右衛門9-3
右衛門9-3
(山道で・・)
ナタリーは、すっかり佐那河内が気に入ってしまい。近頃では、護衛のマイケルとサムだけを伴って、早朝から海の臨める山の中腹まで行って、野山に自然に咲いた草花を摘み取って、屋敷の花瓶に飾ることを何よりもの楽しみにしていた。
「おやまあ、ナタリー様。朝早ようからお元気で・・。いつ見てもお可愛らしくて・・。」
早朝、偶然出会った薬草を探しに山に入る老婆が、ナタリーと出くわし、そう声をかけた。
ナタリーは、ぎこちなく着こなした小袖の袖に手を入れながら山を下っていたが、老婆の声掛けに、意味は分からないが、袖から手を出して手を振り笑顔を見せた。
「おはよう!」
ナタリーの片言の挨拶に、老婆は軽く頭を下げて、通り過ぎて行った。
彼女たちはしばらく下っていくと、朝霧に覆われた佐那河内の田畑が見えてきた。
その時、釣竿を肩にかけて、老婆と同じように山道を上がっている人影が見えた。おそらく、この道を少し上がって、わき道に入ったところに通じる海岸で釣りでもしようと思っている人だろう。
ナタリーは、やっとその男の顔を認識できた。
「右衛門!」
彼女はそう言うと、大きく手を振った。
その声に気づいた右衛門は、ナタリーの姿を確認すると、恥ずかしそうに手を挙げて、ナタリーに答えるべく笑顔を見せた。
次の瞬間・・・
「サム!マイケル!」
いきなり右衛門は、二人の名前を大きな声で呼んだ。
弾丸を装着したままの銃を、肩にかけていた二人の顔から急に笑顔が消えた。
右衛門は、両脇の大木に目をやり、二人にただならぬ気迫で危険を合図した。
さすがに、アダムス卿に指名された狙撃手の二人は、すぐに右衛門が見つめる先に何があるか察知した。
素知らぬ顔で、二三歩下ったマイケルが、肩から銃を外すと、地面に片膝ついて右衛門の指示した木のあたりに銃を向けると、いきなり銃を撃った。それに呼応するように、サムが反対側の木を狙って銃口を向けるや否や、黒い影に向けて狙撃した。
バサッ・・バサッ・・(二つの死体が、木から地に落ちた。)
彼らの銃撃は、適格に二人の忍びを撃ち殺していた。
その銃声に合わせるかのように、右衛門は、釣竿を放り投げ、刀を抜くと、白刃をさらしたまま、ナタリーとサム、マイケルの方に向かって駆けてきたかと思うと、そのまま通過して山道を駆け上った。その先には、五人の忍びが、刀を抜いてナタリーらの方へ向かっていた。
ナタリーを通り越した右衛門は、その忍びの集団の真ん中へと飛び込んだかと思うと、彼の白刃が左右にまぶしい光の残像のように揺れた。すると、その光の波の振動に合わせるかのように、一人また一人と地に沈み、あっという間に五人の忍びは息の根を止められたのであった。右衛門の周りには、真っ赤に染まった遺体が五体、身動きもせず躯となっていた。
右衛門は激しい呼吸を整えながら、鞘に白刃を納めると、すっとナタリーの方を向いて、苦笑いを見せた。
それをじっと見ていた三人は、余りの驚きで、体が動かなくなっていた。
ナタリーは、ただただ右衛門の表情をじっと見つめるだけだった。
やっと、我に返ったマイケルが、
「(英語)本当に右衛門は、日本一の剣士かもしれん・・。外見では、判断できないものだ・・。」
心底感動したようにそう言った。サムは、ふっと息を吐くと、自分が右衛門の気持ちになって、全身緊張していたことを自覚した。
「(英語)私は、こんな侍を見たかったのよ・・。」
大地が血に染まっていく凄惨な光景を見ながら、ナタリーが発した言葉は、二人の狙撃手には意外な言葉であった。
「(英語)お嬢さんは、やっぱり、アダムス卿の血筋ですねえ・・。」
マイケルは、ぽつりとそう呟いた。それを聞いた、サムが頷いた。
ナタリーには、マイケルの言葉は聞こえていなかったようである。それほど、ナタリーにとって、右衛門の剣は強烈だった。
(陽明の部屋で)
「いるか。」
右衛門は、佐那河内に着いたばかりの西先生を伴って、陽明の部屋に入ってきた。
陽明は、右衛門が障子を開き、つかつかと入って来たのにも応対せず、彼に背を向けて、長机に資料をいっぱい積んだ紙の山の中に顔をうずめて、一生懸命文献を読んでいた。
陽明は、時々、源一郎やナタリーと付き合わなくなり、部屋に閉じこもり、こうやって思索にふけるのである。彼は、今、あのガロアのくれた研究テーマに没頭していた。紙には、何やら複雑な数字がびっしりと埋め尽くされていて、その数式をじっと見入っているのである。
「すごい発見だ。奴は、やはりただものではないなあ・・。」
陽明は、右衛門がいることにも気づいてないように、ガロアの見出した方程式の係数を使った循環群に、心底感心していた。
「陽明君・・。」
聞き覚えのある西先生の声にやっと気づいた陽明は、はっとしたように西の顔を見た。
「西先生!お久しぶりです。どうなされたんので・・。」
そう言うと、改めて、西の前に正座して、礼儀正しく頭を下げた。
「実は、明日、西先生と一緒に尾張の柳生吉重様の所へ行って、あの方の病気の診察を先生に頼んだのだ。」
右衛門がそう言うと、陽明は納得したように軽く頷いた。
「懐かしいなあ・・。陽明君は、立派になられた・・。おそらく、あなたの学問は、我々の想像もつかない世界で思考を巡らしているのだろう。君を見た時から、想像がついたよ・・。」
西先生は、感慨深げにそう言った。
「先生が、いろいろ教えて下すったおかげです。しかし、先生もお変わりなく・・。」
右衛門にとって、陽明が、こんなに素直に、知り合いを見て嬉しそうな表情を見せるのは、初めてのような気がした。
「陽明、実は、西先生と一緒に来たのは、一つ頼みがあってなあ・・。」
右衛門は、二人の再会をじっと見ていたかったのだが、明日旅立つ前に、どうしても陽明に頼んでおきたかった用件があった。それは、佐那河内襲撃の防衛計画の依頼であった。
陽明は、右衛門の説明をじっと聞いていた。黒龍党が襲撃するのは次回で三度目になること。そしてその背景に、井伊藩の画策があること。更には、久野家と老中水野との襲撃失敗後の密約についてなど・・。
「そうですか。」
じっと腕を組んで静かに聞いていた陽明が、右衛門が話し終わると、ぽつりとそう言った。
「これは、極秘中の極秘の話だ。どうだ、この襲撃を阻止する作戦、お前に頼めるか・・。」
極秘の割には、右衛門の表情に緊張の様子は見られなかった。もっとも、右衛門が、重大事件で真剣な顔をしていたことは、そうめったにないのだが・・。
「なにやら、大変なことが起こりそうですなあ・・。」
西先生の方が、はるかに真に迫った真剣な顔に見えたのは、陽明の気のせいだろうか。
「叔父上は、おおよそ、私の考える計画を見越して私に頼みに来たのではないですか。」
陽明はそう言うと、にやりと笑って、右衛門の顔をうかがった。
「何も考えてはいない。ただ、お前は、西洋の武器を自由に手にはめられる立場の人間だ。この作戦を依頼するには、うってつけの男だと思って頼んだのだ・・。ただ、それだけだ。」
「叔父上は、とぼけているのだろうか・・。」
陽明はそう思った。今、右衛門が言った理由が、自分を頼ったすべてではないか・・。
「まあいい。叔父上と議論しても仕方がない。(にやりと笑って)こういうのを、飛んで火にいる夏の虫と言うのです。黒幕の権力とやらが、いかにもろいものか、いやというほど教えてやりますよ。そうすれば、この国が国を閉ざしていることがいかに愚かなことか、少しは反省するでしょう。」
陽明のこの言葉は、決して大口ではない・・と、右衛門は思った。
「ところで、今、お前が見ていた文献は何の学問だ・・。」
右衛門は、陽明が没頭していた文献の内容が知りたくなった。
「五次以上の方程式には、一般解がない・・、という主張なのですが。この問題、過去何百年もの間、誰も発見できなかった難問なのです。それを私の知人のガロアという、私と同い年の青年が、見事に解決方法を見つけ出したのです。いわば、この問題の解法は、井伊の考え出した陰謀より何万倍も素晴らしい人間の知略かもしれないのです。」
陽明は、時々、人にはついていけない考えを独り言のように言う癖があった。
「そうか・・。それはたいしたものだ。」
何の考えもなく、右衛門が、陽明の言葉に合わせるかのように、そう呟いた。
一瞬、西と陽明が目を合わせる。
「たいしたものって・・、右衛門殿にはわかるのですか。」
西が、遠慮しながら右衛門に聞いてみた。
「わかるわけがない。ただ、人がどう思おうが、そう思ったのだから、仕方がない。」
右衛門は、西に反論するようにそう言った。
「あーあ・・、西先生、私はこの叔父の血をひいているのですよ。時々いやになる。」
陽明は、そう言うと、畳に寝転がり、両手を枕に天井をじっと見た。
あまり大きな声で笑わない西の笑い声が、廊下まで響き渡った。
(柳生吉重)
右衛門は、吉重がどうしても会いたいという手紙をもらい、尾張柳生吉重の屋敷を、西(蘭方医)を連れてやって来た。
「義親様もおいでとは、驚きました。」
吉重は、江戸柳生頭首(幕府重鎮)である柳生義親を右衛門と共に、来てくれるように依頼していたのである。
「吉重殿が、どうしても会いたいというのでな。まさか、ここまで容態が悪いとは・・。」
義親は、吉重に聞かれないように、小声で右衛門にささやいた。
すでに、西先生が、寝たきりになってしまった吉重の脈を測っている。
「医者殿には悪いが、わしはもう助からん。自分の命は、自分が一番よく知っている。」
吉重はそう言って、にやりと笑った。
「なぜ早く、わしに知らせんのだ。おぬしが重篤と知っていれば、わしも名医を連れてきたのに・・。いや、西殿が信頼できぬという訳ではないが・・。」
吉重の容態を見て、あれだけ人への配慮を欠かさない義親が、明らかに動揺しているのが分かった。
吉重は、義親の言葉に微笑みながら、
「義親殿らしくないぞ。おぬしが狼狽してどうする。わしは、今でも、おぬしが再び幕政の中心に復帰すると信じている・・。」
吉重は、重病の状態でも、世の中の動きを冷静に見つめていたのである。
「今日は、いい日じゃ。わしが、好きな右衛門殿や義親殿に会えたのだからのう・・。」
一転、吉重の弱気が顔をのぞかせたような気がした。
二人の後ろには、大江宗平(尾張柳生指南役)が、静かに座っていた。
「悪いが、大江、西先生。三人きりで話したいので、座を外してくれんか・・。」
いきなり、吉重は二人の退席を求めた。
二人は、軽く頷くと、吉重の言葉に従った。
吉重の質素な中に趣のある庭に、椿の花が咲いていた。吉重は、庭を見るため少し障子を開けていたので、部屋は少し寒かった。しかし、右衛門と義親にとって、吉重の重大な病状を前にしては、寒さを感じる余裕もなかった。
寝たままで、庭を見ていた吉重が、おもむろに話し始めた。
「義親殿も、おそらく権勢の中心にいた時から、いずれ井伊殿が権力を奪い取りにくることは、考えていたはずじゃ・・。あの方は、じっと情勢を見ていて、好機を狙っていた。元老中筆頭 上野生馬殿が退かれるや否や、守旧派の大名をまとめて、義親殿を押しのけたのは、わしからすれば、意外でも何でもなかった・・。」
吉重の幕府の情勢判断は、いささかもくるっていなかったのである。
義親は、吉重の言葉に、いちいち同意するかのように頷いた。
「吉重殿の言う通りだ。むしろ、井伊殿が、幕政に介入する時期は遅かったぐらいだ。ただ、わしも知ってはいたが、あそこまで守旧派の大名たちが、頑なに旧来の幕藩体制にこだわるとは・・。見通しが甘かったと言われれば、その通りだ。」
幕政の第一線から離れて、どこかほっとした義親の語気には、言葉とは裏腹に、後悔の念のような悔しさが込められてはいなかった。
「彼らは、幕府の旧来の体制があってこそ、最高位の階層の中心にいられるのじゃ・・。そんな特権階級の最高位にいる桑名、藤堂、それに会津藩等が、井伊と足並みをそろえるのも必然と言えば必然なのだ。おぬしがいくら抵抗しても、どうなるものでもない。(しばらく、沈黙が続き)しかしな・・、この国のことを考えると、そんな連中ばかりが、自国に閉じこもって、自分の凝り固まった信念だけで政治を行って、この国は何事もなく、うまくやっていけるのだろうか・・。井伊殿の頭の中には、諸外国の情勢などという考えは、少しもないとわしは思う。ただひたすらに、幕府の旧体制を守り抜く・・。それしか、考えていないのだ。」
死を前にして、吉重は、誰に遠慮をすることもなく、二人の前で自分の思っていた考えを吐露した。
「やはり、この人は優れた剣豪であるばかりでなく、人の上に立つだけの人物なのだ。」
右衛門は、改めて吉重の先を見通す思考の明晰さに感心した。
右衛門は、吉重の言葉をじっと聞きながら、最先端の教育を受けてヨーロッパから帰ってきた陽明の顔を思い浮かべていた。偶然にも、誰よりも進んだ文化を熟知している若者と、尾張の藩制を担ってきた藩の重鎮の意見が一致しているのである。これは、右衛門にとって、奇跡的な偶然のように思えた。
「わしら三人は、それぞれお互い利用し合って、気づかぬうちに、お互いの立場を強めあってきた。義親殿は幕政で、わしは尾張藩で、権勢を高め、そして右衛門殿は佐那河内で仲間を増やし、大前屋の商売を拡大し続けた。井伊殿から見ると、そんな我らの目に見えない協力関係が、煩わしくて仕方がなかったのだろう・・。」
義親は、吉重に改めてそう言われて、納得するばかりであった。
「そこで、これはわしの最後の言葉として聞いてくれ。(吉重は、半身起き上がった)わしがいなくなると、その三本の矢が機能しなくなるかもしれん・・。井伊殿からすると、絶好の好機が巡ってくることになるとわしは思う。おそらく、あの方は、もう一本の矢を折りに来る。わかるな、右衛門殿・・。ここまでくれば、義親殿と右衛門殿は切っても切れない仲じゃ・・。わしは、きっと、二人が井伊殿たち守旧派を打ち破り、新しい世の中を開いてくれる先駆けになってくれると信じている。(真剣な目で、じっと二人を見る)義親殿!幕府にこだわるな、いずれ、幕府は滅びるのが時代の要請かもしれん・・。それに、薩摩を目の敵にするな。これが、わしの最後の忠告じゃ・・。あるいは、わしの言ったことは間違っているかもしれん・・。しかし、このことだけは、どうしても言っておきたかったのじゃ・・。(しばらく沈黙が続き)右衛門殿、わしは、おぬしのような気持ちの優しい日本一の剣豪に会えてうれしかった。おぬしの剣には、痛快な思いをさせてもらったぞ・・。(また義親の方を向き)義親殿、おぬしのような強敵がいたからこそ、わしはここまで剣の道を究められたのじゃ。感謝の言いようもない・・。(目に涙をためた吉重は、二人を穴が開くほど見た後)さらばじゃ・・、もう会うことはあるまい。」
そう言うと、さすがに多弁に疲れたのか、吉重は再び横になると、静かに目を閉じた。
右衛門も義親も、涙で目の前が見えなくなり、しばらくじっと座ったまま、静かに目を閉じて、疲れて寝ている吉重の枕元を離れることができなかった。
「義親様、佐藤様、申し訳ありませんが、これ以上、主人の相手をなされると、主人の命が危なくなりますので・・。」
そっと、襖を開けてひざまずいた吉重の妻が、非礼を承知で二人の退席を頼みに来た。
二人は、何も言わず、すっと立ち上がると、寝ている吉重に頭を下げて、静かに彼の寝所を後にした。
一か月後、柳生吉重は、静かに息を引き取った。
(尾張藩主徳川定家の別邸)
「やっと来てくれたな、右衛門殿。城であってもよかったのだが、義親殿も来てくれたので、良い機会と思い、急きょ場所を変えさせてもらった。」
尾張藩主徳川定家は、くつろいだ着こなしで、気さくに二人を迎えた。
右衛門は、畳一枚置いて、上座に座っている尾張藩主に向かい合い、さっきから平伏している。
右衛門が藩主の時代、江戸での滞在の間、江戸城に参内したことはあるが、将軍のまともな拝謁などは一度もなく、御三家の尾張公などは、雲の上の存在であった。大名には、藩の格というものがあり、見能林藩などは、城内でこまごまと他藩の接待を仰せつかるのが、せいぜい活躍できる場であった。それだけに、こうやって尾張藩主と、これほど近くに接するのは、御三家大名と付き合いのある他の文化人より苦手であったかもしれない。
右衛門の横には、柳生吉重の主君である竹腰正博(尾張藩家老、今尾藩主)が、義親と並んで座っていた。
「尾張公は、何か言いたいことあるのかな・・。」
右衛門は、さっきからそのことが気にかかっていた。
徳川定家が、自分の別邸へ自分を招いたのも、竹腰がいることも、右衛門の予想外だった。
柳生義親は、吉重を見舞った後、右衛門に尾張公と会うことを誘った。かねて、長崎で、薩摩と騒動を起こした時から、尾張公は右衛門と会いたがっていたのである。しかし、右衛門は、昔、藩主だった時の藩の格という重たいしきたりが身に染みていただけに、尾張藩主と会うことは気が進まなかった。しかし、今回は、義親の誘いでもあったので、渋々承諾したのである。
「そうかしこまられるな・・。それでは気さくに話もできん。」
定家には、平伏して顔を上げようとしない右衛門の形式通りの態度は、自分が彼に抱いていた想像とはかなり違って写った。
顔を上げた右衛門の顔を見た定家は、
「ほう、何の威圧感もない。優しそうな顔じゃな・・。もう少し、恐ろしい鬼のような顔かと思うたが・・。これが、敵なしの剣豪と言われた男か・・。」
そう思って、思わずニヤリと笑った。
「殿、何か面白いことでも・・。」
すかさず、竹腰が、定家の顔を見てそう尋ねた。
「いや、何もないが・・。ところで、吉重の具合はどうじゃ・・。」
定家は、竹腰の質問をごまかすようにそう尋ねた。
「右衛門殿と会ってきましたが・・。」
義親は、そこまで言って、黙ってしまった。
「そうか・・。」
定家はそう言うと、すべて理解したように、暗い顔をした。
「ところで、先日、成瀬重住(尾張藩主席家老 犬山藩主)が、わしの所へ参って、尾張藩お抱えの商人を、大前屋から万座屋に乗り変えたいと言ってきおった。右衛門殿は、大前屋とは切っても切れない間柄だと聞いておるが、大前屋に何か不都合でもあったのか・・。」
定家の言葉に、義親と右衛門は思わず顔を見合わせた。
「殿、そのことは、成瀬殿の後ろにいる井伊様が関わっておると推察されますが・・。」
竹腰が、定家の質問に、意味ありげな返答をした。
「なるほどな・・。(しばらく、考えて)おぬしらをわざわざこの屋敷呼んだのは、他でもない。そのことなのだが・・。」
定家の言葉に、右衛門も義親も、身を乗り出しそうになった。思わぬ話の展開になったのである。
「わしは、万座屋が、我が藩のお抱えになるための条件として、三万両を、我が側室、お蘭の屋敷建造に差し出せ・・と、条件を出してやったのじゃ。」
定家の表情は、真剣になっていた。
「ほう、それで、出すと・・。」
竹腰が、興味ありげな顔で聞いた。
「今は、無理だが、必ず近いうち・・と、言いおった。高々、三万両の金が、すぐ出ない商人が、我が藩のお抱えになれると思うか・・。のう、竹腰。」
尾張公の顔は、誰にでも読み取れるほど明確に、不満の表情だった。
「明日にでも、三万両、差し出すように大前屋に伝えておきましょう。今月の内には、必ずお届けいたしますので・・。徳川様には、すぐにでもお側室のお屋敷建造、とりかかるようお命じ下され。」
黙っていた右衛門が、いきなり定家の会話に割り込み、何のためらいもなく申し出た。
「この男のこういうところが、たまらなく面白いところだ。まれにみる剣豪なのに、まるで、稀代の策士のような顔をのぞかせる・・。」
そう思った義親の顔から、不敵な笑いが漏れている。
彼は、右衛門が定家の信頼を勝ち得たことを確信した。もし、一瞬でもためらっていたら、三万両の価値は半減しただろう。そのことを、いちばん熟知していたのは、幕政の中心で大名たちを仕切ってきた義親ならではの観察力だった。
途端に、尾張公は、誰にでもわかるほどはっきりと、満足の表情に変わった。
「わしは、前の田原藩の騒動を竹腰から聞き及んで、右衛門という男に一度会ってみたいと思っていたのじゃ・・。右衛門殿、これだけは、含んでおいてくれ。わしは、決して井伊の振る舞いを、満足して見ておらん・・。」
定家はそう言うと、右衛門に、意味ありげな笑顔を見せた。
「義親殿の幕政が懐かしいわ・・。おぬしは、尾張にも十分配慮してくれた。近頃、また、田原藩が騒がしくなりそうだと、側近の者から聞いたが、田原藩は、我が尾張の庭先のような藩じゃ。ましてや、田原藩の港で何かあれば、大前屋も商売がやりにくかろう・・。右衛門殿、おぬしが田原藩のために、荒療治を再び企んでいても、尾張は一切口を出さんからのう。ましてや、井伊などには、文句は言わさん・・。存分にやるがよい。竹腰、後はお前に任せる。わしの意向を十分配慮して、右衛門殿を助けてやれ・・。」
尾張藩主定家は、上機嫌で、右衛門と義親との面会を終えた。
この面会で、思わぬ成果を手にしたのは、右衛門ばかりではなく、義親であっただろう。尾張藩主 徳川定家の言葉は、半ばあきらめていた、再度の幕政復帰を企む絶好の足掛かりになったのである。
数日後、大前屋から、尾張藩主徳川定家に、四万両が送られてきた。
(田原藩家老笹久内の屋敷)
「なに!」
義親は西先生の話を聞いて、刀の束に手をやった。
「義親殿、落ち着いてくだされ!」
慌てた右衛門が、思わず大声を張り上げた。
怒りで息が荒くなったのを沈めるかのように、義親は一瞬目を閉じて、冷静を保つよう自分に言い聞かせて、再び目を開けた。
「すまぬ。わしとしたことが・・。西先生、それには証拠がおありか。」
冷静を取り戻した義親は、ことさら言葉の抑揚を抑えて、西先生に尋ねた。
「おそらく間違いないかと・・。私は、砒素の毒薬で衰弱した患者を診るのは、吉重様が初めてではないのです。前の患者も砒素で命を落とし、私はどうすることもできなかった。誰かがその毒薬を使ったということも、死んだ患者の家族にも言えなかったのです。確たる証拠が示せなかったのです。それ以来、私はその悔しさをずっと心に秘めて、次の機会には二度と同じ後悔はすまいと、西洋の医学書を取り寄せて、砒素の検出方法を学んだのです。文献によると、西洋では、砒素の検出方法が発見されていて、マーシュ法と呼ばれていました。その方法は、亜鉛と希硫酸の混合物に、砒素の入った食べ物を混ぜ合わせ、その液体を霧状に空中に放出し、その霧の液体に火をつけ、燃えカスを受け皿に受け止めるのです。もし、砒素が入っているなら、その受け皿は、燃えカスの黒紫の残留物で汚れるはずなのです・・。私は、柳沢吉重様の御内儀に依頼して、吉重様の食したお粥を分けてもらい、宿でその実験を行ったのですが・・。結果は、思った通り、黒紫の燃えカスが皿の上に残ったのです。」
西先生の説明は、怒りに震えている義親を、あらん限りの知識を駆使して、納得させようとしている様だった。
西先生は、急いで話をつづけた。
「私は、すぐに吉重様の御内儀に、屋敷の台所で働く下働きの者が作った粥は、吉重様に出す前に取り換えるようにと、頼んでおきました。下働きの者に気付かれないように・・。その後、この地に来ている丹波が、私が田原の宿にいるのを知って、私に挨拶に来たので、この重大事を話したのですが・・。それでよかったでしょうか・・。」
西先生は、右衛門に伺いを立てるように、右衛門の顔を見た。
「先生の適切な処置には、感謝のしようもありません。丹波は、私がこの地に送り込んで、探らせていたのです。」
右衛門は、そう言って、西に頭を下げた。
「丹波!その後、何か分かったか・・。」
笹が、天井の方を見上げて、そこに潜んでいる丹波に声をかけた。
西先生が驚いたように笹の方を向いたが、右衛門も義親も、忍びが天井に潜んでいることは気づいていた。
「はあ、いろいろ調べましたが・・、三年前に、吉重様の屋敷にまかないで雇われたものがいまして・・。ちょうどそのころから砒素の混入は始まったのではないか・・と、西先生から聞いていたので、もう少し調べますと、その下働きの女、琵琶湖のほとりの村の出身で・・・。」
そこまで言ったところで、丹波は何やらためらっている様だった。
「隠し立てすることなく、全部言わんか!」
義親が、丹波を一喝した。義親は、丹波にとって、直接話したことはないが、かつて権蔵の配下として仕えた頃の主人であった。
「はあ、その下働きの女を連れてきたのは、大江宗平(尾張柳生指南役)様だとのことです・・。」
丹波の情報を聞いた義親が、再び、怒りで全身震えているようだった。
「その下働きの女と大江を探ってくれんか・・。程なく、おぬしの親父の権蔵もこの地に来ると思うので、二人でうまくやってくれ。それと、その下働きの女、わしの指示で、いつでも確保できるように、見張りを怠らぬようにしてくれ。難しい務めだが、くれぐれも殺さぬように・・。」
右衛門がそう言うと、天井裏から丹波が音もなく立ち去る気配がした。
「これも、西先生の西洋の知識のお陰だ・・。何やら、吉重殿の言葉が、ずしりとわしの心をとらえて離さないような気がする。こうなったら、腹を決めて、行き着くところまで行かねばなるまい・・。吉重殿は、最後までわしを休ませてはくれんわ。正直言って、わしは半分、幕政には興味をなくしていたのだが・・。右衛門殿、悪いが、わしに付き合ってもらうぞ・・。」
義親の言葉は、右衛門には、半ば強制のように聞こえた。
それでも、右衛門は、義親に応じるように、苦笑いを浮かべて軽く頷づいた。
(佐那河内)
井伊祐直が企む、黒龍党(再集結した)の襲撃に備えて、陽明がたてた戦略の内容を仲間たちに説明するために、源一郎と陽明は、肩を並べて、田んぼの間をまっすぐに通っている道を、霊明寺(丘の上の寺)に向かって歩いていた。すると、百姓風の男が三人、蓆に何かを包んだまま腕に抱えて、うつ向いたまま、二人とすれちがった。
「ちょっと待て!見慣れぬ顔だなあ。」
源一郎は、そう言うと、三人の顔を改めて確認するために振り向いた。
「へえ、わしら最近、この地に来たばかりで・・。和尚様の許しをもらって、田畑の世話を許された者で・・。」
三人の一人が、源一郎の言葉に応じるように、愛想笑いをしてそう言った。
「おぬしら、今は話しているのは、元田原藩藩主 佐藤源一郎だ。見え透いた言い訳はやめて、この男を血祭りにあげてみろ。お前らの頭目が泣いて喜ぶぞ!」
いきなり、陽明はにやにや笑いながら、三人の男にそうけしかけた。
「おい!陽明、どういうつもりだ!」
源一郎は、驚いたように、陽明を睨みつけた。
しかし、二人で争っている場合ではなかった。
三人の男たちは、陽明が誘った通り、源一郎を殺そうと腹を決めたのか、いきなり蓆に包んだ太刀を取り出し、一斉に刀を抜いて、源一郎に襲い掛かってきたのである。
陽明は、さっと田んぼの中に入り、懐からピストルを取り出したかと思うや否や、先頭で源一郎に襲い掛かろうとした男のこめかみを狙って、銃を発射した。
バタッ・・・。その刺客は、悲鳴を上げることもなく、もんどりうって地面に沈んだ。
すると、ピストルの奇襲に、狼狽した二人の刺客の間を縫うように、刀を抜いた源一郎が通り抜け、さっと止まると、二人の様子を確認するように振り返った。すでに、男たちは源一郎の白刃の一撃をまともに受けてしまっていたのである。
バタッ・・バタッ・・。まるで、陽明に撃たれた男が、地に沈むのをまねるかのように、二つの死体が地に沈んだ。
すると、源一郎は、田んぼの中でにやにや笑っている陽明に気が付いた。
「お前なあ・・。わしを殺す気か!わしが奴らに斬られていたら、どうするつもりだ!」
陽明は、源一郎の叱責を気にもせず。
「お前が、あんな男たちに斬られるはずがなかろう。それにしても、この村も随分物騒になったものだ。源一郎、早く仲間達と話し合って、村を固めねば・・。次のイギリス船が入港するまで、十日余りしかないのだぞ・・。」
今の死闘を忘れたかのように、陽明は、佐那河内の警備のことを考えていた。
「わしは、お前が不気味で仕方ない。いったいどんな神経をしているのだ。」
源一郎は、まだ刀を鞘に納めることなく、血糊のついた刀の刃を肩に置いたままであった。彼の肩のあたりの着物は、赤い鮮血で次第に染まっていった。
(作戦会議)
集まったのは、万平、ナタリー、サム、マイケル、哲太、将太、三郎(忍び)、勝介(弥吉の番頭)、それに、源一郎と陽明だった。
「又五郎さんや弥吉さんは、呼ばなかったのか。」
源一郎が、意外そうな顔をした。
「二人には、若い仲間と計画をすり合わせた後、報告するつもりだ。そうでないと、二人が来れば、みんなも意見を出しづらいだろう・・。特に、又五郎さんが、素直に私の計画に同意をするはずがない。又五郎さんは、叔父上が又五郎さんに防衛の責任者に指名しなかったことで、不満を持っているらしいからなあ・・。」
陽明のこの言葉に、全員納得したかのように軽く頷いて、笑みをこぼした。
右衛門は、さすがに又五郎には、今回の井伊の陰謀の詳細について話していた。
「しかしなあ・・。」
源一郎は、そう言うと、ナタリーの顔を見た。
さっきから、万平に遂次会話の通訳をさせていたナタリーが、源一郎をにらみ返した。
「(英語)何か私に言いたいことでも・・。」
ナタリーがそう言うと同時に、万平が源一郎に、同じ意味の言葉を、日本語で繰り返した。
「いや、何でもない。」
源一郎は、慌ててナタリーの視線を避けようとした。
「(英語)女が、参加しているのが不服なようね。源一郎は・・。英国では、そんな風に女をさげすむことは、許されないからね。」
ためらいながら、万平が同時通訳した。
すると、
「源一郎、なんでもいいから、すぐにナタリーに謝っとけ!これ以上、こじれれば、ただでは済まないぞ!イギリスの女は、怖いぞ・・。万平、今の言葉は訳すなよ!」
陽明はそう言って、万平を目で制した。
「わしが悪かった。以後、気を付ける」
陽明に脅された源一郎が、頭を垂れたまま素直に謝った。
その言葉を万平から聞いたナタリーが、にやりと笑い、納得したことを示すために、源一郎を引き寄せると、両腕を源一郎の背中に回して抱擁した。
抱擁された源一郎の狼狽ぶりは、他のみんなが見ていても痛々しいほどだった。
それを見ていた三郎や将太には、この状況で、笑いを抑える苦痛の方が大きかったのかもしれない。ただ、サムとマイケルだけが、何食わぬ顔で、ナタリーと源一郎の顛末を見ていた。
「ところで、陽明さん、計画はできたので・・。」
哲太のこの言葉は、この場のぎこちなくなった雰囲気を救ってくれた。
「ああ、そのことだが・・。勝介さん、みんなの前に地図を広げてくれ。」
陽明に命じられた勝介が、大きなテーブルの上に佐那河内の詳細が描かれた大きな地図を広げた。
その地図の中には、仮の砲台の位置が、綿密な数字と共に示されていた。
「これは勝介さんが描いたのか。」
三郎が、驚いたように勝介を見た。
「まあ・・。地図は私が描いたが、地図の中の数字は、陽明さんが言った通りに書き写しただけです。」
勝介は、照れたように頭を掻いて、そう言った。
「勝介さんのおかげで、佐那河内の詳細を描いた地図ができた。大したものだ。」
改めて、陽明が勝介をねぎらった。
「(英語)ところで、この数字は何なんだ。」
マイケルが、陽明に説明を求めた。
「船は、五隻と想定したが、その数は何隻でも同じだ。弾頭を大砲に詰めなおす時間は、十分にある・・。この砲台の位置から、大砲が狙える最適の船の位置と、砲台からの角度を計算したものだ。もし、砲手がこの数字の通りに船を狙ってくれれば、大砲の破壊力と船の規模を計算すると、確実に船は海の藻屑となる・・。」
そこまで言って、陽明はみんなの顔を見渡した。
この計算の知識に、改めて、陽明に感心しない者はいなかった。
「大砲、五門か・・。それなら、今、弥吉さんの蔵に眠っている大砲で十分間に合うな。」
源一郎が、確認するようにそう言った。
皆の顔が、作戦を確認するたびに、興奮してきているように見えた。
「大砲は、三郎、それに、三郎の親父の配下の忍びを選んで、五門の大砲の各班に分かれて、明日から射撃の練習してもらい、実践に備える。みんな、火薬の知識はあるから、そう難しくはあるまい。分らないところは、イギリスから来る船の船員に、大砲の打ち方に詳しい者がいるから、万平の助けを借りて教えてもらえばいい。ただし、今度寄港するイギリスの船は、弥吉さんの蔵に物資を積みかえれば、すぐに香港に向けて出港する。襲撃の前に、密輸の証拠はなるべく残したくないからな・・。」
みんな、納得したのか、大きく頷いた。
「Let's do our best together!(みんな力を合わせてがんばろう)」
いきなり、大きな声でナタリーが叫び、右手を天井に向けて、高々と上げた。
その気迫に驚いた全員が、彼女に従うように、
「おおお!」
と、拳を振り上げた。
どうも、気合の入れ方で、国の違いはないらしい。
(安住小夜)
安住家の養子として小夜(又五郎の娘)の婿になった安住博也は、田村勝信(田原藩藩士)の旧友であった。そうなると、小夜との年の差は十歳も違っていたが、剣の腕は田村と互角、さらに頭脳明晰で、人柄が抜群だった。博也は、昔から剣豪である右衛門に憧れていた。又五郎が、小夜との縁談を持ち掛けた時も、小夜の家が右衛門と関係のある家だということで、本人は縁談に乗り気であった。そして、嫁が若いという理由で、婚儀に難色を示す両親を説き伏せて、安住家の婿になった男である。そんな若夫婦のいる安住家を、右衛門が訪ねた。又五郎から、二人の様子を見てきてくれと頼まれていたのである。
「いやあ、右衛門様が来られるとは、こんな嬉しいことはござらん。日頃から、この田村ばかりが、右衛門様の近くでいられるので、我ら田原藩の成年組の連中は、こいつに嫉妬をしておったのです。それが、こうやって、我が家をわざわざおいでくださるとは、わたしは、明日から、成年組の連中に鼻高々です。なあ、小夜・・。」
博也は、右衛門の杯に徳利を傾けながら、いつもより高い声を張り上げながら、そう言って、横にいる小夜の方を向いた。
「そりゃ、おじさまは、死んだ林七叔父の妻、伊予様の弟だもの・・。田原に来れば、この安住家に来るのが礼儀です。ねえ、おじさま・・。」
夫の博也に感化されたのか、小夜も右衛門と親戚であることを誇りにしているようだった。
「聞いたか、勝信・・。わしは、ついに右衛門様と親戚になったということになる。」
少し酔いも回ったのか、博也は田村勝信の方を向いて、にやりと笑った。
「わしは、妙な所で人気があるものだな・・。まさか、お小夜の婿殿に、こんなに持ち上げられるとは思ってもいなかった。佐那河内に帰ったら、又五郎に自慢しなくては・・。おぬしの剣より、わしの方が、おぬしの子らには人気がある・・とな。」
右衛門は、そう言って、博也をからかった。
「それがよろしいかと・・。そうなると、こやつ、親不孝者じゃ!お小夜もな・・。」
傍で聞いていた田村勝信が、やっと一本取った思いで、大きな声でそう言った。
「右衛門様。安住家の婿である私は、小野派一刀流の四天王で佐那河内四強の親父殿を、深く敬愛しておると、お伝えくだされ。なにとぞ、この通り・・。」
博也は、そう言うと両手をついて、右衛門に平伏した。
「こやつ!抜け目のない奴だ・・。」
勝信が、そういって、博也をからかった。
「面白い男だ・・。愛嬌では又五郎に負けぬかもしれんな・・。」
右衛門は、そんなことを思いながら、安住家の小さな酒宴を心より楽しんだ。
田村と右衛門が、安住家に泊まったその夜・・。
「勝信、起きろ!賊だ・・。」
不審な気配に目を覚ました右衛門が、横で寝ている田村をおこした。
勝信は、すぐに布団の横の太刀を引き寄せた。
「うって出ますか・・。」
勝信は、賊の居場所を把握したようだった。
「わしが斬る。おぬしは、小夜の部屋をかためてくれ。博也殿とな・・。」
その時、小夜の眠る部屋で、博也の大きな声が聞こえた。
「何者!」
そう言ったかと思うと、激しく障子を開ける音が、静まりかえった辺りの静寂を突き破った。
「急げ!」
右衛門が、勝信を促した。
右衛門は、賊のいる廊下へ向かい、剣を抜くと、月あかりが白刃に反射し、その光が何度となく揺らめいて、弧を描いた。すると、向かってきた賊らは、うめく声も出さず、一人、また一人と庭に転げ落ちていった。彼らは、右衛門の素早い太刀裁きに対応できず、次から次へと絶命していったのである。右衛門は、四人目の賊が庭に転げ落ち、動かなくなるのを確認すると、ふっと大きく息を吐いた。彼は、長い呼吸の一息で、四人の賊をしとめたのである。
勝信や博也たちのいる辺りでは、死闘で交わされる刀の音と足音が次第に途絶えて、再び辺りに静寂がおとずれた。
すると、次の瞬間、
「ぎゃあー。」
小夜の狂ったような叫び声が、月夜の虚空に響き渡った。
夜明け前、数人の使用人が、博也の遺体を戸板に乗せて、血みどろになった彼の体を隠すように、着物がかけられていた。傍らには、小夜が死んだ博也の手を握り、茫然自失となって、時折、博也の顔を覗き込んでは、涙を流してむせび泣くのであった。
右衛門と勝信は縁側に座り、博也の死を知らせた田原藩の世話役たちをじっと待っていた。
時折、勝信のむせび泣く声が、右衛門の耳に入ってきた。
「泣くな、勝信・・。お前のせいではない。博也殿に運がなかったのだ・・。あのように、いきなり後ろから斬りつけられたのだ。おぬしが、防げる合間はなかった。仕方がないのだ・・。」
右衛門は、昨夜、両手をついて平伏して、顔を上げて笑った博也の笑顔を思い浮かべると、涙を抑えきれなくなり、ほほを伝う涙を手で拭うことなく、日の光で明るくなり始めた夜明けの虚空に目を凝らしていた。
(江戸井伊祐直屋敷)
柳生吉重が死んだ。
これを機に、事態は一挙に動き始めた。
井伊祐直は、尾張から密かに大江宗平(尾張柳生指南役)を呼んだ。
「いよいよ、おぬしらも忙しくなるぞ。」
井伊は、表情を変えず、淡々とこれからの策を伝えた。
佐那河内と田原藩を同日に襲撃すること・・・。これが、井伊の最初から思い描いていた計画だった。佐那河内にしても田原にしても、相当の剣豪が、敵陣にはうろうろしていた。今までのような、重要人物を一人ずつ気長につぶしていくには、刺客となる剣の達人の駒が足りなかった。忍びの京成からも、右衛門の剣の腕が並外れていると聞いていたので、暗殺は難しいことは承知していた。そうなると、集団戦しか策はない・・。井伊の決断は、かなり前から決まっていた。しかも、集団で潰すなら同時にやって、井伊藩の圧倒的力を見せつければ、彼に逆らう雄藩はいなくなると判断したのである。
今の彼の悩みは、紀伊と尾張が思うように言うことを聞かないことであった。紀伊には幕府老中水野、尾張には吉重を側近に持つ竹腰が、筆頭家老の言うことを聞きそうになかったのである。
黒龍党と九鬼水軍の残党らによる再編は、すでに予定通り終了し、佐那河内への出向を待っていた。一方、田原藩の大池拓は、井伊の誘いに乗り、次期田原藩筆頭家老の餌に飛びつき、すでに安住博也の殺害を決行し、あとには引けない境遇に陥っていた。この大池は、田原藩では家老格の家柄だったが、吉重の指導で、源一郎の藩主就任と共に、安住家から又五郎、尾張柳生から笹久内が家老に就任し、藩は何事もなくうまく運営された。ただ、大池にしてみれば、安住又五郎は、元来、家老格の家柄だけに仕方がないにしても、三家持ち回りの慣例を飛ばして、大池家が家老就任できなかったことが、不満の種になっていた。更に、今度の藩主交代にもかかわらず、またしても、大池を差し置いて、安住家から安住博也が家老に就任したのである。大池は、もともと見るべき能力もない平凡な堅物だっただけに、その不満を表に出すこともできず、勘定方筆頭の役職を無難にこなしていた。そんな大池に、井伊の家老 坂谷太助は目を付けた。井伊藩が後ろ盾となれば、だれしも坂谷の約束は、保証されたようなものである・・と、大池は考えたのである。
井伊の下座には、大江と京成が座っている。そして、井伊の傍には、家老の坂谷太助が控えている。京成は、忍びにもかかわらず、井伊藩では重要家臣格であった。忍びの頭目が、堂々と藩主の目の前に座るのは、この藩だけであろう。それほど、井伊藩にとって京成の役割は、尊重されていたのである。
「大江、おぬしが、尾張柳生の次期頭首として、吉重の葬儀の日に、義親、孫之丞の前で就任する手はずがついておる。孫之丞は、尾張家老 成瀬重住の許しを得て、おぬしを尾張柳生頭首に推挙する予定だ。柳生義親の前で、堂々と頭首であることを宣言してやれ・・。今から、あの者の不満顔が、目に浮かぶようじゃ・・。聞くところによると、義親は、尾張柳生とは一線を画す立場にありながら、田原藩家老笹久内を、尾張柳生の頭首に推しておるそうじゃ・・。」
孫之丞の門下生の時代から、ライバルだった笹の名が出されたことで、大江の顔が少しひきつった。
「笹は、右衛門に果し合いで敗れた男・・。頭首の資格はないものと思っておりましたが・・。義親様は、よほど大江殿が、お嫌いなようで・・。」
側にいた家老の坂谷が、横目で大江を見ながら、彼の燃え盛るライバル心をくすぐった。
「井伊様には、何とお礼を言えばよいか・・。これより、殿のために、犠牲をいとわず働く所存でございます。」
大江はそう言うと、井伊の前で、手をついて頭を下げた。
「頼んだぞ。これでおぬしも、柳生流の頭首じゃ。亡き吉重と同じ立場になる。差し当って、田原藩主改易の後は、田原藩を牛耳るであろう成瀬重住殿(尾張藩主席家老)のために、吉重と同じ役目を担ってもらうことになる・・。」
この井伊という男、大大名でありながら、人の心の機微というものを心得ていた。大江にとって、柳生吉重と同じ身分になれたことは、何にも代えがたい誇りであった。
「田原藩の港を押さえれば、竹腰様の財布である大前屋も、尾張藩お抱えの地位を退かねばならなくなるでしょう。そうなれば、義親様寄りの竹腰様の苦境は、まわりまわって柳生義親様の力が、また一つそがれるというもの・・。」
家老坂谷は、前の二人に、井伊の企みの意図を言い含めるように解説した。
「ところで、佐那河内のイギリス密輸船は、いつ頃やってくるのか、情報は掴んでいるのか・・。」
井伊はそう言うと、京成の方を見た。
イギリス密輸船と大前屋の商売は、すでに、井伊の耳に入っていた。しかし、彼は、そのことを公然と責めて、大前屋を追い詰めなかった。その理由は、同じイギリス船の交易を薩摩も行っていたからである。もし、幕府の義親派と薩摩が組むようなことがあれば、井伊にとっても厄介な相手になるからであった。
「おそらく、後、十日余りで・・。」
京成は、おおよその期日しか把握していないようであった。
佐那河内を探る自分の配下の忍びが、すでに何人も犠牲になっていたのである。
そこへきて、権蔵の手下たちが、佐那河内の区域に居を構え、今では、佐那河内の百姓等から忍者村と呼ばれているのである。同じ忍びだけに、京成の手下の探る手口は、ことごとく見破られた。さらに、村の住人とは思えぬ、超一流の剣豪である又五郎や源一郎などが、いつもうろうろしているのである。
「こんな厄介な村は見たことがない・・。」
何度も京成はそう思い、知らず知らずに、舌打ちをするのであった。
「なに、まだ正確な日が分かっていないのか。」
すかさず、坂谷が問い詰めた。
「まあいい。調べる伝手は、おぬしだけではないからな・・。必ず、数日うちには知らせが入る。」
井伊はそう言うと、京成を見下すように見た。
「申し訳ありません。急がせるつもりですので・・。」
京成は、申し訳なさそうに、井伊に頭を下げた。
「イギリス船が積んでくる積み荷を略奪すれば、あの薩摩も慌てるだろう・・。」
井伊は、「今に見ていろ!」と、声を張り上げたい気持であった。
(小夜が佐那河内に到着する)
丹波が、小夜を弥吉の船で佐那河内へ連れてきた。
その知らせを聞いた、佐那河内の連中が、続々と丘の上の屋敷の又五郎の居住する区画に会いに来た。
「小夜、源一郎と陽明が、おまえに会いに来たぞ。」
二人の顔を見て、又五郎が小夜を気遣いながら、そう言った。
小夜は、丹波に伴われてこの地に着いてからずっと、余り物も言わず、ただ俯いて物思いにふけっているようだった。
(小夜が、俯いていた顔を上げる。)
「源一郎様、陽明・・。」
二人を見上げた小夜は、又、泣き始めた。
「小夜、余りくよくよしては、体に障りますよ・・。」
母の早苗が、娘の背中をさすりながら、心配そうにそう言った。
「なんで、源一郎には様が付き、俺は呼捨てなんだ・・。」
陽明は、せっかく心配して、すぐに小夜に会いに来たことを後悔していた。
「あの博也殿がこの世にいないなど、想像ができん・・。私は、あのかたが好きだった。
いつもみんなのいる所では、殿と呼んで、私をたててくれたし、二人きりになると、源一郎と呼び捨てにして、剣の話で盛り上がった。あの使い手が、こうもあっさりいなくなるとは・・・。」
源一郎は、座敷に座るなり、泣き出しそうな顔をして、博也の死を悼んだ。
すると、急に、又五郎の涙をこらえて嗚咽する声が聞こえてきた。
源一郎と陽明は、思わず視線を合わせた。
「鬼の目に涙・・とは、まさにこのことだ。」
二人の思いが、期せずして一致した。
「丹波、博也を殺した相手は、わかっておるのか・・。」
一転、又五郎は、ものすごい形相で丹波を見た。
丹波は、その顔を見て、一瞬恐怖を覚えたが、気を取り直して、
「恐らく、勘定方の大池拓かと・・。奴は、安住殿が殺されて以来、城には登城せず、屋敷にこもっている様子です。屋敷には、続々と浪人たちが集まっているようで・・。恐らく、田原藩の追手を予想しての、かねてからの手はず通りかと・・。奴の後ろには、尾張藩家老 成瀬重住様の存在があるようです。田原藩家老の笹様は、大池の騒動をきっかけに、一挙に尾張藩が介入してくることを恐れて、じっと様子を見ている状態です。」
又五郎や源一郎、陽明は、黙って、田原藩の内情を理解しようとしているようだった。
「わしも、柳生吉重殿が、お亡くなりなったという知らせは聞いておる。恐らく、この騒動は、そのことと関係しているのだろう・・。」
又五郎がそう言うと、男たちは、同じ意見であるかのように、一斉に頷いた。
すると、しくしく泣いていた小夜がいきなり泣くのをやめて、驚いた顔をして、じっと前を見つめている。
陽明が振り向くと、ナタリーが、少し開いた襖から顔を出している。
「ああ、ナタリー様、お入りくだされ!・・陽明、通訳しろ。」
又五郎は、この頃、ナタリーによく話しかける。彼女の明るい振る舞いは、この地の連中を、どこか陽気にさせるのだった。特に、陽気な雰囲気を好む又五郎にとって、ナタリーは、お気に入りの娘であった。
万平や陽明がいないときでも、ナタリーを見つければ、近寄っていき、日本語で冗談を言う。ナタリーも、又五郎の言っていることはわからないが、彼が大きな声で話しかけるたびに、明るく笑うのである。
「又五郎は、イギリスの館に仕えているモロッコの使用人のように明るいから話しやすい。」と、ナタリーが、陽明に言うと、
「又五郎さんは、あの使用人と同じか・・。これはいい・・。」
そう言って、腹を抱えて大笑いをするのであった。
「このお嬢様はなあ・・。イギリスの大名で大商人のお孫様じゃ・・。可愛らしい顔をしとるだろう・・。ほんに、雛人形のようだ。」
又五郎は、自分の娘のように、ナタリーを紹介した。
小夜は、ナタリーをじっと見たまま、彼女に向かって頭を下げた。
「こんにちわ。」
ナタリーが、小夜に笑顔を見せ、日本語でそう言って、小さく左右に手を振った。
小夜は、思わず、にこりと笑い、ナタリーに合わせるかのように手を振った。
「やっと、小夜が笑ったわ・・。ナタリー様のおかげです。」
じっと見ていた母の早苗が、そう言って、ナタリーに礼を言った。
夜になり、陽明、源一郎、又五郎、丹波が、寺の奥の右衛門の部屋で、これからの方針を話し合った。
「わしは、明日、田原藩へ行く予定の弥吉の船に乗る。博也の仇をわしが取らねば、死んでも死にきれん・・。悪いが、佐那河内でのわしの役目は、誰かに変わってもらえぬか・・。」
又五郎は、そう言って、陽明と源一郎の顔を見た。
いつの間にか、この二人が黒龍党襲撃を迎え撃つ主導者になっていたのである。二人は、お互い仲がいいとは思っていなかったが、他の仲間からすると、二人でやっと力が出せる二人三脚のように見えたのである。
「となると、秋山正幸様しかいないなあ・・。あの方なら、襲撃の際、丘の上の屋敷と寺は任せられるのだが・・。」
源一郎が、又五郎の依頼に、そう答えた。
「それは難しいかもしれん。正幸殿は、大坂城代から江戸奉行になられる吉良様の側近として、近々江戸に上るらしい。井伊祐直様は、江戸の役職を自分の身内で固められた。そんな中、大目付の秋山正直様が、奉行に就任なされる吉良様の側近として江戸に来られる正幸殿を手元に置きたいらしい。」
又五郎の話を聞いていた陽明が、何やら考えて、
「それなら、薩摩の家老 小松清三郎殿に、丘の上の警護を頼もうか・・。あの方は、示現流の達人。正幸様や又五郎さんの代わりができると思うのですが・・。」
と言った。
これには、源一郎も又五郎も驚いた。
「あの方が、この地に来られるのか。」
又五郎は、小松のことは知っていた。
示現流と言えば、全国的な流派であり、小野派や柳生流にも引けを取らない。右衛門が示現流剣豪 薬士を破ったのは、数年前のことだった。小松は、薬士ほどの使い手かどうかさだかではないが、薩摩の家老でありながら、示現流では相当の腕前であることは、九州の近隣諸国にも知られていたのである。
「はあ、われら佐那河内の戦闘能力を薩摩に見せつけたいので、万平に頼んで、黒龍党襲撃のことを、薩摩に知らせたのです。すると、すぐさま、薩摩から連絡が来て、佐那河内を見たいから、小松殿が向かうとのこと・・。あの方なら最適かと・・。それに、丘の上からは、我らの戦闘が、手に取るように見られるので、一石二鳥。」
陽明は、そう言うと、ずるがしそうに、にやりと笑った。
「おまえは、いつの間にか、得体のしれない男になってしまったようだな・・。」
又五郎が、感心したようにそう言った。
「それは、誉め言葉ですか。それとも・・。」
陽明が、又五郎に確かめた。
「さあな。」
又五郎は、そう言ったなり、黙ってしまった。
「まあ、又五郎さんの口ぶりなら、後者の方だろう・・。(ふと気づいたように)忘れていたが、丹波はこの地に残ってもらいますよ。そうでなければ、やはり、仲間が足りない。」
陽明は、襲撃のことで、戦略を描いているようだった。
「その代わり、又五郎さんには、何ものにも代えがたい助太刀を持って行ってもらいます。」
陽明が、意味深なことを言った。
「なんじゃ、思わせぶりな・・。はっきり言わんか。」
又五郎が、陽明に問い詰めた。
「この地で訓練を受けた砲術士と、この日本にはない最新鋭の大砲です。先を見越して、ずっと前から、弥吉さんの船で運ぶ手はずになっていたのです。きっと、又五郎さんも満足するかと・・。」
陽明は、そう言うと、にやりと笑った。
「わしは、飛び道具は好かんが・・。右衛門が言うには、生き死がかかった勝負には、きれいも汚いもないらしい。わしのような源平合戦から出てきたような侍は、死闘をかけた戦いには役に立たん、とな・・。ここは、陽明の言うことを聞いておく。すまんな・・。」
又五郎はそう言うと、素直に礼を言って、頭を下げた。
この又五郎の素直な感謝には、二人も驚いた。




