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右衛門シリーズ全編  作者: FZ
32/43

右衛門11-2

(源一郎)

京都で右衛門に会った木場半四郎(長州藩士)は、大坂の忠成の道場にいる源一郎を訪ねた。幕府の長州征伐の計画は、着々と進んでいた。もし、このまま計画が実行されれば、長州藩は、この日の本から完全に抹殺されることになるのである。とにかく、最新鋭のミニエー銃が欲しかった。幕府軍に対抗するには、ゲリラ戦で大軍を攪乱するしか方法がなかったのである。

「もし、奇襲戦に持ち込めば、地の利と兵の指揮の高さで、あるいは、幕府軍を戦意不能に追い込むことができるかもしれん。」

京で高山新次郎が、何度も繰り返していた長州勝利の唯一の方程式だった。藩はすでに幕府との戦争を覚悟して、幕府に従う家老らを切腹に追い込み、再び、討幕派である木場をはじめとする藩士たちが実権を握っていた。


「この前、おぬしの叔父の右衛門殿に会ってきた。」

源一郎の部屋に通された木場は、部屋の柱に背をもたせて座るや否や、源一郎に開口一番そう言った。右衛門の剣のすさまじさがどうしても頭から離れなかったのである。

源一郎は、小野忠成邸に居候となっていた。窓から庭が見られる小さな書院で寝起きをしているのである。朝は、道場で剣の稽古をして、昼飯を食った後は、一龍齋に頼まれて、美桜の護衛のために、大坂のあちこちの店で買い物したり、彼女の習い事のお供をして半日を過ごしていたのである。源一郎にとって、道場での稽古はともかく、美桜の護衛で振り回されるのは、不満に違いないと誰しも思うかもしれないが、実はそうではなかった。美桜は、源一郎に竹刀を叩き落されて以来、彼の前では、決して男装姿は見せなかったのである。艶やかな着物姿の美桜と一緒にいることは、源一郎にとって、決して不満の種ではなかった。恐らく、源一郎は、一龍齋の作戦にまんまと引っかかっていたのかもしれない。

「ほう、叔父は京にいるのか。」

源一郎は、この時初めて、右衛門の所在を確認したのである。

「しかも薩摩の西田、大久保が同席でな・・。」

木場はそう言うと、上目づかいに源一郎の顔を見た。

源一郎は、驚いた顔をして、

「それで、双方、何も起こらなかったのか。」

と、聞いた。

「危うく、高山の手が、右衛門殿に切り落とされるところだったわ。」

木場はそう言うなり、大きな声で笑い始めた。状況を飲み込めない源一郎は、妙な顔をしたまま、木場の顔をじっと見た。

「まあ、それはどうでもよい。わしと高山、それに草津が、西田と大久保にあったことは、良かったような気がする。これも、右衛門殿のおかげだ。」

木場が、先日の薩摩藩との出会いを、一人納得しながら源一郎に語って聞かせた。

源一郎は、木場にそれ以上問いただすのを諦めた。正直言って、それほど関心がなかったのである。

その時、源一郎に客が来たことを聞きつけた美桜が興味を持ったのか、源一郎の部屋の障子を開けたのである。

「お客様ですか。」

美桜は、いつもの快活な言葉遣いを押し殺しながら、しおらしく小さな声でそう言った。

木場が、驚いたように美桜の顔を見た。

「ほう、きれいな女だな。何者だ。」

木場の視線が、美桜をじっと見ている。

「小野忠成殿のご息女で、美桜様だ。」

源一郎がそう言うと、木場の態度が一変した。

「これは、ご無礼を・・。拙者、長州藩藩主 木場半四郎と申す。」

座りなおして、正座して頭を下げた。

「面白い方・・。」

美桜は、笑顔を見せて、部屋の片隅に座って木場を見た。

この木場という男、なかなかの色男で、女にもてた。

「こんなところで居るのもなんか辛気臭い。どうだろう源一郎。こんなきれいな女性が一緒なんだ。美桜様を伴って外に出んか。わしのなじみの女が、この近くで料理屋をやっているのだ。わしらが行けばきっと喜ぶと思うんだが・・。何せ、小野忠成様のご息女を連れて行けば、店の箔もつくしな。」

木場は、美桜の出現で、すっかりうきうきしていた。元来、遊び好きの彼にとっては、格好の遊び相手に出会えたのであった。


木場とどういう関係かは知らないが、彼に紹介された女将は、どう見ても水商売のしみついた様子がなかった。もし町で見かけたなら、どこかの大店の息女と言われても、決して疑わなかっただろう。源一郎と美桜の来訪は、お登勢(料理屋の女将)を大いに喜ばせた。「小野道場のお嬢様が、こんな料理屋にお越し下さるとは・・。有難うございます。木場さんのお連れと言えば、男の方ばかり。それも、かなり胡散臭そうな侍ばかりでしてね。」

どうやら、お登勢は、木場に遠慮はない付き合いのようだった。

「おいおい、それじゃあ、源一郎は、その仲間か。」

木場が、すかさずお登勢に言葉を返した。

「この方は別ですわ。何処から見ても、そこいらをうろついている物騒なお侍には見えませんもの。」

お登勢は、すかさず言い訳をして、源一郎に微笑みかけた。

源一郎は、こんな二人の会話に圧倒されたように、店に入った直後から緊張していた。

その様子を感じ取ったお登勢は、源一郎を気に入ったようだった。

「お嬢様と源一郎さんは・・。(少しためらって)つまり、いい仲ですの・・。」

お登勢は、二人の顔を交互に見ながら、そう聞いた。

「いや、そんな関係では・・。」

源一郎は、ますます緊張して、慌ててそう言った。

「まあ、お登勢の想像は、当たらずとも遠からずだ。」

木場が、にやにや笑いながら、からかった。

「そうだ。大前屋の喜一郎様がお出でですけど、あなたが呼んだの・・。」

お登勢は、話題を変えて、木場にそう言った。木場は、小さく頷いた。

どうやら、木場が二人を招いたのには、楽しみ以外に他に企みがあるらしかった。


お登勢と喜一郎が加わって、三人が案内された料理屋の離れ屋は、大いに盛り上がった。

離れ屋の周りは、かなり手が入れられた閑静な庭が周りを取り囲んでいた。お登勢によると、この料亭は木場の常連の料理屋ではあったが、むしろ、喜一郎がかなりの援助をしていた。彼の大事な客の接待のための場所でもあったようである。

「お登勢、美桜様に庭でもご案内して、美桜様にとびっきりの料理でも召し上がってもらわんか。」

喜一郎が、そう言って、三人の相談の環境を整えようとした。

「美桜様、芝居絵などお好きかしら・・。よかったら、私が貯めた趣味の絵をお見せいたしますわ。」

登勢はそう言って、美桜に微笑んだ。美桜の顔が、ぱっと明るくなった。

二人は、どうやら仲が良くなれそうに思えた。お登勢に手を引かれて、美桜は嬉しそうに部屋を出た。


「いつ見ても、美しいお嬢様ですな・・。」

喜一郎が、二人の後姿を目で追いながらそう言った。

「源一郎は、惚れてるらしい。あのご息女に・・。」

木場が、源一郎をまたからかった。

「それはいい。源一郎殿なら、忠成様も不満はないでしょう。剣の方は、叔父上の右衛門様の血を引いて申し分ないし、家柄から言っても小野様には引けは取りませんからな。」

木場の話を聞きながら、喜一郎が、真面目な顔でそう言った。

「ところで、話は変わるが、源一郎、イギリスの銃が欲しいのだが、陽明殿に頼んではくれんか。」

やっと、木場が、源一郎を大坂に訪ねた時から考えていた目的の本題に入ってきた。この男、自分の目的を単刀直入に頼ような率直な男ではなかった。いつも、周到に準備をして、最良の機会を選んで目的を達しようとする戦略家であった。その点、高山新次郎とは正反対の男であったが、彼とは仲が悪いわけでもなかった。

「陽明は、おぬしら長州に好感を持っていないからな。俺が頼んでも無駄だろう・・。」源一郎は、そう言って、事情を知っている喜一郎の顔を見た。

「西洋の武器は、弥吉の専門でしてな・・。同じ大前屋の商人と言っても、私は北前船での商売が持ち回りでして・・。」

喜一郎が、沈んだ顔をして、そう呟いた。実のところは、彼が長州藩士に肩入れするのは、長州藩の下関の港に興味があったからである。

美桜とお登勢が部屋を出てから、この場の雰囲気は、急に笑顔も笑い声もなくなった。

木場は、腕を組んだまま、沈痛な面持ちで、

「仕方ない。弥次郎にでも頼んでみるか。ところで、今度は銃を買う資金だが・・。喜一郎殿、百万両(四十億円)程、都合はつかぬか・・。代わりに、下関の港の貿易取引、おぬしの店に任せてもいいのだが・・。」

木場は、初めから、このことが交渉のねらいであった。源一郎が、陽明とたもとを分かった以上、エミール銃の方は望み薄だと、初めから考えていたのである。しかし、さすがに、百万両と言われた喜一郎の顔に、ひるんだ表情が見て取れた。

「どうでっしゃろ。五十万両なら何とか都合をつけますけど・・。」

喜一郎の方が、下関という名前が出て、前のめりになった。木場は、ほぼ当初の目的を達したのである。しかし、木場は、難しそうな顔をしたまま、腕を組んで、目を閉じて、考え込んでいるようなふりをした。しばらくして、

「五十万両は、確かなんだろうな・・。」

木場の言葉は、上から目線に変わっていた。

「へえ、五十万両なら間違いなく。」

喜一郎は、完全に木場の術中にはまっていたのである。

その時、慌てた様子で、お登勢が三人の話し合う部屋に飛び込んできた。

「大変です。奉行所の役人が、木場さんがこの料理屋に入るのを見たと、通報を受けたそうで、大勢で玄関まで来てます。」

お登勢の知らせを聞いた木場は、小さく頷くと、源一郎や喜一郎に一言も言わず、この料理屋の隠れ部屋へと、大急ぎで去って行った。彼にとっては、このような騒動は慣れっこになっているのである。喜一郎はどういう訳か、木場の去った後の離れ屋で、何処へ行くでもなく、前に置かれた料理に箸をつけ始めた。

「喜一郎さんは、大丈夫なんですか。」

その様子を見ていた源一郎が、不安そうに喜一郎に尋ねた。

「木場さんがいなくなったら、奉行所の役人も私には詮索しまへんわ。それに、奉行所の連中には、秋山正幸様が奉行の時代から顔なじみの方がいましてな・・。」

そう言って、ふてぶてしい笑いをのぞかせた。喜一郎にとってみれば、大坂は自分のテリトリーであり、少々の厄介ごとは、どうにでもなるという自信があったようだ。

「それより、源一郎さん、美桜様の所へ行っておあげにならな。独りで不安になってますで・・。」

喜一郎は、源一郎にそう忠告すると、手に持った杯を口に運んだ。

源一郎は、彼の忠告を受けて、登勢に案内され美桜のいる部屋に急いだ。


源一郎と美桜のいる部屋の外で、お登勢と奉行所の役人らしき連中が、言い争っている。

「ここは、大事なお客さんがいますので、勝手に押し入られては困ります。」

お登勢の声は、必死に役人を押しとどめているようだった。

「御用の筋だ。問答無用!」

そう言って、役人が勢いよく美桜と源一郎のいる部屋の障子を開けた。

「御用の向きで、あらためさせてもらう。」

役人はそう言うと、二人が料理の並べられた円卓の前で向かい合って座っているのを確認して、睨みつけた。彼の後ろには、数人の同心が、部屋の客が逃げるために飛び出すのを警戒して立っていた。

「何だ。おぬしらは、何の特権で客の部屋を断りもなしに入ってくるのだ。」

源一郎がそう言って、声をかけた役人を睨み返した。

若い男女が、膳を挟んで向かい合っている様子を意味深にとらえた役人は、「若造が、いい気なもんだ・・。」と思って、にやりと笑った。

その笑みを、自分たちへの侮辱のように感じた源一郎が、突然横に置いていた刀に手を伸ばした。

「おやめなさい。源一郎様!こんな所で騒ぎを起こしたら、父が何て言うか・・。」

美桜が、源一郎を真剣な目で睨んで、自制を促した。

源一郎の行動に、一瞬ひるんだ役人の顔に余裕の笑みが戻った。

「近頃の若い奴らは・・。ちなみに、おぬしらの姓名をうかがっておこうか。」

役人は、すっかり自信を取り戻していた。

「こちらの方は、小野忠成様のご息女美桜様。男の方は、小野道場の門弟の方です。」

源一郎が役人に名前を聞かれて、再び刀に手をやったのを見て、お登勢が慌てて役人の前に出て、大きな声でそう言った。すると、役人の顔が一変した。

「これは、失礼した。無礼の数々、申し訳ござらん。」

慌てた様子で、そう言うと、あたふたと二人の部屋から遠のいて行った。

「小野忠成殿は、ご存じなのかのう・・。」

最後に、この場を後にした年のいった役人が、二人に聞こえるようにそう言って去って行ったのが、源一郎にとっては、いつまでも怒りを抑えることができない原因になった。

源一郎が、いらいらしながら美桜の顔を見ると、彼女は何だか今までのことが、何でもなかったかのように、嬉しそうな顔をして笑っていた。

「美桜は、わしより度量が広いかもしれんな・・。」美桜の表情を見た源一郎は、何やら自分が小さい人間のように思えてきた。

夜の間中、料亭の周りを見張っていた奉行所の役人は、やっと明け方になって去って行った。その機を逃さず、美桜と源一郎は朝の霞にまぎれるように,、小野道場に向かって、料亭を後にしたのである。

源一郎は、美桜とは会話を交わすこともなく、始終俯き加減に視線を下に落として、浮かぬ顔で帰りを急いだ。「美桜との朝帰りをどのように言い訳すればいいか・・。」源一郎の頭の中は、そのことで一杯だったのである。一方、美桜は、源一郎と言い逃れのできない事情を作ったことを、むしろ喜んでいるように見えたのは、源一郎の錯覚だったのだろうか。


道場の朝稽古に向かう小野道場の門弟たちの視線を気にしながら、美桜と源一郎は道場を迂回するようにして、自分たちの部屋へと向かった。

しかし、小野邸の玄関まで来た時、平田(小野道場師範代)が二人を待っていた。

「おはようございます。」

平田は、真剣な顔をしたまま、こちらにやってくる源一郎と美桜に声をかけた。

源一郎は、ぎょっとしたように声の方を向いて、平田と分かると、ばつが悪そうに頭を下げた。美桜は、何故か、源一郎との朝帰りを楽しんでいるように、少しも心配そうな顔を見せなかった。

「忠成様が、道場でお待ちです。悪いが、二人とも道場まで来て下さらんか。」

平田は、嫌な役目を命じられて、さっきからどういう表情で、二人に伝言すればいいか迷っていたようだ。平田の言葉を聞いた源一郎は、今までおどおどしていた自分が吹っ切れたかのように、

「分かりました。」と、しっかりした声で応ずると、平田の後に従った。

さすがに、平田の言葉に、美桜は父に何を言われるか不安になって、ずっと後ろの方から二人の後に従った。


道場には、朝稽古にやってきた門弟たちすでに大勢集まっていた。忠成が道場の真ん中で木刀を持ち、不機嫌な顔で腕を組んで源一郎を待っている姿を見て、みんな彼に近づくのを遠慮するかのように、道場の端から前に進み出る者はいなかった。

いつの間にか、道場は忠成を中心とする円周のように門弟たちが群がり始めた。

そして、道場のざわめきが最高潮に達しようとしたとき、平田に伴われて、源一郎が姿を見せた。

「源一郎!壁にある木刀を選んで、わしの前に来い!」

明らかに、忠成は怒っていた。

源一郎は、忠成の激しい言葉に腹がすわった。言われるままに、壁に並べられた木刀の一本を無造作に手に取ると、忠成の前へ進み出た。

「なぜ、わしがおぬしに、わしとの試合を命じたか、分かっておろうな・・。」

忠成の表情は、能面のように無表情で、どんな言い訳も聞く意思がないように思われた。やっと道場にやってきた美桜は、忠成の怒りのこもった言葉を聞いて、父の前に進み出て謝る勇気もなく、他の門弟に紛れて二人の試合の成り行きを見守るしか仕方がなかった。

源一郎は、負ける覚悟で素直に頷いた。

「もし、わしが勝てば、これから先、美桜と二人きりで一緒にいることはやめてもらう。(少し、間をおいて)おぬしが勝てば、美桜はおぬしの嫁にやる・・。」

忠成は勝負の行方を確信していながら、きっぱりとそう言うと、持っていた木刀を小さく上下に振った。

「素直に付き合うなと言ったらいいのに・・。」源一郎は、忠成の言葉を聞いて、少し怒りを感じている自分に気づき、改めて美桜の存在を自分に問いただしていた。

一方、父の言葉を聞いた美桜は、父の自分勝手な言葉に、門弟の中から飛び出そうとした。しかし、次の瞬間、彼女の手をつかんで止める者がいた。驚いた美桜が、厳しい顔で、手をつかんだ相手を確認するために振り返った。

「おじい様・・。」

美桜の手をつかんだのは、忠成の父の一龍齋だったのだ。彼は美桜と目が合うと、首を左右に振って、自制するように目で彼女に指図した。一方、源一郎は、忠成の言葉が、次第に理不尽に思えてきて、怒りがこみあげてくるのを自覚した。

「いくら親と言っても、そこまで我々の行動を束縛する権利が何処にある・・。」

その怒りは、次第に忠成と剣を交える闘志に変わっていくのを感じた。

「やはり、俺は美桜が好きでどうしようもないのかもしれんな・・。」

彼は、そんなことを考える冷静さも持っていたのである。自分を反省する冷静な心の安定は、忠成と言えども、油断をすれば、勝敗の行方はどう傾くか分からないことを予感させた。しかし、数々のきわどい勝負を潜り抜けてきた忠成は、すでにそんな源一郎のみなぎる闘志と冷静さを感じとっていたのである。


源一郎に、すっと正眼に構えた忠成の木刀は、敢えて、先をとろうとはしなかった。

相手に応じるように、正眼で向き合った源一郎の構えも、冷静に忠成の木刀の切先を注視していた。道場は静まり返り、門弟たちは、二人の気迫に飲み込まれたかのようだった。

外では鳥の声が道場に響き渡り、朝霧が消えかかっていた。一方道場では、静寂の一瞬を突いて、忠成の激しい一撃が、それを受けた源一郎の木刀を無視するかのように、そのまま押しに押した。源一郎は、耐えかねて、一瞬体勢を崩したのであった。「勝負あり!」誰もがそう思った。しかし、僅かに引いて、再び打ち込んできた忠成の一撃を、紙一重で源一郎がかわしたのである。忠成の一閃が、源一郎の着物の裾をつんざく不気味な音が、静寂の道場に反響した。しかし、源一郎は忠成の一撃をかろうじてかわすのが精一杯だった。忠成には、空を切った木刀を切り返して、二の矢の打撃与える余裕があった。

「これまでか・・。」源一郎は、自分のやれる最高の剣さばきができた嬉しさで、次の一撃で、あばらの骨が二・三本砕けても、喜んで受け入れられる充実感があったのである。その時、

「それまで!」

道場に、一龍齋の甲高い声が響いた。

鬼の形相となった忠成の気合いが、一瞬くじかれた。

忠成は、源一郎に一撃をくわえる好機を、一龍齋の叫び声で失ってしまったのである。

「忠成!いくら娘が可愛いとはいえ、今のおぬしの必殺剣をかわした源一郎を認めてやらんか。今のさばきは、美桜を思う必死の気迫がないとできぬ妙技ぞ。これ以上、試合を続けたければ、わしが相手になろう。」

一龍齋の一つ一つの言葉にも、気迫がこもっていた。

父の言葉を聞いた忠成の厳しい表情が、緩んだ。

「仕方ない。お前に勝ちを譲ろう。わしも人の子だ、親父殿には逆らえん・・。ただし、わしのお前との約束は、美桜の気持ち次第だからな。」

忠成は、そう言うと、一龍齋の横にいる美桜の顔を見た。

美桜は、父の視線に応ずるかのように、涙をためながら頷いた。その頷いた美桜のもとに、源一郎が、次第に近づいていく。その間、道場の門弟は、源一郎の一挙手一投足にくぎ付けになっていた。

源一郎は、辺りの雰囲気に呑みこまれ、半ばやけくそになって、

「わしの嫁になってくれ・・。」

美桜の顔をまともに見ずに、忠成と対戦した時よりも勇気を振り絞って、美桜に求愛したのであった。

「はい。」

美桜が、俯きながら源一郎の言葉に応じた。横では、一龍齋が満面の笑顔で二人を見ている。忠成は、二人の言葉のやり取りを聞き終わると、にやりと笑って、頭を掻きながら道場の出口に向かった。「わしの振舞は、まるで右衛門がやる仕草のようじゃ・・。」彼は、その時、何故か右衛門の顔が浮かんだのだった。

誰かが、竹刀を床に打ち付けた。それを真似るかのように、門弟たちが一斉に祝福の気持ちを込めて、竹刀を床に打ちつけ始めた。いつの間にか、道場は雀の集団の襲撃にあったかのように、竹刀の音で話し声も聞こえなくなってしまった。

一龍齋の企みは、まんまと成功したのであった。



(長州藩士 高山新次郎)

右衛門が、近所の子供に手習いを教えるのは、週三回、朝のうちだけである。それでも、何処から評判を聞きつけたのか、入塾したいとやってくる子供たちは、いつも十数人いた。その手習いを教える助けをしてくれるようになったのが、高山新次郎である。

長州藩にとって、高山は家柄が高く、下級藩士と藩上層部をつなぐパイプ役でもあった。

再び、長州下級藩士を中心とする討幕派が勢いを増すと、幕府は長州藩討伐に動き出したのである。無論、高山の役目は、益々重要さを増し始めた。ところが、この男、右衛門の傍を離れないのである。いくら多忙な日々を過ごしても、週に何度か朝に右衛門の寺子屋を手伝い、昼飯を食って帰るのである。時には、夕刻まで粘り、夕飯まですまして帰ることもあった。

「ご苦労様。お昼の用意できましたから、台所の横の部屋まで来てね。」

いつものように、子供たちに手習いを教えた新次郎に春が声をかけた。

「春殿の昼飯を食べるのが楽しみだ。」

新次郎は、笑顔を見せながら、春にお世辞とも本気とも判断のつかない返事をした。

「新次郎さんは、最近、お世辞がうまくなったわね。」

春は、新次郎の屈託のない性格が好きだった。どことなく、育ちのいい青年の小さいことにあまりこだわらないおおらかさは、ここを訪れる他の侍にはない印象を持ったのである。


この日、新次郎は持ってきた酒を右衛門と飲みながら、障子が開けられた部屋から見える木が一本しかない小さな庭の上に出た満月の月を見ていた。

「秋はいいですなあ。」

新次郎の言葉に、右衛門は微笑んで答えた。

鈴虫だろうか、さっきから可愛らしい鳴き声を出している。

右衛門は、あまり酒が好きではなかったが、何故か、新次郎が誘えば、酒を飲むのを断ったことがない。右衛門もまた、高山に人の魅力を感じていた。

「わしとあの虫と、どっちが長生きできるか、競争じゃ・・。」

虫の音色を楽しみながら、新次郎が寂しそうに呟いた。

「心細いことを言うな。おぬしにはやらねばならぬことが、沢山あろだろうが。」

右衛門は、新次郎が胸の病を患っていることを知っていた。

「この鈴虫のように、秋を待って可憐な羽音をふるわせて、人の心を癒すようなことが、わしにもできますかな・・。」

高山が、意味深なことを言って、にこりと笑った。

「おぬしは、誰の心を癒す気だ。」

右衛門が、そう尋ねた。

「わしには、長州しかないですから・・。あの地で生まれ、育ったんです。その地の人のために死ねるなら、わしの命も無駄にはなりますまい。」

新次郎の生き方には迷いがなかった。右衛門は、そんな新次郎の身に染みついた信念が、眩しかった。

「わしは、自分の藩を捨てて、ひたすら思うがままに生きてきたように思う。わしのために切腹した家臣を見て、申し訳ないという悔恨の念はあったが、あの家臣のように、お家のために死にたくはないという本心から、何もかも投げうって逃げ出した男だ・・。断っておくが、わしは剣のために生きるなどと思ったことは、一度もないからな。」

右衛門は、新次郎に素直に話して、苦笑いを浮かべた。

「わしが右衛門殿に憧れるのは、生まれ変わったら、そんな右衛門殿のような生き方をしたいからかもしれん・・。」

そう言って、湯飲み一杯につがれた酒を一挙に飲み干した。新次郎は、かなりの酒豪であった。右衛門と酒を楽しむ時も、浴びるように飲んでも、彼の言っている言葉が辻褄が合わなくなることはなかった。むしろ、飲むほどに明晰になるように思えた。

「ところで、長州は勝てるか、幕府に・・。」

右衛門にも、長州の戦が他人事ではなかった。佐那河内の陽明も源一郎もこの戦に関わっているのである。

「エミール銃次第でしょう。あの銃が、何兆手に入るか・・。」

新次郎は、そう言うと、また、虫の声に耳を傾けた。

「薩摩に頼んでみたらどうだ。あの薩摩の大将西田という男、話の分かる男と思うが・・。

それに、薩摩とて、いつまでも幕府を信用する訳にもいくまい。」

右衛門が言った何気ない言葉に、高山がいきなり驚いた表情になって、右衛門の顔をじっと見て、

「弥次郎が言っていたが、右衛門殿は、最強のつかい手であるだけでなく策士でもあるのですか。」

と、感心したように、そう言った。

「使い手とか策士と言われても・・。自分の生き方に真摯で、迷いなく自分の信念を信じて、突き進む人間には、そのようなことは、さほど評価に値することではあるまい。」

右衛門は、むしろ、新次郎や弥次郎のように、この時代を無我夢中で生きぬいている人間が、羨ましかったのかもしれない。

その言葉を聞いた新次郎が、改めて、右衛門の顔をじっと見た。

「右衛門殿は、面白いことを言う。わしは、あなたのような侍にあったのは、初めてじゃ・・。」

そう言って、右衛門に遠慮することなく、高笑いを始めた。

その声を聞いた春が、部屋にやってきて、

「新次郎さん、もう夜も遅くなりますよ。」

そう言って、新次郎の帰宅を促した。

「春様、今夜は泊めてくだされ。帰ったところで、寝床などどこも同じじゃ。酔いもまわったし、このまま腕枕で時を過ごしたくなった。」

新次郎は、そう言うと、本当に腕枕をして、目を閉じた。

「困った奴だ。春、二階に布団をひいてやれ。」

右衛門が、笑いながら、春に声をかけた。

春は、それに応じるように、二階の階段をとんとんとあがっていった。



(新選組浮田史郎)

春と右衛門は、いつものように川のほとりの土手で散歩を楽しんでいた。すると、二人の前に、居合いの達人玄坊が現れて、ゆっくりと右衛門と春の方へ近づいて来る。

「懲りないやつだ。」

右衛門は、玄坊を見ながらため息をついた。

すると、背後から土手を駆けあがって、二人の方へ近づいてくる男がいた。

「まだ青年ね。」

振り向いた春は、少しも動揺することなく、右衛門にそう呟いた。

「春、土手を降りて離れていろ。」

右衛門が、春の避難を促した。

春は、もう一度、後ろから歩いてくる青年の顔をじっと見た。そして、

「右衛門、あの子、殺さないでね。」

そう頼んだのである。

「無茶を言うな。二人の使い手を向かい打つのだぞ。そんな余裕があるわけがない。」

右衛門は、春の言葉に驚いた。

「あの子を見てると、酒田にいる慎吾さんを思い出すの・・。」

慎吾というのは、薩摩の人斬りと恐れられた男であった。右衛門を狙って、返り討ちにあったが、右衛門は慎吾を殺さなかった。その後、慎吾は右衛門と共に酒田に入り、豪商本間家の娘と恋仲になり、今では酒田で商家を与えられ、店主になっている男である。

春は、右衛門の返事を待つことなく、その青年の方へ向かって歩き出したのである。

「おい、春!」

右衛門が、警告の声をかけたが、春は無視して、そのまま右衛門を狙う男の方へ向かって歩いて行った。すると、春の行動に動揺したように、男の方が足を止めたのである。春は、その反応を気にすることなく、その刺客とすれちがいざまに、男の顔を見てにこりと笑い、そのまま通り過ぎてしまったのである。

右衛門はその姿を見ながら、「

「あいつ・・。」と独り言を言って、にやりと笑い。両側から攻めてくる二人に対応するために、体を開いて両脇の間合いを計った。

「新選組の侍らしいな・・。」右衛門は、後から土手を上がって、自分に迫ってくる男の羽織を確認した。

二人は、歩調を合わせるように、右衛門との間合いを詰めてきた。

右衛門は、「恐らく、抜群の居合いの速さを誇る玄坊が、先に攻めてくる。」と判断した。

そして、予想通り、右衛門との間合いを詰めた玄坊が、始めに仕込みの刀を抜く構えに入った。すると、同時に新選組の男が、刀の束に手をやった。

次の瞬間、玄坊の仕込みの白刃が、光を放つように弧を描こうとした。しかし、玄坊の居合いの速さは、右衛門の抜刀の速さには遠く及ばなかった。玄坊の白刃が弧を描こうとした次の瞬間、右衛門の刀の一閃は、玄坊の体を通り抜けていたのである。

「ううう。」

玄坊の低いうなり声と共に、彼の体は、土手の川の側へと転がり落ちて、そのまま水中へと飛び込んだのだった。そして、右衛門の剣の舞にも似た返し刀は、新選組の男の抜刀より速く、男の太ももをサッと斬り裂いたのだった。

「こいつ、野獣だ!」

新選組の殺し屋 浮田史郎は、意識が朦朧とする中でそう思いながら、必死で正気を取り戻そうとしていた。

「右衛門!家まで背負って行って!」

遠くの方で、女の叫び声がするのを、浮田の記憶の片隅にいつまでも残ったのであった。

右衛門が目を転じると、川に落ちた玄坊の死体から出た鮮血が、水面を真っ赤に染めていた。


右衛門に担がれて、家の二階に運ばれようとしていた浮田史郎は、右衛門に斬られた太ももの痛みに堪えながら、じっと右衛門の背中で痛みを絶えていた。

「医者を呼んでくるから。」

布団に横たわった史郎の傷を確認すると、春がそう言って、急いで二階を降りて行く。

右衛門は、春が用意していたさらしで、史郎の太ももの血を止めるために、傷口に巻き始めた。

「なぜ殺さんのだ・・。おぬしの世話になるぐらいなら、死んだほうがましだ。」

苦痛に堪えながら、史郎が右衛門に毒づいた。

右衛門は、史郎の言葉に答えることなく、しっかりとさらしを巻きつけた後で、

「これではだめだ。すぐに血が噴き出てくる。」と、呟いたのだった。

史郎の傷口を確認した右衛門は、自分が史郎に思ったより深手を負わせた刀さばきを後悔していた。それほどまでに、彼の剣は、他を圧倒する円熟に達していたのかもしれない。


やがて、初老の漢方医が、春に急き立てられてやってきた。

その医者は、右衛門がまいたさらしをとって、史郎の傷口をじっと見た。

「こらあかん。血が止まっとらんやないか。」

明らかに彼は狼狽していた。この傷を負わせた右衛門の顔を見て、恐怖を感じたのか、手がぶるぶる震えている。

「とりあえず、膏薬を塗ってさらしをまかな。」

医者は、自分に確認するようにそう呟いた。

「それでは血は止まらんではないか。」

横で聞いていた右衛門が、医者に注文を付けた。

「そないなこといわはっても。」

益々、医者は狼狽した。

「医者殿、膏薬を布に塗り付けてくれませんか。それもできるだけ何枚も・・。今からわしが、この男の傷を縫合するから、縫い終えた後、血が噴き出るたびに膏薬を塗った布を替えた後、さらしを巻こうと思うのだが・・。」

右衛門はそう言うと、春の方を向き、

「押し入れに、西先生からもらった縫合用の針と糸がある。すぐに持ってきてくれ。」

酒田で、右衛門が畳針で慎吾の傷を縫合した話を聞いた西先生が、何かのためにと、右衛門にくれた医術用具であった。右衛門は、同時にもらったオランダ医学の書物を日ごろから読むのが好きだった。

「はい。」

心得たように、春が急いで押し入れへと向かった。


史郎は、右衛門が何度か腕で首を絞めたが、落ちなかった。

「仕方ない。」

右衛門はそう言うと、血の噴き出る史郎の太ももの傷口に焼酎を吹き付けた。

「ぎゃああ。」

史郎の叫び声は、下で湯を沸かしていた春の耳にも断末魔のように聞こえてきた。

「そんな無茶な!」

側にいた春が呼んできた医者は、そう言ったなり気を失ってしまったのである。

「おぬしが気を失っても何にもならん・・。」

それを見ていた右衛門は、そう言って、にやりと笑った。

縫合は一刻(二時間)余り続いた。その間、史郎は何度となく苦痛に堪えかねて、うめき声をあげたが、途中から、さすがに意識を失ったのか、春の所には史郎のうめき声は聞こえなくなった。一刻ほどが経ち、二階の部屋が静かになった。

心配になった春が、二階に駆け上がって襖をそっと開けると、気絶した医者と史郎が、布団の上に横たわっていた。

「春、医者が布に塗った膏薬を、奴の太ももに張り替えて、さらしで縛ってくれよな。」

右衛門は、彼らの傍らで両手を伸ばしたまま仰向けになって横たわり、春に向かってそう言った。

「よくやったわね・・。」

春が、右衛門をねぎらった。彼の額からは、滝のように汗が流れていた。

「俺は、医者の道を志そうかな・・。」

右衛門は目をつぶったまま、本気とも冗談ともつかないことを言って、からからと笑った。

「そうなさったら。慎吾さんに続いて、二人の患者を救ったんだもの・・。」

右衛門の言葉に応じるかのように、春はそう言うと、右衛門の笑いにつられるように大きな声で笑い始めた。



(会津藩家老 折田周明)

「二人とも斬られました。」

暗闇の中、庭で折田の前でひざまずいた双栄(会津藩に雇われた忍び)が、右衛門と浮田、玄坊との死闘の顛末を報告した。

「やはり、奴は右衛門か・・。」

折田は、顔色一つ変えずに、そう呟いた。この男、会津藩では、藩主に全てを一任されているほどの切れ者だった。恐らく、近い将来行われる長州征伐の指揮官となるのは、彼をおいてほかにないというのが、衆目の一致した意見であった。

「私と同行した新選組の土方さんもそのように言っていました。」

双栄は、断定を避けて土方の名前を出した。

「なぜ、土方は浮田が殺されたのに、右衛門に刀を抜かなかったのだ!」

折田は、土方なら右衛門を仕留められるのではないかと思っていた。

「わしの手に負える相手ではない。虎を素手で捕まえるようなものだ・・と、言っていましたが。」

双栄は、そう言うと、顔を俯けてにやりと笑った。

「やはり町人上がりの侍だ。人を斬る度胸だけでは、どうにもならんか。」

折田は、土方をあざけって、吐き捨てるようにそう言った。

「そうだと思います。なにしろ、私には奴の剣の動きが、速すぎて見えなかったくらいですから・・。あれは、人ではない。剣においては、野獣です。」

双栄は、大坂で右衛門に命を取られなかったころから、彼を英雄扱いし始めていたのかもしれない。

「もういい。いずれ多勢を使って始末する。下がれ!」

折田は、強い口調で双栄に退席を命じた。自分自身、きれ者とささやかれていた男だけに、敵を褒めるような双栄の言いようが気に入らなかったのかもしれない。

声高に退席を命じられた双栄も、折田の言いようが気に入らなかった。

「わしは、お前の家来ではないぞ。ただ雇われただけではないか・・。」

双栄は庭の木戸を開けながら、怒りを押さえながら、言葉を吐き捨てた。

木戸の外には、手下の犬丸が双栄を待っていた。双栄がやってくるのを見つけると、

「どうでしたか。折田様は刺客が殺されてがっかりしていたでしょう。」

そう言って、鼻で笑った。

「わしも、折田に使えるのは潮時かもしれん・・。」

双栄は、折田の最後の言葉にまだこだわっているようだった。

「佐那河内にいる権蔵を知ってるだろう。」

双栄が、そう言って、犬丸を見た。

「もちろんです。京成を向こうに回して、右衛門を助けたとの噂は、忍び仲間で知らないものはいませんからな。」

犬丸は、まるで自分の手柄のように嬉しそうに言った。

「おまえ、佐那河内へ行って、権蔵に会ってくれんか。わしが、右衛門のことで話したいことがある・・と言ってな。」

双栄は、声を潜めて犬丸に命じた。

「ひょっとして、お頭・・。」

犬丸が、そう言って双栄の顔をうかがうと、双栄は真剣な顔をして、犬丸の言葉に答えるように頷いた。



(新次郎と史郎)

浮田史郎は、傷口の出血もようやく止まったが、その前の日まで夢うつつの中を三日三晩、自分が何処をさまよっているのか、生きてる実感もなく右衛門の家の二階で、ただじっと横たわっていた。

四日目の朝、ようやく目を開けると、自分の太もものさらしを変えていた春の姿に気が付いた。

「ここは・・。」

史郎は、そう言って、ぼんやりと浮かんできた春の顔に視線の焦点を当てた。

「やっと気づいたね。何もこんなに深手を負わせなくったってね・・。」

春は、そう言うと、史郎に微笑みかけた。

「白くて美しい顔だ。」史郎は春を見て、素直にそう思った。

すると、二階の階段をとんとんと駆け上がり、障子を開ける音がした。

「新選組の殺し屋と言われた男も、こうなったら手も足も出まい。」

にこにこしながら、史郎の顔をじっと見て笑っているのは、いつものように右衛門の家にやってきている高山新次郎であった。

史郎は、高山の顔は知っていた。彼は、思わず反射的に横たわったまま、目だけで自分の刀のありかを探った。

「やめとけ。お前の刀が近くにあっても、その体でどうしようというのだ。お前が、わしを仕留めたいと思っているのと同様に、わしの仲間もお前に何人殺されたことか・・。だがな、この右衛門殿の家では、敵も味方もないのだ。薩摩であれ新選組であれ、わしはお前を一人の若造としか扱わぬから安心しろ。」

新次郎は、そう言って、にやりと笑ったが、目は真剣なままだった。

すると、後からゆっくり二階へ上がって、新次郎の言葉を聞いていた右衛門が、

「新次郎、そのぐらいにしとけ。相手は動きもできない病人だ。おぬしの一方的な言葉は、浮田とやらに浴びせられた勝手な暴言みたいなものだ。」

そう言って、史郎の顔を見て、笑顔を見せた。

「この男が、本当にあの凄まじい剣さばきを見せた相手なのか。」やっと正気を取り戻した史郎は、右衛門の今の顔と死闘の時の顔が、どうしても同一人物とは思えなかった。

「どうやら、浮田さんもお粥ぐらいは食べられそうね。」

史郎の近くにいた春が、浮田の様子を見ながらそう言った。

「運のいい奴だ。春様が面倒見てくれるとは・・。」

新次郎は、そう言って、それ以上史郎に関心がないかのように、さっさと二階を降りて行った。


「あいつには、将来がある・・。」

二階から史郎の様子を見た後、下に降りてきた新次郎が、右衛門に向かってぽつりとそう言った。

「おぬしにも明日はある。くよくよするな。」

右衛門の妙な慰めに、新次郎が苦笑した。

「死に場所が見つかればいいのだが・・。(自分の手をじっと見つめてため息をつく)右衛門殿は、強敵と対戦するとき、死を覚悟したことはないのですか。」

新次郎が、いきなり右衛門に話を向けた。春が史郎の傷口のさらしを変えて、階段を降りる足音がする。

「負ければ、それまで。生と死の区別など考える余裕がない‥というのが本音だろう。斬られれば、息が絶える。それだけの事・・。(新次郎の方を見て、にやりと笑う。)だがな、命のやり取りをして、そんなに割り切れるはずがない。相手を倒すことに必死になって、自分が死んだら・・。などと考えるのは、勝負の前か、勝負が終わって生き残れたことに安心した時だけだ。それでも、昔は、そんな死ぬ覚悟を追い求めようとしたこともあったが、所詮、そんな境地は生きてる限り行きつけまい。それに、そんな境地に達したいとも思わなくなった。」

右衛門は、自分が言いたいことが、うまく言えなくて少しイライラした。しかし、新次郎は、右衛門の話を熱心に聞いていた。

「わしも、いろいろ考えないのが理想だと思うのだが・・。あなたの言うように、死を前にして、そんなに吹っ切れるはずがない。手で口を押えて咳をする。するとどうだ、わしの手のひらは、真っ赤な鮮血でいっぱいに染められる。それを見て、心臓の鼓動が激しくなり始め、心のどこかで、そんなわけがない・・、わしが死ぬはずがない・・。などと、叫んでいるのです。」

新次郎の顔に、苦悩の表情が現れた。右衛門が、心配そうに新次郎の表情をうかがっている。それに気づいた新次郎が、いきなり笑い始めた。

「つまらぬことを言ってしまった。忘れてくだされ。」

新次郎はそう言うと、片膝を立てて立ち上がろうとした。

その時、春が障子を開けた。

「新次郎さん。鯛があるの。食べていきなさい。」

新次郎にそう言って、にこりと笑った。

「そりゃあご馳走じゃ。それでは、もう少しお邪魔しますぞ。」

新次郎は、わざと快活に笑って、春の顔を見た。

「そうしろ。おぬしの好きな酒も買っておるからな。」

右衛門は、こんな時、口を出すことはまれだったが、新次郎の気持ちをおもんばかって、新次郎の長居を促した。

新次郎は、ここに来ると何故かいつも帰りたくなくなるのだった。

「春さん。後でちょっと三味線借りますよ。右衛門殿にわしの都都逸どどいつを披露しますからな・・。これは、好きな人にしか歌わぬわしの得意芸です。しっかり聞いて下されや。」

新次郎が嬉しそうにそう言った。

「へえ。新次郎さん三味線ひくの・・。驚いた。」

春は、どうして、今まで新次郎が三味線を弾かなかったのか不思議に思った。

その夜、新次郎の三味線に、右衛門も春も驚くことになる。彼は、三味線の名手だったのだ。

「これは、右衛門殿へのわしの感謝の一節じゃ・・。楽しんで下されや。」

新次郎がそう言うと、右衛門がこくりと頷いた。

「いいもんだなあ。都都逸は・・。」

酔いが回った右衛門は、新次郎の歌と三味線を心底楽しんでいた。側で聞いていた春は、新次郎の芸達者に感心しているようだった。

「いったいこの家は、どうなってるんだ・・。」二階で寝ている史郎は、三味線の音色を聞きながら、不思議な世界に迷い込んだような気がし始めた。



(大坂小野屋敷)

美桜と源一郎が、夫婦になって三月が経った。二人の婚礼は、源一郎の希望もあって、小野家の人間だけの質素なものだった。それには、源一郎のこれからの事情があったのだ。彼は、幕府と長州の戦に加わるつもりだったのだ。


小野一龍齋、忠成親子が、源一郎と美桜の前で、腕を組んで、深刻な顔をしている。襖が開けられ、忠成の妻のつえが、四人のためにお茶を持ってきた。彼女は、それぞれの座る畳の上に、そっと湯飲みを置いて、忠成の横に静かに座った。

「おぬしは、長州藩になんの義理もあるまい。わざわざ幕府との戦に加わって、長州藩に何を望もうというのだ。」

忠成の言い分には、理屈が通っていた。

「この戦は、天下が動く戦なのです。その戦に加わるということは、これから変わろうとするこの国に関わることと同じなのです。幸か不幸か、私は喜一郎さんと同様に、長州の連中と関わることになりました。つまり、時代の流れに巻き込まれたのです。できるなら、私の手で時代を変えてみたい。それだけです。」

源一郎は「分かってもらわなくてもいい・・。」と思いながらも、必死で自分の気持ちを訴えた。

「でも、美桜はどうなるのです。万が一、幕府が勝利をおさめれば、この家でいられなくなるのではないですか。」

美桜の母杖の言葉は、厳しかった。すると、ずっと黙っていた一龍齋が口を開いた。

「わしも、長州と幕府の戦は、時代を変えるような気がする。もし、長州が勝てば、この国の全ての藩は、時代を変えるか時代にとどまるかの選択を迫られる。それも、藩の存続をかけた選択だ。困ったことに、今の各藩は、幕府が勝つことを信じて疑わない。だがな、わしは長州に勝機があるとみておる。」

一龍齋は、自分の考えを、まるで達観するように喋った。

「親父殿は、時勢を達観してそう言われるが、これは小野家の一大事。根拠もないことを言われても・・。」

忠成は、一龍齋の考えにくぎを刺すようにそう言った。

「これは、わしが、全国に散らばる我が門下生から情報を集めた情勢への冷静な判断だ。長州は、今、退路を断たれ、野に放たれた虎のようにわしには見えるのだ。一方の幕府軍で本気で戦う気でいるのは、会津藩を中心とするいくつかの旧徳川の親藩のみ・・。それに、尾張藩は、どうも薩摩の動きを見守って、積極的には参戦していない。問題は、その薩摩だが・・。ちまたでは、薩長連合などと言う言葉があちこちで聞かれておる。」

一龍齋は、小野一刀流の全国の道場の弟子たちを通じて、意外なほどに今度の戦の情報を集めていたのだった。

源一郎と忠成は、一龍齋の精通した情報に驚いて、思わず目を見合わせた。

「お父上のおっしゃられることは、美桜のこれからの身の上を考えると、余りにも無責任のように思えてなりませぬ。」

いつもは義父に逆らわない杖が、娘を思い必死で義父に訴えた。一方、美桜は、誰の言葉にも反応せず、ただ黙ってみんなの意見を聞いていた。

「そこで、私に考えがあるのですが。」

源一郎が、いきなりそう言いだした。座の注目が源一郎に集まる。

「美桜は、私が長州にいる間、佐那河内で預かってもらおうと思うのです。あの地には、陽明がいる。あいつなら、美桜の身に危険が迫れば、最悪の場合、貿易船を使ってイギリスへ逃がすことができると思うのです。」

源一郎の思いもよらない提案に、みんな戸惑っているようだった。

「まあ、源一郎の言うことも、荒唐無稽でもあるまい。現に、陽明君の妻は、アダムス卿の孫娘なのだから・・。」

本来なら、娘の心配をするなど、小野派一刀流の頭首として潔い態度ではなかったが、忠成の美桜へ愛情が、ただの親にしているようだった。

「それなら、よろしいかと・・。ねえ、美桜。」

娘の身の安全を確認すると、杖があっさりと源一郎の考えに賛同した。

忠成は、妻が賛同したのを見て、あきらめたように、

「となると、誰が佐那河内へ美桜を・・。」

と、ためらいながらそう言った。彼自身で美桜を伴っていくのはさすがに気が引けたのだ。かといって、自分から妻に頼むほどの勇気もなかった。

「わしが行こう。又五郎にも会いたいしな・・」

忠成の気持ちを察したのか、以外にも一龍齋がそう言った。

「何だか、父上は自分の楽しみのために行くようですな。」

冗談を余り言わない忠成のふともらした言葉に、真剣な場の雰囲気が一挙に和んだ。

そして、忠成が最後に、

「わしは、右衛門に会ってくる。源一郎と美桜のことを報告しなくてはな。」

と言うと、一龍齋と杖が納得するように頷いた。

大坂の小野家族も、源一郎の決意に無理やり異を唱えることをあきらめて、ようやく、それぞれが動き始めたのだった。



(一龍齋、美桜が佐那河内へ)

「思いのほか長い坂道じゃな。(上を見上げて)それにしても、広大な屋敷を建てたものだ。あの屋敷に又五郎をや陽明君など、おもだった佐那河内の連中が住んでいるというから、聞いたこともないような大所帯だなあ・・。」

一龍齋は、佐那河内の連中が住む屋敷の広大さに感心しながら、ゆっくりと美桜と屋敷に向かった。屋敷の奥には道場があり、その横には、和尚や五平が僧侶として住んでいる寺まであった。この地を初めて訪れた一龍齋や美桜が、その広大な建物に圧倒されるのも無理はなかった。その屋敷の規模は、阿波藩藩主の屋敷をはるかにしのいでいたのである。

二人は、階段を登りきると、あけ放たれたままの門を通って、数人がいっぺんに入って行けるような間口の広い玄関にたどり着いた。

「ごめん!」

一龍齋は、勢いよく大声を張り上げた。

応対に出たのはナタリーだった。

「どなた。」

ナタリーの日本語は、かなり上達していた。

二人は一瞬驚いたように、ナタリーの顔をじっと見た。

「話には聞いていたが、そなたが陽明君の妻のナタリーさんか・・。」

一龍齋が、表情を崩してナタリーに声をかけた。

「はい。」

老人の優しそうな表情に安心して、ナタリーも笑顔になった。すると、いきなり後ろに引っ込んでいた美桜が、祖父の前に出てナタリーに頭を下げた。

「わたし、佐藤源一郎の妻、美桜です。」

慌てたように早口で、美桜がナタリーに挨拶をしたのだった。

「ワオ!あなたが、源一郎のワイフなの。(じっと美桜の顔を見て)可愛いお嫁さんね。」

ナタリーは、そう言うと、美桜に親し気な笑顔を見せた。

するとその時、

「一龍齋様ではありませんか!」

一龍齋と美桜の背後から、大声を出す又五郎が現れた。

その大声に驚いた一龍齋が、振り向いて又五郎の顔を確認する。

「大きな声だのう。お前は、いつまで経っても変わらぬ奴だ。」

一龍齋は、又五郎だと分かると、一段と嬉しそうに表情を崩した。すると、今度は美桜がナタリーの方向から反転して、慌てて、又五郎に頭を下げた。

「木内又五郎様、お久しゅうございます。源一郎の妻の美桜でございます。」

そう言って、又五郎にも笑顔を見せた。

「美桜様か。久しいのう。おおきゅうなられて・・。源一郎め、小野派一刀流に名を連ねることになったとは・・。妙な巡り合わせですなあ。」

又五郎は、そう言うと、また大きな声で笑いだした。

「お前が、わしの弟子になったのも、不思議な縁であったがなあ。」

一龍齋にそう言われて、又五郎が頭を掻いた。

「みんな、入って。」

ナタリーが、玄関先でいる三人に奥に入るように促した。

「早苗!一龍齋先生と美桜様が来られたぞ。」

一番最初に板の間に上がった又五郎の大きな声が、長い廊下に響き渡った。


客室に案内された美桜と一龍齋は、次から次へと挨拶を受けたのである。

早苗、マイケル、小夜はもちろん、志摩や与助、廻船問屋の弥吉、妻の志乃も商売を早々に済ませると、一龍齋に会いに来た。ただ、陽明だけは、なかなか顔を見せなかった。

「陽明はどうしとる。一龍齋先生が、わざわざ来られたというに・・。」

又五郎は、一龍齋の横に座り、面会に来る人々を紹介する役目をしていたが、陽明が一向に顔を見せないのが気にかかっていた。

「陽明は、哲太や将太と裏山に釣りに出かけたとのことです。」

春の弟の辰雄が、又五郎に言い訳をした。

「はよう呼んでこんか。」

又五郎は、辰雄に促すようにそう言った。普段は来客には余り関心がない又五郎だが、今日だけはいつもとは違って、一龍齋に気を使いながら、失礼がないようにと気を使っていたのである。

すると、しばらくして知らせを聞いた陽明が、哲太(忍び)と将太(猟師)と一緒に、美桜と一龍齋のいる客間に入って来た。

陽明が、哲太と将太より一歩先に出て、一龍齋の前に出て丁寧に頭を下げた。

「よく来られました。小うるさい又五郎さんの先生に会えて光栄です。これで、又五郎さんもしばらくは、大人しくなっているでしょう。」

そう言うと、一龍齋を見てにやりと笑った。

「こ奴。先生の前で・・。」

又五郎が、真っ赤な顔をして陽明を睨みつけた。すると、

「この男は、わしの道場に入門して以来、誰にも気を遣わず横柄な態度でしてな。陽明君も苦労しておられるか。」

一龍齋は、始終楽しそうに、陽明の冗談に応じたのだった。すると、後ろで聞いていた哲太と将太が大きな声で笑い出した。それにつられるように、客間にいるみんなが笑い出したのである。それを見た又五郎が、鼻の下に手を当ててこすりながら、恥ずかしそうに照れ笑いを浮かべたのが、何とも愛嬌があった。

「美桜さん、よく来られた。源一郎が戦で戦っている間、ゆっくりこの地で、あいつの帰りを待っていればいい。源一郎の手紙でおおよそのことは承知しています。万が一の場合は、ナタリーと一緒にイギリス行く準備はできていますから。文字通り大船に乗ったつもりで・・。」

陽明は、美桜の顔を見ながら、笑顔でそう言った。期待通りの返事が返ってきたことに満足した一龍齋が、陽明に丁寧に頭を下げた。

「思いの他、こいつうまいこと一龍齋様に取り入ったな・・。」

陽明が、いつものように、一龍齋に対する横柄な態度を見せるのではないかと危惧していた又五郎は、この時初めてほっとしたのだった。その時初めて、後ろで控えていた将太が、恐縮したように恐る恐る一龍齋と美桜の方を向いて、

「わしら兄弟も源一郎の後を追って長州の戦に加わるつもりです。」

と宣言したのである。これを聞いた美桜がすかさず、

「源一郎に変わってお礼を言います。」と、将太の言葉に反応して、彼に向かって深々と頭を下げたのだった。

「あのお転婆の美桜様もいい妻になったもんだ。源一郎が羨ましいのう。」

その言葉を聞いていた又五郎が、さっきのお返しとばかりに、みんなの笑いをとった。

真っ赤な顔になった美桜の様子をうかがっていた陽明たちは、笑いをこらえるのに必死だったのは、言うまでもない。


(一龍齋と美桜の歓迎会)

夜になって、一龍齋と美桜の歓迎する宴が久しぶりに、この地で行われた。寺の大広間には、すでに八十を越えるこの地の名目上の代表でもある和尚が、五平と共に出席した。

床の間を背にして、和尚、一龍齋、又五郎、美桜が座り、横には陽明や与助、弥吉らが、座を占めた。奥には、辰雄、哲太、将太、丹波、三郎、赤松、サム、マイケル等が宴会に加わった。女性たちは、いつものように、酒や料理の準備で台所で忙しく立ち働いた。

広間のところどころで、それぞれが談笑し、そこあすこで笑い声が沸き起こった。程なくして、女性たちも料理の支度を終えて広間に加わった頃には、宴席の空間は沸き立つように陽気な雰囲気に包まれていったのである。


「それにしても、源一郎は、どうして長州の戦に加わることにこだわったのかのう・・。」

又五郎は、すでにかなりの酒を飲んでいて、目がとろんとしていた。

広間の中央では、サムとマイケルが、スコットランドの民謡を歌いながら、ダンスをしている。その余興はみんなの興味をそそり、広間全体が大騒ぎになっていた。

ただ、その空気に加わっていない又五郎や弥吉、一龍齋、和尚たち年輩の人間が、輪になって源一郎の話題を取り上げたのだった。陽明は、彼らの近くにいながら、会話にもダンスにも関心を示さず、黙々と酒を飲んでいた。

源一郎が長州に向かった又五郎の疑問に答える者はいないかのように思われた。ところが、しばらくして、和尚がぽつりぽつりと話し始めたのである。

「源一郎は、田原藩で暗殺された父の死が心に残っておるのだろう・・。(誰の方を向くこともなく、俯いて)右衛門殿の策略で、母の支持した見能林藩体制派が敗れたとき、あの子の父は、源一郎と妻を捨てて田原藩へ逃げ帰った。そして、最後は、母子に二度と会うことなく、非業の死を遂げてしまったのじゃ。わしは、あの子がその知らせを聞いた時のことが忘れられんでな・・。(語ることに疲れて、一呼吸入れ)涙をぐっとこらえて、手を膝の上に持っていき、悲しさでぶるぶる震えていた。あの子には、母に続いて父を亡くした悲しさと、恐怖に駆られて逃げた父の汚名をそそげなかった悔しさが、自分の気持ちの中にずっと残っておるのじゃ・・。」

和尚は、源一郎が父を亡くした時の悲しそうな顔を、今でも忘れてはいなかった

「それで、自分が関わった長州の戦では、父のように逃げたくはなかったのですか・・。」

今まで、余り口をきかなかった弥吉が、納得したようにそう言った。

「なるほど、源一郎は、死を覚悟する戦に、どうしても背を向けたくなかったのだろう。」

又五郎が、弥吉に続いて源一郎の気持ちを推し量った。

「あの子は、優しい子なんです。美桜さんとやら、源一郎を頼みますな・・。」

和尚は、最近老いを感じたのか、酒の席にも余り出なかったが、今日はどうしても出ると言っていた理由が、五平にはやっと理解できた。

「美桜、和尚のいうことを、心して聞いておけよ。」

そう言ったのは、一龍齋だった。そして、その言葉を受けるように、美桜は、和尚に向かって、深々と頭を下げた。

彼らの会話に加わらず、黙って聞いていた陽明が、誰にも気づかれないように、そっと立ち上がると、静かに宴会の座を立ち去ったのは、和尚の話が終わった後だった。そして、その後ろ姿を見送る上座の連中は、あえて陽明を呼び止めようとはしなかった。彼もまた、源一郎と同じような家族の運命を背負わされていたのである。

「陽明には、悪いことを言ってしまったかなあ・・。」

和尚は、その時初めて、陽明の父のことを思い出した。

「陽明の父の林七は、戸板に乗って血だらけでわしらの家に帰ってきた・・。やっと、自分にもみんなに恥ずかしくない行動がとれた・・と、死の間際に嬉しそうな笑みを漏らしていたのが忘れられん・・。その後、わしら四強と右衛門は、敵の宿に乗り込んで、敵を皆殺しにする”鬼の嵐”と呼ばれる凄まじい死闘を繰り広げたのだ。」

又五郎は、そう言いながらながら、与助の顔を見た。すると、

「こちらは一人も死ぬことなく。思えば、あれは奇跡のような戦いでござった・・。」

与助は、記憶を思い起こしながら、噛みしめるように又五郎の言葉に付け加えた。

彼らの話を聞きながら、美桜は、改めて、自分の知らない源一郎の過去の闇の部分を垣間見たような気がしたのである。

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