右衛門8-3
忠成は、一龍齋の命を受けた白石利助(弘前小野派道場指南役)と共に、米沢藩主に反旗をひるがえそうと計画する清原清十郎一派の中から、小野一刀流門弟たちを、藩主に寝返らすために米沢藩に向かった。
右衛門は、米沢で見つかった下痢薬(芒硝)の利権について交渉し、平賀の立場も擁護するために、大目付 秋山正直に会うために江戸へ向かった。
一方大阪では、喜一郎が、右衛門から依頼を受けた芒硝をどう扱うかで、宗衛門、弥吉らと計画を練り始めた。右衛門の仲間たちが、それぞれの立場で、一つの目的に向かって始動し始めたのである。
(江戸の居酒屋)
右衛門が江戸に入ると、程なく、品川孝久(秋山正直の側近)が右衛門の宿を訪ねてきた。
「今から、佐藤様を殿の所へ案内します。」
品川は、そう言って、目的地も告げず右衛門をある居酒屋に導いた。
「何か思い出しませんか。」
品川は、そう言うと、右衛門を見てにやりと笑った。
「屋号は違うが、大阪の達磨(右衛門の仲間の良く通う居酒屋)に店構えがそっくりですな。」
右衛門は、その店を見た時から気づいていた。
「そうなのです。殿が元大目付 柳生義親様の命で、大阪に滞在したころに、よくお通いになり、気に入った居酒屋だそうで・・。佐藤殿もおなじみでは・・・。」
品川は、そう言って、右衛門の顔を見た。
「そう言えば、秋山様と柳生様と私が、あの店で話をしたことがある。秋山様は、義親様に、なかなか江戸にお戻りならないことを叱責された際、達磨のせいにしたことがあるそうで・・。」
右衛門は、あの頃の記憶をたどっていた。
「殿は、あの居酒屋が余程気に入ったのか、大目付に就任してすぐに、大阪の居酒屋そっくりにお建てになったのです。今は、この店をいろいろな情報を収集する密会場所として使っています。ただ、主人だけは、同じ人物とはいかず。自分の・・・、つまり(言いにくそうに)、殿が世話をなさっているお塁さんを主人として、店を経営させて、大事な密会の時でも二階を使い、下は普段と変わらず客をいれているのです。その方が、目立たないとおっしゃってな。」
この品川という男、正直の側近で、策士でもある。ただ、少し策士としては、実直すぎる所があった。右衛門にとっては、どうでもいいことまで、事細かに説明するのである。
塁という居酒屋の女亭主は、右衛門が到着するなり、なれなれしく言葉をかけてきた。色が白く、小太りで、どことなく色気のある女であった。
「へえ、これが、天下に敵なしと言われる右衛門様ですか。どう見ても、ぱっとしない、そこらを歩き回っている御浪人のようですが・・。(少し顔を覗き込み)でも、けっこういい男だこと。身なりさえもう少しよくすれば、女がほっとかないのに・・。」
塁はそう言って、さっきから右衛門をじっと観察している。
右衛門は、その視線に窮して、塁から視線を避けようとしている。
「塁さん、からかうのはやめなされ。右衛門殿が困っておられではないか。それより、殿はおいでか。」
品川が、右衛門に助け舟を出した。
「さっきから二階で・・。」
塁はそう言うと、二階に視線を送った。
すると、二階に障子の開く音がして、
「おお、来られたか。上へ・・。塁、大切な客じゃ、案内せんか。」
正直の機嫌のいい声が、二階の階段の所から聞こえてきた。
品川、正直、右衛門が丸い机に胡坐をかいている。
膳には、すでに、食べきれないほどの高級料理が並べられ、秋山の心遣いがうかがわれた。
「右衛門殿は、余り酒は飲まれんと聞いたが・・。」
秋山の言葉に、右衛門は軽く頷いた。
「ところで、平賀殿からの便りでは、確かに下痢止めの草薬が、米沢藩に群生しているとのことで・・。」
最初に、右衛門が訪ねてきた本題を取り上げたのは、品川だった。
「そのことで、正直様にお願いが・・。」
品川の言葉に促され、右衛門が、その問題で正直に頼みごとを提案しようとした。
「おそらく、右衛門殿が言わずとも、すべて情報は入っております。もちろん、右衛門殿が訪ねてくることも、予想しておりました。」
正直は、右衛門に面倒くさい説明をさせるつもりはなかった。
右衛門は、正直からそう言われ、旅の途中、彼に会ったらどう言ったらいいか思案を巡らしていただけに、少し拍子抜けがした。
「考えてみれば、幕府の大目付が、この問題に情報を集めてないわけがない。」
右衛門は、自分の思慮のなさを反省した。
「その問題は、そう複雑だとは思っていないのだが・・・。」
正直が、薬の利害についてそう言った。
「米沢藩が、幕府に芒硝のこと届ければいいだけの事・・。こそこそ隠し事をするから、幕府も調べねばならん羽目になる。もちろん、利益の一部は、何らかの形で幕府に収めてはもらうが・・。幕府とて米沢藩の事情は分かっておるので、無理な要求はしないつもりでいる。それで、了解してもらえますかな。」
正直は、右衛門に承諾を打診したが、拒絶は許さない口調であった。
「問題はないかと・・。米沢藩とて、幕府に隠し通せるとは考えていないでしょう。私の方から、藩主 上杉様にそのように申し伝えます。」
右衛門は、素直に正直の提案を承諾した。
「それより、右衛門殿、その藩主だが・・・。藩主の了解で、問題が収まりますかな・・。」
品川が、右衛門に尋ねてきた。
「すでに御存じか・・。幕府の大目付ともなれば、当然と言えば、当然ですな。」
右衛門は、ひょっとすると、江戸までわざわざ相談に来る前に、この連中はすべて把握し、方針を決めているのではないかと思い始めた。
「実は、米沢藩の藩主辞退の後、跡継ぎに先代藩主の長男上杉正虎様を、という打診が幕府に届いていまして・・。」
品川は、右衛門に重大機密を隠さず話した。
「ほう、そこまでこの問題、進んでいましたか。」
右衛門は、率直に驚いた。
反藩主派は、まだ、引退を口にしていない実典の処遇も決まらぬうちに、幕府に実典の後継者を打診していたのである。元藩主であった右衛門だけに、その根回しは実典にとってどれだけ屈辱的か、身に染みて実感するのであった。
「ところが、相談を受けたのが、庄内藩がお身内の筆頭家老 上野生馬様なのだ。そして、米沢の先代藩主は、庄内藩家老 浜本秀英の口添えで上野様と面会し、現藩主 上杉実典様引退とその後継者の打診をしたそうなのだ。わかるかなわしが言いたい事・・・。」
そう言うと、正直は、右衛門の顔をじっと見た。
筆頭家老 上野生馬は、幕内では柳沢義親と対立していた。すなわち、正直にとっても幕府反対派閥の中心人物であった。
「正直様のお考えは、ほぼわかりました。実は、私は今、実典殿のために動いるのです。」
右衛門は、正直の言いたいことを理解していた。
「右衛門殿は、藩主のころ、上杉実典殿とは、京極殿と共に、ごく親しかった仲だとか・・。そうか、やはり動いておられたか・・。おぬしが、実典様と接触しているという情報は入っていたが・・。そうか、われらいつも思惑が一致しますな。」
正直は、上機嫌になった。
「右衛門殿、われらでできることがあれば、できる範囲でお助けしますぞ・・。」
正直の態度の変化は、誰が見ても明らかだった。
「それでは、もし、実典殿が藩主の地位を維持できたなら、芒硝(下痢薬)の利益は、米沢藩にすべてお委ねくださいませんか・・。今の米沢藩が騒動を起こさぬためにも、財政的支援は欠かせませんので・・。秋山様の裁量を持って・・。」
右衛門は、そう言うと深く頭を下げた。
正直の顔から笑顔が消え、しばらくの間、座は静まりかえった。
しばらくして・・・
「仕方あるまい。しかし、条件として、上杉実典様が米沢藩主でおられる限り、我が主人柳沢義親様へのご配慮、忘れてもらっては困りますぞ。万が一にも、上野様に従うようなことがあれば、この秋山正直、黙っておりませんぞ!」
正直の顔が、真剣になった。
「まるで七変化だ。」
横で見ていた品川は、正直の表情の変化を見ながらそう思い、苦笑するのを抑えることができなかった。
「必ず・・。」
右衛門は、そんな正直の心情を読み図るように、かしこまって頭を下げた。
正直は、そんな右衛門の確約の態度に安堵して、また笑顔に変わっていった。
「ところで、右衛門殿は与助や義親様に会わないので・・。」
正直との相談が終わって、立ちかけた右衛門にそう聞いた。
「すぐに荘内に帰って、やらねばならないことがあるので・・。それに、残してきたもののことも心配なので・・。また、今度の機会にしようかと・・。秋山様の方から、義親様には、良しなに・・。」
右衛門がそう言うと、
「心得た。」
正直は、快諾した。
(大前屋客間)
大前宗衛門、喜一郎、弥吉それに弥吉の店の番頭勝介が、大前屋別邸の客間に集まった。
勝介が、大事な店の方針で加わったのは初めてだった。弥吉の店の番頭が大前屋の商談に参加するということは、弥吉が大前屋にとって重要な役割を担っていることを象徴していた。
「右衛門様から便りが届きまして、米沢藩に芒硝(下痢薬)の群生が見つかったとのこと・・。大前屋に、この商品の取引を任せると書いておられました。旦那様、どのようにいたしましょう。」
弥吉が、右衛門からの依頼を説明した。
「右衛門様の便りは、私の方にも届いています。弥吉と相談してくれと・・・。それに、何やら米沢藩の事情が複雑で、藩主様転覆計画があるとのこと・・。弥吉さんは、情報収集の組織を持っているので、詳しい事情はつかんでいるんでは・・。」
喜一郎が、弥吉の提案に応じた。
「はい、米沢藩の事情は調べさせました。米沢藩筆頭奉行 清原清十郎というご家臣が、事実上、家臣をほぼ掌握しているとのことで・・。藩主の上杉様は、清原様に引退を迫られれば、手も足も出ないのではないかと、報告を受けています。なにせ、米沢の武力部隊は、清原様の指示で動くようなので・・。」
弥吉の組織は、米沢藩の細部まで調べているようであった。
「それでは、前へ進められへんやないか・・。米沢藩主の依頼で、芒硝の取り扱いを頼まれたのに、その藩主様が追い落とされたら、せっかく流通経路を開拓しても、肝心の商品が宙に浮いたんではどないもならへんわなあ・・。勝介、右衛門様は、どんな策でその反藩主派を抑え込むつもりなんや。情報は、入っているんやろうな。」
喜一郎が、不満を漏らした。
「それが、右衛門様からは何の策も告げられておらず。手前の方でも、いろいろ調べさせたんですけど・・。一度、平賀様とかいう学者さんと米沢で芒硝の調べをした際、その清原様の手下に襲われ、手下を追い返したという情報は手に入れたんですけど・・。それ以上は、右衛門様が何をされていて、藩主様とどんな計画をたてておられるのか。まだ、何も・・。」
勝介が、おずおずと、そう答えた。
「それでは、話にならんなあ。右衛門様からの詳しい策を聞いてから動いてはどうだろうか・・。」
喜一郎は、そう言うと、弥吉の顔を見た。
弥吉の顔には、明らかに喜一郎の提案に不満の様子が見て取れた。
「喜一郎、お前は右衛門様の依頼を、そんな形で放っておけると思うとるのか・・・。
見てみい、弥吉が困っておるやないか・・。右衛門様が、商売を進めてくれと言ったんやから、米沢の反対派はきっと何とかするに決まってる。よしんば、うまくいかんでも、わしらは、右衛門様の言われた通りに従えばええんや。お前は、まだ、商売の対局が見えとらん。わしらが、ここまで大きな商売ができるようになったんも、右衛門様のお陰やないか。黙って、右衛門様に従えばええんや・・。」
宗衛門の一言で、米沢藩の商品取り扱いが決まった。
弥吉は、むしろ、宗衛門の決断を聞いて、
「もし、大旦那がいなくなったら、どうなるんやろう。」と、一抹の不安を感じた。
「それより、話を聞いてると、わしらはもっと本腰を入れて、藩主様が不満分子を除いた後のことも考えたほうがええかもしれんぞ・・。」
宗衛門は、現藩主態勢維持の後の米沢藩の問題を相談したかったのである。
弥吉は、宗衛門の対局感に感心した。
「大旦那さんの言う通りで・・・。万が一、米沢藩が芒硝流通で利益を得ても、米沢藩の財政がうまいこと行かなんだら、藩には再び不満がたまり、体制維持が難しくなる。商売の先行きも見えません。要は、大前屋が、藩主様の藩改革に加担して、米沢藩の財政を立て直すめどを立てられるかどうかやと思います。」
弥吉と宗衛門の考えは、一致していた。
「何か名案でも・・。」
勝介が、弥吉に尋ねた。
「藩主 上杉実典様は、酒田の本間様に財政で支援を受け、ここまで乗りきってきたと聞いてます。もし、本間家が、我々が商う米沢の芒硝だけではなく、絹や米の流通経路開拓を助けてくれたら、米沢藩は財政的には立ち直るのでは・・。」
弥吉は、自分の考えてきた解決方法をみんなに披露した。
「酒田の本間家と言えば、わしらの店より大きい商いをしてる北前船の豪商やないか。いわば、日本一の商家・・。そんな商人に話を持っていったら、大前屋が、本間家の使い走りになりかねん。この際、芒硝だけ取り扱って、とりあえず、右衛門様の言われた通りに、従っていたらええんでないか・・。」
喜一郎は、宗衛門に何か言われるのを覚悟で、そう発言した。
しかし、宗衛門は、喜一郎が自分の考えを遠慮せず、あえて弥吉の考えに自分なりの考えを言ったことに満足した。
「喜一郎の言うことにも一理ある。話し合いはこのへんにしとこか・・。商売は、その場の判断で、即断が肝心や。喜一郎、米沢へ行って、様子を見てこい。事態が動いたら、相談はいらん、お前の判断で動いてええから・・。弥吉は、荘内へ行って、右衛門様に会って、喜一郎と二人で自由に決めなはれ。失敗しても、それはそれで商売の勉強と思うて・・。大前屋は、これからは二人の肩にかかっておるのや。わしは、これ以上口は出さん・・。」
宗衛門に全面的に任されたことで、喜一郎も弥吉も大いに満足した。
二人は、新たな商売の開拓に、少しずつ気持ちが高まっていったのである。
(米沢藩)
米沢藩藩士 大森平九郎は、決断を迫られていた。
「皆、藩主様引退願いの血判状に血判お願いしたい。かねてから、皆には知らせた通り、月が代わる来月初日に、藩主実典様の引退を、一同うちそろって登城し、迫るつもりだ。この米沢藩は、藩主 上杉実典様の改革にはついて行けぬことは明らか・・。我ら武士の身分でありながら、世間は我らのことを「武士百姓」と呼ぶほど、武士としての誇りまで地に落ちてしまった。これも、実典様の性急な改革に皆がついていけない証ではないか。皆で主君をお諫することこそ、家臣の勤め・・。もし、藩主 実典様がお聞き届けにならない場合は、我ら一同、力ずくでも従ってもらおうではないか。よろしいかな!」
清原清十郎の語調は、激しかった。
米沢藩の飯島尚江(清原側近、剣術指南役)の道場に集められた五十名あまりの反藩主派の一同は、床に正座し、神妙に清原の檄を聞いていた。
清原の檄を飛ばす話が終わった後、大きな「藩主引退願い」と書かれた半紙が、集まった連中の先頭に渡されると、次々と鯉口を切って指を刃に当て、血を指に染めては、藩士達の血判が押されていく。後ろで正座していた米沢平九郎は、緊張のあまり途切れながらふっと息を吐いた。
「本当に、私はこのような大事に加わって大丈夫なのだろうか。」
彼は、心の中で何度もそう繰り返していたのである。
平九郎は、今の自分の境遇に満足している訳では決してなかった。そんな時、清原が家臣を一つにまとめ、状況の打破を唱えだしたのだ。自分も彼の行動に参加したら、今の自分のみじめな生活に終止符が打てるかもしれないと、最初は喜んで清原の一派に加わった。
しかし、よくよく考えてみれば、今の藩主が代わったところで、米沢藩の財政が好転するなど、到底考えられない。そもそも、藩の窮状を招いた一因は、元藩主の財政を顧みない贅沢にあったのである。その元藩主の長男上杉正虎様が、次期藩主に推挙されようとしているのである。彼は今更ながら、清原の運動に疑問を感じ始めていた。
「大丈夫なのかな・・・。」
横に座っていた同僚の梅本弥三郎が、平九郎の顔を不安げに覗き込んだ。彼は、弘前小野道場で一緒に剣の修行をしていたころからの親友であった。清原の藩主追い落とし運動は、ほぼ米沢藩の武士全員が参加していた。なにも、みんながもろ手を挙げて清原に酔心していたわけではない。このような片田舎で武士集団として暮らしていくためには、大勢が決したような行動に、一人や二人で異を唱えることなど、考えも及ばないことであった。
そんな理由で、弥三郎にしても平九郎にしても、自分の信念が固まらないうちに、今日この様に血判を押す羽目になったのである。
「本来、武士が藩主に物申すということは、死を覚悟することだ。」と、平九郎は考えていた。しかし、この場の雰囲気は、まるでみんなが清原の思惑を追認するかのように、何の抵抗も意見もなく、淡々と血判が押されていくのであった。
「弥三郎、おまえ、素直に押すのか。」
平九郎は、弥三郎の不安な表情を覗いながら、そっと小声で尋ねてみた。
「ここまで来たら仕方あるまい。しかし、我が殿もお可哀そうだな。あれだけ自ら質素倹約に努め、皆の範をたれながら・・・。その苦労をよそに、我らの反旗は耐え難い屈辱だろうな・・。」
この場に及んで、弥三郎は藩主に同情した。
「馬鹿!今この場で何ということを言うんだ。他の者に聞こえたら、斬り殺されるぞ!」
平九郎はそう言うと、おずおずと辺りを見回した。
みんな神妙な顔をして、次々と血判を押していった。
数日後、平九郎の家・・・
平九郎と弥三郎が、奥の座敷で腕を組んで、じっと座っている。
二人は、弘前道場で剣の修行に励んでいたころ指導を受けた白石利助から便りがあり、彼が米沢に用があって訪れるので二人に会いたいという内容であった。
清原の決起が迫って不安が募っていた彼らにとって、白石との面会は絶好の相談相手を得ることになった。平九郎の家は、外見である門構えや屋敷の敷地の広さは、謙信公以来の武士の格式に見合う規模であったが、家の内側は、見るからに貧乏暮らしを物語っていた。庭には野菜が植えられ、まるで畑であった。部屋の障子は、障子紙を買う金もないのか、ところどころ穴が空き、冬になればこの地の寒さに耐えられるのか、他人事ではあるが心配になった。畳は本来の井草の色を失い、黒くくすんでいた。
「参られました。」
平九郎の妻は、作法通り膝をつき、ぼろぼろの障子を開けると、白石の来訪を告げた。
廊下を元気よく踏み鳴らしながら、白石が平九郎の内儀の後ろから入ってきた。
内儀は、来客に一礼すると静かにさがっていった。
「二人とも元気にやっておったか・・。」
白石の元気な声を聴いた二人は、懐かしさもあって、顔の表情をめいっぱい緩めて、白石に頭を下げた。
「お懐かしく・・・。」
平九郎は、そう言うと、頭を上げて白石の顔を見た。
すると、少し遅れてまた廊下に足音が響いた。
入ってきたのは、小野忠成であった。
「これは、忠成様・・・。これはいったい・・。」
平九郎と弥三郎は、忠成の顔を見ると、予想もできない人物の訪問にすっかり驚いてしまい、もうそれ以上なんといっていいか言葉にもならなかった。
「実は、二人に頼みがあってなあ・・。(間を入れて、二人の顔をじっと見る)米沢にいる我が門弟を、この地の林泉寺に集めてくれんか・・。あくまで、わたしに会いに来る目的でな・・。」
忠成は、二人が彼の出現に驚いた表情であっけに取られているのを無視するかのように、二人に対面するように座り込むなり、そう切り出した。
時はさかのぼる・・・
忠成は米沢藩に白石と共に入って、藩主実典の屋敷を訪れた。実典は忠成の訪問を大いに喜び、結局、白石と忠成はその日以来実典の屋敷に滞在して、米沢藩の状況を、本橋源九郎(実典の家臣)から、遂次知らされることになったのである。それによると、忠成が滞在している間にも、状況が日々緊迫していることがひしひしと伝わってきた。そんな折、喜一郎が、実典の屋敷を訪ねてきて、忠成らと合流したのである。
「忠成様は、門弟たちにいつお会いするので・・。」
喜一郎が、忠成に尋ねた。
忠成と喜一郎は、共に大阪に住み、秋山正幸とも一緒になって、頻繁に居酒屋達磨に集まっては、世間話や色々な情報を伝え合う親しい仲だった。
「すでに便りは出して、明日会うつもりだ。」
忠成は、そう言うと、白石の顔を見た。
白石は、出された酒の盃を口にもっていこうとしたのをやめて、膳に盃を置くと、軽く頷いた。
「ところで、どのように説得なさるので・・・。お殿様のご家臣の情報によると、相手は血判までかわして、お城に乗り込まれると聞きましたが・・・。」
喜一郎が、そう言うと、同席していた藩主 上杉実典がため息をついて、
「考えてみれば、情けない話だ。家臣に裏切られ、右衛門殿のお仲間に助けを求めなければ、立ち行かんのだからなあ・・。」
と、しみじみとした声で言った。
「そう後ろ向きになられるな。右衛門がいたら、何を言っているんだ・・と叱責するかもしれませんぞ。」
忠成は、本当は、自分自身が実典にそう言いたかったのである。
喜一郎は、二人の会話を聞きながら、くすりと笑った。
「こんな藩主様を見たことありませんなあ・・。およそ藩主らしくない。もっとも、上杉様の旧友の右衛門様もご同様ですが・・。」
喜一郎がそう言うと、実典は頭を掻きながら、
「藩主と言っても、明日にはただの侍かもしれんからな。」
と言って、喜一郎の言葉に応じた。
実典の言葉に、誰も笑うものはいなかった。それ程、彼の言葉には、現実味があったのかもしれない。
「ところで、忠成様はどうやって門弟を藩主側に寝返らすつもりで・・。」
喜一郎が、やけに積極的にこの場にいる三人に話しかけた。
喜一郎には、そうしなければならない理由があった。父宗衛門は、商売の才覚においては、自分より弥吉を評価しているのは明らかだった。その父に認めてもらうためには、今度の一件でどうしても成功したかったのである。つまり、この騒動、藩主側勝利に導きたかったのである。今の喜一郎にとって、今度の騒動は、勝つか負けるかと割り切っていた。実典側が勝てば商売は成立し、負ければ、また弥吉に後れを取る。そういう意味で、喜一郎にとってこの一件は、自分の評価と直結していたのである。
「私は、侍としての義を解こうと思っておるのです。我ら門弟、一龍齋先生から剣の技だけを教えていただいたのではなく、人としての道も教えられました。今度の一件において、家臣が自分の窮状だけを理由に、主君を裏切るのは道に反しているということを、理をもって説明すれば、梅本や大森にしても分からぬはずはないと思うのです。」
白石利助の言葉に、不安を感じたのは、喜一郎だけではなかった。
実典にしても、忠成にしても、白石の説得力に疑問を持たずにはいられなかった。
第一、忠成にとって、父一龍齋は徳の高い親などと思ったことはなかったのである。剣においては、父の才能は認めるが、人としての道など教えてもらったこともなかったのである。
「それでは、生真面目すぎる・・。白石様のお言葉ですが、自分の一生がかかった大事に及んで、それでは人は動かんと思います。若いころならともかく、妻子供もある侍に、忠義に従えだけでは、殺生です・・。」
喜一郎の言葉を聞いた実典と忠成は、思わず白石の前で頷きそうになった。
「私も今度の一件では思うところがあり、損得なしで米沢に乗り込んできたんです。実は今、私の手伝い三人に五百両(計千五百両)持たせています。どうでしょう、この金、門弟方の説得に使ったら・・。」
喜一郎の言葉に、三人は驚いて、じっと黙ってしまった。
しばらくして、
「大前屋殿、なんとお礼を申したら・・。」
最初に、喜一郎の提案を受け入れたのは実典だった。
「喜一郎には、高い犠牲を払わすが、わしはその好意受けたいと思う。」
忠成は、そう言って白石の方を向き、喜一郎の金を受け取るように促した。
白石は、千五百両という金など見たこともなかった。
「どうだ、白石・・、おぬしがうんと言わねば・・。」
忠成が促した。
白石は、忠成にそう言われれば、喜一郎に礼を言うしかなかった。
(林泉寺)
林泉寺には、平九郎と弥三郎の必死の説得もあって、小野派一刀流門下生十名が集まった。
白石は、さっきから必死で、一龍齋の威を借りて、門下生に藩主派寝返りを説いてはいたが、一向に耳を傾ける様子がない。
次第に白石の額からは、汗がにじみ出て、焦りの様子が見て取れた。
「どうであろう。おぬしら、一龍齋先生の頼みと思って、主君への武士の義を通してくれんか・・。こうやって、小野派新頭首 小野忠成様もわざわざおいでになられておるのだ。小野派門弟として、忠成様の頼みに応えてくれんか・・・。」
話し終わった白石が、前の連中を見渡した。
一人として顔を上げている者はいなかった。
「白石、そのへんでよかろう。わしとて、集まってくれた小野派門下生に命を懸けて藩主派に寝返れとは、どうしても言えぬ。われらの頼みに応えてくれようが、そうでなかろうが、集まってくれた米沢藩士は、一龍齋先生の指導のもと共に鍛錬を受けたかけがえのない弟子たちだ・・。(しばらく沈黙して)いや、わしたちのために集まってくれただけでも礼を言う。この通りだ。」
そう言うと、忠成は、前に座った門下生に深々と頭を下げた。
「小野派頭首であられる忠成様の列席にも関わらず・・、(少し間が空き)われら、恩のある白石殿の頼みにも応えられません・・・。なれど、われらの差し迫った窮状をお察しくだされ・・。このまま家に帰っても、家族を食べさせる米櫃のことで、日々頭が一杯なのです。何も血気にはやって、清原殿の反乱に加わろうなどと思っている者は、この中には一人もござらん。ましてや、藩主上杉実典様に恨みなどござらんが、このままでは、われら一同、侍の誇りを捨てて、日々田を耕す百姓になるしかないのです。」
そう言うと、平九郎は、俯いて肩を震わせた。
あちこちから、嗚咽する声が、静まり返った寺の客間に響き渡った。
白石と忠成は、腕を組んで目を閉じたまま、悲痛な雰囲気をしばらくの間やり過ごした。
おもむろに、
「わしの友人で、尾張藩御用達大前屋店主 喜一郎が、藩主実典様のためにこの米沢に来ておってな・・。わしたちの頼みで米沢藩改革に手を貸してくれることになったのだ。おぬしらに、商人風情が・・と、見下すものがいるなら、ただいま即刻、ここから退席してくれ!(しばらくの沈黙の後)どうだ、一つ喜一郎の提案を聞いてくれんか・・。」
忠成は、そう言うと、門下生を見渡して、退席する者がいないのを確認すると、さっきから後ろで座る大前屋の手伝いに目で指図した。
門下生の前に、布に包まれた三十両が、喜一郎の手伝いによって置かれていった。
「私は商人ですから、忠成様や白石様のように、皆様に何かを言葉で説得などしようなどと、大それたことは思ってもいません。ただ、人にお願いするときは、形で表すしかできませんので、ご容赦のほどを・・・。(間をおいて)お武家様の窮状を聞かせてもらって、忠成様の頼みを聞いてもらう精いっぱいの解決策を用意させてもらいました。どうぞお受け取りください。(前を見て)なに、前の三十両は、忠成様からお弟子様たちへの配慮です。忠成様の御気性からして、困っている弟子を見て見ぬふりはできませんから・・。」
喜一郎がそう言うと、横にいた忠成が、喜一郎の方を向くことなく一礼した。
「皆、遠慮なく受け取れ!わしの依頼は関係ない。小野派の門弟が困っているのを黙って見過ごせば、小野派頭首として面目が立たん。われらは、おぬしらに言いたいことは全部言った。やれることも全部やった。今日は、わしのために集まってくれて、改めて礼を言う。」
忠成は、そう言うと、未練を吹っ切るように、まだ何も解決していないその場を、後も振り返らずさっさと退席した。
その後も、米沢藩士のざわめきは収まることがなかった。
「最後に、もう一つ、この大前屋殿は、藩主実典様のために尽くしてくれる仲間には、精いっぱいのことをするらしい。」
そう言うと、白石が忠成の後を追って、門下生を残したまま退出してしまった。
「私は、千二百両、藩主様にお味方になられる藩士様に用意してきました。その金の使い方は、ここにおられる小野派門下生の方々にお任せします。私の手伝いの者が、この寺で寝起きして対応することになっておりますので、お仲間になって下される米沢藩士がおられるならなら、いつでもおっしゃってください。」
喜一郎は、そう言うと、深々とお辞儀をして、誰の質問を受けることなく白石の退席に続いた。後に残されたのは、門下生と喜一郎の手伝いの商人だけだった。
その後、残った連中でどんな会話があったかは知らないが、手伝いの報告によると、全員金をもらって家に帰ったそうである。
別の座敷で、喜一郎、白石、忠成が座っている・・・
「手はず通り、金を置いてきましたが、どうなりますかな・・・。武士を金で買うと思われないには、忠成様と喜一郎殿の言う通り、あのやり方しかありますまい。」
白石は、自分たちの取った芝居がかった行動に、二人の知略の匂いを感じていた。
「うちの者の知らせでは、皆さまお金を持って帰ったようで・・。何人かは、素直に礼を言って帰ったそうで・・。」
喜一郎が、にやりとわらった。
「あとは、おそらく、城での直訴で、何人が寝返るかだ・・。場合によっては、何十人と斬りあわねばならんかもしれんなあ・・。」
忠成はそう言って、白石に、不気味に笑った。
「忠成様についてまいります。」
神妙な顔をして、白石がそう言った。
翌日、大森平九郎と梅本弥三郎が、忠成の頼みに従うことを知らせに来た。
(慎吾襲撃)
「何やら、人が騒がしいようだけど・・。お久、見てきて・・。どうも慎吾さんの家の近くらしいから。」
美津は、野次馬らしき人々が、慎吾と右衛門の宿のあたりにかけて行くのを見て、一緒に慎吾の宿に向かっていた女中の久にそう言った。
先日の慎吾と見回り組の若者との騒動は、慎吾への憎しみとなって、慎吾の災難の火種になっていた。
慎吾は、美津がやってくるのを一人宿で待っていた。最近、美津と慎吾は、人目も気にしなくなり、時には茶屋で、右衛門がいないときは、慎吾の宿まで美津が訪ねてくるようになったのである。慎吾と右衛門の寝起きする宿は、周りには呉服問屋や両替屋が軒を並べる大通りから路地を入った、通りの賑わいとは対照的な、昼間でも薄暗く人通りの少ない小さな一軒家であった。路地の突き当りの玄関の戸を引くと、二つばかり八畳程度の部屋があり、裏に回れば、勝手口から台所へ通じる木の引き戸、横には小窓がついていた。
有馬金八(庄内藩剣術指南役)率いる数名の侍が、二手に分かれて、慎吾のいる宿を裏と表から囲んだ。
引き戸を開ける音がする。
「美津か・・。少し待ってくれ!今行くから。」
慎吾の声がする。
表から土足で踏み込んだ有馬を含む刺客たちが、慎吾のいる部屋の障子戸をけ破った。
「キエ――」
凄まじい声を上げて、先頭の一人が慎吾めがけて斬り込んだ。
慎吾はそれに素早く反応して、自分の横に置いていた刀を抜くと、白刃を真上に振り上げるや否や、最初に斬り込んできた男を袈裟に斬って捨てた。
「うわーー」
首から胸にかけて斬られた男は、けたたましい声を上げて、血しぶきを上げなら、畳の上に倒れ込んだ。
その間、裏から同時に慎吾の部屋をめがけて斬り込もうとしていた二人目の男が、慎吾の背後のふすまをけ破って、慎吾の背に刀を振り下ろそうとした。しかし、慎吾は後ろに振り返ることもなく、最初の男を逆袈裟に斬った刀の軌道の連続で、背中を向けたまま、白刃で後方に円を描いた。
「ううー」
後ろから襲いかかった刺客の腹は、慎吾の刀の一撃を受けて、真っ赤な血で着物を染めていった。
休むことなく、前の三人目の侍が、慎吾めがけて刀を水平にしたまま、慎吾の腹をめがけて突進してきた。慎吾は、自分の刀を手から離し、突進してきた男から体を交わすと、そのまま後ろから斬りかかろうとしていた男の腹に、すでに差していた脇差をとっさに抜いて、後ろを向いたまま、男の腹に突き立て、壁に向かって自分の体もろとも寄り掛かった。腹に短剣を突き立てられた男は、慎吾の背中に寄り掛かり、死体となって動かなくなっていた。壁は、ペンキがバケツからまき散らされたかのように、真っ赤に染まっていった。
次の瞬間、短剣を刺客の腹から抜いた慎吾は、怒涛のように襲ってくる次の侍の振り下ろす刀を、短剣で受け止め、刃を交わしたまま押しに押した。相手の力に勝る慎吾の体が次第に壁から離れ、渾身の力で、受け止めた短剣でその男を前へ押しやった。
その男が、慎吾の前からもんどりうって後ろに倒れ込んだ次の瞬間、その動作を待っていたかのように、前が空いた慎吾の正面から、有馬の振り下ろした刀の一閃が、慎吾の体の上から下へ一直線に走った。慎吾は、その一撃を受けた反応として、有馬の体へ短剣を持ったまま、体ごと突進しようとした。だが、有馬の袈裟斬りで深手を負った体は、慎吾の自由にならなかった。そのまま、有馬の前に倒れ込んだのである。
その時、宿の表で、
「人殺しや!人殺しや!」
そう言って、大きな声で叫ぶ弥吉の姿があった。
「勝介!そこの金盥棒で叩け!」
弥助の指示を受けた番頭の勝介が、渾身の力で金盥をたたいた。
その騒ぎ声に驚いた刺客たちは、外の見張りと共に三人の死体を担ぎ上げ、裏の戸口から必死に逃げ出したのである。
「慎吾はん!しっかりせんかい! 勝介! 医者や、医者呼んで来い!」
弥吉にそう言われた勝介は、医者がどこにいるのかもわからず外に飛び出した。
「み つ・・・。」
慎吾は、虫の息になって、そう呟いた。
「しっかりせんかい。こんな傷で死んでたまるか!」
たまたま大阪から右衛門の宿を訪ねてきた弥吉は、血まみれになった慎吾の体を、腕でしっかり抱いていた。
一方、美津は・・・
女中が、息せき切って美津の所へ帰って来た。
「どうだった。」
美津が尋ねた時、女中の久の顔は、顔面蒼白になっていた。
「慎吾様が、賊に襲われて・・。」
そう言うと、久はわっと泣き出した。
「泣いてもわからないでしょ。慎吾さんは、御無事なの・・・。」
美津の顔も、真っ青になっていた。
「近くの人が言うには、おそらく斬り殺されたと・・・。」
久の言葉を聞いた美津は、辺りが真っ暗になり、そのまま気絶した。
「お嬢様!お嬢様!」
女中の久の声がむなしく響き、辺りから群衆が美津の周りを囲みだした。
(米沢藩城内)
藩士たちが続々と集まり、城の藩主謁見の広間は、清原を先頭に横には飯島(米沢藩剣術指南役)が座り、畳三畳ほどの間隔をあけて、大森平九郎、梅本弥三郎、それに白石利助(小野派指南役)、小野忠成が密かに藩士たちに紛れて、前列で頭を垂れて座っていた。藩主出席を待っている間、何とも言えない異様な雰囲気の中、各藩士たちがひそひそ話をする声で、広間は騒然としていた。
別間で・・・。
「いよいよだな・・。」
藩主 上杉実典はそう言うと、吸い込んだ息をふっと吹いた。
彼の前には、喜一郎がいた。
「これからは、小野忠成様にお任せすれば、すべて殿の意向通りに運ぶはずです。」
喜一郎が、実典を落ち着けようと、笑顔を見せてそう言った。
「そんなにうまくいくかどうか・・・。ただ、私もここまで来た以上、小野殿に任せるより、前に進む道はないと思っている。喜一郎殿には、ここまでの苦労、お礼の言いようもない。」
実典は、そう言うと、喜一郎に深々と頭を下げた。
「もったいない。殿様自身が、手前のような商人に、そのように頭をお下げになっていただければ、これまでの苦労が報われます。」
感激して、喜一郎も深々と頭を下げた。
喜一郎は内心、この勝負に勝算はあると思っていた。すでに、困窮した米沢藩士からの依頼で、用意していた千五百両はすべて使い果たし、足らない分は、大前屋の手形の形で、三千両に届こうとする信用貸しが乱発されていたのである。喜一郎にとっても、ひくに引けない大勝負の幕が開こうとしていた。
「武士も少し尊厳を保ってやれば、町人、百姓と同じだ。腹が減れば、飯を食わねば生きてはいけない。武士は食わねど、高楊枝・・など、本当に食い物がない時に言える武士の言葉ではないのだ。」と、右衛門がよく言っていた。
喜一郎は、今なぜか彼の言葉が、耳に残って離れなかった。
城内広間で・・・
「実典様御隠退、ここに集まった家臣一同の訴えであります。このうえは、実典様の御英断を持って、われら一同の願いをお聞き届けくださるよう・・・。」
清原はそう言うと、前に座る藩主上杉実典に深々と頭を下げた。同時に、飯島が、懐から出してきた「藩主引退願い」と書かれた半紙を自分の前に広げた。その半紙には、米沢藩士たちの血判状が、生々しい血の跡を残して連ねられていた。
すると突然、大森平九郎、続いて梅本弥三郎がいきなり立ち上がった。
「お待ちくだされ。その血判状、殿の御前に披露するなど、われら聞かされた覚えはございません。清原様は、われらの決意の印に血判を取るとおうされた。いわば、秘密の誓約書。その誓約書を、われらの主君の前に披露するとは・・・。それでは、余りにも殿がおかわいそうではありませんか。」
平九郎は、無我夢中で異を唱えた。
「わしも、大森殿と同意見です。藩の窮状に不満はあれ、殿には何の恨みもありません。そのやり方は、余りにも殿が・・。」
弥三郎の足は、がくがく震えていた。
「おぬしら、何の真似だ!この期に及んで・・。」
二人の反旗をひるがえした言動をじっと睨みつけて聞いていた飯島が、怒りを抑えきれず、
刀を抜いて二人に襲い掛かろうとした。
その時、平九郎の横で俯いて、じっとたたずんでいた忠成が、横に置かれた刀を取ると、右足を畳に踏ん張り、二人に襲い掛かろうとする飯島に、下段から上段へ向けて逆袈裟に振り上げた。
忠成の剣の一閃は、飯島の二人に振り下ろされようとする刀の速さより速く、あっという間に、飯島の体を下から上へと通り抜けていった。
次の瞬間、飯島の体から赤い鮮血が噴水のように湧き上がり、うめき声も上げることもできず畳に沈んだ。
忠成の刺殺を見届けた白石が、刀の束に手をやり、突然後ろを向いて、今にも誰かに斬りかかろうとする格好を取り、藩士たちの反撃を目で抑えた。
「方々、御不満があれば、この小野忠成が、今すぐお相手仕る!」
忠成は、藩士たちの方を見渡しながら、大声で群衆を威嚇した。
この光景を見ていた清原清十郎は、ただ茫然とその場に座って身動きができなくなった。
「清原清十郎!殿の御前でふとどき・・。早々に引っ立て!」
実典の傍で控えていた本橋源九郎(実典側近)が大声で叫ぶと、控えていた何人かの家臣が、清原の腕を後ろに回し、実典の前に頭を下にさせた。
この間、清原と共に登城した藩士たちの一人として異をとなえるものはいなかった。
藩主派の完勝であった。
「清原の腕は放してやれ。」
実典の命令が、藩主側近にとんだ。
「清原は、本来なら死罪を免れないところだが、この米沢藩は家臣同士で争いあう余裕などない状態だ。よって、蟄居謹慎を申し付ける。なお、これ以降、わしの藩政についてきてくれるなら、前に集まった藩士には、この騒動の一切の責任は問わぬ・・・。おぬしらの不満、わが心に留め置き、より皆の満足のいく藩政を提案する故、今日のところはこれにて解散!」
実典の言葉に、集まった藩士たちは、蜘蛛の子を散らすように解散した。清原も、藩主側近に従わされて、自分の屋敷で謹慎させられることになったのである。
(本間家屋敷)
慎吾の襲撃の詳細を調べていた本間家番頭の平蔵が、本間家頭首本間光秀が待っている光秀の部屋に駆け込んできた。
「わかったのか。」
光秀は、いきなり平蔵に尋ねた。
「はい、襲ったのは見回り組の連中です。」
平蔵は、急いでやって来たのか、まだ荒い息をしながら光秀に答えた。
「やはり・・。それで、酒田に平賀様と一緒にやってきていた浪人たちの素性は・・。」
光秀は、すでに斬られた浪人が、平賀とやってきた侍であることは知っていた。
「それが、旦那様もお会いになった年上の御浪人は、世間では右衛門と呼ばれる剣豪のようです。もう一人の斬られた本橋慎吾様は、薩摩示現流の使い手で、最近右衛門様に仕えるようになったそうです。あのお方、以前薩摩藩では、人斬り慎吾と言われて、かなり恐れられた侍のようです。」
平蔵の調べは、詳細に及んでいた。
「やはり、有名な侍だったのか・・。わしは、佐藤様に会った時、特に剣豪と言われるほどの威圧は感じ取れなかったが、膳の上に置かれた水差しが落ちそうになった時、あの方が受け止めた反応の素早さが、常人とは思えなかったのが気にはなってはいたのだ。」
光秀は、慎吾襲撃の内容がわかると、平蔵の方も向かず、じっと考え込むようになっていった。
「右衛門様のお仲間で、佐那河内四強と言われている小野派一刀流頭首 小野忠成様は、数日前に、米沢藩で藩主上杉実典様にお味方した剣の達人で、おそらく、右衛門様もあの騒動には深くかかわっているのではないかという情報が入っております。とにかく、武力(四強)、財力(大前屋)、権力(柳生義親、吉重)を持った、得体の知れない連中だと、報告が上がっています。」
平蔵の最後の米沢藩の説明は、光秀にもすでに耳に入っている内容だった。
「よくわかった。ご苦労だったな・・。少し考えたいので一人にしてくれるか。」
光秀は、今度起きた一連の騒動を自分なりに整理しようと、思考を巡らせていた。
「ところで、お嬢様のお具合は・・。」
慎吾の事件で、気絶してこの屋敷に担ぎ込まれた美津の情報は、医師から光秀だけに知らされるだけだっのだ。
「意識は戻ったが、ただ天井の一点を見て、ぼうっとしている。食事もとらないので衰弱しているのが、はた目にもわかるほどだ。」
光秀は、平蔵にそう言うと、悲しそうな顔をして目を閉じた。
「お可哀そうに・・・。」
平蔵はそう言うと、目に一杯涙を浮かべて、光秀のいる部屋から退席した。
(慎吾の宿)
一方、胸から腹にかけて、血のにじんだ晒に巻かれて、じっと目を閉じている慎吾を、右衛門と春が、枕もとでじっと様子を窺っている。
「もう二日にもなるけど、目も明けないし、触っても反応もないの・・。ひょっとしたら、このまま・・・。」
春は、そう言うと、涙を流して、右衛門の顔を見た。
右衛門は、刀を肩にかけ、腕を組んで、心配そうにじっと慎吾の様子を見ていた。
春は、慎吾が深手を負ってこの床に置かれてから、すぐに知らせを受けて看病にやってきている。右衛門がこの宿に帰ったのは、昨日であった。
弥吉は、事件後間もなく、春に慎吾を任せると、宗衛門の回診をしている蘭方医の西に慎吾の治療を頼むために、大坂へ向かった。また、米沢藩で藩主側勝利の知らせを受けた勝介は、喜一郎と連絡を取るために米沢に急行したのである。
二日間も寝ずに看病していた春を気遣い、右衛門は春を自分の家に帰した。
相変わらず、襲撃に備えて、肩に刀をもたせ、柱に背をつけている右衛門が、独り言のように・・
「慎吾、おまえ、誰かが襲っても、なんとかなると、たがをくくっていただろう・・・。
腕に覚えがある侍の悪い過信だ。わしにも覚えがあるが・・・。わしは、たとえ襲われて死ぬことがあっても、即座に生きる執着を捨てられる人間に、今まで憧れを抱いていたのかもしれん・・。だがな、お前には、そんな無鉄砲な男になってほしくないのだ。とにかく生きろ!後はそれからだ・・・。」
右衛門は、聞いていないと思われる慎吾に、なぜかそんな言葉をかけた。慎吾に、とにかく生きていてほしかったのである。
その時、
「先生、不覚を取りました・・。」
意識がなかった慎吾が、小さな声で右衛門に話しかけたのである。
右衛門は、思わず持っていた刀を横に置くと、慎吾の手を取った。
「慎吾、しっかりしろ!」
右衛門は、虫の息の慎吾に、無我夢中で声をかけた。
「先生、陽明が居たら、助かったかもしれませんね・・・。あいつは人を安心させる。面白い奴だ・・・。(しばらく間をおいて)美津に会いたいなあ・・・。」
慎吾は、そう言うと、深く息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。
それからしばらくの間、慎吾の意識は戻らなかった。
右衛門が、そっと慎吾の首に手をやった。首の血脈の定期的な鼓動は、慎吾がまだ死んでいないことを教えてくれた。
翌日、右衛門は平賀に来てもらった。
「大変なことになったものだ・・・。」
平賀は、明日にも米沢藩に藩主上杉実典を訪ねる準備をしていた。米沢藩で、再び実権を握った実典が、平賀に芒硝(下痢薬)の育成栽培の管理を任せたのである。
この結果は、平賀の勝負の勝ちであった。彼は実典にかけていた。仕事の依頼は素早く、米沢藩の財政再建は、平賀が芒硝を商品化して、大前屋が任された芒硝を流通網に一刻も早く乗せることであった。
「平賀殿は、米沢に行かれるので・・。」
右衛門が、聞いた。
「三か月で百両の仕事が舞い込みました。有難いことで・・。私は、右衛門殿とお仲間の手腕にかけていたのです。こんなにうまくいくとは・・。あなたにもお礼を言わねばなるまい。」
そう言って、平賀は右衛門に頭を下げた。
「今回は、大前屋の喜一郎と小野忠成の見事な策と行動が功を奏したのです。忠成や喜一郎に会ったら、私が感謝していたと伝えてください。私も米沢藩主 実典殿に面目が立ちました。」
右衛門は、忠成らの功績を素直に喜んだ。
「ところで、平田殿に来てもらったのは、慎吾のことで・・。」
右衛門のほころんだ顔が、いっぺんに真剣な顔になった。
「と言いますと・・。」
平賀は、右衛門の真剣な顔に、つられるように姿勢を正して、右衛門の言葉に耳を傾けた。
「このままでは、慎吾の傷口は癒着しないと思うのです。おそらく、放っておけば、出血がおさまらず、死を待つしか術がないのではと・・。」
右衛門の言葉に、平賀も同意見であった。
「私もそう思う。弥吉さんに会ったとき、大阪に医者を呼びに行くと言っていたが、恐らく、それまで慎吾殿は持ちますまい。」
平賀も長崎でいたころ、医学の知識を少しは学んでいた。
「わしは、西先生に助けられて、本島の先生の家にいたころ、よく先生の医学書を読んでいたのですが、今の慎吾には、傷口の縫合がどうしても必要かと・・。それも、一刻も早く・・。そこで相談なのですが、平賀殿なら縫合に必要な止血止めや消毒の薬をこの地で調達できる知識はおありかと思うのですが・・。」
右衛門は、乗り出すように、平賀に尋ねた。
「それは、できんでもない。わしは、薬草のことしか取り柄がない男ですからな。」
平賀の言葉には、右衛門の質問への自信のようなものがうかがわれた。
「平賀殿、慎吾の縫合を一刻も早くやりたいのですが、処置の道具と薬をそろえてくれませんか。」
右衛門は、真に迫った表情で平賀に依頼した。
「しかし、医者もいないのに誰が縫合を・・。わしはできませんぞ。」
そう言って、平賀が右衛門の顔見た時、誰がその役目を果たすのかがすぐに分かった。
右衛門は、並々ならぬ決意で、自分が慎吾にほどこす縫合のことを考えているようだった。
縫合の用意はそろった。平賀は、どうしてもそろわなかった傷口を縫う針の代わりに、畳の針を用意したのだった。
着物にたすきをかけた春は、しばらく前から湯を大量に沸かして、慎吾の体にほとばしる出血を拭う準備をしていた。
平賀は、晒しに焼酎をしみ込ませ、さっきから、少しづつ丁寧に慎吾の傷口の周りを拭っていた。そして、その晒しが傷に触れるたびに、慎吾の眉間にしわが寄る。
「平賀殿、血止めは・・。」
右衛門が確認した。
「慎吾殿の喉に無理やり流し込んだ。慎吾殿は、口はきかないが、すべてわかっているようです。」
平賀がそう答えた。すでに、慎吾は大量の酒を飲まされていた。縫合の準備ができた深夜から、慎吾の意識は確かにあったのである。
右衛門は、平賀と春に目を合わせた後、ふっと息を吐いた。
「慎吾、いったん死んでもらうぞ・・。」
右衛門はそう言うと、慎吾の首に腕を回して、次第に(柔道の寝技のように)落としていった。暴れる慎吾の足を、春が慌てて抑え込む。しばらくして、慎吾の体は動かなくなった。右衛門が、慎吾を完全に落としたのであった。すると、平賀が江戸から持参したエーテルをガーゼのような布にしみこませ慎吾の鼻の近くに持って行った。すると、慎吾の体は、まるで死体のように、完全に動かなくなった。
慎吾の体は、右衛門が針を体にさして縫うたびに、激しく痙攣した。春と平賀はそのたびに、慎吾の体を必死に押さえた。
どのぐらいたっただろうか、早朝の朝の光が小窓から差し込み始め、縫合を始めた暗がりの中の蝋燭の明かりがもう必要なくなったころに、慎吾の何針にも及ぶ縫合は終了したのだった。最後の針を抜いて、縫合のひもを結び終えた右衛門は、そのまま後ろへあお向けに寝転がってしまった。その顔は、汗でピカピカ光っていた。
「ようやったなあ・・。おぬし、ただ者ではないな。」
平賀が感嘆の言葉を右衛門にかけた。
「そりゃそうです・・。鬼の右衛門だものね・・。」
春がすかさず、平賀に応じた。
「勝手なことを言う女だ・・。気力も体力も使い果たして、冗談に笑えるほどの余裕は残っていないのだからな。」
そう言いながらも、右衛門の顔には、薄笑いが浮かんでいた。
その日以降、目に見えて慎吾の傷は回復していったのである。




