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右衛門シリーズ全編  作者: FZ
36/43

右衛門12-2

「右衛門12-2」


右衛門が、正幸の消息を探して会津に入ってまもなく、会津藩と薩長軍との間で会津戦争が始まった。

戦火に巻き込まれた会津の町を、深く編み笠をかぶり、よれよれの着物は埃で白くなっている浪人が、あわただしく行きかう兵士たちを横目に、足を速めるでもなくゆっくりと歩いている。その姿は、戦争の緊迫した辺りの雰囲気とは余りにも場違いのように見えた。


右衛門は、怒号と悲鳴の入り混じる屋敷の玄関に立っていた。

右衛門の横を戸板に乗せられた何人もの負傷兵を担いだ連中が通り過ぎて、土足で奥の部屋に入っていく。その状況を見ていた彼もその連中に合わせるように、土足で玄関の廊下に上がると、騒然としている奥の広間へと向かった。

「柴田省吾先生はおられるか。」

右衛門は、負傷した患者が十数人横たわる広間で、あわただしく介護をしている人々に向かって、大きな声を張り上げた。

ほとんどの人は彼の声には反応しなかったが、患者の腕を縫合し終わって、額に汗をびっしょりかいている白髪の老人が、右衛門の方を向いて、

「わしだが、おぬし何者だ。」

と、右衛門の声に応じた。

老人の名は柴田清五郎、蘭学医である。彼の右衛門を見る目は、殺伐とした状況の中で悪戦苦闘しているせいで、野獣のように鋭かった。

「蘭学医の西先生の知人で、佐藤右衛門というものです。」

右衛門がそう言うと、柴田の表情が少し緩んだ。

「確かに、西は長崎で一緒に西洋医術を学んだ友人だが・・。(右衛門の様子を目で確かめて)おぬし、どう見ても蘭学医には見えんが・・。医術の心得はあるのか。」

柴田が、いきなり尋ねてきた。

「友人に外科手術のまねごとをしたことはありますが・・。」

「ほう。」

柴田は、そう言ったなり黙ってしまい。新たな患者の足の止血をし始めた。

血止めが終わると、

「右衛門とやら、今、わしが患者の足を縛っているが・・。(縛り終わって、右衛門の方を見る)この足、壊疽で腐り始めている。おぬしの刀で、ここから切り落としてくれんか。」

予想もしない言葉が、柴田の口から発せられたのである。しかし、余りにも恐ろしい言葉にも関わらず、右衛門に懇願するような目をしていた。

二人の間で、しばらく沈黙が続いた。右衛門は柴田の言葉に迷っていたのだ。

そして、決意したように柴田の方を向いて、

「その患者の体を起こして、支えてくれませんか。」

右衛門がそう言うと、柴田の傍らで施術の助けをしていた二人の男に、柴田が目で指図した。すると、足を縛られた患者が、二人の肩に支えられて、ぐったりとしたまま起き上がった。

患者に近づいてきた右衛門が、ゆっくり刀を抜いた。次の瞬間、彼の刀は、患者の足元で横一線を描いた。いや、「描いたようだった。」が正しいのかもしれない。なぜなら、そこにいた連中の誰も、右衛門が描いた刀の軌跡をはっきり確認できたものはいなかったのである。足を斬られた患者本人も、自分の足が切り離されるのを自覚しないまま、二人の助手に支えられ、片足で呆然と立ちすくんでいたのである。

「おぬし・・。」

柴田はそう言ったなり、呆気に取られて右衛門の顔をまじまじと見ていた。

「柴田先生、はよう患者を横にして傷口を縫ってしまわねば・・。」

右衛門に促されて、我に返った柴田が「うん」とうなずくと、持っていた針で患者の傷口を縫い始めた。


右衛門が柴田の所で、見よう見まねで患者の傷に対処し始めて二日が経った。会津兵は次第に新政府軍に押し込められて、会津城での籠城戦に移っていった。それに合わせて、ここに運ばれてくる負傷者も、兵士から戦火で犠牲になる一般の平民に変わっていった。

右衛門の施す傷の手当といっても、大半は負傷者の傷口を縫合する荒仕事だった。それでも最初のころは、チョウセンアサガオを使った麻酔(いかに柴田が最先端の医術を身に着けていたかの証明である。)を施しての手術していたが、今では、右衛門得意の首を絞めて、気絶させるやり方に変わっていた。

「おぬしが患者を落とさなければ、この場の光景はもっと地獄絵になっていただろうな。」

柴田は、突然彼の屋敷に現れた右衛門に心から感謝していた。

「人を倒すために身に着けた剣法が、人を助ける手段になるとは、皮肉なものです・・。」

右衛門は恐縮するようにそう言って、苦笑いを浮かべた。

柴田との短いやり取りをする間にも、次々と患者が運び込まれ、二人は人に施す手術ではなく、まるで袋でも作るために、布を縫い合わせている作業のような錯覚におちいるのであった。

右衛門は、ここへやってきてからいきなり患者の処置を強要され、ほとんど寝る間もなく働いていた。

「わしは、おぬしを信頼できる医者と思っておる。持って生まれた医者としての才能は、おぬしが持ち合わせた天分のようなものだ・・。」

柴田は、右衛門に対して、最高級のお世辞を言った。

右衛門も嘘だとわかっていても、天下に名高い名医からそう言われれば、持てる力を出し切って、柴田を助けたいと思うのが人情である。


「佐藤様、おにぎりとお茶、ここに置いておきます。」

手伝いの早紀は、患者に手術を施す柴田と彼の助手や右衛門の世話をするために、ずっと立ち働いていた。

「すまんな。こうやって早紀が世話をやいてくれるのが、何よりのなぐさめだ。」

右衛門は笑顔を見せて、彼女に感謝した。

早紀は、戦火で負傷した父の大谷与五郎が柴田のところでいるのを知って、母に言われて,

看護のためにここにやってきた彼の娘である。年は十三、まだ、幼さの残る少女である。

広間の深夜は、時折聞こえる患者のうめき声以外は、静まり返っている。部屋の真ん中に灯された蝋燭の明かりは、芯が燃え尽きる前に、早紀が付け替えるのが彼女の仕事であった。しかし、今日は昼間からあわただしくみんなの世話をしたせいか、疲れてぐっすり寝込んだ彼女は、自分の務めを出来そうになかった。そんな早紀が、父の傍でぐっすり寝ているのをちらっと見た右衛門は、早紀の代わりに蝋燭を新しく取り換えるために立ち上がった。

彼がふと奥に目をやると、柴田老人が片手に蘭学の本を持ったまま、うつむいて眠っている。「器用な寝方をするものだ・・。わしよりよっぽど剣豪にふさわしい。」そんなことを考えながらにやりと笑った。今この広間で起きているのは自分だけかと思った時、病人の苦しむうめき声や叫び声が静まった深夜空間の中で一服の平穏を実感する瞬間だった。

その時、再び横になって目を閉じた右衛門に、小声で話しかけてくる患者がいた。早紀の父の大谷与五郎だった。

「右衛門殿、ご迷惑とは思うが、少し話をさせてもらえまいか・・。」

右衛門のことを気遣った言葉である。

「おぬしの傷は予断を許さぬ深手ゆえ、あまりしゃべらぬほうがよいとは思うが、どうしてもというなら、聞かしてもらおう。」

右衛門は、体を横たえて目を閉じたまま、彼の話に耳を傾けた。

「あなたは、あの天下に聞こえた佐藤右衛門殿でござろう。まさか、こんな所でおぬしに出会えるとは、何かの縁を感ぜぬにはいられなくてな・・。貴殿に暗殺された折田周明(会津藩家老)は、わしの仕えた元主人でしてな。」

与五郎の言葉に、右衛門の目が再び開いた。

「いや、おぬしに何の恨みもござらん。ただ折田様に仕えていたというだけのこと・・。正直、あの方はあまり好きになれるお方ではなかった。(ふっと息を吐いて)私の家の事情をお話しするのも恐縮ですが。私の一家は、私が戦場に向かう前に、すでにみな自害しましてな・・。親父殿、母上様、それに、わしの妻も・・。」

大谷の話した内容は右衛門にとって衝撃的だった。

「しかしなぜそこまで・・。」

思わず、右衛門の口から押し殺したような声が漏れた。

「敵に辱めは受けたくないというのが、わが父の信念でしてな。皆、家長に従って死んでしまいました。愚かなことを・・。(涙声に変わっていた)さすがに、孫娘である早紀だけは、父も不憫に思ったのか、我妻の必死の願いを受け入れて自害だけはさせずに、負傷して動けなくなった私のもとによこしてきました。」

与五郎は、時折鼻水を啜りながら、必死で何かを右衛門に訴えているようだった。

「しかし、どうしてそんな話をわしに・・。」

右衛門には、何かを訴えかけようとする与五郎の気迫の意味が理解できなかった。

「わしは、このままでは明日まで持ちますまい。それに、この屋敷も、新政府軍の連中が会津になだれ込んで来れば、ただではすみますまい。今になると、早紀は父たちと自害の道を取っていたほうがよかったのかもしれない・・。」

これ以上話を続ければ、与五郎の言った通り、明日まで命は持たないかもしれなかった。

「わしは、死ぬためにここにいるのではない。それに、ここの連中を見捨てるつもりもない。」

与五郎は、右衛門からこの言葉を聞きたかったのである。

「あなたなら、それができるかもしれない・・。あなたはには、何度となく修羅場を切り抜けてきた実績がある。傍らでじっと見ていましたが、あなたほど悲壮感を漂わさない人を見たことがない。」

与五郎の言葉に、右衛門は自分でも自覚しなかった妙な性格を持っていることを他人から指摘されたことで、改めて自分を見つめ直すきっかけを与えられたような気がした。

「自分では、そのようなこと自覚したこともない。」

右衛門は、正直な気持ちで、そう言った。

「そんなあなただからこそ、私は、死ぬ前にあなたに私の願いを託そうと思ったのかもしれない。」

与五郎の声はかすれてきていた。

「おぬしの願いとは・・。」

右衛門は相手を気遣いながらも、それだけは聞いておかねばと、あえて相手の容態も考えず問いただした。

「勝手な願いとは重々知っての頼みでござるが、早紀をこの修羅場から・・」

そこまで言った与五郎は、もう言葉を発する気力もなくなった。しかし、右衛門は与五郎の言いたいことを理解した。

「早紀のことは、わしの命に代えて守ってやる。最も、わしが生きていたらの話だが・・。」

右衛門はそう言うと、手を伸ばして与五郎の手をしっかりと握った。

与五郎は笑みを浮かべて、虫の息になりながら全力で右衛門の手を握り返した。


次の朝、早紀の泣き叫ぶ声を聞いて、右衛門は目が覚めた。

ただ一人残された肉親をなくしてしまった早紀の気持ちを考えると、右衛門には早紀にかけてやる言葉も見つからなかった。



(美代と美桜の旅)

美桜と美代、それに小島弥平が、二人に付き添って日本海が臨める越後へ向かっていた。上野の合戦で敗退した正幸率いる長谷部隊は、次の戦場となる会津を通り過ぎ、庄内藩へと向かったのである。小島は、すでに長州軍の情報網を使って、正幸たちの動向を把握していた。そのため、彼は二人の女性を戦場から少しでも遠ざけながら、越後を経由して庄内に行く行程を取ったのである。


三人は越後に入るために、最後の険しい山道を歩いていた。

「小島さんは、なぜそこまで私たちのために骨を折ってくださるのですか。」

険しい坂道をずっと歩き続けて息があがり始めた時、美桜が後ろをついてくる小島の方を振り向いて、そう尋ねた。

「木場様の命令ですから従うだけです。(はずんだ息を整えて)恐らく、我ら長州は、佐那河内の方々に恩を売りたいのでしょう。なにせ、佐那河内には最新鋭の武器を調達できる貿易商がいますし、忍びを含め、あなた方の情報網は侮りがたいですからな。それに何より、右衛門殿が・・。」

そこまで、言ったところで喋るのをやめた。余りにも正直にべらべら喋っている自分に気付き、自戒の念がおこったのである。

この小島という男、木場や草津とは違い、策略とか陰謀には不向きな性格らしい。ただ、美桜と美代の動向は、怠りなく文を通して木場に報告していた。

美代は二人のように話す元気もなく、ただうつ向いたまま黙々と歩いている。夫正幸のことを思うと、弱音は吐いてはいられないのである。

彼女は江戸を出た時から日本髪を結うのをやめて、長い髪を後ろに束ね、地味な木綿の小袖に、女性ものの袴姿である。また、自らの護身のために、彼女の杖には仕込み刀が細工され、その杖を頼りにやっと自分の疲れた体を支えていた。

美桜は、髪は美代と同じだが、自分の趣向もあって、腰には刀を差し、侍と変わりない恰好をしている。やはり血筋なのだろうか。剣に対するこだわりは、大阪の道場で父の門弟と練習を積んだ子供のころからの経験もあり、捨て去ることができないのである。

小島は元来明るい性格で、どんなにみんなが疲れたときでも、相手に話しかけることを止めなかった。

「お二人は、いくら地味な格好をしていても、どこか華やいで見える。」

また、小島が二人にさりげないお世辞を言って、彼女らの機嫌をとった。

しかし、二人の受け止め方は違っていた。美代は素直に喜んだが、美桜は小島の減らず口が不快であった。

「ところで、小島様にはお子様がおありですか。」

ただ黙々と歩いていた美代が、いきなり小島に尋ねてきた。

「はあ、女ばかり五人でして・・。下は赤子ですが、上は十三になります。」

小島は自分のことを聞かれて、照れるように答えた。

「そんなに・・。この前の幕府との戦では大変でしたでしょう。」

美代の父は幕府の中核にいた男である。しかし、政治に疎い美代には、長州と幕府の関係より、個人個人の日々の暮らしにしかあまり関心がなかった。

「禁門の変以来、長州は大海に浮かぶ小舟のようでした。明日が見えないのです。私など余り大志など持たない侍にとって、家族をどうやって守っていくか・・。それだけを考えることでで精一杯でした。そうしたら、今は形勢が逆転して、会津などでは家族が全員自害することも珍しくないようです。」

或る意味、小島も世の中の動きに翻弄される庶民の目線でしか、今の情勢が判断できなかった。その意味で、美代と同類なのかもしれない。

「小島殿!少しは、お言葉に気を使われては・・。美代様の夫正幸様が、今どういう立場で戦っていて、美代様がどうしてこうやって旅をしているのかを思いやって下さらないと・・。」

小島の言葉を聞きながら、美桜が激しい言葉で彼を叱責した。

「これは配慮のないことを言いまして、申し訳ござらん。」

美桜の言葉に、小島は頭を深々と下げて謝った。ただ、美代は、どうして小島が美桜の怒りをかったのか、当の被害者でありながらあまり理解ができなかった。

この会話で、三人の間に気まづい空気が流れようとしていた。その時、山道の木々の間から、いかにも人相の悪そうな野盗らしき男たちが数人現れたのである。状況は一変した。

三人を挟んで山道を塞ぎ、前方に立ちふさがった野盗の頭目らしき男が、低いどすのきいた声で唸るように脅してきた。

「男は、身ぐるみ脱いで置いていけ。女らは、わしらがもらっていく。」

その声は、悪党の凄みを相手に誇示し、威嚇するには充分であった。

美桜が、うつむき加減の目線で、野盗達の人数を確かめている。前に三人、後ろに四人・・。

「お前ら!わしを誰だと思っとる・・。長州藩士小島弥平だぞ。政府軍に歯向かえば、どういう目に合うか分かっているのか!」

小島は頭目に向かって脅したつもりだったが、足がぶるぶる震えて顔が真っ青になっている。横目で見ても、野盗の男の迫力の足元にも及ばない。

「何を寝言を言っとるんだ。山賊に向かって、長州だ政府軍だなどと怒鳴ったところで、わしらには、何のおまじないにもならんわ!」

小島の倍ほどの大声で、頭目が小島に一括すると、周りの手下たちの嘲笑の低い声が山道に不気味に響き渡った。

小島に決断の時が来た。いくら小心な男とはいえ、彼もこの動乱の中を生き抜いてきた長州の侍である。死を覚悟したことも一度や二度ではなかった。小島が戦う覚悟を決めた瞬間、体の震えが止まり、足に力がみなぎって、刀の束に手をやった。

「ほお、歯向かうつもりか。面白い・・。(手下の方に目をやって)まず、この男をやってしまえ!」

頭目の手下への命令が、山林にこだまする。

次の瞬間、予想もしない展開が野盗たちに待ち受けていた。

美桜が、差していた刀の束を握って抜刀し、高い木々に覆われて薄暗くなった上空に向かって勢いよく振り上げたのである。

「ぎゃあー」

野盗の頭目の悲鳴が途中で途絶え、彼の首が山道をゴロゴロと転がり始めた。木々の間から漏れる光に照らされて、美桜の白刃の切っ先に赤い鮮血が滴っているのが見えた。一瞬、時間が止まったように、周りの連中が凍り付いている。短い静寂の後、

「おのれ!」

頭目の横にいた男が大声を出して、美桜に刀を振りかざしたが、彼女の頭目を斬った刀の方が、男の振り下ろす刀より一瞬早く腹を通り過ぎ、再び赤い鮮血が飛び散った。男の体がバサッと倒れ、そのまま動かなくなる。即死であった。

その間、三人目の野盗の攻撃の刃を受け止めた小島の刀が、激し勢いで相手を押しまくり、山道の端まで追い詰めて、そのまま男を倒すと、男の体に食らいつき、すきを見て、彼の腹に刀を突きたてた。暫くのた打ち回っていた男の動きが止まった後、息の根が止められた。一連の殺戮は、恐怖の連続だったにもかかわらず、束の間の出来事のように、あっという間にけりがつけられた。気づいてみると、残りの野盗たちは、美桜の凄まじい剣に恐ろしさを抑えることができず、次々と逃げ去って誰もいなくなっていたのである。

小島が道端にへたり込んで、荒い息をしている。美桜は、何事もなかったように、抜いた刀を鞘に収めて前を見た。

「美代様!」

自分の殺戮に動揺を見せなかった美桜が、美代を見て絶叫した。美代の仕込みが、美桜の背後を狙おうとしていた野盗の胸のあたりを突き刺していたのである。

「おお!」

小島が感動したように唸ると、美代が野盗を刺した白刃を見つめている。

美代は、ゆっくりと野盗の胸から刀を抜くと、震える手で杖の鞘に収めた。それと同時に、野盗の体が倒れ落ち、そのまま地面に仰向けになって、口から薄っすら血を吐いている。この男も息をしていなかった。

「黒龍党が佐那河内を襲ってきたとき、我々女性たちは早苗様の長刀のおかげで救われたの・・。その時から、私は決めていたの。今度、こんなことがあったら、ひるまず戦おうって・・。」

美代の言葉に、美桜の顔がほころんだ。

「やはり、木場様の言う通りだ。佐那河内は無視できんわ。」

小島はそう言って、へたり込んだまま大声で笑い出した。


(草津と木場)

一方、会津の前線で小島の文を受け取った木場は、手に入れた駒である美代と美桜を、これからどう使おうか思案を巡らしている。

「佐那河内の二人の女達は、どこにいるのだ。」

右手に文を持ち、じっと考えごとをしている木場に、草津が声をかけた。

「越後に入る途中らしい。」

考えている最中に声をかけられた木場は、草津の方も向かず、ぼんやりとした声でそう言った。

「ところで、おまえは長谷部正幸をどうするつもりだ。いまだに政府軍に抵抗している敵の命を助ければ、西田や黒田が黙っていまい。」

草津の言葉に、木場が眉をひそめた。

「うまく生き延びても、長谷部正幸は大川に殺されるだろう。田中から聞いたのだが、大川たちは、右衛門を引っ張り出すために、まず長谷部を血祭りにあげる計画をたてているらしい。」

木場の情報は、事細かであった。

「あの残党狩りの殺し屋か・・。兵士の間でも噂になっておるぞ。大川は何人殺せば気が済むのかってな。」

新選組でもたじろぐほどの大量の殺戮が、戦争という大義で行われているのである。

「奴は、人を殺すたびに野獣に近づいているような気がする。近頃では、形相までも変わってきた。(顎を撫でながら)恐らく、右衛門の息の根を止めるまでは止まらんだろう。」

「あるいは、息の根を止められるまでわな・・。」

草津が、木場の言葉を引き継ぐようにそう言って、にやりと笑った。

「ところで、小島の剣の腕はどのぐらいだ。」

草津が話題を変えた。

「中の下というところか。」

木場が、客観的な評価を下した。

「それで、二人を守れるのか。」

草津が、不安そうに木場を見る。

「美桜さんがいるではないか。おぬし、あの女を見くびるなよ。小野一刀流頭首小野忠成の娘だぞ。」

木場はそう言うと、まるで自分のことを自慢するかのように不敵な笑いを浮かべた。



(忍びと右衛門)

フクロウの鳴き声で、屋敷の中にいる右衛門に自分の到来を知らせた権蔵は、京馬と共に闇夜の中でじっと立っている。二人は、背に大きな籠を背負い、帯の下には刀を忍ばせて、いつでも戦える準備を怠っていない。

権蔵の合図に応じるように、右衛門が提灯をかざして屋敷から出てきた。

「探すのに苦労しましたぞ。まさかこんな所で何日も滞在しているとは、想像もつきませんでした。柴田という蘭学医の屋敷に妙な侍が転がり込んで、医者の手伝いをしているという噂を聞きこみましてな・・。以前、右衛門様が何度か斬られた侍の傷の手当てをしてたことを思い出しまして、もしやと思い手下に探らせたところ、あなた様に違いないとのことで、こうやって京馬とやってきたわけです。」

権蔵の会話の最中に、自分の名が出てきたとき、京馬が右衛門に頭を下げた。

「お前があの京成の息子の京馬か・・。どうして親の仇のいる佐那河内にやってきたのだ。」

右衛門が提灯で京馬の顔を確かめながら、そう尋ねた。

「おやじは、右衛門様のことを恨んでいないと思います。忍びとして頂点にいた親父にとって、日本で最強と言われたあなた様に挑んで敗れたことは、むしろ誇りだった思います。私の前で、何度も自分は最強の侍と対決するんだと嬉しそうに申しておりました。」

そう言いながら、京馬は始めて会った右衛門の顔を興味ありげに何度も上目遣いに見ている。

「京成ほどの忍びになると、生半可な使い手など足元にも及ばぬ武芸者みたいだな・・。」

右衛門は、京馬の話を聞いて、正直に感心した。

「奴は特別です。わしなどとても殺しあう相手をそんな風には思いません。どうやって、相手を殺して生き延びるか・・。ただその思いだけです。だからこそ、この京馬のおやじは、伝説の忍びと呼ばれたのです。」

権蔵の言葉に、京馬は自分の父親を誇らしく思い感情の高ぶりを覚えた。

「ところで、二人に頼みがあるのだが・・。」

いきなり、右衛門が話題を変えた。二人の注意が、彼の言葉に集中する。

「この近くに、米沢藩の上杉実典殿が新政府軍の援軍として陣を張って、会津攻撃に加わっているのを知っているか。」

右衛門の質問に、二人は合わせたように頷いた。

すると、右衛門は懐から白い紙の書状を取り出した。

「これは、わしがこの屋敷で苦しんでいる患者を助けてもらうために、上杉殿に書いた書状だ。信頼できる誰かに託して、上杉殿に直接この書状を渡してもらおうと思っていたが、おぬしらが来てくれるとは、わしにも運が向いてきたようだ。(提灯の灯りで二人を見つめて)やってくれるか。」

真剣な表情をした右衛門が、懇願するように二人の顔を見た。

「必ず・・。」

書状を受け取った権蔵が、しっかりした声で右衛門の依頼に答える。

その時、横にいた京馬が、クスリと笑った。

「なんだ・・。わしの顔がそんなにおかしいか。」

つられるように笑いながら、右衛門が京馬に尋ねた。

「わしは、親父殿からさんざんあなた様の強さを聞かされていたので、どんなに迫力のある侍かと思っていましたが・・。」

京馬はそこまで言うと、全部言うのをためらった。

「お前の期待にはそえなかったか。」

右衛門が、すまなそうな顔をして頭をかいた。権蔵は下を向いて、肩を震わせながら笑いをこらえている。

京馬は二人の反応を見て、

「申し訳ございません。(笑みが消えて、真剣な顔になり)右衛門様の依頼、上杉様に必ず・・。」

そう言って、軽く頭を下げた。

「そうじゃ、わしと京馬の籠に食べ物と薬が入っております。皆様に・・。」

権蔵がそう言うと、二人は籠を地面に置いた。

「すまんな・・。みんなどれだけ喜ぶか。」

右衛門がそう言って、籠を手で取り前を見た時、すでに二人の姿は消えていた。



(大川の兵士狩り)

城に逃げ込むのが遅れた会津防衛隊の兵士達が、あちこちの民家に立てこもっている。その兵たちを壊滅していくのが、大川寿樹とその門弟たちの役目になった。最初のころは、右衛門との立ち合いを望んで、村田の誘いに乗って新政府軍に加わった大川であったが、西田の巧みな誘いもあって、いつの間にか、敗走する敵の兵士狩りにどっぷりとつかっていたのである。もともと、血なまぐさい殺戮にある種の快感を覚える性格であったのかもしれない。それが、人を殺すことで英雄に祭り上げられる戦争に遭遇することによって、良心の呵責もなく人を斬ることができるのである。正当な理由を得て、彼らの狂気は、自分たちをますます血を求める怪物にしていった。


「家の裏に、十数人侍がいるぞ!恐らく、政府軍の殺し屋だろう。」

民家に立てこもった会津兵六人が、息をひそめて外の状況を見張っている。

「それにしても妙だな。正面にいる侍は四人だ。我らより少ないではないか。」

兵士の一人が、家の戸口を少し開いて正面に陣取る大川と彼の精鋭の弟子を見ながら呟いた。どうやら、彼らは皆、十代の青年兵らしい。自分の藩を守るために、命を投げうって新政府軍と戦っているのである。

「恐らく、奴らは火を放ってこの家から俺たちをいぶりだすつもりだ・・。どうだ、その前にこちらから打って出るか。」

彼らの中でも、剣に自信がある青年が興奮したようにそう言った。

「よかろう。前に陣取る四人をたたき斬って、そのまま城に逃げ込もうではないか。」

彼の言葉に、残りの青年兵が大きく頷いた。

青年たちは、まんまと大川の誘いに乗った。村田率いる家の裏に回った侍たちは、わざと大川と門弟たちに会津兵を斬らせる作戦だったのである。

家の出入口の木戸をけ破って、青年兵たちが、正面で待つ大川たちに向かって、大声を出しながら刀を振りかざして斬りこんでいく。大川の前に立っていた門弟三人が、彼らに応戦すべく、刀を抜くと小走りで青年兵に向かっていく。

勝負の結果は見えていた。大川の門弟と青年兵との剣の技量には、余りにも差があったのである。二つの集団が次第に接近し、ぶつかりあった瞬間、会津兵は次々に真っ赤な鮮血を空中にぱっと散らして、地に沈んでいった。それでも、青年の中でも腕の立つ一人の兵が、門弟たちが仲間を殺している合間をかいくぐるようにして、集団の塊から抜け出すと、後ろでじっと殺戮を見ていた大川の方へ、血相を変えて大声をあげながら向かってきた。大川は、その凄まじいい気迫を気に留める様子もなく、若者が近づいてくるのを静かに待っている。そして、若者が太刀を振り上げて挑みかかろうとした瞬間、大川の刀が青年の額から胸に向かってまっすぐ振り下ろされた。それと同時に、青年兵の叫び声がぴたりと止まり、地面に転がった彼の血で地面が真っ赤に染まった。

「さすがだ。目にもとまらぬ一撃だな・・。」

裏手に回って大川の殺傷を見物していた村田が、いつもながらの大川の剣に感嘆の言葉を漏らすと、大川が人を斬った後漏らした不気味な笑みを見て、ぶるっと体を震わせた。


会津城への総攻撃の数日前

総大将西田と副官の黒川が、最後の打ち合わせを行っている。

「街中の残党兵の掃除は、大川がようやってくれとる。」

西田が計画最後の確認を終えた後、黒川にそう言った。

「西田さんは、本当に、奴に右衛門を斬らすおつもりですか。」

テーブルに置かれた城の地図から目を上げて、黒川が西田の真意を確かめた。

黒田は、西田が右衛門の剣と人格を高く評価していることは知っていた。

「幕府との戦いの結果は見えてきた。そうなると、歴史が教えてくれることは、身内からの権力闘争だ。我ら薩摩と長州の木場や草津がいつまでも一枚岩でいられるとは限らんからなあ・・。」

西田は、黒川の質問をそらすようなことを言ってきた。

「それが、右衛門とどういう関りがあるので・・。」

黒川は、大久保とは違っていた。

「やはり大久保は、きれ者だ・・。」西田は、黒川の察しの悪さを目の当たりにして、改めて大久保の能力の高さを再認識するのであった。

大久保は、右衛門という男の存在を、必要以上に気にしていた。

「長州の木場や草津は、右衛門に近づいて佐那河内の連中を手なずけて、薩摩に対抗する自分たちの味方を増やそうとするかもしれんなあ・・。(暫く、じっと考えて)厄介な種は、早めに摘むに限る。右衛門さえいなくなれば、佐那河内の結束力は、自然に解けてしまうと思うんだが・・。」

大久保の言葉が、西田の記憶にいつまでも残っていた。西田にとって、安定した政権樹立は至上命題だ。もし、その大義に少しでも差しさわりとなる種は、私情を挟まず取り除かねばならない。

「大川に右衛門が斬れんでも、どんな手を使っても長州と佐那河内を結びつけるのは避けんとな・・。」

西田は、前にいる黒川に語りかけるようにそう言った。

言われた黒川は、西田の言葉にきょとんとしながらも、応ずるように頷いた。



(柴田屋敷脱出)

権蔵と京馬によって、米沢藩 主上杉実典に右衛門の書状は届けられた。

書状を受け取って熱心に目を通していた実典の顔に笑みがこぼれる。

「右衛門殿にはどのように伝えましょうか。」

京馬が、頭を下げたまま実典に尋ねる。

「わしが断るわけがなかろう。右衛門殿には、藩の窮地を救ってもらった恩義がある。それにしても、右衛門殿は自由奔放に生きておられるな。つい最近は、会津藩家老 折田周明を殺害したと思ったら、今度は新政府軍を無視して会津の負傷者の救済に奔走するとは・・。」

実典は、そう言いながらも笑顔を絶やさない。

「患者は二十数名ですが、その半数は自力では屋敷を脱出できない重傷者です。可能ならば、その者達の運搬のために、援助の人手をお願いしたいのですが。」

権蔵が屋敷の状況を説明する。

「もちろん、梅本弥三郎に命じて、人手を五十人ほど屋敷に差し向ける。幸い、明日から城の総攻撃だ。新政府の兵士たちは民間屋敷を見回る余裕はない。ただ、薩摩の侍で、会津兵の残党狩りをやってる連中がいるらしい。奴らは剣の腕が立つと聞いている。」

実典の顔から笑顔が消えた。

「その連中は、我らが対処いたします。」

京馬がすかさず返答した。京馬は、まだ大川の恐ろしさを見ていなかった。

実典が再びにこりと笑って、

「わしらも奥州の諸藩からは、新政府に寝返った裏切り者と呼ばれている。ただな、わしら上杉の系譜には、歴史的にも徳川幕府に恩義など一切負ってはいないのだ。どちらの味方をしようと、誰にも後ろ指を差されるいわれはない。その意味では、右衛門殿と同じ自由な立場だ・・。喜んでお手伝いいたそう。屋敷の患者は、責任をもって米沢藩へ移送して手当を施すから、安心するよう右衛門殿に伝えてくれ。」

実典の口調は滑らかだった。久しぶりに誰に遠慮することなく、自分の思い通りの行動がとれて、この戦争でたまった鬱積を少しだけ晴らすことができるのである。

「私も右衛門殿と小野忠成殿に命を救ってもらった恩義があります。殿に命じられたこの役目、命を懸けて果たす覚悟です。」

実典の横に座っていた梅本弥三郎(米沢藩士)が、その場の雰囲気以上に熱気を込めて京馬に向かってそう言った。米沢藩士は、戊辰戦争勃発以降、幕府側についたり、新政府側についたり、目まぐるしく戦況に振り回されてきただけに、彼にしてもやっと望み通りの仕事を与えられ、必要以上に気合が入っていたのだろう。


米沢軍交渉後、京馬の知らせを聞いた柴田の屋敷では、負傷者や患者たちがこの家を立ち去る準備で忙しかった。

「みんないいか。新政府軍が会津城に総攻撃をかけると同時に、わが藩の救援隊がこの家にやってくる。自分で歩けるものは指示に従い、そうでないものは抱えてわが陣営に運んで行く。安心して我らを頼ってくれ!」

先発としてやってきた梅本が、屋敷に横たわる患者たちに大きな声で指図した。

「よいか、この避難を甘く見ないように!政府軍の兵士に見つかったら、必ず奴らは襲ってくる。脱出は命がけだからな!」

老医師の柴田が、梅本の言葉に付け足すように、患者たちに決死の覚悟を促した。


右衛門は、屋敷の騒然とした空気をよそに、手に鍋と小さな棒を持っている。

「何をするつもりなのだ。」

右衛門に近づいてきた柴田老人が、そう尋ねた。

「みんながこの屋敷を出たら、これで新政府の残党狩りをおびき寄せようかと・・。」

いたずらを楽しんでいる子供のような表情をして、右衛門がにこりと笑ってそう言った。

「わしも、おぬしと一緒に行くからな。」

柴田老人は、右衛門の言葉にあまり反応せず、自分が考えていたことを一方的に宣言した。すると、右衛門の顔から笑顔が消えた。

「しかし、先生がいないと、患者が困るのでは・・。」

正直、右衛門には、柴田の同行は迷惑だった。早紀は死んだ父親の約束もあって、どうしても連れて行かなければならないが、柴田老人は想定外の足手まといでしかなかった。

「おぬしはわしが迷惑なのだろうが、わしもこの会津が壊滅したら、人を助ける医術からは足を洗い、自分勝手に生きてみたいのだ。この年になって初めて、自由奔放に生きることがどれだけ楽しいことか、おぬしを見ながら学んだような気がする。知っておるぞ、おぬし、見能林の藩主だったのだろう。忍びの権蔵から聞いた。」

権蔵と京馬は、米沢軍と右衛門の仲介として、何度か柴田の屋敷を訪れていたのである。

右衛門がふと目をやると、老人の腰にはどう見ても使いこなせないような刀が差してある。

「柴田先生、腰の刀・・。余りにも不釣り合いなような気がしますが。」

右衛門は、思い切って柴田に聞いてみた。

「わしは、元々会津藩士だったのだ。若いころ、侍が嫌になって家禄を返上して、医者になったのだが、今回医者をやめるとなると、残りの人生を元の侍として生きるのも悪くないと思ってな。それに、この同田貫正国は、先祖伝来の我が家の至宝でな・・。これさえあれば、ひとかどの侍に見えるだろう。」

同田貫正国という言葉に、右衛門の心が動いた。

「拝見しても?」

右衛門の表情が変わったのを察知した柴田老人は、自慢気に腰から刀を取ると、彼の前に差し出した。受け取った右衛門が、ゆっくりと刀を抜いてみる。

「ほう・・。」

右衛門はそう唸ると、じっと刀に見入ったまま、その魔力に吸い込まれているようだった。

「おぬし、今、人を斬ってみたくなっただろう・・。」

柴田の言葉に、右衛門がはっとして表情を緩めた。

「この刀には、妖気があるのでは・・。先生が言ったように、人の邪心を誘うような魔力がありますなあ。」

右衛門は、この刀に魔力を感じていた。

「死んだおやじの話によると、この刀は数えきれないほどの人の命を奪ったそうだ。その怨念が刀に宿っているのかもしれん・・。」

柴田が、刀のいわくを話した。

「そうですか・・。(柴田に笑顔を見せて)先生、私と一緒に来られるのなら、私の傍を離れんでくれますか。」

右衛門が、意味ありげなことを柴田に頼んだ。

「分かった。」

柴田は、右衛門との同行が受け入れられたことを知ると、上機嫌で返答した。


(会津脱出)

城の方で砲撃の激しい轟音が、右衛門たちのいる屋敷まで響いてくる。新政府軍の総攻撃が始まったのである。

柴田の屋敷では、米沢軍の援助隊の応援を得て次から次と患者たちが運ばれて行く。

「屋敷の患者は、これですべて運び出しました。後は、私が責任をもってわが陣営に運び入れるので、安心なさってください。」

梅本は、右衛門にそう言うと、軽く頭を下げて一礼した。

「わしが感謝していたと、上杉殿にお伝えくだされ。」

右衛門は、同じように梅本に一礼した。

「ところで、右衛門様はこれからどうするおつもりで・・。」

梅本はそう言うと、右衛門の側にいる柴田老人と早紀を見た。老人と少女を連れて、戦火の中を旅立とうとしている右衛門は、誰の目から見ても異様であった。さらに、彼自身の姿も異様である。刀を背中に回して結び、手には鍋に棒を持っている。柴田は例の刀を腰に差し、小太鼓を手に持ち、早紀も二人に合わせるように、巫女の持つ鈴のようなものを握りしめている。

「その鳴り物は、どうするおつもりで?」

梅本がおずおずとたずねてみる。

「これから、三人でお祭りでもしようかと思ってな・・。」

右衛門が、にやりと笑って冗談を言った。

「そうですか。」

梅本は不審そうな顔をしながらも、右衛門の冗談をまともに受け止める。

「まあ、そいうことだ。おぬしは、患者のことを頼みましたぞ。」

柴田が時間を惜しむようにそう言って、梅本に与えられた使命を促した。

柴田の言葉を受けて、梅本は気にかかった疑問を吹っ切るように再び頭を下げると、患者たちを運ぶ援助隊を追うように駆け出して行った。


「なんだ、あいつらは・・。」

大川の弟子の畠山が、家が立ち並ぶ通りで太鼓を鳴らし、鈴を振り、鍋を叩く三人の人間が行進しているのを見つけてそう言った。

「戦火の中で、大道芸をする連中でもあるまいし。」

一之谷(大川の弟子)が、後ろにいる大川の方を向いて笑みを漏らした。

「おい、あれは右衛門ではないか・・。」

上島(「大川の弟子)が、前の三人にじっと目を凝らしてそう叫んだ。

大川達の顔が、いきなり真剣になる。

一方、右衛門と柴田老人、それに早紀は、前で待ち構える大川ら五人の侍たちを無視するかのように、どんどんと進んで彼らに近づいて来る。

「何を考えているんだ・・。右衛門は、腰に刀も差さず、われらを恐れる様子もない。それに、どう見ても残りの二人は、戦うには足手まといでこそあれ、決して助太刀などできまい・・。」

最近、大川らと行動を共にしている田中平九郎が、不思議そうな顔をして右衛門と一緒にいる二人を見ながらそう言った。

「これなら、わしでも右衛門を斬れるのではなか・・。」田中は、ふとそんな思いが脳裏をかすめた。

「大川様、ここはわれらにお任せを・・。」

畠山がそう言うと、一之谷と上島に目をやった。それに応ずるかのように二人が頷き、刀の柄に手をやる。彼らも田中と同じように、右衛門の無防備な格好に勝機を見つけたのだろう。右衛門が背中の刀を抜く前に、三人の刃が右衛門の体を両断するのは、難しいことではないと思ったのである。

「待て!奴は並みの使い手ではない。何か・・。」

田中がそう言っている間に、功名心にかられた三人は聞く耳をもたず、剣を抜いて脱兎のごとく右衛門に向かって駆けて行ってしまった。

一方、右衛門達の方では、

「おぬし、どうする気だ!」

剣を上段に構えて、凄まじい気合の声をあげながら右衛門めがけて突進してくる三人の侍を見て、最初は右衛門の剣を信頼していた柴田老人だったが、恐怖を隠しきれず、右衛門に言葉をかけた。

右衛門は、柴田に微笑みかけると、

「先生、わしから離れんでくだされ!(早紀の方を向いて)お早紀、怖くはないか?」

右衛門の前で、身動きもせずじっとしている早紀の方を向いてそう尋ねた。

右衛門は早紀の度胸に感心していたのだが、よく見ると、早紀は恐怖のあまり固まってしまって、足元からは小便が流れていた。

右衛門は自分の勘違いを知って、思わず声を出して笑ってしまった。

その間にも、凄まじい気迫で三人侍が右衛門めがけて迫ってくる。


「右衛門は背中の刀の抜刀で、我らを斬り倒す。」少なくとも、それが右衛門の必殺剣と聞いていた大川の弟子たちは、彼の剣に対する固定観念から脱していなかった。確かに、右衛門は、薬士や京成は直前の抜刀によって退けた。しかし、右衛門の剣は必ずしも常識的な戦法にはこだわらないのである。刀の死闘では、相手を殺すための最良の合理性を求めなくてはならない。「手段は選ばず。」・・元々剣道に高い理想を持たない右衛門の強さは、その辺にあったのかもしれない。


「右衛門、命もらった!」

三人の刃が、機を合わせるように右衛門の体に浴びせられようとした瞬間、右衛門は目にもとまらぬ速さで、柴田老人の腰に差した同田貫を抜くと、右足を踏み込み一之谷の胸を水平に払い、返す刀で上島の腹に下斜めに走らせると、逆袈裟に畠山の正面を斬り裂いた。その技は、かつて京成達三人の忍びを一瞬にして仕留めた、あの「一挙三人斬り」の神技であった。再び、大川の弟子たちを同じように斬り倒したのである。ただ、彼が抜いたのは、柴田の刀であった。

三人が斬り捨てられる間、時間がぴたりと止まっているかのようだった。右衛門の一連の動作の流れと速さは、時間の経過を遅らせるような錯覚を人に引き起こさせた。常識では考えられない彼の身体能力は、そこに居合わせた連中の普段の動体視力を狂わせてしまったったのである。

「ありえない・・。」

それでも、周りの連中とは違って、右衛門の殺人剣を冷静に観察していた大川が呟くようにそう言った。

右衛門の鬼の剣が時間を止めた後、再び時が刻み始める。斬られた三人の凄まじい鮮血が、空に噴水のように吹き上げられた後、地に横たわり血に染まった三人の遺体の凄惨せいさんな光景が、凄まじい斬りあいの事実を克明に物語っていたのである。

右衛門は息を整えるためにふっと息を吐き、にやりと笑うと、血の滴る刀を肩に置き、笑顔を見せたまま何事もなかったかのように、大川と田中の方に向かって行く。その後を、ゆっくりと早紀と柴田が、間隔を置いて従っている。

右衛門が二人に近づいたとき、大川が刀に手をやった。そして、彼が右衛門の方に踏み出そうとしたとき、田中が体を前に出して大川を遮った。

「やめておこう。(右衛門の後ろに目をやって)佐那河内の忍びがついてきておる。奴らが助太刀すれば、勝ち目はない・・。」

そう言って、田中は大川の戦意を抑えた。そして、右衛門の方に向かって、

「右衛門殿、久しぶりです。薩摩の田中です。」

そう言って、愛想笑いを右衛門に送った。

右衛門は、田中の声が聞こえなかったかのように、柴田の方に振り向くと、

「どうやら、これ以上血なまぐさい争いは起こらないようです。行きましょうか。」

そう声をかけ、大川と田中の横を血で染まった刀を肩にかけたまま、さっきからの笑みを絶やさず、警戒心を表に見せずに通り過ぎて行ったのである。その後を、早紀と柴田が小走りでついて行く。大川は黙って目を閉じたまま、右衛門たちが通り過ぎるのを身動きもせず見送っていた。


後ろの物陰で、一部始終を見ていた京馬と権蔵が目を合わせてにやりと笑った。

「見たか、京馬・・。」

まるで自分がやったことのように、権蔵が京馬に話しかけた。京馬が、静かに頷く。

「わしは、おやじを誇りに思う。あれだけの剣豪に立ち向かっていったのだから・・。(権蔵の方を向いて微笑み)わしは井伊家を裏切ってよかった。今は心底そう思うよ。」

権蔵は、京馬の屈託のない笑顔を初めて見たような気がした。



(会津城が眺望できる高台で)

右衛門たちは新政府軍の会津城総攻撃を見るために、戦況が眺望できる山の中腹に登り、崖の岩に座ってじっと城の方角を見つめている。

「大君の義一心に大切にし、忠勤を存すべく・・・・即ちわが子孫にあらず・・。」

柴田老人が、淡々と会津の教えをそらんじている。

「初代藩主保科正之公の会津家訓十五か条ですか。」

右衛門が、柴田の顔を見てそう言った。柴田が深くうなずく。

二人の傍らでは、早紀が戦を見ながらあふれんばかりの涙を流している。

「わしはな・・。この家訓に従うことができんかった。幼いころから父親に何度となく家訓の意味を聞かされて、会津の家臣としてこの教えに従うように命じられたのだが・・。つまるところ、わしは先祖の教えに逆らって、医術の道に人生を捧げてきたのだ。」

老人の目が潤んでいる。

「先生は、会津陥落を見て、自分の選択が間違っていなかったと思いますか。」

右衛門は、戦況の方に目をやったまま柴田にたずねた。

城に火がはなたれ、政府軍の兵士たちが続々城内に侵入していく。城全体が、白い煙でぼんやりとぼやけていき、一種幻想的な光景になってきた。

「それは分からん。ただ、わしはこの地で死ぬのが当たり前だと思っていた。わしの先祖の子孫としてな。家訓にも従わない出来の悪い子孫だが・・。」

老人は城の陥落を目の前にして、自分の生きてきた人生を重ね合わせているようだった。

「早紀はどうだ?この地を離れるのはつらいか。」

今度は、早紀に質問した。

早紀は、手で涙をぬぐうと、

「母上も父上もいなくなった会津に余り未練はありません。」

と言って、自分の正直な気持ちを吐露した。

「そうか・・。それはよかった。」

右衛門は、未来のある早紀と老人の柴田を見比べながら、自分が背負いこんだ荷物に改めて苦笑した。

「ところでおぬし、あてはあるのか。」

柴田が、右衛門に心配そうな表情をして尋ねる。早紀もそのことが知りたかったのか、右衛門の顔を覗き込む。

「庄内で商売を営む知り合いがいるので、訪ねてみようかと・・(慎吾のことである)。それに、気になる男が庄内辺りで戦をしてるはずなので・・(正幸のことである)。」

右衛門の言葉をじっと聞いていた柴田が、

「そうか・・、どのみち、わしらはおぬしに付いていくだけだ。早紀、何やら面白そうな旅になるやもしれんな。」

老人はそう言うと、早紀に微笑みかけた。早紀も彼に笑顔を見せた。

「やれやれ、この旅は物見遊山ではありませんぞ。」

右衛門はそう言いながらも、二人の楽しそうな笑顔につられて笑い出した。



(人斬り慎吾)

「あなた、大前屋の喜一郎様が、哲太さんと将太さんを連れて店に来ましたよ。」

慎吾の妻の美津が、店の奉公人と一緒になって荷を運んでいる慎吾を呼びに来た。

二人が大恋愛の末、夫婦になって二年が経つ。酒田北前船で財を成した有力商家の主人 本間光秀の援助でこの地に店を出し、店の主となった慎吾にとって、剣の道を目指した侍からいきなり商売を家業にする生活は容易なことではなかった。

「そうか、今行く。」

慎吾が美津に声をかけると、彼女の方を向いて笑顔を見せた。夫婦になった今も相変わらず仲がいい。ただ、未だ子宝には恵まれなかった。

慎吾は商人の髪結いに抵抗があり、暫く渋っていたが、幕府が傾いたころから髷を切ったままの髪が世に認められるようになった。それを機に、慎吾もまた右衛門と同じように、髷結いを放棄したのである。


店に帰ると、平蔵(本間家番頭)が店先で慎吾を待っていた。彼は、光秀の命で商売の経験のない慎吾に代わって店の運営全般を任されていた。平蔵の手腕もあって、慎吾と美津の開いた廻船問屋は順調な滑り出しを見せている。何より、大前屋の喜一郎が慎吾の店に気を使い、いろいろと商談を持ちかけてくれたのも、店がうまくいっている一因であった。慎吾は、今でもまるで店の使用人のように力仕事をして汗を流している。そのほうが性に合っているのかもしれない。ただ、本間家の親戚の間では、そんな慎吾の店主らしからぬ姿を見て、眉をひそめている者も少なくなかった。

「喜一郎様がお待ちかねです。奥の座敷に、佐那河内の二人と一緒に通しておきました。」

平蔵が、笑顔を見せて慎吾に告げた。彼にとって、喜一郎は大切な来客であった。

「そうか、着替えたらすぐ行く。」

慎吾はそう言うと、彼に笑顔で答えた。平蔵は、真面目に一生懸命働く慎吾が嫌いではなかった。


慎吾が喜一郎たちのいる部屋に入ると、将太と哲太が最新の銃を横に置いて、正座して落ち着かない様子で部屋を見渡している。慎吾の店のような新興の商家でも、北前船で取引をしているだけで、普通の商売では考えられないほどの金が動く。その分、店の構えも豪華になるのである。

「二人を連れてきましたよ。」

慎吾の顔を見るなり、喜一郎が無表情でそう言った。この男、普段の商売では余り笑顔を見せず、やらなくてはいけないことを淡々とこなしているような態度を見せる。ところが、いったん夜の酒宴や遊びとなると、性格が一変するのである。いつも笑顔で人にもあたりもよく、大店の旦那の風格があった。やはり、生まれつきの大店の二代目という、持って生まれた境遇からくる育ちの良さあるのかもしれない。

「本間慎吾です。よろしくな。」

慎吾はそれだけ言うと、将太と哲太の方を向いてにこりと笑った。

「大そうな店の主人と聞いていたので、緊張していたが、わしらと変わらない年のようでほっとしました。」

哲太が、慎吾の印象を正直に言った。実際、慎吾は哲太より二歳年上だけだった。

「そうだな。どこか右衛門様と似てるかな・・。」

将太がそう付け加えると、慎吾の顔が更にほころんだ。

「お前、結構人を持ち上げるのがうまいなあ。」

慎吾はそう言うと、二人に近づき、彼らの肩を嬉しそうにぽんぽんと叩いた。

「やはり子供だ・・。」その様子を見ていた喜一郎が、皮肉を込めた笑みを漏らした。

「会津が落ちた後、新政府軍の戦は庄内が主戦場になると聞いております。お二人が、この店を略奪兵から守って下されば、こんなに心強いことはありません。よろしくお願いします。」

いつの間にか慎吾の後ろにいた平蔵が、座敷に座りながらそう言った。

「将太と哲太の銃の腕は確かです。慎吾さんもいいとこに気が付いたものだ。私が二人に話すと、二つ返事で請け合ってくれました。」

喜一郎がそう言って二人の方を見る。二人はにこにこしながら頷いた。

その時、美津が部屋に顔を出した。

「お父様(本間光秀)が挨拶に来ましたが・・。」

美津の言葉に、喜一郎の表情が緊張する。慌てて上座を退くと、追い立てるように哲太を下座に押しやると、正座をしてかしこまっている。

「ずいぶん乱暴だの・・。」

不満げな顔をしながら、哲太が将太の横に座る。


暫くして光秀が部屋に入って来た。

「喜一郎さんには、ご苦労かけました。」

光秀は、座るなり喜一郎に礼を言う。さすがの喜一郎も、日本有数の豪商本間光秀の前では、いつもの無表情な顔はできない。夜の宴会の時の顔で頭を下げる。

「本間様のお役に立ててなによりです。」

喜一郎の顔が更にほころぶ。

「お二人、頼みますよ。」

光秀が哲太と将太に笑顔を見せる。喜一郎の態度を見ていた二人だけに、光秀に恐縮して頭を下げるしかなかった。

「慎吾さんは、薩摩でしたな。」

光秀は、慎吾に会話を振った。

「はあ・・。」

慎吾はそう答えただけだった。すると、

「わしは陽明から聞いたんだが、慎吾さんは、薩摩では人斬り慎吾と呼ばれていたらしく、かなりの使い手らしいな。」

いきなり将太が、周りの空気も読まず口を出した。

この言葉に、場が凍り付いた。すかさず、哲太が将太の頭を殴った。

「何するんだ兄貴!」

いきなり殴られた将太の顔が、怒りで真っ赤になる。慎吾と喜一郎は、場を修復する言葉もなく、じっと黙ってうつ向いたままだった。すると、光秀はこの光景を見て声を出して笑い始めた。

「そうですか。慎吾さんがなあ・・。どこか凄みを感じたことはあったが。それなら、余計に安心だ。出来れば、本間家の連中の護衛も頼みましたぞ。必要なら、金はいくらでも出しますから。戦になれば、商人は無力だ。あれだけ慎吾さんのことを無視していた親戚も、寄って集まると、慎吾さんの話題ばかりだ。みんな頼りにしてますぞ。」

光秀はそう言うと、前に座っている連中に頭を下げた。それに応じて、みんなが一斉に光秀に深々と頭を下げる。ただ、将太だけがどう対応していいか分からず、みんなの行動をぼんやりと眺めている。

「ところで、親父様がここにおいでになった目的は、他にあるのでは・・。」

慎吾は、近頃、光秀が人の付き合いを避けていると美津から聞いていた。長年患っていた心の病が悪化しているらしい。

「うん・・。番頭の平蔵から大前屋の喜一郎さんが慎吾さんの店に来ていると知らせがあってな・・。」

光秀はそこまで言うと、哲太と将太の顔を見る。二人には、聞かせたくない大事な話のようだった。彼の視線に反応したのは、将太だった。

「わしと兄貴は、佐那河内では邪魔者扱いなどされたことはない。右衛門様は、わしら仲間は平等だと言っておった。」

将太は、口惜しさを語気ににじませた。

「将太、いいでないか。わしらとは関りのない話のようだ。」

哲太が、弟にそう言って慰めた。

「いや、これはわしが悪かった。お二人には、略奪する兵士から守ってくれと言いながら、大事な話だからと座を外すのを要求するのは、虫が良すぎる。この通りだ。」

光秀は、将太の不満に反省して、謝罪のために深々と頭を下げた。

「分かってくださればいい。わしも言い過ぎた。」

将太はそう言うと、複雑な笑みを漏らし矛を収めた。

「みんなで聞こうではないか。」

慎吾が、気まずくなった場を変えようとする。

すると、光秀が気を取り直して、

「実は、薩摩の大久保という男がわしの屋敷にやって来て、本間家親戚一同から六万両都合してくれと、半ば強制的に要求してきたのだ。」

光秀の眉間にしわが寄った。

「やはり来ましたか。大久保と言えば薩摩のきれ者、豪商本間家の財に目をつけると思っていました。」

喜一郎はそう言うと、独り納得したように頷いた。

「それで、親父様はどうなさるおつもりで・・。」

慎吾が、光秀の方針を問いただした。

「仕方あるまい。これからのこともあり、薩摩に逆らうわけにもいくまい。」

光秀はそう言うと、苦笑いをした。

将太は、やはり自分がこの話を聞いても意味がないことを知り、とんがってしまった自分を反省した。

「ちょっと待ってください。大久保は、薩摩のために金を出せと・・?」

喜一郎の脳裏に疑念が浮かんだ。光秀も喜一郎と同じ疑念を抱いていたのだ。

「それでは、薩摩と連合を組んでいる長州は何も要求はしないので・・。」

余り政治に関心のない慎吾でさえ、この要求に疑問を抱いた。哲太と将太は、退屈そうに三人の話を聞いている。

「そこなのだ・・。六万両を薩摩に渡せば、今度は長州が何と言ってくるか・・。」

光秀の悩みは、そのことにあった。

「これは長州の耳に入れば、大事になるかもしれん・・。」喜一郎は敢えて口に出さなかったが、ふとそんなことを思って手に力が入った。

「喜一郎さんは長州の連中と知り合いが多いと聞いているが、長州の出方を探ってくれまいか・・。」

光秀が喜一郎に、懇願するようにそう言った。長州にも要求されれば、十二万両の出費になる。さすがの本間家といえど、その額は重荷であった。

「右衛門様でもいたら、何か考えたかもしれんがな・・。」

慎吾はそう言うと、ため息をついた。

「まるで、わしでは役に立たないかのようないいようではないか・・。」喜一郎は心の中でそう思った。直接反論はしなかったが、慎吾の言葉に怒りを感じた。そして、彼の怒りが皮肉を込めた言葉に変わったのである。

「慎吾さんも薩摩の出身なら、大久保のことぐらい知っているだろう。親父様のために談判してみてはどうかな・・。」

喜一郎は嘲笑するような笑みを見せると、慎吾を冷たく突き放した。慎吾にそんなことができる才覚がないことを見越しての言葉である。

「はあ。」

慎吾はそう言ったなりうつ向いてしまい、黙ってしまった。

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