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右衛門シリーズ全編  作者: FZ
31/43

右衛門11-1

半年ぶりに右衛門登場!

右衛門と春は京にいた。一軒家を借りて、自分たちの仲間にも居場所も告げず、ひっそりと暮らしていたのである。昼間には、近所の子供たちを集めて、手習いそろばんの塾を始めた右衛門は、生活に困ることもなく、世の中の激動にも注視することなく、一見、天下の暗殺者として世に知られる剣豪とは、到底想像もつかない穏やかな生活を送っていたのである。

朝の手習いの授業を終えた右衛門は、部屋の障子を開けて、畳に腰を下ろし、ぼんやりと前の庭にある梅の花に鳥がとまって、虫を捕る狩りを興味深げに眺めていた。そこへ、春が隣の障子を開けて入ってきた。

「また、三条河原に、晒し首が並べられているそうです。世の中、一体どうなるのでしょうね。」

春は、子供たちが散らかした手習いの半紙をかき集めながら、右衛門の方を向くでもなく、独り言のように呟いた。

「柳生義親様は、幕府から退かれ、大目付の秋山殿も引退されたようだ。今さら、幕府の心配をすることもないが、義親様はいい時期に幕府から退かれたものだ。」

右衛門は、庭を見ながらぽつりとそう言った。

「本当に・・。それにしても、あなたが井伊様を暗殺したのをきっかけに、これほど世の中が目まぐるしく変わるとは、思ってもみませんでした。」

春はそう言うと、初めて、右衛門の方に視線をやった。

「わしは、これからの世の中は、剣に頼ることはあるまいと思っていた。ところがどうだ。

この京では、人の殺し合いがない日がない。鴨川の水が血で染まらない日がないくらいだ。

どうなっているんだろうな・・。」

右衛門はそう言うと、腕を枕にごろっと横になった。

「そんなところで転寝すると、風邪をひきますよ。」

右衛門の姿を見ながら、春はそう言って、にこりと笑った。

「春、今宵は、街へ出てうなぎでも食うか。」

右衛門は、急に思い立ったようにそう言うと、春の方を向いて笑顔を見せた。

「あなたが夜の街を歩けば、誰かがあなたを狙うかもしれませんよ。そうすれば、死人が出るかもしれません。もちろん、あなた以外が・・。止めときましょ。」

春の言葉に、右衛門は何とも寂しそうな苦笑いを見せて、横になったまま目を閉じた。世の中は、右衛門の予想に反し、ますます殺伐となっていき、剣の出番が頻度を増していたのである。


(うなぎ屋)

一旦はうなぎ屋に行くのを断った春ではあったが、何故か、夕方になると右衛門をうなぎ屋に誘ったのである。何処からか聞こえてくる、三味線の音色や川辺を歩く陽気な人々の笑い声に、つい外へ出かけたくなったのかもしれない。


右衛門は、ウナギを食べて、吸い物を味わった後、いつものように肩に刀を抱えて、窓の外から見える提灯の明かりをじっと見ていた。

「お酒飲まないの。」

春が、右衛門にそう聞いた。すでに、春は何本かのお銚子を空けていた。

「今日は、やめとく。」

右衛門は春の方を向いて、そう言って笑った。

「何だかいい気持ち・・。私、もう一本飲んじゃおうかな。」

ほんのり赤らんだ春の顔が、行灯の光で照らし出された。

その時、

「これは、春さん!横にいるのは、右衛門殿かえ・・。」

そう声をかける侍がいた。右衛門は、その声に一瞬緊張し、肩に置いていた刀を強く握りしめた。井伊祐直を土佐で暗殺して以来、右衛門の周辺は、以前にもまして警戒を要する状況に追い込まれていたのである。

春が、素早く声の方に目をやった。春の顔から今までのゆったりした表情が消えていた。

「わしじゃ。土佐の崎田弥次郎ですきに・・。」

そう言って、声をかけた男は、始終笑顔を見せている。

「あら、あなたでしたの・・。」

先に緊張をといたのは、春の方だった。

「これは有難い。右衛門殿とこのようなところで会えるとは・・。わしにも運があるようじゃ。」

弥次郎は、そう言って、からからと笑った。近づいてきた弥次郎を見た右衛門の表情から、やっと笑みがこぼれた。 


「おぬし、あれ(井伊暗殺)以来、佐那河内には行かなんだか。」

やはり、右衛門の気がかりは、佐那河内にいる連中のことらしい。右衛門が、井伊を暗殺してからというもの、佐那河内の陽明はますます薩摩と親密になり、幕府もそう簡単に佐那河内に手を出せなくなっていた。さらに、陽明の妻のナタリーは、イギリスの海運王、アダムス卿の大事な孫娘である。万が一、佐那河内を再び壊滅させようとすれば、江戸城にイギリス最新鋭の大砲が打ち込まれないとは、断言できなかったのである。自然と、佐那河内の存在は、雄藩列強の注目の地になりつつあった。その中でも、薩摩と佐那河内の関係に、割って入ろうと画策する藩があった。それが、幕府や薩摩にとってどうしても押し込めておきたかった長州藩だった。

「辰雄と妹(崎田浪江)のこともあり、二度ほど訪ねてみましたが・・。」

弥次郎は、そう言って、口をつぐんでしまった。

「何だ。言いにくそうだな。遠慮はいらん言ってくれ。」

右衛門が、弥太郎の話を促した。

「どうやら、源一郎殿は、佐那河内を出たらしいです。」

弥次郎は小さな声でそう言うと、上目遣いに右衛門の顔を見た。右衛門の顔から、笑顔が消えた。

「源一郎殿は、長州藩士の草津源九郎や木場半四郎らと、急速に親交を深めた様でしてな・・。元々、薩摩藩の小松や大久保と親密な関係があった陽明殿と言い争いがあったそうです。その喧嘩を契機に、源一郎殿は大前屋の喜一郎さんの勧めで、今は大坂にいるようです。これは、あくまでも辰雄から聞いた話ですけど・・。」

弥太郎はそう言うと、春についでもらった盃を口に運んだ。

「なんで、喜一郎が絡んでくるのだ。」

右衛門は、疑問に思ったことを、弥太郎に問いただすような口調で質問した。

「これは、わしの推測じゃが、喜一郎さんは北前船での商売に熱心じゃ。一方、弥吉さんは、薩摩と同盟を組んで、外国貿易で巨万の富を稼いでいると、もっぱらの噂ですきに・・。なにせ、今の世の中、外国の最新鋭の武器を扱える商人の言い値で売れますからな・・。当然、弥吉さんは陽明殿にべったりじゃ。面白くないのが、大前屋の喜一郎さんじゃ。元々、大前屋の使用人だった弥吉さんが、今では、大前屋を凌ぐ勢いですろ。ここで肝心なのが、長州の存在じゃ。長州は、北前船の通路の要の下関を押さえておりますから・・。おそらく、源一郎殿と草津、木場の間を取り持ったのは、喜一郎さんとわしは睨んでおるんじゃが・・。右衛門殿なら、このわしの筋書き、納得いただけますかいのう。」

右衛門は、内心、この男の推察力は以前から高く買っていたが、今の推理には、疑わしいところがいくつかあった。しかし、弥次郎と言い争うつもりは、さらさらなかった。

「おぬし、土佐を脱藩して、これからの動乱をしたたかに泳いだ方が、将来が開けるぞ。」

右衛門は、弥次郎の才覚を認めたうえで、皮肉を込めてそう言った。

「わしは、すでに脱藩しましたわ。」

弥次郎は、そう言って、大きな声で笑った。

「ところで、大前屋の宗衛門殿は、この争い黙ってみているのか。」

右衛門は、宗衛門が弥吉と喜一郎の争いを黙ってみているはずがないと思っていた。

「大前屋の隠居は、病気で伏せっていると聞きましたが・・。右衛門殿が言うように、隠居の病気がなかったら、ここまでこじれなかったかもしれませんな。この情報は、大坂の仲間から聞いた話です。」

弥次郎は、そう言って、にやりと笑った。

「おぬし、何者なんじゃ。土佐で見た崎田弥次郎とは、えらく変わってしまったような気がする。」

右衛門は、そう言って、弥次郎の顔をまじまじと見た。

「冗談は、言いっこなしじゃ。わしは、右衛門殿の知り合いの崎田弥次郎ですきに。何も変わってないです。」

弥次郎は、そう言うと、また声を出して笑った。その傍らで、二人の話を聞いていた春が、少し不安げな笑みを浮かべていた。辰雄のことが気にかかっているのである。

「弟の辰雄は、源一郎殿に同情しているのでしょうね。」

春が、ぽつりとそう言った。

「ようわかっておられる。わしが奴にあったときは、源一郎に同情しておった。しかし、佐那河内に愛着があるようで、源一郎殿には付いていく気はなかったらしい。とにかく、佐那河内は陽明殿と源一郎殿の仲たがいで、あれだけ結束力が強かったのに、惜しい話じゃ・・。右衛門殿、何とかしなくてはいけませんぞ。」

弥次郎は、そう言って、右衛門に解決策を考え出す責任を向けた。

「又五郎や与助はどうしてるのだ。」

いつの間にか、右衛門の表情はすっかり不機嫌になっていた。

「困っておるんでしょう。そこまで事情は知りませんがな・・。」

弥次郎は、この辺で佐那河内の話題は変えたいように、そっけなく右衛門に答えた。


うなぎ屋を出た春、右衛門、弥次郎は、人の流れが途絶えた鴨川のほとりを、ほろ酔い心地でふらふらと歩いていた。弥次郎は、右衛門との再会で、いたって饒舌に喋った。右衛門はというと、さっき弥次郎から聞いた源一郎と陽明のことが気にかかっているのか、もっぱら弥次郎の話を浮かぬ顔をして、黙って聞いていた。

すると、三人の前に四人の浪人たちがこちらに近づいて来ようとしていた。どうやら、弥次郎の知り合いのようで、先頭の浪人は、満面の笑顔を見せながら、右手を上げて、弥次郎に合図を送っている。

「仲間が来たようです。春さん、わしに住まいを教えてくれんかのう。改めて、うかがいますきに・・。」

弥次郎は、そう言って、右衛門の住まいの場所を尋ねた。

「甚兵衛長屋で聞いてもらえば、すぐわかります。この人は、長屋の子供たちに手習いを教えてますから。」

春は、右衛門の承諾もなく、弥次郎に快く住んです場所を教えた。弥次郎には、人を警戒させない何か人懐っこいところがあった。春も、そんな弥次郎に警戒する気持ちは少しも持っていなかったのである。右衛門は、そんな二人の会話を聞きながら、初めて、渋い表情を緩めた。

「それでは、いずれ・・。」

弥次郎が、右衛門の方を向き、にこりと笑って、二人から離れようとした。その時、一人の笠をかぶった僧侶らしき男が、土手を上がってきて弥次郎の仲間の四人の前に立ちはだかった。それに合わせるかのように、弥次郎の足がとまった。少し離れたところで四人の浪人と僧侶が何か話をしている。次の瞬間、僧侶の仕込みが夕暮れ時の薄暗がりに光ったかと思うと、あっという間に、四人の浪人たちは地面に転がった。最後の一人は、土手を転がって、河の中へ水没したのである。

「玄坊だな。」

僧侶の居合いを見ていた弥次郎の口から、思わず殺し屋の名前がついて出た。

「わしは、運がいい。奴に出会ったら、まず、生きては帰れんだろう。こんな折に、右衛門殿と一緒とは・・。天はわしに味方してくださった。」

弥次郎はそう言うと、右衛門の方を向き、にやりと笑った。右衛門の傍らにいる春は、前で起こった殺戮に、少しも動揺することなく、玄坊がこちらに近づいてくるのを見つめている。しばらくして、弥次郎と右衛門に接近してきた玄坊が、

「悪いが、おぬしの横にいる崎田弥次郎をわしに渡してくれんか。」

玄坊は、おもむろに被っていた僧侶の笠をとって、右衛門の顔をじろりとにらんだ。

「僧侶が仕込み刀で殺戮とは、穏やかでないのう・・。」

顔面髭だらけの男に、右衛門は笑顔を見せてそう言った。

「奴が僧侶なものか。偽坊主ですわ。一皮むけば、人を殺すのを喜びとする殺人狂じゃ。どうせ、会津あたりに頼まれて、大金目当てに、わしを殺しに来たんだろう。」

弥次郎が、仲間を目の前で殺された怒りもあって、玄坊を睨みつけながらそう言った。

「奴の言った通りだ。おぬし、弥次郎をかばえば死ぬぞ!」

玄坊は、そう言いながら、右衛門を斬ることに決めたようだった。

右衛門は、袖に入れていた手をゆっくりと出して、玄坊の居合いに身構えた。

次の瞬間、再び、薄暗かりに玄坊の仕込みが光った。しかし、今回は、右衛門の刀が玄坊の仕込みを受け止めた。次の瞬間、玄坊の流れるような太刀裁きで、仕込みの刃は水平に振られ、右衛門の胴をめがけて逆手斬りで、右衛門の命を狙ってきた。玄坊にとって、今までこの逆手斬りをかわした侍はいなかった。ところが、仕留めたはずの一撃は、予想もしない結果になったのである。白刃の打撃の金属音が虚空に響いただけで、玄坊の仕込みの刃の一閃は、右衛門の刀に受け止められたのである。

「そんな馬鹿な!」

玄坊は、この時初めて動揺した。

「阿呆!世の中にはのう。おぬしを上回る剣豪がおるのじゃ。これを契機に、お前も仏門に帰依して、今までの非道を仏に懺悔せい!」

弥次郎の言葉は、いつもの彼とは思えない気迫と怒りがこもっていた。

玄坊は、仕込みを鞘に納めると、悔しそうな表情を浮かべて、

「いずれまた・・。」

静かな声でそう言うと、背中への袈裟斬りを恐れるかのように前を向いたまま後ずさりして、右衛門との距離ができると、体をくるりと反転して一目散に逃げていった。


「右衛門殿に命救われたわ。奴に狙われて逃れたものは数少ないですからのう・・。今日は、わしはついている。」

弥次郎は、シーンと静まり返った川べりで、心底安心したようにそう呟いた。

「何者なんだ。玄坊とやらは・・。」

右衛門は、玄坊の凄まじい居合いぬきに応戦したことで、激しい息をしながらそう尋ねた。

「京では、敵なしの殺し屋です。奴には、何かを信じる信念などないのです。ただ、金のために人を殺す。それも、相手が強ければ強いほど、殺しの依頼を断らないという殺戮狂です。おそらく、京に集まってきた侍の誰よりも強いでしょう。右衛門殿以外で、奴の居合をかわせるものは、いないでしょうな・・。」

弥次郎がそう言うと、

「まあ、弥次郎さんったら、自分が殺されそうになったのに、まだこの人に胡麻をすってるわ。」

そう言って、春が大きな声で笑い始めた。

「本当のことですきに・・。」

弥次郎は、子供のように必死で春に言い張った後、頭を掻いてにやりと笑った。



(右衛門と弥次郎の出会いから数か月前・・)

「おぬしら、そこで何をしているのか。」

又五郎の声が、佐那河内の秘密の港を、山の中腹にある見晴らしのいい崖から下を見下ろし、筆を使って紙に港地形を写しとっていた侍二人に声をかけた。

「我ら決して怪しいものではござらん。この地におられる源一郎殿に会いに来た長州藩藩士 草津源九郎というもの。横にいるのが、同じく、長州藩士 木場半四郎。」

そう言うが早いか、二人は又五郎に頭を下げた。又五郎も長州の藩士が、源一郎と知人になり、源一郎がしばしば長州まで彼らを訪ねていたことは聞き及んでいた。

「それにしても、わが領地の一番大事な港を探っているとは、穏やかではないのう。」

又五郎は、二人が自分の素性を名乗ったにもかかわらず、彼らの怪しい行動には納得がいかなかった。

「申し訳ない。いささか、軽はずみな行動をとってしまい、言い訳の仕様もありません。」

横で、二人のやり取りを聞いていた木場が、当惑した顔をして、又五郎に謝罪した。

こう素直に謝られると、元来、人のいい又五郎は、これ以上彼らを咎める気もなかった。

「まあ良いわ。しかし、おぬしら、わしでよかったのう。これが、陽明や弥吉だったら、ただではすまんところだぞ。」

又五郎は、そう言うと、顔を少し空の方に上げて、大きな声で笑った。

その様子を見ていた草津と木場は、ほっと胸をなでおろした。

しかし、ことはこれだけではすまなかった。いつもの見回りをしていた権蔵の配下の忍びが、事の次第を木の陰から見ていたのである。

又五郎と木場、草津のやり取りは、陽明の知るところとなった。


「源一郎の奴、怪しい者をこの地に引き入れて・・。大体、我らは、長州藩などと関わって、何の意味があるんだ。返って、奴らがこの地をうろつくことで、薩摩に不必要な疑いを抱かせるだけでじゃないか・・。」

陽明は、洋式に改修した自分の書斎を何度も行ったり来たりした。部屋の広さは十八畳程で、部屋の中には大きなテーブルが置かれていて、その後ろには大きな窓があり、外の木々の青々とした様子は、いかにも明るい雰囲気を部屋の中に引き込んでいた。

「いいじゃないの。源一郎さんが誰と付き合っていても・・。」

すっかり日本語が上達した妻のナタリーが、部屋の片隅にある椅子に座って、窓を見ながらそう言った。

「お言葉を返すようですが、長州と薩摩は、京の実権を握ろうと争っているライバル藩です。我らの商売相手である薩摩にわざわざ疑われるようなことをするのは、いかがかと・・。」

ナタリーの対面で座って、コーヒのカップを右手に持っていた弥吉が、ナタリーに異論を唱えた。ナタリーは、弥吉が「ライバル」という言葉を使ったことがおかしくて、思わず笑みをこぼしてしまった。近頃、陽明と同じように弥吉はまげを切り、佐那河内の港にやってくるイギリスの船員からいろいろ西洋の知識をたくわえているようだった。以前の大前屋の弥吉のイメージからは、かなり違ってしまったように思われた。やはり、金と権力は、人の風格も変えてしまうものかもしれない。ただ、彼の生来の英明な思考力だけは変わっていないようだが。

「とにかく、今夜にもみんなに集まってもらい。我らのこれからの方針をわかってもらい、源一郎にも従ってもらわねば・・。」

陽明は、そう言うと、弥吉の方を見た。

「さっそく、伝えておきます。幸いなことに、喜一郎様もこの地に来ているようなので、会合に参加してもらいます。」

陽明の要望に素早く答えた弥吉は、テーブルにコーヒカップを置くと、慌ただしく部屋を出て行った。そんな、二人の会話を聞きながら、ナタリーは肩をすくめて、二人に賛同しない精一杯の仕草を見せた。


源一郎は、さっきから集まった仲間の話を、腕を組んで目を閉じたままじっと聞いている。

忍びからは、権蔵、丹波。鉄砲隊からは哲太、マイケル。女性からは、志摩、早苗。それに、又五郎、与助。更に、最近、和尚の後を継いだ五平が集まった。みんな、久しぶりに顔を合わせるだけに、和気あいあいと話が弾んだが、陽明の言葉から、場の雰囲気がガラッと変わってしまった。

「我らの商売の交渉相手は、薩摩と決めたはず。私はこの国の行く末を考えて、ひいては佐那河内のみんなのためにも、薩摩と共に歩むのが得策と思い、こうやって弥吉と佐那河内のために尽くしてきたつもりなのに・・。いったい、何処が不満なのか、源一郎に聞いてみたいもんだ。」

陽明は、源一郎の気持ちに配慮することなくズバッと結論を出した。いつもの源一郎と陽明なら、今の陽明の言葉に本気で喧嘩をするようなことはなかったかもしれない。しかし、源一郎の頭の中に、友である草津や木場の顔が浮かんだ。彼らは、誰よりも一途にこの国の行く末のために努力をしていた。そんな仲間の気持ちも考えない、陽明の独断的な言葉が、どうしても許せなかったのである。

「陽明の考えは、ようわかった。わしは、お前とこれ以上言い争うつもりはない。わしさえ、この佐那河内を去ればそれで済む事だ・・。後は、お前の好きにするがいい。」

源一郎は、陽明の言葉に反論することもなく、それだけ言うと、すっと立ち上がり、その場を立ち去ろうとした。

「ちょっと待て!源一郎・・。何もそう性急に事を構えずとも・・。わしらは仲間ではないか。」

そう言って、立ち去ろうとする源一郎を止めようとしたのは、又五郎であった。

「その通りです。源一郎様・・。何も、そこまで陽明様と・・。」

与助は、二人の元家臣筋だけに、どちらに味方もできず、困った様子で言葉を止めた。

「陽明。お前とは、しばらく距離を置いた方がいい・・。少なくとも、同じ道が見つかるまではな。」

源一郎が、振り向いて、陽明にかけた言葉で、この場にいた仲間は決定的な亀裂は避けられたような気がした。

「それでいいのでは・・。陽明様も源一郎様もそれぞれ進む道もあります。いろいろやってみて、また一緒に同じ道が見つかればそれでいいのでは・・。私は、そう思います。」

志摩(与助の妻)が、きっぱりとそう言った。それに賛同するかのように、早苗(又五郎の妻)が、横で頷いた。

「おい!何を言い出すのだ。」

与助が、咎めるように妻を見た。しかし、この佐那河内では、志摩は、和尚や右衛門にも認められた司令塔の器であった。誰一人、それ以上逆らうものはいなかったのである。又五郎と与助以外に・・。ただ、奥の方で黙って聞いていた喜一郎が、源一郎の後を追うように部屋から出て行ったのを、弥吉は注意深く見守っていた。

「源一郎がいなくなれば、寂しくなるのう。」

又五郎はそう言って、五平の顔を見た。五平は、一瞬、同調して頷こうとしたが、陽明に対して不満を表明するようで、頷くのを止めた。

何も言わなかった権蔵は、配下の者の報告がこんな結末を生んだことに、すまない気持ちでいっぱいになっていた。

「おやじ、そんなに落ち込むな。二人がこうなるのも自然の成り行きかもしれん。お互い、もっと経験を積んで、またみんな一緒になればいい。」

丹波が、そう言って、父の権蔵を慰めた。



(弥次郎暗殺失敗)

会津藩家老 折田周明は、忍びの知らせに一瞬書きかけていた手紙の筆を止めた。

彼の書斎の小窓が少し開けられ、忍びの双栄は、庭で膝をついて玄坊が弥次郎暗殺を、一緒にいた浪人の応戦で失敗したことを報告していたのである。

「玄坊の居合いが止められるとは、信じられん・・。一体、その浪人何者なのだ。」

筆を止めた折田は、正座して座っていた小さな黒檀の机から立ち上がり、忍びの双栄の存在を小窓から確認した。

「折田様は、井伊様が土佐で暗殺された際、我ら忍び最強の京成と二人の兄弟が、一瞬にして斬り殺された事件をご存じで・・。」

その忍びは、折田の視線を感じて、俯いていた頭を少し上げた。

「知らぬはずがなかろう。天下の一大事ではないか・・。わが会津藩と彦根藩の威信を潰し、幕府の権勢を左右した大事件・・。あの事件がきっかけで、討幕を堂々と宣言する藩がのさばり始めたのだ。我ら会津にとって、忘れることのできない暗殺劇だった・・。」

そこまで言った折田の顔が、何かの予感に気づき、驚きで表情が一変した。

「まさか・・。」

折田の呟いた一言は、声が震えていた。

「あるいは・・。」

忍びは、右衛門の名を上げて断定するには、重大事すぎるように思っていた。

二人の会話がしばらく途絶え、庭の池にいるカエルの鳴き声が、夜の静寂を一層引き立たせているようだった。

「あらゆる手立てを尽くして、その浪人の素性を調べてみろ。(少し考えをまとめているようで間が空いた)玄坊に、その浪人を仕留めたなら、報酬として千両出してもいいと、わしが言っていたと伝えておけ。このことは、あくまで隠密にな・・。もし、それがあの男なら、会津は面目を取り戻せるかもしれんからな。逆に、会津の名を出し、玄坊が返り討ちにあえば、前代未聞の恥さらしもんじゃ。あくまでも会津の名を出すな。よいな・・。」

折田は、畳の上を何度も往復しながら、慌ただしく手で太ももを叩いていた。

「しかし、玄坊の居合いがかわされた以上、玄坊では、あの男は倒せまいかと・・。なにせ、玄坊の居合いは無敵と思われていましたが、その居合をかわす男がこの京にいたのですから・・。」

忍びは、そう言うと、折田に悟られないように俯いたまま、にやりと笑った。

「ならば、他の人斬りならこの京にいくらでもいる。例えば、新選組の・・。」

「かしこまりました。」

双栄は、折田が名前を挙げる前に心得たようにそう言って、折田の話を最後まで聞かず、闇夜に消えていった。殺しの実践で誰よりも頼りになると言えば、浮田以外に思い浮かばなかったのである。



(源一郎、居酒屋達磨で・・)

「右衛門様や柳生の義親様までこの座敷でいろいろと語らった場所・・。特に、大目付だった秋山正直様は、大のひいきになさっていました。」

喜一郎からその言葉を聞いた達磨の亭主は、満面の笑顔を見せて、源一郎の顔を見た。

「この方は、右衛門様と関係のあるお方で・・。」

亭主が、源一郎の素性を探るように、喜一郎に尋ねた。

「甥御様や。お前も知ってるだろう田原藩のことは・・。そこの藩主もしていた方なんやで・・。」

喜一郎が自慢げに紹介したが、達磨の亭主は、田原藩などという小藩のことは知らなかった。それに、この頃には、達磨には幕府の大物や大店の店主が出入りしていると、まるで名所の居酒屋のように噂されていた。

「それは、恐れ入ります。こないな汚いところに御越し下されて・・。せいぜい美味しい料理を出して、気張らせてもらいます。」

白髪交じりの初老になった亭主が、いつものように愛想を振りまいて、二階の座敷を降りていった。

源一郎は部屋を見渡しながら、こんな特に見るべき物もない居酒屋で、いろいろな重要人物が出入りしていることに、むしろ意外な気持ちになった。

「やはり、大坂で暮らすには、小野忠成様(佐那河内四強、小野道場頭首)を頼るのが一番かと思い、すでに、この達磨(居酒屋)にお招きしました。」

喜一郎は、そう言って、にこりと笑った。

商人というものは、駆引きをするのが性分のような人種である。陽明と源一郎の対立をきっかけに、自分と弥吉との対立に発展することを見越して、大坂で住む佐那河内の四強と言われる忠成をどうしても味方につけたかったのである。

「忠成様か・・。」

源一郎は、独り言のようにそう言って、忠成の剣豪としての頼りがいのある姿を思い浮かべていた。忠成は、又五郎や与助のように、普段は少し剣豪としてのたたずまいに欠ける振舞いもなく、いつも凛としている印象を抱いていたのである。

「忠成様の道場には、大勢の門下生がいます。源一郎様の剣の修行にはうってつけやと思います。」

喜一郎は、そう言って、忠成を味方に引き入れて、佐那河内の連中への影響力を及ぼすことを期待していたのである。


源一郎のもとに料理と酒が運ばれ、喜一郎と他愛もない話で盛り上がっていた。

「わしは、ナタリーは美人と思うが、ああいう整った顔に魅力は感じん。」

酒が進んだこともあって、源一郎の話は、次第に過激になってきた。

「やはり、青年だ・・。」喜一郎は、源一郎の話にそう思いながら、時々笑顔を見せた。

その時、勢いよく足音を立てて、二階の喜一郎の座敷に向かってくる訪問者がいた。

忠成でないことは、その足音から容易に判断できた。一瞬緊張が走り、源一郎は、横に置いていた刀に手をやった。すると、さっと障子が開けられ、髪を後ろにくくり、袴をはいて男装をした若い女性が現れた。

「美桜様!」

喜一郎が、彼女を見るなり、大きな声でそう言った。入ってきた女性は、小野忠成の長女美桜であった。

美桜は、何も言わず、源一郎の顔をまじまじと見て、

「思ったより優しそうな顔なのね・・。」

そういうなり、あっけにとられて、美桜を見ている源一郎の横に座り、置いていた箸を手に取ると、皿にあった卵焼きをはさんで、パクリと口に入れた。

「美味しい。やっぱり、達磨の料理は美味しいわ。」

そう言って、源一郎の方を向いて、にやりと笑った。

どうやら、美桜は忠成に連れられて、時々、この店に来るようである。この美桜は、幼い兄弟とは、かなり年のはなれた忠成が溺愛している娘であった。普段、少し気難しい顔をして人に接する忠成だが、美桜だけには違う一面を見せた。美桜が、わがままを言っても、咎める姿を見たことがなかったのである。

「美桜様。いらっしゃいまし。」

達磨の主人が、騒がしい足音に気づいて、様子を見に来たのである。

「私にも何か美味しいい料理を持ってきて・・。」

美桜は、笑顔を見せて、主人にそう言った。

「かしこまりました。」

主人はそう言うと、嬉しそうに二階を降りて行った。

「誰しも、美人には弱いようですな。主人のあんな嬉しそうな顔見たことない。」

喜一郎は、そう言って、美桜の顔を見てにやりと笑った。

美桜は、喜一郎の言葉に反応もしないで、

「今日は、父上は来ないわよ。」

誰に言うというでもなく、ぽつりとそう言った。

「それは、どうしてですか。」

狼狽した喜一郎が、すぐに反応した。

「右衛門がいない時に、二人が仲たがいしてどうするんだって、怒っていたわよ・・。私には、事情は分からないけど・・。とにかく、源一郎を引っ張ってこいって。」

美桜の言葉に、喜一郎と源一郎は、困惑したように顔を見合わせた。すでに、佐那河内で起こったことは、忠成の耳に入っていたのである。

「どうせ、弥吉の根回しだろう・・。」喜一郎は、美桜の言葉を聞いて、弥吉へのライバル心を一層抱き始めた。


(朝の小野道場)

源一郎が、小野道場で生活するようになった。小野忠成と家族は、道場の裏手にある屋敷に住んでいる。忠成の父で小野一刀流の元頭首である小野一龍齋を大坂に引き取り、美桜を含む子供三人、それに妻の杖の六人暮らしの家庭で、源一郎は、居候として暮らすようになったのである。小野の家は、朝から晩まで大勢の門下生の出入りが頻繁で、一般の家庭の事情とはかなり違っていた。


源一郎が喜一郎と別れて、美桜に連れられて、この家にやってきたとき、彼は忠成に佐那河内の争いに関して、何か咎められるのではないかと、内心、「来なければよかったのでは」と、危惧していた。

忠成は、一人玄関で源一郎を待っていた。美桜が、快活に引き戸を開いて、源一郎を招き入れると、忠成は始終笑顔で応対した。源一郎は、忠成に何か小言を言われるのではないかと、顔を俯むかせ、時折、忠成の様子をうかがった。

「よう来たな。おぬしと会うのは何年ぶりかな・・。」

忠成は、機嫌よくそう言った。

「こたびは、いろいろ厄介になります。」

源一郎は、そう言って、頭を下げた。

「まずは、おぬしの部屋を美桜に案内してもらえ。その後、わが父一龍齋に挨拶してもらえば、後は、おぬしの好きなようにせい。明日から道場で稽古をするもよし、大坂見物をするもよし。いずれ、喜一郎が誘いに来るだろうがな。美桜、源一郎の世話を頼むぞ。」

忠成はそう言って、笑いながら、奥へと引っ込んだ。源一郎は、忠成から何の説教もなく解放されたことをほっとした。居酒屋達磨で食事を済ましていた源一郎は、一龍齋に挨拶をすると、美桜に部屋に案内され、早々に床に就くことになったのである。ここ数日の目まぐるしい環境の変化に、さすがの若者も相当疲れて、環境の変化にもかかわらず、朝まで一度も目覚めることなく爆睡した。


小野道場の朝の稽古は、活気にあふれていた。広い道場のあちこちで、打ち込みの気合いの叫び声が天井に響き渡り、門下生の汗で道場の熱気は絶えず満ち溢れていた。

道場の奥で、みんなの稽古をじっと見ていた忠成がおもむろに席を立ち、道場を後にすると、いきなり道場の雰囲気は和らいだ。冗談を言うものや、互いの練習の相手を見つけては、自分の技量を誇示しようと激しい打ち込みを繰り返すものもいた。みんな自由に剣術を楽しみ、特段厳しい規則もないのか、途中で厠へ走るものや、空腹を満たすために外に出て、近くの茶屋で握り飯を買ってくるものまでいた。どうやら、この自由な気風は一龍齋の方針のようで、忠成の厳格だった道場の雰囲気をがらりと変えてしまったようである。

「親父殿のいい加減な剣術指導は困ったものだ。さりとて、親を咎めることもできんしな・・。」

忠成は、以前から忠成についてきた自分の生え抜きの門下生に、言い訳するようにそうぼやくのだった。

「しかし、みんな一龍齋様を慕っていて、小野道場で剣術を学びたいと、入門を願い出るものもひっきりなしです。これでよかったのでは・・。」

そう言って、門下生まで一龍齋の稽古のやり方を支持する始末であった。

「所詮、剣術も心の鍛錬などという精神論ではやっていけない武術なのかもしれん。これも時代か・・。」忠成は、そんなことを思いながら、右衛門の顔を思い浮かべ、苦笑いをするのであった。右衛門なら間違いなく、一龍齋のやり方に賛同するだろうと思ったからである。


「源一郎殿!」

朝の稽古に初めて参加していた源一郎に声をかける者がいた。平田喜内(小野忠成の一番弟子)であった。源一郎は、声をかけられた見知らぬ年輩の男に軽く頭を下げた。

「私は、平田と言います。この道場では、指南役をしていましてな・・。」

平田は、始終笑顔で、源一郎に話しかけた。

「平田さんのことは、叔父の右衛門から聞いております。」

源一郎のその言葉に、なお一層、平田の表情が緩んだ。

「右衛門様とは、手合わせをしたこともあるのです。もちろん、完敗でしたけどな。そのことが、私の唯一の自慢です。」

平田は、嬉しそうに、昔のことを思い出しながらそう言った。

「そうでしたか。平田様は、津軽の小野道場におられると聞いたことがありましたが・・。」

源一郎は、右衛門から以前聞いたことを思い出してそう言った。

「本当に、右衛門殿は、私のことを源一郎殿に話したのですね。こんな嬉しいことはない・・。」

そう言って、すっかり感動しているようだった。源一郎は、そんな平田の様子を見ながら、「小さなことで、えらく感激する人だ。」と、少し平田を滑稽に思ってしまった。

その時、道場がざわつき始めた。美桜が、道場に入ってきたのである。

「美しい桜とは、よく言ったものだ。」道場の片隅で、ひそひそとそんなことを話しながら美桜を見ている門下生もいた。不謹慎なようだが、美桜がこの道場で稽古をするのを見たくて、小野道場に入門する門下生もいないといえば嘘になる。忠成は、美桜が女だてらに竹刀をもって男に交じって剣の稽古をすることを、余り好意的に見ていなかったが、一龍齋の「だれでも自由に」という方針に異を唱えることもできず、娘の剣術に目をつぶっていたのである。美桜は女でありながら、武道家小野の血を引いて、剣の腕前は門下生の中でも上位に位置していた。

「源一郎殿、美桜様が来たからには、立ち合いを避けることはできますまい・・。」

平田は、そう言って、にやりと笑った。その言葉を聞いた源一郎は、一瞬、眉をひそめた。

「源一郎殿、お手合わせお願いします。」

平田の予想通り、美桜は源一郎の所に来て、竹刀での試合を申し出た。

源一郎は美桜の顔をまともに見ることなく、始終不快そうな顔をして、

「わしは、女とは稽古はせん。」

そう言って、あっさり美桜の頼みを拒絶した。周りで、その言葉を聞いて、にやりと笑うものもいた。美桜を見くびって、痛い目にあった門下生は何人もいたのである。

美桜は、その言葉を予想していたかのように、あざけるようにフフッと笑うと、

「女に負ければ、格好がつきませんものね。」

そう言って、源一郎の顔をちらりと見た。平田が、二人のやり取りを見て、俯きながら笑いをこらえている。

「嫌なことをいう女だ。痛い目にあっても知らんからな。」

源一郎は、そう言うと、美桜の顔を睨みつけた。

そこまでは、美桜の思うつぼだった。しかし、源一郎の剣は、美桜には荷が重すぎた。おそらく、この道場でも、忠成を除けば、彼に勝てる門下生はいなかっただろう。

二人は、周りの注目を集めて、道場の中央で向き合った。

突然、美桜の竹刀が源一郎に襲い掛かったが、体をかわした源一郎は、美桜の竹刀をあっさりかわすと、一撃で彼女の竹刀を叩き落したのである。

美桜の竹刀が、道場の板の間を転げた勢いで、見ていた門下生の元まで達した。竹刀をなくした美桜が、呆然として、源一郎の顔を見ている。源一郎は、美桜の視線を避けるように、駆け出すように道場を出て行った。平田は、このことを予想していたのだろうか、始終、二人を見ながら表情を緩めていた。

一方、騒ぎに気づいた忠成が、道場の片隅から誰にも見られないように、腕を組んで二人の立ち合いを眺めていた。忠成は、二人の試合が終わり、道場が再びざわめき始め、源一郎が駆け去る後姿を見ながら、「試合の後の仕草まで、右衛門に似ているわ・・。」そう思って、誰にも知られないように、にやりと笑った。



(右衛門が宗衛門を見舞う)

京を出て二日目、右衛門は弥次郎から宗衛門が病気だと聞いて大坂に向かっていた。生駒の山を越えた右衛門は、深く編み笠をかぶり、足を速めるでもなく、今日中に大前屋の別邸にたどり着けばそれでよかった。

すると突然、右衛門は人里離れた小道で足を止めた。

「おぬしら、いつまでわしをつけてくるつもりだ。京から山越えをしてまでわしについてくるには、よほどの理由があるのだろう。」

右衛門は後ろも振り向かず、ぽつんと小道の真ん中に立って、大声でそう叫んだ。

すると、観念したかのように、三人の忍びが右衛門の前後に現れた。

「おぬし、右衛門か・・。」

その中の頭目らしき男が道の前方に立って、右衛門の方を睨みながらそう言った。

「さあ、そのような者は知らんな。」

右衛門が、とぼけてそう言う。

「おぬしが、右衛門なら我らのかなう相手ではないだろう。なにせ、京成兄弟を一瞬で仕留めた侍だからな・・。じゃが、我らも伊賀の忍び。主人に命じられれば、おぬしが右衛門か確かめねば、勤めが果たせぬまま、のこのこ帰る訳にはいかぬからな。」

そう言うと、その忍びは、刀を抜いて右衛門の方に向かってきた。それに合わせるかのように、後ろの手下も同じように刀を抜いて、右衛門の背後に迫ってきた。

頭目らしき男は、手下の二人に先に仕掛けるように命じた。もし、相手が右衛門ならば、二人が攻撃を仕掛けているすきに、自分は後ろにトンボを切って逃げ出そうと考えていたのである。しかし、頭目の作戦は見事に裏切られた。右衛門は、体を開き前後の敵に備えて、抜刀の瞬間を静かに待っていた。そして、死闘の間合いに入った瞬間、彼は刀を抜いて、迫ってくる三人の襲撃を白刃で払った。その太刀の動きと正確さは、忍びの頭目の予想をはるかに超えていた。トンボをきって逃げ出す余裕などないほど、右衛門の太刀裁きは速かったのである。気づいてみれば、三人の手首は、剃刀で切られたように手首から赤い鮮血が流れ、持っていた刀は地面に落ちた。忍びたちは、ただ右衛門の白刃を鞘におさめるゆっくりとした動作と、鞘に収まった「カチッ」という音だけが、しっかりと耳に残っただけだった。三人は、ただ黙って、自分たちを残して、ゆっくり立ち去る右衛門の背中を呆然と見送っている。

「奴は、化け物か・・。」

しばらくして、忍びの一人が呟いた。

「おそらく、あれが右衛門だろう。」

忍びの頭目が、確信したようにそう言った。

「しかし、剣の技量だけでは、折田様(会津藩家老)に報告はできませぬな。」

もう一人の忍びが手首から流れ出る血を手で押さえながら、頭目にそう言った。

「奴は、わしらの命を取らなかったのだ。折田様には、大坂で見失った、と言っておくしかないだろう・・。」

頭目は、右衛門の余りの剣の凄まじさに、畏敬の念さえ感じ始めていた。

「それでは、これ以上、奴を追わないと・・。」

手下が、確かめるようにそう言って、頭目の顔を見た。

「命が助かったのだ。それだけで良しとせねば・・。忠義で死ぬのも考えものだぞ。わしらは、折田の家臣ではないしな。」

手下の言葉に、頭目は、どこか冷めた口調でそう応じた。


(宗衛門の屋敷)

「ごめん!」

宗衛門(大前屋隠居)の別邸の玄関に立った右衛門は、大きな声で応対を求めた。

廊下を誰かが走る足音がして、現れたのは、蘭方医の西先生だった。

「右衛門殿、来られたか。宗衛門殿が、あなたのことを話さない日がない程だ。よほど、あなたの来訪を心待ちにしていたのだろう。すぐに会ってやりなされ。」

西先生は、笑顔で右衛門を迎えた。

床にじっと伏せていた宗衛門は、右衛門の声を聞いた時から、近くにいた使用人に体を起こすように命じて、布団の上に上半身をおこして、右衛門の顔を見ようと待っていた。

「右衛門様・・。」

障子を開けて入ってきた右衛門を見るなり、宗衛門はそう言ったなり、感激で声が出なくなっていた。

「すまん。見舞が遅れた。もっと早く知っていれば・・。」

右衛門は、そういうなり、宗衛門のまえにひざまずくと、深く頭を下げた。

「何をおっしゃられる。手前のようなおいぼれを気にかけていただいて、礼の言いようもありません。」

少し落ち着いた宗衛門が、そう言って頭を下げた。

「しかし、誰から宗衛門様の病気のことを・・。」

右衛門は、井伊祐直を暗殺して以来、行方不明になっていたのである。

「崎田弥次郎という土佐脱藩藩士に京で会った折に聞きました。」

右衛門は、西の質問に淡々と答えた。

「そうですか。」

西は不思議そうな顔をして、そう言った。西にとっては、聞いたことのない名前であったのだ。

「これ、すぐに両替屋の主人を呼んできなはれ。」

宗衛門は、側にいた使用人を急かせるようにそう命じた。右衛門が来たらどうしても会わせたい男がいたのである。言われた少年が急いで座を立って、部屋を出て行った。


宗衛門は病気にも関わらず、右衛門に饒舌に語った。

「覚えておりますかいな。右衛門様と初めてあった日のことを・・。」

宗衛門の顔から笑顔が絶えない。

「四国へ行く船の中だったですな。」

右衛門の表情も緩んでいる。西は、二人の傍らで、時折、宗衛門の容態をうかがっている。

「あの出会いが、大前屋をこないな大店おおだなにのし上げようとは、夢にも思うていませんでした。わしは右衛門様に惚れ込んで、ひたすら黙って従ってきたら、こんな幸運が待っていました。」

そう言った宗衛門の目にうっすらと涙が浮かんでいた。

「それは、大げさですなあ。私こそ、何度宗衛門殿に助けてもらったか・・。大前屋の財力があったからこそ、考えられない離れ業ができたのだ。改めて礼を言います。」

右衛門は、そう言うと、再び深く頭を下げた。宗衛門が手をついた右衛門の腕をとりながら、必死で右衛門の頭を上げさせようとする。

「右衛門殿、余り患者を刺激しては・・。」

二人の行動を見ていた西が、右衛門に宗衛門の感情を高ぶらせないようにと、忠告した。

「申し訳ない。」

右衛門は、素直に謝って、手で頭を掻いた。しかし、なぜか三人は、その後、愉快そうに笑って、お互いの顔を見合わせた。この場にいるだけで、何か妙に沸き立つような楽しい気分になったのである。

その時、玄関の戸を開ける音がして、廊下を慌ただしく歩きながら、宗衛門の部屋に急ぐ男がいた。

「佐吉ではないか。」(佐吉;見能林藩勘定方元藩士、右衛門の元家臣。現在、宗衛門に見込まれ大前屋で働く。)

右衛門が、障子を開けて入ってきた男の顔を見て、思わずそう叫んだ。言われた佐吉は、右衛門の前にひざまずいて、笑顔で頭を下げながら、

「殿、お久しぶりで・・。」

はずんだ声で、そう言った。佐吉の顔も、この場にふさわしい陽気な顔を見せていた。


(佐吉、西先生、右衛門が達磨屋で)

宗衛門の病気の見舞を果たした右衛門は、宗衛門が再び床につくのを待って、西先生の看病へのねぎらいもあって、達磨屋に佐吉と共に誘った。

「うれしいなあ。天下の剣豪が、手前どものことを忘れずまた来てくださった。」

達磨屋の主人は、舞い上がったように、手放しで右衛門との再会を喜んだ。

「主人、わしは今追われる身だ。そう大騒ぎされると、いささか迷惑でな。」

右衛門が、主人の喜びぶりを押さえるように、言いにくそうにそう言った。

「知ってますで。井伊様の・・。(そう言って、右衛門の顔を見る。)この前、右衛門様の甥御様の源一郎様と大前屋の若旦那の喜一郎様が、おいでになりましてな。いかんとは思いましたけど、二人の会話を聞いてしまいました。なにせ、源一郎様が、余り嬉しそうに言ってはりましたので・・。」

主人は、右衛門の注意をあまり気に留めていないようだった。

「源一郎は、大坂にいるのか。」

右衛門は、主人の言葉を聞いて、驚いたようにそう言った。

「忠成様の所に・・。お会いになりますか。」

右衛門がそういうのを聞いて、すかさず、佐吉が二人のやり取りに入ってきた。

しばらく沈黙が続き、

「いや、今はやめておこう。あいつの相談に乗るほどのことはなかろう。忠成がついているのだから・・。」

右衛門は、忠成に全幅の信頼を置いていた。

「主人、こちらは西先生と言ってな。有名な蘭方医だ。(佐吉の方を向き)佐吉は知っておるだろう。」

右衛門は話題を変えて、西を達磨の主人に紹介しようとした。

「知ってます。お会いするのは初めてですが、大坂では有名なお医者様ですからな。佐吉様は、大前屋から独立されて、両替商を任されたとか。喜一郎様が、おっしゃっておりました。」

主人は、名の知れた医師や評判の商人が自分の店に来てくれたことで、うきうきしていた。

「主人は、何でも知ってるのだな。」

右衛門は驚いて、改めて、主人をじっと見た。

「へえ。この店は、初めて右衛門様が来て以来、あなた様のお仲間の馴染みの場所になってますからな。右衛門様のお仲間のことなら何でも知ってまっせ。」

主人は、どこか誇らしげにそう言った。一方、三人の会話を聞きながら、西は始終にこにこ笑っていた。


気心の知れた二人とあって、普段酒を飲まない右衛門がかなり酒を飲んだ。彼は、西にはいつも心を許していた。右衛門が、鳴門の渦の藻屑になろうとしたのを救ってくれたのは西であった。いわば、命の恩人である。彼は、いつも右衛門が知らない学問を、面倒くさがりもせず教えてくれた。元来、知識欲の強い右衛門は、西の前では、どこかで彼を頼りにしていたのである。

西先生は、前に出された膳の料理をうまそうに食べながら、銚子を口元に運んだ後、

「私は、最近ずっと宗衛門殿の側で介護をしているので、あの方が何を考えているのか、少しづつわかってきた。」

少し酔ったのか、余計なことを言わない西がまるで秘密の告白をするように切り出した。

「ほう。宗衛門殿は、また何か企んでいますか。」

右衛門が、興味を示してそう言った。佐吉は、さっきから手酌で酒を飲んでいる。この中では、酒が一番強い彼は、かなり飲んだと思うが、酔った様子は顔に出ていなかった。

「いや、企みではありません。いわば、遺言のようなものです。死んだ後のことを考えてのことだと・・。」

その言葉を聞いて、興味を持った佐吉が西の顔を見た。

「遺言とは、どのような・・。」

右衛門が、そう聞いた。

「ここにいる佐吉さんを、わざわざ酒田から呼び戻して、宗衛門殿が誰にも手を付けさせず、切り盛りしていた両替屋の主人に佐吉さんを抜擢したことです。」

佐吉は西の言うことが理解できたのか、にやりと笑って、盃に酒を注いだ。

「それが、遺言とどのような関係があるのですか。」

右衛門には、西のいうことが理解できなかった。

「宗衛門殿は、弥吉さんと喜一郎さんが、いずれ二つに割れることを予感していたようです。今度の陽明君と源一郎殿の決別をきっかけに、弥吉さんと喜一郎さんの間にも溝ができることを覚悟していたかのように、私に言っていました。」

右衛門は、宗衛門の病床で、喜一郎と源一郎、それに弥吉と喜一郎のことを話題にするとき、笑いながらも、時折見せる宗衛門の寂しそうな顔を思い浮かべていた。

それにしても、西先生にしては、ずいぶん人間臭い話題を出すものだと、右衛門は少し意外に思った。ただ、酒のせいもあるのだろうとも思った。

「そこで、殿のために私を両替屋の主人にした。」

いきなり、西の言葉を引き継ぐように、佐吉が会話に入ってきた。

右衛門には、まだ、二人の言葉が理解できなかった。

「右衛門殿が、自由に使える財力をとっておきたかったのでしょう。弥吉さんも喜一郎さんも、宗衛門殿が死ねば、今までのように右衛門殿の言いなりに頼みは聞かなくなる・・。そこで、自分が誰にも手を付けさせなかった自前の両替屋の管理者として、右衛門殿の元家臣の佐吉さんを就けたのです。これは、私の推測ではありません。事実です。」

恐らく、西は、宗衛門に代わって右衛門にこのことを言ってくれるように頼まれたのだろうと、右衛門は推察した。

「殿、宗衛門殿は、商売の金とは別に、自分の貯めた百万両(四十億~五十億)の金を、殿がいつでも使えるようにと、私の商う両替屋に預けておるのです。」

佐吉が感激したように、右衛門に打ち明けた。

「宗衛門殿は、わしを買い被りすぎだ。そこまで、わしにしなくとも・・。」

右衛門はそう言いながらも、不覚にも、感激で高ぶる気持ちを押さえきれず、涙が目にあふれるのを感じていた。

右衛門が宗衛門を見舞って一か月後、宗衛門は他界した。



(長州藩士高山新次郎)

女郎屋の二階ですでに十日余り過ごしている長州藩士高山新次郎は、浴衣姿で二階の障子の戸を全て開けっぱなして、下の通りをぼんやりと見ていた。そのうち、雨が降り出したのか、時折、彼の顔に雨のしずくが飛び込んでくる。それでも、そんなことにお構いなしに、ふっとため息をついて、やはりじっと通りを眺めていた。

やがて、気分が悪くなり、何やらたちの悪い咳をした彼は、手で口を押えた。ふっとその手を見ると、手のひらは、彼が口からはいた鮮血で真っ赤に染まっていた。

新次郎はその異変に驚きもせず、懐から半紙を引き出すと、ゆっくりと自分の手をぬぐった。「俺は、後、どれほど生きられるのだろうか・・。」そんなことを考えながら、自虐的な笑いを浮かべて、両腕を大きく伸ばして肺に新鮮な空気を一杯貯め込んだ。

すると、外では番傘が二つ新次郎のいる女郎屋に吸い込まれるように消えていったかと思うと、程なく、階下では二人の武士の快活な笑い声が、二階にいる新次郎の部屋にも聞こえてきた。

「新次郎、いるか。」

その声は、草津源九郎と木場半四郎であった。

彼らは、新次郎が居るのを確かめると、つかつかと部屋に入ってきて、座敷に置かれた座布団を勝手に持ってきて、勢いよく座った。

「どうだ、体の具合は・・。」

源九郎が、新次郎の様子をうかがいながら、そう言った。新次郎は、その質問に答えることもせず、にこりと笑って二人の近くに近寄ってきて、彼らと同じように胡坐をかいた。

「どうだ、佐那河内の方は・・。我らへの援助は望めるか。」

新次郎が、早速そう聞いた。草津と木場は、源一郎に武器の援助を依頼するために、佐那河内を訪ねていたのである。

木場が、厳しそうな顔をして首を横に振った。

「それどころか、我らのせいで、源一郎は陽明殿と争いになって、佐那河内を出たそうだ。陽明殿は、薩摩との貿易以外興味を持っていないのか、源一郎が我ら長州藩士と親交を深めていることを、面白く思っていないようなのだ。第一、我らには武器を求めたところで、その代金を支払うあてがない。今では、我が藩は幕府に従う家老が、実権を握っているのだから、最初から無理な話だったのかもしれん。」

木場の言葉に、二人は黙ってしまった。

薩摩と長州は、禁門の変で幕府と薩摩が、朝廷の実権の奪還を試みた長州藩士を武力で退けて以来、最悪の関係に陥っている。今では、長州藩士が京に入るだけで、新選組や会津藩士の刺客たちに追いまわされる始末であった。それでも、長州藩士過激派は、再び、討幕を目指して、京での戦いの機会を狙っていたのである。

三人が黙って腕を組み今後の計画をどうするか、考えあぐねていた時、階下で新次郎の名を呼ぶ声がした。

「新次郎はおるか。」

その声を聞いた二階の三人は、思わず目を合わせて微笑んだ。

「おるぞ、弥次郎!遠慮はいらぬ、上がって来い。」

新次郎の言葉が届くが早いか、弥次郎は、にこにこしながら彼らの部屋に入ってきた。

崎田弥次郎は、長州藩士や薩摩藩士の西田義厚をはじめ、多くの藩士と敵味方を越えて知り合いであった。更には、この男、幕府重鎮から剣豪の右衛門まであらゆる種類の人脈を駆使して、世の中を渡り歩いているようだった。元々、人懐っこい性格が幸いして、彼と接する人間は、いつの間にか彼の知人になってしまうのである。


「今日は何の用なんだ。」

新次郎は、木場と草津の間に入って座り、屈託なく笑っている弥次郎の顔を見ていると、知らぬ間に笑顔になってしまった。

「京で面白い人に会ってな・・。」

弥次郎は笑うのを止めて、三人の反応をうかがった。

「ほお。弥次郎がそう言うからには、よほど我々の興味を引く人物なんだろうな。」

新次郎の言葉に、弥次郎はにやりと笑った。

「おそらく・・。」

弥次郎は、そう言うと、しばらく黙って雨が上がった外をぼんやりと見た。

「じらすな。」

木場が、弥次郎の顔を見てそう言った。

「おぬしら、日ノ本で知られる剣豪と言えば、誰の名が思い浮かぶ・・。」

弥次郎は、そう言うと、今度は楽しそうに三人の顔を交互に見た。

「おぬし、右衛門と知り合いか。」

草津が、先回りするように、剣豪の名を断定して弥次郎を問い詰めた。新次郎と木場の顔も真剣な表情に一変した。

「どうだ。わしがおぬしらを右衛門殿に紹介しようか。もっとも、会いたいならの話だが・・。」

弥次郎は、そう言って、再び三人の顔をにやにやしながら見て、返答を待った。

「ぜひ、頼む。」

三人は、言葉を合わせるように、声を合わせてそう言った。


(薩摩藩士西田義厚)

右衛門が京に戻った頃には、ますます血なまぐさい事件が、日常茶飯事で起きていた。

そんな折、右衛門と春が住む家に、大久保と西田がやってきた。

「春さんに出会ったときは、目を疑いました。我ら二人が八坂神社の参道を歩いていた時、向こうの方から、周囲から目を引く美しい女性がこちらへ歩いてくるではありませんか、どこか見たことがあるお顔だったので、じっと見入っていますと、春さんの方から私にお声をかけてくださったので・・。」

大久保の歯の浮くようなお世辞に、春の顔がぱっと明るくなった。

「やはり女だな・・。」右衛門は、そんな春の様子を見ながらにやりと笑った。

「あら、嫌だ。大久保様はお口がうまいのだから。陽明さんとナタリーさんの結婚式以来ですね。」

春の嬉しそうな笑顔は、絶えることがなかった。

「ところで、大久保殿のお連れの方は・・。」

右衛門が、さっきから大久保の横で、二人の会話に笑顔一つ見せず、じっと黙って座っている男のことを聞いた。

「薩摩藩士 西田義厚と申します。」

その大柄な男は、右衛門の方に向くと、そう言って頭を下げた。

右衛門は、西田の名前を聞いたことがあった。今、京の薩摩藩邸で、事実上、薩摩軍の指揮を執っている男である。仲間のうちでは、人望が厚く、剃刀の大久保、大ナタの西田と称されている薩摩藩の切れ者二人であった。

「あなたが西田殿か・・。京では、あなたの噂がいつもどこかで耳に入る。」

なぜか、右衛門は、西田を喜ばせるようなことを言った。人の風貌というのは、その人物がどんな実力を持っているかにかかわらず、何やら一目置きたくなる人物がいるものである。まさに、西田は、その全体のたたずまいからして、威風堂々としていたのである。その意味では、天下の剣豪と言われながら、会ってみると、「この男が本当に・・。」と、いつも思われる右衛門とは、正反対の特質を持っている男であった。

「いや、右衛門殿にそう言われると、穴に入りたい気持ちになります。もっとも、わしのようなものが入れる大きな穴は、めったに見つかりますまい。」

西田が、くだらない冗談を言った。しかし、春はその冗談を聞いて、大きな声を出して笑った。さっき大久保が言ったお世辞が、よほど効いているのだろう。

「われら薩摩藩士の間では、右衛門殿が今度は何をやってのけるのかと、話題にするものが絶えません。示現流薬士殿との果し合い、幕府の中心人物の暗殺、どれ一つとっても、度肝を抜かれる話ばかりです。」

屈託なく笑っている春に間の抜けた冗談で助けられた西田が、今度は右衛門を持ち上げるようにそう言った。

「おかげで、人目を避けねばならぬ窮屈な生活を送っております・・。」

右衛門は、本音をちらりと漏らしたようだった。

春が、台所へ引っ込んで客にお茶を出す用意をし始めた。

「本当に、この男、それほどの剣の腕前なのか・・。」

右衛門の余りにも人を警戒しない、安心しきったものの言いように、西田は少し拍子抜けをした。春に誘われて、右衛門の住む家を訪れた時、示現流の薩摩の英雄である薬士を斬った男は、どれほどの凄みを漂わせる男か、大いに楽しみにしていたのである。ところが、いざ会ってみると、京の町をうろうろしている侍とどこが違うか分からないのであった。世間では、英雄にはそれなりの風格があると言われるが、右衛門に関していえば、そのようなものは備えていなかった。西田は、そんなことを考えながら大久保の顔を見た。すると、大久保は、西田が考えていることがわかったかのように、にやりと笑って、目で西田に同調したかのように合図を送った。


薩摩藩士が右衛門の家を訪れたことは、思わぬ事件に発展した。

薩摩藩士に遅れること半時、弥次郎が長州藩士高山、草津、木場を伴って、右衛門に会いに来たのである。

「右衛門殿はご在宅かえ。」

いつもの弥次郎の快活な声が、玄関の引き戸を開ける音と同時に、玄関に響き渡った。

「あら、弥次郎さんじゃないの。」

対応に出た春の声が、座敷で話をしている右衛門と西田、大久保の耳にも入ってきた。

、思いがけない来訪者に、大久保の表情が思わず緩んだ。

「崎田弥次郎は、右衛門殿の家を知っておるのですか。」

大久保が、そう言って、右衛門の顔を笑顔で見た。

「先日、偶然うなぎ屋で出会って、いずれ会おうと別れたのです。」

右衛門もにこやかに笑って、そう言った。

弥次郎の出現は、この場をにぎやかにしてくれると、二人とも思ったのである。それほど、弥次郎という男には、人を引き付ける魅力があった。それでも、西田は、余り弥次郎の来訪に関心はなかったようで、ただ袖に手を入れ黙って座っていた。しかし、その置物のようにじっと座っている西田の存在もまた、どこか人に好感を与える妙な魅力があった。

ところが、次の玄関での会話は、その場の雰囲気を一変させた。

「あら、お連れのかたなの。」

春が、弥次郎と一緒に来た高山らをちらっと見た。

「右衛門殿の名前を出すと、是非に会いたいというもので連れてきました。」

弥次郎の快活な声が、右衛門らにも聞こえてくる。

「私は、長州藩士高山半四郎」

「同じく、木場半四郎。」

「同じく、草津源九郎。」

そう言って、春に向かって三人が頭を下げた。

その瞬間、その声を障子越しに聞いていた大久保が、横に置いた刀をとって畳に立てた。

「あら、長州の方なの。今、薩摩の大久保さんと西田さんが来てるわよ。ご挨拶をなさったら・・。」

春には、薩摩と長州の関係など全く知る由もなかった。

そう聞いた瞬間、弥次郎の顔がサッと険悪な表情に変わり、長州藩士三人は、人の家にも関わらず、「ごめん!」と言ったなり、草履を脱ぎ捨て、つかつか板の間に上がって右衛門らのいる部屋の障子を開けたのである。

その時には、すでに草津と木場は、刀の束に手をやり、今にも刀を抜こうとしていた。

二人の行動に合わせるかのように、高山は、懐に持っていたピストルを出そうとしていたのである。それに応ずるように、大久保も畳に片足ついて刀の束に手をやり、今にも抜こうとしていた。

余りにも思いがけない長州藩士の行動に、春はただ唖然としたまま、勝手に部屋に入り込んだ長州藩士たちの背中を見ていた。一方、弥次郎の{やめんか!」と叫ぶ声が、むなしくその場に響いていた。

「ほう、これはいいところに来た。薩摩の大将二人が座っておるぞ!」

高山が、西田と大久保を睨みつけると、そう叫んだ。

彼が懐からピストルを出して、大久保に向けようとした瞬間、何か大きな人影が、薩摩藩士と長州藩士の間をさっと通ったかと思うと、高山が懐から出したピストルを持つ手首に、逆手に握られた刀の白刃が、ぴたりと当てられていたのである。この部屋にいる全ての人間は、大きな人影が目の前をかすめたことは認識していた。ただ、どうやって右衛門の逆手に持たれた刀の白刃が、高山の手首の下に当てられたのか、どうしても認識できなかったのである。何かを認識するという機能は、ある時間に事象を見て確認しているのではないのである。事象を知覚する行為自体で、時間が流れるのである。見たものを確認するとは、過去から現在の因果関係を、頭の中で組み立てた結果である。ところが、見たものを認識する能力にも限界がある。果たして知覚したものが全て認識できるかどうかは、はだはだ疑わしい。だからこそ、錯覚というものが生まれるのである。見ているものの認識を錯覚させるには、極限に研ぎ澄ました一連の動きの俊敏さと、誰にも予見できない偶発的な行動の瞬発力で、その場に居合わせた藩士たちの認識能力を麻痺させることが必要であった。右衛門が、見せた剣の奥義は、まさにこの場にいた藩士たちに知覚の錯覚を誘発させる心技体の究極的な能力だったのである。このことを可能にしたのは、右衛門が京成や薬士を始め、数々の死闘によって、剣の一段高みに登っていた結果かもしれない。


「引き金を引く前に、わしは、おぬしの手首を切り落とす・・。」

右衛門のささやきのようなその言葉は、今まで西田や大久保と淡々と話していた右衛門に抱いた普通の侍という印象はなかった。大久保は、その右衛門の言葉の凄みに、背中から汗が湧き出るのを感じたのである。西田は、黙って目を閉じ、高山への脅しの言葉を聞いていたが、右衛門の他を圧倒する気迫と凄まじい剣の奥義は、その脅しより何倍も震えあがるものだった。

「やっと、右衛門の本性が垣間見えたな・・。」それでも、西田は目を閉じたまま微動だにせず、そんなことを考えていた。

すると、その場の状況を打開するように、弥次郎が動いた。

「右衛門殿、わしがついていながら申し訳ない。」

そう言って、刀を高山の手首に当てたままじっとしている右衛門の前で平伏した。

「何をしちゅう。高山!後ろへ引け。手首がおしゅうないのかえ・・。」

気迫がこもった弥次郎の忠告に、高山はやっと自分の立場に気づいたかのように、右衛門の白刃を避けるかのように、ピストルを懐に入れて後ずさりし、弥次郎と同じように畳に膝をついて頭を下げた。もちろん、二人の長州藩士も後へ引いて刀をおさめた。それを確認した右衛門は、大久保にも刀をおさめるように、目で指図した。長州藩の行動を唖然とした気持ちで見ていた大久保も、右衛門の鋭い視線に、はっとしたかのように刀をおさめ、元いた場所に座りなおした。その状況を確認した右衛門は、いつもの柔和な表情に戻って、自分の座に胡坐をかいた。ただ、刀だけは、肩にもたせて、抱え込んだのである。

しばらく、何とも言えないばつの悪い沈黙が続いた。長州藩士は、一度も西田と大久保の顔を見ず、じっと俯いている。西田は、今まで通り、腕を組んで目を閉じている。大久保は、三人の長州藩士と目を合わせるのを避けるように、向こうの台所へ戻って、お茶の用意をしている春の様子を見ていた。

やがて、お盆の上に柿を山のように盛って、春が現れた。

「これわね。右衛門が教える手習いの授業料として、近所の親御さんたちが持ってきたものなの。今、お茶を出しますから、その間、この柿を召し上がれ。弥次郎さん、湯飲みを運ぶの手伝ってね。」

右衛門と一緒になって、修羅場を超えてきた春にとって、今のような場面は慣れっこになっていた。まるで、今起こったことがなかったかのように、笑顔でみんなに一つずつ柿を配って、台所に下がっていったのである。

春に命じられた弥次郎が、

「仕方ないのう。わしの妹は春さんの弟と夫婦でな・・。親戚なんじゃ。」

聞かれもしないのに、弥次郎はみんなに向かってそんなことを言って、春の後ろに従った。

「これはうまそうじゃ。頂きもんそ。」

西田が、場を和ませるようにそう言った。その言葉を機に、その場の雰囲気は、一応修復されたのであった。

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