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右衛門シリーズ全編  作者: FZ
21/43

右衛門8-2

(月山神社)

慎吾は、先に月山神社にたどり着いて、後ろを振り向いた。ついてきているはずの美津の姿が見えない。

「どうしたのだ。美津の奴、どこかで休んでいるのかな・・。」

慎吾は、そう思って視線を上げて、遠くの方を凝視した。

小さな影のような美津の姿が、小さな塊のようになって一生懸命登ってきている。慎吾が見ているのに気付いたのだろう、大きく手を振って答えている。

「仕方のない奴だ。」

慎吾は、独り言を言いながら、一生懸命登ってくる美津を、愛おしいものを見る眼差しでじっと見ていた。


「自分だけさっさと登るのだもの・・。薄情なお方だこと・・。」

美津は、恨めしそうな口調で慎吾を責めたが、その言葉とは裏腹に、彼女の表情は登ってきた満足と、慎吾に追いつけた嬉しさで、生き生きとした表情をしていた。

「神社を参拝した後、裏手の高山植物を見に行くか。」

慎吾が、笑顔を見せながらそう言った。美津は、その言葉に素直に頷いた。


美津は、慎吾が合掌している横顔を見ながら、

「この人と決して離れないから・・。何があっても・・・。」

心の中でそう思うのであった。

「行くか。」

神の前で手を合わせる時は、息を止めて目を閉じる癖のある慎吾は、ふっと息を吐くと、にこにこしながら美津を見た。

「慎吾は、何を神様にお祈りしたの・・。」

美津が、ありきたりの質問をした。

「さあな。別に何も考えずに手を合わせていた。」

慎吾は、そう言うと、山の澄み切った青空を見た。

「私は、慎吾とこれからもずっといられますように、って・・。」

美津が、恥ずかしそうにうつむきながらそう言うと、

「そうか・・。」

慎吾は、照れたように返答すると、さっさと神社の裏側へ歩いて行った。


初夏の山の植物の小さな花びらは、色とりどりに咲き乱れ、この時しか表現できない命の輝きのように、一生懸命、山の大地に根を張っている。

美津が、ふと慎吾を見ると、いつもに増して優しそうな目で遠くの雲の行方を追っていた。

次の瞬間、美津の脳裏に、昨夜父親の本間光秀が言った言葉がよみがえった。


「美津も十八になる。嫁に行ってもおかしくない年だな。」

光秀の言葉に、庭の河鹿かじかの鳴き声に耳を傾けていた美津の顔が曇った。

「いきなり何を言い出すのです。私はまだ嫁になどいきません。」

美津が強い口調で、光秀の言葉に反応した。

「そうか、まだ嫁に行く気はないか・・・。」

光秀は、少し落胆したように言った。

彼は、商売ではかなり強引で、嵐に船を出すという危ない取引も何度かやってきた。そのせいか、使用人にはかなり厳しく、秀光の意に反するものは容赦なく切り捨てていった。半面、道理がある抗議には、寛容な一面もあった。つまり、彼は、商売の流儀にも、自分なりの正道を求めていたのである。

「旦那様には、ごまかしは効かない。」

それが、傍で使える番頭の口癖だった。

しかし、美津にだけは、どんなわがままにも小言ひとつ言わなかった。彼女が、秀光の年を取ってからできた子であることもあるが、もう一つ、美津の母親が美津のお産で命を落としてしまったことで、光秀は美津をいつも不憫ふびんに思っていたのである。

彼の耳には、すでに最近美津が勝手に家を空けて、侍女も伴わず夜遅くまで出かけることがある・・、という知らせも耳に入っていたが、そのことを咎めることもなく黙って美津の好きなようにさせていた。

「実は、庄内藩家老 浜本秀英様のご長男、浜本金之助殿とどうかというお話があってな・・。聞くところによると、なかなかの秀才で・・。我が家の格から言っても、見劣りはないし・・。」

秀光が、そう言って、美津をちらっと見た。

彼女は、一向に聞いている様子もなく。眉間にしわを寄せて、今にも癇癪かんしゃくを起こしかねない表情になっていた。

光秀は慌てて、

「まあ、このぐらいにしておこう・・・。」

そう言ったなり、こそこそと部屋を出て行ったのである。 


(あいびき茶屋)

丘の高台にある宿の小窓から見ると、港を行きかう北前船が、水面に白波をたてながら港を行き来していた。

美津と慎吾は、合いびき茶屋にいた。


二人は、布団の上で一緒に横たわったまま、ぼんやり外の鳥の声を聞いていた。

「実は、父上から結婚の話があったのです。」

美津がそう言うと、彼女の頭を置いていた慎吾の肩がピクリと動いた。

「それで・・・。」

慎吾は、冷静を装って、なるべく低い声で応じた。

「もちろんお断りしたけど・・。相手が庄内藩家老の御曹司だそうで、父上はがっかりしたようだったけどね。」

美津はそう言うと、体を反転して自分の方から慎吾の胸に手を回した。

「わしは、お前の父親に、お前を嫁にくれと言えるような身分ではないことは、分かっているだろう・・。お前にそう言われても、答えようがない。」

慎吾はそう言って、ため息をついた。

(しばらくお互い抱き合ったまま黙ってしまい、沈黙が続いた。)

美津は、意を決したように、

「私は決めたの・・・。どんなことがあっても慎吾さんから離れないと・・・。」

美津はそう言うと、慎吾の体にしがみついてきた。

「わしは、これからこの美津のためにどうすればいいのだろう・・。」

慎吾はそう思いながらも、美津の求めに応じるように、しっかりと彼女の体を抱きしめと、美津の愛情に応じるのだった。


(庄内藩家老 浜本の屋敷)

「少し待っていただけないでしょうか。美津がまだ嫁にいく気がないようなので・・・。

まことに結構なお話なのですが、本人の意思も考えてやらねば、幸せな結婚とは言えないと思いまして・・・。」

本間光秀は、庄内藩家老 浜本秀英の期待に反して、耳を疑うような返事をしたのだった。

まさか、家と家の間の婚儀で、本人の意向を尊重するなど、武家の世界で想像もしなかったことであった。浜本が企んだ政略結婚に齟齬そごが生じたのである。


庄内藩は、誰の目からも、羨まれるほど恵まれた藩であった。庄内平野は、全国有数の米どころであり、それにもまして、北前船で栄える酒田の港からの交易税は、他藩では比べ物にならないほどの副収入になったはずである。ところが、内情は三十万両という借財を本間家にしていたのである。

現在の酒井守貞が庄内藩主になってからというもの、すべての面において、藩の腐敗が始まった。藩主は、藩の治世を家老 浜本秀英に任せたまま、自分の贅沢におぼれ、それに合わせるかのように、家臣たちも身の丈以上の財政支出に無頓着になっていた。家老の浜本は、自分の蓄財にばかり熱心で、藩の台所事情にはあまり真剣でなかった。

「困ったら、本間家を頼ればいい。」そんな安易な気持ちが、この藩の上から下まで蔓延していたのである。そして、浜本は、そんな本間家を、なお一層自分の自由に操れる計画を進めていた。それは、本間光秀の娘である美津と自分の長男の婚儀であった。もし、この婚儀が成立すれば、本間家と浜本の家は血縁関係になる。ましてや、光秀が溺愛している美津を浜本の家に迎えいれれば、今後、本間光秀への頼み事は何の苦も無くできることになるのである。浜本にとって、この計略が成功すれば、本間の財力は、自分の懐に転がり込んでくるのも同然となると思っていた。


浜本の客間には、清原清十郎(米沢藩筆頭奉行)、飯島直江(米沢藩治安部隊頭目)、有馬金八(浜本の側近、庄内藩剣術指南役)が、顔を合わせた。

「芒硝の流通経路ですが・・・。本間様との交渉は進みましたか。」

清原が、そう言って、浜本の表情を窺った。

浜本は、昨夜の本間光秀からの言葉に気を取られ、自分の視点を欄間らんまに彫られた虎にあわせたまま、清原の問いに答えようとしなかった。

「殿、清原様が・・・。」

有馬が、そんな浜本を見て、清原への返答を促した。

「ご無礼。昨夜遅くまで考え事をしていて、寝ておりませんので・・。」

浜本がそう言い訳をした。清原は、明らかに不快な表情を見せた。

「本間様との交渉について清原様が・・・」

有馬が、清原の聞きたい内容を浜本に繰り返した。

「うまくいかん。」

浜本は、美津と息子との婚儀の件が余程気になっていたのか、又、ずれた返答をした。

「本間様は、米沢藩の下痢薬芒硝は扱わぬと・・・。」

じれた飯島が、口出しをした。

「いや、そのことは何も・・・。失礼、今日は体調がすぐれぬ。ともかく、もうしばらく待ってくだされ。折を見て、本間殿には話してみますから・・。」

浜本の言葉に、清原は明らかに不満を持っていた。

「当方としても、そうゆっくりとはできないので・・・。先日も江戸からやってきた平賀とか言う学者が、得体の知れない用心棒と米沢の山林を探っているようで・・。」

清原は、浜本をせかすようにそう言った。

「ほう、それは不気味ですなあ。よもや幕府の手の者では・・・。」

やっと普通の状態に戻った浜本が、聞き返した。

「その浪人二人、ただならぬ剣の使い手で・・。特に、年上の方は、目にも止まらぬ剣さばきで、あっという間に、われらが放った刺客の手首を測ったように負傷させました。平賀は、余程の剣客を雇ったと見えます。」

飯島は、その剣さばきを今でもまざまざと覚えていた。

「平賀とその浪人は、本間様に依頼されて、この地の植物調査をしているとのこと・・。

有馬殿は、何か奴らの情報をお持ちで・・。」

清原が、有馬の情報を頼った。

有馬は、庄内藩の秘密警察のような組織を浜本に任されていた。自分の門弟、下級藩士、やくざ者などを使って、密偵として酒田の街の情報を集め、家老 浜本に不満を持つ分子を取り締まっていたのである。

「ないこともない。何しろ派手な奴らで、その浪人たちは、春が経営する遊郭でよく遊んでいて、春が年上の浪人に夢中になっているとのもっぱら噂だ。更に、聞き捨てならん事だが、若い方の浪人は、本間家の美津殿といい仲になって、出会茶屋で何度も密会していると報告が入っておる。」

有馬の情報に一番驚いたのは、聞いた飯島より浜本だった。

「有馬!なぜすぐに、わしにそのことを報告せんのだ!」

浜本が、血相を変えて側近の有馬に詰め寄った。


浜本との協議の後、清原は自分の描いた計画に迷っていた。

「飯島、芒硝の流通は、藩主 実典様を追いやった後の方がいいかもしれんな。」

清原が、策略の変更を口にした。

「どうやらそのようで・・。浜本様は思ったほどあてにならず、おまけに平賀の一件もあり、藩を支配下に置いてから芒硝の方は進めた方が・・。今なら、実典様を引退させるのは、そう難しくないかと・・・。」

飯島は、そう言って、清原の方を見ると、にやりと笑った。

結局、この会合は何の進展もなく、右衛門と慎吾の情報で解散となった。ただ、彼らは、まだ、右衛門が何者であるかという情報を握っていなかったのである。



(春の遊郭「朱明楼」で・・・)

一方、米沢藩藩主 上杉実典と平賀は、右衛門より早く朱明楼に来て初対面の挨拶を終えて、右衛門たちを待っていた。

「先生は、芒硝の研究では、第一人者だと聞きましたが・・・。」

実典は、親しみを込めて、笑顔で平賀に尋ねた。

「第一人者かどうかはわかりませんが、長年、あの植物には関心があり、研究だけは怠らずにやってきました。」

平賀は、そう言って、藩主に向かって平伏した。

「先生、平伏だけはやめてくだされ。私は、今では形ばかりの藩主で、明日にもその座を追われる立場でして・・。まあそれはともかく、その芒硝、藩の財政を立て直すほどの価値があるので・・・。」

実典は、平賀と会った時から、芒硝という薬が藩にもたらす影響について、聞いてみたくてうずうずしていた。

「あの薬草の需要は、膨大です。何せ、江戸辺りでは、庶民は月に何度か下痢をするのが当たり前、そんなときに、その苦しみが解消できる薬があるとなると、飛ぶように売れるのは間違いありません。おそらく、藩で銀の鉱山が見つかったのに匹敵するのでは・・。ただし、群生した芒硝を、毎年計画的に採取しないと、すぐにその群生は枯渇してしまうでしょう。つまり、この薬は、その取扱いを熟知すれば半永久的に藩の財政の助けになると思います。」

平賀は、右衛門から米沢藩の実情を話されたときから、藩主に何とか取り入れば、思っていた以上に、芒硝で一儲けできるのではないかと期待を抱き始めていた。

「乗るか反るか、今回は米沢藩主側に近づいて、自分の価値を売り込めば、失敗続きの鉱山探しと、薬草探しに、一発逆転の目が出てきたのかもしれない。」

平賀はそんなことを考えながら、山師らしい発想で、米沢藩主との面会に大きな期待を抱いていた。そして、実典の藩での詳しい実情も考えずに、「米沢藩の芒硝を自由に扱える許可を手に入れられるかもしれない。」と期待に胸を膨らませていたのである。そんなこともあって、平賀は早くから春の経営する朱明楼にやってきていた。


一方、右衛門と慎吾は、二人の待つ朱明楼へ行く途中、厄介な襲撃に巻き込まれた。

「先生は、女のことで悩んだことはないのですか。」

慎吾は、美津との将来について真剣に考えていた。

しかし、右衛門は慎吾の問いかけに答えることなく、歩く速度を遅らせると、辺りの草むらをじっと見やっていた。

「慎吾、どうやら囲まれたらしい。」

右衛門がそう言うと、初めて慎吾は辺りの草むらを見渡した。周りには誰もいないが、右衛門が言った通り、周辺には異様な殺気が漂っていた。

「火縄があるようで・・・。」

人を斬る殺気を帯びた慎吾の声は、低かった。

「火縄で狙えると思っているとは、どうやらわしらの素性はわかっていないようだ。」

右衛門は、鳴門の海で銃に撃たれて以来、大小刀のつばに、小柄こずかをはさむ代わりに、殺傷能力のある鋭い刃物を仕込んでいたのである。

「今度は、殺してもいいので・・・。」

慎吾が、右衛門に確認する。

「今回は二度目だ。奴らも決死の覚悟だろう。仕方あるまい。ただ、殺法剣はやめとけ、

たまたま息の根が止まれば仕方がないが。」

右衛門がそう言うと、慎吾は右衛門の方も向かず、

「承知!」

と答えるなり、野獣の目になって刀の束に手をやった。


右衛門の投げた刃物が火縄の狙撃手に命中すると、断末魔のような叫び声が、辺りに響き渡った。それを機に、数人の侍が、脱兎だっとのごとく二人めがけて襲ってきた。

それを見るや否や、慎吾は刀を上段に構え、奇声を上げてその集団に突進していった。

勝敗は、火を見るより明らかだった。慎吾に襲われた侍は、次から次へと倒れていった。他方、違う方向に潜んでいた数人の男たちが右衛門の間合いに入った瞬間、稲妻が走ったかのように、刺客の周りで閃光が何度か通過した。すると、じっと立っていることができない案山子かかしのように、ばたばたと血しぶきをあげて人が倒れていったのである。その光景を見ていた後続隊は、あまりの凄まじさに戦意を失い、大声をあげて逃げ出したのであった。右衛門と慎吾の周りに倒れた侍たちは、身動き一つしていなかった。

「この死体、どうします。」

慎吾が、血糊のたっぷりついた白刃を肩に乗せて、右衛門の方に近づきながら、そう声をかけた。

「いずれ逃げた奴らが帰ってきて、運び去るだろう。人を襲う連中でやましくない奴らはいないからな。」

右衛門は、死闘の後の息遣いを整えようと、何度か大きく深呼吸をした。


程なく、右衛門と慎吾が朱名楼に到着した。

「遅かったですな。」

障子を開ける音に気付いた平賀が、右衛門と慎吾に声をかけた。

「来る途中、刺客に襲われました。」

右衛門は、隠すことなく正直に、実典と平賀に言った。

「おそらく、庄内藩の見回り隊でしょう。」

実典の伴をしてきていた本橋源九郎が、そう判断した。

源九郎の言葉は、右衛門にとって意外であった。彼は、以前襲った米沢藩の侍だと見当をつけていたのだ。

「そうか、以前の連中ではないのか。それで、その見回り隊とはどんな連中なので・・。」

右衛門が、源九郎に尋ねた。

「庄内藩家老 浜本秀英の側近で、庄内藩剣術指南役 有馬金八様が組織した秘密警備隊のような組織です。家老は、連中に、幕府のお庭番のような役割をさせているのです。」

源九郎は、自分の集めた情報から右衛門に分かってもらおうと、幕府の隠密を例に挙げて説明した。

「それにしても、奴らはなぜ決死の覚悟で、わしらを襲ったのか理解できんな・・・。」

右衛門は、浜本の跡取りと美津の婚儀については、まだ何も知らなかったのである。


「右衛門殿、我らへの協力、決心がつきましたか。」

襲撃という大事件にもかかわらず、死闘の顛末を聞こうともせず、実典の側近本橋源九郎が、右衛門に先日頼んだ実典への支援について話を切り出した。

「うん。その件について、平賀殿にもお話したのだが・・・。わしの仲間に、大前屋に廻船問屋を任されている弥吉という者がおる。もし策が上手くいって、薬草(芒硝)が上杉殿の自由になったなら、その商品の流通を弥吉に任せてもらえませんか。わしも正義の味方面して、危ない橋を渡るほど、お人よしにはなりたくないので・・・。」

右衛門は、そう言って、にやりと笑った。

「無論じゃ。こちらから、そのこと頼んでもいいぐらいだ。あの大前屋の息がかかった商人で、おぬしの仲間なら、断る理由がない。この通りじゃ・・。」

実典は、そう言って、右衛門に頭を下げた。

「待ってくだされ。これはうまくいったら、の話だ。上杉殿は楽観しすぎておられるようだ。それに、私は、平賀殿にはまだ協力の承諾はもらっておらん。平賀殿が受けなければ、この計画、わしだけではどうにもならん。」

右衛門は、そう言って、平賀の顔を見た。

「私は、さっきから上杉様に言っていた通り、乗り気ですよ。ただ、右衛門様にも打ち明けたように、私には幕府へこの地で起こったことの顛末を報告する義務があります。これは、嘘は報告できません。発覚すれば、わしの首が飛びますからなあ・・。」

平賀は、そう言って、腕を組むと深いため息をついた。

正直言うと、平賀は何度か幕府に嘘の報告をしてきた。もし自分が見つけた鉱山や薬草が金になりそうなら、幕府に嘘を報告することに躊躇をしなかったのである。何せ、彼は、乗るか反るかの人生を歩んできた冒険家なのである。そこいらの学者とは肝の据わり方が違っていた。


彼らが、話をしているときに、春がお菓子と茶を下女に運ばせ、彼らが囲む大きな膳の上に置き始めた。

「皆さん、難しそうな顔をして・・。何か、重要なお話でも・・。」

春は、右衛門の横に座ると、まるで自分が彼の女であることを、集まった連中に認めさせるかのように、右衛門の着物の肩にあった小さなごみを親指と人差し指でつまんで、

「こんな草が着物についていましたよ。右衛門様は、ここに来る前に何をなさっていたのですか・・。」

と言って、右衛門の顔を覗き込んで、笑顔を見せた。

右衛門は、恥ずかしそうにうつむいたまま、春の振る舞いをやり過ごそうと黙っていた。

「先生は、刺客に襲われまして、三人ばかり斬りました。わしも仕方ないので、三人ばかり・・。」

慎吾は、いきなりそう言うと、からかうような目で春を見た。

「また冗談を・・。」

春はそう言うと、からからと笑い始めた。

しかし、その言葉を冗談と思ったのは春だけだった。

春は、改めて平賀や実典の顔を確認した。みんな笑っていなかった。

「ほんと・・。」

春はそう言うと、改めて右衛門の顔を覗き込んだ。

「もう春さんに言ったほうがいいのでは・・。」

平賀が、ぽつりとそう言った。

「佐藤様は、元見能林藩藩主で、ここにおられる米沢藩主上杉様とお友達ということは、すでにお殿様から聞いていますよ。」

春はそう言って、改めてみんなの顔を見た。みんな黙って、何も言わない。

「他に何かあるの・・。」

春が改めて、誰に聞くでもなく呟いた。

「わしは、鬼の右衛門と呼ばれている剣豪らしい。自分のことを鬼などとは思っていないが・・。それに剣豪などという肩書は、いたって迷惑な言われようだけどな。」

右衛門は、そう言って、自分からすべて明かした。

「・・・」

春は、初めて右衛門の素性を知って、この世で死をかけて果し合いをする人間が、目の前にいることを改めて実感した。しかも、その男を好きになり、どんどん深みに入っていくのを止められない自分を、むしろ喜んでいるもう一人の自分がいるのである。

「私は、それでも右衛門が好きだから・・・。そんなこと少しも気にならないからね。」

春は、みんながいるのに、そのことを無視して、無邪気に自分の気持ちを宣言した。


余りにも率直で、大胆な春の宣言に、皆は開いた口が閉まらなかった。

春のこういう一面が、女の可愛さにつながっているのかもしれない。

しかし、この場では、何とも言えない雰囲気をかもしだし、不自然な沈黙が続いた。

やっと実典が口を開いた。

「よ・・よかったではないか。佐藤殿は、昔から女には好かれるほうだが、雪殿にぞっこんで、他の女の良さが分からなかったが、やっと春が来たようだ。文字通り、春さんがな・・・。」

実典は、我ながらうまく言えたと、自己満足に浸った。だが、

「殿、少しはしゃぎすぎでは・・・。」

さすがに、藩主にあるまじき言動に、源九郎が苦言を呈した。しかし、

「いや、さすがは米沢藩主様、場を和ますのがうまい。また、言い方がおつですなあ・・。」

平賀が、その場の何とも言えない雰囲気を茶化すことで、実典の軽い言葉を肯定した。

「先生もわしと同じだ・・・。」

慎吾が、いきなりぽつりとそう言って、せっかく春の突飛な言葉を埋め合わせようとした実典と平賀の努力の邪魔をした。


源九郎は、諦めたようにため息をついた後で、

「ところで、平賀様の幕府の件ですが・・・。」

と、今までの、どう言いつくろえればいいのかわからないような会話が、まるでなかったかのように、春が入ってくる前の本題に戻そうとした。

「そう、それじゃ。」

実典が、すぐに源九郎の話に乗った。

「ところで、平賀殿に米沢藩の薬草について報告を求めている幕臣とはどなたなのです。」

源九郎が、平賀に聞いた。

春は、いきなり難しそうな話題になって、物足りなそうに座の後ろで座っていた。

「ここだけのお話として内密にお願いできますか。」

平賀がもたいぶった。

「大目付の秋山正直様が、家臣を通して、私に報告するようにとお命じになったのです。」

平賀は、困ったような顔はしているが、内心、それ程、幕府への報告のことなど気にしていなかった。ただ、米沢藩に自分を高く売り込むなら幕府の影をちらつかせたほうがいいと思っていただけなのである。

「それなら、さほど心配せずとも、右衛門殿に任せればいい。」

実典は、ほっとしたようにそう言った。

「といいますと・・。」

源九郎が、不思議そうに自分の主人を見た。

「今さっき話題になった右衛門殿の妻雪殿は、秋山正直様の妹じゃ。右衛門殿も、おそらく秋山正直様とは昵懇じっこんの中、右衛門殿に頼めば何とかなるのでは・・。のう、右衛門殿。」

実典は、一つの難問が解決しそうなのでほっとして、右衛門の顔を見た。

するといきなり、春が実典に質問した。

「殿様、右衛門様の妻 雪様は、私よりおきれいなのでしょうね。」

そういって、笑顔を見せながら、実典の顔を見た。

「江戸で何度かお目にかかったが、きれいな人だったなあ。しかし、春さんも負けてないと思うが・・。」

実典のその言葉に、何やらあたりの雰囲気が大いに落ち着いた。その一瞬までは・・・。

「ただ、雪殿には、春さんにはない、なんともいえない気品があったな・・・。」

実典が、ぽつりと爆弾のような言葉を吐いた。

「わしは小便に言ってくる。」(右衛門)

「わたしも・・。」(慎吾)

「わしは、少し腹の具合が悪くなったので、幕府の方は右衛門様にお願いするとして・・。」(平賀)

「殿、ちと外で待っているものに菓子でも持ってまいります。」(源九郎)

残されたのは、実典と春だけだった。

その後、春と実典の間にどんな会話があったかは知らないが、それ以来、実典は春の顔を見ると目を伏せるようになった。



(右衛門の宿)

「ごめん!」

大阪から右衛門宿にやっとたどり着いた小野忠成が、大声を張り上げて応対を求めた。

出てきたのは、朝から右衛門と慎吾の宿に押しかけて、彼らの身の回りの掃除洗濯をしていた春であった。

「・・・。家を間違えたようだ。失礼。」

小袖を紐で結び、頭に手拭いを被った春を見た忠成が、玄関を出ようとした。

「忠成!どこへ行くのだ。おぬしは、家など間違えてないぞ。」

慌てて出てきた右衛門が、急いで忠成を引き留めた。


右衛門と忠成が、座敷で胡坐をかいて座っている。彼らの目の前には、春が出したお茶がまだ湯気を出している。

「おぬし、いつから・・・。」

忠成が、意味深なほほえみをたたえて、障子を閉めたばかりの春の方角を目で指示した。

「いや、成り行きでな。」

右衛門は、そう言って、なるべく平静を装おうとした。

「おぬしは、雪殿のことが忘れられんと思っていたが・・・。まあ、男というものは、おぬし以外もそんなものだ。おぬしも普通の男という訳だ・・。」

あまり冗談を言わない忠成が、やけに右衛門をからかった。

右衛門は、絶えるしかないと心に決めていた。

「ところで、わしの父小野一龍齋に何の頼みだ。」

さすがに、忠成はそうしつこく春のことでからかわなかった。もし、これが又五郎や正幸だったらと思うと、右衛門は考えただけで冷や汗が出た。

「米沢藩の実情は、手紙にしたためた通りだ。上杉殿とは昔の縁もあって、藩主辞退まで腹をくくった知り合いを見過ごすわけにはいかんのだ。それに、大前屋や弥吉にも興味のある話かもしれんと思ってな・・。ただ、今回は出した出資が戻ってこんかもしれんが・・。」

右衛門は、一龍齋への頼み事については、すぐに口にしなかった。

「大前屋と弥吉は、いつもと同じように、おぬしからの商売の提案には一言も文句は言わん。おぬしに会ったら、宗衛門殿自身が、いつでも荘内に参りますとのことだ。果たして、この地までたどり着けるかどうか知らんが・・・。」

忠成は、そう言って屈託なく笑った。

「ずいぶん社交的になったなあ・・。」

右衛門は昔の忠成のことを考えながら、忠成の話を聞いていた。

大阪の小野道場は、今や一龍齋の弘前藩道場よりはるかに大きい規模になっていた。最初のころは、ずいぶん大前屋が財政的支援をしていたようだが、今では三百人を超える門弟を抱える大阪でも有数の道場になっていたのである。

「ところで、おぬし一龍齋先生の門弟は、東北・北陸各地にかなり散らばっていると話したことがあるな。」

右衛門が、話の核心に入った。

「言っては何だが、小野一刀流は、北の地域では柳生をしのぐ勢力を誇るからな。」

控えめな忠成が、自慢した。

「米沢藩にもかなりの門弟が・・・。」

右衛門が、重ねて聞いた。

「もちろん、かなりの門弟がいるはずだ。詳しいことは、父に聞かねばわからぬが・・・。」

そこまで言った忠成が、はっとしたような顔をした。

「おぬし、米沢の反藩主の連中の切り崩しに、小野一刀流頭首 一龍齋の名を使う気か・・。」

右衛門の策略を理解した忠成が、右衛門に確認した。

「難しいか・・。」

右衛門は、半分諦めたように、そう呟いた。

「・・・。父次第だろうな。一龍齋が、門弟に頼むと言えば、無下には断れまい。ただ、父は偏屈だぞ。いくらわしが頼んでも、うんと言うかどうか・・・。ただ、おぬしの剣は、父にとって気にならぬはずがない。先の示現流薬士の果し合いも、とっくに耳に入っているはずだ。ましてや、わしや半兵衛のこともあるしな・・・。」

そう言って、忠成は苦笑いをした。

「とにかく、弘前に行って、一龍齋先生に会ってみたいのだが、協力願えるか。」

右衛門は、そう言って、頭を下げた。

「右衛門、わしはおぬしの仲間だぞ。ましてや、世間ではわしのことを四強と呼んでおる。断る訳があるまい。」

あの不愛想な忠成の言葉だけに、右衛門は、彼の言葉が身に染みた。



(弘前藩小野道場)

「お待たせした。」

そう言って、一龍齋が客間に案内させた右衛門に対応すべく、一言声をかけて入ってきた。

すでに、別間で右衛門の訪問の目的を大雑把に説明した忠成が、一龍齋に続いて入ってきた。右衛門は、武道家としての一龍齋に敬意を払い、手をついて平伏して彼を迎えた。

「お手をお上げくだされ。そのようにかしこまらなくても・・・。」

一龍齋は、そう言いながらも、右衛門の礼を尽くした態度に満足している様だった。

「この度は、先生に無理なお願いを頼みに参りました。」

右衛門はそう言うと、再度、深く頭を下げた。

「話は忠成からあらまし説明を受けました。米沢藩にいるわしの門弟を、藩主 上杉様のお味方になるよう説得して、藩主に反旗を翻した清原清十郎(米沢藩筆頭奉行)なるものを裏切れということでしたな。」

一龍齋が、忠成が話した内容で、右衛門に確認をとった。

「まことに勝手なお願いなのですが、昔の友の難儀を放っておくこともできず・・・。」

右衛門は、実典を友への友情という理由で、自分の動いた動機を正当化しようとした。

「忠成の説明では、大前屋の商売に便宜を図るのも動機と聞きましたが・・・。」

一龍齋は、そう言って、初めて右衛門の方をしっかりと見た。

「この男には、人を威圧するような迫力がない。剣豪としての凄みも感じられない。それでいて、世に名をはせた剣豪を次々と倒していく。いったい何がこの男には備わっているのだろうか・・・。」

一龍齋は、右衛門という男のことを片時も忘れたことはなかった。もし、右衛門に会ったら、必ず自分はその威圧に圧倒され、その呪縛を断ち切るために、必死に戦わなければならないのだろうと思っていた。彼は、右衛門に得体のしれない魔力があると想像することで、忠成や半兵衛が敗れたことを、仕方がないと諦められると思っていたのである。

ところが、目の前に現れたその男は、あまりにも物腰が柔らかく、自分への礼儀もわきまえていた。つまり、彼は、右衛門との対面に拍子抜けしたのである。

一方、右衛門は自分の言った言葉が、必ずしも正直な動機でなかったことがばれて、少し焦っていた。その様子は、一龍齋にとって、なお一層自分が想像していた右衛門とは違って見えた。

「申し訳ありません。つい立て前に走りまして・・。本当の所は、先生が言った通り、自分の利を考えての米沢藩主への協力でして・・・。忠成殿が言った通りなのです。申し訳ありません。」

右衛門は、額に汗をかきながら、一龍齋に再度頭を下げた。

「右衛門殿は、面白いお方だ。まるで、子供のように狼狽ろうばいする・・・。あなたが、世で噂される鬼の右衛門だとは、とても想像がつきませんなあ・・。」

一龍齋は、そう言うと、今まで自分が描いていた右衛門のイメージを一掃せねば、この男とは、話が進まないと自覚し始めていた。

「面白い男だ・・。いったいこの男の剣の強さは、どこから来るのだろうか・・。」

いつの間にか、一龍齋は、違った意味で右衛門に興味を持ち始めていた。


「少し待たれよ。」

そう言って、二人を残して一龍齋は座を外した。

すると、忠成がくすくす笑い始めた。

「何がおかしいのだ。」

右衛門が、少し不服そうな顔をして、忠成の笑いをただした。

「いや、父は、おぬしがただならぬ剣豪の風格をしていると思っていたのだろう。わしは、父の表情をずっと見ていたが、明らかに拍子抜けしたような顔をしていたぞ。」

そう言って、忠成は笑い続けた。

「そう言われても、わしはわし以外にはなれんからな・・・。先生には期待に沿えなくてすまんことをしたが・・。」

右衛門は、内心「何が悪いのだ。ほっておいてくれ。」と思った。

「それでいいのだ。父は、おぬしの魅力が分かっておらんのだ。又五郎や私のようにな・・。」

忠成が、そう言ったところで、障子が開き、一龍齋が刀剣を二振り、両手に持って現れた。

「これは、おぬしに・・・。」

一龍齋は、そう言って、忠成に一振り差し出した。

「これは・・・。」

忠成は、驚いて顔をして、改めて父の顔を見た。小野一刀流伝承者が受け継ぐ刀剣だったのである。一龍齋は、頷いて、

「お前に小野派一刀流頭首の座を譲ることにした。その代わり、わしを大坂へ連れていけ。この地の道場の指南役は、白石利助、それに大阪からおぬしの推薦人を一人師範代として迎える。文句はなかろう・・。」

そう言って、一龍齋は忠成をじっと見た。

「私も、右衛門の依頼を受けた時、父上を大坂にお招きしようと思っていました。喜んで小野派一刀流頭首の座、お受けいたします。頭首継承の刀、有難く・・。」

忠成はそう言うと、両手で刀を頭の上にあげ、一礼した。

「さて、右衛門殿、この刀はおぬしにしんぜよう。」

そう言って、一龍齋は右衛門に残りの一振りを差し出した。

「よろしいので・・。」

右衛門は、恐縮した様子もなくさっと受け取ると、刀を見聞すべくさっと抜くと、白刃をじっと見つめ始めた。

「これは、無名の同田貫どうたぬきだ。おぬしならこの刀、どう使う。」

一龍齋は、じっと白刃を見つめている右衛門に、にこにこしながらそう問いただした。

「難しい質問ですなあ・・・。ただ、この刀、何とも言えない魅力がある。本当にいただけるので・・・。」

右衛門はそう言って、一龍齋の顔を見て確認した。

一龍齋は、うんと頷き、

「ただし、これから、道場で、わしとこの刀で立ち会ってほしい。さすれば、おぬしが持ち込んだ頼み事にも応じよう。」

一龍齋の目が、いつの間にか真剣になっていた。

「しかし、父上、それは余りにも無謀な提案かと・・。」

忠成が、二人の会話に割って入った。

しかし、一龍齋は忠成の言葉に耳を貸さず、

「右衛門殿、まさか、嫌とは言うまいな・・・。我が道場の四天王と言いわれた二人を破り、この道場に参られた以上、わしの試合に応じないは、非礼の極みですぞ・・。」

その表情は、先程の柔和な顔から一変していた。

「仕方あるまい。」

右衛門はそう思い。応諾の一礼を一龍齋に向かってするしかなかった。


(道場で・・)

一龍齋は、眼光鋭く右衛門の動作を見つめている。

二人は、間合いぎりぎりの距離で対峙した。

一龍齋は、刀を鞘に納めて鯉口こいくちを切り、必殺の抜刀の機会をうかがっている。

一方、右衛門は、同田貫どうたぬきを抜いた白刃を肩において、二人の位置の真ん中を中心として同じ円周上に自分の位置を保とうとした。そして、一龍齋が動けば、これに合わせて同じだけ弧を描いて同じ位置関係を維持した。

道場は、門弟で溢れかえっていたにもかかわらず、水を打ったように静まり返っている。

ただ、道場の端で二人の死闘をじっと見つめている忠成の傍だけは、誰も門弟がいなかった。

しばらくして、右衛門が円周の内側に片足を踏み入れて一龍齋を誘った。

一龍齋は、あえて右衛門の誘いに乗って、

「えい!」

と、凄まじい声を上げて抜刀すると、右衛門の胴を素早く払おうとした。

しかし、今にも右衛門の体に白刃が達しようとした瞬間、右衛門の同田貫が、一龍齋の刃の軌跡を切断するように垂直に振り下ろされた。その一撃は、忠成の視覚にも軌跡としてとらえられない程速かった。

キーーン。

二つの刀が交差するとき、金属製の激しい音をたて火花が散った。

次の瞬間、道場の静寂は、どよめきに変わっていった。

一龍齋の刀の刃は、右衛門の同田貫どうたぬきに真二つに割られ、彼の右手には、刃が折れて短くなった刀しか残っていなかった。

「さすがだ・・・。わしはこれで気持ちよく引退できる。・・・右衛門殿、忠成の相談役として、・・・息子を支えてくれんか。」

一龍齋の呼吸は激しく乱れ、このことを言うのにも、何度も声が途切れるほどだった。

「何もできませんが、私でよければ喜んで・・。」

右衛門はそう言うと、改めて、一龍齋に頭を下げた。

一龍齋の往生際おうじょうぎわの良さに、忠成は苦笑するしかなかった。一龍齋は、弟子たちの前で華々しく散る自分の姿を、右衛門を使って見事にやり遂げたのだった。

一龍齋は、すでに自分の体力的な限界を悟っていた。右衛門は、そんな父にとって、飛んで火にいる夏の虫だったのかもしれない。

「ひょっとして、真の勝者は親父殿だったのかもしれんな・・。」

忠成は、そう思って苦笑したのである。

一龍齋が、試合を終えて忠成の前を通り過ぎる時、

「見かけによらず恐ろしい男だ、右衛門は・・・。お前や又五郎が奴に付いて行くのもわかるような気がする。奴には可愛げというものがある。それはまあいい・・。これでわしも孫の顔を見ながら余生が送れそうだ。」

小声でそう言うと、何も言わなかったように、いかめしい顔をして道場を離れた。

その後ろ姿を見ながら、忠成はただただ苦笑するばかりだった。



(慎吾と美津)

高い葦の草をかき分けて少し進むと、川のほとりに出た。

慎吾と美津は、葦が土手を歩く人の視線を遮るこの場所で、よく一緒に座って話をするのだった。川の流れは穏やかで、もう少し下ると、この川は海へと流れ込んでいくのである。朝の川面は光で反射し、辺りの生き物に生きるエネルギーを与えているようだった。


「それで、その陽明という子、どうなったの。」

美津は、結末が知りたくて、慎吾に早く言ってくれるように促した。

「エゲレスの富豪と一緒に、エゲレスに行ってしまったよ。なんでも、天文学とか数学を学ぶためにな。それがどんな学問か、わしにはよくわからんが。」

慎吾はそう言うと、近くにあった小石を川のほとりに投げ込んだ。

「へえ、面白い子ね。わたしもそんな遠くでなくても、どこかこことは違うところへ行ってみたいな。慎吾と一緒に・・・。」

美津はそう言うと、慎吾の顔を真剣なまなざしで見つめた。

「お前のようなお嬢様が遠くへ行って、どうやって暮らすんだ。お前は、本当の貧乏暮らしがどんなにつらいかわかっていない。だからそんな気楽なことが言えるんだ。」

慎吾は、少し年上のような口をきいた(実は、二人は同い年だった)。

「じゃあ、慎吾はそんなに貧乏を知っているの・・。」

美津が言い返した。

「わしの家は、侍とはいえ三十石取りの貧乏武士の家だ。おふくろはいつも、着物の仕立てで裁縫をしていた。親父は、城の務めが終わると畑を耕し、休みの日には、朝早くから釣りに行くんだ。断っておくが、親父の釣りは、我が家の子供たちの腹を満たすための生活が懸かった釣りだったんだ。親父の魚籠びくの中が空っぽの日は、水のような粥を親子八人で啜って、空腹を忘れるために暗がりになると、布団に潜り込んで一刻も早く寝ようとするんだ。そのみじめさを、お前は耐えられるはずがない。」

慎吾のその言葉に、美津は言い返す言葉もなかった。

「ああ、先生や陽明はいいな。いつも、おてんとうさまから与えられた才能で、思いっきり自分の自由な生き方をしている。陽明は、誰も理解できない計算をして、いつも机に向かって楽しんでいる。先生は、向かうところ敵なしの剣で、誰からも好かれて、おまけに大前屋や弥吉が欲しいだけの金を出す。わしなら湯水のように使うのに、先生はいつも古い小袖を通し、つぎはぎだらけの袴を着けて、何の文句もないかのように淡々と生きている。あれは、わしが思うに、欲しければいつでも手に入るから、貧乏もどきを楽しんでいるんだ。ないことの自由をな・・・。それが証拠に、二人は、自分たちが悲惨な目にあうなど考えたこともなく生きてきたんだ。そうに、違いない・・。そこがわしの生き方とは違うんだ。だから、先生といることが、たまらなく楽しい。」

慎吾は、いつしか右衛門と陽明の生き方を分析していた。

「今の話を聞いていると、慎吾さんは先生が一番好きみたいね・・・。私より・・。」

美津は、右衛門に嫉妬するようにそう言った。

「ところが、今、わしは、そんなあこがれている先生より大事な女に出会ってしまった。

だから、苦しいんだ。今の自分の環境は壊したくない。それでいて、お前と一緒にずっといたい。どこか、お前と二人きりで行ってしまいたい。何だろうな、俺という人間は・・。」

慎吾のその言葉は、美津の心臓を止めてしまいそうな口説き言葉になっていた。

美津は、思わず慎吾の腕に自分の腕を絡めて、そっと慎吾の肩に自分の頭を置いた。


二人が帰る途中、事件が起きた。

「お前、この辺の人間ではないな。」

慎吾と美津が、川沿いの土手を歩いていると、前からやって来た四人ほどの若者の一人が慎吾に絡んできた。

「朝っぱらから女と散歩とは、結構な身分だな・・。我ら有馬(庄内藩剣術指南役)様の配下の者だが、問いただしたいことが有る。少し付き合ってもらおうか。おぬしも、我ら見回り組のことは知っておろう。」

最初に声をかけた男が、慎吾に詰め寄った。残りの連中は、その男の強引な態度を後ろから擁護するように、にやにや笑いながら道を塞ぐように横に散らばった。

胴着を結んだ竹刀を肩にかけていることから、四人は道場の朝稽古の帰りだというこは、誰の目にも判断できた。

「後ろにさがっていろ。」

慎吾はそう言って、美津を彼らから遠ざけた。

その言葉を聞いた見回り組の連中は、慎吾が四人に挑んでくるのだと判断し、刀の束に手をやるもの、鯉口を切ってすぐに抜刀の準備に入るもの・・。それぞれが慎吾の攻撃に備えようとした。

慎吾は、刀を抜くと、下段に構え、大きく深呼吸をすると、まるで狼のように四人の中に突進したかと思うと、次々と相手の侍を倒していった。彼にとって下段の構えは、人を殺す剣法ではなかった。ある者は、太ももを、ある者は肋骨辺りを、まるで剃刀が体の一部をかすめていったかのように、相手の皮膚を切り裂いただけの負傷を負わせた。慎吾と連中の間には、そんな剣さばきができるほど技量の差があった。

「おぬし等、相手を見て喧嘩をしろ!」

慎吾は、そう言うと、うずくまりうめき声をあげる若者たちに、それ以上注意も払わず、後ろでたたずむ美津に戻ってくるようにと声をかけた。

美津は、全身で体を躍動させて、慎吾に駆け寄り、彼の胸に飛び込んだ。

「やっぱり、慎吾は並みの侍とは違うんだ!」

美津はそう言って、思い切り彼の体にしがみついてきた。

慎吾は、美津のはじけんばかりの喜びの表現に戸惑いながら、必死に彼女を支えていた。


この事件、美津にとっては胸のすくような結末に終わった。

しかし、この事件が二人にどんな災難の火種になるか、予想もしていなかった。


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