右衛門9-2
右衛門9-2
(琵琶湖が望める街道の茶屋)
二人の人物が背中合わせに、まるで他人のようにふるまいながら、会話を交わしている。一人は、商人風の身なりをして、行李を覆った大きな風呂敷き包みを傍らに置き、さりげなく、出された湯飲み茶碗で茶を啜っている。
もう一人の男は、深く編み笠を被ったまま取ろうとせず、大小刀を差したまま、辺りを用心深く見渡しながら、商人風の男の言葉に耳を傾けている。
この商人風の男は、先日、佐那河内の天井に忍び込み、右衛門等の会話を聞いていたが、発覚して、かろうじて生き残った忍びの京成であった。
もう一人は、尾張柳生流指南役、大江宗平である。彼は、元々犬山藩で柳生孫之丞の一番弟子であったが、孫之丞の引退を機に、今尾藩お抱え道場である同じ尾張柳生流の柳生吉重を頼って、今では吉重の道場の指南役を務めていた。彼は、尾張柳生の中でも吉重に継ぐ実力者として認められ、尾張柳生の将来を背負って立つと言われる人物である。
「どうですか、吉重様の御様子は・・。」
京成は、そう言うと、意味ありげな笑みを漏らした。
「日に日にお加減が悪くなる。この分では、間もなく床に臥せられるであろう・・。」
大江は、決して人には聞かれないような、小声で吉重の様子を知らせた。
「井伊の殿には、そのようにお伝えしておきます。ところで、今回のお薬は、あと残り三袋の一つです。くれぐれも人には見られぬように・・。」
京成は、そう言うと、袖から小袋に入った薬を大江の近くに差し出した。
それを確認した大江が、ゆっくりと右手を出して、袖の中へとしまい込んだ。
「ところで、おぬし、右衛門に会ったそうだが・・。」
大江の耳に、その情報は入っていた。
「ほう、どのようにお知りになったので・・。」
京成が驚いて、大江に尋ねた。
「田原藩の指南役 関兼定は、わしの後輩でな・・。奴の話では、すでに佐那河内から弥吉という商人が田原藩の事情を探りに来たらしい。その商人が、関におぬしの事件を教えたのだ。関にしてみれば、まさかこのわしが、おぬし等とつながっているとは知らずにな・・。」
大江は、そう言うと、薄笑いを浮かべた。
「それは、うかつでした。まさか、それほど早く知れ渡るとは・・。おそらく、佐那河内にいる権蔵の息子たちが、わしのことを察知したのでしょう。これからは、もう少し慎重に動かねば、奴らを甘く見ていました。」
京成は、悔しそうに自分を戒めた。
「ところで、右衛門という男、どれほどの使い手だ。」
大江の知りたいのは、そのことだった。
「これをご覧ください。」
京成は、そう言うと、手首に巻いていた細長い布をほどいて、傷口を見せた。
「ほお、おぬしほどの忍びが、手負いを受けたか・・。」
大江は、編み笠越しに京成の傷口を見ると、少し驚いたようにそう呟いた。
「しかも、わしの手下を斬り殺し、返す刀で、わしに斬りつけた一振りで・・。わしは、今まで、あのような素早い太刀さばきは見たことがない。大江様、あなたとてまともに斬りあって、勝てる保証はありますまい・・・。」
京成は、そう言うと、意味ありげな目線を大江に向けた。
「余計なお世話だ!それより、井伊の殿にはよろしく言っておいてくれ。計画は、もうすぐ成功すると・・。」
大江は、京成の言葉に異常なほどに怒りを覚えながら、ぐっとこらえてそう言った。
「必ず・・。私が手掛けた大きな仕事で、この薬を使って、いまだかつて発覚したことは一度もありません。ご安心を・・。」
京成は、少し言い過ぎたかと反省しながら、大江を安心させるためにそう言った。
この男、忍びの割には、軽はずみな言葉を漏らすことがある。おそらく、自分が剣においても自信があるので、あのような言葉になるのだろう。
大江は、それ以上何も言わず、すっと立ち上がると、街道をまっすぐ歩き始めた。
(陽明帰国)
佐那河内では、陽明と異国船の乗組員受け入れのための準備が最終段階に入っていた。密輸船の停泊する隠し港はすでに完成し、乗組員を受け入れる宿泊所も改築がほぼ完成した。後は、この地の住民である漁師・百姓を中心に、異国人到来の事実を他国の人間に漏らさないことを依頼することだった。そのために、弥吉は主だった村人たちを寺に集めて、守秘の徹底を確認しようとしていた。
「すでにみんなには、わしの店の使用人から各家に出向かせ、今回の佐那河内での異国人到来のことを伝えたと思うが、改めて確認したい。決して、この地で見る異国人のことは、村以外の人間には話をしないこと。よろしいかな・・。」
弥吉の命で、村人に説明することになった勝介は、厳しい顔でそう言うと、みんなの顔をじっと見渡した。
「今さら何を言うかと思うたら・・。わしらも信用がないなあ・・。わしら今まで、二回にわたってこの村を襲った黒龍党を、右衛門様のお仲間と一緒に、撃退してきたのじゃ。そこいらの百姓町人とはわけが違う。それに、右衛門様、和尚様や弥吉さんのおかげで、村は安心して暮らしていける。そんなわしらが、裏切るような真似、するわけないがな・・。ちっとは、わしらのことを信用してもらいたいものじゃ・・。なあ、みんな!」
村長の与平がそう言うと、集まったみんなが、合わせたように頷いた。
「この村は、右衛門様らと一蓮托生でさあ・・。たとえ、幕府の連中が攻めて来ようと、みんな喜んで戦いますだ。のう、みんな!」
側で、黙って座っていた連中に、漁師の成松が声をかけた。
「嬉しいことを言ってくれるなあ・・。しかし、そうなったら、お前らは逃げるが勝ちじゃ。そうできるように、せいぜい弥吉の手伝いをして、金をためることじゃ。弥吉頼んだぞ!」
そう言って、又五郎は、成松に笑顔で答えた。
「その時は、佐那河内のみんなに金をばらまいて逃がして見せます。なあ、成松!」
弥吉が、又五郎にそう答えると、成松は、安心しきった笑顔を弥吉に見せた。
彼らには、弥吉の財力と右衛門たちの武力が誇りであり、安心の源泉であった。
彼らの日々の暮らしは、弥吉の商売の影響もあり、どの村よりも豊かであった。その生活のゆとりと指導者たちの村人への寛容性は、他国の村人が、縛られている上の階層への絶対的服従という考えとは違う、自分たち独自の規範を作り上げていた。そして、この村の指導者が行う方針を評価する思考力をいつも持っていた。だから、右衛門らが提案する方針にいったん納得したなら、一致団結して、毅然とした行動をとれる覚悟が日頃から培われていたのである。
ある日、
「みんな自由でいられたら、いったいこの村はどうなりましょうな・・。」
右衛門が、和尚にそんなことを言ったことがある。
和尚は微笑みながら、
「それでいいんじゃよ。それで村の統制が取れなくなったら、みんなで納得するまで話し合えば、きっと道は開けてくるものじゃ・・。」
そう言って、和尚は、両手に湯飲みをかかえて、おいしそうに茶をすすった。
「自由か・・。なんでもできる自由。人に迷惑さえかけないなら、自分の好きなことができる自由・・。」
右衛門は、具体的に自由の意味を模索していた。
「そうだ、夢が持てて、その夢をかなえるために、どんなことにでも挑戦できる自由があれば、みんな満足して、不服もなくなるのかもしれん・・。」
右衛門は、今思いついた自由の考えを和尚に言おうとしたが、和尚は、手に湯飲みを持ったまま、こくりこくりと頭を上下に揺らして、眠っている様だった。
それを見た、右衛門は、にやりと笑って、静かにその場を後にした。
村人と弥吉の話し合いに戻る・・。
「それでも、弥吉様、わしらは、異国の人と話してもいいのかなあ・・。」
一人の若者が、弥吉に尋ねた。
「そりゃいいが、そのためには、お前は英語を学ばなくては、相手が何を言っているのか、自分が何を話したいのか、さっぱり会話にならんぞ。」
弥吉は、からかうようにそう言った。
「なんだ、異国の人は話をするのが苦手らしいなあ。それじゃあ、わしが話し方を教えてやろうかいなあ・・。松の所の息子も、幼い時、言葉が出なかったが、周りがわいわい言っていたら、今では、すっかり他の子どもと同じように話せるようになったもんなあ。」
その若者は、弥吉の言うことを勘違いしている様であった。
「お前はいいなあ。怖いもの知らずで、奴らの目は、真っ赤らしいぞ、鬼のようにな。」
どこで聞いたのか、友達らしき若者が、そう言った。
すると、辺りがざわめき始めた。すると、
「わしは、異国の人に長崎で会ったが、みんな優しい顔をしていた。吉造、いらんことを言うな!みんなが怖がるではないか。」
刀を肩に置き、柱にもたれかかり、腕を組んで、じっと黙って聞いていた右衛門が初めて口を開いて、吉造という若者を咎めた。
「これは、すまんこって・・。右衛門様に怒られたわ・・。」
常吉はそう言うと、ぺこりと頭を下げた。
「今日はこの辺にしときましょうか・・。」
和尚の一言で、集まった連中は、異国人がどのような人間なのか、想像を膨らませながら帰っていった。
(薩摩藩)
一方、陽明の船は、薩摩藩沖合に停泊していた。やっと、薩摩藩が買い取る物資を下ろして、商談が成立した矢先、陽明にたっての依頼が舞い込んできたのである。
薩摩藩主と面会してほしいというのである。陽明は、薩摩藩の要人と会談するのではないかと予想はしていたが、いきなり島津公と話しをすることになるとは思わなかった。
「別所広家様(元薩摩藩家老)は、今はもう退かれたのですか。」
陽明は、西洋風のテーブルに囲むように座った要人たちと、彼と共に来たロバーツと共に、椅子に座っていた。
「別所殿は、昨年お亡くなりになりました。」
陽明の質問に答えたのは、薩摩藩主席家老 小松清三郎であった。
彼はなぜか、言いにくそうに口ごもりながらそう言った。
「別所は、毒を飲んで死におった。」
小松の横で陽明をじっと見ていた島津公が、小松の気まずさを払拭するように、何のためらいもなく、ズバリとそう言った。
「申し遅れた。こちらが我が藩主 島津明定様じゃ。」
小松が、慌てて、陽明に話かけた主君を紹介した。
陽明とロバーツは、彼に向かって丁寧に頭を下げた。
テーブルの前には、葡萄酒が薩摩切子のガラスの容器になみなみとつがれていた。
陽明もロバーツもそのガラスの容器の美しさが、ずっと気にかかっている。
「お二人は、薩摩切子の容器が気に入ったようですなあ。よろしかったら、後で船にお届けしましょう。」
小松が、にこやかな顔をして、陽明に言った。
「(英語)このグラスくれるそうだよ。」
陽明が、ロバーツにそう言った。彼は嬉しそうに小松に向かって笑顔を見せた。
「ほう、おぬしは英語が達者だのう。」
島津明定が感心したように、陽明にそう言った。
「当たり前ではないか。」
陽明はそう思った。
そして、島津公の言葉を無視するように、黙ってグラスを見つめ、何も答えなかった。
その横柄な態度に驚いた明定は、改めて陽明の顔を見た。
「さすが、あの薬士を倒した右衛門の甥だなあ。わしの言葉には関心がないか・・。」
そう言いながらも、明定は不快な様子ではなさそうだった。
「ところで、陽明殿、後ろで座っている男は、エゲレス語ができましてな。なんでも、漁船で遭難して、アメリカ船に助けられ、アメリカで数年暮らしていたそうです。半年前に、薩摩に船で漂着しまして、それ以来、この地で暮らしている者です。どうやら、生まれ故郷は土佐のようで、あなた方のことを話したら、ぜひ、一緒に連れて行ってほしいとのこと・・。当方としては、反対する理由もないのだが・・。どうです連れて行ってくれますか。」
小松が、さっきから、後ろで椅子に座って控えている男のことを話した。
「どうせ、こいつを使って、われわれの動向を把握しようとしているのだろう。」
陽明は、小松の提案を聞きながら、そんなことを考えていた。
「(英語)君の後ろの男、アメリカにいたそうだ。われわれと一緒に同行したいというのだが、どうする・・。」
陽明が、ロバーツに尋ねた。
「名前は?」
ロバーツが、真後ろにいた男の方を振り返り、英語で尋ねた。
「(英語)万平といいます。年は十八、生まれは土佐です。アメリカのロサンゼルスで三年いました。差支えなければ、あなた方に同行したいのですが・・。」
臆することなく、万平は流ちょうな英語で二人に向かってそう言った。
ロバーツが、承諾の合図を陽明に目で送った。
「土佐へは行かんが、阿波の佐那河内というところへ行くつもりだ。よければいつでも船に乗ればいい。」
陽明が、無表情に万平にそう言った。
「ありがとうございます。」
嬉しそうな顔をして、万平が頭を下げた。
「ところで、折を見て、この小松も一度佐那河内へ向かわせ、右衛門殿に会わせたいのだが・・。陽明君、おぬしそう言っておいてくれんか。」
三人の会話を黙って聞いていた藩主島津明定が、いきなり、陽明に小松と右衛門の面会を頼んできた。
この島津公、先代藩主が亡くなって、一挙に藩政を刷新した。別所の粛清もその一貫だった。別所の死は、半ば、藩主明定の弾圧に屈した形で行きついた結果であった。
「それはいいのですが、島津様は、何故叔父に御家老を合わせたいので・・。」
陽明は、何の思惑もなく、明定に理由を聞いた。
「おぬしも知っているだろうが、今は井伊祐直が幕府を牛耳っている。我が藩も奴の締め付けで、ずいぶん、目に見えない弾圧を受けているのだ・・。同じように、幕府の柳生義親殿は、今の井伊の振る舞いには満足していないと思うのだが・・。その義親殿が、一番目にかけているのが、右衛門殿だと聞いている。以前、我が藩の別所とは、いろいろ敵対していたようだが、その別所もいなくなった今となっては、右衛門殿と我が藩は、いろいろ利害で意見の一致が見られるのではないかと思うてな・・。どうだ、陽明君、右衛門殿にその旨、伝えておいてくれんか。」
藩主明定の言葉は、何か隠された魂胆があるようだった。
「要するに、叔父とうまくやっていこうではないか、ということで・・。そうすれば、後ろにいる柳生義親様との関係もうまくやっていけると考えてのことでしょうか・・。」
陽明は、明定の思惑を、遠慮もせずに簡単にまとめた。
「まあ、そう言うことだ。井伊には世の中が見えていない。もはや、この国は外国にいつまでも門戸を閉ざすことはできないのだ。その扉を開くために、古い幕政を何とかしようということだ・・。」
陽明の率直な言葉が気に入ったのか。なんの否定もせずに、明定は自分の本音を漏らしたようだった。彼は、陽明が気に入ったのか、初めの表情よりかなり機嫌がよさそうだった。
明定の言葉で、陽明はなぜアダムス卿が薩摩に期待しているのかが分かったような気がした。日本の門戸を開くには、この大名がどうしても必要なのかもしれない。そう思い始めていたのである。
「しかし、叔父は天下の政治に関心をもつような性格の人物ではないと思うのですが・・。どちらかと言えば、行き当たりばったりの人生を送っているような侍です。剣の腕はめっぽうたちますが・・。」
それは、陽明の素直な感想だった。
この言葉には、小松も島津明定も笑いが止まらなかった。何事が起きたのかと、奥で控えていた彼らの護衛の侍たちが、様子をうかがいに後ろの方で顔を突き出すほど、二人は笑った。陽明とロバーツには、二人の笑う理由が一向に分からなかった。
「それでいながら、右衛門殿が動けば、何かが起こってきた。わしは、その右衛門殿の人を動かす影響力に関心があるのだ。」
藩主明定の考え方は、普通の大名とは少し違っていた。陽明はこの藩主に少し興味を引かれ始めたのも事実であった。
「殿のご意向は、叔父にしっかり伝えておきます。」
仕方なく、陽明はそう答えた。
「ところで、陽明君。おぬしの船には、わが藩が購入した最新鋭の銃以外に、何やら他にしまい込んでいるようだが、あれは右衛門殿への土産かな・・。」
明定が、意味ありげな視線を陽明に向けた。
「あれは、弥吉に頼まれた武器でして・・。すでに買い手は決まっております。」
陽明は、自分の思惑通り薩摩が乗ってきたと思って、にやっと笑った。
陽明は、自分達の商売の力で、国を左右する武器の影響力を連中に見せつけたかったのである。
「我々を侮るなよ・・。」
陽明の顔には、そんな不敵な表情が浮かんでいた。
「我が藩に売る気はないですか。いや、全部とは言わんが、二門程でもいいのだが・・。」
小松は、子供がおもちゃを欲しがる幼児のような顔をして、陽明に頼んできた。
「(英語)小松が、大砲を譲れと言っている。英語で強く断ってくれないですか。」
陽明が、ロバーツにそっとささやきかけた。
すると、後ろにいた万平が、くすりと笑った。
「NO!」
ロバーツが、辺りに響き渡るような声でそう叫んだ。
しばらく、その声に圧倒されて、沈黙が続いた。
「そういうことです。申し訳ありません。」
陽明が、ぽつりとそう言った。
二人の拒絶の反応に圧倒されたのか、小松はそれ以上一言も口をきかなかった。
ただ、陽明は薩摩にかなりの興味を抱いたのは、事実であった。
(陽明、佐那河内に帰る)
朝早く、陽明の船は佐那河内の秘密港に着岸した。弥吉の店の荷役を運ぶ港湾労働者は、全員、この港に集められ、荷物を運ぶために作られた山道を、表の開けた港に建てられた倉庫へと、素早く大砲十門を運び入れた。人手の多さもあって、その作業はあっという間に完了した。
「(英語)完ぺきだ!」
その作業を見ていたロバーツは、何度もそう言って弥吉の店の労働者を称賛した。
「まずは、アダムス様のお孫様であるナタリー様とその一行は、寺の横の屋敷に宿舎を用意していますので、この後すぐご案内いたします。その他の乗組員は、時を置いて数人ずつ、暗くなってから、下の長屋の区域に宿泊してもらいます。各自、外を移動の時は、手前どもが用意しました着物を身に着け、竹笠をかぶってもらいます。よろしいかな・・。」
勝介はそう言って、万平を見た。彼は、流ちょうな英語で通訳すると、本土に上陸できる興奮に沸き立っていた乗組員から、自然と歓声が沸き上がった。
「それでは行くか!」
陽明の高揚した呼びかけで、まずナタリーと、護衛の二人のサムとマイケル、それからロバーツや副航海士等数人が、着物姿に竹笠をかぶって下船し始めた。みんな未知の地に降り立つ冒険心に胸躍らせているようだった。
荷物を運ぶ人工の山道の脇道から抜けて、寺へ続く一本道の大きな山道を下っていた陽明たちは、後ろからいきなり大きな声で呼び止められた。陽明が振り向くと、釣り竿を手に持った右衛門が、にこにこしながら駆け寄ってこようとしていた。
「叔父上!」
右衛門だと気づいた陽明が、嬉しそうにその人影に声をかけた。
「よう帰ってきた!長旅疲れただろう・・。」
右衛門は、そう言いながら、陽明の近くまでやって来た。
「(英語)この人、誰なの・・。」
ナタリーが、初めて口を開いた。彼女は、薩摩では船室に隠れて姿を見せなかったので、今日初めて異国へ来て、この国の人と接しているのである。
「(英語)これが右衛門だよ。君が会いたかったな・・。」
陽明はそう言うと、ナタリーがどんな反応をするか興味ありげに観察していた。
すると、ナタリーはいきなり編み笠をとって、
「こんにちは、右衛門。私はナタリーです。」
ずっと前から覚えていたのだろう。たどたどしい日本語でそう言うと、右衛門に近づき頬にキスをした。
「わしは、初対面で顔に口をつけられたのは初めてだな・・。それも、こんな可愛いお嬢さんにな・・。陽明、わしの言うことを英語で言ってくれ。」
右衛門は意外にも動揺していなかった。どうやら、右衛門はナタリーの行動を子供の仕草のように考えているようだった。陽明は、そのことに少し拍子抜けした。
陽明がナタリーに通訳すると、ナタリーは、右衛門の釣り竿を持っていない右手を握りしめ、一緒に山道を降り始めたのである。
「おいおい、人が見たらびっくりするではないか・・。」
右衛門は、初めて照れたようにそう言った。しかし、ナタリーの手を振りほどくこともなく、黙ったまま一緒に歩み始めたのである。
「案外、右衛門殿はナタリー様に驚かなかったですなあ・・。」
側でにこにこしながら、その様子を見ていた万平が、陽明にそう言った。
「わしは、叔父上がもっと驚くかと期待していたのだが、なんだか裏切られた気持ちになった。」
陽明は、二人の後を追いながら、少し不満そうな顔をしていた。
しばらく、みんなで歩いていた途中、
「それで、この少女は、何のためにこんな所へ来たのだ。」
右衛門は、横にやってきて、歩調を合わせた陽明にそう尋ねた。
「この人は、叔父上も知っているアダムス様のお孫様です。私が、イギリスにいた頃、叔父上のことを話したら、突然、日本へ行って叔父上に会いたいと言い出して・・。アダムス様がお許しになって、乗船してきたのです。困ったものです。」
陽明は、そう言いながらも、さっきから、右衛門と手をつないで真っすぐ屋敷へ向かうナタリーの嬉しそうな顔を見て、彼女を満足させたことで、一つ帰国の目的を果たしたような気になっていた。
「いいではないか。勇敢なお嬢さんだ・・。お前がそんな文句を言うとはなあ・・。自分を棚に上げて、よく言えるものだ。」
右衛門は、陽明に皮肉を言うと、快活に笑い始めた。その笑顔を見て、ナタリーもつられるように、嬉しそうに笑い始めた。
「(英語)心配していたが、ナタリー様がこのように明るいのを見ると、日本に連れてきてよかったという気になります・・。」
ロバーツも、陽明にそう言って、微笑んだ。
空は快晴、佐那河内の田畑に朝の光が差し込んで、ナタリーの目に最初に飛び込んできた日本の風景は、東洋の独特の文化をはぐくんでいる人々が住む、静寂と安らぎを象徴する素晴らしい生活空間として目に焼き付いたのであった。
夜になって、屋敷の襖を取っ払い、船の乗組員全員と、佐那河内からは右衛門、源一郎、又五郎、丹波(忍び)、哲太(猟師)等すべての仲間が集まり、夜宴が行われた。
その騒ぎは、下の村人の家にまで聞こえるほどの大騒ぎになった。長い航海で、船に閉じ込められていた船員たちの解放感もあって、酒の量も、今までこの地で行われた宴会で用意された酒量とは、桁外れの規模になった。
庭に出て、ダンスを踊る船員、その陽気さに誘われたように座敷では、赤松が日本の芸を見せると言って、黒田節を舞い始めた。
「いやあ、今朝、右衛門がこのナタリーさんと手をつないで、帰ってきたのを見た時は、雷がこの屋敷に落ちたぐらい驚いたぞ。しかし、陽明、ようこんな可愛らしい女の子を連れてきたものじゃ。お前も、右衛門に似て、なかなか達者なものだ。」
又五郎は、そう言うと、湯飲みになみなみつがれた酒を一挙に飲み干した。
座敷の向こうでは、ナタリーが、春や早苗、志乃(弥吉の妻)、滝(丹波の妻)らに囲まれて、何やら話しかけられては、万平が通訳していた。人形のように可愛いナタリーを見た佐那河内の女性たちは、彼女が気になって仕方がなかったようである。
「可愛いねえ・・。」
時折、その輪の中から漏れるその言葉は、何度も何度も繰り返されていた。それを聞いているナタリーも、まんざらでもなさそうで、嬉しそうに笑顔を振りまいていた。
時はあっというまに過ぎて行った。
夜も更けて、一人去り二人去り、深酔いした又五郎や赤松、イギリスから来た船員たちは、みんな弥吉の手伝い達に運ばれて、それぞれの寝所へ帰って行った。
「もうあなた方だけよ。よかったら、お茶でも持ってきましょうか。」
ナタリーをはじめ、女たちもすっかりいなくなった広間に集まった右衛門、弥吉、陽明、源一郎、丹波に気を利かした春が、声をかけた。
「いや、お構いなく。何かいるようだったら、勝介を呼びますから・・。」
そう言って、弥吉が感謝の意味で頭を下げた。春は、その言葉を機に、奥へと引っ込んだ。
広間で塊になったのは、みんな余り酒を飲まなかった、比較的しらふで宴会を過ごした連中だった。誰が声をかけるでもなく自然に集まった。
「ところで、陽明、これから何を企んでいるのだ。」
右衛門が、前にあった煮豆を手でつかみ口に運んだ後、そう切り出した。
「別段、具体的な計画はないのですが・・。とりあえず、アダムス卿と約束したように、この国の風向きを見ながら、面白い商売をしたいと思って・・。アダムス卿は、香港やインドとの貿易に五隻の船を使っているのですが、どうしても日本と貿易がしたいのです。ただ、今の幕府は以前にもまして異国との交易を拒んでいる。それを何とかしたいらしく、私に白羽の矢が立ったという訳です。私には、叔父上の仲間や弥吉がいる。私を使って、その力を利用したいのでしょう。そんなところです・・。」
右衛門には、余り陽明の考えが理解できなかった。ただ、どうやら今の幕府を牛耳っている井伊祐直を横にどけてみたいと思っているのは、なんとなく理解できた。
「具体的には、これから何をしようとしているんだ。」
源一郎の質問は、的をえていた。
「弥吉さんとの貿易かな。とりあえず、あと数日、この船の連中はここにとどまり、それからルソンまで引きあげて、日本で得た資金で物資を調達する。あの地には、ヨーロッパから運んできたいろんな商品が、山のように置かれているのです。いわば、日本とヨーロッパの中継地ですからね。もちろん、望めば、どんな武器でも調達できる。金さえあればだが・・。」
陽明の言葉に、弥吉が身を乗り出した。
「私どもは、いつでも陽明様の指示を待っている状態です。大阪の源一郎様や酒田の慎吾さんからも協力するとの同意は取っていますから・・。資金の方は問題ないかと・・」
弥吉は、すっかり陽明との貿易に夢中になっているようだった。
「それでも、何だか危ない匂いがするなあ・・。」
源一郎の言葉に、右衛門が同意するように頷いた。
「大体、陽明は、昔からどこか向こうみずで大胆な所がある。わしは、陽明が伊予おばさんに、動物をいじめて叱られているのを何度も見たことがある。猫の首に縄をつけて、にやにや笑っている顔が忘れられん。」
源一郎は、まだもっと大胆な行動をとっていた陽明を覚えていたが、さすがにこの場で言うのを憚った。
「源一郎は、自分の悪行を棚に上げて、ようもそんなことが言えるものだ。」
怒りに任せて、陽明が源一郎に、根拠もないことで非難しようとした。
「どんな悪業だ、言ってみろ!大体、年下の癖に、わしを呼び捨てにしおって・・。無礼な奴だ・・。」
源一郎が、血相を変えて陽明に挑みかかった。
「やめんか!おぬしらは、もう二十歳近い成人だぞ。今のやり取りを聞いていると、到底、天下国家を動かそうなどという器の人間ではない。悪いことは言わん、火遊びは、この辺でやめとけ!」
久しぶりに、右衛門の表情は怒っているようだった。内心、今食べた煮豆が、思いの他うまかったので、もう一つ口に放り込みたかったのだが、二人の争いに、叔父らしい一言を言っておこうと、体裁を繕っただけだった。
「右衛門様、陽明さんの無鉄砲な血気がなければ、この国を何も動かせないとわしは思うんです。わしの親もそうだったが、もっとまっとうになれと、わしによく言ってましたが・・。親父のようにまっとうに仕えても、幕府は何も変わらない・・。柳生様は、いつの間にか政敵井伊様に主導権を奪われ、その井伊様は、また昔のような政治をしている・・。柳生様を信じて忍びをしていた親父は、今では井伊の忍びの京成一派に命を狙われる始末です。」
丹波が、いきなり話した内容は、集まった連中のどこか、心の琴線に触れる内容だった。
陽明は、フランスで出会ったガロアのことを思い出した。まっとうでないと言えば、彼ほどまっとうでない男もいなかった。人類の知を揺るがせるような数学的想像力を持ちながら、本気でフランス共和国樹立を夢見て戦っていた。それも、彼の数学と違って、彼の政治力などフランス王国にとって、取るに足らないごみのようなものだけれども・・。彼は、所詮、政治力では、ロベスピエールでもなければ、ナポレオンでもなかった。ただ、学問の世界でのみ、途方もない巨匠になれた逸材であった。
それでも、彼は必死で自分の理想を政治にぶつけ、無鉄砲な反抗を現王政に試みていたのである。彼には、生きる上での理想があった。それは、共和国主義の思想である自由・平等・博愛である。自分の理想とする社会があってこそ、彼の数学的偉業は、受け入れられると信じていたのかもしれない。
「丹波、おぬしの言う通りだ。わしは、叔父上に何と言われようと、目に見えない巨大な体制に挑んでやるからな・・。自由・平等万歳!」
丹波に触発され、ガロアの言った言葉を思い出した陽明が、みんなに宣言するようにそう叫んだ。
陽明のその言葉を聞いていた右衛門や源一郎、そして、丹波は、規模は小さすぎるが、この村の自由を考え、村人と自分たちの平等を考えていた。
「やはり、洋行帰りの陽明は、わしらとはどこか違うのかもしれんなあ・・。」
右衛門が、陽明の言葉に、しみじみとそう言った。すると、源一郎も弥吉も丹波も右衛門の言葉に賛同するように、頭を小さく上下に振って頷いた。
「叔父上、違わないですよ。少なくとも、この地には自由がある。こんな村が、この国にいっぱいできればいいだけの話ですよ。」
陽明が、右衛門の言葉にそう答えた。
「それなら、わしにもわかるような気がする。」
陽明と言い争っていた源一郎が、すっかりそのことを忘れたように、陽明に笑顔を見せた。
(ナタリー、滝、陽明、サム、マイケル、哲太、将太、万平)
村のはずれの海の見渡せる広い空き地で、ナタリーの護衛で、この地に来たサム、マイケル、村の猟師になった元見能林鉄砲隊の哲太、将太が、射撃で競うことになった。ルールは、一つの銃をかわるがわる使って、向こうに設けた射的に充てる単純な競争だった。
言い忘れたが、ナタリーは、すっかりこの村が気に入って、この地にやって来たイギリス船には乗らず、しばらくの間、この佐那河内に滞在することになったのである。自然と、彼女の護衛で日本にやって来た射撃手のサムとマイケルもこの地に居残ることになった。幸い、佐那河内には、哲太と将太の兄弟がいて、銃を通じて彼らと親しくなった。
すでに、サムと将太は、何度か的を外し、競争から脱落していた。
「丹後と三郎はどうしたのだ。せっかくわしら同じ年頃の者が、エゲレスからやって来た陽明等と集まっているというのに・・。」
少し、不満げに源一郎が、滝(丹波の妻)に問い詰めた。
サムやマイケル、それにナタリーもあまり人種の違いを意識しなかった。もちろん、この村の若者は、身分を気にせずに、仲間の繋がりを大切にするようにと言う和尚の教えもあって、仲間を受け入れようとする積極性を持っていた。こんな環境だから、彼らはよく一緒になって行動した。同世代の人間と集まって何かを一緒にすれば、遠慮もいらず楽しいからでもあった。多感な青年たちの興味は、どんな方面に向かっても楽しくて仕方がないのだろう。
「二人は、右衛門様から頼まれて、尾張周辺を探りに出かけました。どうやら、井伊藩の京成という忍びの最大一派が、柳生吉重様の周りで、怪しい動きをみせているみたいなのです。丹波は、吉重様と縁のあるこの村でも、京成配下の忍びを何度か見かけたらしいのです。右衛門様の勘は鋭いから、危険を察知なされたのでしょう。せめて、この村では何も起こってほしくないのですけど・・。」
滝は、丹波から聞いた話を全て源一郎に話した。
「そうか、叔父上は何もわしに言わんが、何か嫌な予感はあったのか・・。先日も・・。」
そこまで言って、源一郎は口をつぐんだ。
右衛門の命で、佐那河内の屋敷にいた忍びのことは、村人に伝わらぬようにと口止めされていたのである。
すると、
「知っています。丹波から聞きました。」
滝はすでに知っていたのである。
「なんだ、二人でこそこそと・・。何かあったのか。」
陽明が、二人の声を潜めた会話を怪しんで、聞いてきた。
「いや、お前には関りはない。それより、マイケルと哲太の射撃は、どちらが勝つかな・・。」
源一郎は、陽明の質問をそらすように、最後の勝負をしている二人の方を真剣なまなざしで見つめ始めた。
バーン!
マイケルの最後の射撃が、正確に的の真ん中を貫いた。
万平が、的に駆け寄ってマイケルの一撃が的の真ん中を射抜いたことを知らせるために、右手を大きく上げて左右に振った。すると、次の瞬間、みんなの歓声が上がり、将太がマイケルを肩車して、みんなの間を駆け巡った。
「やはり、あのエゲレス人は本物だ。」
哲太は、自分が負けたことを素直に認め、鼻の下を人差し指でこすって、恥ずかしそうに苦笑いをした。
「(英語)みんなで屋敷へ行って、私たちが持ってきた葡萄酒を飲もう!きっと、おいしくてびっくりするぞ。」
笑顔満面で、サムは万平にそう通訳するようにとせき立てた。
万平が、そう言うと、また、歓声が上がり、彼らは一つの塊になって、丘の上の屋敷に向かった。いつの間にか、ナタリーは陽明とマイケルの手を取って、嬉しそうにみんなについていった。
「ナタリーは、手をつなぐのがよほど好きらしい・・。」
陽明は、ナタリーの無邪気な性格に気づいて、苦笑いをしながら彼らに従った。
(早苗、春、志乃、美代)
秋山正幸に伴われて、美代(正幸の妻)が,佐那河内にやってきた。いや、むしろ美代に誘われて、正幸が佐那河内まで美代についてきたのかもしれない。早苗が、佐那河内に帰ったという知らせを聞いた美代は、一刻も早くこの地に来たかったのである。さらに、右衛門が連れてきたという春にずっと興味を引かれていた。
「エゲレスからお人形のような女の子が来ましてね・・。」
早苗は、美代を見るなりナタリーの話をし始めた。
「さっき、屋敷に入ってくるときに大勢の若者と一緒にこの屋敷を出ていくところを見かけました。その時の旦那様の顔を見せたかったわ。あの少女を見るなり、その場で立ちすくんで、じっとその子を見ているの。夫が、その子をあまりにじっと見るものだから、その子が、片言の日本語で’こんにちは’って言ったのに、夫は返事もせずに、逃げ出すように屋敷に入るのですもの・・。みっともないって言ったら・・。余りにもきれいな女の子だから、話す勇気がなかったのかもしれません。」
そう言って、美代が話すと、志乃(弥吉の妻)と早苗が大きな声で笑い始めた。
しばらく、機関銃のように休みなく三人の会話が続いた。
美代がふと見ると、後から部屋に入ってきた春が、美代に深々とお辞儀をした。
「あら、失礼しました。春さんですの・・。」
やっと気づいた美代が、春に声をかけた。
「春さんこちらへ・・。この方があの長谷部様の御内儀の美代様よ。」
早苗が、春に輪に加わるように促した。
実は、春も美代のことが気にかかっていた。酒田にいたころ、佐吉から、美代が死んだ雪に似ていると聞いていたからである。その時から、美代のことが見てみたいとずっと思っていたのである。
「おきれいなお方だこと・・。正幸の言う通り・・。右衛門様は、ぼーっとしている様で、肝心のことになると抜け目がないって・・。」
美代の言葉に、早苗と志乃が吹き出した。
「美代様は、右衛門の亡くなられた雪様にそっくりだと佐吉さんが言ってました。雪様は、とてもお美しい方だったそうで・・。」
春は、その事実を美代に言わずにはいられなかった。
「そう、雪様は、我が夫秋山正幸の姉なのです。夫からも、いつも死んだお姉さまの自慢ばかり・・。余程、お美しい方だったのでしょうね・・。あの右衛門様が、死んでからも忘れられなかった方ですもの。(はっとして)でも今は、春様がいるんだもの・・。右衛門様はお幸せな方ですわ。」
美代は、雪のことを話題に出したことを、春に悪かったのではないかと心配した。
「米沢藩主の上杉様も、昔、雪様に会ったことがあって・・。私は、どんな人かと聞いたんです。そうしたら、美しいだけでなく、とても気品があったって、おっしゃってました。おそらく、私と比較してのことでしょう。でも、上杉様が言いたかったことが分かったような気がします。」
春の言葉に、聞いていた三人は、彼女が何を言いたいのか理解ができなかった。
「そんなことないわよ・・。春様だって凛としていて・・。ねえ、志乃さん。」
美代がそう言って、黙って聞いていた志乃に同意を求めた。
志乃は、美代の言葉に大きく頷いた。志乃は、元々、佐那河内四女傑(早苗、志摩、伊予、美代)の群には所属していなかった。いつも控えめで、女傑達の言うことを微笑みながら聞いていることが多かった。
「春さん、分かった・・って、何が分かったの・・。」
春の言葉が気になっていた早苗が、春にそう聞いた。
「美代様を見ていると、雪様の気品がどういうものか・・。私など決して及ばない、持って生まれたものがあるんだなって・・。」
春は、正直に早苗に思っていることを白状した。
早苗と志乃が、顔を見合わせた。春は、とんでもないことを言ってしまったのではないかと・・・。
早苗が美代の顔をそっと見ると、志乃と早苗が感じた予感が的中したことが証明された。
「まあ、春さんたら・・。私を見ながらそんなことを考えていたなんて・・・。大阪へいらっしゃったら、ぜひ、私どもの屋敷を訪ねてね。何だか、春さんとは仲良くなれそう・・。ねえ、早苗様、志乃さん。」
美代の表情は、嬉しさで上気している様だった。
早苗と志乃は、これからどれだけ美代の機嫌がよくなるのかを考えると、少し不安な気持ちになった。
(右衛門、正幸、又五郎、弥吉、喜一郎)
右衛門は、いつものように床の間の柱に背をつけて、腕を組んでいる。今日は、刀は横に無造作に置いている。又五郎と正幸がいるのだから、誰も襲いに来ないだろうという安心感からだった。正幸は自分の腕枕で、ごろんと、横になってくつろいでいる。又五郎も、胡坐をかいて腕を組んで、時折、鼻がむずむずするようで、大きなくしゃみを何度かした。喜一郎と弥吉は、きちっと正座はしているが、大きな火鉢の両側で、時折、寒そうに火鉢の温かさを求めて、手をかざすのである。
「ところで、弥吉・・。権蔵が自分の手下とその家族を含めて四十人余り、この佐那河内で面倒を見てくれないかと、兄(大目付)の正直から依頼があったのだが・・。おぬし、権蔵たちを何とか引き受けてくれんか。」
正幸は、寝転んだまま気楽に言うが、四十人もの人間を引き取るとなると、住居を用意し、生活費も面倒見なくてはならず、そう簡単なことではなかった。
権蔵は、大目付秋山正直に仕えていたが、今、幕府では井伊祐直が幕政を自由に差配し、秋山配下の忍びには、仕事がまわってこなかったのである。もともと、権蔵たちの組織は、直接幕府から報酬をもらっているわけではなく、大目付の秋山から依頼があれば忍びを行う、いわば、権蔵を社長とする請負の仕事をしている中小企業のようなものであった。
ただ、井伊藩のお抱えである京成を首領とする忍びの一団は、同じ忍びでも権蔵らとはまったく違って、直接、井伊藩から扶持米をもらっている家臣と同等の身分であった。それだけに、組織の規模も、権蔵等の集団とは比べ物にならなかった。京成の配下には、二百人ぐらいの手下がいると言われていたのである。それは、元々、井伊藩と言う雄藩の特性からくる組織のありようだった。歴代井伊家頭首は、幕閣では、何度となく老中筆頭の役職になって、徳川幕府の安定を支えてきた。自然と、自分たちは幕府の守護神であるという自負を持った、誇り高き大名の地位を占めていたのである。幕府の守護神なら守護神にふさわしく、各藩の情報を集め、裏の仕事もいとわない忍びの組織も必要だった。
「その事は、息子の丹波からも話がありました。何分、お引き受けするには、権蔵さん率いる集団がこの佐那河内で必要かどうかということが、一番大事で・・。(右衛門の方を見る)どうでしょうか・・。」
弥吉は、判断を右衛門に委ねた。
「厳しいなあ・・。丹波や三郎の親父殿でも、利用価値で判断が決まるか・・。商人は、情というものをどう考えているのか、わしには分からん。」
又五郎は、弥吉の言い方に不満のようであった。
「そうおっしゃいましても、弥吉が引き受ければ、権蔵さんの配下の人たちにも、住む家を建てねばならず、日ごろの仕事をこの地で見つけるまでは、生活の費用もみなくてはなりません。まさか、権蔵さん相手に、金銭の貸し借りはできませんので・・。」
喜一郎が、弥吉の代わりに、又五郎に反論した。
「忍びの仕事がない時は、弥吉の港で雇えばいいではないか・・。」
喜一郎の反論に譲歩することなく、又五郎が異論を唱えた。
「まあいいではないか・・。弥吉と喜一郎は、先ごろ莫大な金を、陽明の船との貿易のための施設建設につぎ込んだのだ。そう湯水のように出せるわけがない。」
右衛門が、又五郎の横やりに終止符を打った。
「そのことですが・・、陽明様からの大砲十門のうち、二門を備前藩に売り渡したいのですが、よろしいでしょうか・・。手前どもが十門を一万両で買った大砲のうち、二門を一万六千両で買いたいと引き合いが来ているのです。そうすれば、手元に残ったお金で、権蔵さんらは、十分引き受けられるのですが・・。陽明様からは、井伊藩と友好を保つ藩には売ってはならぬと、きつく言われていますので・・。備前藩なら問題ないかと・・。」
弥吉はそう言うと、また右衛門の顔を見た。
「ほう、弥吉と喜一郎も、えげつない暴利を稼ぐものだな・・。商人との交渉の際には、今の言葉、参考にせねばな・・。」
正幸が、そう言ってにやりと笑った。
「御冗談を・・。正幸様は、佐那河内のお仲間だと思っているからこそ、駆引きなしでお話し申し上げたのに・・。」
弥吉が慌てて、正幸の言葉に言い訳をした。
「冗談じゃ。わしは、仲間を裏切るような男ではない。」
そう言うと、正幸は、大きな声を出して笑った。
二人のやり取りに、関心を示さず考え込んでいた右衛門が、
「弥吉の提案。すべて、わしの責任で引き受ける。権蔵と配下の面倒はよろしく頼む。大砲の件は、陽明に話しておく。否とは言わさんから・・。」
そう言って、躊躇なく結論を出してしまった。
弥吉と喜一郎は、右衛門の言葉にほっとしたように、顔を見合わせて微笑んだ。
「合議が決まったら酒でも飲もう・・。(部屋の外に呼び掛けるように)赤松!酒を持って来い!おぬしも加わらんか・・。」
又五郎の言葉に応じるように、赤松が快活に返事をするのが聞こえた。
(和尚、久野老人)
赤松と五人の酒宴が盛り上がった頃、
「右衛門様、和尚様がお呼びで・・。」
梅が、酒を飲んでいる連中のいる障子を開けて、右衛門に用件を伝えた。
「おお、梅ではないか・・。久しぶりだな。」
正幸が、目の不自由な梅の顔を見るなりそう言った。
「その声は、正幸様。私のようなものを覚えていただいていて・・。有難いことです。」
梅は、そう言うと頭を下げた。
「わしの声で、よう分かったなあ。ところで、お前の息子の五平は元気か。」
正幸は、身分にこだわらず、誰とでも気さくに話せた。正幸は、秋山家の子息であり、長谷部家の次期頭首でもある大家の身分であったが、梅の息子のことも忘れてはいなかった。
「あれは、和尚様のご尽力で、高野山に僧侶の修行に行っています。ほんまに有難いことで・・。」
梅は、心底、和尚に感謝をしている様子だった。
「つまり、和尚の跡継ぎは、五平と言うことだ。」
又五郎が、正幸にそう解説した。
「滅相もない。あの子が和尚様の跡継ぎなど・・。又五郎様も、いい加減なことは言わんでください!」
梅は、本気になって、又五郎にくってかかった。
「梅、和尚の他に誰かいるのか・・。」
右衛門が、話を戻した。
「へえ、久野様(紀州五家の一角で元頭首)が・・。」
梅が、そう言った。
「久野の隠居がおいでなら、すぐに行かねばなるまい。」
右衛門がそう言うと、喜一郎と弥吉の目が合った。
「久野様がお出でなら、私と弥吉もお目にかかりたいのですが・・。」
喜一郎が、右衛門にそう言った。
「別に支障はないが、あのお方に何か用でもあるのか・・。」
右衛門は、喜一郎の意外な言葉に、そう質問した。
「恐らく、万座屋のことが話題になるのでは・・。」
弥吉が意味ありげなことを言い出したが、右衛門はそれ以上詳しい話は聞こうとしなかった。
「察しがいいのう。お前たちの耳にも万座屋のことは入っとるか・・。」
久野老人は、弥吉と喜一郎を見るなりそう声をかけた。
二人は、彼の言葉に、何も言うことなくにこりと笑うと、正面に座る久野老人と和尚から少し離れて、正座して座り、深く頭を下げた。
「何か、私だけが事情を知らずにこの座に来たようですなあ・・。」
右衛門はそう言うと、和尚と久野老人が座る上座から、いちばん近い所に用意された座布団に胡坐をかいて座った。もちろん、刀は置いてきていた。
「酒盛りをなさっていたとのこと。わざわざお呼びだてして申し訳ありませんなあ。」
和尚が、一応そう言って、この場にすぐ来てくれた右衛門に感謝した。
「いや、喜一郎と弥吉はかなり飲んでいましたが、私は、余り酒は飲まないので・・。」
一応、右衛門が和尚に応対したが、弥吉と喜一郎は、久野老人の話が気にかかるのか、社交辞令の言葉を省略した。
「早速だが、少し穏やかでない情報が、我が藩の目付け役からとどきましてな・・。」
久野老人の言葉に、周りの空気が一変した。
久野老人からの情報によると、紀州藩家老筆頭 安藤継正は、老中筆頭 井伊祐直の権力を頼みに、万座屋を使って、黒龍党(野盗の集団)を再結成し、井伊藩と関係の深い九鬼水軍の残党と合流して、佐那河内へ最大の攻撃を企んでいる。・・という知らせが、久野老人の耳に入ったのである。もちろん裏では、井伊の指示があるのは明白だった。これまで二度の佐那河内襲撃で、相当の資金を都合してきた万座屋にとって、この計画は、自分の店の屋台骨を揺るがすほどの資金を必要とするだけに、必死で反対の抵抗を試みたが・・。なにせ、安藤の後ろにいる井伊の武力集団は、店主万座尚江の命を奪いかねない狂犬であった。
「仔細はつかめていないが、大船四隻、傭兵四百程という知らせが入っておる。他にも、鉄砲百丁調達などという物騒な調べも入っているが、どこまで信じてよいものか・・。これが本当なら、万座屋にとって、この計画が失敗すれば、奴の大店自体崩壊するほどの勝負をしてくるらしいのじゃ・・。」
久野老人のこの話を聞いた右衛門以下全員が、驚きのあまりしばらくは口もきけなかった。
「しかし、万が一、襲撃が成功したとして、どうやってそれほどの資金を回収するので・・。まさか、井伊様が万座屋に、成功の褒章をそれほど与えることはできないでしょう。」
右衛門が、やっとその計画の不審な点を指摘した。
すると、弥吉が口を開いた。
「恐らく、井伊様の忍び京成一派は、我々の密貿易を把握しているのでしょう。もし襲撃が決行されるとなると、今度のエゲレス船が、佐那河内の隠し港に入港して、佐那河内の蔵が、エゲレスからの商品でいっぱいになったところを狙うと思われます。それなら、万座屋が使った軍資金は回収できます。」
弥吉の推察に異論を唱える者はいなかった。
「わしは、弥吉の話は聞かなかったことにする。ただ、もう一つこれに関連して、面白い話があってのう・・。」
久野老人の本題は、これからの話のようであった。
つまりこうである・・。
満座屋失脚は、安藤継正(紀州筆頭家老)の紀州藩での権勢を揺るがしかねないのである。もし、安藤を支援してきた万座屋の財力が枯渇すれば、紀州のライバルである水野尚則 (幕府老中 紀伊新宮3万5千石)の紀州での影響力が、安藤の傾いた権勢の分だけ上昇するのは目に見えていた。水野は、領地の新宮に、大前屋のために港の利用を許していた。財力では、安藤を圧倒することになるのである。いかに御三家とはいえ、今のご時世、財政のひっ迫していない藩など、数えるほどしかなかったのである。
どうやら、喜一郎と弥吉も久野老人の話した、万座屋の財政状況が傾いているという情報は、おおよそ掴んでいたのかもしれない。久野の話が進むにつれて、二人の体が前にのめってくるように思われた。
「この好機をあの賢い水野殿が見逃すはずがない。早速、我が久野家にも、水野殿から話があってのう・・。もし、安藤殿が失脚すれば、次期家老筆頭を、我が息子忠盛が引き受けんかとのことであった・・。あの方は、わしらも柳沢義親様(反井伊藩一派)に近いことを承知で、我が息子の後ろ盾になろうとしているのだろう・・。」
久野老人が、ここまで話したとき、
「手前どもは、店をあげて久野様、水野様をお支えいたします。必ず、必要な資金はそろえてみせます。」
黙って聞いていた喜一郎が、たまらず口を挟んできた。その言葉に、弥吉が大きく頷いた。
右衛門は、あれだけ権蔵の一件で、出資を渋っていた二人の変身ぶりに、思わず苦笑いをしてしまった。
「どうだ、右衛門殿、襲撃を防ぐ手立てはあるか。もちろん襲撃の話は、極秘中の極秘だが・・。悪いが、密貿易の話を聞いたからには、わが久野家は、加勢はできんが・・。」
久野老人は、喜一郎の言葉には関心を示すこともなく、右衛門にそう尋ねた。
その時、右衛門は陽明の顔が頭に浮かんだ。
「私より、この問題を解決するには、適任者がおると思いますので・・。まずは、その男と相談したいと思いますが・・。」
右衛門は、敢えて陽明の名前を出して、襲撃壊滅の指導者の名が漏れることを危惧した。佐那河内にも京成の配下がどこにいるかわからない状態で、計画の最重要人物が誰なのか知られたくなかったのである。
右衛門の表情を見ていた久野老人が、
「後は任せる。右衛門殿のことだ。これだけわしが説明すれば、きっと何とかするだろう。わしは、襲撃の後の策を水野様と相談するが、よろしいかな・・。」
久野老人の目が、きらりと光ったような気がした。彼は、息子を紀州藩筆頭家老に就任させる計略を、自分の最後の久野家への奉公と決めていたのである。
「わしは、このまま平穏に死んでいくものだと思っていたが、人生最後に、この様な好機が巡ってくるとはのう・・。分からないものじゃ・・。」
久野の目には、薄っすらと涙がにじんでいた。




