのは、薩摩藩だけではないのですからな・・。」

木場は穏やかな口調で話したが、うちに込められた怒りはおさまってはいなかった。

大久保は、新政府が戦いの勝利で没収した庄内藩家老の屋敷に滞在している。

座敷には接待用の丸い机が置かれ、座敷から見える庭には人工の池があり、淵にはりっぱな灯篭が置かれている。秋も深まり庭に咲いてるもみじの木の葉が真っ赤に染まって鮮やかだった。

大久保の顔が一瞬曇った。

「本間家への戦費調達のことですかな。」

大久保の顔から笑顔がのぞく。草津は二人の会話を腕を組んでじっと聞いている。

「やはり事実か・・。」

木場はぽつんと呟くと、それ以上何も言わず大久保の出方を待った。

「何もあなた方に隠すつもりはなかったのです。それが証拠に、私はこのことをまだ西田にも話していない・・。目的は、本間家が新政府に協力するかどうかが知りたかっただけです。」

不自然な笑顔を絶やさず、言い訳をした。

「ではなぜ、薩摩の名前で本間家に資金を要求したのですか。納得がいきませんな。」

じっと黙っていた草津が、初めて口を開いた。高津の疑問に答えるのに窮した大久保が、黙ったまま目を閉じ腕を組んだ。こうなると、誰も口を開くのが難しくなってしまう。

間の悪い膠着状態がしばらく続いた後、木場が口を開いた。

「まあいい。大久保さんの言い分を信じよう。ただ、我々がこうやって事情を知ったからには、六万両を本間家から調達したなら、どのようにその金を使うのか、我々にも説明してくださるんでしょうな。」

木場の顔が真剣になって、大久保に詰め寄ろうとしている。

「それほど言うなら、あなた方が自由にお使いください。ただし、新政府のために使うのが条件ですが・・。わしは何も疑われるようなことはしていないつもりだ。」

大久保は、再び作り笑いを始める。


彼の目的は、本間家自体を自分の思う通りに操ることであり、六万両を手に入れることにこだわることではなかった。そのために、田中や大川のような剣の使い手をこの地に呼んでいたのである。もし権力で本間家から金を出させれば、次は彼らの武力を使って、自分たちに逆らうものを抹殺する。その後で、新たな要求を本間家に飲ませる。脅しと強要を繰り返すことで、本間家を次第に思い通りに操ることであった。

そんな大久保の陰謀の進行中に、長谷部正幸という抹殺するには恰好の標的が現れた。ただ、木場と草津が彼の計画をかぎつけたのは余分であったが・・。しかし、彼らはまだ、長谷部隊が本間家の関係者である慎吾にかくまわれたことを知っていなかった。そのことは好都合であり、彼の真の計画が発覚していない証拠であった。

「六万両が欲しかったら、くれてやるわ。」

二人が去った後、大久保は小声でそう呟くと、庭のもみじを見ながらにやりと笑った。

大久保は、このやり方(脅しと強要)で何度となく商人たちから軍備の資金を調達してきた。しかし、今度の相手は今までの商人とは規模が違っていた。本間家の財力を自由に操れるということは、新政府樹立の後に、自分の仲間たちが国の中心で安定した権力を維持するための大きな助けになるのは間違いなかったからである。


大久保がいる屋敷を出た木場と草津は喜一郎がいる宿へと向かった。

「どうでしたか?」

木場と草津が部屋に入るや否や、喜一郎が尋ねてきた。

「あの狸、あっさり認めたわ。六万両の分け前はしっかり確保した。大久保の口ぶりでは、ほとんど我らのものになるかもしれん。」

木場が満面の笑顔を浮かべている。

「わざわざ酒田へ来た甲斐があったというものだ。」

草津は、喜一郎が持ってこさせた料理を勝手に食べながら嬉しそうにそう言った。

喜一郎は、慎吾が言った「右衛門殿なら・・・」という言葉を思い浮かべていた。

「何も右衛門殿がいなくても、わしならうまくやれるのだ・・。」そう思うと、自然と笑みがこぼれた。

「しかし、何か腑に落ちんが。」

畳に座って胡坐をかいていた木場が、納得がいかない顔をしてそう言った。

「おぬしもそう思ったか。あの大久保が余りにも素直に譲歩したのが気に食わぬ・・。」

木場の言葉に応じるように草津がそう言った。

それっきり、三人はそれぞれ考え事をしているのか、何も言わずに黙ってしまった。

「まあ、いいではないか。奴に策略があっても、その時に対応するしかない。とりあえず、会津に帰って戦の後始末だ。」

木場は会津の戦後処理が気にかかっているようだった。

「大久保の陰謀があるとしても、奴には一つ計算外のことがある。」

草津はそう言うと、喜一郎と木場の顔を見てにやりと笑った。

「右衛門殿か・・。」

木場が草津の考えていることを言い当てる。「打てば響く」とは、この二人のことを言っているようだ。草津と木場には右衛門の到来が何か大きな騒動になるような予感がしてならなかった。

「また右衛門か・・。」草津の言葉を聞きながら、喜一郎は右衛門に軽い嫉妬を覚えた。



(大川-正幸、対決)

慎吾は、正幸と一緒にいるのが好きだった。やはり、柳生流の師範代であり、佐那河内の四強である彼の剣に憧れがあった。正幸と一緒にいるだけで自分の剣の腕が上がったような気がするのである。慎吾は根っから剣術が好きなのだろう。

「どうやら、薩摩の大川さんが酒田にきているのではないでしょうか。示現流の最強の使い手が、大久保さんの屋敷を出入りしているという情報を耳にしたのです。薬士先生亡き後、薩摩の最強の武士と言えば、大川さんしかいない。」

慎吾の言葉に正幸の表情が曇った。大川の名前は、新政府軍と戦っている間、何度か耳にしていたのである。幕府軍の腕に覚えのある侍が次々と大川に殺され、幕府兵の間では「薩摩の狂犬」と呼ばれて恐れられていた。大川の戦法は、凄まじい声を上げて一撃で敵を倒すのが常であった。その叫び声が狂犬の吠える声に似ていたので、幕府兵は彼を「狂犬」と呼んでいたのである。

「慎吾のおかげで、わが家臣の半分以上が無事に見能林藩に送られた。後、残っているのは二十人余りだ。おぬしには、何と礼を言ったらいいか・・。」

正幸は、慎吾の大川の話には乗らなかった。

あたりは薄暗くなり、道を歩く通行人も正幸と慎吾だけである。遠くの方で、寺の鐘の音が聞こえ、穏やかな一日が終わろうとしている。正幸は戦で生やしていた髭も剃り、すっかり以前の自分の姿にもどっていた。ただ、あまり目立たぬように浪人風の地味な着物を身に着け、常に周りを気にしているようだった。

「どうです。近くの店で酒でも・・。」

慎吾が、にこにこしながら正幸を居酒屋に誘う。二人は二日に一度は一緒に酒を飲むのであった。

「いや、今日はやめとこう。あまり油断をしていると、何が起きるか分からんしな。わしは、政府軍と戦った賊軍だから・・。」

正幸は、敢えて自分を「賊軍」と呼んで自虐的になった。以前なら、そんな言葉が自然に出る程余裕はなかったのだが、慎吾の屋敷に厄介になって以来、やはり心に平穏がおとずれた証拠であった。


何とか戦を切り抜けてきた正幸に、想像もしていない不幸が起ころうとしている。

二人が並んで歩いていると、慎吾に薩摩訛りで声をかけた二人ずれの侍が前方に現れた。

「慎吾じゃらせんか。」

声をかけたのは、田中である。

慎吾の顔が一瞬こわばるり、わずかに残る夕日の光を頼りに、前方に目を凝らして相手の顔を確認する。

「田中さん・・。」

慎吾はそう言ったなり、後の言葉が出てこない。田中の後ろには薄明りでぼんやりしていたが、その侍が大川だとすぐ分かった。同時に、正幸もただならぬ気配を感じて歩みを止めると、自分の刀を意識する。

「酒田で本間家の娘と一緒になって、羽振りのいい暮らしをしてると聞いていたが、相変わらず刀を捨てられんようだな。」

田中の目は鋭いが、不自然な笑みをたたえている。正幸は、張り詰めた緊張を感じ取り、大川との死闘を覚悟した。田中の言葉は穏やかだったが、二人の殺意は隠しきれない。

慎吾も田中と大川の圧力を十分感じていた。

「田中、もういい。後ろのご仁は、我らの殺意を感じ取っているようだ。」

大川が、いきなり田中と慎吾の会話を中断させた。

「おぬしは、気が早すぎる。相手の言い訳も聞いてやらねば・・。慎吾がなぜ、幕府の長谷部正幸と一緒にいるのかをな・・。」

田中はそう言うと、にやりと笑ったが、目は獲物を狙う鷹のようだった。

「これ以上、話しても無駄なようだ。慎吾、前の男を頼んだ。」

正幸が低い声でささやくように慎吾に言った。

すると、双方が同時に、おもむろに刀を抜いた。四人の抜いた刀が、わずかに残った日の光に輝いたかと思った瞬間、田中と慎吾の刀が、重なりあって交差する金属の鈍い音が虚空に響きわたった。

一方、正幸は刀を水平に後ろに引くと、大川の一撃を受け止めるためにじっとその場で構えを崩さない。大川の刀が上段に構えたまま、気合を込めた叫び声で正幸に駆け寄ってくる。

「きええ・・!」凄まじい大川の声・・同時に、正幸の刀が、彼の奇声に素早く応じる。

大川の上段から打ち下ろされた一撃を受け止めるために、正幸の刃が斜め上にはね上げられた。その瞬間、大川の振り下ろした刃の一撃が、わずかに軌道を変えた。予想もできない刀の軌道に、正幸の刀が対応しようとする。次の瞬間、勝負はついた。大川の刃が、正幸の右胸あたりをまっすぐに切り裂いていったのである。

「どうして振り下ろした刀の動きが変えられるのだ・・。」血が吹き出る自分の体を自覚しながら、わずかに残った意識の中で正幸は何度も心の中でそう叫んでいた。

「正幸様!」

正幸は、慎吾の泣き叫ぶ声がわずかに聞こえた。次の瞬間、深い傷を負った自分の体が揺れながら崩れ落ち、血で染まった地面に横たわって動かなくなったのである。

「田中!長谷部は仕留めた。慎吾は放っておけ!」

大川がそう叫ぶと、田中は身をさっと引き、慎吾に背を向けると大川の後を一目散で走って行った。

目の前に広がる信じられない光景を目のあたりにして、慎吾は何度も正幸の名を叫びながら、地面に膝を着いたまま、おいおい泣き叫ぶだけだった。


異様な慎吾の叫び声に驚いた近くの住人が、家から飛び出してくると、

「あれは、本間家の慎吾様じゃ。急いで店に行って知らせてこい!」

そう叫んで、慎吾の店に人を走らせた。

慎吾の泣き叫ぶ声のおかげで、正幸の瀕死の体は慎吾の店に戸板で運び込まれたのであった。


(右衛門、酒田に来る)

慎吾の店ののれんをくぐった右衛門を、番頭の平蔵が目ざとく見つけた。

「右衛門様!」

平蔵はそう言ったなり、暫く身動きもせず右衛門をじっと見つめている。周りの使用人も、平蔵の驚く様子を見て、ただならぬ異変を感じ、突然の来訪者の方に視線をやる。

右衛門に続いて、柴田老人、美代、美桜、早紀が店の中へ入ってきた。

「平蔵さん、久しぶりだな。」

平蔵の驚きように戸惑っていた右衛門だったが、笑顔で話しかける。

右衛門の言葉で、平蔵が我に返ったように彼の手を取った。

「間違いない・・。右衛門様だ。こんな時によく来てくださった。あなた様は、救いの神かもしれません。」

平蔵は訳の分からない事を口走ると、慌てて店の奥へと駆けこんでいった。

知らせを聞いて現れたのは、慎吾ではなく美津であった。

「右衛門様、よく来てくださいました。」

美津も平蔵と同じように右衛門の手を取ってきた。

「どうしたのだ・・。何かあったのか?」

さっきからの異様な出迎えに、右衛門が美津に事情を問いただした。

すると、美津の目に涙が浮かぶ。

「長谷部正幸様が・・。」

美津は事情を説明することなく、正幸の名を出した。

「正幸が、酒田に来ておるのか。」

右衛門は、正幸の消息を求めて酒田へやって来たのである。小島の話から、正幸が庄内に来ていることは分かっていたが、まさか美津の口から正幸の名が出るとは思っていなかった。

美津が、右衛門の問いに頷く。すると、美代が柴田と美桜を押しのけ前に出た。

「主人は、ここにいるのですか?」

美津に詰問するように問いただした。美津が不思議そうな顔をして、美代の顔を見た後、説明を求めるように右衛門の方に視線をやった。

「この方は長谷部美代様と言って、正幸の妻女だ。正幸の消息をたずねて、阿波からわざわざ正幸に会うため旅を続けて来られたのだ。」

右衛門が、美津に美代を紹介する。それを聞いていた美津の目から大粒の涙があふれ出て、わっと泣き出してしまった。

事情の分からない右衛門たちは美津の挙動に困惑して、どうしていいかもわからず戸惑うばかりだった。

その時、その様子を見ていた平蔵が、意を決したように口を開いた。

「長谷部様は、昨日、慎吾様と一緒にいたところ、暴漢に襲われて斬られました。」

平蔵は、誰かが引き受けなければならない告白を、敢えて自ら引き受けたのだ。

その言葉の後、美代の悲鳴のような叫び声が店の中で鳴り響き、そのまま耐えかねたように意識を失った。

「美代様、しっかりなさって!」

気絶した美代を抱きかかえた美桜が、助けを求めるように右衛門を見る。

「柴田先生・・。」

今度は、これに反応した右衛門が医師である柴田に助けを求める。

美代に駆け寄り、美代の腕をとって脈をとる柴田も突然の出来事にかなり焦っている。

「とりあえず奥に運んで横にさせてくれ。」

柴田先生の言葉に、数人の使用人が集まり、美代を抱えて奥の部屋に担いで行く。その後を追う美桜と早紀・・。右衛門は慌ててしまい、店の土間を行ったり来たりしている。平蔵の指図で、いったん店の戸が占められ、突然の店じまいに慌てる使用人たち・・。店の中は、蜂の巣をつついたようになった。


幸い美代の気絶は大事に至らず、彼女の回復を待って、右衛門と美代、柴田、美桜は、正幸のいる慎吾の屋敷に行くことになった。


「先生、どうですか・・。」

正幸の様態を確かめている柴田に、右衛門が心配そうに声をかけた。

「うん・・。」

柴田はそう言ったなり黙ってしまう。柴田の様子から、右衛門は正幸の命が危ないことを悟った。

「私がついていながら、申し訳ありません。」

慎吾はそう言うと、またすすり泣き始める。正幸が運び込まれた昨夜以来、慎吾はずっと泣いているのである。

枕もとでじっと夫を見ている美代は、一言もしゃべらない。ただ、その姿から憔悴しきっているのだけは、誰の目からも判断できた。美桜は、そんな美代を慰めることもできず、じっと部屋の片隅で目を閉じ、手を膝に置いて座っている。どうやら、美桜は今朝からの目まぐるしい騒ぎで、すっかり疲れてうたたねをしているようだった。

「こうやって、みんなが見守っていても正幸の容体がよくなるわけではない。もう夜も更けた。わしが正幸の側にいるからみんな別の部屋で寝てきたらどうだ。」

憔悴している慎吾や長旅で疲れた柴田や美桜、美代のことを考えて、右衛門がそう提案した。

「私が主人と一緒にいます。どうぞ、皆様は別の部屋へ・・。慎吾さんも寝てください。昨夜は一睡もしてないのでしょう。」

美代はそう言うと慎吾に微笑みかけた。彼女は突然の悲劇に見舞われたにもかかわらず、正幸の意識のもどらない容態を知ってからは、気を動転させることなく気丈にふるまった。

結局、美代が主張を譲りそうにないので、美代に正幸を任せて、ひとまずみんなは寝ることになったのである。


「ねんねんころりよおころりよ。ぼうやは良い子だねんねしな。

ぼうやのおもりはどこ行った。あの山越えて里へ行った。

里の土産に何もろた。でんでん太鼓にしょうの笛・・。」

夜中にかわやに行く途中、そっと廊下を歩いていた柴田先生の耳に子守歌が聞こえてくる。行燈の光がほのかにを照らされているのは、正幸の部屋だった。歌っているのは、おそらく美代である。柴田は、その物悲しいかすれた歌声に、思わず歩みを止めて立ちすくむ。その歌声は、可愛いわが子を愛おしむ母の慈愛が込められていた。

「美代殿は、死にゆく夫のことをわが子のように愛おしく思って歌っているのだろう・・。」

柴田はそう思うと、美代が哀れで思わず涙がこみ上げた。


「右衛門!それでも名の知れた剣豪か。」

柴田は部屋に戻ると、床で寝ていた右衛門に大声を張り上げ、旅の疲れもあって爆睡していた右衛門を叩き起こしたのである。

「わしは好きで剣豪になったのではないのです。」

布団の上に胡坐をかいた右衛門が、理屈が通っているのか分からない怪しい言い訳をした。余程頭の中がぼんやりしていたのか、そう言った後も自分が起きているという自覚がないようだ。

「長谷部殿はこのままでは明日にも死んでしまうかもしれん。かといって、あの傷口を治療するには、深くまで筋肉を切り裂かねばならん。手術をしているうちに血管を切ってしまわんとも限らん・・。だが、美代さんを見てると、何にもせずに長谷部殿を死なせれば、わしの医者としての人生にも汚点を残す。そうだろう・・。」

柴田は、自分に言い聞かせるようにまくしたてた。

「それで、どうなさるおつもりで・・。」

柴田の一方的な熱気に煽られて、右衛門の眠気が吹き飛んだ。

「一か八かだ。正幸殿を殺すつもりで、今から手術をする。手伝ってくれんか。」

柴田の目はらんらんと輝いていた。

「喜んでお手つだいさせてもらいます。まず何を・・。」

右衛門にも柴田の熱意が伝わったのか、体がぶるっと震える感覚に襲われる。

「焼酎、それにわしの行李の中に手術道具が入っている。湯を沸かして、道具を煮沸してから焼酎で一つ一つ消毒してくれ。その間に、わしは長谷部殿に、会津から持ってきたとっておきの麻薬(チョウセンアサガオの類)を飲ませて、体をマヒさせる。すぐ取りかかれ!」

柴田の号令で屋敷のみんなが起こされると、それぞれ自分の役目を与えられて必死に働いた。湯を沸かすもの、なるべく大きな灯りを照らすもの、さらしを用意するもの・・、みんな必死に動いた。


真夜中に始まった柴田の手術は、明け方まで続いたのである。奇跡的に、柴田は正幸の血管を傷めることなく、傷口の化膿したところを取り除き縫合することに成功したのである。

手術が終わり、病人の横で大の字になって仰向けになっていた柴田が、

「どうだ右衛門、わしの一世一代の手術をしっかり見ていたか・・。」

と言って、手術の間中、柴田先生の助手を務めた右衛門に微笑みかけた。

「しかと見届けました。」

枕もとで正幸の様子を見ていた右衛門が、柴田の方に向き直って、手をついて深々と頭を下げた。

「おぬし、刀を捨てて医者にならんか。おぬしには、医者としての才がある。」

柴田は、会津で右衛門の働きぶりを見ながらずっとそう思っていた。

その時である・・。

「やめとけ、右衛門。刀を持たぬお前など考えたくもない・・。」

手術の間中、苦痛に耐えて死んだようになっていた正幸の口から小さなささやくような声が漏れたのである。

「おぬし、覚醒していたのか。」

柴田が上半身を起こして、驚いたようにそう言った。

「お前というやつは・・。」

そう言った右衛門の目から思わず涙がこぼれる。正幸は、奇跡的に一命を取り留めたのだった。



(伊勢逸郎という策士)

美桜が佐那河内に帰るのと入れ替わりに、長谷部隊の先発組を見能林に送り届けた伊勢が酒田に帰ってきた。

伊勢と慎吾と右衛門が、残された長谷部隊二十名と本間家に要求された六万両の問題について、大久保の出方を話し合っている。

「大久保は、我々が慎吾さんの所でいることを理由にして、必ずまた何か要求しますよ。六万両は、本間家をゆする手始めにすぎない・・。出来れば、長谷部様をここに残して、我々は次の船が来るまで、近くのどこかに隠れたほうがいいと思うんですが。」

慎吾は伊勢の言葉に反論しなかった。やはり、彼の意見と同じである。

その横で、腕を組んで黙って聞いていた右衛門が、

「正幸がこの屋敷にいる限り、おぬしらがいなくなっても大久保にとっては同じことだろう。そうは言っても、あんな状態の正幸を他へ移すわけにもいかんしな・・。」

と、おもむろに口を開いた。

伊勢は、敢えてすぐに口を開かなかった。右衛門が、どういう策を考えているのか知りたかったのである。

慎吾が大きくため息をつく。その姿を横目で見ながら、右衛門がにやりと笑う。

「お前もいろいろ悩む立場になったのだな。本間光秀様は何か言ってたか。」

右衛門が慎吾に問いかける。

「右衛門様に全て任せると・・。六万両はいつでも用意するとのことでした。」

慎吾の言葉に、右衛門が頭をかいて、また苦笑いをする。

「六万両引き渡しについては、わしが大久保と話をつけよう。長州の草津も同席でな・・。

「そうなると、恐らく今度は、大久保は薩摩の大川を使ってくる。正幸の件で味をしめている奴らが黙っているはずがない。」

右衛門の言葉に、慎吾の体が前に出た。

「いよいよか。わたしはそれを待っていたんです。右衛門様なら必ず・・。」

大川と右衛門の対決を想像したのか、慎吾の呼吸が激しくなる。

「わしが負けたら、仕方ない・・。伊勢殿、おぬし何か考えろ・・。」

右衛門はそう言うと、伊勢の方を向いて笑みを漏らした。

「なぜ私が・・。」

伊勢が不思議そうな顔をする。

「正幸が江戸で言っていた。わしには優れた知略家の家臣がいる・・とな。」

伊勢は、さすがにこう言われると意気を感じない訳にはいかなかった。

「これも策士右衛門の思惑なのだろうか・・。」伊勢はそんなことを思いながら、想像していた右衛門の曲者くせものとしての一端を見たような気がした。

「慎吾、伊勢殿と正幸が売り払った西洋銃を、もう一度ここに残っている長谷部隊に返してくれんか。(慎吾が頷いて、即答する。)それと・・、伊勢殿には大久保たちの動きを知らせる忍びをつけておく。」

伊勢は思わずあたりを見渡した。忍びなどいないのである。

すると、右衛門が天井の方に顔を向けて、

「聞いていたか、京馬・・。」

と、声をかけた。

「やはり気づいていましたか・・。分かりました。」

天井からそう声がしたかと思うと、あっという間に、人の気配が消えた。

「それで、わたしは何をすれば・・。」

伊勢の気持ちが高ぶってくる。

「大久保封じに決まっているだろう。大川がわしに負けても、そのまま大久保が、素直に引くとは思われん。その後、どうやって奴を封じるか・・。それをおぬしに任せようと言ってるのだ。知恵のあるおぬしなら何とかするだろう。(顔を見てにやりと笑う)そうだ、佐那河内の哲太と将太もおぬしに預ける。二人の銃の腕は一流だぞ。」

右衛門はそこまで言うと、もう言うことはないと言わんばかりに慎吾と伊勢を残して部屋を出て、正幸の様子を見に行こうとした。

「この人は、果し合いで負けることなどまったく考えてないのだ・・。」伊勢は、部屋を出ていく右衛門の背中を見ながらそう思った。

翌日、伊勢ら長谷部隊は近くの寺に移動した。



(大久保と右衛門)

「さすがに本間光秀殿の屋敷だな。派手ではないが、置いている家具や調度品はすべて一級品だ。」

本田家から六万両の用意ができたと連絡を受けた大久保は、約束通り長州の草津に伝えて二人一緒に本間邸にやって来た。

「大久保さん、長州藩に半分頂けるのでしょうな。」

普段、比較的饒舌な草津は、今日は言葉少なく、肝心の六万両の分け前だけは念を押した。

「大久保さんが約束したんだ。草津さんにしては疑い深いですな。」

大久保の横にいる側近の田辺が、大久保に代わって草津の念押しに返答した。

田辺の後ろから田中が、大久保の護衛のために一緒に来ている。先日、大川と一緒に正幸襲撃に成功した彼は、大久保の片腕のように振舞っていた。

「草津殿は、誰も護衛をつけないのですか。」

大久保は側近の田辺と田中を伴っていたが、草津は屋敷の外に待たせた家臣だけだった。

「本間殿の屋敷に来るのに、護衛はいらないでしょう。」

草津はそう言うと、何故かにやりと笑った。

「しかし、あなたは、今では新政府の要人だ。自分の立場もわきまえなくては・・」

大久保はそう言いながらも、さっきから上機嫌で笑顔が絶えない。彼にとって、本間家を自分の思うがままに動かすという企みは、今までの陰謀とは規模が違っていた。その計画が、思惑通りゆっくりと動き出しているのである。

ところが、交渉の部屋のふすまが開い途端、大久保の笑顔が消え、足が止まってその場に立ちつくした。田中も田辺も、大久保の真似をしたかのように呆然と立っている。

「どうしたんじゃ、何を突っ立ておられるのだ。」

今度は、そう言った草津の表情が笑顔に変わる。

大久保の前に現れたのは、腕を組んだまま胡坐をかいて、彼の顔を笑顔で見ている右衛門だった。目ざとい大久保は、何故か右衛門の横に同田貫が置かれているのを確認した。その瞬間、彼の脳裏をかすめたのは、長州戦争に向かった会津の司令官 折田周明暗殺のことだった。

「あの時の状況と同じではないか・・。今度はわしが右衛門に暗殺される番なのか・・。」

大久保はそんなことを考えると、こめかみから冷汗が流れるような気持ちになった。

「大川もつれてきたらよかった・・。」大久保の後ろで刀の柄に手をやりそうになった田中も、そんなことを考えながら、緊張で手が小刻みに震えている。

一方、田辺は、右衛門が刀を抜いた時、逃げ出す通路のことを考えていた。

草津は三人を残して、すたすたと部屋に歩を進め、右衛門の横に置かれた座布団にすっと座った。

「大久保さん、何をしてるんだ。はよう座らんか。」

昨日からこの場面を想像しながら、何度もほくそ笑んでわくわくしていた草津が、いつもより高い声を出して、大久保が座るのを促した。

その声にはっとした大久保が、田中の方を振り返ると、

「わしはここで・・。」

田中は彼にそう言うと、部屋の敷居をまたがずその場に座り込んでしまった。それに追随するように田辺も田中の横に座り込む。

それを見た大久保が、

「田辺、何をしとるんだ。お前が部屋に入らなかったら交渉にならんだろう。阿呆!」

普段冷静な大久保に似合わず、大声を張り上げて怒鳴った。草津の愉快そうな顔と家臣の小心さに余程腹が立ったのだろう。しかし、彼はその叱責で普段の神経の図太い自分にもどった。大久保は、意を決したかのように作り笑いをしながら、右衛門のまじかに置かれた座布団の上にどかりと座ったのである。

「お久しぶりです。」

大久保はそう言うと、恐る恐る右衛門の顔をまともに見た。

「実は、本間光秀殿に無理やり頼まれてな・・。本間家が新政府のために用意した軍資金を、草津殿と大久保殿に引き渡す役目を任されたのだ。」

右衛門はそう言うと、大久保の作り笑いに応じるように、一瞬鋭い視線を彼に送った後、無邪気な笑顔を見せた。

さすがに大久保ほどの人間である。右衛門との言葉のやり取りが進むにつれて、相手に呑まれた表情は次第に消えていった。

「そうですか。本間殿にとっては、我々の勝手な頼みでしたが、これも新政府のため・・。有難く申し受けます。」

大久保のふてぶてしさがもどってくる。

右衛門と対峙して相手の出方を探っているうちに、大久保の感情は恐怖から怒りへ変わっていった。

「草津め・・。わしを出し抜いたつもりらしい。だが、これは考えようによっては好都合かもしれん。もし、右衛門を我らの手で葬れば、本間も草津も我らの恐ろしさを思い知ることになるだろう。そうなれば、奴らには打つ手はなくなるはず・・。その時は、我らの言いなりに事は運ばしてもらうからな・・。」

大久保の反骨心がむくむくと頭をもたげ、大川という切り札をどこで使うか、思案を巡らせ始めていた。


本間家の玄関を出る大久保と草津の姿があった。

何事も起こらず、交渉の末、双方の約束通り六万両は草津と大久保に渡された。ただ、草津の満足そうな顔と大久保の苦虫をつぶしたような表情が対照的だった。

屋敷を出た大久保は、田中に向かって、

「このままでは済まさぬ・・。」

ただ一言、力を込めて腹から沸き上がる怒りを抑えてそう呟いた。



(大川VS右衛門)

「ここからならよく見える。慎吾さんの屋敷が手に取るようだ。」

将太が嬉しそうにそう呟いた。

小さな山の中腹に神社があり長谷部隊の狙撃兵二十名と共に、将太と哲太がこの場所に登ってきたのは、京馬から大久保たちが動き始めたという知らせを聞いた直後の明け方だった。

「大川は一人で右衛門様の所へ向かっているのか。」

哲太が京馬に確認する。

「表向きはな。だが、奴の後ろを距離を置いて、政府の鉄砲隊が大久保と村田に率いられて慎吾さんの屋敷に向かっている。」

京馬と哲太・将太は、伊勢と相談して、あらかじめこの場所を選んでいたのだ。ここからなら、どこに敵が現れても恰好の標的になる。しかも、相手の銃ではこの場所にはとどかない。

「鉄砲隊は何人ぐらいだ。」

哲太が京馬に尋ねる。

「五十人。奴らは、大川が敗れれば銃で右衛門様を狙うつもりだ。もし、お前たちが奴らを阻止できなければ、右衛門様の命も危ない・・。分かっているだろうな。」

京馬はそう言うと、哲太の顔をじっと睨みつけた。

将太が、自分の銃を確かめるように服の袖で丹念に拭う。

「これだけの銃を与えられているのだ。しくじれば、佐那河内の狙撃手の恥になる。」

哲太がそう言うと、後ろにいる将太が頷いた。

「長谷部隊の方々、あんたらも自分たちの銃の威力を分かっているだろう。わしらは、指示は出さない。各々、自分の配置を選んでくれ。合図は哲太が右手を上げる。その時、右衛門様を狙う敵に一斉射撃だ!」

緊張のせいか、将太の声がこころなしうわずっている。

彼らの配置を見届けた京馬は、敵の動きを探るため、あっという間に姿を消した。


慎吾の屋敷は、哲太たちが陣取っている神社のふもとにある。神社に通じる通りの道は広く、百人程度の行列でも通り抜けることができた。

家並みを通り抜けた大川が、その通りを慎吾の屋敷に向かってゆっくりと歩いている。その後ろを、大久保たちの銃撃隊が彼から距離を取って静かに跡を付けている。

一方、右衛門は、その頃、柴田老人と一緒に正幸の病状を見舞っていた。


「どうだ具合は・・。」

右衛門は、正幸の回復が思ったより早いのに驚いている。

「ああ、柴田先生と美代のおかげで順調に治っている。」

正幸の表情は明るかった。

「美代さんには、感謝しなくてはな。お前の手術以来寝ずの看病だ。ご大家のお嬢様とは思えん献身ぶりだな。よほどお前に惚れているようだ・・。」

右衛門の冗談に柴田先生が声を出して笑ったが、意外にも、正幸は右衛門に言い返すこともなく黙って聞いていた。外はかなり冷え込んできているが、さすがに慎吾の家はすきま風ひとつ吹き込んでこない。そのおかげで、寒さを感じないぐらい暖かい。美津の心遣いもあって部屋の中には常に火箸がいくつか置かれている。

「ところで、傷がよくなったらどうするつもりだ。」

自分の先行きの方針もたっていない右衛門が、正幸に将来の身の振りかたを尋ねた。

「うん・・。わしは兄を頼って江戸に行くつもりだったが。美代が、美桜さんのいる佐那河内で住みたいと言ってな・・。美桜さんが、しきりに勧めたそうだ。どうやら旅の道中余程仲が良かったらしいのだ。」

それを聞いた右衛門が、嬉しそうな顔をして、

「それはいい。与助と源一郎も喜ぶだろう。」

と正幸が佐那河内へ行くことに賛成した。

次の瞬間、右衛門と正幸の表情が変わった。

「久しぶりだな、権蔵。何か急の用でもあるのか。」

正幸はそう言うと、天井の一角に目をやる。

「お久しぶりで・・。正幸様も命を取り留めたようですな。ようございました。」

天井にいる権蔵が、正幸にそう答える。

「何かあったか。」

右衛門が、再び権蔵に声をかける。

「大川がこの屋敷に向かっています。(少し間をおいて)後を追うように、大久保と田中が鉄砲隊を率いて来ています。」

権蔵の知らせを聞いていた柴田が、右衛門の方を緊張した面持ちで見ると、

「右衛門、わしの刀を持っていけ。」

と言って、横に置いてあった自分の同田貫正国を差し出した。

「いいのですか。」

右衛門の顔がぱっと明るくなる。

「こんな時のために会津から持ってきたのだ。しかし、この刀は妖刀だ。これまで何人の血を吸ってきたか・・。心して使えよ。」

柴田の言葉に、右衛門はかしこまって受け取った。

「右衛門、奴の一撃は途中で変化する。わしには、その一撃が止めれんかった。おぬしなら大丈夫と思うが・・。」

正幸が、心配そうに右衛門の顔を見る。

「それは、呼吸だろう。吐き出した呼吸と共に、自分の力は一点に集中する。だが、もし呼吸を途中で止めれば力は分散する。もっとも、そんな芸当ができるのは余程の鍛錬が必要だろうがな・・。」

意外にも、正幸の言葉に口をはさんだのは、柴田先生であった。

柴田の言葉に同意するかのように、右衛門がにやりと笑って、

「先生、まるで剣豪のようですな。」

と言ってからかった。

「ところで、わしの刀はおぬしにやるが、おぬしの刀はわしがもらうぞ。」

柴田先生が当然だと言わんばかりに、淡々とそう言った。

「そうなのですか。」

右衛門は、柴田の言葉に不意を突かれたようにそう言うと、今までの喜びがかき消されたようにがっかりした表情を見せた。

それでも気を取り直した右衛門は、すっと立ち上がると柴田に軽く頭を下げ、正幸の方を向いて笑顔を見せ、柴田からもらった正国を腰に差して玄関に向かった。


柴田と正幸が右衛門の後姿を見送った後、

「先生、右衛門のやつ・・。(にやりと笑う)立ち上がる時、あくびをこらえたのに気づきましたか。」

正幸が、妙なことを柴田に聞いた。

柴田が、同じように苦笑いをして頷く。

「わが師 柳生義親様が、わたしに言ったことがあるんです。’わしは生涯、右衛門とは剣を交えん’・・と。あいつが死闘の前に緊張したのを見たことがない。あいつは神経がどこか切れてるんです。そんな化け物と戦うほど割に合わぬことはない。義親様が言いたかったのは、そういうことだったでは・・と。」

始めは、正幸の話を感心したように聞いていた柴田先生が,突然苦虫を潰したような顔をして笑い始めた。柴田には、正幸が真剣に言っているのか、冗談を言っているのか、分からなかったのである。


一方、玄関では美代が右衛門を待っていた。

「佐藤様・・。」

余りにも真剣な顔をしている美代に圧倒された右衛門が、歩みを止める。

「はい。」

右衛門が、ぼそっと声を低めて彼女に答える。

「わが夫の仇、必ず取ってくださいね。」

美代が念を押すように、右衛門に詰め寄った。

それに対して、彼女の気迫に押された右衛門は、まるで叱られた子供のように、繰り返し「はい」と答えるだけだった。


二人は、避けられない宿命に誘われるように対決した。

慎吾の屋敷の前で、じっと立っている右衛門の方に大川が足を速めて近づいて来る。

右衛門はゆっくりと刀の柄に手をやると、目を凝らして大川の口元を見つめている。やがて、二人の間合いが徐々に迫ってくると、緊迫した空気があたりを覆い始める。右衛門は、大川が殺意をみなぎらせて襲いかかろうとする瞬間に、大きく息を吸うのを見逃さなかった。その機を待っていた右衛門が、大川に合わせるように大きく息を吸うと、ゆっくりと刀を抜いて正眼に構えた。そして、二人の間合いが直前に迫った一瞬、大川はこの世の終わりを告げるかのようなけたたましい声を出して、振り上げた刀を右衛門の頭上に振りおろそうとした。

「きええ---!」

大川の奇声が、緊迫した空間に響き渡った。

その瞬間、右衛門はさっきから大川の呼吸と共鳴させていた息をふっと止めたかと思うと、予想もしない動きを見せた。大川の刀の軌道の不連続な変化に共振するかのように左足をすっと横に出すと、自分の体を横に振って、彼の一撃を一連の動作でかわしたのである。右衛門の動きは、大川の必殺の一撃を見抜いたように、何のためらいもなく素早かった。

「あっ。」

大川の口からは思わず声がこぼれる。

瞬間移動のように、正面にいるはずの右衛門の姿が視界から消え、大川の振り下ろした刀が空を切ったのである。その一瞬で、勝負は決まった。大川が相手を探して視線を横に移した瞬間、刀を上段に構えていた右衛門の一振りが、大川の体を袈裟に斬って落としたのである。

その場が一瞬止まったかのように深い静寂に陥り、次の瞬間、大川の体から鮮血が噴水のように飛び散った。即死である。崩れ落ちた彼の死体から流れた血が地面に流れ、あたりが真っ赤に染まっていく。その死体を大股で跨いだ右衛門が、いつの間にか遠くの方で銃を構える大久保の鉄砲隊の方へ目をやると、血が滴る刀を肩に置き、、彼らの方に恐れるそぶりも見せず、顔に笑みさえ浮かべて近づいて行くのである。そのぞっとするような凄みに、思わず鉄砲隊が後ずさりをし始める。

「何をひるんでおるか!相手は刀しかもっていない生身の人間だ。銃をしっかり持って狙いを定めんか!」

田中の野獣の唸るようなすごんだ声が、鉄砲隊の後退を押しとどめた。


その時、右衛門と大久保たち鉄砲隊の間を割って入るように、家並みから飛び出た二人の侍が、疾風のごとく全速力で大久保隊のもとに駆け寄って行ったのである。

「大久保さ!あんたに頼みがあっ。」

慎吾が走りながら、前の集団に大きな声を張り上げる。その後を、伊勢が慎吾を追いかけている。

「ないん用や!」

慎吾の気迫を押し返すように、田中が大声で応じる。大久保は、身じろぎもせず慎吾の顔をじっと見ている。

やっと大久保たちの前にたどり着いた慎吾と伊勢が、はずんだ息を一生懸命抑えようとしている。

「兵を引いてくれもはんか。」

息を整えた慎吾が、大久保に向かってそう言い放った。

「久しぶりじゃな、慎吾。(慎吾を睨みつけて)引かんならどうすっ気や。」

大久保が、慎吾に言い返す。

「あんたの命はない・・。」

慎吾の横にいた伊勢が、大久保の顔を睨みつけてそう言った。

「慎吾、どういう意味じゃ。」

田中は、伊勢を無視するかのように、慎吾に問いただす。

彼の問いに応じるかのように、伊勢が懐から扇子を出すと、それを右手に持ったまま上にかざして横に振った。

すると、神社の方から銃声が聞こえたかと思った瞬間、その扇子は弾丸でうちぬかれたのである。哲太の仕業であった。

「もし、あんたらの鉄砲が右衛門殿を狙ったら、その前にあんたらの鉄砲隊の頭が打ちぬかれる・・。大久保さん、嘘だと思ったら、鉄砲隊に右衛門殿を狙うように命令してみなさい。ただ、あんたの命の保証はしませんが・・。」

伊勢はそう言うと、大久保の方を向いて不敵な笑いを浮かべた。

伊勢の脅迫を黙って聞いていた田中の顔が、みるみる赤くなる。明らかに、怒りで全身が震えているようだ。慎吾は、そんな田中の殺意を見逃さなかった。

「わいわしらを脅す気か!」

そう言った次の瞬間、田中の刀が鞘から抜かれ、伊勢の顔面を真っ二つに斬り裂こうとした。しかし、田中の白刃が伊勢の頭に達する前に、慎吾の抜いた刀が田中の胴を払っていたのである。

「し・ん・ご・・。」

必死で倒れるのをこらえながら、田中が最後に慎吾の名を呼んだ。その後、ついに自分を支えられなくなった田中の体は、その場に崩れるように倒れこんだのである。絶命であった。

その悲惨な光景を見て、怒り狂った数名の兵士が、慎吾に鉄砲を向けようとする。しかし、彼らの行動に合わせるかのように、また山の方から銃声が聞こえ、慎吾を撃とうとしている兵士たちの膝に弾丸が食い込んで、もんどりうって倒れこんだ。

「大久保さん。引いてくれんか。」

いつの間にか大久保たちの方に近づいてきた右衛門が、声を張り上げて大久保に訴えかけた。膝を撃ち抜かれた兵士たちの唸り声であたりが騒然としている中で、右衛門の声に耳を傾けていた大久保が、静かに目を閉じて腕を組んだままその場で立っている。

やがて、右衛門が大久保の前まで来た。

すると、大久保がおもむろに目を開けると、右衛門の方を見ながら薄笑いを浮かべた。

「西田が、わしの企みに右衛門殿が絡んだことを聞いて、余程慎重にやらねば、逆に痛い目にあう、と言うとったが・・。」

大久保は、地面の方に目を落として、何度か「ふふっ・・」と笑ったかと思うと、

「わしの負けじゃ・・。(自分の兵士達に向かって)引き上げるぞ!」

大久保は大声でそう叫ぶと、右衛門たちに背を向け、兵の行動を確認せずに、独りすたすたと大股で街並みの方に歩いて行った。その姿を追いかけるように、大久保の兵たちが、負傷者を支えながら退却して行ったのである。


右衛門は、引いていく大久保の背中をただ無表情に見送っている。

すると、遠くの方で足を止めて振り返った大久保が、

「本間家を諦めるのは残念だが、右衛門殿を敵に回すのはもっと恐ろしいことがようわかった。」

そう言って、再び笑いながら去って行く。伊勢と慎吾が、そんな大久保を呆然と見送っている。

右衛門が、そんな二人を見てにやりと笑い、

「もどろうか、慎吾、伊勢殿・・。やはり慎吾は商人にはなりきれんかもしれんな。」

と言うと、慎吾が頭をかいて苦笑いをして、

「わしは、右衛門様が刀を捨てん限り、剣をあきらめる気はないですから・・。」

慎吾にとって、右衛門は憧れであった。

二人の会話を聞いていた伊勢は、少しだけ右衛門の剣豪としての魅力が分かったような気がした。


(別れ)

酒田の港に北前船が横づけされ、伊勢と将太の肩に手を置いて、二人に支えながら正幸が船に乗り込む桟橋の下で、慎吾、右衛門、美津、柴田らの見送りに来た人たちと談笑をしている。

「ところで、伊勢殿は見能林藩に行くのか。それとも・・。」

そこまで言って、右衛門が正幸の顔を見た。

「私は、正幸様と共に佐那河内で厄介になるつもりです。」

伊勢が、右衛門の言葉を受け継ぐようにそう言った。

「それはいい。今の佐那河内には策士がいない。おぬしほどの知略家であれば、新政府軍の狸どもにも対抗できるだろう。源一郎や与助では・・。」

右衛門はそこまで言って、少し言い過ぎたことに気付いて、口に出すのをためらった。

「陽明がイギリスから帰ってくるのではないか。」

正幸は陽明の頭の良さを評価していた。ただ、若いがゆえに人の信頼を得るということには難があることも知っている。

「おぬしが佐那河内で腰を落ち着けるのなら、佐那河内の連中をまとめるのは、おぬしが適任だろう。伊勢殿が側にいることだし・・。」

右衛門がそう言うと、哲太が反応した。

「正幸様なら、まとめ役としてみんな文句はないと思う。」

哲太の言葉に正幸は少し驚いたが、悪い気持ちではない。

「ところで、おぬしが連れてきた早紀とかいう女の子はどうするのだ。」

正幸はこれ以上自分の話題が続くのを嫌い、話を変えた。

「うん。」

右衛門は、今朝の早紀との会話を思い出していた。


早紀が慎吾の店の門前で道に散らばった枯葉を竹ぼうきでかき集めている。

「早紀、少し話をしてもいいか。」

そう言って声をかけたのは、右衛門だった。

「はい。」

早紀が笑顔で答える。

「実は、お前の身の振りかただが。(少し間を置き)美津姉さんが引き取りたいと言っているのだ。早紀は嫌か・・。」

右衛門はそう言うと、早紀の顔を見た。侍の家に生まれ、戦のせいで両親を亡くした早紀のことを考えると、右衛門はつい同情する気持ちが先に立った。

「美津姉さんがそう言ってくれるなら、私は喜んでここにいさせてもらいます。」

早紀があっさり右衛門の提案を受け入れた。

「そうか。早紀が決してつらい思いをしないように、私からも慎吾と美津にくれぐれも頼んでおくからな。」

右衛門は、早紀にとって受け入れるしか選択肢がないことを知っているだけに、自分の言葉に大人のずるさを感じて、少し後ろめたい気持ちになっていた。

「右衛門様・・。」

早紀は、真剣な目で右衛門を見ている。

「なんだ。」

右衛門が、早紀に微笑みかける。

「時々は、会いに来てくださいね・・。」

早紀の顔が次第に曇ってくる。そして、ついに我慢ができなくなったようにわっと泣き出し、右衛門のところへ駆け寄ると、しっかりと彼にしがみついたのだった。


港の場面にもどる。

早紀のことを正幸に聞かれた右衛門が、真剣な顔をして美津と慎吾の顔を見て、

「早紀のことは頼みましたぞ、美津さん・・。(慎吾の方を見て)慎吾もな。」

そう言って、日頃見せたことのないような真剣な表情で、二人に深々と頭を下げた。

その余りにも真剣な姿を見て、集まった連中が唖然としたように右衛門を見ている。暫く気まずい沈黙の後、柴田先生が話し始める。

「わしは右衛門と一緒に江戸に行って、右衛門の妻女に挨拶をしなくてはな。」

柴田の言葉を黙って聞いていた美代が、可笑しくなって思わず笑い声を漏らしてしまう。

右衛門は、柴田がついてくることをすでに承服させられているのか、苦々しい顔をしながらも、作り笑いを浮かべている。

「悲しくもあり、可笑しくもありですな・・。」

最後に、伊勢が意味深な言葉を残して、正幸たち乗船組が桟橋を上って行く。

それを見送る右衛門に柴田先生が声をかけた。

「わしらもこれから楽しくなるぞ。何せ、わしらの明日は、自由が満ち溢れているからな。」

柴田先生の顔は、希望に満ちていた。そんな柴田の顔を見ながら、「ひょっとすると、柴田先生の言うように、楽しいことになるかもしれん。いや、そう思わなくてはやってられない・・。」そう思いなおして、右衛門は慎吾と美津の顔を見た。二人は、必死に笑いをこらえていた。柴田先生の第二の人生が、右衛門と共に始まろうとしていたのかもしれない。

「先生、明日は早朝旅立ちですぞ。」

右衛門が、うきうきしている柴田に声をかける。

「おお!」

柴田先生の気合の入った雄たけびが、港を出ていく船に気合を入れているようだった。


              「右衛門12」終わり

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ