右衛門8-4
(老中筆頭 上野生馬屋敷)
米沢藩の藩主側勝利の知らせは、数日後には、江戸幕府筆頭老中 上野生馬にも届いた。
反藩主派の旗頭が蟄居謹慎になり、先代藩主も共犯の嫌疑を恐れ、屋敷にこもり、人との一切の交流を絶っていた。上野にしてみれば、米沢藩先代藩主と彼の仲介をした浜本秀英(庄内藩家老)に怒りの矛先が向いていた。
「浜本のせいで、幕内で柳生義親一派に敗れ、米沢藩の介入に失敗したかような噂をたてられている。知らせでは、米沢藩で藩主派に加わり反藩主派を退けたのは、長崎で薩摩藩主島津公をまんまと出し抜いた右衛門の仲間というではないか・・・。それだけではない。右衛門自身は、わしの出身藩の荘内藩で、家老浜本らと騒動を起こしているらしい。」
生馬の怒りと不安は、頂点に達していた。
この男、元々筆頭家老になる器ではなかった。新将軍の誕生で、幕府政権の要を任されたのだったが、すぐに元大目付柳沢義親の勢力が巻き返した。かろうじて自分の地位は保てたものの、幕臣の重役は、義親の息のかかった者で次第に固められていたのである。
「右衛門と言えば、柳生義親様お気に入りの剣豪・・。奴は、剣豪でありながら、知略にも優れた策士と聞いております。」
上野の側近の花井治五郎が、彼の怒りに巻き込まれないように、小さな声でそう言った。
「阿呆!そんなことは聞いていない・・。おぬしに、これからの方策を聞いておるのじゃ。役立たずが・・。」
上野は、膝を手に持っていた扇子で叩きながら、花井を睨みつけた。
「方策と言われましても、嵐が通り過ぎるのを待つのが一番かと・・。誰かに問われれば、知らぬで済む話では・・。」
花井のその言葉を聞いた上野は、情けなくて、怒っていた自分もみじめになった。
「この際、柳沢様と反目しあっていても仕方がないのでは・・・。右衛門が関わる庄内藩家老の問題では、あの方と話し合いを申し込まれてはいかがでしょうか。その上で、幕府総意という形で、庄内藩藩主 酒井様に、清原清十郎を家老職から罷免させ、殿のお身内であられる上野要様を庄内藩家老に推挙なされてはいかがと・・。家老を変えれば、右衛門も手も足も出ないかと・・。まして、殿のお身内が家老になれば、一挙両得となるのでは・・・。」
花井の横でじっと二人の話を聞いていた花井の補佐役井上が、花井に代わって上野に進言した。
「それじゃ。それがよい。柳生義親様の仲介役は、誰がよかろうかのう・・。」
上原の一言に、上野生馬の気持ちが一気に前向きになった。
「義親様に近い、紀州の老中水野様が最適かと・・。」
井上は、以前から主君上野生馬が柳沢義親一派に反目するのが理解できなかった。
第一、柳沢義親一派に反目して、勝てるだけの知略を持った家臣(自分も含め)が上野生馬にはいなかったのである。
「義親様に逆らったところで、何の得にもならぬ・・。」
井上は、義親一派に、生馬が出し抜かれるたびにそう思っていたのである。
結局、義親派は、上野の提言通り幕府総意という形で、庄内藩家老交代を藩主 酒井に進言することに同意した。家老清原清十郎の失脚は、事実上、右衛門たちの影におびえた老中筆頭 上野生馬の独り芝居で決まってしまったのである。右衛門たちには、庄内藩に介入しようなどという陰謀は、一切なかったのにもかかわらず・・・。
(右衛門の宿)
「まあ飲まんか、右衛門殿、今日は気分がいい・・。」
何故か、柳生義親が大阪の居酒屋達磨の二階で、右衛門と酒を飲んでいた。
「殿もおひとつ・・。」
大目付秋山正直の顔は、酒のせいでほんのり赤くなっていた。
「これで、幕閣のほとんどが、殿の意向を無視できなくなりました。思えばここまでくるのに、苦労の連続でしたな・・。」
正直がそう言うと、義親は考え深げに頭を上下に動かした。
「今日は飲みあかそうではないか、のう、右衛門殿・・・。」
義親はそう言うと、正直と共に、嬉しそうに高笑いを始めた。
「右衛門殿・・。」
弥吉の連れてきた蘭方医の西先生の声に起こされた右衛門は、辺りをきょろきょろと見渡した。
「何を寝ぼけてるのですか。そうしていると、いたずらをした子供のようですね。」
右衛門の挙動を見ていた春が、そう言って笑った。
「きっと、お疲れなんでしょう。ここ数日看病でろくに寝ていないのだから。」
西は、そう言って、右衛門をねぎらった。
西は、やっと昨日、弥吉と共に右衛門の宿にやって来た。
西の慎吾に対する医療処置は適切で、回復に向かっていた慎吾は、彼のおかげで命の危険を脱することができたように見えた。
「右衛門殿の縫合が、慎吾君の命を救いました。それにしても、よくそんなことを思いついたものだ。」
そう言って、西は右衛門が決行した縫合に感心していた。
「先生は、私が関ケ原で戦って負傷したのを想像したのでしょう。戦場で人を救おうと思えば、人を人と思うな。長崎にいるころ、隼人が患者の処置にためらったとき、先生がそう言っていたのを聞いたことがある。」
慎吾は、もう会話もできるようになっていた。
「隼人か・・。あいつはまた、通詞の暇なときに医術の勉強を始めたと、便りに書いていました。」
西先生が、隼人のことを思い浮かべて、懐かしそうにそう言った。
「慎吾さん、あまりおしゃべりにならないほうが・・。」
春が慎吾を気遣った。
「ところで、春さんと右衛門殿はどのような・・・。」
西が、ここに来て以来、気にかかっていることを恐る恐る聞いてみた。
「私の知り合いの・・。」
右衛門がそう言いかけた時、春が言葉を強引に挟んできた。
「右衛門のおんなです。」
春はそう言うと、慎吾の枕元にあった金盥をもって、足早に台所へ向かった。
「そうですか・・・。」
西は、そう言うと、しばらくにやにや笑っていた。
慎吾は、黙って目を閉じて、美津のことを考えているようだった。
(米沢藩)
大前宗衛門が、老体に鞭打って米沢にやってきた。
実典屋敷を訪ねた宗衛門は、喜一郎、忠成と再会した。
「これから、どうされるおつもりで・・・。」
最初に、宗衛門に尋ねたのは、いつも控えめな忠成だった。
忠成は、自分と喜一郎の力で、米沢藩主派の勝利を導いたことに自信を得ていた。
「まずは、喜一郎が米沢藩士に出した借金の手形を整理するため、八千両ばかり持ってまいりました。当面は、この資金で藩士らの不満を抑え込めるのではと思います。それに、程なく平田喜内(忠成の門下生)様等数名が、忠成様の応援に来られるかと思います。」
宗衛門は、二人に笑顔で支援の内容を説明した。
「親父殿の援助で一息はつけますが、いまだに米沢藩が、自力で財政再建できるかどうかめどが立ちません。色々やってみましたが、やっぱり陸路での流通網をいきなり確立するのは、他藩との事情もあって、なかなか難しいようで・・。やはり、弥吉の助けを借りて、船を利用する以外、なかなかうまいこと行かんのでは・・。」
喜一郎が、内陸にある米沢藩の弱点を実感して弱音を吐いた。
「右衛門様が、港にこだわるのが理解できたのやないか。」
「親父の右衛門びいきが始まった。」
喜一郎はそう思って苦笑いをした。
「それでも、今回は白石様や忠成様と門弟の皆さんの団結で、この藩を守ることができました。これからは、親父殿のように、右衛門様に何でもかんでも頼らんでも、私らだけでも何とかなりますわ。なあ、忠成様・・。」
喜一郎は、米沢藩で成功した時から、宗衛門にこのことが言いたくて仕方がなかった。
「喜一郎、そうあまり仲間内で対抗しても仕方ありまい。右衛門は右衛門。わしらはわしらで、与えられた役目を果たせば、それでいいのでは・・。」
忠成は、そう言いながらも、喜一郎の言葉に共感しないでもない気持ちがあった。
宗衛門は反論もせず、喜一郎と忠成の功績を黙って認めていた。ただ、宗衛門の右衛門に対する信頼は、全く崩れることはなかったが・・。
間もなく、後から加わった藩主実典と待っていた三名の相談が始まった。
「実典様は、酒田の本間様と親交があられるようで・・。」
宗衛門は、実典との初対面の挨拶も早々に、そう切り出した。
「私が、この藩で苦境にあったとき、ただ一人援助をしてくれたのが本間殿・・。私にとって、一番の理解者と思っております。」
実典は、そう言いながらも、大阪の大商人に昇りつめた大前宗衛門の観察を怠らなかった。
「思いのほか商人らしくなく、藩主の前でもへりくだる様子が一つもない。このぐらいの豪商になると、侍に怯むことはないものなんだろう・・。」
実典は、そんなことを考えながら、本間光秀と大前宗衛門を、どこかで比較していた。
「どうでしょうか、上杉様、その本間様を私に紹介してはいただけないでしょうか。」
宗衛門の言葉を聞いた喜一郎と忠成が、思わず顔を見合わせた。
もし、二人が会うことになれば、この国の二大豪商が初めて顔を合わせることになるのである。興味をひかれないわけがない。
「ほお、それは面白い。私でよければ、いつでも仲介の労をとりますぞ。」
実典は、二人の豪商と同席している自分を想像して、何か自分の格が上がるような気になった。
「親父様は、本間様とどんなお話をされるので・・。」
喜一郎が、尋ねた。
「この米沢藩の商品物資は、本間様の北前船なしでは、流通が難しいのは誰が見ても明らか・・。つまり、米以外の商品を自由に流通するとなると、本間様の助けがどうしても必要になる。この地でとれた薬草にしても、これから乗り出す絹の商いにしても、海運抜きでは考えられません。そもそも、米沢の財政難は、先代藩主様以来の浪費が原因のように言われる方もおられますが、倹約だけではこの藩の財政改革は不可能です。港の安定した確保こそ肝心かなめ・・。そこで、本間様以下三十六人衆が仕切る酒田港を何とか使わせてもらうために本間様と交渉しようかと思っておるのです。場合によっては、米沢の商品の差配は、本間様にお譲りして、私どもは裏方に回れば済むこと・・。」
宗衛門が、本間との会談を希望する理由を一挙にまくしたてた。
「しかし、藩主様の前ですが、せっかくお助けした米沢藩を、本間様に大半をお任せすれば、大前屋は何のためにここまで苦労したのか・・。私どもは、すでに一万両近い資金をこの藩に投じているということを、親父殿はどう考えておられるのですか・・。それに、忠成様も、私どもが仲間だということで、命を張って藩主様をお助けしたのではありませんか・・。」
喜一郎の言葉の端々に、悔しさがにじみ出ていた。
「わしはいいのだ。右衛門との約束を果たしたまで・・。」
忠成も、そうはいったものの、宗衛門の言葉に納得がいった訳ではなかった。
「わしとて、昔の友である佐藤右衛門殿を頼っておいて、忠成殿や喜一郎殿を裏切るような真似は出来ぬ。喜一郎殿と同じように、私も宗衛門殿の考えには賛成しかねる。」
喜一郎の話を聞いているうちに、実典も宗衛門に反対し、右衛門との義理を通した。
四人の会話は、宗衛門の提案に納得がいかないまま、皆が何も言わなくなった。
実は、宗衛門には、三人には言っていない弥吉からの知らせが一つあった。
それは、美津と慎吾の一件である。ただ、二人のそれからの詳しい病気の容態については、まだ知らせは届いていなかったのである。
この日の四人の話し合いは、結論を得ぬまま、実典の仲介で宗衛門と本間光秀が顔を合わせることだけが決まった。つまり、いくら宗衛門に納得できなくても、彼の方針を覆せるほどの力は、今の喜一郎にはなかったのである。
「後は知りまへんでえ・・。」
ふてくされたような喜一郎の言葉が、話し合いの最後の言葉だった。
(右衛門の復讐)
美津の容態は、一向に良くならず、そんな様子を見ている本間光秀までやつれているように見えた。
そんな時、庄内藩家老 清原清十郎は、息子と美津の縁談のことで話があると、本間の屋敷に使いをよこしたのである。
「こんな時に何を言ってるのだ、あの男は・・・。第一、美津がこうなったのも、奴の配下の見回り組が本橋慎吾を襲ったからではないか。使いの者をすぐに追い返せ!当分、家老とは会うつもりもないと言ってな。」
穏やかな性格の光秀には珍しく、取り次いだ使用人に大声を張り上げて命令した。
(清原の屋敷)
使いの者が本間家から帰ってきて、相手の応対を聴いた清原は、本間の怒りの理由が分からなかった。
「美津の相手がいなくなったのに、どうして自分に怒りが向けられるのか・・。」
清原にしては、本間光秀が、可愛い娘が素性も知れない男と一緒にいることなど許すはずがないと思っていたのである。
「殺したはずの慎吾という男、ひょっとして、まだ生きているのかもしれません。」
清原の傍にいた有馬金八(家老側近 庄内藩剣術指南役)が、妙なことを言い出した。
「おぬし、奴を仕留めたといったではないか。もう知っているだろうが、おぬしが殺したはずの仲間の浪人、あれは右衛門らしいぞ・・。米沢藩で、反乱を抑え込んだ武士は、右衛門の仲間で、四強の小野忠成だったそうだ。それから考えると、十分ありうる話だ。」
さすがの剣には自信がある有馬も、家老の話を聞いて、体がビクッと反応した。
「右衛門であろうと、策を練って一対一の勝負を避ければ、ほうむることも不可能ではないかと・・。もし、殿がお命じになるなら・・。」
やはり、有馬ほどの使い手にとって、相手が最強の剣士と噂される右衛門となると、倒して名を上げたいという誘惑はどこかにあった。
「今度は、しくじらぬようにな・・。」
清原は、有馬の強気な言葉に乗じて、右衛門殺害を命じた。
しかし、秘かに清原の家老罷免の口実を思案している庄内藩主にとって、有馬の取った行動は、清原罷免の絶好の理由になった。そして、右衛門にとって、はからずも慎吾の襲撃への復讐という形にもなったのである。
寺の前の白壁に平行にはしる大通りを、右衛門と春が歩いている。
春がふと前を見ると、編み笠をかぶった浪人が、二人とすれ違うおうとしていた。
春は、一瞬、その男に言い様のない不気味な気配を感じ、いきなり右衛門の手を取って固く握りしめ、右衛門の顔を見た。
「どうしたんだ。」
右衛門は、そう言って春に笑顔を見せた。
「今のお侍、右衛門に斬りかかるんじゃないかと思ったから・・。」
春が真剣な顔で、右衛門に答えた。
その男は、春がそう言っている間にも、二人からは離れていこうとしていた。
「春、今の男は偽装だ・・。奴には、人を殺そうとする真に迫った恐怖心がなかった。だがな、今度すれ違う編み笠の男は、わしを襲ってくるぞ。」
右衛門は、そう言いながらも、春に笑顔を見せている。
春が前を見ると、金魚売の天秤棒を担いだ行商人の横を通って、こちらの方に来る二人目の編み笠の男がいた。その後ろを、少し隔てて、青年のような武士が二人、並んでこちらへゆっくり歩いてくる。
「いいか、あの男が私を襲ってきたら、道を離れて一目散に脇へ逃げろ。できるか・・・。」
右衛門が、笑顔を絶やさず、春にそう言った。春はこくりと頷いた。
次の編み笠の男が右衛門と春を通り過ぎた瞬間、二人の前を並んで歩いていた若い侍二人が、いきなり刀を抜き、奇声を上げながら、右衛門に向かって駆けてきた。
すると同時に、通り過ぎようとした編み笠の男が、振り向きざまに刀を抜き、上段から右衛門の背中を斬ろうと刀を振り下ろしてきたのである。しかし、その男は、何故か刀を振り下ろすことができず口から血を吐いた。男が振り下ろそうとする刀より速く、右衛門の剣が男の心臓を貫いたのである。右衛門は男に振り向くこともなく、逆手で刀を抜くと、男に背を向けたまま相手を見ずに、狙った相手の心臓を射抜いたのである。
すると次の瞬間、少し前に通り過ぎた最初の編み笠の男が、刀を上段に構えて、今にも右衛門に襲い掛かろうとした。その時初めて、恐怖で固まってしまっていた春が、我に返って脇道へ必死で逸れた。
右衛門は、素早く男の心臓を貫いた刀を抜くと、半身振り返り、逆手のままの剣で、襲い掛かろうとしている次の男の振り下ろした刀を受け止め、白刃を交えたままで、押しに押した。すると、刺客の態勢が少し崩れ、お互いに交わした白刃が少し離れた。次の瞬間、右衛門はそのまま男を通り抜け、二三歩前に進むと、刀を順手に持ち替えて、その次にやってきている若い二人の男達に立ち向かう態勢を整えた。
右衛門を襲った二人目の男は、右衛門が男の体をすり抜けると同時に、逆手に持った白刃が男の胸を水平に通り過ぎ、動くことができないほどの致命的な傷を負わされていたのである。
最後の二人に対して、順手に刀を持ち替え、十分な間合いが残っていた右衛門にとっては、敵とみなすほどの相手ではなかった。右衛門の刀の一閃は、二人に受け止められるはずもなく、そのまま彼らの体を通り過ぎていった。二人は、声も出すことなく地に沈んだ。
最初に右衛門が倒した男は、有馬金八(庄内藩剣術指南役)であった。
庄内藩主の動きは速かった。この事件が見回り組の襲撃だとわかった二日後には、浜本秀英(庄内藩家老)の家老職罷免が言い渡され、見回り組は解散となった。
(慎吾と美津)
右衛門と春が、右衛門の宿の座敷に座って色とりどりの菊の花を見ている。
隣の部屋では、春が傷のさらしを替えてようやく安心したのか、慎吾は寝息をかいて熟睡しているようだ。
西先生は、昨日、慎吾の傷が治癒の方向に向かったのを確認すると、大阪へ帰ってしまった。二人の見ている菊の花は、春の遊郭を訪ねた本間光秀が、右衛門のために春に託したものだった。
話は、本間光秀が春のいる遊郭を訪れた時間に遡る。
「旦那様・・。」
朝、いきなり現れた光秀に、春は驚いて大きな声を出してしまった。
彼は、伴の者に持たせたいろいろな菊の花を、遊郭の使用人に命じて持ってこさせた花の鉢に、大切そうに一つ一つ生けていった。
「春の所へ来るのは、何か月ぶりかな・・。」
光秀は、そう言いながらも、差し終わった菊の色の配置を少しずつ調整していた。
光秀のやつれた顔は、春が見ても明らかだった。
「どうなさったので・・。」
春は、生け終わった花を見て、そう尋ねた。
「この花を、右衛門様の所に持って行ってくれんか。」
光秀は、春と右衛門の仲のことをすでに知っていた。
「それはいいのですが、旦那様は、右衛門様に何か用があるのでは・・。」
春は、憔悴した光秀の様子を見ながら、いたわるように聞いてみた。
「美津が、慎吾殿のことで衝撃を受けて心の病にかかってしまい、元の娘のように元気にならんのだ・・。やっと病の床からは離れることはできたのだが、誰が話しかけても、まるで何も聞こえていないかのように反応も示さない。時折、思いつめたようにめそめそ泣きだし、一日中顔を伏せて、家のものを寄せ付けない・・。医者に聞いても、首をひねるばかりで何の役にもたたない。ついさっきも、美津は、ただ天井をぼんやりと見て、誰が話しかけても一切口をきかないのだ・・。(深くため息をつき)春、右衛門様に何とかならんか聞いてくれないか。あの方は、慎吾殿と一緒に暮らしている。二人のことを何とかしてくれるのではないだろうか・・。」
光秀は、そう言うと、すがるような目で春を見た。
「旦那様は、慎吾さんと美津様が、一緒になりたいと言えば、お許しになるので・・。」
春は、光秀に思い切ってそう質問した。
光秀の顔に、苦悩の表情が浮かんだ。
「それは・・・。わしが許しても、本間家の親戚が何というか・・。仮にも、我が家は血筋から言っても、大名と変わらない家柄だからな。薩摩藩の下級武士では・・・。」
光秀は、自分でも無理な頼みを、右衛門にしようとしていることを知っていた。だから、右衛門に直接会わずに、春から間接に頼もうとしたのである。春からなら、無理な頼みも、右衛門は何とかするのではないかと思ったのである。
春は、光秀の言い分に矛盾がると思ったが、何も反論しなかった。これ以上、衰弱している光秀を精神的に追い込みたくなかったのである。
光秀は帰り際に、春に向かって、
「お前の顔から悲しみが消えたな・・。余程、お前は右衛門殿が好きになったと見える。
春、右衛門殿から離れるなよ。やっと本当の幸せをつかんだようだから・・・。」
と言うと、にこりと笑って、小さくなった背中を丸めて、春が見送る玄関を、ゆっくりと出て行った。
(再び右衛門の宿)
右衛門と春は、さっきから何も言わず、じっと菊の花を見ている。
春が右衛門に、光秀の話から聞いた美津の状態を報告した。右衛門はしばらく黙って何かを思案しているようだった。
そして、いきなり口を開いた。
「わしは、雪を嫁にもらうとき、佐藤の姉上たちは強硬に反対した。姉たちは、大目付の策略を知っていたからだ。秋山の家は、大目付義親様の家臣で、三万石の大名。身分から言っても、雪の家はわしとは釣り合いが取れなかった。しかし、大目付の命によって、秋山の父は、渋々、雪をわしに見合わせたのだ。あの頃、側用人と反目しあっていた大目付義親様は、どうしても我が見能林藩を側用人の支配下にしたくなかった。そこで、強引に藩主のわたしと、家臣の娘の雪の婚儀を仕掛けたのだ。」
右衛門は、過去の自分を語り始めた。
「それで・・・。」
春が、右衛門の話を促した。
「わしは、雪に会った時から雪の美しさに魅了されてしまった。この菊の花のようにな・・。その時から、わしは、誰の忠告も耳に入らなくなった。家柄も策謀も、わしにはどうでもいいことになった。ただ、雪と一緒になりたかった・・。」
右衛門は、いつの間にか春に向かって話していることを忘れ、雪との記憶に浸っていた。
「右衛門にも、そんな夢中になってしまった思い出があったのね・・・。でも、雪様は、右衛門のことを気に入っていたの・・。」
春は、真剣な顔をして右衛門に尋ねた。
「最初は、嫌いではなかったが、自分が嫁に行くほどの家ではないことが気に入らなかったらしい。これは、後で雪から聞いた話だが・・。わしが、雪と一緒になりたいと直接申し出ると、「どうして私と・・。」って、雪が聞くのだ。そこで、「お前が好きで好きで、眠れないのだ。(文句があるかと言わんばかりに・・)」と正直にそう言ってやった。雪は、余りにもわしの言いようが、あからさまだったので笑っていたが、すぐに、うんと頷いてくれた。」
右衛門は、言い終わると、寝転がって腕を後ろに回して天井をじっと見つめた。
「何だか、雪さんが憎らしくなった。」
春はそう言うと、右衛門の腕を強くつねって、右衛門を見ながら笑った。
右衛門は、春の仕草に反応せずに、慎吾と美津をどうしようか考えているようだった。
「わしは決めたぞ・・。いろいろ考えるからろくなことしか思いつかないのだ。」
右衛門はそう言うと、慎吾の寝ているふすまを勢いよく開けた。
いびきをかいて寝ていた慎吾が、何が起こったのかというような顔をして、右衛門を見た。
「慎吾!わしは今から、美津を本間の家からさらってくるから・・、お前は、ここで美津を迎えてやれ。いいな、これ以上何も言うな。わしは、決めたのだ・・。わしの邪魔をする奴は、この刀にかけても、わしの思う通りにするからな!」
右衛門は、そう言うと、一目散で表に駆け出した。
本間の屋敷に着いた右衛門は、表門を入るとまっすぐ玄関に向かった。
「これは、右衛門様、何か御用で・・。今、旦那様を呼んできますのでしばらくお待ちを・・。」
右衛門の対応に出たのは、平蔵であった。
「美津のいる部屋を教えてくれんか。本間殿にいずれ挨拶をするので、まず美津に会いたい。」
右衛門の真剣な表情を見た平蔵は、どうして右衛門が美津に会いたいのか理解ができなかった。
「そう言われましても、美津様は少しお加減が悪く・・。」
平蔵は、そう言うと、奥の部屋にいる美津の部屋に、無意識に視線をやった。
「ごめん!」
右衛門は、美津の居場所を確認すると、平蔵の戸惑う様子も気にせずに、履物を脱ぐと、つかつかと廊下を渡り、美津の部屋に直行した。
驚いた平蔵は、異変を伝えるために、慌てて本間光秀のいる書斎に駆け込んだ。
そのころには、右衛門の異常な行動に気付いた本間の屋敷の者たちが、大騒ぎで右衛門が美津の部屋に行くのを止めようと、
「お待ちください!」と、口々に右衛門に懇願する声が廊下に何度も響き渡った。
右衛門は、そんな声には耳をかさず、美津の部屋の障子を勢いよく開けた。
右衛門目に飛び込んできた美津の様子は、まるで抜け殻のようにただ茫然と座って、右衛門の突然の侵入にも何の反応も示さず、ただ黙って部屋の片隅でたたずんでいる姿であった。その頃、平蔵から知らせを聞いた光秀が、慌てて騒ぎの方へ向かって行った。
右衛門は、美津の前に背を向けて、ひざまずいた。
「美津、もしお前が慎吾に会いたいなら、わしのこの背中に負ぶさってこい!慎吾は、きっと、お前が来るのを待っているからな・・。」
右衛門が、大きな声でそう言って、美津に行動を促した時には、開けた障子の辺りには、美津を守ろうとする屋敷の使用人でいっぱいになっていた。
「お武家様、お嬢様は御病気で、人の言葉が分からないのです。お願いですから、そんな無茶なことはせずに、お嬢様からお離れください。」
この屋の番頭らしき男は、そう言うと、頭を畳にこすりつけるように深々と頭を下げた。
すると、次の瞬間奇跡が起きた。美津がゆっくりと自分の腕を右衛門の首に巻き付け、彼の背に頭をつけて、黙ったまま背中に負ぶさってきたのである。
集まった使用人等の間で、大きなどよめきが起こった。
「お嬢様が、お侍の言うことを聞いたぞ!」
そう言って、辺りの連中に自分の驚きを、声に出すものもいた。
右衛門はゆっくりと美津を背負いあげると、使用人たちは暗黙の了解で、二人に道を開けた。
「美津、しっかりつかまっていろよ。今、慎吾の所へ連れて行ってやるからな。」
右衛門は、今にも涙がこぼれ落ちそうになるのを、必死でこらえてそう言った。
すると、美津は微かに右衛門の背中で、頷いたような気がした。
あっけにとられた使用人たちを通り抜けた右衛門は、まっすぐ玄関の方へ向かった。
その時ようやく、土間に降りる二人の姿を見つけた光秀と平蔵が、後ろに回り、二人が外へ出るのを呆然と見まもっている。
我に返ったように平蔵が、
「右衛門様!」大きな声で叫んだ。
しかし、光秀が、平蔵を制止するように、平蔵の前に手を出して、
「右衛門様、後はお願いします。」
右衛門にそう声をかけて、平蔵の言葉を遮った。
右衛門は、光秀の方へ振り返ることもなく、一礼すると、まっすぐ外に出て行ってしまった。
再会・・・。
傷の治ってない慎吾は、必死で刀を支えに、自分の足を引きずりながら外に出ると、路地を抜けた大通りの片隅で、右衛門が連れてくると約束した美津を待った。
一時(いっとき、二時間)も過ぎただろうか、慎吾は遠くの方で美津を背負った右衛門の姿を見つけた。
「美津、あそこで慎吾が待っているぞ!」
右衛門がそう呟くと、美津は頭を上げて慎吾を確認し、いきなり右衛門の背中から強引に降りると、慎吾めがけて駆け出した。慎吾も美津が駆け出すのを見つけると、刀を支えに足をひきずりながら、美津の方へ歩みを進めた。
二人は、出会った瞬間、美津は慎吾の体に飛び込んだ。
「おいおい、おれはまだ傷が治っていないんだぞ。」
周囲の行き交う人に気付いた慎吾は、恥ずかしそうに、美津にそう言った。
「もう離さないからね!」
美津は、慎吾の言葉が聞こえなかったように、いつまでも慎吾の体にしがみついていた。
その二人の姿を、飲み屋の小窓から見物していた、二人の男の一人が、
「おいおい、通りの真ん中で、見せつけてくれるじゃないか!」
表にも聞こえるような声でそう言った。
すると、もう一人の男が、
「おい!お前、あれが誰だか知ってんのか・・・。薩摩の人斬り慎吾だぞ!」
そう言って、友達の口を慌ててふさいだ。
後ろの方で、美津の世話をするように本間光秀に命ぜられた久が、一生懸命駆けてきていた。
右衛門は、二人の再開を確認すると、ほっとしたようにふっと息を吐くと、二人を残して春の所へ向かって行った。
(春の遊郭)
右衛門と春は、窓から奥羽三山が見える二階の部屋で、本間光秀と大前宗衛門の話し合いの結果を待っていた。
「さぞ見ものでしょうね・・。旦那様と大前屋の宗衛門様が、米沢藩主上杉実典様の仲介で、お話しなさるなんて・・。」
春は、いつものように、胡坐をかいて腕を組み、目を閉じている右衛門を横目で見ながら、そう言った。
「何しろ、大阪一の商人と、北前船の豪商が顔を合わせるのだからな。」
春の視線を感じた右衛門が目を開けると、そう呟いた。
「それで、本当に慎吾さんは、宗衛門様の提案(後述)を受け入れたの・・。」
春が、興味深そうにそう聞いた。(右衛門が、春に話した宗衛門の提案は、大前屋の屋台骨を揺るがしかねない計画だった。)
「最初は、宗衛門殿の計画を信じられなかったようだが、佐吉の熱心な説得で、半信半疑で同意したようだ。よほど美津に惚れているのだろう・・。そうなると、美津はいったん連れて帰ることになったんだが・・。美津の抵抗で、こっちのほうが苦労した。一時でも慎吾と離れたくないと言ってな。」
そう言って、右衛門は苦笑いをした。
「美津様の気持ちわかる気がする。やっと好きな人と再会できたんだもの・・。三日一緒に暮らしただけで、別れなければならないなんて・・。」
春が、美津に同情した。
「そうはいっても、美津を本間の家に帰さねば、宗衛門殿も、二人を一緒にさせてくれとは言えんだろう。」
右衛門が、春に反論する。
「それで、話し合いが、うまくいかなかったらどうなるの・・。」
春が右衛門にそう聞いた。
「慎吾が刀にものを言わせて、美津を奪いに行くかもしれんな・・。」
右衛門はそう言うと、笑い始めた。
「物騒なこと言わないで、これまでさんざん血が流れきたんだから・・。」
春は、真剣に右衛門の言葉を戒めた。
「それで、うまく言ったら、右衛門はどうするの・・。」
春は、そう聞いたとき、胸の鼓動が鳴りやまなくなった。
「右衛門が旅立てば、私はどうなるのかしら・・。」
心の中で、そう思ったのである。
「そうなると、この地でいる理由もなくなるだろう。お前がわしと来てくれさえすれば・・・。」
右衛門は、窓から見える澄みわった風景を見ながら、淡々とそう言った。
嬉しさで、春の目から涙がにじんだ。
「・・でもね、私、ここを出ないわよ。この土地を離れたら、私には何にも残らないもの。やっとここまでやってきた苦労が水の泡になる・・・。」
春は、自分でも思っていないような言葉が口から出た。
春は、右衛門が美津を迎えに行く前に話した自分の過去の告白で、妻の雪への愛情がどれほど大きかったかが分かった。そのことで、自分と右衛門の間にどうしようもない心の深淵が横たわっているような気がした。そのわだかまりが、思わず口に出たのである。
二人の間から会話が消えた。しばらくして、
「そうか、そりゃそうだ。春の言う通りだ・・・。しかし、わしはまだあきらめないからな。またこの地に来て、お前に会いに来る。お前さえ待っていてくれればな。その時は・・・。」
右衛門はそう言うと、不安そうな目で春を見た。
「うん。」
春は、右衛門の言葉にそう答えるだけだった。
そして、悲しさを悟られまいと、明るく笑顔を見せた。
(本間の屋敷)
一方、本間の屋敷では、宗衛門と光秀が対坐し、本間の番頭平蔵と佐吉がそれぞれの主人の横で座っていた。上座には、上杉実典が絶えず笑顔を絶やさず二人の豪商を見守っている。
本間は、佐吉が美津を自宅に送り届けてくれたことで上機嫌で会った。
しかも、美津は心の病が治ったように、光秀にも笑顔を見せてくれた。
「山野佐吉殿には、美津のことで御配慮いただき、お礼の言い様もありません。お陰で、娘も病から回復している様で、私どももほっとしております。」
そう言って、光秀は佐吉に頭を下げた。
「この佐吉さんは、右衛門様の元家臣で、見能林藩で勘定方をしておったのですが、今は私どもの商売を助けてもらっております。」
すかさず、宗衛門は、佐吉の話題から始めた。
「そうですか、大前屋さんには、侍からも優秀な人材が集まるようで・・・。さすが、大店になると、違いますなあ。」
光秀は、そう言うと、屈託なく笑った。すると、
「どうです、本間様、この佐吉さんを慎吾さんの傍において、この地で大前屋と本間家の商売の仲介をさせてはくれませんか。もちろん、慎吾さんが、本間家の美津様の婿として認めてもらったらの話ですが・・。」
宗衛門のいきなりの提案に、場の雰囲気が凍り付いた。
誰からも、話を切り出すきっかけがなくなり、不自然な沈黙が続いた。
ただ、宗衛門だけが、いつもの笑顔を絶やさず、本間の出方を覗っていた。
「だが、大前屋殿、その申し出は少し早急では・・。」
やっと、実典が、間を取り持つように口を出した。
宗衛門は、その言葉を想定したかのように、
「年寄りのせっかちな性分は、ご容赦くださいませ・・。」
そう言って、実典に頭を下げた。
「以前、人を介して右衛門様にも言ったのですが、私どもの家もあれこれ口を出す親族がございまして・・・。本間家が一枚岩であるからこそ、ここまで商売が続けられたということも、お考えいただけないでしょうか・・。」
光秀は、遠回しに、慎吾の身分を理由に、美津との婚儀を断ろうとした。
そして光秀は、
「ただ、大前屋さんとの今後の協力関係については、これまでのご配慮もあり、前向きに考えたいと思っております。特に、米沢藩の商品流通については、大前屋さんの立場を無視するようなことは致しません。」
と言って、宗衛門を安心させた。光秀には、米沢藩と大前屋の関係の詳細な情報が入っていたのである。
「それでは、右衛門様に申し訳が立ちません・・。私は、商売だけのために、ここに参ったのではございません。大前屋の恩のある右衛門様のために、この話まとめに来たんです。」
そう言って、宗衛門は、光秀の満点に近い返答を拒絶した。
これには、嬉しさを隠しきれなかった実典を驚かせた。
再び、以前のように、座が凍り付いて沈黙が続いた。
「それでは、どうでしょう。慎吾さんをいったん大前屋の養子とし、大前屋の息子として、美津様との婚儀をお願いしたら、本間様は、この話、お受けていただけるでしょうか・・・。」
宗衛門の提案は、本間家というより、大前屋の家が大騒ぎになる決断だった。
大前屋には、跡継ぎの喜一郎がいた。もちろん、三人の娘もそれぞれ婿をもらって大前屋の商売に、支店として従事している。さらに、他の親戚に相談もなしにこんなことが言えるのは、大前屋では絶対的権威者である宗衛門だからである。彼なら、すべての異論が抑え込めた。
この時、初めて実典は、わざわざ老体に鞭打って、宗衛門がこの地に来た理由が分かった。
また、しばらくの間沈黙が続き、ついに光秀が決断した。
「そこまで言われれば、私も断るわけにはいきますまい。」
光秀が折れた。内心、彼は宗衛門の提案に手を合わせていた。
もし、慎吾との結婚を認めなければ、美津が黙っているはずがなかった。
光秀は、慎吾が美津を力づくで強奪に来たなら、黙って彼に娘を託そうと思っていたほどである。光秀にとって、それ程美津は可愛い娘であり、そのことで形式的に娘と縁を切れば、親戚にも言い訳ができる唯一の方法だと、腹をくくっていたのである。
「まとまった!米沢藩もこれで救われた。」
高揚した実典が、決まった約束に念を押すかのように、大きな声を張り上げた。
この本間家と大前屋の合意は、佐吉によってすぐに右衛門と慎吾に伝えられた。
(右衛門の旅立ち)
佐吉、美津、慎吾、平蔵が右衛門を送るため、街道の入り口に集まった。
「春さんは、来ないので・・。」
美津が、不思議そうな顔をして右衛門を見た。
「見送るのはつらいからというので、宿の玄関で別れた。」
右衛門は、少し沈んだ顔でそう言った。
「そうですか、私はてっきり先生についていくもんだと思っていました。」
慎吾がそう言った。
「まあ、いろいろあるのだ。しがらみがな・・。わしのような男についてきても、明日はどうなるか分らんからな・・。」
右衛門は、そう言うと、寂しそうに笑った。
「それより、お前たち四人は、これから大前屋と本間家の橋渡しをしなくてはならないのだ。余程、気合を入れてかからんとな・・。わしも、弥吉の船が、酒田の港に寄港をするのを見たかったが、そうもいかん。お前たちの店ができたら、またこの地へ来て顔を出すから、その時は歓迎してくれよ。」
やっと明るい笑顔を見せた右衛門が、みんなの顔を一人ずつ確認した。
「平蔵、本間殿には、よろしく言ってくれ・・。(もう一度みんなの顔を見て)それにしても、皆明るい顔だ。希望に満ちているものな・・。佐吉、お前は家族を呼び寄せるのか。」
右衛門は、やはり一番かわいい見能林以来の家臣に、最後に声をかけた。
「そのつもりです。与えられたこの仕事に自分の一生をかけてみたいので・・。殿はこれからどこへ・・。」
佐吉が、右衛門にそう聞いた。
「わしは、何かの区切りがついたら、仁内の和尚に会いたくなる。見能林に立ち寄って、その後は、大坂の忠成の道場に立ち寄り、忠成と一龍齋先生にお礼を言わねばなるまい。(大きく深呼吸して)それじゃあ、この辺で御免!」
右衛門は、そう言うと、集まった連中に一礼して、みんなに背を向けて振り返ることなく、さっさと歩き去っていった。
(それから一月後、大阪)
小野道場を出たすぐそばの茶屋で、孫に団子を食べさせている一龍齋の姿があった。
右衛門は、床几に座る一龍齋につかつかと近づくと、編み笠をとって、深々と頭を下げた。
逆光にに照らされて、誰かを確認するため目を細くしながら、一龍齋が右衛門を凝視した。
「おう、右衛門殿か・・。久しいのう。元気にしとったか。」
一龍齋は、笑顔を絶やさず、そう言った。
「先生には、大変な厄介ごとを聞いていただき、お礼の言い様もありません。」
そう言うと、右衛門は改めて頭を下げた。
「そうじゃ、わしの孫を見ていてくれるか。」
一龍齋はそう言うと、慌てたように道場の方へ向かった。
右衛門は何があったのかわからず、きょとんとして、一龍齋が残していった子供の顔をみて、愛想笑いをした。その子を見ていると、何故か子供のころの陽明を思い出した。
「春さん、右衛門殿が現れたぞ!」
一龍齋は、道場の周りを竹ぼうきで落ち葉を集めている春にそう声をかけた。
一龍齋の知らせに、春は箒をその場に置くと、一目散に駆け出した。
春は、通りでぼんやり空を眺めている右衛門を見つけると、
「右衛門!」
そう言って大きな声で叫ぶと、脱兎のごとく右衛門の方へ駆け寄り、呆然としている右衛門の胸に飛び込んだ。
近くのうどん屋で、その光景を見ていた二人の男の内の一人が、
「昼間っからよくやるよ!ねえちゃん、お熱いね・・。」
と、大きな声でそう叫んだ。
すると、もう一人の男が、慌てて連れの男の口をふさぎ、
「お前、あの男が分からないのか!あれは、あの右衛門だぞ・・。死にたくなかったら、黙ってろ!」
からかった男の耳元でつぶやくと、恐怖で震える友の体を必死におさえていた。
「右衛門8」終わり




