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右衛門シリーズ全編  作者: FZ
29/43

右衛門10-2

(陽明・ナタリー、小夜・マイケルの結婚式)

「あれが、阿波の殿様か。」

佐那河内の農民達は、阿波藩主の通る道で、土下座をするのを嫌い、遠くの方から眺めていた。

「お殿様と馬を並べて行くのが、柳生様だろう。さすが幕府の偉い方だ、ここから見ていても、藩主様が気を使っているのがよう分かる。柳生様が話すたびに、にこにこ笑っておられる。」

「それはそうと、今日昼からは、皆、仕事を切り上げて、婚儀のお祝いをしなくてはなあ。ナタリーさんや陽明様、マイケルに小夜さんの晴れの日だ・・。何でも、浜辺に出れば、酒樽がずらっと用意されているらしい。今日は、酔いつぶれるまで無礼講だ。」

「わしは、昨日から何も食っておらんわ。今日の振る舞い酒や、料理のために、腹の中を空っぽにしているんだ。」

村人の祝賀気分は、最高潮に盛り上がり、昼から始まる婚儀に先駆け、早々に振る舞い酒で、酔っぱらう人が続出した。


早苗は、台所で先頭に立って働いていた。

「早苗様、今日はお嬢様の大切なご婚儀、このようなところで忙しく働かなくても、広間に行って、お嬢様の白無垢姿をご覧になっては・・。」

美代が、早苗に気を使って、声をかけた。

「そう言う訳にはいきません。皆さんにこうやってお世話になって、自分だけ働かないなど、できませぬ。」

早苗は、そう言って、決して台所を離れようとしなかった。

それでも、早苗は、次第に料理の支度が出来て、やることがなくなってくると、手伝ってくれた佐那河内の女衆や阿波藩から来た料理人の他に、志摩、春、志乃等から離れて、広間の奥の様子を見に行った。

小夜とナタリーは、白無垢姿でちゃんと正座して、マイケルと陽明は、紋付袴でかしこまっていた。

「西洋の方には、その姿勢は難儀だろう・・。かまわぬ、今日は無礼講じゃ、足を延ばされよ。誰か4人に椅子を持て!」

阿波藩主の思いがけない心遣いに、三人はほっとしたように足を崩した。ただ、小夜だけは、じっと正座をして、かしこまったままである。

「小夜、椅子が来るから、私たちと同じように、西洋式に椅子に座って、私たちに合わせてくれよ。」

陽明が、小夜の頑な姿勢に、不安そうに声をかけた。

「分かっています。」

小夜は、そう言うと、マイケルの方を向き微笑んだ。

ナタリーは、自分の白無垢姿にすっかり満足しているようで、時々着物の袖を見ては、にこりと笑った。

赤松の高砂が、広間に響き渡り、三々九度が交わされると、一同は、やっと婚儀が終わりに近づき、午後からの披露宴での饗宴に期待が膨らんだ。

この日、佐那河内は、上も下もなく、大騒ぎの宴が模様された。

丘の下では、村民たちが、振る舞い酒で、お祭り騒ぎになり。丘の上の広間でも、奥の上座に座った阿波藩主 河野康正、柳生義親を中心に、数十人の阿波藩士や佐那河内の連中、それに婚儀の料理を出し終えた女たちの楽しい笑い声で、広間は熱気を帯びていった。

障子があけ放たれて、遥か向こうのに浜辺が見えて、村民たちの大騒ぎする熱気が、時折潮風に乗って、この座敷にも伝わってくるようだった。

「義親様には、このように面白い婚儀にお招きいただき、久方ぶりに心が浮かれております。」

藩主はそう言うと、軽く頭を下げた。

「河野殿も、井伊殿のことで、ずっと悩んでおられたからのう・・。たまには、気晴らしもしなくてはな。」

義親が、藩主に、意味深な冗談を言った。

康正は、義親の言葉を真剣に受け取り、納得したように頷いた。

「殿、向こうにいるのは、薩摩藩家老 小松清三郎殿ですぞ。」

阿波藩家老になった長谷部正幸が、目で義親に知らせた。

「しかし、なぜ、薩摩藩家老がこの席にいるのか・・。」

河野康正が、不審そうに小松の方をじっと見た。

「河野殿、おぬしも、少しは、世情に関心を持たれよ。今日の婚儀の新郎の陽明という右衛門殿の甥は、イギリスの大大名アダムス卿の大切なお孫さんを嫁にもらったのじゃ。外国との交易を藩の重要方策にしている薩摩藩主 島津明定殿にしては、あの青年を自分の手元に置きたくて仕方がないのだろう・・。あの青年を軽く見ていると、幕府は、いずれ大変な目にあうかもしれん・・。」

義親は、そう言って、意味ありげな笑みを漏らした。

「ほお、そのような重要人物でしたか・・。私も、後で好美よしみを通じなくてはいけませんなあ・・。」

河野の無邪気な反応に、義親は思わず、ため息をつきそうになった。


いつの間にか、宴はたけなわになり、又五郎がとっておきの黒田節を舞い始めた。

そして、舞が終わった頃には、辺りは暗くなり、遠くの浜辺の波の音が、春のうららに優しく響き渡っていた。

すると、いきなり夜空に花火が打ち上げられ、提灯行列が、一斉に提灯に火をともし、浜から丘の上に通じる大通りは、薄暗い提灯の光で、真っすぐな光の平行線を引いたように、明るくなった。

「阿波の踊りじゃ、皆、堪能あれ!」

藩主が、扇子を開いて、大きくかざしたのを合図に、おはやしが始まり、笛と太鼓が、夜空に響き渡った。すると、阿波藩からやって来た数百人の踊り手が、平行にひかれた提灯の明かりの中を、あでやかに踊り始めたのである。

突然の余興に度肝を抜かれた佐那河内の連中は、踊り子に入り混じるように阿波踊りを踊り始めた。その踊りの騒ぎは、真っ暗な夜の空間を、まるで昼間の活気を取り戻したかのように、激しく躍動したのである。

「河野様、何とお礼を言っていいか・・。」

又五郎が、藩主の前に進み出て、手をついて頭を下げた。

「阿波踊りには、上も下もないのじゃ・・。安住殿(又五郎)、そうかしこまらずに、陽気に踊ろうではないか・・。」

河野康正は、そう言うと、自ら庭に降りて、お囃子に合わせて、屋敷に流れ込んできた踊り手と一緒に踊りを始めたのである。

「あの殿様、宴会は得意のようだ。」

源一郎が、にやりと笑って、小松にそう言うと、

「まことに・・。」

そう言って、小松が源一郎に合わせるように笑った。

右衛門は壁に背を持たせ、腕組みをしたまま、明日からの旅立ちを独り考えていた。


早朝、佐那河内の山越えをする右衛門、春、権蔵の姿があった。

「誰にも告げずに、この様にひっそりと出かけていいのですか。」

春が、合点がいかないような顔をして、右衛門に聞いた。

編み笠を深くかぶった右衛門が、

「この旅は、誰にも知られずに、極秘の旅になる。だから、頼りになる忍びも権蔵一人なのだ・・。春、この村もしばらく帰れないかもしれん。しっかり見とけよ。」

右衛門の真剣な言葉に、春は、改めて旅の決意を新たにした。

商人姿の権蔵が、

「お二人とは、ここで分かれます。わしは、先に土佐藩に入って、潜伏しますので・・。」

権蔵が、低い声でそう言った。

「頼むぞ!お前が頼りだ。」

右衛門が、権蔵に声をかけた。

「これが、わしの最後の仕事です。最後に京成と張り合えるなど、考えてもみなかったですが・・。(右衛門の方を向いて、にやりと笑い)右衛門様のおかげです。命を懸けてやり遂げるつもりです。」

権蔵は、そう言うと、足を速めて二人から遠ざかっていった。早朝の山道は、少し寒気を感じさせる引き締まった空気で包まれていた。



(井伊の屋敷)

「奴らは、お祭り騒ぎをしているようだな・・。まるで、柳生義親が阿波に来たことで、まるで危機が去ったように思っておる。どこまでおめでたい奴らだ・・。わしは、佐那河内を必ず叩き潰してやるからな。」

井伊祐直は、まるで、怒りを家臣にまき散らすように怒鳴った。

「殿、少し冷静にならねば・・。我らとて、黙って手をこまねいているわけではございませぬ。」

家老の坂谷太助が、祐直の冷静さを取り戻させるように、意味ありげな言い訳をした。

「高松の徳川殿は、どうなのじゃ・・。あのお方は、どうも御三家の顔色ばかり見ておる。それに、多度津藩主の京極が、必死でわが軍の受け入れを断るように、徳川殿に説得しているようじゃ・・。家柄だけの小藩の藩主にしては、出すぎであろう・・。」

井伊は、そう言うと、手に持っていた扇子を膝に打ち付けた。

「京極は、先の岡山藩との騒動で、右衛門に世話になったようで、恩義を感じているようです。あの右衛門、剣だけではなく、悪知恵も相当なようで・・。それに、大前屋は、北前船交易の港として、莫大な使用料を多度津藩に納めている事も、調べがついております。」

京成が、高松藩の実情を祐直に説明した。

「どうやら、高松は難しそうだな・・。あの地は、大軍を受け入れる良港には、事欠かないのだが・・。」

祐直の顔に、落胆の表情が浮かんだ。

「殿、もう一つ、我が連合軍を受け入れてくれる藩主がおりましょう・・。」

坂谷は、そう言って、狡猾な笑みをこぼした。

「おぬし、土佐の山之内殿のことを言っておるのか・・。」

祐直が、坂谷に確認した。

「あの方は、青年藩士の突き上げもあって、外見は、幕府改革派のような振りはしておりますが、内心、藩の政策に口を出す急進派には、憎しみさえ抱いているようで・・。何せ、青年藩士の中には、竹内半四郎という尊王組とかいう武力集団を率いる指導者の郷士(長曾我部以来の土豪武士、山之内家の家臣を上士と呼び、一段低い身分に置かれた武士団)がいまして、山之内殿にとっては、目の上のたん瘤らしいのです。その竹内率いる武士集団は、改革に反対する土佐藩重鎮たちを、何人も暗殺したとの情報も入っております。」

京成が、配下の忍びを駆使して、調べ上げた土佐の内情を井伊に報告した。

今の世情では、土佐のような内情を抱える藩は、全国どこにでもあった。まさに、その上下の身分の規律を守らない連中に対して、井伊祐直は、政治権力で粛清をおこない、身分制度がしっかり確立された世の中に戻そうとしていたのである。その意味では、土佐藩は、井伊が粛清をおこなわねばならない、典型的な藩だったかもしれない。

「要するに、土佐藩主 山之内殿の内心は、我らの考えに同調する保守派と言えるわけだな。何事も調べて見ぬと分らぬものだ・・。世間では、幕府を脅かすのは、薩摩か、土佐か、とまで噂されているのにのう・・。」

そう言った祐直の顔に、笑顔が戻った。

「ところで、義親は、土佐に警戒しておるのか・・。」

井伊が、京成に尋ねた。

「わが配下の知らせでは、土佐には、義親様の忍びは入っていないようで・・。」

京成が、答えた。

「そうだろうな。あの山之内殿が、我ら保守派の連合軍に味方するとは、考えもせんからな・・。薩摩の島津公が、我らに加担するようなものだからのう・・。」

祐直は、ますます機嫌が良くなってきた。

「坂谷、おぬし、土佐へ行って、山之内殿に我らの軍を受け入れるよう、何とか説得してこい。土佐藩の格を加賀藩前田様と同格に上げると言って、誘えば、動くかもしれん。」

井伊の頭に、いつもの知略が戻ってきた。

「あのお方、思いのほか、家の格を気にするお方だと聞き及んでおります。殿のお考えは、当たるかもしれません・・。」

坂谷が、同調するように、にやりと笑った。



(物の怪)

春と右衛門は、旅の途中で思いがけない災難に遭遇していた。山の麓の茶屋の主人の話では、土佐の山越えには、数日かかり、旅人相手の宿場が何か所か点在していて、その宿を利用して、四国山地を越えるらしいのである。

「ただ、旦那様、山道に不案内な旅のお方は、山の中腹にある一軒家には気を付けた方がええ・・。宿場を見失って、万が一にも、その家に一夜の宿を頼んだら、その家から出られた旅人はいないと聞いております。(右衛門の顔を見て)その家の家主は、人ではねえ、物のだそうで・・。宿を頼んだ旅人は、みんなその物の怪に食われるらしいです。」

春と右衛門に茶を出した主人は、そう言って、ぶるっと体を震わせた。

春と右衛門は、真に迫った茶屋の主人の言葉に、目を合わせて笑った。

ところが、二人は、宿の主人が言ったように、山の宿場を見つけられずに道に迷ってしまったのである。日は暮れて、二人は途方にくれていると、窓が青白い光を放っている藁ぶきの一軒家を見つけたのである。その家は、山の崖にへばりつくように建っていて、藁ぶきの屋根は、崖から伸びた松の木の枝で半分覆われていた。


「どうします。」

春が、不安そうに右衛門に聞いた。茶屋の主人から、山の中腹の一軒家について聞いていた春は、恐ろしさが先に立ち、夜の闇の中に提灯一つ手に持って、じっと立ちすくんでいた。

「仕方なかろう。まさか、この山の中で野宿もできまい。それに、季節半ばだというのに、やはり、山中は冷え込むしなあ・・。」

右衛門は、そう言うと、春に笑顔を見せた。

二人は、藁ぶきの一軒家の主人の老婆に、一夜の宿を頼んだのである。


「何もないが、囲炉裏の所にお座りくだされ。この辺は、春でも冷えますからのう。」

白髪の背を丸めた老婆は、時折、春と右衛門の顔を見ると、薄気味悪い微笑みを浮かべて、また俯いた。どうやらこの老婆、腰が曲がっているせいか、ほとんど顔は俯いていた。

春は、この家に入ってからずっと右衛門の腕をつかんで離さない。よほど、気味が悪かったのだろうか、時折、右衛門の顔を見ては、別段恐れた表情も見せない右衛門に安心したように、再び、老婆の様子をうかがうのであった。

囲炉裏で足を組んで座った右衛門は、旅の疲れか、ふっと大きく息を吐いた。春は、その横で足を崩して座ってる。しかし、右衛門の腕を離そうとはしなかった。

「ところで、お侍様、何処から来なすった。」

老婆は、枯れ枝を囲炉裏の中に放り込みながら、顔を上げて笑顔で右衛門に聞いた。

「阿波の佐那河内という村からだ。ちと、会いたい人が土佐におってなあ・・。土佐藩は、阿波からは隣の藩なので、軽い気持ちで旅に出たが、やはり四国の山は、そう簡単には抜けられん。」

右衛門は、そう言って、老婆の方を見て、にやりと笑った。

すると、今までこの家には老婆しかいなかったのに、途中から、老婆の息子と名乗って、二人の猟師らしき男が、くまの毛皮を着けて家に入ってきた。

この男たち、右衛門と春には、一言も言葉をかけず、囲炉裏で俯いたまましばらく温まると、二人の両脇に座って、包丁を研ぎ始めたのである。

春の顔は、真っ青になり、ますますきつく右衛門の腕にしがみついてきた。

「春、すまんが、わしに水を汲んできてはくれぬか。そこのかめに入っておるから、この湯飲みに汲んできてくれ・・。」

右衛門は、そう言って、春の目を説得するようにじっと見た。

春は、右衛門が何かを感じている事に気づき、勇気を振り絞って頷いた。

湯飲みを持ち、立ち上がって、水の入った瓶まで行く春の後姿を、老婆がじっと目で追っている。相変わらず、老婆の息子だという二人の男は、右衛門を両横に挟むようにして、黙って包丁を研いでいた。


「ところで、老人・・。おぬし、人ではないな。」

右衛門がそう言うと、春は土間に降りた所で凍り付いたように立ちすくんでしまった。

「お武家様は、おかしなことを言う。なぜ、私が人ではないと・・。」

そう言った老婆の顔から笑顔が消えた。二人の男の包丁を研ぐ動作が止まり、じっと俯いたまま、右衛門の言葉に神経を集中しているようだった。

「わしは、お前の人としての気配が感じられぬ・・。もしや、お前は物の怪か・・。」

右衛門は、そう言うと、老婆の顔をまじまじと見た。

しばらくの間、この空間にいる者たちは、つぎの行動を忘れたかのように、時をやり過ごしていた。

すると、老婆がいきなり立ち上がった。不思議なことに、老婆の背中は、まっすぐ伸びている。

「ええい、いまいましい男め!もう少し待ってから、食ってやろうと思ったが・・。へらず口をたたいたからには、今すぐわしの胃袋に入れてやる・・。」

そう言うが早いか、老婆は真っ赤な目をし、舌を牙の生えた口からだらりと出し、両の手は、いつの間にか鋭い野獣のつめに変わっていた。

「それ!」

老婆から物の怪に変わった野獣が、飛び掛かるのを合図に、同じように化け物の姿に変身した二人の男が、一斉に右衛門にとびかかった。

右衛門は、今まで経験したことのない恐怖と緊張の中、横に置いた刀をとると、まるでこの世のものの仕業でない見事な剣の舞を見せたのである。

彼は、足を踏ん張ってすっと立ち上がる間際に、刀を右に水平に振り、返す刀で左に水平にふり、正面から逆袈裟に刀を振り上げた。

その速さは、佐那河内で京士、京葉が襲った時に右衛門が対応した刀の速さなど、比べ物にならなかった。これこそ、右衛門の剣が神業に一歩近づいた瞬間だったのである。

「ぎゃーー!!」

右衛門に斬られた三体のむくろは、この世のものとは思えない叫び声をあげて、その場に転がったのである。ふと、目を落とすと、右衛門の周りは、物の怪たちの血の海になっていた。


「春!終わったぞ。」

右衛門は、激しい息をしながら、かすれた声で、背を向けたままの春に声をかけた。

「誰にも言わないでね・・。」

春は、右衛門に背を向けたまま、懇願するようにそう言った。

右衛門がふと見ると、春の着物下から足を伝っておしっこが流れ落ちていたのである。

「言う訳ないだろう・・。しかし、春は気絶もせずに、最後まで立っていたのだ。それだけでも、ただの女ではないなあ・・。」

そう言って、右衛門が、声を出して笑った。

その言葉を聞いた春が、やっと振り向き、右衛門に笑顔を見せた。

右衛門は、その春の優しい笑顔に、今までよりいっそう春が好きになった。

「わしは、これで京成達に勝てる気がしてきた・・。」

右衛門の最後の言葉に、春は、右衛門が生まれつきの剣豪だと、改めて感心した。



(春の弟 桐谷辰雄)

土佐の城下の中心を少し離れた寺の門前の道を、暗がりの中、音もたてずに走ってくる侍がいた。彼の名は、桐谷辰雄、春の弟である。

近くに足音を聞いた橋本源三(土佐藩家老 金崎文藏の側近)は、暗闇に提灯を高くかざした。次の瞬間、バサッと闇夜に響く不気味な音と共に、橋本の体が前の地面に沈み、橋本が持っていた提灯が地面で燃え上がった。

「旦那様!」

後ろで、主人の荷物を背負って、橋本に従っていた彼の小者が、闇夜に大声を張り上げた。しかし、その時すでに、源三は辰雄の凄まじい水平斬りを胸部に受けて、息の根を止められていたのである。


辰雄に橋本殺害を命じた竹内半四郎(土佐天誅組頭目)の座敷は、屋敷の庭に面した小さな部屋だった。半四郎は、さっきから行燈に火をともし、桐谷辰雄の帰りを待っていた。

その時、庭に人の気配がして、

「辰雄か。首尾は・・。」

竹内の呼びかけを待っていた辰雄が、誰にも知られないように庭にうずくまっていた。

「言いつけ通り、斬りました。恐らく、息の根は止めたかと・・。」

辰雄が、低い声でそう告げると、竹内は満足した笑みを漏らして、

「ご苦労だったなあ。明日は早朝稽古があるから、今夜はゆっくり休んで、体を休めてくれ・・。」

そう言われ、辰雄は、闇の中で頭を下げると、裏門の木戸をひっそり開けて、闇夜に消えていった。

     

竹内の道場では、早朝の稽古は、青年武士が数十人集まり、激しい気合をかける奇声で稽古が始まり、道場の雰囲気は、活気で満ち溢れていた。この道場に集まるのは、ほとんどが土佐の郷士と呼ばれる長宗我部の家臣であった土豪の下級武士である。その一方、藩祖 山之内の直属の家臣である武士団は、上士と呼ばれ、この土佐では、同じ侍でもはっきりと身分が分かれていた。

竹内半四郎は、その郷士の中で一目おかれる存在だったのである。彼は、文武に抜きんでた才能を持ち、今の日本のおかれた事情にも精通し、自分なりの政治の考えを藩主にも上申していた。藩主にしてみれば、竹中の上申する意見を、身分をわきまえない不敬な振る舞いと、簡単に叱責することもできなかった。竹中は、数百人の郷士の武装集団を、彼の一言で動かすことができたのである。

「殿様は、まれにみる名君なのだ・・。ただ、家老の金崎文藏をはじめ、頭の固い連中が、幕府の言いなりになって、必死に、殿さまによからぬことを忠言するから、殿様も動きが取れんのだ・・。悪いのは、あの重臣どもなのだ。今は、幕府を改革しようとする勢力が、薩摩をはじめ、急進派の藩から、次々とわしらの同士として立ち上がっているのに・・。この土佐を見ろ!藩の重鎮たちは、幕府の安泰を夢見て、居眠りをしているようだ・・。」 

竹内の激しい主張に、集まった青年武士は、目を輝かせて、一言一句聞き逃すまいと、耳を研ぎ澄ましていた。そんな青年武士の中に、桐谷辰雄の姿も見られたのである。しかし、そんな竹内の門弟の中で、ただ一人、竹内の熱弁に見向きもせず、さっきから胡坐をかいて腕を組み、ずっと居眠りをしている男がいた。

「また、弥次郎さんは、今日も先生の言葉を聞こうとしないで、居眠りしとるわ・・。いったい何のために、こうやって朝から稽古に顔を出すんだろうなあ・・。ろくに稽古をするでもなく。」

竹内の弟子の一人が、崎田弥次郎を見ながら、あざけるように、小声で他の門弟に呟いた。

「しかしな、弥次郎さんの言うことも一理あるのだ。竹内先生の意見は、確かに正論だが、あの方の言うように、武力で藩主様の重臣をいくら暗殺しても、一向に藩政は動かんではないか・・。ところが、弥次郎さんの考えでは、山之内公は、竹中さんが言うように、藩の改革など望んでない、ただ、我ら郷士や藩内急進派の手前、改革派の振りをしているだけだと言うのだ・・。」

門弟の言っている言葉が、耳に入ってきた桐谷辰雄は、以前なら大声を出して叱りつけるところだろうが、最近の藩の実情を考えると、むしろ竹内の主張に不信を抱かざるを得ないのである。

辰雄は、以前、そのことを、竹内の友人である弥次郎に打ち明けたことがある。

すると、弥次郎は、

「要するに、半四郎は、土佐藩主 山之内公を評価しすぎだ。あの方は、元々郷士のことなど、考えてもいない・・。頭の中は、山之内家の安泰、そのためには、我らをどう扱えばいいのか・・。そのことにしか、関心がないのよ。」

この言葉に、説得力があったのは事実である。しかし、そうはいっても、辰雄にとって、竹内は、自分の存在意義を認めてくれた大切な指導者だった。

「自分のような親すらいない男を人として認め、私が訴える世間への不満を、親身になって聞いてくれたのは、竹内先生、ただ一人ではないか・・。」

そのことを考えると、どんなに竹内に不信を抱いても、辰雄には彼を裏切ることなど、到底できなかった。

辰雄が、門弟の言葉に揺らいでいた時、竹内の話が終わらないのに、その場を立ち、外へ出ようとしていた男がいた。弥次郎である。彼の勝手な振る舞いに、竹内は決して叱責することはなかった。この道場で、弥次郎だけが、竹内の自由にはならないが、何でも相談できる気の置ける友人だったのである。

弥次郎が、辰雄の横を通りかけた時、

「辰雄、お前、また竹内さんに頼まれて人を斬ったな・・。城の重役の間で、大騒ぎだぞ。いい加減、竹内に頼まれても、いやだと言うだけの勇気を持たんか・・。(そう言うと、辰雄の顔を見てにやりと笑って)後で、わしの家にこんか・・。浪江が寂しがっとるぞ。」

弥次郎から、「浪江」と言う言葉を聞いて、辰雄は心臓の鼓動が高鳴るのを知られたのではないかと、急いで弥次郎の視線を避けようとした。

「はあ、うかがいます。」

辰雄は、弥次郎に自分の動揺を隠すように、目を合わさずに、低い声でそう言った。




(桐谷庄衛門の家を春と右衛門が訪れる)

右衛門と春が、ようやく土佐の城下町に到着し、真っ先に訪れたのは、春の叔父である桐谷庄衛門の家だった。

「そうか、正三と綾(春の両親)は、庄内で死んだのか・・。」

庄衛門は、泣くのをこらえるように、両手で自分の膝をきつく握った。

「人の噂では、二人は死ぬのを覚悟で、月山の頂上へ向かって行ったと聞かされました。死体は見つかってはいません。」

春が、俯いたまま、子供のころに楼閣の主人から聞かされた話を庄衛門に語って聞かせた。

「ところで、このお方は・・。」

庄衛門が、右衛門の方を向く。

「私の主人です。私の過去を話した所、土佐までついてきてくれる、と言いまして・・。」

紹介された右衛門が、庄衛門に頭を下げた。

「長谷部忠成と申します。」

右衛門が、友の名前をつないで、偽名を使った。

「そうか、春の旦那様か・・。よかった。本当に、よかった。」

庄衛門は、嬉しそうにそう言うと、何度も何度も頭を上下に振った。

しかし、彼の笑顔もすぐに消えて、

「ところで、辰雄のことだが・・。」

一転、庄衛門の口が重くなった。


辰雄を春の両親から預けられた庄衛門は、すぐに赤子を自分の家の手伝いの男に預けて、藩の追手から弟の子を守ったのである。

時は流れ、辰雄が十才の時に、庄衛門は、手伝いの男の家から自分の家に引き取り、親が陰謀によって濡れ衣を着せられた罪の事実を、辰雄に打ち明けたのである。辰雄は、両親を土佐からの逃亡に追い込んだ相手の名前を聞こうとしたが、庄衛門は、家にるいが及ぶのを恐れて、その真相だけは、決して打ち明けようとはしなかった。


「あの子は、この家に引き取っても、わしらとは馴染まず、いつも黙って自分の殻に引きこもって、周りを拒んでいるようだった・・。それから、五年ほどが経ち、ふいと家を飛び出してな・・。何処で何をしていたのやら・・。二年ほど前、やっと辰雄が、竹内半四郎の道場で厄介になっていると聞きつけたのだが・・。その竹内という男、土佐天誅組の頭目なのだ。我ら上士の武士に敵意を抱き、藩主 山之内様に武力の威圧をもって、物申している・・。藩の急進派の頭目と呼ばれている男だ。私も、何度か辰雄のことを聞くために、道場まで行ったのだが、道場の奴の門弟たちが邪魔をして、会わせてくれないのだ。」

一通り、辰雄の事情を話した庄衛門は、どうしようもないと言わんばかりに、ふっとため息をついた。

「いろいろと、叔父上には、御厄介をかけました。」

春はそう言うと、庄衛門に頭を下げた。

「だが、春。これからどうする。」

庄衛門は、春がこの町で辰雄のことで動き回るのを警戒していた。金崎文藏は、今でも土佐藩家老として、藩主の側近として権勢を誇っていたのである。もし、金崎が、春のことを嗅ぎつけたら、桐谷の家もただではすまないと思ったのである。

春が、迷ったように右衛門の顔を見た。

「とりあえず。春は城下の宿でじっとしていろ。そうでないと、叔父上に迷惑が掛かっては、申し訳ない。わしが、明日にでも、弟のいる道場を訪ねてみる。わしなら、他人だ。問題はあるまい。」

右衛門の言葉を聞いた庄衛門は、ほっとしたように右衛門の顔を見て、微笑んだ。

「しかし、長谷部殿、気を付けて行かれよ・・。あの連中は、よそ者を嫌いますからなあ。人の話では、他国の侍が訪ねたら、幕府の偵察が来たのだと疑って、必ず道場に引っ張り込まれ、無理やり剣術を立ち会わされ、門弟にひどい目にあわされるそうです。中でも、頭目の竹内は、江戸の柳生道場で修行を積み、免許皆伝と聞きます。よそ者で、あの道場へ入って、まともに帰ったものはいないとの噂ですぞ。」

庄衛門の言葉を聞いた春が、右衛門の方を向いて、にやりと笑った。


(竹内道場)

「道場に長谷部忠成とかいう浪人が、辰雄に面会を求めていますが、どういたしましょう。」

竹内の門弟が、慌てた様子で、竹内に指示を仰ぎに来た。

竹内は、崎田弥次郎と自分の書斎で、談笑していたが、門弟の報告に表情を曇らせた。

「どんな用件で会いに来たか聞いたか。」

竹内は、不機嫌そうに、報告に来た門弟に聞いた。

「はあ、それが・・、用件は、会ってから本人に言うの一点張りでして・・。」

門弟は、淡々とそう答えた。

「いつものように、道場に引っ張り込んで、足腰が立たんほどに打ちのめしてやれ。そうすりゃ、この道場に二度と来んだろう・・。どうせ、藩の奴らが、先日の橋本源三(土佐藩家老 金崎文藏の側近)暗殺の一件で、探りを入れに来たのだろう。」

竹内の表情は、ますます不機嫌そうに見えた。

「それが、どうも土佐の者ではないようで・・。」

「あほう。それならなおさらだ。幕府の隠密かもしれん・・。半殺しにして、追い返せ!」

竹内の語気は、激しかった。

「半四郎さん、何だか面白そうだな・・。一つ、その男の剣の腕前でも見に行かんか。」

側で聞いていた弥次郎が、何故か、辰雄の面会に来た男に興味を持った。


桐谷庄衛門(春の叔父)から聞いてはいたが、竹内の門弟たちに、いきなり道場まで引っ張り込まれた右衛門は、さっきから門弟の強引さに苦笑せざる得なかった。

「おぬし等、相手の剣の技量もはからずに、いきなり立ち合いを強制しても、後で後悔せんのか・・。無謀な挑戦は、高いものにつくぞ・・。」

右衛門は、門弟たちの無謀な挑戦にあきれて、彼らに本気で忠告したつもりだった。

「ぬかしおったな!わが道場の他流試合は、木刀でするのが決まりでな・・。言っとくが、叩きのめされて、半死半生になっても、おぬしを助けるものはいないのでな・・。覚悟してもらうぞ!」

そう言って、師範代らしき男が、いきなり木刀で、右衛門に勝負を挑んだ。


半時も経たぬうちに・・・

代わる代わる門弟たちが、右衛門に挑んできたが、彼らは、一度も右衛門の木刀にさえ触れることもできず、判で押したかのように、一撃で小手をとられ、手首を骨折したのである。しばらくすると、道場の中は、門弟たちが呻く声で満ち溢れていった。

その様子に気づいた竹内が、慌てて道場に顔を出した。

「何だ!このざまは・・。木刀を持ってこい!わしが相手する・・。」

竹内の怒りは、頂点に達していた。

半四郎に木刀が手渡され、竹内と右衛門が木刀を正眼に構えて対峙した。

その時、一緒に道場に来ていた弥次郎が、竹内に声をかけた。

「半四郎さん、止めときや・・。その男、あんたの手に負える相手じゃないぞ!」

竹内は、その言葉を聞いて、怒りで体が震え始めた。

「黙っときや!わしが負けるか、この男が負けるか、今に分かるわ!」

竹内は、そう言うと、一気に闘志をみなぎらせ、右衛門に打ち込んできた。ところが、右衛門は、相手の闘志をせせら笑うかのように、蝶が舞うように足を引いてたいをかわすと、次の瞬間、一転、体重を前に乗せて、竹内の手首に寸分たがわず小手を打ち込んだ。

「ううう」

竹内の、苦痛で低くうめく声。

すると、右衛門は、まるで勝負に何の興味もないかのように、自分の木刀を、道場の板の間に投げ捨てて、くるりと背を向けて、入ってきた玄関へ向かって歩き始めた。

「おぬし、辰雄に用があるのではないんかい・・。」

右衛門の後姿に、声をかけたのは弥次郎だった。

「また来る。」

右衛門は、ぶっきらぼうにそう答えると、歩みを止めずに、すたすた立ち去って行った。


(弥次郎と右衛門)

右衛門は、夕暮れの道を、腕を組んで、困った顔をして、春のいる宿へ向かっていた。

「困ったなあ・・。春の弟に会うことはできず。愚にもつかぬ剣の試合までさせられて、春にどう言い訳をしたらいいのだ・・。」

右衛門は、春への言い訳を考えながら、とぼとぼと歩いていた。

すると、後ろで、右衛門に声をかける声がした。

「待ちや、長谷部さん!」

右衛門が振り返ると、さっき竹内と一緒にいた弥次郎が、息せき切って右衛門を追っかけてきたのである。

「何か、御用か!」

右衛門は、不審そうに弥次郎を見た。

「おぬしを知っとるぞ!わしは、以前長崎で、示現流の剣豪 薬士実人と鬼の右衛門の死闘を見たことがある。薩摩の人間とは、知り合いがいてな・・。特別に、片隅であの試合を見ることができたんですわ。今でも覚えているが、おぬし、人ではないな。まさに鬼そのものだ。」

そう言い終わると、弥次郎は大きな声を出して笑った。

「人違いだろう。」

右衛門はそう言うと、再び、前を向いて歩き出した。

「どういう事情か知らんが、それならそれでいい。右衛門殿にも何か自分を名乗れない理由がありそうだ・・。(にやりと笑い)ところで、辰雄のことだが・・。」

「辰雄」という名が出て、右衛門の歩みが止まった。

「おぬし知り合いか。」

右衛門は、再び、振り向いて、そう尋ねた。

「よう知っとりますきに・・。よかったら、わしの家に寄らんかえ・・。必ず、辰雄には会わすので・・。」

弥次郎は、熱心に、右衛門を誘った。


(春と辰雄の再会)

「しかし、あの長谷部とやら言う侍、ほんまに、春さんの主人かえ・・。春さんといえば、昔は、この界隈では有名な可愛らしい女の子だったなあ・・。ところが、ある日突然、両親と共にいなくなってな・・。そうか、あの赤子だった春さんの弟が、辰雄だったのか・・。」

右衛門が春を迎えに宿に向かった後、春のことを右衛門に打ち明けられた崎田太一郎(弥次郎の兄)が、昔の記憶をたどって、弥次郎や家族の者に語って聞かせた。

「しかし、どうして、辰雄さんの家族は、一家離散になったのかしら・・。」

弥次郎の妹の崎田浪江が、ぽつりと言った。

「さあな。人の噂では、春さんの父上が、何か犯罪にかかわって、一家で逃亡したとか聞いていたがな・・。詳しいことは、知らんわ。」

弥次郎の熱心な誘いで、右衛門が自分の家に春と一緒に厄介になるのを決めた時から、太一郎は、春の顔が見られることに、ほのかな期待を抱いていた。

「あの可愛かった少女が、どんな女になったのか・・。」

太一郎の関心は、期待で膨らんだ。

「あなた、何をにやにやしているの・・。」

太一郎の妻の紗季が、厳しい視線を、彼に注いだ。

「別に・・。(居直るように)つまらんこと言うな!浪江までわしを睨んで・・。これだから、女には何も話せんわ。なあ、弥次郎・・。」

太一郎は、そう言って、傍でぽかんとしていた弥次郎に助けを求めた。

「そら、男というものは、きれいな女には、目がないですからな・・。無関心でいろと言う方が、無理でしょう。」

弥次郎は、思いつくままに、太一郎のために言い訳をした。

「あほう、そんな言い方をしたら、紗季と浪江をますます怒らすやないか。」

太一郎は、弥次郎を非難するような目で見た。

「しかし、遅いな・・。ちっくと、右衛門さんと春さんの様子を見てこよう。」

弥次郎は、そう言って立ち上がり、居場所のない居候のように、険悪な雰囲気になりそうな家を逃げ出そうとした。

すると、弥次郎の背中で、

「ああ、やらし!」

「ほんまになあ!」

二人の女性の大きな声が、弥次郎の背中で、響き渡った。


一方、右衛門と春は、宿を出て、弥次郎の家に向かって、夜道を並んで歩いていた。

「弥次郎とかいう男、すこし、軽率そうに見えるが、器の大きそうな男なのだ。何故か、あの男といると、頼りたくなる。」

右衛門は、弥次郎を評価していた。

「しかし、弥次郎さんのご家族は、私たちが居候することで、ご迷惑なのでは・・。」

春が、不安そうにそう言った。

「わしも、最初はそう思って、固辞したのだが、兄の田崎太一郎殿も熱心に勧められるのだ。何でも、お前の幼いころを知っているらしい。それに何より、弥次郎は、お前の弟の辰雄の知人だそうだ。」

その一言で、春は、崎田の家にやっかいになろうと決めた。


二人が、街並みを少し離れて、郊外にある崎田の屋敷に向かっている時、前の方から、暗闇にまみれて、走ってくる人の気配を右衛門が察知した。

「春、提灯の火を消して、さがっていろ。」

右衛門の低い声が、春の警戒心を呼び覚ました。いつのころからか、春は、右衛門と一緒にいる時には、それなりの覚悟と警戒心を身に着けるようになったのである。

その刺客は、右衛門との間合いを詰めた瞬間、抜刀して、得意の水平斬りを試みた。

ところが、その一振りは、暗闇の中で空を切ったのである。刺客にとって、今まで自分の水平斬りを闇夜でかわした男は、一人もいなかった。彼は、暗闇での位置感覚を、目を使わずに把握する能力を備えていたのである。

「そんなはずはない・・。」

そう思った瞬間、右衛門の振り下ろした白刃は、刺客が持つ刀の刃の峯を強打し、刀を真二つに叩き割ったのである。余りにも鮮やかな一打に、呆然と闇に立ちすくんだ刺客は、放心したように立ちすくんだ。

すると、春が素早く提灯に火をつけた。その光に照らされて、明暗に揺らめく刺客の顔は、まだ若い浪人風の男であった。

すると、

「辰雄でないか!お前、誰に刃を向けとるのだ!」

それは、右衛門と春の様子を見に来た弥次郎の大声だった。辰雄が怯えたように、弥次郎の方を見た。

「辰雄だと・・。それでは、この男が、春の弟の桐谷辰雄か!」

右衛門が、弥次郎の言葉に応じて、辰雄の顔にじっと目を凝らした。

春は、確かめるように、その青年の顔に、真っすぐ提灯の光を当てった。

「あなたが、辰雄かえ・・。(春の目から涙があふれ出る)私は、桐谷春、あなたの姉ですよ!」

春は、辰雄に向かって、訴えるように、そう叫んだ。

すると、辰雄は、その場に座り込み、頭をたれて、黙ったまま俯いて、顔を上げようとしなかった。

そして、俯いたまま、

「わしには、姉などおらん・・。」

そう言って、黙ってしまった。

「何を言うか!せっかく姉君が、会いに来てくれたというに・・。辰雄、顔を上げて、姉君に笑顔を見せんか!」

弥次郎の必死に辰雄を説得しようとする声が、闇夜に響いた。

そして、辰雄に言い聞かせようと、辰雄に近づく弥次郎を、右衛門が腕を差し出して制止した。右衛門は、辰雄が、まだ何か訴えようとしているように感じたのである。

「辰雄!父上も、母上も、最後までお前のことを案じて、この世を旅立たれたのよ・・。」

春が、辰雄に、両親の最後の思いを分かってもらおうと、あふれる涙をこらえながらそう言った。

すると、意を決したかのように、辰雄が顔を上げ、春の方をじっと見て、

「だったら、何で、わしを見捨てたんだ!父上も、母上も、姉上も、みんなわしを見捨てて、この地を旅だった。姉上!わしは、この地で独りぼっちで生きて来たんだ!何で、姉上は、わしを見捨てて、行ってしまわれた・・。」

辰雄の目から、涙がとめどなく流れ、そう言い終わると、こらえていた感情が堰を切ったかのように、嗚咽し始めた。

その言葉を聞いた春が、たまらず辰雄に駆け寄ると、彼の所でしゃがみ込み、腕を辰雄の頭に回して引き寄せて、彼の体を抱きしめた。

「私が、悪かった!ごめんね。」

春は、そう言って、再び辰雄の体をしっかり抱きしめた。

それをじっと聞いていた弥次郎が、辰雄に向かって、

「無理を言うなや・・。あの時、姉上は子供だったのだぞ・・。」

最後まで、言葉が続かず、弥次郎も、もらい泣きしていたのである。

右衛門が、闇夜の虚空に向かって、ふっと息を吐いた。やらねばならない事が、一つ片付いた安堵感だったのかもしれない。



(藩主山之内の粛清)

「また、辰雄さんが、姉上に朝の挨拶に二階に上がっていったわ・・。」

崎田紗季(太一郎の妻)が、台所で朝餉あさげの準備をする崎田浪江(弥次郎の妹)に小さな声でささやいた。

「春さんも大変ね。ああやって付きまとわれては、心の休まる暇がない。たまには、ご主人と、二人きりで居たいでしょうに・・。」

そう言って、浪江が微笑んだ。

「それにしても、うちの人が期待するだけあったわね。この辺では、春さんのような美人そういないわよ。」

紗季は、これまでの人生の苦労のせいもあって、春は、もっとやつれた女性になっていて、夫の太一郎をがっかりさせることを内心期待していた。ところが、春を初めて見た時、自分が、容姿で春に対抗できる相手でないことを知り、かえって、彼女を客観的に観察することができたような気がした。

「でもね、あの長谷部とかいうご主人、結構、優しそうで、二人はお似合いかもしれないわね・・。」

浪江が、そう言うと、紗季は、納得したように大きく頷いた。

「何をぼそぼそ話しているんや。まったく、女というのは、いつも他人の欠点を探しては、その噂を世間に広げていく・・。女々(めめ)しいとは、ようできた言葉や。」

二人が、何やら内緒話のように、小さな声で話をしているのを見つけた太一郎が、二人に声をかけた。

「春さんを初めて見た時の、この人の嬉しそうな顔・・。浪江さん、覚えている。」

今までより、三倍も大きな声で、紗季が浪江に話しかけた。

「覚えてるいわよ。そう言えば、鼻の下が少し長くなっていたような気がする。春さんには、旦那さんがいるのにね・・。」

浪江も、紗季の声に合わせて、二階に聞こえるように、そう言った。

「馬鹿!聞こえたらどうするんだ。弥次郎によると、あの春さん主人、相当剣の達人らしいぞ!」

太一郎は、本気で右衛門に二人の会話が聞こえるのを恐れているようだった。

「へえ・・。何だか、ぼんやりしている人だけどねえ・・。人は見かけによらないものね。」

浪江がそう言って笑い出すと、つられたように紗季が笑い出した。

この一家は、些細なことを話題にしては、笑いの種を見つけて、いつも家の中は、笑いが絶えないようであった。


(土佐藩の粛清)

昼になって、弥次郎がだいぶ走ったのだろうか、息せき切って崎田の家に帰ってきた。

「辰雄!」

家の中に、弥次郎の大声が響き渡った。

「何かあったのか。」

弥次郎の大きな声を聞いて、右衛門が、自分の部屋から降りてきて問いただした。

その間に、春、辰雄、浪江が集まってきた。田崎夫婦は、買い物に出かけていたのである。

「竹内半四郎が、役人に捕まった。先日の橋本源三暗殺の首謀者としての容疑だろう・・。何せ、五十人近い役人が、道場を取り囲んで、屋敷に突入していたからな。」

弥次郎の息はまだ荒かった。

「辰雄、おぬしも、すぐに隠れねば・・。待っておれ・・。」

右衛門はそう言うと、二階に再び駆け上がった。

春が、心配そうに辰雄の手を取った。

(右衛門が、再び戻ってくる。)

「ここに、二十両ある。当面の逃走資金だ。それと、城下の魚河岸うおがしで働いている彦六(忍びの権蔵の偽名)という男が、魚河岸の近くの人情長屋というところで住んでいる。その男に一時かくまってもらえ。右衛門からと言えば、万事了解する。」

右衛門が、早口で辰雄に言い聞かせた。

「人情長屋ならしっちゅうきに・・。しかし、長谷部さんは、忠成という名でなかったかえ・・。」

辰雄が、不思議そうな顔をした。昔の辰雄なら、尊敬する竹内半四郎が捕縛されたと聞いたら、黙って捕まったかもしれない。しかし、今の辰雄には、姉の春がいた。春の悲しむ顔は見たくなかったし、それよりまして、何があっても生きたいという欲求があった。人にとって、自分のことを心底心配してくれる存在というのは、生きる力まで与えてくれるものかもしれない。

「右衛門というのは、絶対内緒だぞ・・。浪江もな・・。」

弥次郎が、真剣な顔で、浪江を見た。

「ひょっとして、右衛門って・・。あの右衛門?」

浪江が、はっとして、そう言った。

「言うたらあかん!」

弥次郎が、浪江を叱責する。辰雄が、その言葉を聞いて、驚いた顔で、右衛門をまじまじ見た。

「急ぎなさい、辰雄!」

春の弟を急き立てる真に迫った声が、辰雄に今の状況を実感させた。


藩主 山之内洛陽は、井伊藩家老 坂谷太助の説得に応じて、井伊祐直の編成する佐那河内壊滅作戦のための連合軍を、土佐の港に受け入れる方向に舵を切ったのである。その決定に合わせるかのように、藩内急進派である竹内を頭目とする改革派の郷士を次々と捕縛し、粛清していったのである。



(右衛門と弥次郎動く)

夜に、崎田家の裏木戸を開けて、人目を忍んで、辰雄が入っていった。

崎田家の右衛門と春が寝泊りする部屋に集まったのは、春、弥次郎、右衛門、それに辰雄であった。

「このままでは、動きが取れんようになる。そこで、おぬし等に頼みがあるのだが・・。」

こう切り出したのは、右衛門であった。

「右衛門殿は、この土佐で何を目論んでいるのだ。まさか、わしら討幕派の同士を助けるつもりでもなかろう・・。」

弥次郎が、右衛門の目的を問いただした。

「わしは、幕府老中筆頭 井伊を斬りに来た。」

右衛門の言葉に、弥次郎は、何も言えず黙ってしまった。

しばらくして、

「おぬし、面白い男だな・・。好きになったぜよ。わしは、おぬしの企みに乗らせてもらう。わしにできることなら、何でも言ってくれ。」

弥次郎は、右衛門の突然の告白に、大喜びした。

春は、いつもの右衛門の大胆な計画に慣れてしまったのか、ただ微笑んでいる。

辰雄は、弥次郎と右衛門の会話が、いまいち理解できなかった。

「おぬし、薩摩に知り合いがいると言っていたな・・。家老の小松殿は、知っておるか。」

右衛門は、弥次郎が、ただの土佐の武士ではないと思っていた。

「小松さんとは仲ようさせてもろうとる。」

弥次郎がそう言った。

「その小松殿に、わしの手紙を持って行ってくれんか。中身は、かねてから、薩摩からの依頼があった、佐那河内の大砲を含め、武器弾薬を、全て薩摩に売り渡す。その代わり、藩主 島津公には、みかどのための京都御所警備を理由に、大軍を率いて京都へ行ってもらえぬかと・・。もしできぬなら、小松殿を土佐の山之内公に面会させて、京都進軍の薩摩の決意を伝えてもらいたい・・という内容だ。」

右衛門は、弥次郎を全面的に信頼して、考えていた計画を打ち明けたのである。

「ほんまに、おぬし、面白いなあ・・。ますます好きになった。明日にでも薩摩に行って、必ず小松殿を連れてくる。土佐から薩摩は、船を使えば二日で行ける。八方美人の土佐藩主 山之内公は、薩摩寄りの改革派の振りをしたいから、薩摩に気を使い、土佐の港から毎日のように薩摩の船が行き来しているでな・・。一週間もあれば、帰ってくるきに・・。」

いつの間にか、興奮した弥次郎は、半身を乗り出して、右衛門の依頼に応じた。

右衛門は、弥次郎に頭を下げて礼を言うと、辰雄の方を向いて

「辰雄は、明日明け方、この地を出て、佐那河内に行ってくれ。くれぐれも気をつけてな。

あの地で、わしの甥の源一郎と陽明に、今わしが言った、武器売り払いの件、伝えてくれ。

それと、ちょうどいい機会だ。お前は、佐那河内で住めばいい。せっかく春に会えたのだが、土佐でこのまま居たら、必ず、役人に見つかるからな。仔細は、手紙に書いてあるから・・。」

そう言うと、懐から、手紙を出して、辰雄に渡した。

辰雄が、納得したように、右衛門の手紙を受け取って、小さく頷いた。春が、辰雄を、心配そうに見守っている。

その時、障子がすっと開いた。四人の視線が、その方に集中する。

「なんだ、浪江、どうしたんだ。」

弥次郎が、動揺を押さえながら、右衛門の部屋に現れた浪江に声をかけた。

「私も、辰雄さんと佐那河内に行く・・。」

浪江は、消え入るような声でそう言った。

「お前!わしらの話を聞いていたのか・・。」

弥次郎が攻めるように、浪江に言った。浪江が、小さく頷く。

「どうする、辰雄・・。」

右衛門が、にやにや笑いながら、そう言った。彼は、どうやら浪江の盗み聞きに気づいていたようだった。

「わしは、別に、どっちでも・・。」

辰雄は、恥ずかしいのか、俯いて、浪江のように、消え入るような声で、そう言った。

すると、いきなり、春が立ち上がり、浪江の方に近づいて、

「ありがとう。浪江さん・・。これで、また、辰雄を独りぼっちにしなくてもよくなったわ。私は、そのことだけが心残りだったの・・。本当に、ありがとう。」

そう言って、浪江の手を額に当てて、大粒の涙を流した。

「心残りとは、おだやかでないなあ・・。まあ、あの地には、仲間がたくさんいるから・・。

若い夫婦もな・・。」

右衛門が、意味深なことを言って、辰雄と浪江の表情をかわるがわるに見た。

「いやだ、叔父さんたら・・。」

浪江が、はじけたようにそう言って、右衛門の言葉に反応した。

「あほう、大きな声を出すな。兄貴が起きるわ!」

弥次郎が、場違いの浪江の大声に、小声でいましめた。

辰雄は、嬉しさをこらえながら、じっと俯いていた。ただ、右衛門は、浪江に「叔父さん」と言われて、ショックを隠しきれなかった。


朝霧の中、編み笠を被った辰雄と浪江が、寄り添うように、四国の山へ通じる道を歩いて行く。途中まで、離れて二人についてきていた春と右衛門が、小高い丘に登って、小さくなっていく二人を見送っている。

「よかった、追手がいなくて・・。」

春が、二人を見つめたまま、横にいる右衛門に呟いた。

「お似合いの夫婦になるぞ・・。わしらのようにな・・。」

右衛門らしからぬ冗談に、春が右衛門の顔を見て、

「馬鹿!」

と、ぽつりと言った。右衛門が、右手で自分の頭をなでた。

「右衛門、あなた死ぬ気でないでしょうね・・。」

春が、急に表情を変えて、そう言った。

「わしが・・。まあ、わしは、いつ死んでもおかしくないことをやってきたからな・・。これからも、変わらんだろう。ただ、井伊を斬ったら、もう佐那河内には戻れまい。それに、もう一人、お前の仇(土佐藩家老 金崎文藏)にも決着をつけねばな・・。」

右衛門の顔が、一瞬、恐ろしい顔になったのを、春は、見逃さなかった。

春は、次第に右衛門が、自分の本当の夫になっていくことを実感していた。

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