右衛門10-3
(辰雄と浪江が佐那河内に到着)
辰雄と浪江は、四国山脈を超えて、紀伊水道に面する阿波の佐那河内村にやっと到着しようとしていた。佐那河内の村に通じる山道を、二人で下っていた時、下の方から数人の集団が、笑い声をあげながら、自分たちの方に近づいてくるのに気づいた。
一瞬、集団の笑い声が止み、最初に二人の人影に気づいた源一郎が、警戒しながら、仲間の連中から一歩進み出て、辰雄たちに声をかけた。
「おぬしらは、何者だ。」
知らないうちに、源一郎は、刀の束に手を添えていた。
その動作を見た辰雄が、応じるように束に手をやった。両者の間に、緊張が走る。
するといきなり、浪江が源一郎の方へ駆け寄って、彼に頭を下げた。
「私たちは、右衛門様の依頼で、この地にやってきた桐谷辰雄と浪江と申します。決して、怪しいものではありません。」
浪江は、そう言うと、再び頭を下げた。
「これは、失礼した。右衛門は、私の叔父でして・・。」
源一郎は、そう言うと、向こうで刀を構えた辰雄に一礼した。その姿を見た辰雄が、ふっと息を吐いて、自分の体の緊張を緩めた。
「悪かったなあ・・。こいつは、いつも血の気が多いから、こんなみっともないことになる。要するに、心に余裕がないのだ・・。許してやってくれ。」
陽明が、源一郎の横にきて、辰雄に声をかけた。
「お前なあ・・。」
源一郎が、陽明にくってかかろうとした。
すると、二人の言い争いを中断するように、ナタリーが、
「よくいらっしゃいました。」
と、日本語で言ったのである。
その言葉を聞いた、辰雄と浪江は、びっくりしたような顔をして、深々とお辞儀をした。
ナタリー、サム、マイケル、小夜、陽明、源一郎、万平、いつもの連中に誘われて、辰雄と浪江は、旅装束のまま、いつもの射的場にやってきた。
サムが、標的の皿を撃ち落とし、若者たちの歓声が、崖の向こうに広がる大海原の方まで、響き渡ったようだった。アホウドリが、崖の辺りを旋回し、何とも気持ちのいい、昼間のゆったりした時間が流れている。
源一郎と陽明が、辰雄が持ってきた右衛門の手紙を、一枚づつ読んでいる。辰雄が、源一郎に渡そうとした右衛門の手紙を、陽明が素早く奪い取ったのである。すると、続いて出された浪江の手紙を、源一郎が急いで受け取った。二人の対抗心は、陽明の結婚した後でも、一向に変わらなかった。
「叔父上に言われなくても、薩摩藩主 島津様には、何度も京都進軍は打診はしたが・・。一向に決断の返事がない。しかし、叔父上の言うように、佐那河内にある武器すべてを売り払えば、井伊の大軍が来たらひとたまりもないが、叔父上はそのことをわかって頼んできたのかなあ・・。それとも、薩摩に武器を売った金で、佐那河内の連中全員の逃亡でも考えているのかもしれん・・。」
陽明は、右衛門の依頼に、真の意図を探っていた。
すると、今度は源一郎が、
「これによると、辰雄さんは、春さんの弟だそうだが・・。春さんに弟がいたのか。」
浪江から渡された手紙を読んでいた源一郎が、辰雄の顔をまじまじと見た。
同じように、源一郎の言葉に驚いた連中が、辰雄の顔を見た。ただ、サムだけは、いまだに日本語が余りわからないので、何でみんなが驚いているのかわからず、怪訝な顔をしている。
「そう言えば、似ているような・・。(浪江の方を見て)ところで、あなたは、辰雄さんの・・。」
小夜が、そう言いかけた時、
「浪江さんは、辰雄さんの妻だろう。そうでなければ、二人で、こんなところまで来るわけがない。」
源一郎が、口をはさんで、そう言った。
小夜が、納得したように頷いた。
「いや、浪江は・・。」
辰雄が、あわてて、源一郎の推察を正そうとした。
すると、
「まだ、新婚ですけど・・。」
浪江が、何のためらいもなくそう言った。
やはり、こういう時は、女は大胆だ・・。ましてや、弥次郎の妹である。
「叔父上は、浪江さんに託した手紙で、自分たちの部屋を譲るから、二人をこの地で住まわせてくれと書いている。」
源一郎が、そう言うと、佐那河内の若者たちは、奇声を上げながら、また自分達の仲間が増えたことを大喜びしている。特に、マイケルは辰雄の肩を叩いて、二人を歓迎した。
二人は、余り慣れない歓迎に唖然とするばかりであった。
「やはり、異国の人がいると、こんな風に、無邪気な振舞いになってしまうのか・・。」
辰雄は、彼らの歓迎に戸惑いを隠しきれなかった。
しかし、二人が、この村に馴染むのに、それほど時間はかからなかった。なぜなら、元々、この連中は、辰雄や浪江と同じように、何処からかこの地にやってきて、何となく居心地がいいので、住み始めた連中ばかりだったからである。
(小松、大久保、土佐藩主)
土佐藩主 山之内は、小松が持ってきた、薩摩藩主 島津明定の書状に目を通している。
小松と大久保は、崎田弥次郎の熱心な説得を受け、薩摩藩主を動かし、ようやく、山之内への書状を携えて、土佐の地に来たのである。
薩摩藩主の書状を読み終えた山之内は、
「この書状によれば、藩主島津様は、御所護衛のため、軍を率いて京に上るので、我が藩もご賛同願いたい・・と書いてあるが。薩摩は、我らに何を望んでおられるのか。」
と、小松に尋ねた。
「わが殿の願いは、土佐様に援軍を出してもらうなどとは思っておりませぬ。ただ、山之内様が、幕府守旧派の方々と歩調を合わせることだけはなきよう・・。そのことだけは、お含みおき願えればとのことであります。」
すると、山之内が小松の言葉に反応した。
「まるで、脅しではないか・・。」
山之内は、不快感を覚えた。ただ、その不満を小松に直接言ってしまえば、自分が、改革派を装っていたことが暴露するのではないか・・と心配した彼は、一瞬口ごもってしまったのである。
小松は、山之内の表情が険悪になってくるのを見逃さなかった。
「山之内様が、我らの行動に賛同の意をお示し下されれば、これほど心強いことはありませぬ・・。」
小松が、譲歩する表現を使った。殿様育ちの山之内のような大名にとって、人が引き下がれば、どうやって相手を追い込めばいいかは、心得ていた。
「それではなにか、おぬしは、わしに、島津殿のやることを黙って見ていろと言いたいのか・・。」
藩主の顔が、気色ばんだ。
すると、小松の横で座っていた大久保が、初めて口を開いた。
「山之内様の周辺では、薩摩と交易をおこなっている佐那河内の連中に、敵意をむき出しにしている御家臣がおり、事を荒げようとしている。・・との情報が、私どもの耳に入っております。」
大久保は、そこまで言って、山之内の言葉を待った。
「誰がそのようなことを・・。よしんば、それが事実としても、おぬし、わしに何が言いたいのだ。言ってみろ!」
山之内が、大久保の顔を睨みつけた。
「佐那河内は、わが藩と交易をしており、この度の遠征でも、大量の武器弾薬をあの地から購入する予定であります。」
大久保は、あくまで冷静に、土佐藩主との口論を避けた。
「それで・・。」
藩主の横で見ている家老 金崎文藏の心配そうな様子を見た山之内は、少し落ち着きを取り戻そうと、短く言葉を切った。
「佐那河内の武器は、我が国の和式武器とは比較になりませぬ。山之内様は、すでに佐那河内襲撃を試みた黒龍党の憐れな末路をご存じのはず・・。特に、最後の襲撃は、万座屋の自害で決着がつきました・・。」
大久保の口調は、抑揚もなく、決して感情の起伏をみせてはいなかった。
「ただ、それは、四百や五百の兵でのこと・・。大軍で攻めれば、あのような村、ひとたまりもなかろう。佐那河内の武力を過大評価しているのは、おぬしの方ではないのか。」
ようやく、山之内の心に余裕が出てきた。
「山之内様は、佐那河内の指導者である陽明という若者をご存じであられますか。」
山之内の言葉に、引くことなく大久保がたたみかけた。
「わしはのう・・。土佐の藩主じゃ。そのような若造を知るわけがなかろう。」
山之内は、すっかり余裕を取り戻していた。
「陽明殿の妻は、エゲレス国の大貴族アダムス卿のお孫様でございます。我らの情報によりますと、アダムス卿は、この度の井伊様の佐那河内殲滅作戦の噂をお知りになり、この日本国に、軍艦四隻を向かわせたとのこと・・。いや、このことは、土佐藩とは何の関わりのないこと・・。つい、いらぬことを申しました。お許しくだされ。」
この話を聞いた山之内の表情が、一変した。
「それはまことか・・。」
山之内の声は、知らず知らずに、大声になっていた。
大久保は、自信満々に両手をついて頭を下げた。
小松と大久保が、土佐藩主との長い対談を終えて、城の外へ出たのは、夕刻だった。
二人は、城外の道を、肩を並べて歩いている。
「大久保、おぬしが言ったことはまことか・・。」
小松が、不審そうな顔をして、大久保に尋ねた。
「何が、です。」
大久保が、振り向きもせず、そう言った。
「アダムス卿が、戦艦を率いて日本に来ると・・。」
小松が、更に尋ねる。
「さあ、わかりませんな。ひょっとしたら、あるかもしれませんぞ。あの方は、ナタリー様を目の中に入れてもいたくないほど可愛がっておられると、聞きおよんでおりますからなあ・・。」
大久保は、そう言うと、無邪気に笑った。
「おぬし、嘘が発覚したらどうするのだ!」
小松が、あきれ顔で、大久保を正した。
「要は、土佐藩が佐那河内から手を引けば、後は、時流の勢いが解決します。仮に、山之内様が、私が嘘をついたと責め立てれば、私が腹を切ればいいだけのこと・・。」
大久保はそう言うと、呆然と立ちすくむ小松をしり目に、声を出して笑い、すたすたと歩いて行った。
この男、知恵だけでなく、度胸も一流であった。
大久保の藩主山之内への脅しは、効果的面だった。苛烈を極めた、土佐郷士への土佐藩の弾圧は、波が引くようになくなっていった。ただ、捕縛された竹内半四郎の身柄は、自由にされなかった。
(義親、阿波を去る)
義親の阿波の屋敷の庭に、義親のお庭番が佇んでいた。
「お前の腕を見込んで、ただ一人、土佐に送り込んだ忍びだ。京成達に知られてはいまいな・・。」
縁側に立って、暗闇で佐喜治の方を向いたまま、義親がそう言った。
「はあ。」
佐喜治は、消え入るような声でそう答えた。
「ところで、動きはあったか・・。」
義親の声も、合わせたように小さくなった。
「薩摩藩家老の小松様と大久保という薩摩藩士が、土佐藩主山之内様と会談したようです。城の中には忍び込めませんでしたが、かなり長い話し合いだったようです。」
佐喜治の報告に、義親は、何か考えているようだった。
義親の沈黙を確認すると、
「彼らは、崎田弥次郎の説得に応じて、土佐にやって来たのではないかと思われます。三人が、一緒にいる所は見ていませんが、崎田が薩摩へ行く船に乗るのを目撃しました。この崎田という男、改革派諸藩の重要人物との調整役で、全国を飛び回っている男です。幕府お庭番の間では、かなり知られた男でして・・。」
佐喜治は、自分の手に入れた情報をすべて話した。
「その男、右衛門殿を家に泊めた男か・・。」
義親は、思いだしたかのように、崎田弥次郎のことを佐喜治に確認した。
「はあ、右衛門様と春さんは、今でもその男の兄の家で滞在しているのかもしれません。何せ、手下も潜り込んでいないので、すべての状況は把握しかねます。」
佐喜治は、少し言い訳も込めてそう言った。
「お前の言う通りだ。厄介をかけるのう・・。」
義親が、佐喜治をねぎらった。
「いえ、そのようなことは・・。」
佐喜治は、義親のちょっとした気遣いが、たまらなく好きだった。
「佐喜治、土佐はこのへんにして、高松へ行ってくれるか。なるべく、京成等に分かるようにな・・。わざとらしく、うろついては困るがな・・。」
義親は、そう言うと、自分の言葉が面白かったのか、小さな声を出して笑った。
義親の笑いが、佐喜治の緊張を解いた。
「殿、いったい土佐で何が起こっているので・・。」
佐喜治は、忍びらしくなく、質問を義親にした。自分のやっている勤めが、どういう意味があるのか、どうしても聞いておきたかったのである。
「うん。お前が知りたがるのも無理はないが・・。もちろん、右衛門殿が、春の過去の恨みを晴らすという情報は、お前から聞いてはいるが・・。おそらく、右衛門殿には、他に目的があるのだ。」
義親は、佐喜治の疑問に、嫌がる様子もなく応じてくれた。
「これだから、義親様は、信頼できるお方だ・・。」
佐喜治は、主人を心底尊敬していた。
「それで、殿は、右衛門様の真意をご存じで・・。」
佐喜治が、そう聞いた。
「おそらく、右衛門殿は、死を覚悟した勝負に出るのかもしれん・・。あの死闘を繰り返した剣豪がな・・。」
佐喜治は、身を乗り出して、義親の言葉を待った。
「井伊殿の命・・。」
義親は、そこまで口にしたが、余りにも重大な話だったので、いかに腹心でも、言っていいものかためらった。
しかし、義親のためらった言葉だけで、伊佐治には十分理解できたのである。
「ところで、殿は、これからどうなさいます。」
佐喜治が、話題を変えた。
「江戸に帰る。相手にスキを作らねば、あのお方は、四国へ、のこのこ足を運ぶまい・・。」
義親の意味深な言葉を、佐喜治はすべて理解して、暗闇の中でにやりと笑った。
(一方、佐那河内では・・)
「井伊を斬る」 右衛門が思わず口走った言葉を、辰雄が源一郎に打ち明けた。
弥吉、陽明、源一郎が、丘の上の屋敷の奥の小部屋に集まった。
「叔父上は、井伊を斬ると言っていたらしい。」
源一郎が、口に出せない言葉を紙に書いて、陽明と弥吉に見せた。
「それは本当ですか。」
弥吉が、真剣な顔をして源一郎にただした。
「辰雄さんが、そう言っていたのだ。叔父上は、一瞬、思いつめた顔になって、そう言ったと・・。」
源一郎が、胡坐をかいたまま、腕を組んで、辰雄の言葉を二人に打ち明けた。
「それじゃあ、思いつめていない前の顔は、どんな顔だったのだ・・。」
陽明の言葉に、弥吉と源一郎が目を合わせた。
「冗談を言っている場合ではないかと・・。」
源一郎が、陽明を叱責する前に、弥吉が陽明を咎めた。
何ともばつの悪い時間が流れ、三人は口を出すのを譲り合った。
しばらくして、
「すまん。しかし、叔父上は、どうやって・・。」
そこまで言って、陽明が口をつぐみ、周囲を見渡し、天井を見上げた。
「そうだな、用心に越したことはない。」
そう言って、源一郎が、人差し指を口に当てた。
「もし辰雄さんのいうことが、本当だったら、蔵の兵器は、薩摩に売り払った方がいいな・・。」
陽明が、そう提案した。しかし、弥吉も源一郎も、判断しかねている。
「もし、叔父上の言う通りにならねば、この地は丸裸になるぞ。最新鋭の武器がないのに、大軍とは、戦えん・・。」
源一郎は、陽明に同意することも、反対することもできず、迷っていた。
「あの兵器を売り払えば、十数万両にはなるでしょう。それだけの財力があれば、佐那河内の住民ごと蝦夷へでも引っ越せますよ・・。」
弥吉が、冗談とも真剣ともとれない提案を出してきた。
「お前は、いいよな。ナタリーと外国船に乗ってエゲレスへ行けば、アダムス卿が歓迎してくれるものな・・。」
源一郎が、陽明の顔を見ながら、そう言った。
陽明は、彼の言葉に反論できなかった。
陽明に届くアダムス卿からの便りは、イギリスへの帰国を促す文面ばかりであった。アダムス卿は、自分たちの家系に、天才の知能の血が欲しかったのである。陽明が、ナタリーと結婚したことで、思惑通り、彼の狙いは達成された。イギリスの貴族というものは、日本の大名以上に、家系中心主義者が多かったのかもしれない。
今のアダムス卿にとって、日本との貿易より、若夫婦が、名門貴族の家系を、今以上に誇り高き家名に押し上げてくれる方が大事だったのである。そのことからしても、大久保が言うように、アダムス卿が、イギリス海軍を動かし、艦隊を日本へ差し向けるなど、荒唐無稽のほら話だったのかもしれない。
「しかし、与助様と又五郎様が、どう言うか・・。」
弥吉が、不安そうに、そう言った。
「あの二人には、黙っていなくては・・。叔父上の考えていることが分かれば、この地からすっとんで行きかねん。それに、我らの集団逃走など話したら、わしらの首元に刀の刃が当てられるかもしれんぞ・・。(天井の方を指さして)それにしても、叔父上は、高松藩まで行って、本当にやる気なのかな・・」
源一郎は、そう言うと、二人に向かってにやりと笑った。しかし、源一郎にしても、誰かが天井に潜んでいるかどうかは、分かっていなかった。いたとしても、その気配は、完全に押し殺されていたのである。ただ、自分たちが話した本当の内容は、絶対に知られてはいけないことだけは、心得ていた。
「決まりだな・・。弥吉さん、近いうちに武器を薩摩に運んで下さい。島津公らが、首を長くして待っていますよ。」
陽明も、源一郎の合図に乗って、仮想密偵に聞かせるように、そう言った。
佐那河内から阿波に抜ける山道に入る入口で、村への侵入者の警戒をしていた丹波が、月明りのある夜の道を、とぼとぼと歩いてくる猟師風の男に気が付いた。
「おぬし、今頃、この道を抜けて、何処へ行くつもりだ。」
丹波の声に、男が立ち止まる。
男は、黙ったまま、月明りを頼りに、丹波の顔を見た。
「権蔵の子せがれか・・。お前のかなう相手ではない。黙って引き下がれ。権蔵とは、敵とはいえ、長い付き合いだ。その子を殺すのは、後味が悪いからな・・。」
男は、そう言うと、不気味な笑いを、丹波に見せた。
「お前、京成だな!」
丹波は、そう言うと、後ろの腰に差していた小刀を抜いて、京成の攻撃に身構えた。
「仕方ない・・。権蔵には悪いが、これも忍びの定めだ。成仏せい!」
京成はそう言うと、藁に包んだ刀を取り出し、ゆっくりと刀を抜いた。
丹波は、その瞬間、自分の体が、凍り付いたように動かなくなっているのに気づいた。
京成と言えば、伝説の忍びである。どう考えても、勝てる相手ではなかった。自分をいくら奮い立たせても、体が動かなかったのである。そして、滝と子供の顔が、頭をよぎった。いつの間にか、丹波は、悔しさで、目に涙がたまってくるのを必死で隠した。
その時、遠く向こうの方で、マイケルが道に片膝ついて、京成の背中を狙っているのが、月夜の光で、ぼんやり浮かんできたのである。
「運のいい奴だ・・。」
丹波が気づく前に、京成は、後ろの気配を察知していた。京成は、マイケルの銃が自分の背中を、確実に標的として定める前に、さっと横道にそれると、一目散に丹波の前から走り去ったのである。丹波には、その影を追跡する気力は、残っていなかった。
「丹波!大丈夫?」
マイケルの声に答えるかのように、丹波は、苦笑いをしながら、小刀を持つ手を大きくかざした。
(井伊の屋敷)
「土佐にいる配下の知らせでは、山之内様は、迷っている様です。私とは、いったんは、我ら連合軍を受け入れると、承諾なされたのですが・・。薩摩から小松が来ると、一転、迷い始めて、最近では、藩内の倒幕分子の取り締まりも、だいぶ緩んでしまったようです。」
井伊藩家老 坂谷太助の知らせに、井伊祐直の表情が曇った。
「小松は、何を言ったのじゃ。それにしても、山之内は、評判倒れの臆病大名じゃのう・・。」
井伊は、そう言うと、京成の報告を待った。
「さすがに、城内に侵入するには、危険すぎまして・・。もし、そのことが、山之内様に発覚すれば、殿への不審に繋がりかねませんので・・。」
京成は、小松との会談の内容は、把握していなかった。
「土佐に忍び込ませた私の配下の者が、土佐藩家老 金崎文藏から聞き及んだ話では、薩摩は、近々、京の天子様の宣旨を受けて、京都御所の警備に大軍を率いて上京するのではないか・・と、小松が山之内様に語ったのも、その辺の話ではないかと・・。ただ、それ以上のことは、なかなか、掴めませぬ。」
坂谷は、京成の情報がないのを知ると、自分の優位を確信して、井伊にそう言った。
天皇が、薩摩藩を頼りにしているのは、井伊の耳にも入っていた。それ故に、坂谷の情報は、十分ありうる話であった。
「そのことなら、佐那河内の右衛門の甥たちと弥吉という大前屋の商人も、そんなことを言っておりました。そして、薩摩の派遣軍のために、佐那河内にある最新鋭の武器をすべて、薩摩に売り渡すとか・・。かなり真剣に話し合いをしていたようです。」
京成は、坂谷の情報量に劣るわけはいかなかった。それが、天下随一の忍びの誇りである。
「予想はしていたが・・。早々、悠長に構えてはいられなくなったな・・。坂口は、会津様に、近々、大軍を四国に送り込む故、援軍を出すよう要請してまいれ。」
佐那河内殲滅作戦では、焦りは禁物・・と、自分に言い聞かせていた井伊ではあったが、佐那河内と薩摩が、京都遠征軍の一件で、はっきり繋がったことで、焦りを感ぜずにはいられなかったのである。
「しかし、土佐様が、わが軍受け入れを確約しない限り、四国上陸の作戦が成り立ちませんが・・。」
坂口は、井伊の勇んだ気持ちを見抜いたかのように、彼の作戦の欠陥を指摘した。
井伊は、何度となく、手に持った扇子を、自分の膝に打ち付けた。
「それに、・・」
京成が、苛立つ井伊の様子を見ながら、言いにくそうに、何か言おうとした。
「何じゃ!まだ何かあるのか。」
井伊の声が、ついつい大きくなった。
「義親様は、近々、阿波を離れ、江戸にお戻りになるようです。」
京成の言葉に、井伊祐直の表情が緩んだ。
しばらく考え込んだ後、井伊は、やっと口を開いた。
「今しかななかろう・・。京成、わしが土佐へ渡り、井伊・会津連合軍の受け入れるように、山之内殿を説得しよう。そうすれば、まさか、あの方もいやとは言うまい・・。(間をおいて)わしが言わせぬ。格からいっても、井伊藩藩主で、幕府筆頭老中の、このわしの目の前で、泥を塗るようなことは、土佐藩藩主ごときでは、できるわけがない。」
祐直は、そう言うと、京成の顔を見て、自分の決断の正当性を理解させようとした。
「しかし、それは、余りにも無謀かと・・。」
祐直の意に反して、坂口が、反対したのである。
「おぬしは、この大事な局面を、理解していないようだ・・。もし、我が大軍が、佐那河内を殲滅するより早く、薩摩が、最新鋭の武器を引っ提げて京へ上れば、進軍する先々で、援軍を得て、薩摩の軍が討幕軍に一変するかもしれんのだぞ!井伊藩は、江戸幕府と共に生き、共に、死ぬのじゃ。それが、我が藩の定めなのじゃ・・。(少し考えて)佐那河内の商人が、最新鋭の武器を薩摩に渡す前に、一刻も早く、佐那河内を壊滅せねば・・。おのれの命を心配しているようでは、徳川将軍を支える、井伊藩の存在意義と忠義心が、水の泡になってしまうかもしれんのだ!」
井伊は、自分の言った言葉で、自分を納得し、これからの自分の行動に、確信を持とうとしているようだった。その言葉を聞いた京成と坂口は、井伊の自信を持った言葉に、異を唱えることなどできないと思った。
「では、早速、殿の土佐行きへの準備にかかろうかと・・。(やや興奮気味に)殿のお命は、この京成が、命を賭してお守りする覚悟です。御安心なさいますように・・。」
京成はそう言うと、井伊に向かって、深々と頭を下げた。
井伊が、にこりと笑って、頷いた。ただ、坂口は、京成の芝居がかった言い様に、一抹の不安を隠しきれなかった。
井伊が退席した後、坂口と京成が、座敷に残った。
「おぬし、右衛門の事は、一言も殿に言わなかったが・・。」
坂口が、京成に、気にかかっていることを尋ねた。
「つかめていないのです。配下の知らせでは、高松にいるのではないかと・・。また、陽明や源一郎も、そんなことを言ってはいたが・・。」
京成は、納得がいかないように、首をひねった。
「大事な局面では、あの男が、必ず絡んでくる。わしは、気になって仕方がないのだ。奴が何を狙っているのか・・。考えすぎだろうか。」
井伊祐直が右衛門に関心がなかったことが、坂口には、主君の油断に思えてならなかった。
「わしも、坂口様と同じです。(少し考えて)何故かわからんが、右衛門は土佐にいるのではないかと、思えて仕方がない・・。わしは、あ奴との死闘が避けられるとは、到底思えんのです。これは、わしの忍びとしての勘ですが・・。」
京成は、坂口にそう言いながら、京士と京葉のことを思い浮かべていた。
(又五郎と与助)
志摩(与助の妻)と早苗(又五郎の妻)が、又五郎と与助を見送りに佐那河内のはずれまで来た時、
「うちの主人は、いびきがすごいので、与助さんは、気を付けてくださいね。」
早苗が、与助に忠告するように、そう言ったのを、思い出していた。
二人は、阿波から土佐の山越えに備えて、茶屋で一息入れることにした。
「又五郎殿、宿は別々の部屋で寝ましょうか。」
与助が、言いにくそうに、そう言った。
「お前、早苗の言ったことを気にしているな・・。これから、右衛門のために死を覚悟で助太刀するために、この山を越えようとしているのだぞ・・。いびきぐらいのことで、ひるんでいてどうする。」
又五郎は、茶屋の主人に作ってもらった大きな握り飯をほおばりながら、与助を一喝した。
彼らは、辰雄を与助の部屋に引っ張込んで、右衛門の居場所を突き止めたのである。
数日前にさかのぼる。
辰雄が、与助の部屋に招き入れられ、じっと正座をして座っている。傍らで、又五郎が、腕を組んで、目を閉じている。
辰雄にとって、与助と又五郎は、佐那河内の四強として、世間に名前が知られた剣豪であった。特に、又五郎は、以前、小野派一刀流の四天王でもあり、外見からして、右衛門と違って、仁王のように怖そうだった。
「どうだ、佐那河内の暮らしは、もう慣れたか・・。」
与助が、にこにこしながら、辰雄に聞いた。
「私にとって、この地は天国です。私と同じ年恰好の仲間が、気軽に声をかけてくれ、早苗様や志摩様は、私の姉の友達ということもあって、浪江に優しく何でも教えてくれます。」
辰雄は、大げさな気持ちではなく、正直、この地の連中に感謝していた。
「それに、お前は、新婚だしな・・。」
与助が、辰雄をからかうようにそう言った。
その時、又五郎が、
「つまらぬことを言うな!お前は、どうも軽い・・。」
そう言って、与助を一喝した。
その声を聞いた辰雄は、今まで与助の言葉で緊張がとけ始めたのが、一変に元に戻ってしまった。
「辰雄、右衛門と権蔵は、何処で何をしているのだ。」
又五郎が、そう言って、辰雄を睨んだ時、彼は正直に言わねば、半殺しの目にあうのではないかと思った。
又五郎にかかれば、辰雄など物の数ではなかったのである。そして、辰雄は、土佐で知っていることを全て、又五郎に話したのであった。
山麓の茶屋に戻る。
「ところで、ご主人、この山を今から越えようと思うのだが、支障はないか・・。」
与助が、茶屋の主人に聞いた。
「へえ、安心なさいませ・・。つい最近まで、山の中腹に、恐ろしい物の怪が住む家が、ありましてな・・。山で迷った旅人を、その小屋に誘い込んでは、自分たちで食い殺して食べていたそうです。ところが、この茶屋にも寄っていただいた御浪人が、三匹の怪物の誘いで、家へ入ったものの、その物の怪を返り討ちにして、たたき殺したそうです。朝になって、山の猟師が、御浪人が去ってしまった小屋の中を、恐る恐る見たところ、血まみれになった三匹の化け物が、死体で転がっていたそうです。世の中には、化け物より強い浪人がいるものだと、この辺の山の衆の間では、たいそうな評判になっておりますよ・・。」
茶屋の主人は、この話がよほど痛快なのだろう、口角泡を飛ばしながら、大きな声で、与助と又五郎に語って聞かせた。
二人は目を合わせると、
「その浪人、女を連れてはいなかったか。」
又五郎が、にやにやしながらそう言った。
「へえ、たいそうきれいな女の人で・・。その御浪人は、その人を’はる’と呼んでおりました。おそらく、後浪人の御内儀ではないかと・・。」
主人はそう言うと、又五郎の顔をじっと見た。
「ご主人、その浪人、化け物を退治するのも当然かもしれんぞ。」
与助が、二人の会話を聞きながら、そう言った。
「あなた方は、その御浪人をご存じで・・。」
主人は、身を乗り出さんばかりに、興味を示した。
「知ってるような気もする。何せ、わしも化け物と同じように、その男に殺されかかったからな。ずいぶん懐かしい話だが・・。」
又五郎は、右衛門と初めてあった頃の事を思い出していた。
「殿が、化け物を殺すのは当然なのだ。あのお方は、鬼と呼ばれているのだから・・。鬼が、化け物に負けるわけがないわ!」
まるで、自分が物の怪を殺したかのように、与助が、得意満面の顔をして、茶屋の主人に胸を張った。
(与助と又五郎が土佐に着く)
土佐にたどり着いた又五郎と与助は、夜が暮れて、人情長屋に住む権蔵の家の引き戸を叩いたのである。
「どうしたのです。」
引き戸を開いた権蔵は、目の前に立っている又五郎と与助を見て、思わず大声を出しそうになった。
「お前が、この長屋にいることを、辰雄から聞いてな・・。。」
又五郎が、にこにこしながら、そう言った。
権蔵は、辺りを見回しながら、急いで二人を部屋の中へ入れた。
「お二人は、どうして土佐へ来られたのですか・・。」
権蔵の口調は、厳しかった。
「そう咎めるように言うな・・。我らとて、右衛門が決死の覚悟で、この地へ来たと聞いて、放っておくわけにはいくまい。」
又五郎が、叱られた子供のように、権蔵に言い訳をした。すると、与助が、同意するかのように頷いた。
「困ったお人だ・・。この計画は、発覚すれば、その時点で失敗に終わるのです。それを、あなた方、佐那河内の四強が、この街をうろうろしていれば、京成の配下が気づかないはずがない。」
権蔵はそう言うと、ため息をついた。
「だからこそ、我らは、直接、殿には会わず、おぬしを訪ねたのではないか・・。」
与助が、権蔵に理屈を言った。
「与助さん、どうでもいいが、何だか疲れてますなあ・・。」
与助のやつれた顔を見た権蔵が、心配そうに尋ねた。
「又五郎さんのいびきのせいだ。部屋を別々に取ろうと言ったのに・・。一晩中寝れなんだ。それに、山下りと、土佐の町で、おぬしの住処を見つけるのに、歩き回って半日かかったしなあ・・。わしは、昨日から戦をしている様だった。」
与助は、そう言うと、又五郎の顔を恨めしそうに見た。しかし、又五郎は、素知らぬ顔で、権蔵の部屋を見回していた。
「仕方ない方々だ・・。ちょっとここで待っててくだされ。」
権蔵は、苦笑いをして、二人を残して外に出た。知り合いの食べ物屋に無理を言って、うどんと握り飯を作らせて、再び、自分の部屋に戻ってきたのである。
貪り食うように握り飯を左手に掴み、右手の箸でうどんをすする二人を見ながら、権蔵は、さっきから、困った顔をしながらも、苦笑いが絶えなかった。
「それで、右衛門は、本当に井伊を斬る気なのか・・。」
又五郎が、うどんをすすっていた箸を止めて、権蔵に尋ねた。
「又五郎様、そのようなこと、口に出されるな・・。この地では、周りはみな敵と思わねば・・。壁に耳あり障子に目ありです。」
また、権蔵が咎めると、又五郎は、叱られた子供のように小さく頷いた。
「しかし、あの方が、土佐に来る確信でもあるのだろうか・・。」
与助が、一番知りたいことを口に出した。
「少なくとも、右衛門様は、そう思っている様で・・。私には、理由は分りませんが、あのお方は、今まで自分の予想を間違えたことがない。その辺が、お二人とは、少し違っているのでは・・。」
権蔵は、二人の無謀な行動に、やっと一矢を報いたのである。
「嫌味を言うな・・。これでも、右衛門を思ってこその、決死の覚悟でこの地までやってきたのだぞ。」
又五郎の言葉に、与助が、深く頭を下げて、同調した。
「まあ、不幸中の幸いかもしれませんなあ・・。右衛門様は、この地で、弥次郎さんを通して、騒動を起こすための同志を募っておるのですが・・。なかなかうまくいっていないようです。なにせ、最近まで土佐の改革派の武士は、相当、役人に捕縛されて、捕まったものの中には、苛烈な拷問を受けた者もいるとのこと・・。弥次郎さんが、同志にいくら奮起を促しても、現実の厳しさを見ると・・。」
権蔵が、最近の状況を、二人に語った。
「弥次郎とは、浪江の兄の崎田弥次郎か・・。」
与助が、思い出したようにそう言った。
「はい。この地で右衛門様が、一番頼りにしておられる土佐の武士です。」
権蔵が、与助に答えた。
「権蔵にそう言われると、土佐に来た甲斐があると言うものだ。」
与助は、そう言うと、又五郎の顔を見た。
彼は、残った握り飯をうまそうにほうばっていた。
「ところで、お二人は、明日から、雲水に化けてもらいますよ。」
厳しい顔で、権蔵が、二人に命令した。
「髪も剃るのか・・。」
又五郎が、いやそうな顔をした。
「もちろんです。雲水の衣は、私が用意しますから・・。」
権蔵は、又五郎にいやとは言わさぬ気迫で答えた。
「懐かしいなあ・・。わしは、殿と見能林を出る時、雲水姿になったのだ・・。」
与助は、むしろ、雲水姿になるのが、嬉しそうであった。
(忍びの権蔵)
「彦六(忍びの権蔵の偽名)さん、今日の極上の魚は、店に出さずに置いておいてくれ。」
魚河岸魚善の店主 幸三が、彦六に、大きな声でそう言った。
権蔵は、高鳴る鼓動を押さえながら、
「一体どうするんです。そんなに大事な魚を全部仕舞い込んで・・。」
権蔵は、すでに二か月余り、土佐一番の魚屋 魚善にもぐりこんで、この日を待っていたのである。
「これは、土佐藩ご家老 金崎文藏様の屋敷から直々のご命令でな・・。何でも、金崎様の屋敷に、いまだかつてないほどの賓客が、御出になるそうなんだ。これは、ここだけの話で、他言は禁物だよ。」
店主の幸三は、そう言うと、口に人差し指を当てた。
「そりゃもう・・。それで、その饗応は、いつなので。」
権蔵は、できるだけさりげなくそう聞いた。
「この役目は、魚の目利きの彦六さんにだけ話しとくがね・・。明日までに、選りすぐりの魚を用意しなくてはならないんだ。明後日のおもてなしに、最高の料理をお出しするためにな。」
権蔵の仕事を信頼しての幸三の依頼であった。権蔵は、鮮魚の目利きができる能力を利用して、魚河岸に潜り込み、情報を入手するやり方を得意としていた。もしかしたら、魚屋として商売を始めれば、それなりの店を構えられたかもしれない。忍びと言っても、権蔵ほどのレベルになると、何かの分野で、専門家になれるほどの知識を身に備えていたのである。
一方、右衛門は、崎田の家でずっと厄介になっている春と別れて、弥次郎の友人で梅本英人という郷士の家の二階に、潜伏先を移していた。この梅本という男、弥次郎の盟友であり、共に、討幕を目指す過激派武士の一人であった。
彼の家は、決して立派とは言えないが、本人のきれい好きな性格もあって、いつも整理・清掃が行き届いた心地の良い住み家であった。右衛門は、そんな梅本の家の一画を間借りしていたのである。
天井に気配を感じた右衛門が、権蔵に声をかけた。
「何かあったか・・。」
右衛門は、陽明から借りた数学の本を読んでいるが、さっぱり理解できない。しかし、なぜか、その数字の羅列が、物の真実を語っているようで、面白おかしい読み本を読むより、こうしてこの本を眺めているだけで、自分の到底理解できない世界に迷い込んだようで、何故か心地が良かったのである。
「動きがありました。」
権蔵の言葉に、右衛門が本から目を離した。
「ほう、動きそうか・・。」
権蔵に、そう聞いた。
「おそらく・・。明後日、家老金崎の屋敷で、大がかりな供応があるようで・・。金崎の使用人は、いろいろな調度品を揃え、極上の料理を準備するために、走り回っているようです。わたしの働く魚河岸にも極上の魚の注文がありまして・・。」
心なしか、権蔵の言葉が興奮気味であった。
「おそらく、それだ。あの方がやってくるための仕掛けは、十分やってきたからな。この釣り針に食いつかない魚は、よほど用心深いが、あの方は、それほど気長な方ではない。それが、権威者というものだ。思いたてば、止められなくなるのだ。自分のはやる気持ちがな・・。」
右衛門の独り言のような言葉に、権蔵は、かつて仕えた柳生義親にもない、知略家としての鋭敏さを、右衛門に感じ取っていた。
「この人は、大きな権力を手に入れられるだけの、まれにみる天賦を兼ね備えている・・。それなのに、なぜ、自分のためにうまく立ち回らないのだろう・・。」
権蔵は、右衛門の能力を高くかっていた。
権力者というものは、どんな理屈を言っても、まず、自分が第一なのである。その私心こそ、敵を倒していく原動力になっていく。しかし、右衛門は、その執拗な私欲に欠けていた。権蔵が、長年仕えた義親にしても、一見そんな私欲は持っていないように見えるが、ひとたび、自分の権力が脅かされた時の激しい敵対心は、ものすごいものがあった。もっとも、尾張の柳生吉重が死んでからは、どこか世の中を達観したようになってしまったが・・。それゆえ、権蔵は、義親が権力の頂点に返り咲くことはないと、確信していた。それに反して、右衛門は、義親ほど老け込む年齢でもなかったのである。
「それで、一緒に行動する同士は集まりましたか。」
権蔵は、そのことが気にかかっていた。いくら、井伊が、極秘に土佐藩主 山之内と会談すると言っても、五十人や六十人の護衛がいないわけがない。それより気にかかることは、京成が、井伊の護衛に来るのは間違いないことだった。そうなると、京葉、京士が、京成と一体になって、忍び最強の必殺剣を右衛門に仕掛けてくるのは避けられないと、権蔵は、自分の長い忍びの経験で確信していたのである。
「崎田弥次郎殿が必死で動いてくれたが、八人ほど集めるのが精一杯だった。ここの家の主の梅本殿を入れて九人・・。そんなところだ。」
予想はしていたが、右衛門のその言葉に、権蔵は絶句した。権蔵は、又五郎と与助が、この土佐で潜伏していることを、右衛門に告げようと思ったが、彼の性格のことを考えて、黙ってしまった。もし、その二人のことを話せば、十分な同士が集まったと楽観するような気がしたのである。
「九人では、余りにも無謀では・・。それに、相手が多勢と分かれば、その九人も、ひるまないとは断言できなし・・。」
権蔵は、いつの間にか、戦いに消極的になっていた。
「いいのだ・・。わしは、一人でも斬り込むつもりだ。この一戦は、勝つための戦略ではない。自分の意思を通す最後の一戦なのだ。死をもって、自分を試してみたいのだ。(少し沈黙が続いて)とんだことに、権蔵を巻き込んだな。すまん・・。」
右衛門は、そう言うと、天井の方をちらっと見ると、軽く頭を下げた。
右衛門の言葉に、熱くなった権蔵は、
「わしを、そんな一戦に選んでくれたことだけで、わしは、右衛門様に礼の言いようもないです・・。この権蔵、命を捨てて、最後の忍びを勤めきってみせますわ。」
権蔵は、目から涙が流れているのに気づいて、思わず苦笑いをしてしまった。
(佐那河内と薩摩の接触)
井伊祐直が土佐に来る情報が、発覚する数日前、陽明と弥吉は佐那河内の蔵に置かれていた外国から輸入した最新鋭の大砲、銃などの武器を船に詰め込んで、薩摩沖に停泊した。
取引の交渉には、佐那河内から弥吉と陽明が、薩摩藩からは、薩摩藩主 島津明定、家老 小松清三郎、大久保万蔵、それに何故か、土佐の崎田弥次郎が列席した。弥次郎という男、いくつかの雄藩藩主と知己を得ていて、国政級の相談にも、何度か出席した経験を持つ、得体のしれない男であった。ただ、島津公に会うのは、初めてだった。
弥次郎の顔を見た島津明定は、一瞬眉をひそめた。
その表情に気づいた大久保が、すかさず、
「この崎田弥次郎という男、土佐の藩士であります。右衛門殿の友人ということで、列席させました。なお、越前福井藩の松平俊悦様とも親交のある人物でして、広く世の中の情勢に明るい男です。」
明定は、二人の名前を出されて、渋々納得したようだった。
「俊悦様は、幕府改革派の旗頭、わしもよく存じておる。(それでもなお、弥次郎に不審そうな視線をおくり)右衛門とは、ここにいる陽明君の叔父で、薬士を斬った日の本一の剣豪と聞くが、おぬし、右衛門の剣さばきを見たことがあるのか・・。」
明定は、むしろ、そのことに興味があった。
「はあ、一度、友人の道場で・・。」
弥次郎は、臆することなく、明定の顔を見ると、笑顔を見せた。
「どうじゃ・・。やはり、日の本一と名乗るにふさわしいか。」
いつの間にか、明定は、陽明や弥吉がいるのを忘れて、剣豪としての右衛門のことを弥次郎に聞いていた。
「本人は、おそらく、日本一など一向に興味を持たぬお方かと・・。ただ、土佐で一二を争う使い手の竹内というわが友の一撃を、苦もなくかわし、鮮やかな一本をとったのを見た時、この男とは、剣を交えるなど考えない方が賢明だと、すぐに悟りました。」
弥次郎の言葉の言い回しを聞いていた陽明が、皮肉を込めたうすら笑いを浮かべた。
「この男、太鼓持ちのような匂いがする。なるほど、地位の高い人物には気に入られそうだな・・。しかし、叔父上は、このような男は嫌いなはずだが・・。」
陽明は、少し不思議に思った。ただ、弥次郎の明晰な判断力と将来を見通す洞察力は、この会話からは、理解できなかったのは、当然であるが・・。
「ところで、陽明君、どうして沖合に停泊した最新鋭の武器を港に荷揚げしないのだ。わが藩の提示した十二万両では不足か。」
明定は、陽明の方を向くや否や、交渉の本題に入ってきた。
「いや、金の方には問題はありません。(弥吉の方を向くと、彼が頷いた。)ただ、もし、我々の武器を売り払えば、佐那河内は丸裸になり、井伊様の軍隊が攻め込んでくれば、我々は、集団で逃げ出すしか術がございません・・。そこで、武器の引き渡しの条件に、薩摩軍を京へ向かわせることを確約してもらいたいのですが・・。」
陽明はそう言うと、真剣な目で、明定を見た。
明定は、答弁させるべく、小松に視線をやった。
「その件は、連日評議をしており、家臣の間でもいろいろな意見が出ております。ただ、殿の御意志は固く、京への進軍はいずれ決行されると思いますので・・。」
明定と小松は、陽明の質問を想定して、予め用意した解答を出してきた。
「そんなあいまいな回答では、陽明さんが納得するはずがない。」
陽明が言おうとした言葉を、弥次郎がいきなり割り込んできて代弁した。
陽明は、静かに頭を縦に振って、弥次郎に賛同した。
「しかし、今のところ必勝の確信がないのです。もし、井伊様が我らの進軍を武力で阻止しようとしたら、いかに最新鋭の武器を持っていたとしても、兵の数では圧倒される恐れがあるので・・。」
小松の横にいた大久保が苦しそうな言い訳をした。
「それでは、井伊様がいなくなるとしたら、どうします。」
陽明が、ぽつりと、そう言った。
驚いたのは、島津明定と小松、それに大久保だった。三人は、目を合わせて、この言葉の真意を確かめる役目を誰にするか、決めかねているようだった。
「それは、どういう意味かな・・。」
結局、明定が、そう聞くしかなかったのである。
「右衛門殿なら、土佐で事件を起こしても、土佐藩に何の遠慮もありますまい。あの方は、数々の策謀を成功させてきが、ただの浪人でしかない。」
弥次郎が、にこにこしながらそう言った。
先の土佐藩主との話し合い以来、何か他に目的があるのではないかと疑っていた大久保が、弥次郎の意味深な言葉に、何かにはっと気づいた。
「もしや、おぬしら・・。しかし、あの方が土佐を訪れるとは考えられんが・・。」
大久保の言葉に、明定と小松は、ますます理解できなくなってきた。
「いや、必ず、あの方は土佐に来る。これは、わしではなく、右衛門殿がそう確信して、わしに言ったことですが・・。」
弥次郎の言葉に、初めて、明定と小松が弥次郎の計画に気が付いた。
「それは本当か。」
明定が、すかさず、陽明に右衛門の計画の真偽を確かめた。
「叔父上は、いまだかつて、狙った獲物は、外したことがありません。」
陽明はそう言うと、にやりと笑った。それに合わせるかのように、側にいた弥吉が、頷いた。
「佐那河内殲滅を目論んでいる井伊が、土佐藩の助けを求めても不思議はない・・。そう考えると、わしらと山之内との会談は、井伊の誘いに迷っている山之内を揺さぶって、井伊を土佐におびき寄せる誘いだったのか・・。」
大久保は、やっとあの会談の他の目的を理解した。
「殿、右衛門様の計画次第では、京への進軍のこと、お約束なさっても、いささかの障りはないかと・・。」
大久保は、小松を通り越して、明定に直接進言した。
すると弥次郎が、
「そのためにも、薩摩の浪人を二十人ばかりお貸し願えないでしょうか・・。右衛門殿の計画を成就するには、どうしても必要なのです。」
そう言うと、椅子から離れ、明定に向かって板の間に両手をついて、深々と頭を下げた。
しばらく沈黙が続き、
「あの薬士を斬った男だ。信用してもよかろう・・。(小松の方を向いて)後は、お前に任せる。」
島津明定は、そう言うと、勢いよく椅子を立ち上がり、沸き立つ興奮を隠すかのように、一瞬、天井を仰いだかと思うと、黙ってさっさと立ち去ってしまった。
小松は、いよいよ動き出した大きな動きに奮い立ち、身震いが止まらなかった。
(決戦)
右衛門と梅本英人(弥次郎の盟友)が、金崎文藏(土佐藩家老)の屋敷に向かっている。
辺りは、すでに薄暗くなりかけていた。二人は大通りを通るのを避けて、家並みもまばらな小さな路地を肩を並べて歩いている。
「右衛門様は、落ち着いておられるようだが、いつも決戦の前は、そのように冷静にいられるのですか・・。」
英人が、右衛門の顔を見て、そう言った。
今日の朝、右衛門は、英人が出した食事を、いつものように全て平らげていた。昼になって、そっと障子を少し開けて、右衛門の様子をうかがうと、腕枕をして、すやすや寝ているのである。それに反して、英人は昨日の夜からほとんど寝ていなかった。もしかしたら、生きていられるのも今日までかと思うと、自然と体が震えだすのである。
そんな時、「わが身を犠牲にして、この国を救ってみせる。」と自分に言い聞かせると、今度は、熱い思いが全身を駆け巡る。どちらにしても、心の安らぎなど、ひと時も感じる事の出来ない時間が過ぎ去っていったのである。
「もし、化け物が夜中に襲ってきたら、梅本殿は今のようにいろいろ考えるかな・・。」
右衛門は、英人の緊張した様子を見かねて、妙なことを言い始めた。
英人は、右衛門の問いに、どう答えたらいいのか迷っているようだった。
「そうなったら、恐ろしさで、刀を振り回すしかないでしょう・・。」
これが、英人の返答だった。
「そうだろう。そうなったら、緊張するなどと言ってられない。恐ろしさで、無我夢中だ。
もし、無意識のくそ力で刀を振り回し、気づいてみたら、化け物が血を流して自分の目の前に転がっていたとしよう・・。それは、自分の剣の力量とか、精神力の強さからとか自分なりに考えて、化け物を倒したんじゃないはずだ。やらなければ、やられるその一心だと思う。そんな無我の心境を味わってみたいと思わないか・・。」
右衛門は、そう言って、英人の顔を見て、にやりと笑った。
「この人は、こんな状況で、冗談を言っているのだろうか。」
英人は、半ばあきれたように、右衛門を見返した。
「私は、今夜、化け物を斬りに行くつもりだ・・。もし、その化け物への恐怖が蘇れば、必ず、わしは、奴らを倒すと思う。要するに、不安とか緊張とか感じている次元でこの死闘を捉えているようでは、この決戦を乗り越えられないのだ・・。化け物を前にして、自分の究極の限界を経験した時、自分という生き物は、どんなふうに変わってしまうのか・・。今の私は、そのこと以外に興味がないのだ。」
右衛門は、そう言うと、英人の聞きたかった質問には、答えることもなく、笑みを浮かべてすたすたと歩いて行った。
「この人は、これから繰り広げられる死闘に、心躍らせているのだろうか・・。」
英人は、右衛門が目を輝かせながら言った言葉を、そう理解した。
夕日に照らされて、ぼんやりと浮かび上がった右衛門の背中を見ていた英人は、初めてこの男の薄気味悪さを感じたのであった。
家老の屋敷にはかがり火がたかれ、屋敷の外までその明かりが周辺を照らしている。
門の警備には、数十人の侍が、不審な人物を見逃さないように、一種独特の緊張感をみなぎらせ、辺りを見張っていた。
土佐藩主 山之内洛陽、井伊藩主 井伊祐直、それにその側近たちが、奥の間で協議をしている最中であった。両藩主の隠密の会談だっただけに、大げさな警備を嫌った井伊祐直は、京成とその配下の護衛に全幅の信頼をおいて、他には、井伊藩の護衛の武士数人を連れてきているだけだった。そんな理由で、屋敷を守る武士は、七十名ほどの土佐藩士しか屋敷にはいなかったのである。
最初に、動いたのは、権蔵だった。
屋敷の中に、焙烙(ほうろく、小爆弾)が投げ込まれ、夜警をしていた武士たちの中庭で、爆音をたててさく裂した。辺りは、瞬く間に混乱に陥り、護衛の藩士たちの叫ぶ声が、夜空にこだました。すると、その騒ぎを聞きつけた京成達忍びの者が、一斉に正面玄関の中庭に集まって来た。玄関から庭を挟んで正門まで続く小道は、刀を抜いて走り回る武士たちでごった返していた。
京成に続いて、奥の間から、何事が起きたのかを確かめに、山之内、井伊の両藩主が、玄関の板の間に現れた。
「騒ぐな!前に教えた通り、三つの隊に分かれて、外からの襲撃に備えよ!」
京成の命令が下り、武士団は、二十人程度の三つの隊に別れた。そして、かがり火が勢いよく燃やされ、正門の外の襲撃に備える体勢が、手筈通り整えられた。
すると、門外へ真っすぐ続く広い道から十人ほどの土佐の郷士の一団が、ものすごい声を上げながら、刀を抜いて、二人の藩主のいる正面玄関目指して、正門を突破しようと駆けてきたのである。
「一番隊、奴らを迎え撃て!」
京成の叫び声と共に、二十人ほどの武士団が正門を出ると、襲撃してくる土佐の郷士の集団と交戦し、両者入り乱れて、斬り合いになった。
戦いの形勢は、人数に勝る護衛団が、襲撃してきた武士団を押し戻し始めた。
その情勢を見ていた、山之内と井伊は、奥の座敷に戻ろうともせずに、薄笑いを浮かべて、味方の優勢を眺めていた。
「殿、ここは危のうござる、奥の座敷に・・。」
二人を、傍らで護衛していた京成が、井伊と山之内に促した。
「まだよかろう。奴らの敗走をこの目で確かめるまでは、奥にいても気が落ち着かぬわ。」
井伊が、そう言って、山之内の顔を見た。それに応じるかのように、山之内が、薄笑いを浮かべながら、大きく頷いた。
すると、次の瞬間、予期せぬことが起きた。弥次郎を先頭に薩摩の武士団二十人余りが、郷士の劣勢に助太刀するように、暗闇から飛び出てきて、次々と警備の藩士たちを斬り倒し始めたのである。今度は、襲撃してきた集団が、じわりじわりと金崎の屋敷に迫ってきた。しかし、京成には、慌てた表情はなかった。
「二番隊、押し出せ!」
京成の大きく響く声につられるように、二番隊の二十人余りの警護団が、門前に迫る両者の斬り合いの中に突っ込んでいったのである。
しばらくすると、戦いは膠着状態に陥った。襲撃してきた薩摩兵は、示現流の門弟たちが主流であった。人数で優る護衛兵に一歩もひるむことなく、じりじりと正門に戦いの場所を進めているように見えたのである。
「何をやっておるのじゃ。相手は三十人程ではないか・・。三番隊、加勢して、奴らを一挙に踏み潰せ!」
さっきから、情勢を見ていた井伊祐直が、京成の作戦を無視して、三番隊に命令を下した。
最後の護衛隊が、斬り合いの中に突っ込んでいく。しばらくすると、さすがに多勢の攻撃に苦戦し始めた襲撃集団が、正門の向こうへと後退し始めた。
「山之内殿、どうやら決着はつきそうじゃ。ただ、奴らの謀反の後始末、しっかり頼みますぞ・・。」
井伊は、鋭い目で山之内の方をじっと見た。
「井伊様には、見苦しい不始末をお見せしてしまい・・。まことに、言い訳の仕様もございません。」
山之内は、そう言うと、井伊に向かって深々と頭を下げた。
井伊が、視線を戦場の方に戻すと、何やら怪しげな二つの影(坊主頭の与助と又五郎)が、戦いのまっただ中に入っていったかと思うと、風にそよいでいる草木が、鋭い刃物で次々と刈り取られるように、薄暗い明かりで照らされた地面に倒されていったのである。
二つの影の光る刀の軌跡は、まるで飛び交う蛍の明かりのように、黄色い光の線となって、夜のとばりを背景に、不気味に左右に動いていた。程なく、再び形勢は逆転して、襲撃集団の塊が、正門に迫ってきたのである。
「右衛門!今ぞ井伊を狙うは・・!」
戦場から、又五郎の凄まじい叫び声が、夜空にこだました。
その声に、ぎょっとして、井伊が正門にじっと目を凝らした。すると、正門を守る三人の兵士が、あっという間に、左右に揺れる白刃の一閃で、真っ赤な鮮血を噴水のように飛び散らし、門の両脇に倒れ込んだのである。
「やはり、おぬしが現れたか・・。」
京成の顔に笑顔が浮かんだ。その間も、右衛門は、ずんずん井伊と山之内の立ちすくんでいる正面玄関に迫ってくる。それを阻止すべく、数人の武士たちが、刀を抜いて、右衛門の方に向かっていったが、数秒の間も彼の前進を止められずに、右衛門の前に沈んでいった。
「待っていたぞ!右衛門!」
井伊を護衛して、じっと傍らから離れずにいた京成が、初めて、玄関の三段の階段を降りて、右衛門と一直線上に向かい合って対峙した。
すでに、十人余りの護衛兵を斬り倒した右衛門は、激しい動きで乱れた息を整えるように、京成から五間(9メートル)程前で立ち止まって、静かに目を閉じた。
右衛門は、直線の延長上にいる京成と、自分の横に、黙って近づいた京葉、京士の気配を感じ取っていた。
突然、山中で物の怪が襲ってきたときのように、自分の体を真っ二つに斬り裂かれる恐怖が、右衛門の五感を揺さぶってきた。逆立つ産毛、不気味に迫るかすかな音、生臭い獣のにおい、人の血の味、全てが恐怖で混ざりあい、右衛門の生きる営みを支える感覚器官にまとわりついた。その時、右衛門は、自分自身も物の怪になってしまったのかもしれないと錯覚した。一瞬、右衛門は、閉じた目をかっと見開き、京成との距離感を確認すると、また目を閉じて、自分の周りの視界を遮断した。
再び、右衛門は、念仏を唱える僧侶のように、かつて山中で物の怪と出会ったときの究極の恐怖が、自分の五感に再来することを念じ始めていた。すると次の瞬間、陶酔し始めた自分の魂が、恐ろしい化け物の持つ残忍さを心の奥から呼び覚まし、人をかみ殺す野獣になり果てようとしていた。そして、自分の全ての五感を、獲物に飢えた野獣の持つ本能に従う感覚に同化させ始めていたのである。
突然、京葉がそんな野獣となった右衛門に襲い掛かりった。それに合わせるように、一体となった京士、京成が、動き出す。右衛門は、三人の中心点になるのを嫌い、右に足を踏ん張り、剣を抜くと同時に、刀を右に振り京葉を倒すと、手首を返して左に振って、京士の胸を払い、正面から迫る京成に、逆袈裟で天空に向かって白刃を跳ね上げた。
襲ってきた三人の忍びは、すでに佐那河内で、右衛門の動きの速さを体得したつもりでいた・・。それが、彼らの誤算になったのだ。自分たちの息を合わせた必殺の襲撃に対し、右衛門の太刀裁きは、以前、自分たちが右衛門の剣から体験した予想をはるかに超える速さで、彼らの体を斬り裂いていったのである。
右衛門の風を切るような動きの後、三人の忍びは、うめき声をあげる余裕もなく、真っ赤な鮮血を地面にしみこませ、息絶えた死人となっていた。彼の一連の動作の軌跡を、人の動体視力で確認することは、おそらく至難の技であっただろう。
三人の死体、右衛門の白刃から滴る血の滴・・。その有様を、やっと、現実のものとして確認できた金崎、井伊、山之内が、慌てて奥へ逃げ込もうとした。しかし、右衛門は、野獣のような戦いを制した余韻に浸ることなく、小走りで玄関の板の間に駆け上がり、金崎文藏の首をはねたかと思うと、休むことなく、井伊の背中を一刀両断に斬り捨てたのである。首を失った土佐藩家老 金崎文藏の身体は、ただの躯になり果てた。一方、井伊の顔には、今さっき何が起こったのかも理解できずに、自分にふりかかった災難をどうすることもできずに受け入れた、あきらめの表情が死顔に漂っていた。
右衛門は、恐怖で呆然と立ちつくす山之内洛陽の方をちらっと見た。
「山之内殿、わしを覚えておられるか・・。」
右衛門は、山之内にそう言うと、かすかに薄笑いを浮かべた。
言われた山之内は、初めて正気を戻したかのように、右衛門を見た。
はっとして、
「おぬし、見能林藩の・・。」
驚いた表情を浮かべた山之内を尻目に、右衛門は刀を鞘に納めると、すたすたと、正門の方に歩いて行った。
すると、右衛門の横を通り過ぎた弥次郎が、山之内の元へ走って行った。
藩主の前で膝をついて頭を下げた弥次郎は、
「殿!これ以上の殺し合いは、無駄な殺生かと・・。すでに、井伊様は、この土佐の家老屋敷で暗殺されました。殿は、いくら幕府に言い訳をしたとしても、反逆者の汚名は免れないお立場になりましたぞ・・。この上は、土佐藩は、討幕の旗頭として、薩摩藩に加わるしか、生きる道はございません・・。井伊様暗殺の知らせを待っている薩摩は、程なく京へ向けて、大軍を動かす手筈になっております・・。」
弥次郎は、主君 山之内の前で、土佐藩主としての生きる唯一の方策を、とうとうとまくし立てたのであった。
しばらくして、
「皆!刀をおさめよ!」
山之内の悲痛な叫び声が、夜の虚空に響き渡った。
土佐藩主 山之内の悲痛な命令で、戦いを止めた戦士達が、あぜんと立ちつくす目の前を、右衛門が、ゆっくりと歩いて行く。
「右衛門!」
夜の薄明かりの中、声をかけたのは又五郎であった。
右衛門が、ゆっくりと呼ばれた声の方へ視線を向ける。
「又五郎、与助!おぬしら、助勢に来てくれたのか・・。やはり、頼るべきは友だな・・。」
二人に気づいた右衛門が、そう言うと、感謝のために軽く頭を下げた。
「殿、御無事で何より・・。」
与助が、荒い息をさせながら、右衛門の顔を見て微笑んだ。
「おぬし等、坊主頭がよう似合ってるぞ・・。」
右衛門は、そう言うと、笑い声を出した。
それにつられるように、襲撃隊の武士たちの間で、笑いが漏れた。
右衛門は、その笑い声の方へ向き直り、何も言わずに頭を深く下げた。
すると、
「わしは、今まで勘違いをしていたのかもしれん・・。」
又五郎が、ぽつりと呟いた。
「何です。」
与助が、興味ありげに、又五郎を見た。
「うん。わしは、鍛錬を積めば、いつか右衛門に勝てる日が来るやもしれんと思おうていた・・。しかし、今の右衛門の死闘を見て、あり得ぬことがはっきりしたわ。わしは、おぬしと違って、野獣にはなれんからな・・。」
又五郎は、そう言うと、大きな声を上げて笑い始めた。
「又五郎殿がそう言うのも、もっともじゃ。わしの殿は、鬼じゃからなあ・・。」
与助が、誇らしそうに、見ている群衆に向かってそう言った。
また、辺りで笑いが起きた。
「与助!懐かしいなあ・・。お前と見能林を出た時も、わしらは坊主頭だったな・・。
今は、わしに変わって、又五郎が頭を丸めてくれた。」
右衛門はそう言うと、与助の方を向いて、にやりと笑った。
すると、又五郎が、いきなり真面目な顔をして、
「おぬしこれからどうする。」
右衛門に、そう尋ねた。
「まさか、井伊様を斬って、佐那河内の仲間の元へは帰れまい。我らのために、動いてくれた義親様に累が及んでは、大変だからなあ・・。すまんが、仲間のことは、又五郎と与助に託して、わしは、どこか遠くへ行って、これからの世の中の変わりようでも見物するつもりだ・・。」
右衛門は、そう言うと、二人に片手をあげて、すたすたと、通り過ぎようとした。
「殿、わしも・・。」
与助が、右衛門の背中に、声をかけた。
「あほう!お前は、与一(与助の長男)宗助(与助の次男)の父親だぞ。子を見捨てる親がどこにおる。」
右衛門は、そう言いながらも、歩みを止めずに、二人から遠ざかっていった。
その背中を見ている与助の目から、大粒の涙があふれだしている。
「面白い男だな、右衛門は・・。与助、そう悲しむな。奴は、いずれふらっと顔を出すに違いない。」
又五郎がそう言うと、
「そうですな。」
そう言われて、泣くのを止めた与助が、いきなり笑顔を見せた。
ただ、右衛門は二人に上げた右手をおろしたとき、何故か二人の存在が、遠くのかなたに消えゆく残像のように思えて、底知れぬ孤独を感じていたのである。
右衛門の後姿から目を離した又五郎は、今、戦った両方の戦士に向かって、
「佐那河内へ来たいものは、いつでも来い!みんな、大いに歓迎するぞ!」
そう叫んだのだった。その快活な声は、人の孤独を吸い込む夜空の虚空に抗い、鐘のように響き渡ったのである。
(春と右衛門)
戦いの後、運よく生き残った梅本英人の家で、一刻(2時間)程熟睡した右衛門は、夜明け前に、英人の家を出て、旅に出ようとしていた。
「右衛門様は、これからどちらへ向かわれるのですか。」
草鞋を結ぶために、しゃがみ込んでいる右衛門の背中に、膝をついて見送っていた英人が言葉をかけた。
「さあな。土佐を抜けて、大坂へ向かい、北を目指して、心の落ち着く住み家でも探そうか・・。」
右衛門は、草鞋を結び終え、英人の方を向いて、そう言って笑った。
「そうですか・・。ところで、春様はどうなされる。」
英人が、怪訝そうな顔をしてそう言った。
すると、右衛門は、天井を見つめて、
「春の仇の金崎文藏は、もうこの世にはいない。これで、あいつの怨念も晴れるだろう。これからは、ただ一人の肉親の辰雄と一緒に佐那河内で暮らせばいい・・。きっと、心穏やかな生き方ができるだろうと思う。」
まるで自分に言い聞かせるように、ぽつりぽつりとそう言った。
天井から視線を外し、英人の顔を見ると、納得していないような顔をして、右衛門の顔を見ている。右衛門は、その視線を避けるように照れ笑いを浮かべ、
「ところで、お前は、どうするつもりだ・・。この家で、留まるのか。」
そう聞いた。
「私は、佐那河内へ行くつもりです。あの地は、私が理想とする、時代を先取りしたような村に思えてならないのです。それに、又五郎様は、誰でもあの地で住んでよいと言っておられたし・・。」
英人は、希望に胸を膨らませて、嬉々として右衛門の質問に答えた。
「そうか、それはいい。みんな佐那河内へ行くんだな・・。陽明と源一郎に、自分たちの思い通りの生き方をしろ・・と、わしが言っていたと伝えといてくれ。」
右衛門が、寂しそうな表情を浮かべてそう言った。しかし、すぐに笑顔を見せると、いつものように右手を挙げて、さっさと家の開き戸を開けて、英人にかまうことなく外に出た。
夜明け前の霞が、右衛門の視界を妨げて、辺りを乳白色に覆っていた。
すると突然、
「右衛門!」
前の方から、右衛門に声をかける声がした。春である。
右衛門は、じっと目を凝らして春を確認すると、にやりと笑って、照れくさそうに頭を搔いた。
「春か・・。」
右衛門は、それ以上何も言う言葉が見つからなかった。
春が、右衛門の元に駆け寄ってくる。
「私を残して、行ってしまうつもりなの・・。」
春の恨めしそうな目が、右衛門を責めるように見つめている。
「わしと一緒にいても、辛い思いをさせるかもしれんしな・・。もうこの世で、お前の不幸を引き起こした男もいなくなったのだ。春は、これからもっと幸せになる権利がある。」
右衛門は、春への思いやりのつもりで、そう言った。
「恰好つけて言わないで・・。右衛門が私の傍にいなくて、どうして私が幸せになれるのよ!死んでもあんたを離さないからね!」
春はそう言うと、右衛門の胸に飛び込んでいって、彼の体をしっかり抱きしめ、いつまでも離そうとしなかった。
後ろの方で、英人が、そっと戸を閉める音がした。彼は、彼なりに二人の成り行きを心配していて、右衛門と春の結末にほっとして、家の戸で、最後の場面に幕をおろしたのだろう。
「右衛門10」終わり。 「右衛門シリーズ」は、しばらく休みます。




