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右衛門シリーズ全編  作者: FZ
28/43

右衛門10-1


横で寝ていた春が、

「ああー。」

と、悲壮な声を上げて、右衛門の首にしがみついてきた。

「どうしたのだ。」

右衛門は、いきなり眠りから覚まされて、今の状況を必死で把握しようとしているようだった。

目覚めて、現実に戻った春は、ふっと息を吐いて、自分が見ていた悪夢から逃れたことにほっとしているようだった。


土佐藩勘定方 桐谷正三が、家老 金崎文藏の御用金横領を突き止め、藩に訴えようとしたのは、彼の藩への忠義からであった。しかし、その訴えは、たちまち金崎の知るところとなった。気が付くと、公金横領の罪は、桐谷の仕業になっていたのである。

「おのれの罪を、御家老の罪にするとはふとどき千万。直ちに桐谷を捕縛せよ!」

藩目附の命により、数人の家臣が桐谷の家に直行した。

しかし、いち早く仲間の知らせを受けた桐谷一家は、捕縛を免れ、家を捨て、逃亡の旅へと出たのである。


(弟の別れ)

桐谷正三には、妻桐谷綾と二人の子供がいた。下の男子は、まだ一歳にもならない幼児であった。上の姉の名は、桐谷春・・。十歳になったばかりの子供であった。

正三は、息子の桐谷辰雄を連れての旅は不可能と判断し、実家の桐谷家を頼った。

「なにとぞ、この子だけは預かってくれませんか。いずれ嫌疑が晴れれば、この地に帰ってくる所存・・。お願い申す。」

正三は、土間に頭を擦り付けて、兄の桐谷兵衛に懇願した。

後ろで見守る妻綾は、とめどなく流れる涙を拭いもしないで、自分に突然ふりかかった悲劇に、どうすることもできないようであった。

「とりあえず、藩の嫌疑を逃れるため、わしの下男の子として、この子の素性を隠そうと思う。それでよいか・・。」

兄の兵衛は、正三の側で膝をおり、彼の背中を見つめながらそう言った。彼の目も涙があふれていた。

「兄上!」

正三はそう言ったなり、兄の手を取ると、自分の額にこすりつけた。

後ろで、綾が泣き崩れた。

「追手が来るやもしれん。急げ!」

兵衛はそう叫ぶと、正三を促した。

間もなく、三人の姿が、闇に消えていったのである。


(右衛門に過去を話す春)

「そうか、春は、その状況をしっかり覚えているのだな・・。」

右衛門が、春を見ながらそう言った。

春は、こくりと頷いた。

「それで、そのことをどう思った。」

右衛門が、重ねて春にそう尋ねた。

「私はね、泣かずに我慢しようと思った。私が、大声で泣いたら、母上が狂ってしまいそうだと思ったの・・。今思うと、それは、わが身を守ろうとする防衛本能かもしれないわね・・。」

そう言って、春は寂しそうに笑った。


(両親との別れ)

やっと追手からも逃れた時には、春と両親は、庄内藩にたどり着いていた。わずかな路銀は底をつき、二人の両親は、行く先々で農作や、大工の手伝いでようやく食いつないでいた。二人の顔からは生気がなくなり、お互い話をすることも億劫なようであった。それでも、春は、両親に空腹を訴えることもなく、絶望の淵に追いやられた両親に、必死で笑顔を見せた。

「この子だけでも、生かそうではないか・・。この世に慈悲の心があるならば、必ずこの子を救ってくださる。わしは、それを信じたい。」

桐谷正三は、春の眠る顔を見ながらそう呟いた。

人のいない寺のお堂で、置かれた金盥かなだらいに木を集め、火を燃やして、やっと暖を取っている。妻の綾は、隙間風を我が子に当てまいと、春の傍に小さくうずくまっていた。

「今日の昼間、街の真ん中に楼閣がありましたよね。ずいぶん立派な建物で・・。」

綾は、春の運命を託す最後の居場所を、その楼閣に決めていた。

妻の言葉に、正三が小さく頷いた。

その時初めて、二人は同じことを考えていたことに気づいたのである。

「わしは、お前や子らに、万死に値する間違いを犯してしまった。いかに正義感からとはいえ、わしの愚かな行動には・・。(正三の目から涙があふれ出る)綾、すまぬ・・。」

そう言った正三は、綾の前で深く頭を下げて、再び上げようとはしなかった。

「私も武士の妻・・。やむを得ぬ死に、ためらいなどありません。ましてや、あなたのなされた行動には、いささかの後ろめたさもありませぬ。ただ、我が子らが不憫で・・。(とめどのない涙が、あふれ出る。)もしこの世に、仏の心があるならば、私の死の代わりに、この子をお救い下さい・・・。」

綾は、そう言うと、お堂の片隅に置かれた小さな仏像に手を合わせた。


右衛門は、流れる涙を右腕でこすり、

「本間光秀殿(元春のひいき)が、わしに寄り添うお前の顔を見て、‘やっと春の顔から悲しみが消えた’と言って、納得するように笑っていた・・。わしには、あの時、あの方の言ったことが理解できなかったが、今、やっとわかったような気がする。」

春が、庄内藩酒田で右衛門に出会った頃、右衛門は、時折、春に包み込むような笑顔を見せた。その微笑みは、右衛門の亡き妻を思った哀愁に似た感情だと気づいたとき、春は雪(右衛門の妻)に嫉妬する半面、その笑顔に、自分の父の面影を探していたのかもしれない。


「母上と父上は、私を遊郭に預けた後、吹雪の中、見送る私を残して吹雪の中に吸い込まれようとしていたの・・。私は、その二人の姿が消えてしまうまで、必死で見ていたの・・。その時、父上が、母上の背中に腕を廻したまま、ふっと振り返って、私の顔を笑顔で見たの・・。私は、それまで何にも言わず必死で悲しみをこらえていたのだけど・・。」

春の言葉に、右衛門の目から涙が頬につたわり始めた。

右衛門は、その涙を拭うのをあきらめて、

「春は、気丈だなあ・・。わしが、もし、お前だったら、二人を追っかけていたかもしれん・・。そうなったら、武士もへったくれもないなあ・・。」

と言って、自分の春への共感を誰かに分かってもらおうと訴えているようだった。

「私もね、その時初めて、悲しみが抑えられなくなって、母上と父上の背中に向かって、‘父上!母上!’って叫んだの・・。でも、私の叫びは、吹雪で両親には届いていなかったと思う。それでよかったの・・。(ふっと、笑顔を見せて)もう、やめましょう。右衛門には、このことを打ち明けるのは、やめておこうと思っていたんだけど・・。」

春からその話を聞いた右衛門は、布団の上で座り込み、暗くなった辺りをじっと見つめて、何やら考えているようだった。

「もうすぐ、夜が明けるわ。馬鹿ね、ひとり考え込んで・・。」

春は、右衛門にそう言うと、背中を向けて眠り始めた。



(井伊の執念)

幕府の執政者井伊祐直にとって、今や、佐那河内の右衛門の仲間を皆殺しにすることが、幕府安泰の絶対条件になりつつあった。彼らは外国との密輸貿易で巨万の富をため込み、井伊の政敵である柳生義親を影から支えていたのである。その海運網は、どんな検閲も及ぶことができない独自のルートを確立し、自由に全国を行き来し、西洋の最新の武器を薩摩、備前等の幕府に不満を持つ雄藩に売り渡し、幕府転覆の火種を作り出していたのである。


「いささか、被害妄想では・・。」

幕府評議で、水野尚則(幕府老中 紀伊新宮3万5千石)はそう言うと、井伊の顔も見ず、せせら笑った。

「水野殿は、柳生殿のお仲間じゃからなあ。そう言われるのも無理もないが、今や佐那河内の連中の悪行は、この幕府をも揺るがしかねませんぞ。」

井伊は、一歩も引く様子はなかった。

「仲間とは、どういう意味じゃ。たとえ老中筆頭の井伊様でも、その言いようは、捨て置けませんぞ!」

水野が、気色ばんだ。しかし、そんな水野の怒りは、井伊には何の脅しにもならなかった。

「すでに、会津、桑名の親藩からも、直接、上様に幕府軍編成の申し出が出ておる。いかに水野殿が反対なされようが、上様の裁断には逆らえますまい。」

井伊はそう言うと、これ以上評議を続けても無駄とばかりに、その座を立って、評議を打ち切った。

ところが、今度は柳生義親が動いた。彼は、尾張藩筆頭家老 竹腰正博を使って、徳川御三家の総意を取り付け、直接、徳川将軍に意見書を提出したのである。

「阿波の山村を襲撃するのに、数万の幕府軍を編成するとは、幕府の威信に関わる一大事。即刻中止されるがよかろう。」

平たく言えば、このような内容を将軍に進言したのである。

将軍の裁定は、御三家意見書に軍配を上げた。しかし、井伊は、佐那河内壊滅をあきらめなかった。井伊を支える雄藩を募って、二万余りの軍勢を集めて、密かに四国上陸を謀ろうとしていたのである。ただ、大きな問題があった。佐那河内村のある阿波藩は、政敵柳生義親に近い河野康正が、藩主であった。さらに、阿波藩家老 大林惣五郎は、義親に送り込まれた策士である。容易には井伊の計画に従わないと思われていた。ただ、この阿波藩家老 大林は、忠義ちゅうぎよりも損得で動く性格の男である。井伊は、そのことを熟知し、何度となく家老の大林に接近した。そして、程なく、井伊の策略は、佐那河内の連中の耳に入り、この危機の対応に迫られることとなったのである。


(柳生義親が阿波藩へ)

まず、井伊の佐那河内壊滅計画は、阿波藩の攻略に向かっていた。井伊の連合軍を受けいれなければ、藩の改易も辞さないと脅された阿波藩主 河野康正は、衰弱しきった顔を見せて、連日、家老の大林と話し合いを重ねたが、結論を出すことができなかった。そして最後には、大林に問題を丸投げして、屋敷に引きこもってしまったのである。

一方、佐那河内の連中にとっても、まず、阿波藩を、確実に味方につけることが喫緊の課題であった。

「家老の大林は、信用できん。いつ井伊に寝返って、大軍を阿波の港に受け入れるか・・。そうなったら、いかに武器の有利があるとはいえ、この村は、押しつぶされてしまう。」

始めに、こう言いだしたのは、又五郎であった。

「そうなれば、戦うのみ。小野忠成様や見能林藩、それに田原藩から有志を募り、援軍を増やせばいい。」

源一郎は、抗戦を望んでいた。

「馬鹿もやすみやすみ言え!相手は、数万の兵だぞ。勝てる相手ではないことは分かっている。私は、佐那河内死守に固執する必要はないと思う。海を使えば、我々はどこにだって行けるのだ・・。我らの拠点を薩摩に移すつもりなら、あの藩は、喜んで受け入れてくれる。」

陽明が、源一郎に反対した。

「村人はどうなる。」

源一郎が、陽明に反論する。

「弥吉さんが、日頃から言っているように、十分な金を配って、新天地で自分たちの暮らしを切り開けばいい。」

陽明は、すでに、村民離散の計画まで考えているようだった。

陽明の言葉に呼応するかのように、弥吉が頷いた。

「当面の問題は、阿波藩を味方にすればよいのでしょ・・。」

志摩(与助の妻)が、いきなり口を開いた。

「何を言っているんだ。それが難しいから、こうやって、皆で話をしているのではないか。」

与助が、妻をたしなめるようにそう言った。

「(夫をきっとにらんで)わかっています。どうでしょう、柳生義親様にお願いしてみれば・・。あの方なら何とかしてくれるのではないでしょうか。阿波藩主といえども、義親様が直接動けば、井伊様に傾くようなことはないのでは・・。」

この志摩の考えに、反論する者はいなかった。

「さすが、志摩だ。与助!お前が江戸へ行って、義親殿を口説き落としてこい。弥吉、阿波藩の道場近くに屋敷を建てて、佐那河内の誠意見せれば、あの方も無下には断るまい。」

こう言って、合意を取り付けようとしたのは、右衛門だった。

「しかし、もし、義親様が動かねば、その屋敷は無駄になるのでは・・。」

弥吉の番頭の勝介が、不安そうにそう言った。

「自分の首が飛ぶかもしれないのに、屋敷の一つや二つ建てる費用で心配しても仕方ないだろう。お前は、まだ大きな対局が見えていない・・。」

弥吉が、不満な表情で、勝介を厳しい目で睨んだ。

「弥吉は、この頃、宗衛門殿のような風格が漂ってきたなあ・・。」

与助が、お世辞を言った。

「その辺でよかろう・・。弥吉を余り持ち上げると、喜一郎(大前屋主人)がいたら、嫌な顔をするぞ・・。」

又五郎がそう言うと、何とも微妙な笑い声が、あちこちで起こった。

ともあれ結論は出たが、幕府の実力者が、そんな依頼に応じてくれるか、誰も一抹の不安を抱いていた。それでも、もし成功すれば、これ以上の妙策はないことも、みんな理解していた。


(右衛門が浜辺で・・)

「どうして叔父さんは、父上から殿と呼ばれるの。」

与助の子供の与一が、右衛門に聞いた。

右衛門は、与助を江戸の柳生義親の元へ送って以来、志摩が忙しくしている間、こうやって与助の子供たち与一と宗助を連れて、佐那河内の周辺をうろうろ散歩するのが日課になった。与助を使う以上、子守りをするのは、当たり前だと思っていたのである。

「さあな。父上は、昔からそう呼ぶのだ。」

浜辺までやってきた三人は、浜辺に座って海を見ていた。早春の光が眩しく海面に反射し、心地のいい風が、時折さっと流れていった。

「私は、又五郎さんが、叔父さんのことを、’右衛門’と呼び捨てにしているのを聞いたことがある。」

宗助が、右衛門の方に顔向けて、そう言った。

「私は、叔父さんのことをどう呼べばいいんだろう・・。」

与一が、宗助の言葉を聞いて、迷ったように右衛門にそう尋ねた。

「お前たちは、‘右衛門’と呼べばいい。又五郎が呼ぶようにな・・。」

右衛門は、笑顔で二人にそう答えた。

「わかった。宗助、波打ち際まで行って、波に足をつけようか。」

与一がそう言うと、二人は立ち上がり、波打ち際に向かって駆けだした。


「お前も、二人と一緒に行ってこい。」

右衛門の後ろで、権蔵が孫(丹波の子)の手を引いて立っていた。

右衛門は、振り向いて権蔵の顔を見てほほ笑んだ。

「おぬしも、そうやって孫を連れていると、忍びなどとは思いもつかんな。」

右衛門は、最初すぐには、権蔵が後ろにいるのを気付かなかったのである。

それほど、穏やかな空気しか背後で感じなかったのである。

権蔵に言われた孫のかなめが、与一と宗助を追って駆け出した。

「この地に来て以来、すっかり気持ちが落ち着いてしまい。忍びとしては、失格かもしれませんなあ・・。」

右衛門に声をかけられた権蔵は、右衛門の横に座って、そう言った。

波打ち際で、子供たち三人のはしゃぐ声が、朝の活気となって辺りを陽気にしているようだった。

「権蔵は、井伊藩の京成については、熟知しているようだが・・。」

右衛門は、何気なくそう聞いた。

「忍びの世界で、奴を知らない者はいないですよ。京成は、我々の仲間内では、怪物と呼ばれている桁違いの強さを秘めた忍びです。たとえ右衛門様でも、油断すれば命を持っていかれますよ。」

権蔵は、波打ち際で遊んでいる子供たちのはしゃぐ声に耳を傾けながら、そう言った。

「以前、丘の上の屋敷に忍んでいた賊に一太刀浴びせたことがあるが、とんぼをきってかわされた。恐ろしい身体能力の持ち主なのは実感していたが・・。(権蔵の方を向いて)奴には、それだけではない必殺があるのではないか。」

右衛門は、そう言って、権蔵をじっと見た。

「さすがは、右衛門様だ。何か察していなさるな・・。」

権蔵は、右衛門の真剣な眼差しに答えるように、そう言った。

「京成は、一人でないな・・。」

右衛門が、そう言うと、権蔵は驚いたように、右衛門の顔を見た。

「別に褒めるつもりはないが、あなた様は、得体の知れないほどの洞察力をお持ちの方だ・・。わしは、あなたのような剣豪を見たことがない。死闘の前に、戦う相手のすべてを見抜いてしまうようなすごみをお持ちだ。普段は、どう見ても、何処の藩にも仕官ができず、そこいらをうろうろしている浪人と区別がつかないが・・。」

権蔵は、そう言って、大きな声で笑った。

「おぬし、それは誉め言葉か・・。それともけなしているのか。」

右衛門は、権蔵の言葉に、いつも言われ慣れているように、茶化して答えた。

「奴には、もう二人、切り離せない兄弟がつかず離れずくっついていますので・・。一人は京葉、京成とは双子の片割れ。もう一人は京士、一つ違いの弟です。忍び仲間でも、京士と京葉の存在を知らない者もいるぐらいです。普段は、忍びの役目はしていないようで、どうしても、殺さねばならない相手が出現したときだけ、三人一組で、その相手を狙う・・。もし、三人に狙われたなら、万が一つにも助かる見込みはないと言われている恐ろしい刺客集団です。」

権蔵は、右衛門の言葉に答えることはせず、京成について詳しく語った。

「奴らは、幼いころから、忍びだった父親に、三人一組になって、どうやって呼吸を合わせれば、相手を必ず仕留められるか、ずっと鍛え上げられた殺し屋の化け物のような三人なんです。そのやり方は、まるで太鼓を打つバチのように、無駄のない流れのように攻撃をかけて、人をしとめてしまうのです。わしも、奴らの犠牲になった者たちを見たことがあるが、まるで、クマに襲われた死体の様でした。相手が、ひとたび傷を負えば、容赦のない波状攻撃が、かわるがわるに繰り出される。犠牲者が、息をしなくなるまでね・・。」

権蔵は言い終わると、依然見た恐ろしい光景を想像して、体を震わせた。

「いかに恐ろしい相手でも、挑まれれば、逃げられまい。相手の息の根を止めるまではな・・。」

右衛門は、権蔵の話を聞き終わると、ぽつりとそう言った。

「気持ちのお強いお方だ・・。右衛門様、その時は、私に何でもお申し付けくだされ。わしとて、忍びだ。京成をしとめる片棒が担げたとなると、これに勝る名誉はない。わしにも、最後の花道があるかもしれんな・・。」

そう言った権蔵の目は、らんらんと輝いていた。



(柳生義親が阿波藩に入る)

与助が江戸に行って半年後、佐那河内の依頼に応じて、柳生義親が、阿波の港に到着した。弥吉は、その間に、阿波藩道場の裏手に立派な屋敷を建てたのである。


彼の到着を出迎えるために、阿波藩主 河野康正と家老 大林惣五郎が港で待っていた。

藩主康正は、義親が阿波に来ると知らせを聞いて以来、ふさぎこんでいた気鬱が晴れるように、毎朝、散歩で馬に乗り外に出かけた

「これで、わしの首もつながった。義親様自ら、我が藩に来てくれたのだ。これ以上心強いことはない。井伊様もそうそう言いがかりは付けられまい・・。」

大林が顔を出すたびに、康正はきまってそう言って、阿波藩の難題が遠のいたことを喜んだ。一方、大林は、義親が阿波に来ることに、一抹の不安を感じていた。それは、井伊藩からの誘いに対して、毅然とした態度ではねつけなかった自分への義親の評価が気になっていたのである。


義親は、まるで行きかう人々に見せつけるかのように、藩主と並んで馬に乗り、阿波藩の大通りを進んで行った。その行列の中に、長谷部正幸(佐那河内四強)の姿も見られた。

「なかなか立派な屋敷ができましたなあ。」

藩主 康正は、義親のために弥吉が建造した阿波藩道場の裏にある屋敷を道案内すべく、義親に従っていた。

「弥吉の好意で、思いがけない屋敷を建ててもらった。これほどの屋敷を造らせた以上は、河野殿、しばらくこの地で厄介になりますが、よろしかな・・。」

義親はそう言うと、康正の表情を確認した。

「それは、こちらの望むところ・・。柳生様がこの地で滞在されるだけで、藩の格が上がったような気持ちになります。」

康正の無邪気な喜び方を見て、義親は、井伊の影響が、この藩に深く及んでないことを確信した。

「ところで、大林、おぬし、今回の井伊様の動きどう見る。」

義親の質問に、大林はさっきから抱いていた不安を抑えきれなくなっていた。

「聞くところによりますと、井伊様は幕府の公認がなくとも、会津様等と佐那河内追討軍を編成して、攻め入ると聞いておりますが・・。」

義親の情報力からすると、すでに井伊の計画を把握していると思った大林は、腹の内を隠すことなく、義親に報告した。

「おぬしの言う通りじゃ。さすが、策士と言われた大林だ・・。大目付の秋山正直が、おぬしが阿波藩家老になったことを、悔やむのも無理はない。」

義親は、そう言うと大きな声を出して笑った。

傍で控えている秋山正幸が、意味ありげな微笑みを浮かべたのを、大林は見逃さなかった。

「いや、私など・・。」

義親の言葉にどう反応していいかわからず、大林はそう言ったなり言葉を詰まらせた。

すると、

「どうであろう、しばらく江戸の大目付を助けてくれんか・・。いや、何も阿波藩家老の重責を退けとは言っておらん。ただ、今は井伊様の不穏な動きに、江戸で対応する、おぬしのような策士がいないのが不安でのう・・。わしとて、今回の一件、どうしても後に引くことはできんのだ。佐那河内を潰されれば、わしの幕府での立場は、壊滅するに等しい。それ程、わしにとって、佐那河内は大事な村なのだ。」

義親の言葉は、大げさではなかった。義親が動かす幕府の重要人物への影響力は、佐那河内からもたらされる財政面での援助が不可欠だったのである。

義親は、自分の意図を分らせようと、不安そうな表情を見せる大林の顔をちらっと見た。

「井伊との争いが決着するまで、今回の争いから身を引け」

と言いたいのである。大林にとって、事実上の降格人事であった。

「よろしいかな、河野殿・・。」

義親は、大林の意向を聞く前に、藩主に承諾を迫った。

「よろしいも何も。柳生様の御存分に・・。」

藩主の言葉で、大林は阿波を去ることが決定した。

「後任には、この長谷部正幸を努めさせます。正幸、河野様にご挨拶を・・。」

義親がそう言うと、正幸は、藩主 河野康正の方に向き直り、手をついて深々と頭を下げた。それ以後、大林は、その場にいないかの如く、誰も彼に声もかける者はいなくなった。

これで、事実上、阿波藩は、反井伊派の中心人物である柳生義親に押さえられたのであった。

阿波藩主と柳生義親の会談後、すごすごと退席していった阿波藩家老 大林惣五郎の寂しい後姿だけは、皆の印象に深く残った。そして、この知らせは、間もなく井伊の耳に入ることになったのであった。



(小夜の恋)

マイケルは、大変なことをしてしまったと、夜寝られなかった。

「桜はきれいでしょう。」

たまたま桜の木の下を通りかかった小夜は、桜の花をじっと見ていたマイケルに声をかけた。

「・・・」

言われた言葉が分からないマイケルが、小夜にほほ笑みかける。

小夜は、そのままマイケルに近づき彼の横まで来ると、背伸びして桜の枝をぽきりと折り、マイケルに差し出した。

「ほら、帰って花瓶に生けてみたら・・。」

マイケルには、言った言葉は分らないが、小夜の無邪気なほほえみが、櫻のたおやかさを引き立たせているようだった。

その時、思いもよらないことが起きた。マイケルが枝を受け取ると、小夜の頬にキスをしたのである。辺りは、春のうららかな空気で、みんながつい微笑みをうかべるような陽気である。マイケルの突然の口づけは、そんな陽気に誘われるような、甘い衝動に誘われた素直な行為だったのかもしれない。

「OH MY GOD!」

自分の自制心のない行為に気づき、マイケルがそう叫んだ時には、すべては手遅れだった。

驚いた小夜は、その場で声も出さずに立ちすくんだ。

「ごめん」

マイケルが、悲しそうな声で、日本語でそう呟いた。

マイケルはサムと違い、日本語を学ぶのが好きだった。陽明に日本語を学ぶテキストまで作ってもらい、日本語の片言を喋るまでに上達したのである。彼は、この佐那河内が好きだった。ナタリーが、イギリスからの船が来ても、乗船して帰ろうとしないのを見て、心の中でほっとするのであった。

マイケルの言葉を聞いた小夜は、はっと自分に返り、頬に手を当てたまま、まっすぐ丘に通じる一本道を走り去ったのである。その時初めて、マイケルは、大変なことをしてしまったことに気が付いた。


屋敷に帰ったマイケルは、自室に閉じこもり弥吉の配慮で作ってもらった大きな机の前で、椅子に座ったまま、今日の昼間の出来事を思い返していた。小夜の驚いた顔、優しいほほえみ、桜の枝を差し出した白い手・・。

「私は、小夜が好きだったのかもしれない。」

今さらながら、そんな自分の感情に気づき始めていたのである。確かに、自分はこの佐那河内が好きだった。しかし、もし、この地に小夜がいなかったら、今思っているほど、この地に執着しただろうか・・。そう思うと、今の自分の気持ちが、小夜なしでは説明できないことを、改めて認識したのであった。その一方、

「今日のことで、又五郎が鬼のような顔をして、私を殺しに来るかもしれない。」

そう思うと、心に秘められた甘酸っぱい恋の感情が、いっぺんに吹き飛ばされる気分であった。又五郎は、右衛門に次ぐ剣豪である。もし、この扉をけ破って、刀の一撃を自分に浴びせたなら、自分の命などひとたまりもないだろう・・。そう思うと、マイケルは、自分の銃を手元から放すことができなかった。


翌朝、マイケルは扉をたたく音で飛び起きた。

「どなた。」

おどおどした声で、やっと日本語でそう答え、恐る恐る扉を開けた。

そこに立っていたのは、俯いて恥ずかしそうにしている小夜であった。

「小夜さん!」

マイケルは、思わず大きな声を張り上げた。そして、自分の声に驚いたかのように、辺りを見渡した。

「昨日は、ごめん。いきなりだったから・・。あんなことで、逃げ出すなんて・・。西洋じゃ、あんなこと友情の挨拶なのだと分かったの・・。わたし何も気にしてないから。だから、今まで通り、私と接してね。」

小夜は、そう言い終わると、マイケルの顔を見てにこりと笑った。

もちろん、マイケルには、小夜の言葉が分かるはずがない。それでも、マイケルは、小夜が許してくれたことを理解したのである。

「小夜さん。コーヒー・・。」

マイケルは、そう言うと、嬉しさのあまり、小夜の手を取ると、小夜を自分の部屋に招き入れた。今日の小夜は、マイケルのそんな行動にも驚きもせず、誘われるままにマイケルの部屋に入っていったのである。つまり、小夜にもマイケルの積極的な行動に逆らえない甘い恋の誘いがかかっていたのであった。


この出来事以来、小夜は、人の目を盗んでは、マイケルの部屋に忍び込み、言葉の意味もお互い分からず、それぞれの母国語で言葉をかけあった。しかし相手を好きになるということは不思議なことである。相手の言葉が理解できないのに、なんとなくわかり合えるのである。いわゆる、以心伝心とは、こう言うことなのだろうか・・。やがて、マイケルは必死で小夜から日本語を学び、日本語を片言ながら話せるようになり、小夜も英語を時折喋るようになった。彼らは、幸い、住んでいるところは丘の広大な屋敷の一角だったので、人目を忍んで小夜は、一日何回もマイケルの部屋を訪ねるようになり、やがて、待ち合わせ場所を定めて、港の周辺、山の中腹、海岸と、いろんなところで会うようになったのである。当然、二人の姿は、ナタリーや陽明等の若者同士の仲間に知れることとなっていったのである。ただ、偶然にも、いや、幸か不幸か、又五郎と早苗(小夜の母)には、まったく二人の仲は知られずにいた。



(右衛門の悩み)

柳生義親が、阿波藩にやってきて、佐那河内の仲間である正幸が、阿波藩筆頭家老に就任すると、佐那河内の連中には、井伊の脅威がなくなったかのような安堵感が広がった。ただ、陽明と右衛門だけは、井伊の次の一手を注意深く見守っていた。その意味では、井伊を熟知する柳生義親も例外ではなかった。

そして、右衛門には、もう一つ難題があった。それは、春の過去を聞いた以上、そのままにはしておけないと思っていたのである。

「いずれ、春と土佐に行って、春の弟の消息を尋ねなければならない・・。それに、春の親の仇である土佐藩家老 金崎文藏の消息も調べねば、春の心の傷に決着は付けられまい・・。」

右衛門は、腕を組んで、そんなことを考えながら、山道を下っていた。

その時、右衛門は、前方正面と左右に殺気を感じた。彼は、異変を感じた感覚を悟られないように、動揺を抑えるように目を閉じて、あゆみを進めた。

しばらくして、三方の殺気は、気を一つにして、右衛門にとびかかってきた。彼らの刀の長さは長剣より短く、そりも浅かった。忍びである・・。

右衛門は、三人の中心の位置から自分の体をそらすように、右足を大きく前斜めに踏ん張ると同時に、目にも止まらぬ速さで刀を抜いて、横に振った。

「ううう。」

右から襲ってきた忍びが、右衛門の刀の一閃を避けられずに、胴を払われ血しぶきを上げた。右衛門は、休むことなく返し刀を振って、左から襲ってくる刺客をしとめようとした。すると、その忍びは、初めの斬られた男より浅く踏み込んでいたのか、とんぼをきって右衛門の太刀をかわしたのである。右衛門の一連の動きは、正面の男に向かった。右衛門は、休むことなく連続の太刀裁きで、逆袈裟に正面から襲ってくる男に刀を振り上げた。しかし、その刺客も、相手の動作を計算したかのように、とんぼをきって右衛門の一撃をかわしたのである。次の瞬間、右衛門の傍らには、最初に仕留めた忍びの死体だけが地面に転がっていたが、残り二人の忍びの姿は、消え失せていたのである。


村人から知らせを聞いた丹波と三郎、それに権蔵が、間もなく死闘を繰り広げた場所にやってきた。

「右衛門様が、二人も逃すとは・・。」

三郎が、その場を見ながら、驚いたようにそう呟いた。

「要するに、わしの刀の速さが、奴らには通じなかったのだろう・・。」

右衛門が、淡々と自分が戦った状況を説明した。

「逃げたのは、きっと、京葉と京士に違いない。この死んだ男は、京成の代役ですよ・・。」

丹波が、自分の見立てに自信をもってそう言った。

「奴らは、右衛門様の太刀の速さをはかりに来たに違いない。右衛門様、奴らは、あなたを狙っていますよ。わしは、前に言ったと思うが、奴ら三人は、狙った獲物はけっして逃がさない・・。」

権蔵の言葉には、すごみがあった。

「仕方あるまい。挑まれれば、逃げるわけにはいくまい。」

右衛門の覚悟を決めたような言葉に、権蔵は何かほっとした。

「右衛門様、奴らとの死闘だけは、このわしに手伝わせてください。わしも年を取ったが、この一件だけは人に譲れない・・。三郎、丹波、お前らは、手を出すな!」

権蔵は、そう言うと、二人を睨め付け、振り返って、右衛門ににやりと笑った。



(マイケルの決意)

陽明の部屋に、若者たちが集まった。

滝、サム、マイケル、ナタリー、万平、若狭、三郎、それに源一郎である。

「(英語)又五郎さんには、私が結婚の許しをもらうつもりです。」

万平、陽明が思わず、顔を見合わせた。

「(英語)それがいいわ・・。」

ナタリーが、マイケルの言葉に賛同した。

小夜は、マイケルの言葉が分かったのか、彼の右手を強く握りしめた。

「マイケルは、なんて言ってるんだ。」

言葉が分からない源一郎が、じれたように陽明に尋ねた。

「マイケルは、直接、又五郎さんに、小夜との結婚の許しを申し出るつもりらしい。」

陽明が、淡々と説明した。

「それはどうかな・・。あの又五郎さんだぞ。私は怖くてできない。」

源一郎は、又五郎の怒った顔を想像しながらそう言った。

若狭と三郎が、同調するように深く頷いた。

「どうでしょう。まず、右衛門様に話してみては・・。あの方の了解が得られれば、ご両親も、何とか説得できるのでは・・。ああ見えて、又五郎様は右衛門様を信頼してると思うの・・。」

滝の提案は、みんなの賛同を得た。

「しかし、’ああ見えて’とはどういう意味だ。」

滝の言葉が気になった若狭が、妻にそう尋ねた。

「だって、又五郎様の右衛門様へのいつもの態度は、どう見ても信頼している様には見えないんだもの。」

滝の言葉に、日本語が分かる連中が、合わせたように薄笑いを浮かべた。

結局、彼らは、源一郎、万平、陽明とナタリーを選んで、右衛門の所に二人を伴うことで、話の結論を出すことになったのである。


彼らは、右衛門の部屋で神妙な顔をしている。右衛門に小夜とマイケルの結婚の承諾を求めたのである。


右衛門は、陽明の言葉を黙って聞いていた。

「わしは、又五郎が、小夜とマイケルの結婚を許すとは思えんが・・。前の田原藩の一件で、小夜の前の夫の安住博也が、殺されたことで、又五郎は、まだいまだに博也に責任を感じている様だ。その小夜が、今度はイギリス人のマイケルと結婚するとなると、奴の気持ちは複雑だろう・・。(マイケルの顔を見て)ところで、マイケルは小夜の前の結婚のことは・・。」

すこし、言いにくそうに、右衛門がそう尋ねた。(すぐに、陽明が通訳する。)

すると、マイケルは、知っていると頭を縦に振った。

「それでも小夜と一緒になるのか・・。イギリスの青年もなかなか一途いちずなところがあるものだ・・。」

右衛門は、感心したように、腕を組んだままそう言って、何かを納得したように頷いた。

「叔父上、つまらないことを言わないで下さい。どうなのです、この結婚賛成してくださるのですか・・。」

陽明が、右衛門の煮え切らない言葉に業を煮やして、結婚の承認を取り付けようとした。

右衛門は、内心、陽明の強引さが気に入らなかった。

「お前なあ、人のことばかり言ってる場合か!」

右衛門の語気は強かった。

「何か、私に不満でも・・。」

陽明が、右衛門にくってかかった。

「お前は、ナタリーがこの地にこうやって、じっと我慢して留まっていることを不憫に思わないのか・・。」

何かを察知した万平が、右衛門の言葉をナタリーに通訳し始めた。

「どういう意味です。」

陽明の顔が、興奮して赤くなり始めた。

源一郎は、その様子を見ながら、さっきからにやにや笑っている。

マイケルと小夜は、何だか置き去りにされたように、さっきから、ぽかんと右衛門と陽明の言い争いを眺めていた。

「ナタリーは、お前の求愛をじっと待っているんだぞ・・。その女心も知らないで、他人の結婚の世話を焼いているお前を見ていると、あきれて物も言えんわ・・。」

右衛門は、自分が大人げないとは思いながら、日頃からの陽明の無神経な態度が我慢ならず、この機に陽明の態度を改めさせようと思ったのである。

「そんなこと・・、ナタリーは、望んでいないですよ。彼女は、ただこの地が好きで留まっているだけです。」

陽明は、急に語気を弱めて、口ごもりながら、右衛門の攻勢に防戦一方になった。

「だったら、ナタリーに聞いてみろ!ナタリー、わしが言っていることは間違っているか。」

右衛門は、自分が止められない程、この言い争いに勝ちたいと思った。

日頃から、自分の頭脳の良さに優越感を持ち、先の佐那河内襲撃でも、思いののままの作戦で勝利した陽明の自信を、傲慢な過信ととらえていたのは、右衛門だけではなかった。

「(英語)私は、佐那河内が好きだから、この地でいるの・・。陽明の言う通りだわ。(陽明が、勝ち誇ったように右衛門を見た)でも、右衛門は私の気持ちをよく理解してくれているわ。ありがとう、右衛門。」

ナタリーは、そう言うと右衛門に微笑みかけた。万平が、言いにくそうにナタリーの言葉をみんなに伝えた。

「どうやら、叔父上の勝ちらしいな。陽明!女からあんなことを言わせて、黙っているのか・・。」

源一郎の顔は、真剣になっていた。(陽明は、敗者のようにうなだれている。)

気まずい空気が流れ、誰も口がきけなくなった。

しばらくして、

「(英語)どうだろう、私たちと一緒に陽明とナタリーも結婚したら・・。」

小夜、万平、サム、それにナタリーと陽明は、いきなりのマイケルの提案に唖然としていた。

「(英語)わたしはいいけど・・。」

ナタリーが、ぽつりと言った。

マイケルの言葉も分からのに、右衛門は、皆の表情からすべての状況を把握していた。

「陽明、おぬし、黙っていたら、男ではないぞ!」

そう言って、陽明の顔を睨みつけた。

また、誰も口をきかない気まずい時間が流れた。

そして、やっと、陽明がぽつりと言った。

「叔父上が、マイケルと小夜の結婚を認めるなら・・。」

陽明が、ぼそぼそと呟いた。

「分かった。わしはマイケルと小夜の結婚を認める。小夜、又五郎が聞いたらそう言っておけ。ところで、陽明、おぬしは、ナタリーに一言ちゃんと言葉をかけねばなるまい。」

右衛門の言葉に、陽明は自分が逃げられない立場に追い込まれたことを、改めて確認した。

時間が、静かに流れ、みんなの顔から笑顔が消えて、陽明の次の一言をみんなが待っている様だった。そして、

「Natalie,marry me!(結婚しよう)」

静寂の空間に陽明のしっかりした言葉が、響き渡った。

ナタリーの目から、大粒の涙が流れ、陽明の胸に飛び込んだ。

大きな歓声が、湧きあがり、みんなが大声で祝福し始めた。

小夜とマイケルは、少し自分たちが放っておかれたような気になったが、皆の雰囲気に遅れまいと、陽明とナタリーの祝福を、自分たちへの祝福ととらえて、輪の中で大きな声で歓声を上げていた。

ただ、右衛門だけは、そんな歓声の輪の中に入るほど熱気を感じる若者でないことを、少し寂しい気持ちで、眺めていたのだった。



(土佐藩主 山之内洛陽という男)

右衛門がまだ見能林藩の藩主のころ、江戸で幕府の務めをしていた時に、実務上の間違いを起こしたことがあった。それは、将軍お目通りを許された各大名の拝謁の際に、名前を呼ばれる順番を間違えて書き記した書面を作成し、土佐藩山之内洛陽の順番を伊予伊達藩主の後ろに回してしまった間違いであった。

山之内は、将軍拝謁の後、早々に江戸城を出て屋敷に帰ってしまった。江戸城に残った右衛門は、土佐藩の家老たちにさんざん文句を言われ、仕舞には、土佐藩邸迄謝りに行くことを強要されたのである。

「仕方ありませんなあ・・。殿、私と一緒に謝りに参りましょう。幸い、山之内様と言えば、豪放磊落ごうほうらいらくなお方で、名君と聞き及んでおります。殿が、率直に謝れば、すべては丸く収まるのでは・・。」

見能林藩家老 野瀬清兵は、そう言って、右衛門に謝りに行くようにと促した。


土佐藩江戸屋敷に右衛門と清兵が、土佐藩主 山之内洛陽に謝罪の目的で訪れたのは、不始末が起こった日の夕刻になってからだった。

「殿は、お会いするつもりはない。早々に帰られよ。」

対応に出た土佐藩家臣は、わざわざ土佐藩邸迄謝りに行った右衛門を、追い返そうとした。

「昼間の土佐藩家臣の言ったことと、話が違うではないか・・。」

右衛門は、湧き上がる怒りを押さえるのに必死であった。

一方、この対応に腹を立てて怒りを爆発してしまったのは、右衛門よりむしろ見能林藩家老 野瀬清兵であった。

「藩主が、わざわざこうやって山之内殿に謝りに来たというのに、この藩には礼儀と言うものはないのか!」

清兵は、わざと奥まで聞こえるように、声を張り上げてそう言った。

「何を言うか、小藩の藩主ごときが・・、そんな身分をわきまえぬ者だから、大事な藩の格を間違えることになるのだ。」

応対に出た三人の家臣の一人が、そう言って、右衛門の顔を見て語気を荒げた。

「おぬし、我が主君に向かって・・。」

清兵が、刀の束に手をやって、なじった土佐藩家臣に挑みかかろうとした。

すると、三人の土佐の家臣が刀を抜いた。

「おぬしら、わしの前で刀を抜いて、ただで済むと思っておるのか・・。」

清兵の後ろで見ていた右衛門が、低い声で三人の侍に声をかけた。

「ただで済まねば、どうなると言うのじゃ・・。見せてもらおうか。」

家臣の一人が、右衛門に挑むようにそう言うと、あざけるようにせせら笑った。

すると、次の瞬間、目にも止まらぬ速さで抜刀した右衛門は、清兵の前に進み出るやいなや、右左に太刀を振り、二人の侍に致命的な傷を腹部に負わせると、その勢いを保った一連の動作で、正面の侍を、頭から胸にかけて袈裟に斬って落としたのである。

斬り殺された三人の土佐家臣の叫び声を聞いた屋敷は、騒然となった。

「ごめん!」

血まみれの刀を肩に置いた右衛門は、そう言うと、土足で廊下を歩き、藩主 山之内のところへ向かった。そのまま廊下をつかつか進むと、藩主のいる部屋の障子から、右衛門めがけて槍の刃先が障子を突き破って、右衛門の体を突き刺そうとした。しかし、すでに気配を感じた右衛門は、その攻撃をかわすと、槍の切っ先を刀で叩き落とし、障子を上から下へと刀刃でまっすぐ斬り落とした。

「ううう」

障子に、真っ赤な鮮血がほとばしり、障子紙を真っ赤に染めた。槍の男は、障子もろとも、前に倒れこんだ。障子がなくなったことで、部屋の内側が見えた瞬間、藩主の傍らで山之内を守っていた家臣が、勢いよく、右衛門に上段から斬りこんできた。しかし、右衛門の水平斬りは、その家臣の攻撃より速かった。斬りかかった家臣は、もんどりうって庭まで転がり落ちて、そのまま動かなくなってしまった。

奥には、防御のつもりで、右手を右衛門の方にかざして、腰を抜かせたまま震えている山之内洛陽が、言葉にならないわめき声をあげていた。

「一同!これ以上死人を出すつもりか・・。(藩主の方を向いて)山之内殿、刀を収めるように、家臣に命じなされよ!」

右衛門はそう言うと、刀を鞘に収めて、山之内を睨み付けた。

「みな、やめい!刀を収めよ!」

山之内のかすんだ声は、必死の懇願のように聞こえた。

「山之内殿、後はあなたの胸三寸だが・・。この一件、お上に訴え出ても構わぬが、そうなれば、土佐藩も見能林藩の道連れになりますぞ!わしの妻の親は、大目付家老 秋山正成であることは、御存じのはず・・。私は、必ず、喧嘩両成敗に持ち込んでもらう所存・・。だが、おぬしが、何もなかったことにすれば、この一件何もなかったことになる。ここから先は、おぬしの勝手だ・・。」

右衛門はそう言うと、清兵を伴って、土佐藩邸を悠々と出たのである。


「殿、やはり先代は、殿のその剣にほれ込んで、無理にもあなたを藩主にしたのですなあ・・。わしは、やっと合点がいきました。」

清兵は、右衛門を責めることなく、そう言って、大きな声で笑った。

恐らく清兵も、土佐藩が騒動を表に出すことがないと確信していたのだろう。

「よいか、わしのやったことは、家臣には内緒だぞ。」

清兵の方に振り向いた右衛門は、真剣な目をして彼を睨んだ。

清兵の予想通り、この騒動は表に出ることなく、山之内洛陽の世間に伝わる幕府改革派で豪胆な人物像に泥を塗る事件にはならなかった。



(義親と右衛門)

「ところで、右衛門殿は井伊をどう見る。」

寺の奥の来賓の部屋になった座敷に柳生義親が通されて、右衛門は、井伊に対しての今後の出方を、義親と協議していた。もうすでに、義親が、阿波に滞在して一か月になる。その間、井伊祐直は、佐那河内壊滅の軍勢を立ち上げるでもなく、じっとこちらの出方を見守っているようであった。

「この地の殲滅せんめつ作戦は、あきらめていますまい。おそらく、義親様が阿波からお立ちになるのをじっと待っているのではないかと思いますが・・。」

右衛門が、そう答えた。

「たとえわしが阿波に居続けても、あの井伊殿のことだ、阿波の港を上陸するのは断念しても、次の手を考えるはずだ。次の一手、右衛門殿はどう見る。」

義親は、そう言うと、右衛門の顔を見て、にやりと笑った。

「高松藩は、わが友の多度津藩主 京極殿が、高松藩主 徳川頼道様を必死に説得なさっているし、井伊様に寝返ることはありますまい。元々、高松藩は、御三家に次ぐ親藩、尾張が義親様よりとなれば、その反対側にはまわりますまい。」

右衛門が、現在の情勢を説明した。

「高松上陸は消えたとなると、残るは、土佐藩。あの地から、二万の軍勢が、佐那河内になだれ込めば、我らでは防御しようがあるまい。」

義親の表情から、笑顔が消えた。

「土佐藩主 山之内洛陽様は、江戸幕府改革派で薩摩藩に近いと言われております。幕府体制維持派の井伊様のために動くかどうか・・。」

右衛門は、土佐藩について世間が評している一般論をわざと言って、義親の方を見た。

「果たしてそうかのう・・。右衛門殿はあの方を良く知っておられよう。おぬしが、見能林藩主時代に、土佐藩と騒動があったと聞いておるが・・。もっとも、この話は、一切極秘。当時、わしが大目付だった時代の出来事だが・・。」

義親は、そう言うと、にやりと笑った。

「やはり、ご存じでしたか・・。まあ、あれだけの事件、幕府大目付の耳に入らなかったはずはないですが・・。山之内殿は、藩内の急進派の手前、薩摩寄りの恰好はしていますが、内心では、現状体制を変えるようなお方ではない。というのが、私の見方です。ついでに言うなら、あの方は、噂ほどの人物ではない。」

右衛門は、内心では、山之内の評価を低く見ていた。

お互い、何か考えているのか、しばらく沈黙が続いた。

「忍びを土佐へ送り込み、様子を見るか・・。」

ようやく、義親が、打開策を提案する。

「いや、それは、かえって不都合かと・・。できれば、義親様の配下の者は、高松を探らせてくれませんか。そうすれば、井伊藩の京成らは、我らの真の狙いを見誤る・・。」

義親は、右衛門の狙いが分らなかった。

「真の狙いとは・・。右衛門殿には、何か策がおありか。」

義親と正幸が、身を乗り出した。

「私は、この難題以外に、土佐の家老 金崎文藏という男に、いささかけじめをつけさせたいことがありまして・・。なるべく早く、土佐に向かおうと思っております。」

右衛門の言葉は、義親の質問の答えになっていなかった。

「何が言いたいのだ・・。右衛門殿。」

義親が、右衛門の本音を聞き出そうとした。

「あの方は必ず土佐に来る・・。(しばらく沈黙が続き)そうなると、わしは、もうこの地にも帰れず、仲間にも会えますまい・・。」

右衛門のやろうとしていることは、誰にも語れない最後の挑戦だった。もし、彼の意図が漏れたなら、それは自分自身の終わりのように思えたのである。

右衛門は、自分のやろうとしていることを分かってもらおうと、思わせぶりなことを言って、真剣な顔で義親の目を見た。

すると、義親は、右衛門の視線にはっとして、

「おぬし、死ぬ気か・・。」

義親が、そう言うと、右衛門は、下を向いてにやりと笑った。

「これは、万が一の話・・。だが、もしそうなったら、後は義親様に任せましたぞ・・。」

右衛門が、ぽつりと呟いた。

義親は、右衛門の言葉を深く受け止めたが、何も答えようとはしなかった。義親にも、右衛門のやろうとしていることが途方もないように思えて、世の中の状況をどう変えるか予測がつかなかったのである。

再び、二人の間で沈黙が続いた。二人の会話は、次第に余りにも重たい話し合いになろうとしていた。

その時突然、右衛門が、話を変えた。

「ところで、佐那河内で陽明とナタリーの婚儀がござましてな。うまくいけば、もう一組・・。義親様、その祝いに出席願えませんか。できれば、阿波藩主様も伴われて・・。この地始まって以来の祝いをしたいと思っています。できれば、じっと様子を見ている井伊様にも伝わるように・・。あの方がじれて、じっとしていられないほど盛大にやりたいのですが・・。」

そう言って、右衛門が、義親に笑顔を見せた。

「ほう、その際は、喜んで出席しますぞ。藩主 河野殿も誘って・・。」

右衛門の笑顔につられるように、義親がそう応じた。

右衛門が、突然、重たい雰囲気を変えた意図にも関わらず、右衛門の投げかけた策略は、義親の頭の中から消し去ることはできなかった。



(又五郎の挑戦)

義親は、阿波に来て以来、しばしば佐那河内を訪れるようになった。彼の本音を言うと、佐那河内に来られることが、阿波にいる一つの理由だったのかもしれない。


いつものように、義親は、長谷部正幸と阿波柳生門弟を伴って佐那河内に来ていた。

夜に、右衛門や正幸、それに和尚と酒宴を終えた義親は、そのまま佐那河内で一晩宿泊した。そして、その翌朝、佐那河内の道場で、阿波藩柳生門弟と与助や源一郎と対抗試合を見物することになったのである。

源一郎は、対戦相手をことごとく退け、五人抜きを終えたところで、道場の片隅の板の間に座り込み、じっと与助と正幸の対戦を見守っていた。道場の周りは、あふれんばかりの人だかりで、柳生門弟以外にも、多くの侍が、阿波藩城下から押しかけていたのである。

二人の対戦は、いつものように一進一退で、互角であった。

「どうも、二人の試合は、切羽詰まった迫力がない。何か相手の技量ばかり推し量り、積極的に倒しにいこうとせぬ・・。江戸道場の対戦を、再び見ているようじゃ。(壁に寄りかかり、じっと戦況を見ている右衛門の方を向いて)どうだろう、二人を木刀で戦わせては・・。」

義親が、右衛門に打診した。

「義親様、申し試合は、見世物ではありませんぞ・・。」

そう応じた右衛門の顔には、笑みが漏れていた。

「もしかして、源一郎の方が、二人より強いかもしれんぞ・・。」

義親は、数日前から佐那河内での申し試合を楽しみにしていただけに、少し当てが外れたように、何かと文句をつけた。その時、突然、朝から顔を見せていなかった又五郎が、木刀を両手に持って、道場に入ってきて、義親の方を向いて軽く頭を下げた。

「正幸、与助。義親様が退屈しているではないか。お互いが遠慮し合って、真の勝負ができるか・・。」

竹刀で、正眼に構え、踏み込む機会をうかがっていた二人が、竹刀を下ろし、試合を止めた。

「又五郎に、あんなことを言われては、やる気が失せたわ・・。なあ、与助。」

正幸は、突然の又五郎の言葉に、相当不満のようであった。

「まことに・・。それだけ言われるのなら、又五郎殿に、真の勝負とはどういうものか見せてもらわねば・・。」

正幸に同調するように、与助が又五郎に皮肉を言ったつもりだった。

「二人は、わしの剣を見たいらしい・・。どうじゃ、右衛門!おぬしが相手になってくれんか!」

又五郎は、そう言うと壁に寄りかかり、三人のやり取りをにやにや笑っていた右衛門に声をかけた。

その瞬間、道場が、ざわつき始めた。

正幸と与助がお互いの顔を見合わせ、義親と源一郎が、身を乗り出した。

佐那河内の道場で、右衛門が試合をするのは、もう数年なかったのである。佐那河内の連中も、試合をしようとしない右衛門に、稽古相手をしてくれという者もいなかった。

「わしは、遠慮する。あまり人前で試合をするのは、好まぬのでなあ・・。」

右衛門が、又五郎の申し出を断った。

「おぬしは、人を斬る時しか、人との試合は好まぬか・・。」

又五郎の言葉に、道場の雰囲気が凍り付いた。

「どうしたのだ、又五郎殿。よほど虫の居所が悪いと見えるが・・。」

二人の仲を取り持ったのは、義親だった。

「はあ、虫の居所が悪うござる・・。この男、小夜とマイケルの結婚に賛成したそうです。マイケルが、小夜との結婚を認めてもらおうと、そう言っておったぞ!」

騒動を聞きつけて、マイケル、小夜、早苗が道場にやって来た。

「確かに、賛成はしたが・・。」

右衛門は、言葉に詰まった。両親を差し置いて、要らぬことを言ったような気がしたのである。

「どうだ、右衛門。おぬしがわしに勝ったら、わしは二人の結婚を認めよう・・。おぬし、これで断れまい・・。」

又五郎の言葉に、再び、周りがざわつき始めた。(又五郎は、二人の結婚の不満を右衛門にぶつけたかったのかもしれない。)

その言葉に応じるように、右衛門が、道場の真ん中に進み出て、又五郎の持つ木刀を手に取った。その瞬間、道場の中は静まり返り、右衛門と又五郎の一挙手一投足を、かたずをのんで見守り始めた。


又五郎の仕掛けは早かった。右衛門が、正眼に構えるや否や、ものすごい勢いで打ち込んできた。又五郎の攻撃を受けるたびに、右衛門の木刀は凄まじい音を立てた。もし、右衛門が、まともに又五郎の一撃を受けていたなら、木刀もろとも、右衛門の顔面まで達するのではないかと思う程の怪力だった。しかし、右衛門は、又五郎の打ち込みを、足の運びで、微妙にずらして、打点の中心を外して受け止めたのである。当初、優勢だった又五郎の攻撃は、打撃の衝撃を外されるたびに、焦りに変わっていくように見えた。戦いは、長期戦へと変わっていった。又五郎は、激しい攻めを止めることができなくなっていることに、焦りを募らせていった。

「もし、攻撃の手を緩めた瞬間、右衛門の得意である素早い反転攻勢が、自分の敗北まで続くに違いない・・。」

又五郎は、そのことを確信していたのである。

又五郎の息遣いが、頂点に達した瞬間、右衛門は、又五郎の振り下ろした一撃をまともに受け止めた。

「あっ!」

又五郎は、受け止められた一撃が、疲労と焦りのために、ほんの少し緩んでいたのに気付いたである。右衛門は、その攻撃の緩みを見逃さなかったのである。

又五郎の一撃を受け止めた右衛門は、右足を踏ん張って、交わした木刀を突き放したのである。その反動で、微妙に体勢を崩された又五郎の構えにスキができた。その時、もし、右衛門が水平に又五郎の胴を払えば、確実に勝負はついていた。しかし、二人が、四国で出会って、最初に剣をかわした時のように、右衛門は、又五郎のスキをわざとつかずに、一歩飛びのいて、木刀をおさめた。

「おぬし、なぜとどめを刺さん!」

右衛門が退いたのを見て、又五郎がそう叫んだ。

「わしが、胴を払えば、おぬしは相打ちをもくろんで、わしに飛び込んでくるかもしれん。わしは、瀕死の重傷は負いたくないからなあ・・。」

右衛門は、そう言うと、又五郎に笑顔を見せた。

シーンとなっていた道場に、再びざわめきが戻ってきた。源一郎は、右衛門の言葉を聞いて、知らず知らずに立ち上がっていたことに気づき、我に返ったように慌てて座り込んだ。与助と正幸も、立ったままの自分たちに気づき、恥ずかしそうに板の間に座って、合わせたように、ほっとしたように息を吐いた。

「いい立ち合いを見せてもろうた・・。礼を言う。」

そう言って、義親が二人に向かって、感謝の頭を下げた。

しずまりかえった道場は、義親の言葉と同時に、ざわめきがもどり、しばらくやみそうになかった。

木刀を右手に持ち、じっと黙って立ちすくんでいた又五郎が、

「わしの負けじゃ・・。早苗!マイケルに小夜をくれてやるが、それでよいか。」

又五郎が、声をかけたのは、妻の早苗であった。

右衛門が、不安そうに、早苗の顔を見る。

又五郎の言葉に応じるかのように、目に涙を浮かべていた早苗が、大きく頷いた。

すると、

「小夜、マイケル、おめでとう!」

誰かが、大きな声でそう叫んだ。それに共感するように、二人の名前の連呼が、道場中に波のように伝わって、途絶えることなく響き渡った。その歓声に、マイケルが恥ずかしそうに右手を胸に当て、深々と頭を下げたのが印象的だった。

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