右衛門12-1
シリーズ「右衛門12」
「もっと引きつけろ。向かってくる敵の顔が判別できたら撃て。言っとくが、お前らの銃は、英国式の最新鋭だ。敵の銃より数段命中率が高い。そのことを頭に入れて、余裕をもって狙っていけ!」
この男、戦火の中でも理路整然と状況を考え、決して気合や勢いで戦をしない。
彼の名は、伊勢逸郎。長谷部正幸を指揮官とする長谷部家軍団の副官である。
正幸率いる長谷部家の突撃部隊に奇襲を食らった薩長軍三十名あまりの鉄砲隊が、伊勢の率いる鉄砲隊が待ち伏せる街道を猛烈な勢いで駆けてくる。
「狙いが定まった者から撃っていけ!」
逸郎の命令が淡々と告げられると同時に、長谷部軍の狙撃手たちが、それぞれの判断で狙撃し始める。彼らの銃声の音が、張り詰めた朝の街道に鳴り響くと同時に、薩長兵が積み木が倒れるように地面に沈んでいく。その命中率は、ほぼ七十パーセントに近かった。
幕府軍長谷部隊によって壊滅状態にある薩長鉄砲部隊の戦況が、西田義厚を大将とする参謀本部に伝えられた。
鳥羽伏見の戦いは、薩長軍の圧勝の様相を呈してきていた。幕府軍の本隊である桑名・会津の連合軍は、薩長の最新鋭の武器に翻弄され、接近戦に及ぶ前に圧倒されたのである。ただそんな中で、百五十名余りの正幸率いる長谷部軍だけは、五十丁のイギリス製の銃を持つ鉄砲隊を中心に、何度となく薩長軍の進撃を阻んできた。
「長谷部正幸といえば、佐那河内の四強か・・。」
西田が、大浦益男(薩長軍参謀長)の方を向いて確認する。
大浦は、知らせを聞いた時から貧乏ゆすりが止まらない。
西田の問いかけにこくりと頷くと、
「佐那河内の弥吉は、何を考えているのでしょうな・・。我らのために、洋式銃を大量に融通したかと思うと、敵である長谷部正幸にも、その銃より数段優れた銃を渡すのですから・・。」
大浦の言葉には、弥吉に対する恨みが込められていた。
「仕方なかろう。正幸は佐那河内の仲間だから・・。奴への恩義を感じてのことだろう。
弥吉があそこまでの大商人になれたのは、右衛門を中心とする佐那河内の連中のおかげと言っても過言でない。」
そう言いながら、西田の顔に笑みがこぼれている。彼は、右衛門が会津藩家老折田周明を斬った現場を目撃した時から、その凄まじい剣に魅了されていたのである。そして、その人並外れた技に対する畏敬は、右衛門その人の魅力へと転化するほどだった。
「それにしても、あの長谷部正幸、何とかしなくては・・。これからの戦にも支障が出ますぞ。」
西田の佐那河内に対する寛容とは対照的に、大浦は、佐那河内自体、今後の薩長軍の支障になりかねないと敵意を持っていたのである。
「田中、正幸を斬れんか。」
西田が、横に座っていた田中平九郎(薩摩の殺し屋)に声をかけた。西田という男には、二面性があった。相手に対して度量の広さ示す一方で、自分の目的を阻む者には冷徹な行動も躊躇なく取れたのである。
西田の言葉に驚いた田中が、彼の顔をじっと見て、
「いくら何でも、正幸は柳生流師範で佐那河内の四強ですぞ。」
と、西田の言葉にためらった。
「そうか、示現流の使い手でも無理か。」
西田はそう言ったまま黙ってしまった。
向かいに座る大浦が、薄笑いを浮かべている。その表情を見た田中の顔が、みるみる赤くなる。
「何も無理とは言っていません。大将の命令なら、仕留めて見せます。」
田中は、語気を強めて見栄をきった。
「何も一対一で勝負を挑む必要はない。もうそんな時代じゃないしな。」
西田の言葉に、大浦でさえ彼の冷徹さに薄気味悪さを感じたのであった。西田は、正幸本人には何の恨みもないはずだった。
(正幸が佐那河内を訪れる)
時は三か月ほど前にさかのぼる。
長谷部正幸とその妻美代が、一子寅松を抱いて佐那河内の丘の上の屋敷へ向けて、長い階段を歩いている。
その姿を見つけた与助と妻志摩が、小走りに三人を迎えに階段を駆け下りていた。
「わざわざ出迎え、すまんな・・。」
正幸が、与助の方を見上げて、笑顔で声をかけた。
「仔細は、使いの者の文で・・。」
与助は、そう言うと美代の方を向いて頭を下げた。
「久しぶりにこの階段を上ってきたが、改めて階段の段数の多さに驚かされる。ほれ、このように額に汗をかいてしまった。」
正幸はそう言うと、大げさに手で額をぬぐった。その仕草を見ていた志摩と美代が、声を出して笑った。
「しかし、この階段のおかげで、何度となく敵からの襲撃をはねのけてきましたからな。」
与助はそう言うと、一段と高い声で笑った。
「この度は、おぬしらに厄介な頼みをして、この通りだ・・。」
正幸は、真剣な表情に変わると、頭を下げた。
「なんの。志摩などは美代様が佐那河内で居てくださるというだけで、大喜びでございます。何せ、この村も美桜様や辰雄やアダムス、それに浪江や小夜と、みんな若い連中ばかりですからな。志摩など古株の口やかましい姑のようなものですわ。」
与助は始終上機嫌である。
「私もそろそろ古株と言われる年になりましたか。」
与助の言葉を聞きながら、美代がため息を漏らした。
「いやいや。美代様はいつまでもお若く、お綺麗でございます。」
与助が、慌てて言い訳をした。この言葉に、曇った表情をしていた正幸が、大きな声で笑い始めた。
ふと、階段の上を見ると、源一郎、美桜、それに弥吉が、正幸一家を出迎えに階段を下りている姿が見えた。
源一郎、弥吉、与助、それに正幸が、膳に置かれた料理と酒を囲んで談笑をしている。
奥の間では、志摩達佐那河内の女性たちが、美代の歓迎の宴を催していた。
「正幸様には言いにくいが、幕府軍は薩長軍に勝てません。幕府の連中は、今の戦が武器の装備の差で決まることを分かっていない。いくら人数を集めて大軍を編成しても、長距離の射程を持つ大砲には、烏合の衆です。鉄砲が敵の射程距離の半分では、単なる赤子の玩具にすぎません。」
源一郎の言葉は、正幸の幕府軍参戦に、思いとどまるように忠告しているように聞こえた。
正幸は、美代の父の故長谷部春継の頼みで、長谷部家家臣の大将として、鳥羽伏見の戦いで幕府軍に味方することになったのである。
「源一郎様、正幸様の苦しい立場もお考えにならねば・・。長谷部家当主を継がれたお立場では、この選択しかないのでは・・。」
与助が、すかさず正幸の気持ちを擁護した。
「正幸様、阿波藩家老の職はどうなされるおつもりで・・。」
源一郎と与助の会話を無視するかように、弥吉が正幸に問いただした。弥吉は、商人とはいえ、今度の戦を左右するほど、戦場の武器調達に絶大な力を持っていた。今や、彼は諸藩の力をしのぐほどの重要人物になっていたのである。
「辞めてきた。この戦で参戦をためらってきた藩にとっては、わしは厄介者にすぎないからな。それに、わしは元々、長谷部家の当主としての立場を優先せねばならぬ。」
正幸の説明は、自由な発想で行動している今の佐那河内の連中には、納得しづらい考えであった。ただ、与助だけは、彼の考えを理解し同情した。
正幸は、自分の考えに違和感を露わにする弥吉と源一郎を見て、この地は、かつて佐那河内の主要メンバーだった又五郎や忠成の時代ではなくなっていることを痛感していた。
「考えてみれば、右衛門はこの連中と同じ考えを持っているのかもしれんな・・。」正幸はそう考えると、何故か逆に、右衛門に会いたくなった。彼は、右衛門とは久しく会っていなかったのである。
正幸が一抹のさみしさを感じながら右衛門のことを考えていた時、弥吉が彼に声をかけてきた。
「ところで、正幸様にお見せしたいものがございます。」
場が沈みがちになっていたところに、いきなり弥吉が妙な提案をしてきたのである。
「ほう。何かな・・。」
弥吉の言葉に、正幸が笑顔で応じる。
「港にある手前どもの蔵までお越し願えないでしょうか。」
弥吉はそう言いながら、にこりと笑った。
「おぬしの蔵に連れて行ってくれても、わしには金はないぞ。」
正幸が、弥吉の笑顔に答えるように冗談を言った。
「まあ行けば分かります。源一郎様、正幸様を港に・・。」
与助が、源一郎に正幸の案内役を促した。
弥吉の言葉に促されるように、源一郎が片膝を立てて、おもむろに立ち上がると、
「我々が、正幸様のために揃えたものです。」
そう言うと、正幸の方に笑顔を見せた。
弥吉の蔵は、佐那河内の港近くに十数軒並んで立っていた。この一帯だけ見ると、まるで堺の港にでも来たような錯覚に陥るのだった。
三人に伴われて、正幸はそんな蔵の一軒に入っていった。
「これは・・。」
思いもよらなかったものを見せられ、正幸の目が輝いている。
そこに置かれていたのは、最新鋭のイギリスの銃五十丁であった。
「我ら三人で話し合った結果、正幸様にできる精一杯の援助でございます。私は商人でございます。武士と違って、人の顔色を見て商談をせねばなりません。正幸様の敵になる薩長軍に配慮しながら考えた精一杯の銃の数でございます。(はっとしたように)これは、ご無礼いたしました。」
弥吉はそう言うと、前にいる三人の武士に深々と頭を下げた。弥吉は、正幸の敵にも武器を調達したことに矛盾を感じていた。
「弥吉さんが言うだけに、何だか説得力がある。」
源一郎が、弥吉の言葉を素直に理解した。
与助が一抹の寂しさを表情に浮かべて、
「正幸様の今度の戦での我らの応援がこれだけとは・・。」
と言いながら、申し訳なさそうに正幸の顔を見た。
すると、正幸の目は真っ赤にはれて、今にも泣き出しそうな顔になっていた。
「わしは勘違いをしていた。やはり、おぬしらは、わしのかけがえのない仲間だ。おぬしらが、薩長のことを配慮しながら、これだけの武器を援助してくれたこと・・生涯忘れん。」
言い終えた正幸の目から、こらえきれなくなった涙が頬を伝って流れている。
正幸の反応にほっとしたかのように、三人に笑顔が戻ってきた。
「この銃は、手前どもが誰にも売らずにしまい込んでいたとっておきの銃です。おそらく、薩長軍の銃の倍ほどの射程距離があると思います。」
弥吉の淡々と語る口調は、この武器への自慢が込められているようだった。
「なんと礼を言ったらいいか・・。」
正幸は重ねて謝意を告げると、三人に向かって深々と頭を下げた。
(示現流 大川寿樹)
「また今日も、二階に泊まっているお侍が斎藤道場の門弟をなぎ倒したらしい。道場主の斎藤先生は、板の間で頭を下げて、道場破りの勝ちを認めたそうですよ。」
宿の主人は、宴会を開いて大騒ぎをしている二階の部屋を目で示しながら、宿に御用聞きに来た酒屋の丁稚にひそひそ話をしている。
「へえー、この前は桃井道場が道場破りにあったと、大そうな評判でしたけど・・。(二階に目をやり)もしかして、今度は千葉道場をねらっているかもしれませんよ。」
酒屋の丁稚は、感心したように頭を左右に振ると、そう言った。
「ここだけの話ですけど、かなり酔ったお侍の一人が、柳生道場という名前を出していましたよ。」
宿屋の主人からとっておきの情報が飛び出した。
「まさか。柳生様は幕府の大目付までやられたお方・・。」
酒屋の丁稚はそこまで言って、はっとしたように宿の主人の顔を見た。宿の主人は、彼が話をやめた意味が分かったかのように頷いた。
つい最近、江戸城は無血開城で薩長軍に明け渡され、将軍一橋慶喜も上野寛永寺で蟄居謹慎の身になっていたのである。江戸の界隈は、薩摩と長州の兵士であふれかえっている。今、この宿に泊まっている大半も薩長軍の関係者であった。
宿の二階には、示現流の使い手で薩長軍大将西田義厚の側近の一人田中平九郎、それに、示現流最強の剣豪と言われている大川寿樹とその門弟数名が、五日前から宿を占拠していたのである。
「薩摩のお侍なら、柳生新陰流の道場破りも天下御免ですか・・。しかし、まさか柳生様が敗れるようなことがあったら、江戸の剣道も薩摩に乗っ取られるようなものですよ。」
酒屋の男は、一転、表情を曇らせそう呟いた。
「大変な世の中になったもんです。これから私らもどうなることやら。」
宿屋の主人も呟くようにそう言うと、酒屋の男に不安げな笑みを漏らして、身をぶるっと震わすと、帳場の方へと引っ込んでいった。
話は、数か月前にさかのぼる。
西田に長谷部正幸殺害を命じられた田中平九郎は、薩摩示現流の最強剣士と言われる大川寿樹の道場を訪ねた。大川は、右衛門との勝負で果てた薬士実人の一番弟子である。薬士亡き後、薩摩の城下町に道場を開き、自らも剣の修行に励んだ。道場開設のころは、薩摩第一の使い手として呼び声が高い大川の門弟を志願するものは、後を絶たなかった。しかし、この道場の練習は厳しく、真剣勝負を想定した立ち合いが毎日のように強いられたのである。その結果、次第に門弟の数は少なくなり、今では、直接大川が木刀で立ちあう数名の才能のある門弟だけが、彼に心酔して剣の鍛錬に励んでいた。大川も、精鋭だけ残った門弟との剣の修行に満足しているらしく、日課になった門弟との練習試合いにも決して手を抜くことなく、汗を流していたのである。
「相変わらず、この道場の乱取りは凄まじい気合いだなあ。」
田中が薩摩弁でそう言った。
田中は大川に剣では劣るが、刺客として数々の修羅場をくぐってきた使い手として、大川にも一目置かれていた。二人は、同い年である。
「おぬしがわざわざ訪ねてきたんだ、わしに何か企みに加担させるつもりでもあるのじゃないか・・。」
大川は門弟の気合の入った立ち合いを見ながら、薩摩弁で田中の顔を見ないでそう言った。
「お前には、探りあいの話はできんなあ。」
田中は、そう言うと大きな声を上げて笑った。
一瞬、田中の笑い声で、乱取りをしていた二人の門弟の気合がそがれる。
「何をやっとる!今の瞬間、どちらかの首がとんどるぞ。真剣な気持ちがないなら、立ち合いは無用じゃ!やめい。」
大川の叱責に、二人の門弟は床に頭をこすりつけて謝罪した。
「おぬしもそうじゃ。試合の最中に高笑いするとは、おぬしの剣もその程度のものだろう。」
大川はそう言うと、田中の顔を睨み付けた。
「相変わらずの堅物じゃ。」田中は、大川の融通の利かない性格を嘲るようにそう思った。
「実は、おぬしの言う通り、頼みがあってなあ・・。」
田中は大川の叱責に反応することなく、本題に入った。
「そんなところだろう。(嘲笑するように笑う)西田さんは、わしに用でもあるのか。」
大川は、田中が西田のために動き回っていることを知っていた。
「まあ、そんなところだ。」
田中は大川に見抜かれたようで、余りいい気持でもなかった。
「おぬしに斬れん相手だとすると・・。柳生義親あたりか。」
大川の言葉に、田中は内心ほくそ笑んだ。
「なんで柳生の総帥を殺さねばならん。やはり、こいつは剣の道より能がない。」そう思うと、今まで大川の大柄な態度を我慢して、たまった不満が少しは晴れたような気がした。
「当たらずとも遠からずだ。」
それでも、田中は大川の自尊心を気づつけまいと言葉を選んだ。
「ほう。」
大川が、田中の話に興味を示した。
「柳生は柳生でも、義親の一番弟子、佐那河内の四強、長谷部正幸だ。」
田中の体が大川の方へ乗り出した。
「なるほどな・・。奴は幕府軍に従軍して、薩長軍が手こずっているらしいからな。」
薩摩でも、戊辰戦争の詳細は毎日のように伝えられていた。ただ、そこまでの詳細を大川が耳にしていることに、田中は驚いた。
「正幸を確実に仕留められるのは、おぬししかおらんからな・・。どうだ、助けてくれんか。これは西田さんからの頼みと考えてくれてもいい。」
西田は、薩摩では英雄であった。しかし、大川には西田の威光も余り効き目はなかった。
「おぬしには悪いが、わしがねらっているのは正幸ではない・・。」
大川の言葉の意味を解せない田中ではなかった。
「右衛門は、正幸が敗れれば必ず現れる。そうなれば、おぬしの長年の望みはかなうと思うが・・。」
田中のこの言葉で、大川の迷う気持ちは一挙に吹っ切れたのである。
(右衛門江戸で・・)
散切り頭に、相当使い込んで束が少し垢で汚れている大小の刀を差し、俯きがちに、町の街道をゆっくり歩いている侍がいた。その侍の跡をつけるように、小物売り姿の男が、大きな風呂敷包みを背中に背負って、侍に歩調を合わせるように歩いている。行き交う人々は、陽気な天候に誘われて外に飛び出し、ざわつく人波を楽しんでいるかのように見えた。大都会の空間は、騒音に紛れて、どこか穏やかな雰囲気を醸し出している。しかし、時折、薩長の兵士が行き交う際には顔から笑顔が消えて、そっと距離を置く江戸の人々の反応は、異邦人に対する一種の拒絶反応を表しているようだった。
「権蔵、どこまでわしをつけてくるつもりだ。」
いきなり足を止めた右衛門が、振り向きざまに小間物売りの男に声をかけて、にやりと笑った。
「よう分かりましたな。」
権蔵が驚いたように、右衛門の顔を見た。
「おぬしに染み付いた忍びの気配は隠せんだろう。」
右衛門の言葉に感心したように、
「剣豪とは、そこまで感覚を研ぎ澄ますものですか。」
権蔵は右衛門を褒めたつもりだった。ところが、
「因果なもだ・・。」
右衛門の受け止め方は、逆だった。彼が世間で剣豪の評価を高めれば高めるほど、彼を倒そうと、腕に覚えのある侍たちが彼の周辺をうろうろし始める。そして、どんなに避けようとしても、彼らは右衛門に挑戦をたたきつけてくるのである。
右衛門のため息の意味が分からない権蔵が、きょとんとした目で彼を見ている。
「それにしても、どうしたんですかその髪は・・。」
右衛門の髪に目をやりながら、権蔵が笑みを浮かべた。
「結構気に入っているんだがな・・。似合わんか。」
右衛門はそう言うと、右手で髪をさっとすくった。
「剣豪らしくはないですな。」
権蔵は、正直な気持ちを口にした。
「それはいい。陽明は、髷のない髪がよう似合っていたからな・・。わしも奴の真似をしてみたが、うまくいったようだ。」
右衛門は、権蔵の評価に満足しているようだった。
「右衛門様は、正幸様のことはご存じで・・。」
権蔵は、右衛門の感想を無視するかのように話題を変えた。
二人は歩調をそろえるように、街道の脇を並んで歩いている。
右衛門は軽く頷くと、
「そのことで、正幸の兄の秋山正直様の屋敷に行くところだ。(権蔵の顔を見て)かつてのおぬしの主人だ。どうだ一緒に訪ねてみるか。」
秋山正直は、柳生義親(柳生心陰流頭首)の腹心であり、かつて幕府大目付まで勤めた幕臣である。
「そうですか、正直様のところへ・・。是非お供いたします。あの方のお顔を見るのも何年かぶりです。」
権蔵が、佐那河内に居を移して数年の月日が経っていた。
源一郎に依頼され、はるばる佐那河内から江戸へ出て、さんざん探してやっと消息をつかんで右衛門を見つけた権蔵であったが、出会ってみると、右衛門はいつもあっている知人に話しかけるように接してくる。
「これだけの剣豪なのに、どこか人懐っこいところがある・・。不思議な人だ。」権蔵はそんなことを考えながら、歩を速めた右衛門の後を付いて行った。
(秋山正直の屋敷)
「元大目付秋山正直様に対して無礼であろう!」
秋山の屋敷に薩長兵十数名がいきなり訪れて、家を検めることを要求したのである。
正直の家臣は、声を荒げて威嚇した。
「じゃから、わしがわざわざ出向いたのではないか。」
後ろに控えていたこの集団の指揮官らしき男が、家臣を睨みつけて大声でそう叫んだ。
その言葉に続いて、
「この方は、薩長軍副大将 木場半四郎様だ。」
木場の部下らしき男が、見栄をきるようにそう言うと、不敵な笑みを浮かべた。
玄関の言い争いに気付いた正直が、奥から現れた。
「何の用でござるか・・。」
彼の表情は、あくまで穏やかだった。
彼の冷静な態度に、気色ばんでいた家臣が一歩引き下がる。
「あなたの弟が、この屋敷にかくまわれていないか検めさせてもらえまいか。」
正直の穏やかな応対に合わせるかのように、木場がここにやってきた要件を告げた。
「弟は長谷部家当主として、幕府に忠心を尽くしていると聞き及んでおる。当家に立ち寄る所以もござらん。」
穏やかな口調だが、薩長軍への敵意が込められた言葉であった。
この言葉に、木場の表情が一変する。
「幕府への忠心とは、どういう意味かな・・。今や、徳川幕府は、我ら薩長軍の軍門に下ったことは、知らぬはずがあるまいな。」
木場は、正直を睨みつける。
正直も彼の言葉に答えることなく睨み返したのである。その場に、一色触発の空気が流れる。二人のやり取りを奥で聞いていた正直の家臣達が、一斉に玄関に駆け寄り始めた。
ちょうど同じ時刻、右衛門と権蔵は正直屋敷に現れた。
「止まれ!これ以上は通ってははならぬ。立ち去れ!」
長い白木を持った二人の兵士が、その棒を十字に交わして、右衛門たちの行くてを阻んだ。
右衛門の顔から笑みがこぼれる。
「わしらは、秋山正直様に用があって屋敷を訪ねる途中だ。悪いが、通してくれんか。」
右衛門は、あくまで低姿勢で、二人の男にそう頼んだ。
「わしが言ったことが聞こえんのか。わしらは、薩長兵士だぞ。これ以上つまらぬことを言うと、おぬしら自身にも災いが及ぶぞ!」
薩長兵が、右衛門と権蔵を威嚇した。
右衛門は、男の威嚇を無視するかのように、
「権蔵、向こうの鉄砲兵、何とかなるか・・。」
権蔵の方を向いて、そう尋ねた。
権蔵が、彼の言葉に応じるかのように頷いた。
すると、再び兵士の方に向き直ると、
「おぬし、面白い棒を持っておるな。(にやりと笑って)わしは、棒術に興味があってな。その棒、見せてはくれんか・・。」
そう言ったかと思うと、男の持っていた白木の棒を無理やり奪い取った。
兵士が、もんどりうって地面に倒れこむ。
あたりが、騒然とし始めた。その間にも、右衛門に襲い掛かった兵士たちが、次々に彼が手に持った白木の棒で叩きのめされていく。気づいたときには、兵士数名が道に倒れていたのである。すると、これに気付いた銃を持った二人の兵士が、右衛門たちに銃をかまえる。次の瞬間、権蔵の手裏剣が、銃を持つ兵士の手首に突き刺さったのである。
兵士二人は悲鳴を上げながら、制御できなくなった銃の銃口を勢いあまって上に向け、空に向かって銃弾を発射した。空中に銃声が響き渡る。これを機に、あたりはますます騒然となり、当然玄関にいた木場達の耳にも届いたのである。
右衛門が起こした騒ぎで、双方凍り付いた様になっていた正直と木場のにらみ合いも一変した。
「何事か!」
木場はそう言うと、対峙した正直たちからいったん退いて、玄関から外に出た。
木場が見た光景は、自分の部下たち数名が右衛門に叩きのめされ、道に倒れこんで苦痛でうめき声を上げている。側では、肩に棒をかたけた右衛門が、数名の刀を抜いた兵士とにらみ合っている光景であった。
呆然と立ち尽くす木場に声をかけたのは、右衛門だった。
「久しぶりだな、木場さん。」
右衛門の表情は、争いをしているとは思えぬぐらい穏やかだった。
木場の顔が、みるみる蒼白になる。
「あほ!止めんか!お前らが抑えられる相手でないわ!」
木場は、右衛門と向かい合う兵士に向かって、大声で叱責したのである。
屋敷の座敷に、正直、木場、右衛門が座っている。どの顔にも、さっきのような険悪な表情は見られない。
右衛門が、出された湯呑の茶を啜った後、
「木場さん、正幸はここにはいない。わしが保証する。(木場に微笑みかけて)どうだ、引いてはくれんか・・。」
そう言うと、軽く頭を下げた。
「右衛門殿にそう言われると・・。(頭をかいて)わしの方も、いささか乱暴だった。」
木場はそう言うと、秋山正直に向かって頭を下げて立ち上がると、右衛門に一礼して背を向け立ち去ろうとした。
しかし、障子を開けたところで再び右衛門の方を振り向き、
「右衛門殿。大将西田殿が会いたがっていましたぞ。また、軍の本営にお立ち寄りくだされ・・。」
そう言うと、右衛門に笑顔を見せて、廊下を大股で闊歩して立ち去って行った。
「おぬしには礼を言う。(軽く頭を下げる)今日ほど幕府が地に落ちたことを身に染みたことはない・・。時代が変わるとはこういうことかもしれんな。」
正直はそう言うと、悲しそうな笑みを浮かべた。
「正直様、お久しゅうございます。」
側で控えていた権蔵が、突然正直に声をかけると、彼に向かって深々と頭を下げた。
「権蔵、元気そうだのう。おぬしにも、礼を言わねばならん。」
正直はそう言うと、権蔵にも頭を下げた。
権蔵は恐縮したように、なお一層深々と頭を下げた。
正直は、内心、右衛門が訪ねてきてくれたことで、今まで抱えていた不安が少しは晴れたような気持になっていた。江戸幕府に忠心を誓っていた旗本は、幕府があっという間に崩壊したことで、これから自分たちはどうなるのかと考えただけで、夜も眠れない日々を過ごしている連中も少なくなかった。一見、平静な様子を保っている正直にとっても例外ではなかった。
「右衛門殿が訪ねてくれたことで、真っ暗闇の中に光明が見えてきたような気持になった。」
正直の言葉は本心だった。
「正直様、江戸の情勢次第では、佐那河内においでくだされ。」
権蔵が膝を乗り出すようにして、そう言った。この言葉を聞いた正直が驚いたように右衛門の顔を見る。
「権蔵は、佐那河内では顔役だからな。」
右衛門が権蔵をからかうようにそう言うと、権蔵は照れるようにはにかんだ。
「佐那河内とは、そのようなところか・・。」
改めて、正直が感心したようにそう言う。時代は変わり、正直のように体制の中でしか生きてこなかった人間にとって、権蔵の言葉は一種のカルチャーショックであった。
今や佐那河内は、誰も無視できない巨大な組織である。そんな中で、忍者が自由にものが言えるなど、正直には思いもよらなかったのである。
「ところで、右衛門殿、大川寿樹という男ご存じか・・。」
正直が、真剣な顔になって、そう尋ねた。
「示現流の最強の使い手だと聞いたことはありますが。」
彼の名は、右衛門の耳にも届いていた。
「おぬしが、長崎の果し合いで勝った薬師実人の一番弟子だ。その大川が、この江戸にやってきているそうだ。」
正直の言葉で、右衛門は改めて薬士との死闘を思い出していた。
「その大川、どうかしましたか。」
右衛門は、正直がなぜそんなことを話すのか、意図が分からなかった。
「奴は、おぬしとの立ち合いを望んでいるそうだ。」
正直は、自分の聞いた情報を右衛門に伝えた。
「そう言われても、私には大川とやらと勝負する気持ちなどありませんが・・。」
右衛門は、いわれなき死闘を受ける気持ちなどさらさらなかった。
「奴もそのことは分かっているのだろう。そこで、どうしても戦わねばならぬように、おぬしと縁がある剣豪を倒そうとしているようだ。」
「といいますと・・。」
右衛門にも察しはついていたが、敢えて尋ねてみた。
「正幸は言うまでもないが・・。わしの掴んだ情報によると、義親様の道場に乗り込む計画があるらしい。世が世なら、柳生の頭首であり、幕府の重鎮である義親様にそのような無礼、あってはならぬ話だが・・。薩長が幕府を崩壊させた以上、あり得ぬ話ではない。」
正直の弱気は、どうやらこのことが原因らしい。義親は正直にとって、主君である。その主君が、薩摩の剣豪に挑まれてるのである。更に言えば、義親の重大事に、自分は何の力にもなれないのである。それだけに、右衛門の出現は、正直にとって救いの神のように見えた。
正直の話をじっと聞いていた右衛門が、権蔵の方を向いて、
「探れるか・・。」
そう言って、目で権蔵の返答を待った。
権蔵は、彼の言葉に答えるように静かにうなずいて、にやりと笑った。
(美代と美桜)
美桜と美代は、日本橋で弥吉の商船から下船して品川までやってきた。
美桜は、髪を後ろに束ね腰には大小の刀を差し、一見男装の恰好はしているが、やはり物腰の柔らかさから女であることを隠しきれていない。一方、美代は地味な小袖に武家の妻らしく日本髪を結い、歩く支えに杖を持っていた。二人の格好は地味ないでたちだが、どこか華やいだ雰囲気を醸し出しているのは、生来の生まれの良さからくる屈託のない容姿のせいなのかもしれない。そんな美代が、夫である正幸の窮地にともに立ち向かおうとしているのである。
「美代様、とりあえずこの宿に決めますか。」
美桜が、美代に打診する。
「仕方ないわね。どの宿も兵士たちで大賑わい・・。まるで、薩長軍の宿舎のようね。」
美代が複雑な笑みを浮かべる。江戸の町は、主人が変わり、まさに薩長の天下が始まったような雰囲気になっていた。人々は、これからの将来に不安を抱きながら、複雑な思いで、この新しい支配者たちを遠目で見ていたのである。
美桜と美代が江戸に来る数日前、佐那河内では・・。
「せめて、権蔵さんと京馬(忍び)が、叔父上(右衛門)の居場所を見つけてから江戸に向かわれては・・。」
美代から正幸の後を追って江戸に行くことを告げられた源一郎が、彼女にそう忠告した。
座敷には、他に志摩、与助、美桜が座っているが、みんな黙って美代の言葉を聞いているだけだった。
「夫が死んでから出かけても何の意味もありません。それに、ここで何もせずに夫の消息も分からず過ごすのは、耐えられません。」
美代はそう言うと、人目もはばからず泣き始めた。
「美代様、寅松様のことは私が面倒見ます。後のことは心配なさらず、自分の思うようになさいませ。」
志摩が初めて口を開いた。
「志摩の言う通りです。わしは、美代様の思うようにさせてあげたい。」
与助が、志摩の言葉に同調した。
二人の言葉で、美代の江戸行きはすんなり決まってしまった。
「ところで、誰が美桜様と一緒に・・。」
源一郎がそう言うと、みんなが一斉に美桜の顔を見た。
「美桜様なら、女同士だし、剣の腕もたつ。どうだろうか・・。」
与助が頼み込むような眼で美桜に視線をやる。
「私でよければ喜んで・・。」
美桜の快諾で、二人の江戸行きが決まったのである。
再び江戸で・・
宿の部屋にやっと落ち着いた二人であったが、あたりの騒然とした雰囲気は、女二人の旅の不安を掻き立てた。
すると、いきなり二人の部屋の障子が開いて、役人らしき数人の男が部屋に入ってきた。
「なんですか。」
気丈な美桜が、侵入してきた男を睨みつけた。
「そなたたちが書いた宿帳に長谷部家頭首長谷部正幸妻とあるが、相違ないか。」
美桜は、美代が書いた宿帳の中身を知って、余りにも無防備な行動に驚いた。
二人ともどう言い訳をしたらいいか困ってしまい、ただ押し黙るだけだった。
「すまんが、屯所までご同行願えるかな・・。」
リーダーらしき男が、有無を言わせぬ迫力で二人に迫る。
その時、不穏な騒ぎを聞きつけ、たまたま宿にいた長州兵の一人が、その様子を見物にやってきていた。
「美桜様ではありませんか!」
緊張した空気を吹き飛ばすかのような大きな声がその場に響き渡った。
取り調べにやってきた役人たちが、叫んだ男の方に威嚇するように視線をやった。
「おぬしら何をやってるんだ。このお方はな、長州戦争の際、大島口で幕府軍と戦った源一郎殿の妻で美桜様じゃ。おぬしらも知っておろう、大島口の女大将のことは・・。」
長州戦争で、美桜と同じ大島口の戦場で共に戦った小島弥平であった。
「弥平さんね。」
美桜は、弥平のことを覚えていた。
「おお、有難い。わしのことを覚えていてくださった。(嬉しそうな笑顔を見せた後、怖い顔で)ところで、おぬしら、このお二人に何をやっとるんだ。」
弥平は男たちの方を向き、叱責するようにそう言った。
「はあ。宿帳に長谷部正幸の名が書かれていましたので、今取り調べていたところです。」
どうやら、美代を尋問に来た男たちより弥吉の方が位は上らしい。
「すると、美桜様の後ろにおられるのが、長谷部様の御内儀か・・。」
そう言った後、小島はためらうように口をつぐんだ。
「このお二人に、事情をうかがうため屯所までご同行願おうと思うのですが。」
取り調べに来た男の口調が、丁寧になった。
「ここは、わしに任しとけ。後で、わしの方から木場様(薩長軍副大将)に報告するから。」
小島の毅然とした言葉に、男たちは反論する余裕もなく、しぶしぶ退散したのだった。
(長州藩江戸本営)
美桜、美代の江戸到来という小島の報告は、すぐに木場に伝えられた。
「美桜様と美代様を丁重にわしの定宿へお連れするように小島に急ぎ伝えてこい。わしも、急ぎお二人に挨拶に行くからともな。」
木場の反応は意外なものだった。どうしてそこまで二人の女性を丁重に扱うのか、小島の報告を伝えに来た家臣でさえ不思議に思ったぐらいである。
ただ、草津源九郎は木場の考えを理解していた。草津は、幕府崩壊に追い詰めた立役者の一人であり、木場と二人三脚で長州を支えてきた中心人物だった。
「これで、薩摩の大久保、西田に対抗できる駒が、降って湧いたように舞い込んできたな。」
草津は木場にそう言うと、にやりと笑った。
薩摩出身で、薩長軍大将西田と大久保は、今や新政権樹立の最高実力者になりつつあった。確かに、幕府討幕という意味では、草津や木場にとって頼もしい二人であったが、半面、長州出身の彼らにとって、このまま薩摩主導で日本の権力構造が塗り替えられることへの疑念も芽生え始めていたのである。その意味で、この国の権力闘争は第二ラウンドに入りつつあったのかもしれない。
「お前、薩摩示現流の大川寿樹という男をどう見る。」
小島への伝達者が部屋を出た後、草津が妙なことを木場に聞いてきた。しかし、木場にとってこの質問は決して場違いな問いではなかった。
薩摩随一の剣豪である大川寿樹が江戸入りしているという情報は、木場の耳にも入っていたのである。
「やはり奴の狙いは、右衛門か・・。」
木場はそう言うと、草津の方を向いてにやりと笑った。
「右衛門がいなくなれば、佐那河内は支柱を失うことになる。佐那河内がばらばらになれば、薩摩にとって都合がよくなるはずだ。これからの戦争は、どれだけ最新鋭の武器が用意できるかにかかっている。その武器が調達できる佐那河内は、薩摩にとって不気味な集団に違いない。」
草津の意見は、木場の思いとぴたり一致した。
「あの西田という男、人には懐の深い温和な性格のように見せてるが、自分に都合が悪い人物は、平気で切り捨てる・・。恐ろしい男だ。第一、あれだけ右衛門に心酔していながら、邪魔だと思えばさっさと刺客を向けるのだからな。」
誰かが木場の言ったことを盗み聞きしたなら、薩長連合とはいったい本当に成立しているのかと、疑ってみたくなる。
「この役目、小島で大丈夫か。」
草津が懸念を示す。
「奴がたまたま関わったのだ。奴にやらせるしかないだろう・・。それに、きれる男は、かえって不信を抱かせる。あのぐらいがちょうどいいのだ。」
草津が、木場の言葉に合わせたように笑い始める。
「ところで、もし勝負となると、右衛門と大川の勝負どう見る。」
草津が、自分の質問にこだわった。木場は、千葉道場で師範代を務めたことがあった。
「わしぐらいの剣の技量では、頂点を極める二人の勝負を占うことはできん。ただ、わしらにとっては、右衛門に勝ってもらわねば、ますます薩摩が増長する。」
木場の顔から笑顔が消えていた。
「毒をもって毒を制すか。」
草津がぽつりと言った。
「どういう意味だ・・。」
木場が不思議そうに草津の顔を見る。
「佐那河内の連中も、このまま野放しにして自由にさせることはできんからな・・。そういう意味では、薩摩の毒にも勝ってもらいたいが・・。今はそうも言っておれん。右衛門に勝ってもらわねば・・。」
草津の言葉に木場が納得したように頷く。
「まずは、薩摩の突出を押さえねば・・。」
木場がそう言うと、今度は草津が、同調するように頷いた。
(柳生道場)
義親は、最近、書道に安らぎを求めていた。幕府江戸城明け渡し以来、表立った人との交流もなく、朝の道場での稽古でも、余り弟子との乱取りもしなくなった。
廊下をあわただしく走って彼の部屋に近づく足音が次第に大きくなる。
「よろしいでしょうか。」
門弟の一人が、荒くなった息を整えることもできず、義親に面会を求める。
「何事だ。」
筆の動きが止まり、冷静な義親の声が部屋の中から聞こえて来る。
「薩摩示現流の大川寿樹というものが、道場での立ち会いを求め、今、師範代 中野先生と立ち会っております。」
一大事であった。義親にも大川の名声は届いていたのである。
柳生道場まで土足で踏み込んできた薩摩の剣豪の傍若無人ぶりは、明らかに薩摩の権勢を広く誇示する狙いがあると、義親は即座に判断した。
「わかった。道場にすぐ行く。それと、廊下は走るな。」
義親の叱責が飛んだ。
「申し訳ありません。」
門弟は障子越しに深く頭を下げると、ゆっくりとした足取りで道場に戻って行った。
柳生道場のおもだった門弟を三人倒し、師範代を引きずりだした大川寿樹は、木刀を肩に担ぎ、顔に笑みを浮かべながら、相手の周りをゆっくり円を描きながら回っている。一方、師範代は、大川の動きに合わせるように、木刀を正眼に構えて円の中心を軸としてゆっくり回転していた。
誰にも目立たぬように、義親が道場に入って来る。その機を待ってたかのように、大川がけたたましい奇声を上げて師範代に踏み込んだ。師範代が、振り下ろされる大川の一撃を受け止めようとした瞬間、木刀の軌跡がわずかに変わった。あれほどの勢いで振り下ろされた剣の動きがいきなり変わるなど、常識ではあり得ぬ動作の流れである。
次の瞬間、師範代の額から赤い鮮血が吹き出す。一瞬、道場に静寂が広がり、今さっき見たのと同じ光景が、道場に再び再現された。三人の犠牲者を運び出した柳生の門弟たちが、再び師範代を抱えて、治療のために道場から消えていったのである。
大川と共にやってきていた彼の門弟たちと田中の低い笑い声が、次第に静まり返った道場に響き渡る。その笑い声とは対照的に、柳生の門弟たちの顔が、悔しそうな表情に変わっていく。この対照的な光景が、今の試合の結果を如実に物語っていた。
「これはこれは。あなた様が、天下に名高い柳生義親様であられるか・・。拙者、薩摩示現流 大川寿樹と申す田舎侍でござる。ご迷惑でなければ、柳生様と立ち会わせてはいただけまいか・・。」
大川はそう言うと、義親に向かって軽く会釈をした。
義親は黙ったまま、目で門弟に道場の壁に掛けられた木刀を持ってくるように指示をする。
道場の中は、なおも一層静まり返り、義親と大川の構える木刀の切っ先に、みんなの神経が集中している。
二人は共に正眼に構えて微動だにしない。大川の剣法は、示現流の一撃必殺の流儀を備えながらも、臨機応変、相手によって構えを変えた。その構えは決まっておらず、相手と対戦する瞬間に、即座に決まった。いや、決めると言うより、考える前に、体が相手の技量を推し量って、勝手に最良の構えを取るのである。その意味では、剣においては天才肌の男であった。
驚いたことに、相手の威圧に耐えかねて、動いたのは柳生義親の方だった。一歩後ろに足を引くと、いきなり木刀を下段に構えたのである。それは、防御に徹する構えであった。柳生の門弟たちの不安と動揺が、道場の雰囲気を変え始める。彼らにとって、義親の消極的に見える戦法は、初めて見る戦法であった。
その時、田中の叫び声が道場の静寂を突き破った。
「右衛門殿!」
いつの間にか道場に侵入してきて、壁にもたれかかって腕を組み、二人の対戦をじっと見ていた右衛門の方に、みんなの視線が一斉に集中した。
田中の声に驚いたのは、大川と義親の対戦を凝視していた道場の連中だけでなく、対戦していた本人たちも同じだった。二人は木刀の構えを解いて、みんなと同じように右衛門の方に、意識を向けていたのである。
「どうやら、邪魔が入ったようだ。それも、待ち望んでいた大きな邪魔者が・・。」
大川は、すでに義親のことは眼中になかった。
義親は、いきなり自分が舞台から引きずり降ろされたような気持になって、思わず苦笑をしてしまった。大川が、木刀を持ったまま右衛門の方に向かって行く。
そして、右衛門の前でぴたりと止まると、
「右衛門殿、ご教授願う!」
大川の声は弾んでいた。自分の中で湧きあがる興奮が抑えられないようである。
その時、
「おぬし、礼儀をわきまえてもらわねばならんぞ・・。許しもなく、柳生の道場で門弟以外の者同士が、太刀を交えられると思っているのか!」
義親のこのように気迫のこもった叱責を、右衛門は今まで聞いたことがなかった。思わず、組んでいた腕をほどくと、直立不動で義親の方に向かって礼をする。今度は、大川が右衛門に無視される形になった。
「大川、柳生様の言う通りだ。いくらなんでも礼を失している。引き上げるぞ。」
田中はそう言うと、謝罪のつもりで義親に深々と頭を下げた。
そして、右衛門の方を向いて、
「右衛門殿、お久しぶりですな。いずれ・・。」
そう言うと、茶目っ気のある笑顔を右衛門に見せた。右衛門もその笑顔につられるように、にこりと笑った。その笑顔で、大川の気合は一偏に失せてしまった。
「右衛門殿、ここは引き上げるが、必ず、次回会ったときは・・。」
大川はそう言うと、未練を残すように、柳生道場を自分の門弟たちと共に去っていったのである。
義親は、右衛門の訪問がよほど嬉しかったのだろう。主だった門弟数名と共に、自宅で右衛門のために宴を開いた。
「しかし、あの大川という男、義親様に勝てるとでも思っていたのですかな。」
かなり酔いがまわった門弟の一人が、大きな声でそう言った。
辺りは暗くなり、夕方から飲み始めた酒だけに、酩酊し始める者も出始めた。義親は、酔った勢いで大声を出す門弟にも、笑顔を絶やさず咎める様子もなかった。
「お前の目は節穴か。誰の目にも、わしが劣勢に立たされていたのは感じたはずだ。」
若い時の義親なら、どんな強敵に対してもそんなことは言わなかっただろう。
右衛門は、若いころ、義親とこの道場で立ち会ったことを思い出していた。あの頃の義親は、山のごとく微動だにしない構えで相手を威圧した。ところが、その義親が、今日の対戦では、構えを引いたのである。一瞬、右衛門は目を疑った。
「右衛門殿には、今日のわしの立ち合いどう見えたかな。」
義親の表情は、絶えず柔和であった。
「はあ・・。」
右衛門は、答える言葉が見つからなかった。
「そうか・・。」
義親は、その沈黙で、右衛門の考えを理解していた。
「義親様は、自分を達観できる域まで達しましたな。」
言葉に詰まった右衛門が、ばつの悪さをごまかすように義親をもち上げた。
義親は、右衛門の言葉を無視するかのように、
「奴の一撃は、相手の予見を狂わせる・・。一振りの一閃が、不規則に動くのだ。あれは狂気の力だ。気迫だけでは受け止められぬ・・。あの男を倒せるのは、おぬしかいないかもな。(右衛門の顔を覗き込み)少々、おぬしをもち上げすぎかな。」
そう言うと、大きな声を出して笑い始めた。それでも、彼の右衛門を見る目は真剣そのものだった。
右衛門はじっと瞼を閉じて、かつて戦った薬士実人の上段から振り下ろされた刀の一撃を、記憶から呼び覚ました。
右衛門が、薬士の一撃を受け止められたのは、紙一重の幸運でしかなかったような気がするのである。受け止めた白刃の位置は、明らかに自分の予想した刃の重心ではなかった。少しのバランスの狂いは、相手の一撃を受ける刃もろとも押し込まれ、致命的な傷を負う可能性があったのだ。
(正幸との再会)
柳生義親の屋敷を出た右衛門は、ほろ酔い加減で提灯を頼りに川べりの道をふらふらと歩いている。うどん屋の屋台がちらちらと灯りを放っているのに目をやろうとした時、右衛門の歩みが止まった。後ろに気配を感じたのである。
「久しぶりだな・・。」
その声に、右衛門の顔がほころんだ。
「正幸か・・。どうしてわしの居所が分かった。」
右衛門はそう言うと、振り向きざまに提灯を正幸の方へかざした。
「柳生の道場が懐かしくなってな・・。ついふらふら道場の近くまで来たら、おぬしが義親様の屋敷を出てくるところだった。悪いが、お前の跡をつけさせてもらった。」
提灯で照らされた正幸は、どこかやつれている様だった。
「義親様には会わないのか。」
「やめとこう・・。殿に迷惑がかかるやもしれんからな。」
そう言うと、右衛門の方を向いて笑顔を見せた。
「みんな心配しているぞ。義を通すもいいが、負ける戦にいつまでも付き合っていても仕方あるまい。」
右衛門は説得するつもりでそう言ったが、無駄なことは分かっていた。
「わしを頼ってついてきた家臣を見捨てるわけにはいかんからな。」
今の正幸には、幕府への忠誠という大義を語るほど、熱い気持ちはなかったのかもしれない。ただ、家臣の納得のいく行動をとりたい・・。その一念で戦っているのかもしれなかった。
「どうだ。うどんでも啜りながら、よもやま話でもしようか・・。」
右衛門はにこりと笑って、そう誘った。
「いいのう。ちょうど腹もすいていたところだし。」
正幸が、素直に同意する。
うどん屋台の中をのぞいた右衛門が、
「おやじ、この屋台、貸し切りにしたいが・・。」
そう言うと、懐から五両の小判を屋台の板の上に置いた。おやじは驚いた顔をして、五両と右衛門の顔を交互に何度も見た。
「お侍様、よろしいんで・・。」
「ああ、とっておけ。それに、お前の足元にある火桶をこちらに回してくれ。少々寒くなってきた。そこにある酒は自由に取って飲むから、少し場を外してくれんか。」
右衛門がおやじの顔を見ると、にこりと笑った。
「お安い御用でさ。よかったら、夜明けまでどっかへ行っときますよ。(お金を懐にしまう)
何だか、盆と正月が一遍に来たみてえだな。」
うどん屋の主人はそう言うと、客の気持ちが変わらないうちに慌ててうどんをこしらえると、どこかへ行ってしまった。
「お前は相変わらず、金の値打ちが分からん男だ・・。」
さっきから二人のやり取りをにやにや笑いながら見ていた正幸が、子供に諭すかのようにそう言った。
「とりあえず、うどんを食おうではないか。」
右衛門はそう言うと、目の前に出されたうどんを、割り箸を割って食べ始めた。
右衛門は、義親の屋敷ではあまり飲まなかった酒を酩酊するまで飲んでしまった。酒を飲む彼を横目に、正幸も負けじと飲んだ。ただ、この勝負、正幸の圧勝だった。もともと右衛門は、余り酒が好きではなかったのである。ただ、正幸と会えた嬉しさを、好きでもない酒をあおることで表現したかったのかもしれない。
二人は、あまりいろいろなことを喋らなかった。それでもお互いの気持ちは、分かっていたのかもしれない。するとその時、彼らの近くに黒い影がちらついた。
「まさか、お前と分かって襲ってくる馬鹿もいまい。恐らく、わしが上野の寛永寺から抜け出すのをつけてきたきた連中だろう。」
正幸は、右衛門と視線を合わせることもなく、呟くようにそう言った。
「二手に分かれて片づけるか・・。」
右衛門は、酔ってしまってうつろな目をしながら、目の前をぼんやりと見ながら小声でそう言った。
「大丈夫か。相当酔ってるが・・。」
正幸が、心配そうに、右衛門の様子をうかがうように顔を見る。
正幸が右衛門を見た瞬間、彼は長椅子から跳ね起きると、真っ暗の闇へと飛び出した。それに呼応するかのように、正幸も闇夜に飛び出したのである。
刀の刃が当たるたびに、真っ暗の闇に火花がまるで線香花火のように何度か光を放ち、それに合わせて人のうめき声が聞こえてくる。しばらくして、刀がさやに納まるカチッという音が、静寂の空間に騒動の終わりを告げる証になった。
正幸の息が弾んでいる。すでに、右衛門は長椅子に座って、酒の入った湯飲みに口をつけていた。
「いつもながら、お前には驚かされる。まるで何もなかったように息も切らせずに、平然としているのだからな・・。直前に三人斬ったところだとは、誰も信じられんだろうな。」
正幸は息を整えると、そう言いながら右衛門の横に並んで座った。
「お前の斬った相手と合わせて六人・・。どうしようか。」
右衛門は、死体の始末に困っていた。
「ほっておけ。いずれおやじが帰ったら、番屋に知らせるだろう。だが、明日は上野で死体の山ができるはずだ・・。役人もこの程度の殺し合いには関わっていられないかもしれんぞ。」
正幸はそう言うと、薄笑いを浮かべて、湯呑に入った酒をあおった。
「お前は、行きつくところまで行くようだな・・。もうこれ以上言っても無駄なようだ。
(沈黙が続き)美代様と寅松のことは、わしの命に代えて守るから・・。ついでに、お前も助けたいが・・。」
右衛門が、初めて真剣な顔をして、まっすぐに正幸の顔を見た。
「いくらお前でも、わしのことは無理だ。(真剣な顔で右衛門を見つめ、右手を掴んで)右衛門、美代とわしの子のこと・・、よろしくお頼む。」
右衛門をじっと見つめる正幸の目から、うっすらと涙が流れている。
正幸は、再び笑みを浮かべて、
「もう行かねば・・。お前に会えてよかった。」
そう言って、立ち上がって暗闇に消えようとしていた。
「正幸、やるだけやったら、伊織(見能林藩主、正幸の甥)を頼れ!お前と家臣が助けを求めて見能林に来れば、受け入れると言っておった。」
そう言って、右衛門が正幸の背中に声をかけた。
「すまんな。心配かけて・・」
右衛門の声に立ち止まっていた正幸が、振り向きもせずそう言うと、再び歩みを進め闇の中に消えていった。
(上野開戦)
大浦益男は、時折、袋に詰めてきたいんげん豆を口に放り込んでは、ぼりぼりと噛んでいる。彼のいる高台からは、上の不忍池辺りは手に取るように観戦できた。
「ほう、始まったな。」
彼は、まるでゲームの始まりを楽しむかのように、ニコニコしながら各地で上がる砲撃による白い煙を確認していた。
最初、何回となく突撃して、接近線に持ち込もうとした彰義隊を中心とする幕府兵も、薩長軍の最新鋭の銃に狙い撃ちされ、刀を交えることなく後退して行った。誰の目からも、戦争のスタイルが違っていたのである。薩長軍の戦法は、銃と大砲の集中砲火で突進してくる集団をばらばらにした後に、軍の精鋭部隊で斬りこんでいくやり方だった。その戦術は、一見単純に見えるが、多大な効果をもたらした。昼過ぎになると、幕府兵は敗走し始め、追い詰めていく薩長兵の姿だけが勇猛果敢に見えていた。
「夕刻までには、終わりそうじゃ。後は、逃げていく残党兵をどれだけ抹殺できるか・・。
西田さんの話では、残党兵狩りに示現流の最強軍団が先頭になって当たるらしい。」
大浦は、まるで幕府兵殺戮を楽しんでいるようにも見えた。
「はあ、私も聞いております。その中でも、大川寿樹は、あの右衛門と戦うために、人を斬って凄みに磨きをかける狙いとか・・。こうなったら、幕府兵は、奴の精神力を鍛える練習材料ですな。」
大浦の横にいた側近が、大川たちの噂を話して聞かせた。
「わしも非情な男だが、あの西田という男、わしなど冷徹さでは足元にも及ばない。」
大浦には、西田が怪物のように見えていたようだ。
午後になると、幕府軍は戦う気力さえ失って、逃げ惑う敗走兵の姿だけが大浦の目に飛び込んできた。
「この分だと、夕日を見んうちに終わりそうだな。」
ますます大浦の嬉しそうな顔がほころんできている。
しかし、寛永寺の近くの方に目をやると、小高い高台で、柵のめぐらされた或る一画だけが、全体の兵の流れと違っているのに気が付いた。敵の鉄砲隊が、薩長軍の猛攻に銃撃を浴びせ、集団の統率が崩れると、突撃隊が柵から出てきて、薩長兵を蹴散らしていくのである。その攻撃は、まるで薩長軍が行ってきた戦法のお株を奪うような鮮やかなものだった。
「あれは、誰の部隊だ。」
大浦は、薩長軍の苦戦する場所を棒で指し示しながら、側近に尋ねた。
「長谷部の隊かと・・。」
側近の一人が、即座に答えた。彼も長谷部隊が、ずっと気になっていたようだった。
「また奴らか・・。厄介な集団だ。佐那河内の最新鋭の銃は、わしらの銃より格段に性能がいいからな。奴らだけに振り回される。今日は決着をつけてやらねばな。」
大浦の機嫌のよかった顔が一変する。
「こうなったら、アームストロング砲を差し向けますか。」
近くの側近が、彼に打診する。
「大枚はたいて買った武器だが、仕方あるまい。高々百余りの部隊のために、軍の予算の半分以上かけた兵器を使わねばならぬとは・・。」
この完璧主義者に、ただ一つ誤算が生じたのである。
しかし、アームストロング砲の出現で、正幸達の決死の戦いも大浦の夕刻までに戦いを終わらせるという大きな目標に、狂いを生じさせる程の善戦にはならなかった。
長谷部隊は、アームストロング砲三門の集中砲火を浴びて、家臣の半分を失い、撤退を余儀なくされたのである。




