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右衛門シリーズ全編  作者: FZ
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右衛門9-1

右衛門9-1


(フランス収容所)

「君はどうして、あの連中を叩きのめしたのかね。」(会話はフランス語)

所長は、陽明の事情聴取のために、彼に関する資料に目を通しながら、時折、メガネの合間から陽明の顔を窺った。

「別にたいしたことではないですよ。奴らが私を侮辱したから、少しからかった代価を払わせたまです。」

陽明は、そう言うと、部屋の小窓から垣間見える、囚人収容所の鉄線にとまっている数羽の鳥に目をやっていた。

「しかし、あれはやりすぎだろう。三人のうちの一人の顔は、判別がつかないほど打ちのまされていたからなあ・・。君の国では、喧嘩になると人を殺してもいいのか。」

所長はそう言うと、たしなめるような視線で、陽明をじっと見た。

「日本では、武士への侮辱は許さない。たとえ、相手を斬り殺しても良心の呵責は持たない・・というやからが、いっぱいいる。ただ、私の叔父は、人は斬るが、決して侮辱されたから人を斬ったことはないと思うが・・。」

陽明は、右衛門の顔を思い浮かべながら、にやりと笑ってそう言った。

「ほお、お前の叔父は、そんなに強い侍なのか。」

所長が、からかうようにそう尋ねた。

「おそらく、日本一強い侍だと思う。」

陽明がそう言うと、周りで日本人に興味を惹かれて見ていた警官たちが、

「オララ!」とからかうように声を上げると、一斉に笑い始めた。


陽明は、アダムス卿の援助でイギリスに渡り、彼に頼んで、数学・物理などを学ぶために、フランスのフランス国立工科大学に留学したのである。当時の科学の世界では、フランスが、ヨーロッパの先進国であった。コーシー、ラプラス、ラグランジェなど数えればきりがないほどの天才たちが、数学・物理で究極の完成度を目指していた。もちろん、イギリスにも、ハミルトンをはじめ多くのすぐれた学者がいたが、貴族階級の強固な壁が、陽明のような異邦人を受け入れる機会を難しくしていた。それに反して、フランスではフランス革命がおこり、権威ある大学の教授や科学者たちは、誰でも学問ができる自由を認めて、平等な学問の機会を与える雰囲気があったのである。もちろん、そんな共和国主義を嫌い、ひたすら王政復古を望み、自由な言動や思想を取り締まろうとする体制派は、依然大きな力を持って、厳然と存在していた。


「お前は、数学と物理ではトップだな。他の科目は、及第ぎりぎりだが・・。まあ、その語学力では仕方がないが・・。(にやりと笑う)ところで、面白いことに、大学は違うが、師範学校の数学の天才青年が、共和国運動で大衆を先導した罪で捕まっているな。友達か。」

所長は、そう言うと、また陽明の顔をちらっと見た。

すると、陽明は頭を横に振った。

「どうやら、お前は大衆の煽動者ではなさそうだ。まあいい、他人を傷つけた暴行罪で、しばらくこの収容所で反省してもらおう。」

所長はそう言うと、横に控えた看守に陽明を連れて行くように、目で合図を送った。


「おえらい先生が、お通りだ!もっとも、誰もお前を認めてくれやしないらしいが・・。」

ガロアが、朝の許された散歩を終えて、自分の収監所に帰る途中は、いつも誰かがこうやって、彼をからかうのである。ガロアは、収容所に来て以来、辺りかまわず自分の才能を他の囚人に自慢した。もちろん、自慢された囚人は、ガロアの才能の噂は聞いていたが、その鼻持ちならない高慢な態度に我慢ならなかった。自然と、彼はこの収容所では、他の連中からいじめられる存在であった。

「あの馬鹿どもめ!頭の中身は、そこらをうろうろしている犬っころと変わりやしない。」

ガロアはいつものように、そう言って、からかったやつらをののしるのだった。

監獄に入ったガロアは、見慣れない青年が、二段ベッドの上段で腕を組んで寝転がっているのに気付いた。

「お前の同部屋の男だ。どうやら、遠く日本から来た侍らしい。仲良くしろよ!」

部屋まで連行してきた看守がそう言うと、声を上げて笑いながら遠ざかって行った。

ガロアは、わざと上段の新入りを無視するように、自分の下段のベッドへ滑り込むと、無言のまま目を閉じて、何やら考え事をしているようだった。

彼の考えていることは、ほぼ二つの事だった。一つは、いかにしてこの国を再び共和国へと導くか。もう一つは、五次方程式には解がないことを、いかに自分の考えたアイデアを使って(群論)証明するかであった。もちろん、彼には、愛している女がいたし、自分を大切に思ってくれる家族もいた。しかし、学問と政治は、自分の生きる宿命のように付きまとい、彼の思考から離れようとはしなかったのである。


陽明とガロアが同じ監獄に収容されて二日になるが、お互い一言も口をきかず、ただ黙って自分の日課をこなすだけだった。

ガロアは、いつものように、昼まで紙に数式を書き留めて、その当時フランス随一の数学者コーシーに提出する論文の構想を練っていた。ただ、彼の論文が、コーシーに認められるかは、雲をつかむような話であった。しかし、彼にとって、頭の中に浮かんだ五次以上の一般解を考え出す研究は、イタリア人が昔に四次方程式の解法を行って以来、何百年の間、誰にも解明されていない課題であった。

そして、彼の出した結論は、五次以上の方程式の一般解を見出すことは不可能であるというものであった。もちろん、その結論は、アーベルという天才数学者によって確立はされていたが、ガロアが導いた群論を駆使した証明のやり方は、現代数学においても革命的な不滅の金字塔となるのである。そんな途方もない数学的手法を編み出した体系が、なんと十代の青年の思考に宿ったのである。


ガロアは、陽明が仰向けに寝転がったまま両腕をかざして「整数論」(ガウス)を読んでいるのを、ちらっと見た。

「お前、数論がわかるのか。」

ガロアは、あざけるように、初めて陽明に口をきいた。

陽明は、ガロアの問いかけに答えることなく、じっと自分の本を読んでいる。

すると、ガロアは、自分が書き留めた数十ページの論文を、寝転がる陽明の横に置いて、

「これを読んでくれないか・・。俺は、これから日課の散歩に行くが、帰ってきたら君の意見を聞かせてくれ。君が理解できたらの話だがな・・。」

ガロアは、からかうような薄笑いを浮かべて、陽明の返答を聞くこともなく、看守が見張っている間、収容所の広場をぐるぐる回るだけの散歩に出かけて行った。


ガロアがいつものように、囚人にからかわれる声を浴びせられながら、散歩から帰って来た。監獄のベッドをふと見ると、ベッドの壁に背をもたせて、食い入るようにガロアの論文を読んでいる陽明を見つけた。

ガロアは、また、にやりと笑って、

「どうだ、君に私の考えがわかったかい。もし分かったとしたら、君は素晴らしい数学者になれるよ・・。」

そう言って、陽明を挑発するように、帽子を取って、膝を曲げ、頭を下げて、相手を敬うような挨拶をする仕草を見せた。


数日後、陽明はガロアの論文を一通り読み終わった。

「君は天才だ。それも、歴史に残るかもしれない当方もない男かもしれない・・。」

陽明は、ガロアの論文の価値を素直に認め、群論の定義、置換群や巡回群についてなど、なぜガロアの論文がまれにみる異業なのか、本人の前で、とうとうと根拠を示した。

「驚いたな・・。異国の東洋人にこんな男がいるなんて・・。私の論文をわかってくれたのは、君が初めてだ。」

ガロアは、よほど嬉しかったのだろう。目に涙がにじんでいた。

それ以来、この収容所でいる間、二人はガロア理論について、時間の許す限り議論を深めていったのである。

「日本の親友よ!このフランスにようこそ・・。」

ガロアのその言葉は、二人がガロアの群論で意見が一致したとき、好んでおどける時の言葉になった。


陽明の庇護者であるアダムスは、陽明が問題を起こし、収容所に収監された知らせを聞くと、すぐに手を打ち、彼をイギリスに帰るように手配したのである。

「お前とは、楽しい時間が過ごせたよ。」

陽明の釈放を聞いたガロアは、そう言って陽明に笑顔を見せた。

「エバリスト(ガロアの名前)、お前には、途方もない数学的世界が脳の中に宿っているんだ。いい加減に政治運動はやめたらどうだ。」

陽明は、ガロアに言いたかった言葉を、別れ際に吐露した。

「そうはいかない。私はフランス人としてこの国に存在しているのだ。私の父もこの国を憂えて自殺した・・。私には、この国への愛情と憎しみがしみ込んでいるんだ。もし、戦いをやめれば、私が私でなくなる。」

ガロアの言葉を聞いた陽明には、どうしても彼の言葉が理解できなかった。

しかし、彼のその言葉は、これから先の陽明の生き方に、大きな影響を及ぼすことになるのだった。

「陽明、私の最後の頼みだ。二人で議論してきた数学的構想をしっかり受け止めた君だからこそできることだと思う。(しばらく沈黙を保った後、じっと陽明を見ながら)私は、いずれこの世からいなくなるような気がするんだ・・。わたしは、そんなに長い時間は残されていない。もし、私が死んだら、私の知的財産であるこの数学論(群論)を世に伝えてくれないか。」

ガロアの懇願する目は、どこか悲しそうな自分の感情を漂わせていた。

「私は、日本人だ。私の国で君の考えを理解できるものなどいるはずがない。(胸に手を当てて)ただ、この胸にしっかり受け止めて、ずっと君の偉業を心に刻んでいくよ。」

陽明が、ガロアに言える精いっぱいの返答だった。

「au voire(さよなら、またな!)」

それが、ガロアの陽明への最後の言葉になった。

その時のガロアの目は、すべての不安を払しょくしたように澄み切っていて、これから彼に襲いかかる運命に、決して動じない決意のようなメッセージを陽明に伝えていた。

陽明は、ガロアに、

「さようなら(日本語)!」

と手を挙げて、振り返ることなく監獄を出た。

数年後、ガロアは若干二十歳の若さで、女性の恋愛問題で決闘によって死ぬことになる。

あの世紀を超え、永遠の異才を放った頭脳は、あっけなく葬られたのである。



(江戸幕府)

江戸幕府に、保守派の切り札が君臨し始めた。その名は、井伊祐直。言わずと知れた江戸幕府樹立の立役者、井伊家の領主にして、策略家であった。元来、井伊家は徳川家の守護神としての役割を自負し、代々頭首はその教えを忠実に守ってきた。祐直にしてもその例外ではなかった。その実力をひたすら表に出さず、じっと柳生義親の権勢を見守ってきた彼は、筆頭老中 上野生馬が役職辞退を申し出るや否や、紀州安藤継正(紀州藩付家老 田辺藩藩主)、成瀬重住(尾張首席家老犬山藩主)、(両者はいずれも右衛門との対立で苦杯をなめた紀州、尾張の重鎮の主流であった。)を味方に引き入れるや否や、あっという間に老中筆頭に躍り出たのである。その結果、柳生義親は、反主流となり、再び幕閣の中心から退くことになった。

「柳生、島津(薩摩藩)の連中には、好きなようにさせん。」

この言葉が、井伊祐直の口癖であった。

「奴らは、徳川家の本流家臣ではない。ましてや、薩摩などは外様ではないか・・。

あ奴らに、幕政を自由にさせては、権現様以来の徳川幕府の権威が保てるはずがない。これからは、保守本流の正しき政治をせねばならぬ。」

老中評定では、水野尚則(老中、紀州藩重鎮、義親派)の目の前でそう公言して、「柳生義親に伝えておけ !」と言わんばかりであった。


そんな井伊祐直が初めに目をつけたのが、柳生義親と同盟を組み、尾張藩の参謀に躍り出た柳生吉重の存在であった。

「吉重さえいなくなれば、尾張藩主 徳川定家様は再び竹腰殿(吉重の主君)を遠ざけ、成瀬殿の本来あるべき主流が、尾張の政治権力を独占するだろう。」

その言葉を傍らで聞いていた坂谷太助(井伊藩家老)は、祐直の意向をどういう形で実行するか、いろいろと考えを巡らしていた。

「やはり、京成(伊賀忍び 井伊藩お抱え)を使いましょうか。」

坂谷は、そう言うと祐直の様子を覗った。

「吉重は柳生流最高の使い手・・。いかに京成でも、暗殺は容易ではあるまい。ここは、わしに考えがある。」

祐直はそう言うと、坂谷を手招きして、誰もいない周りを見渡すと、小さな声で坂谷に耳打ちをし始めた。

それを聞いた坂谷は、目を丸くして、祐直の顔をじっと見た。

「殿は、そこまで執念をお持ちですか・・。恐れ入りました。」

そう言って、その場で平伏した。


(柳生吉重道場)

笹久内(田原藩家老)、木内又五郎(田原藩家老)、源一郎が(田原藩藩主)が、吉重のいる道場を訪ねた。道場の片隅にある客間で、三人が吉重を上座にして座っている。

「源一郎殿、両家老を伴って、何か大切な話でもありますかな・・。」

吉重は、絶えず笑顔を見せながら、源一郎にそう尋ねた。

「吉重様に、私の藩主引退をお認めいただくために、こうやって笹、木内を伴ってお邪魔した次第です。どうか私の願い、お認め下さるよう・・。」

源一郎は、単刀直入に用件を切り出した。

「これは、余りにも唐突ですなあ・・。」

吉重は、とりあえずそう言うことによって、源一郎が切り出した提案の意図を探ろうと思った。

「私の後の藩主は、植松に譲りたいと思っています。」

源一郎の決意は固かった。

「両名は、納得したのか。」

吉重はそう言うと、又五郎と笹を見た。

「・・・」

笹は、吉重に何か訴えるような目で、じっと吉重を見た。

「どうやら、笹は不服の様じゃが・・。」

吉重が、笹の様子からそう察した。

「やっと、田原藩も安定してきた矢先・・。藩主交代は余りにも早計かと・・。」

やっと笹が、口を開いた。

「又五郎殿はどうなのじゃ。」

吉重は、又五郎の方を見た。

「私は、源一郎殿の意志を尊重します。右衛門が、佐那河内で落ち着いて三年。源一郎殿は、田原藩が落ち着けば、藩主の座を植松様に譲り、右衛門のもとに身を寄せたい・・と、吉重様をはじめ、みなに約束をもらって藩主になったいきさつがあり・・。今、源一郎殿が、右衛門のもとに行きたいという希望を申し出た以上、止める訳にはいかぬかと・・。」 

又五郎は、源一郎の主張を容認した。

「おぬしはどうするのじゃ。」

吉重が重ねて、又五郎に聞いた。

「安住家では、先ごろ娘の小夜が婿をもらいまして・・。安住家に後継者ができた以上、わたしも、源一郎殿と一緒に佐那河内に行こうかと思っているのですが・・。」

又五郎はそう言うと、吉重の顔をちらっと窺った。

「要するに、おぬしも右衛門の所に行きたいという訳だ・・。」

吉重は、そう言って、大きな声で笑い始めた。

「笹、おぬしの負けの様だ。(そう言いながら、吉重は笑顔を絶やさない。)どうじゃ、源一郎殿、わしと立ちあってみるか。もし、わしを超えられたら、おぬしの願いにそえるよう、わしも努力してみるが・・。」

吉重はそう言うと、源一郎に笑顔を見せた。

「吉重様!それでは、反対しているのも同然では・・。」

又五郎がすかさず、口を挟んだ。

「それは、源一郎殿に失礼だろう。わしも、源一郎殿の剣の噂は聞いておるからのう。」

そう言って、吉重は又五郎の反対を押し切った。


(道場)

吉重は正眼に構え、じっと源一郎の仕掛けるのを窺っている。

すると、凄まじい気合と同時に、稲光のような鋭い一撃が吉重を襲った。吉重は、余りの凄まじさに一瞬たじろぎながらも、体を交わしながら、源一郎の竹刀をかろうじて払って互角に持ち込んだ。

互いの呼吸が乱れている。体力に勝る源一郎相手では、持久戦は不利と感じた吉重は、改めて正眼に向かい合い、自分の方から打ち込もうと決めた。彼の一撃は、相手が受けようとする瞬間、竹刀の方角を変えて、相手の竹刀の間隙をぬって面を取るという、誰にもできない彼の必殺技であった。

「やあ!」

気合と共に、吉重が打ち込んだ竹刀は、源一郎が受ける瞬間、方向を変えた。

そして、吉重が一連の流れる動作で、源一郎の面を捕らえようとしたとき、源一郎は竹刀を持つ手の手首を返して、竹刀を自分の体に引き寄せると、吉重の打ち込む竹刀を受け止めたのである。

「それまで!」

試合に立ち会った木内又五郎の甲高い声が、道場に響き渡った。

その声と同時に二人は竹刀をもどし、一歩後に引き、向き合って礼を交わした。

道場の門下生の中からどよめきが起こり、辺りは騒然となってきた。

「方々、お静かに!この勝負、吉重様の優勢とみた。不服はござらぬか・・。」

又五郎は、そう言うと、辺りを睨みつけた。

「いや、わしが勝った実感はない。みごとじゃ、源一郎殿。」

息を弾ませながら、吉重は源一郎を褒めた。

吉重の激しい息づかいは、試合の後もずっと続いた。又五郎は、その時、吉重の体の変調に気づいた。

「吉重様の体調に何かあるのではないか・・。」

又五郎は、ずっとそう思いながら、吉重の顔色を窺っていたのである。

依然の吉重の鬼神のような太刀さばきが影を潜めていたことを、又五郎は見逃さなかったのである。


「ようそこまで剣の技量を上げられた。やはり、右衛門殿の血筋かのう・・。仕方あるまい。わしも、ああいった以上、源一郎殿の希望を叶えるしか仕方あるまい。よくよく殿(尾張藩家老竹腰)と相談の上、お返事いたそう。」

吉重のこの言葉で、中半なかば、源一郎の藩主辞退が通ったようなものであった。

源一郎は、吉重に向かって、深々と頭を下げた。

なぜか、又五郎の嬉しさと不安がいりまじった顔が、吉重の印象に残った。



(イギリス、アダムス卿宮廷)

陽明は、アダムスの要請でイギリスへ戻った。

彼はパリの雰囲気が好きだった。ポンヌフの橋を渡り、セーヌの流れを下に見た時、人々は川縁で自由に散歩を楽しんでいる。川面に反射する太陽の光は、人々の陽気な心をなお一層愉快にしてくれるようだった。それに反して、ロンドンのテームズ川は、いつもどんよりとしていて、川べりを歩くような歩道もなく、荒涼とした印象しかなかった。それでも、ロンドン郊外へ馬車を走らせると、広大な緑の草原が広がり、まるで人が踏み入るのをかたくなに拒んでいるような自然のままの風景が広がってくるのである。

そんな、圧倒的な緑の空間の中に、アダムスの宮殿は、ぽつんと立っていた。門をくぐり、しばらく馬車で走ると、やっと館の正面玄関が見えてくる。

「陽明!」(英語の会話)

独り正面の入り口で陽明を迎えたのは、アダムスの孫のナタリーであった。

彼女は、かなり前から、陽明の到来をこの入り口で根気よく待っていたのである。

「久しぶり・・。」

陽明は、はにかんだようにナタリーの呼びかけに答えた。

陽明が、イギリスにやってきて、この館に着いたとき、初めて英語で話をした少女がナタリーであった。

「この世には、こんなにかわいい女の子がいるのか。」

それが、陽明がナタリーに抱いた最初の印象だった。

それ以来、陽明はナタリーと話をするのが苦手になった。あれだけ人には横柄な陽明だが、彼女の前に出ると俯いてしまい、話す言葉も容易に口に出なかった。

自分は何か精神的におかしいのではないかと思う程、自制心を制御できなくなり、彼女の前では不安な気持ちになった。

「俺は病気なのだ。」

陽明は自分にそう言い聞かせることで、心臓の鼓動の高鳴りを病気のせいにして、普通でない自分の精神状態を正当化しようとしたのである。


(陽明が、日本からアダムスの館にやってきた頃)

陽明がイギリスに到着し、アダムスの宮殿に連れてこられた時、初めてアダムスの家族として紹介されたのが、ナタリーだった。ナタリーは、初めて見る東洋人の少年に興味をひかれたようであった。年齢は自分と変わらないのに、どこか幼く、はにかんでいる少年を見ると、異国で一人ぼっちでいる彼を自分が守ってやらなくてはいけないと思うようになったのである。


陽明と、ナタリーは館の裏の森の中を散策していた。

アダムスの宮殿の裏手には、小さな森があり、数人の庭師が毎日その森の木々や花々を手入れしているのである。森の小さな道を進んでいくと池があり、小鳥たちや小さな小動物が、二人を出迎えてくれる。

「昨日、陽明が作った数学の問題を学校のみんなに見せていたら、先生がやってきて、あなたの問題を見ると驚いて、誰がこんな問題考えたのだ・・って言うの。私の家にいる日本人の少年だというと、私の顔を見て、少年がこんな問題を考えられるはずがないって言うのよ。」

そう言って、ナタリーは、池の魚をじっと見つめている陽明の顔を覗き込んだ。

「・・・」

陽明は、ナタリーの会話に興味がないらしく、何の返事もしなかった。

「ねえ、陽明、本当はこの問題、父さんか母さんに教わったんでしょう。」

そう言って、ナタリーはもう一度陽明の顔を見て、にやりと笑った。

「俺は、父さんも母さんもいないんだ。でも、大好きなおじさんがいるけどね。」

陽明は、そう言って、ナタリーの方を向いたが、ナタリーの大きな瞳がじっと自分を見ているのに気付き、思わず顔を逸らしてしまった。

「陽明は、私と同じなんだ!私の父さんは母さんと昔別れて、母さんは少し前に、病気で死んじゃったの・・。でも、私も大好きなおじいさまがいるのだけどね・・。」

ナタリーは、そう言うと、無理やり陽明の腕を引き寄せ、腕を組んだ。

陽明は、自分の顔が真っ赤になっているような気がして、顔を隠すように俯いて、何も言わずに、されるままに腕を組んでいた。ただ、腕からナタリーの柔らかな感触と、あったかい温みを感じながら、自分の気持ちが不思議と高揚していることに気付いていた。

それ以来、ナタリーは時間があれば、陽明の所へ来て、陽明の腕を取って、嬉しそうに話しかけてきた。

「これが、幸せというものなんだ・・。」

陽明は、ふとそんなことを考えることがあった。

一方、ナタリーは、陽明がフランスへ留学に出かけた時、改めて自分の心の支えに、彼の存在が必要であることを実感したのであった。


(フランスから帰った陽明とナタリーの再会に戻る)

そして、時が過ぎ、陽明がフランスから帰って来た。ナタリーは、朝から自分の部屋の窓から望める、鉄の門から屋敷につながる馬車の通る小道を、何度となく見つめていた。

昼過ぎになって、ようやく陽明を乗せた馬車がゲートをくぐった時、ナタリーは大急ぎで玄関に向かったのである。

「おじいさまが、あなたをお待ちよ。いらっしゃい。」

そう言って、ナタリーは、昔のように陽明に自分の腕を絡めて、嬉しそうに、大きな瞳を輝かせながら、時折、陽明の顔を見ている。

陽明は、ナタリーの腕の感触に触れたとき、昔のナタリーと一緒にいた頃の記憶を呼び覚ました。そして、自分の体内の血流が濁流のように全身を活性化させて、生き生きとした快感が自分の体を駆け巡った。


アダムスは、ナタリーが腕を組んでいる陽明を懐かしそうな目で見守り、温かく迎えた。

キッチンから運ばれてくる料理は、アダムスが今日のために前から命じていた特別なメニューであった。

大きなテーブルを挟んで、陽明の正面には、アダムスが事前に呼んでいたロバーツという航海士が座っていた。彼は、口ひげを生やし、髪を丁寧に整髪料で固めていた。

見るからにイギリス紳士の風体で、かなりの長身の男だった。アダムスが、彼に話しかけるたびに、穏やかな笑顔を浮かべ、時折、陽明の方へも微笑みを見せた。

陽明の横には、ナタリーが座っている。テーブルの奥にはアダムス卿が、部屋の大きな窓を背にして座っていて、静かにスープを銀のスプーンですくっていた。

昼間の天気は快晴で、ここにいるみんなの気分を穏やかな気持ちにさせていた。


「陽明は、今の江戸幕府の現状は知らないだろう。」

アダムス卿が、陽明に話しかける。

「柳生様は、失脚したので・・。」

意外にも、陽明が興味を示したようだった。

「失脚はしていないが、幕府の主流派ではなくなったようだ。今は、井伊祐直という大名が政治の主導権を握って、江戸幕府を、フランスの王家のように、昔の体制に戻したいようだ。そのせいで、我々外国との貿易には厄介な規制を設けて、貿易をしづらくしている。困ったものだ・・。」

アダムス卿の言った「王家」という言葉で、陽明はガロアが憎しみを込めて話していたブルボン家が貴族政治を復活しようとする王政復古を思い浮かべていた。

陽明は、ガロアに出会うまで政治というものにあまり関心がなかった。

「なぜ、ガロアのような天才数学者が、政治に関与することで自分の時間を無駄にするのだろうか・・。彼は、数学という崇高な思考の世界に、自分の時間をささげるべきなのに・・。」

ガロアの素晴らしい数学的発想に触れた陽明は、ガロアの知性の高みにあこがれさえ抱くようになっていた。当初、陽明は、ガロアが共和国政治実現のために自分の人生を左右されていることを、不思議に思っていた。しかし、毎日彼に政治について話を聞かされていると、彼が望む個人の自由と人々の平等のために立ち上がった情熱は、陽明が失っていた自分の祖国への熱い気持ちを呼び覚ましたのである。


アダムス卿はさらに続けた。

「情報によると、アメリカでは、日本の鎖国をこじ開けるために、艦船を派遣して、武力で江戸幕府に開国を要求する準備をしているらしい。私は、そんな強引なやり方は好まない。井伊には時代の流れが分かっていない。これからは、陽明の国は外国を無視して、やっていけるはずがないのだ。」

アダムスは、そこまで言って、陽明の顔を見た。

陽明は、予想に反して、彼の言葉に熱心に耳を傾けていた。

「アダムス様は、そんなことを私に説明して、いったい私に何を望んでおられるのですか。」

陽明が、アダムスに単刀直入に質問した。

「どうだ、陽明、私の船の船主として日本に行って、薩摩藩との密貿易を交渉してくれないか・・。私は、必ず、薩摩藩がこれからの日本の変革の中心になると思っているのだ。彼らは、私に最新式の銃や武器弾薬を買いたいと言ってきている。私は彼らの要求を受け入れて、これからは、薩摩と商売をするつもりだ。陽明なら、お前の国の情勢を必ず把握して、最良の手を打ってくれると思っているんだが・・。」

アダムスはそう言って、陽明の顔を見た。

陽明は、しばらくの間、アダムスの誘いに答えることなく、彼の提案を考えている様だった。

「ここにいるロバート君は、陽明と一緒に船を航海する仲間として、日本まで行ってくれることになっている。もし、陽明が受諾してくれれば、全権を君に任せるつもりだ・・。」

そう言って、改めて、アダムスは陽明の返事を待った。

「それでは、予定の積み荷の他に、最新鋭の大砲十門用意してくれませんか。」

陽明は、応諾の条件を出してきたのである。

「ほう、陽明君は、その大砲どのようにするおつもりで・・。」

正面に座っていたロバーツが、興味ありげに陽明に尋ねた。

「私の叔父への土産です。」

陽明は、すました顔で、そう答えた。

「これはまた奇妙な土産だ。あなたは、大砲十門がいくらぐらいするか知っていますか。」

ロバーツは、陽明の無知をからかうようにそう言った。

「金は、叔父の仲間の弥吉という商人が、必ず都合すると思っている。」

陽明は、金の都合には自信ありげだった。

「しかし、陽明君、十門で一万両はしますよ。それも銀で払ってもらって・・。」

ロバーツが、少しむきになって、陽明の楽観的な考えに反論しようとした。

「ロバーツ君、私は陽明の叔父の右衛門を少しは知っている。それに、彼の仲間のことも聞いたことがある。あの薩摩が、長崎で彼に密売で完敗したのだ。ここは、陽明の言うことを信じようではないか・・。」

アダムスは、そう言って陽明の条件を応諾した。

「アダムス卿がそう言われるなら・・。ただ、陽明君、大砲の代金は一万両ですぞ・・。

もし払えないとなれば、せっかく日本まで運んだ労賃が無駄になる。そのことは、お忘れなく。」

あくまでも、ロバーツは陽明の提案には、不安を感じている様だった。

「心配なく。必ず一万両払います。私が責任をもって・・。」

陽明の自信のある言葉に、ロバーツはようやく大砲の手配を決意した。

「これで決まりだ!私の予感だが、何か面白いことになりそうだ・・。この陽明には、不思議な仲間が待っているからな。」

アダムス卿は、そう言って、茶目っ気たっぷりに陽明にウインクした。

傍らで、じっと聞いていたナタリーは、最後まで一言も口を利かなかったが、何かとんでもないことを思案していたのである。



(佐那河内)

陽明帰国の知らせは、長崎通詞大屋吉長(隼人の父)が、オランダ船の船長から託された手紙によって、右衛門と弥吉に届けられた。

右衛門が、佐那河内で寺子屋を始めて、三年の月日が流れていた。彼もすでに三十半ばを過ぎ、あちこちを駆け回る冒険家ではなくなっていたのかもしれない。

「弥吉さんが来ましたよ。」

算術を近くの子供たちに教えていた右衛門に、声をかけたのは春であった。

彼女は、大阪で右衛門と再会してからずっと、右衛門と行動を共にしてきたのである。

二人は、夫婦になることは望んでいなかった。しかし、二人で一緒にいることに窮屈さを感じたこともなかったし、お互い干渉することなく自由であった。考えてみれば、この時代においては、稀有けうな男女の関係であったかもしれない。


弥吉は、自分の店の番頭の勝介を伴って、右衛門に会いに来た。

右衛門と春は、寺の横に建てられた、かつての仲間が住んでいた広大な屋敷に住んでいた。住んでいるといっても、死んだ伊予や陽明、それに源一郎や又五郎、早苗(又五郎の妻)の部屋は手つかずのまま、入ったこともなく空き部屋になっていたのだが。

右衛門が、弥吉たちを待たせていた客間に入っていくや否や、

「陽明様の手紙読まれましたか・・。」

いきなり弥吉が、少し興奮したように右衛門に尋ねてきた。

「弥吉にも手紙を出したと、陽明が書いていたが、そのことで来たのか。」

右衛門は、そう言いながら、笑顔を見せて、弥吉の前に座った。

「陽明様は、アダムス様から全権を任されて、薩摩と密貿易をなさるようで・・。

それと・・。」

そこまで言って、弥吉は右衛門の顔を真剣なまなざしで見た。

「何だ。妙に慎重だなあ・・。そんなに大事なことか。」

右衛門は、弥吉のただならぬ興奮を察知して、そう尋ねた。

「陽明様は、佐那河内の仲間のために大砲を十門持って帰るから、一万両準備してくれと書いておられました。」

弥吉は、そう言うと、何か興奮したように体を乗り出した。

「わしの手紙にもそう書いていた。随分物騒なものを持って帰るものだ。弥吉には迷惑だろう。一万両などと・・。」

右衛門が、申し訳なさそうにそう言った。

「いえ、決して、そんなことは・・・。陽明様が持ってお帰りになる最新鋭の大砲を欲しがる大名は、いくらでもございます。おそらく、一門八千両と言っても、すぐに買い手がつくでしょう。」

弥吉の興奮している理由が、右衛門には理解できなかった。

「陽明様が書いておられる話では、昔、戦国の世で鉄砲をいち早く商売にした堺の商人は、戦の勝敗を左右するまでの力があったそうです。」

弥吉は、右衛門に自分の興奮を分かってほしそうだった。

「しかし、今の世で同じようなことが言えるかどうか・・。第一、そのためには、江戸幕府の体制がひっくり返るようなことがなければ・・。」

右衛門はそこまで言ったとき、ふと、今の幕府と異国の情勢が頭に浮かんだ。

「陽明様は、今、右衛門様がおっしゃったことが、そう遠くない未来に起こるのではないかと、予想されておられるようです。」

弥吉の視線は、さっきからじっと右衛門に注がれている。

右衛門にも、陽明と同じような予感はあった。

「今の幕府は、そう長くないのではないか・・。」

今の井伊祐直の強引な江戸幕府再興の政治は、かえって、幕府の崩壊を早めるのではないかと、思うことはしばしばあった。だからと言って、今の右衛門には、そんな世の中の事情を予見しても、何かしようなどという意志はなかった。

「勝介、右衛門様にあの計画を説明してくれ。」

弥吉は、そう言いながら、佐那河内の地図を畳の上に広げた。

「弥吉様は、この裏の海に面した崖に囲まれた場所を秘密の船着き場にして、外国船を着岸させるように、工事に取り掛かろうと思っておられるのです。幸い、この地は和尚様が自由にできる自治区の特権があります。和尚様や右衛門様さえ、お許しくだされば・・。」

勝介はそう言うと、自分たちの計画を認めてくれることを懇願するような目で、右衛門を見た。

「いや、わしや和尚の許可はとらなくても、弥吉は佐那河内の仲間だ。ましてや、この地への貢献は誰もが認めるところだ。自由に使ったらいいが・・。弥吉、おぬしの考えている構想は、幕府を敵にすることになるぞ。それに、失敗すれば店がつぶれるかもしれん。」

右衛門はそう言ったものの、今の幕府には、自分たちがおびえるような威圧を感じていなかったのである。世の中は、再び動乱の予兆をはらんでいた。

「私は、元々、右衛門様と大前屋の宗衛門様の後ろをついていたら、たまたまこんな店を持てるようになっただけのこと・・。今また、陽明様が、私どもに途方もない夢を抱かせてくれる計画をもって、エゲレスから帰ってこられる・・。陽明様が外国船を自由に使って商売ができる限り、私は陽明様についていくつもりです。店がつぶれようがつぶれまいが、こんなでかい夢を素通りしたら、商人の魂を売り払ってしまったようなものだと思うのです。」

弥吉の言葉を聞いた右衛門は、改めて弥吉という男の商人魂に感心した。

「弥吉が、そこまで言うなら、わしは何も反対はしない。和尚にも、今の件を話しておく。

和尚も反対はなされまい。しかし、佐那河内にそんな途方もない船着き場が、建設可能なのだろうか・・。」

右衛門は、港の現実味を疑った。

「はい。すでに水深は調査済みです。資金はこれから、喜一郎様や酒田の佐吉さんとも話し合ってめどを立てるつもりです。」

弥吉の計画は、すでに始まっていたのである。



(佐那河内の仲間)

佐那河内にかつての仲間が帰り始めた。源一郎は、右衛門に憧れて、彼と同じように藩主の座を植松に譲り、右衛門の住む佐那河内に帰って来た。源一郎に従うかのように、木内又五郎も、妻早苗、赤松太蔵を伴って、佐那河内の地に居を移すことになった。更に、陽明は、右衛門に会うべくイギリスを出て、日本へ向かう帰途にあった。


「帰ったぞ!」

又五郎の晴れ晴れとした大きな声が、寺の横の屋敷の玄関に響き渡った。

その声に応対すべく最初に出てきたのは春であった。

又五郎は、春をしげしげと見ている。

傍らで、早苗、源一郎、赤松がにやにや笑っている。

「どなた様で・・。」

春が気味悪そうに、又五郎を見ている。

「ほう、弥吉から聞いてはいたが、なるほど美人じゃなあ・・。右衛門の奴、ぬけめがないわ・・。」

又五郎は、そう言うと、大きな声で笑った。

その笑い声に気づいたのか、後から右衛門が現れた。

「どうしたのじゃ。みんな揃って・・。源一郎、お前、本当に浪人になったのか。」

右衛門は、半ば呆れたように、源一郎に声をかけた。

源一郎は、前にいる春と右衛門に頭を下げると、

「これから厄介になります。」

そう言って、すました顔をして、差していた刀を板の間に置き、土間に座って草鞋をとり、座敷に上がろうとした。

それを見ていた春が、慌てて水桶を用意しに土間を降りて、桶を持ち外へ水を汲みに駆け出した。

さっきからみんなの対応を面白そうに見ていた早苗が、

「右衛門様、よろしくお願いします。」

そう言って、深々と頭を下げた。

じっと見ていた赤松も壁に槍をもたせかけて、又五郎に従うように土間に腰を下ろし、春が持ってきてくれる足を洗う水桶を待っていた。



(寺の広間)

寺の広間では、又五郎、源一郎等の帰郷を歓迎する宴が模様された。

「和尚には、お変りもなく。」

又五郎は、どこの場でも多弁であった。

余程、佐那河内に帰ったことが嬉しかったのだろうか。彼の高笑いを何度となく聞くことになった。

「また、みんなの顔が見られ、こんな嬉しいことはない。わしは幸せ者じゃ・・。」

年のせいもあるのだろうか。和尚は、そう言うと、薄っすらと涙を浮かべている。

「又五郎、源一郎、おぬしらこれからどうするつもりだ。」

右衛門は、彼らの帰郷は嬉しかったが、田原藩のことを考えると一抹の不安もあった。

「又五郎さんとも話したのですが。私たちは、この地の道場を復活して、剣の道を志す有志と共に、自分たちの流派を立ち上げたいと思っています。」

青年の野望らしく、源一郎は自分の思いを熱く右衛門に語った。

「幸い、ここには右衛門はいるし、不詳、この木内又五郎も源一郎の希望をかなえたいと思ってなあ・・。」

又五郎は、そう言うと、又、高笑いを始めた。

右衛門は、ちらっと、早苗の方を見ると、何の不安な顔もせず、知り合いになったばかりの春とひそひそ話しては、時折、笑みを漏らしていた。

「のんきな夫婦だ・・。」

右衛門は二人を見ながら、なぜかそう思い、にやりと笑った。

「まあ、そのことは、日を改めてゆっくりと話し合うこととして、今日は、とりあえず、飲みましょうぞ!」

赤松が、いきなりそう言って、話の腰を折った。

「おお、そうじゃ、おぬし黒田節じゃ・・。」

又五郎が、赤松の言葉に呼応して、宴会を盛り上げようとした。

右衛門は、和尚を交えて、これからの4人の事を話し合いたかったが、その言葉で諦めたように、杯に酒を満たすと、一気に飲み干した。

宴会は夜遅くまで盛り上がり、右衛門の不安など吹き飛ばしてしまう陽気な雰囲気に包まれて、明け方まで続いたのである。



(日本へ向かう陽明を乗せた蒸気船)

陽明の乗る船でも事件が起きていた。

ナタリーは、祖父のアダムス卿に泣きつくように頼んで、陽明の乗る船に、護衛の狙撃手二人を伴って、密かに乗り込んだのである。

ガロアから託された何枚かの可解群についての数式に没頭していた陽明の船室を、誰かがノックした。

「いますよ。(come in)」(会話は英語)

開かれたドアから現れたのはナタリーであった。

陽明の視線が、しばらく彼女に集中して離れない。

人は、余りに驚くと、次にとる動作が分からなくなるものかもしれない。

見られているナタリーは、にこにこ笑いながら、自分の出現が、さも当たり前の出来事のように、陽明の驚きに無頓着の様である。

「どうしてここに・・。」

陽明は、やっと我に返って、ナタリーにそう話しかけた。

「おじいさまに頼んで、東洋の文化を勉強させてくれと頼んだの・・。最初は、相手にしてくれなかったのだけど、何度も泣くように頼んだら、護衛をつける条件でOKが出たの・・。陽明の邪魔をしないという条件でね・・。」

ナタリーはそう言うと、陽明にウインクをして笑った。

すると、その後ろから航海士のロバーツが入ってきた。

「事情は、お嬢さんが話した通りだ。私は、反対したんだけどね。このお嬢さん、結構、強情なんだ。まあ、腕利きの銃の名手が二人、このお嬢さんの護衛に付くらしいから・・。後は頼んだね。」

ロバーツは、まるで陽明に押し付けるかのようにそう言った。

「待ってくれよ。私は承諾していないよ。ナタリーが日本へ行くなんて・・。誰が考えてもおかしいだろう。本気で東洋文化など学ぼうと思ってんのか!」

いつも、ナタリーの前では、大人しい陽明が、本気で怒っているようだった。

「そんな怖い顔しなくても・・。この船はおじいさまが所有している船よ。あなたが、いくら文句を言ったって、私はちゃんと船のオーナーから許可をもらっているのだから。」

陽明の剣幕にひるむこともなく、ナタリーはそう言うと、陽明を睨んだ。

「勝手なことを言うな!俺だって、アダムス卿から頼まれたから、仕方なく船に乗ることを承諾したんだ。それに、彼は、この船での決定は、俺に任せると言ったんだ!いいか、日本では、侍は刀を持っていて、ナタリーのような異国人を斬り殺すやからもいるんだぞ!そうなったら、どうするつもりだ。そんなことになったら、俺は、アダムス卿に何て言ったらいいんだ!」

陽明のあまりの剣幕に、とうとうナタリーが泣き出した。

「まあ、まあ、そのために、お嬢さんには銃の名手が二人もついているんだし、第一、そんな危ない場所に行かなかったらいいんだし・・。」

いつの間にか、ロバーツは、ナタリーのために、陽明に必死で擁護していた。

「なんで俺が、こんなことを言わなくてはいけないんだ。」

ロバーツは、内心、陽明と同じ気持ちだっただけに、ナタリーをかばわなくてはならない立場に、違和感を持っていたのである。

しばらくの間、三人に、言葉を切り出せないような沈黙が続いた。

すると、ふっとため息をついて、諦めたように陽明が話し始めた。

「ごめん。俺が言いすぎた。まあ、ナタリーの冒険心には感服するよ・・。俺だって、単身イギリスに来たんだもんな。ナタリーの気持ちがわからないでもないが・・。ただ、君は女だからな・・。大したもんだよ、このお嬢様は・・。」

陽明は、精いっぱい皮肉を込めてナタリーに感嘆して見せた。

「そうでしょ。陽明ならわかってくれると思った。これでやっとすっきりした。日本へ着いたら、陽明がよく言っていた、叔父さんの右衛門に会わせてね。楽しみにしてるわ。できれば、どれほどすごい剣士なのか見てみたいわ。」

陽明の言葉に、すっかり機嫌を直したナタリーは、今まで泣いていたことも忘れて、満面の笑顔を見せてそう言った。

彼女の後ろで、ロバーツが、諦めたように肩をすくめた。

それを見た、陽明が、複雑な気持ちを込めた苦笑いを見せていた。

「今さら、お嬢様をイギリスへ帰すわけにもいかないもんな。叔父の右衛門が、ナタリーを見たらどんな顔をするだろうな。」

陽明は、いつの間にか、右衛門の顔を思い浮かべて、ナタリーとの対面の場面に興味をそそられ始めていた。


ナタリーが、自分の船室に去った後、

「ところで、陽明、このまま真っすぐ薩摩の近海へ船を進めていいのかい。」

ロバーツが、陽明に確認する。

「ああ、薩摩藩に依頼された荷物を下ろして、商談をまとめる。薩摩の家老は、私のことを知っているかもしれないが、そんなことを気にする人物じゃない。なかなかの狸だからな・・。その後、私が住んでいた佐那河内へ向かうつもりだ。瀬戸内海は人目に付くので、できれば、紀伊水道に入って寄港したいのだが・・。できるかな。」

陽明は、そう言うと、航海士であるロバーツの顔を見た。

「航行には、問題ない。ただ、この大型船を着岸できる港が問題だな・・。」

ロバーツは、そのことをずっと考えていた。

「私の仲間で、商人の弥吉の知らせでは、佐那河内に隠し港を造っていると書いてあった。その港に入って、大砲を下ろしたいのだが・・。」

陽明は、そう言いながらも、弥吉の言うような港を建造することができるのか、半信半疑であった。

「そんな港を造るとしたら、大砲を買うより資金がいるぞ・・。」

驚いたように、ロバーツが言った。

「まあ、弥吉を信じて、佐那河内へ行ってみよう。」

陽明の判断は、はっきりしていた。

「そうだな。」

陽明の迷いのない表情を見たロバーツが、同意した。

「ところで、陽明、君は本当にあのお嬢様を、右衛門とやらに会わせるつもりか。」

ロバーツが、にやにや笑いながらそう言った。

「仕方ないだろう。そうしなくては、あのお嬢様は、イギリスに帰らないからな。」

陽明は、そう言うと、諦めたようにため息をついた。

「ご苦労なことだな。」

ロバーツはそう言うと、大きな声で笑い出し、そのままドアを閉めて去って行った。

陽明の耳に、いつまでもロバーツの笑い声が聞こえていた。



(佐那河内屋敷)

右衛門、又五郎、源一郎、それに弥吉が集まった。

弥吉が手掛けた佐那河内の山の裏手に建造している隠し港を見学した三人は、驚きを隠せなかった。屋敷に戻った四人は、港のことなどを話し始めた。

「しかし、よくもまあ、あのようなものを造るものだなあ・・。土木人や大工、それに、他の人手はどうやって集めたのだ。」

又五郎が、興味ありげに弥吉に尋ねた。

「幸い、私どもには大船が幾らでも自由に使えますから。各地から人を寄せ集めるのには苦労はなく、今ある港を使えば、陸地を移動して運ぶように人目にはつきません。働く者の寝泊まりは、かつてこの地に集まり、去って行った浪人たちの長屋が使えましたので・・。思いの他、とんとん拍子に工事は進んでいます。更に、この佐那河内には、厩舎に馬がいやというほどいますからな。一時、仲間の百姓に借りれば、いくらでも調達できます。これも、久野忠純(紀州五家の一角)の置き土産です。」

弥吉は、自分の思惑通り、隠し港が、この佐那河内に出来上がっているのに、大いに満足していた。

「久野様か。そう言えば、久野様は元気でおられるのかな・・。あのお方のおかげで、黒龍党の襲撃が、見事かわせたわ・・。」

又五郎が、佐那河内襲撃の戦いを思い出している。

「久野様なら、和尚の話では、ちょくちょく便りが届くらしい。またこの地に来たいとか言ってなあ・・。」

右衛門が、又五郎に答えた。

その時、

「叔父上!」

源一郎が、柱にもたれかかったまま、右衛門に意味ありげな声をかけた。

「わかっておる。それより、又五郎、台所から酒でも持ってきてくれんか。せっかく弥吉が来てくれたのだから・・。」

右衛門はそう言って、又五郎に、目で天井の方を向いて、忍びが潜んでいるのを知らせた。

「心得た。」

又五郎は、そう言うと、立ち上がり、障子を開けると、廊下につるしてある槍をゆっくりと手に取った。

次の瞬間、

「やあ!」

又五郎の槍は、天井めがけてまっすぐに、天井の板張りを射抜いて、そこに潜んでいた忍びの足元の柱まで突き通された。凄まじい力であった。

右衛門と源一郎は、又五郎の襲撃に合わせるように、裏門と表門に走った。


「ううう・・。」

天井から庭に飛び降りた忍びの一人が、源一郎の刀の一太刀で、うつ伏せに倒れた。

表門では、同じように二人の忍びを見つけた右衛門が、素早く、逃げようとする忍の背中から袈裟斬りに仕留めると、最後の忍びの影に、まっすぐ水平に刀を払った。しかし、その忍びは、その場で素早くとんぼをきって、間一髪で右衛門の太刀をかわした。


「叔父上、大丈夫ですか・・。」

源一郎が、息をはずませ、右衛門のもとに駆け寄ってきた。

同じように、屋敷の連中が、ただならぬ騒ぎに集まってきた。

「右衛門、源一郎さん!お怪我はございませんか・・。」

春が、心配そうに、暗闇に目を凝らす。

彼女は、二人の無事な姿を確認すると、ほっと溜息をついた。

「春さん、少し騒ぎすぎだ。これぐらいの賊で、どうこうなる連中ではないわ。見てみい、早苗など、わしに大丈夫かともきかんわ・・。」

又五郎はそう言うと、高笑いを始めた。

「そんなことはございません。つい、恐ろしゅうて、声が出なかっただけで・・。」

早苗が又五郎に言い訳をした。

「よう言うわ。この豪傑女様が・・。」

又五郎は、そう言うと、なおいっそう大きな声で笑った。

「それにしても、叔父上、あの最後の忍び・・。叔父上の太刀をかわしましたな。」

源一郎が、冷静に今起こった死闘を判断した。

「そのことよ・・。あ奴、ただものではないぞ・・。」

又五郎が、源一郎に追随した。


翌朝、死体の検分に丹波と三郎が駆け付けた。

「間違いない。この者たちは、伊賀の忍び・・。おそらく、井伊様お抱えの京成を棟梁にした忍びの集団かと・・。」

丹波は、死体の検分を終えて、あごに手をやりながら、深刻な顔をして、右衛門にそう言った。

「何だ、その京成とやら言う忍びは・・。」

傍で聞いていた又五郎が、丹波に尋ねた。

「われら忍び仲間では、最強の男です。少々の使い手では、彼に歯はたちますまい・・。

奴は、剣でも相当の使い手・・。まして、相手をしとめるためなら、どんな飛び道具を使うか、想像もつかない。われら忍びの中で一番恐れられている男です。」

三郎は、そう言うと、右衛門の顔を見た。

「だが、その京成とやらが、なぜわれらの館に忍び入ったのか理由がわからん・・。」

右衛門は、なぜかその時、源一郎と又五郎が住んでいた田原藩に何か騒動が起こるのでは・・という胸騒ぎを覚えた。

「右衛門様の太刀をかわすとなると、昨夜の忍び、逃げたのは京成に違いない。」

丹波が、右衛門の疑問に答えることなく、そう呟いた。

「叔父上、われら少し早まりましたかなあ・・。」

源一郎の心配は、右衛門と同じことを案じていた。

「どういうことだ・・。」

又五郎だけが、二人の心配が理解できずに、右衛門に理由を聞きたそうだった。

「まあ、考えすぎだろう・・。尾張には柳生吉重様がおられる。何かあっても、あの方がおられる限り、大ごとにはなるまい・・。」

右衛門は、自分に言い聞かせるようにそう言った。

しかし、その吉重に危険が迫っていたのである。井伊祐直の陰謀は、着々と進んでいた。


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