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右衛門シリーズ全編  作者: FZ
20/43

右衛門8-1


右衛門8

右衛門が、本橋慎吾を共に江戸にいる平賀源平を訪ねたのは、年も迫った師走近くであった。

「よう来てくださった。陽明さんは、エギリスへ行きましたか。私らには思いもつかん冒険ですなあ・・・。私も四国高松藩を脱藩して、こうやって自分の好きなように生きていますけど、あの坊ちゃんには、かないませんなあ。」

平賀は右衛門の訪問がよほどうれしかったのだろうか、絶えず上機嫌で二人に話しかけた。

そして、平賀がふと慎吾に笑顔を見せた。

「申し遅れましたが、これは本橋慎吾と言いまして、示現流の使い手です。縁あって、私と一緒に江戸まで何の目的もなくふらふらやってきました。」

右衛門は、そう言うと、茶目っ気のある笑顔を見せた。

「人間、目的なく動くときが一番幸せです。私なども、結局は誰にも縛られない自由な日々を過ごすことに憧れて、こうやってさまよっているようなもので・・・。おかげで、女房ももらえませんがな。」

平賀はそう言うと、なお一層大きな声で笑った。

「ずいぶん調子のよさそうな男だ。」

慎吾は、派手な小袖に、しゃれた髷を結った平賀のなりを、時折、ちらりと見ては、何やら自分とは違う世界の人間に出会っているような気になっていた。


平賀の家には、友人をもてなす部屋があった。彼は、独身で人恋しいところがあるのか、誰かが訪ねてくれるのを人一倍喜ぶのである。

右衛門と慎吾が案内された部屋も平賀の趣味だろうか、壁には一面に植物の絵が張られていて、こまめに掃除をするようで、畳や行灯はごみひとつなかった。座敷には、水差しと煙草盆が置かれ、さらに親切なことに、片隅には数冊の浮世草子まで積まれていた。

「今夜はゆっくりお休みくだされ。私が言ったことのお返事は、明日また伺いますから・・。

それでは、お休みなされませ。」

平賀は、そう言うと、障子を静かに閉めて、女人のような足運びで、廊下を静かに滑るように去っていった。

「あああ、疲れた。先生は本当にあのお方と庄内まで行くつもりですか。第一、薬草探しなど知識もないでしょうに・・。」

右衛門は、慎吾が「先生」言うたびに、なんだか違和感を感じたが、他にどう呼ばれると言っても「右衛門」と呼ばれるしかなく、慎吾に、敬称をつけて「右衛門」などと呼ばれるのも少し抵抗があった。それに、今ではその名を呼ばれるだけで、人の視線が気になり、仕方なく「先生」と呼ばれても反論しなくなった。

「慎吾は、平賀殿が招待された本間光秀という名を知らないか。」

右衛門は、押し入れから布団を出しながら、慎吾に尋ねた。

「さあ、私はあまり物知りではなく。薩摩以外のことは余り関心もなく、見聞きしたことを知識にしていないので・・。」

慎吾が正直に答えた。

「庄内藩酒田港と言えば、北前船最大の寄港地なのだ。本田家は、その地で群を抜いた商いを誇る大商人だ。本田光秀というお方は、商人でありながら、先祖は高貴な出身で、奥州藤原の末裔ともいわれているのだ。更に、庄内藩でも三百石の家禄をもらい、上級武士でもある。庄内藩の財政は、本間の援助なしではやってはいけないと言われるほどの富豪なのだ。」

そう言いながら、布団を敷き終わった右衛門は、布団にごろりと仰向けになり、腕を頭の下に組んでじっと天井を見ていた。

「それじゃあ先生、大前屋とどちらが大きい大店おおだななので・・・。」

興味を持ち始めた慎吾が、寝たまま横を向き、右衛門に尋ねた。

「詳しいことは知らんが。大前屋は純粋の商売人だ。しかし、本間の家は、いつも社会に対して大義名分を掲げていて、苦しい民を救うことで自分達にも利益がもたらされるという、実に立派な先祖の家訓があるらしい。これは同じ東北の弘前藩で育った忠成(四強)から聞いた受け売りだけどな。しかし、忠成にも知られる家訓というのは、それだけで本間という家の東北での影響の大きさがうかがえる。」

そう言いながら、右衛門は旅の疲れもあって、眠気が襲ってくるのを覚えた。

「もしかして、先生は、また大前屋と組んで何か企んでいるのでは・・・。」

そう言って、慎吾が右衛門の顔を見た時、彼はすでに大きないびきをかいて寝ていた。



(庄内藩の居酒屋)

右衛門達は、平賀の提案を受け入れ、はるばる庄内藩までやってきたのだった。

季節は冬が終わり、ようやくこの北国にも春の訪れを思わせる緑の息吹が顔を出し始めたころになりつつあった。しかし、南国育ちの三人にとって、荘内の寒さは身に染みていた。

「酒を二三本追加でもってきてくだされ。」

彼らの宿の近くの居酒屋に陣取った平賀、右衛門、慎吾は、横におかれた手あぶり(火箸)に手をかざしながら、さっきからちびりちびりと熱燗を呑んでいた。右衛門は、それ程酒は好きではなかったが、体の内から暖かい感覚を取り戻すには、熱燗が一番手っ取り早いと思って、平賀に勧められるままに注がれる盃をあおっていた。

「しかし、寒いですなあ。周りの連中は、あんな薄着で平気で料理を食らっていますが、私には到底真似ができませんわ・・。」

平賀は、そう言って、にこりと笑った。

慎吾は、平賀の言葉に注意も払わず、さっきから手酌で酒の量を重ねていた。

さすがに薩摩人らしく、酒には相当強いのがすぐわかる飲み方である。

「本橋さんは、酒が強いですなあ・・。さっきからもう五合は飲んでいますからな・・。この分だと、一升ぐらいは軽くいきそうですなあ・・。」

平賀が、慎吾の方を向いてそう言った。

慎吾は、さっきから向こうの座敷で座っている三人の客に気を取られていた。その中の主人らしき若い女は、酒というより、むしろこの居酒屋の料理と雰囲気が目当てで来ているのではないかと思われた。残りの二人は、主人に誘われ、いやいややってきている様で、さっきから周囲を見ながら、一刻も早くここから逃げ出したいと思っている雰囲気だった。


しばらくすると、案の定、彼らの前に侍風の男三人が近寄ってきた。人の気持ちとは不思議なもので、こうなりたくないと思えば思うほど、その気持ちが表に出るものかもしれない。主人に誘われて(慎吾の想像だが・・)いやいややってきた、番頭と女中らしき二人の警戒心は、かえって人の目には、誘惑を与える材料になるのかもしれない。

「どこのお女中か知らぬが、どうじゃ、我らと合流して酒を飲まんか・・。」

話しかけた男は、主人らしき女の方をじっと見ながら、そう誘った。

しかし、その若い女は、話しかけた男に何の反応を示すでもなく、視線も合わさず、前に置かれた酒の盃を口に運んだ。

その光景を見ていた慎吾がにやりと笑った。

「随分、度胸の据わった女だ。よく見ると、この辺の田舎の娘とは一味違う、どことなく垢ぬけた、どこかの大店の娘のようだな・・・。」

慎吾は、このように自分の想像で、目の前の状況に一つの物語を作る癖があった。しかし、彼の想像は、生来の観察力の鋭い能力に裏打ちされ、やけに的中するのである。彼のこの時の咄嗟とっさの判断もまた、的中した事実であった。

「この女、わしの言葉が聞こえんのか!町人の分際で・・。ことと次第によっては、このままでは引き下がれんぞ!」

余程、度量の小さい侍だろうか、その女の態度に血相を変えて怒り始めたのである。

横で見ている仲間の二人の侍は、友の騒ぎに興味を示し、さっきからその状況をじっと見ながら笑みをたたえていた。

「お侍様、今日のところはこれでご勘弁を・・。」

女に付き添ってきた商人風の男はそう言うと、男の袖にそっと小判を持った手を差し入れた。その侍は、金を差し入れた男の所作を確認すると、機嫌を取り直して、

「何も、わしは脅しをかけた覚えはないが、そのように下手に出られれば、振り上げたこぶしも降ろさねばなるまい。」

そう言って、その場から一歩引きさがろうとした。

収まらないのが、その状況を見ていた残り二人の侍である。

「おい。わしらには何もないのか。こうやって、何の脅しもせず、じっと見過ごしていたわしらにも、なにがしかのお礼があってもよかろう・・。」

うまい汁を味わいそこなった二人の男が、最初の男と交代するように、若い女の付き添いの男に金をせびってきた。

「おやめなさい。こういう輩に金をやれば、ろくなことはない・・・。番頭さん、放っておきなさい。これ以上脅したら、番所へ訴えますよ!」

そう言うと、その若い女は、挑むようにその侍たちを睨んだ。

「この女!」

三人の侍は、女の言葉に逆上して怒りに震えていた。

女の付き添いの女中と番頭は顔面蒼白になり、事を治める手段を失って、放心状態になった。その時、その状況を見ていた慎吾が、座っていた膝を立てて騒動の中に向かおうとした。辺りは、この騒動に飲まれてしまって静まり返っている。

「慎吾。騒動の仲裁は止めんが、人は殺すなよ!」

右衛門の発した言葉が、静まり返った居酒屋に響き渡った。

「はあ。」

慎吾は、右衛門の方を向いてそう答えると、まっすぐ視線を若い女のいる座敷に向けた。


「どうする。おぬし等、わしは一人、おぬしらは三人・・。数ではおぬしらに利がある。かかってくるか。」

若い女の座敷に近づいた慎吾が、三人の男にそう声をかけた。

さっきから、右衛門が慎吾にかけた言葉を聞いていた侍たちは、挑む気持ちより恐れる気持ちで、争う前に勝負を決していたのである。

三人の侍の一人が、恐怖に耐えられなくなって、大きな叫び声をあげて店から逃げ出した。

後は総崩れである。残った二人も、見られているという恥も外聞もかなぐり捨てて、喜んで道化師役を買って出て、店を一目散で逃げ出した。

拍子抜けしたのは慎吾である。その光景をあっけに取られて見ながら、

「あ奴、袖に金を入れたまま逃げよった・・・。抜け目のない奴だ。」

そう言って、照れ笑いをした。

その言葉に、笑いをこらえられなくなった居酒屋の客たちは、堰を切ったように笑い出し、居酒屋の中は、しばらくの間、笑いのるつぼとなったのである。



(遊郭)

若い女のお供できた番頭は、慎吾のお陰で難を逃れた。その後、番頭は、三人が自分の主人である本間光秀の依頼で庄内藩を訪れた旅人だと分かると、助けてもらったお礼と平賀の歓迎を兼ねて、居酒屋では三人をさんざんもてなした。そして、若い女と侍女が去った後も、三人が庄内へ来たばかりで、この地で宿を探していると聞くと、わざわざ自分が会計を任された遊郭まで連れてきたのである。


「私は、このような場所は苦手でしてな・・。」

平賀はそう言うと、右衛門と慎吾を残して逃げるようにその場を去った。

実を言うと、平賀は女には興味を示さない性格だった。番頭はそのことを察していたのか、無理に平賀を引き留めることもせず、黙って彼の後姿を見送った。

「ところで、お前といたあの若い女は何者なのだ。」

右衛門が、酔った口調で番頭に聞いた。

寒さをしのごうと、あまり好きでもない酒を慎吾と同じように飲んでしまった右衛門は、相当酩酊している様であった。

「それは、ご容赦のほどを・・・。何せ、あのお嬢様は、型破りな行動がお好きで、手前どもなど、お供をするたびに何度大変な思いをしたことか。今日も、あなた様方がいなければ、私が旦那様に叱られるところでした。本当にありがとうございました。ところで、私を呼ぶときは、平蔵と呼んでくだされ。」

その男は、そう言うと、右衛門に軽く頭を下げた。

「しかし、あの女、美しい女だったなあ・・・。」

慎吾も、右衛門ほどではないものの、異国にいる解放感で、いつもより飲みすぎて酔いがまわっている様子だった。

平蔵は慎吾の言葉には何も答えず、にやりと笑って頭を下げた。そして、それ以上若い女のことには触れてほしくないように、困った表情を浮かべた。


「この方たちは、うちのお嬢様を助けてくださった恩人でしてな・・・。今夜は、私の気持ちでもてなしたいのです。春様、後はよろしく頼みます。」

平蔵は、そう言うと、意味ありげな笑いを浮かべて、その場を立ち去った。

平蔵にそう言われた女主人は、一見、近寄りがたい冷たい雰囲気を持った、色の白い女だった。


夜も更けて・・・

右衛門は布団の心地よい温みを感じながら、夜中にふとぼんやり目を覚ました。辺りは真っ暗であったが、何とも言えない欲情をそそる女の柔らかな体の感触は、自分がどこにいるのかもわからない孤独な不安を、そっと包み込んでくれた。不思議と、自分と肌を合わせて横に寝ている女が誰なのかを知りたいなどとは少しも思わなかった。右衛門は、初めて出会った男と女が、ふとした偶然で深い関係を結んで、一夜限りの愛情を感じるのも悪くないと思っていたかもしれない。

「寒いなあ・・。」

右衛門はそう言うと、まるで寒さを癒すかのように、横に寝ている女の体を引き寄せた。

その女は、ただ黙ったまま、右衛門の動作に逆らうこともなく、自然に任せるかのように右衛門に引き寄せられた。

「この女、商売女とは少し違っているな・・。」

右衛門は、女の反応に少し驚きながらも、しんしんと冷える北国の寒さの厳しさを紛らすかのように、二人の体で温めあう満足を体で感じていた。


次の朝・・・

その女は、右衛門が想像していたより美しかった。

肌の色は抜けるように白く、時折、鋭い目で相手を観察した。女の視線は、見られた相手をどきっとさせるほど威圧的で、人の心を見透かしているのではないかと疑いたくなる程、冷徹な眼差しだった。しかし、それとは対照的に、何か自分が興味を感じたものに対して一生懸命見入る姿は、子供のように無垢で、他人の視線に無防備であった。その眼差しの豹変は、男を虜にする魅力があった。もっとも、男というものは、美しい女のどんな仕草にも、魅力を感じる生き物かもしれない。そして、春を見ている右衛門も、その例外ではないのだろう。そんな女がふとした時、優しい笑顔を見せると、心がとろけそうになって、吸い寄せられるのである。右衛門は、昔、妻の雪に抱いていた感情を、この女によって呼び覚まされたような気がした。


「お前、わしが暗闇で想像していたよりずっと美人だな。」

右衛門は、布団の中で腕枕をしながら、じっと女を見ていた。

女は布団から抜け出し、着物を着ながら、そっと右衛門の表情を窺った。

「あなた様も、(一緒に寝る前より)思った以上に強そうなお方でしたわ。顔だけ見ていると、優しそうで、女の人には好かれそうですけど・・・。その刀傷を見たら、なんだかお顔まで不気味なお方に見えてきました。」

春は、そう言って、改めて右衛門の体中の傷を思い浮かべているようだった。

「そうか、嫌われてしまったなあ・・。」

右衛門は、そう言って、屈託なく笑った。

「いえ、そのようなことは・・。」

春が、むきになって否定した。

春は、体を男に売ることで、これまで生きてきた。

「そうするより仕方なかった。」と自分では、ある意味、割り切って生きてきたのである。

そして、いつの間にか遊郭では一番の売れっ子となり、今の旦那に見染められ、この遊郭を任されるほどなった。見方によっては、遊郭の女としては頂点を極めたのかもしれない。

そんな春が、昨夜、右衛門を見た時、「この男と寝てみたい。」と、言いようのない欲情を感じたのである。こんなことは春にとって初めてだった。

春は、「自分から男に愛されてみたいなど、感じるはずがない。」と思い込んでいた。

その思いは、遊女になってから、自分を支えてきた誇りのようなものでもあった。

「身を売っても心は売らない。」そう考えることで、いつもどこかで自分を抱いた男達に、優位に立てるような気がしていたのである。

それが、右衛門を見た瞬間、自分の固い信念に亀裂が入ってしまったのである。


「この男は、誰かを思い続けて私を抱いている。」

春は、直感でそう思った。

この男の愛しいものを追い求めて、愛情を素直にさらけ出そうとする情欲には、今まで春が経験した男達とは少し違った何かがあった。それは、自分の肉体に対する欲望だけではない、相手への愛情が込められていた。そして、春は、自分がその愛情に抵抗もできずに誘い込まれていくのを、抑えることができなかったのである。

「なぜこの男は、一夜限りの女に愛情を抱くのか・・・。私は、知らない女の身代わりに抱かれているのじゃないのだろうか・・・。」

春は、なぜか、目に見えないこの男の愛する女に嫉妬していたのである。

そして、「この男を、私の虜にしてみせる。」と思いながらも、その意志とは裏腹に、不覚にも自分の方から右衛門への情欲にのめり込んでいったのである。


今、春の心は動揺していた。彼女は、右衛門にかすかな愛情を感じている自分に気づき始めた。

「春か、いい名前だ。これからこの地にも春が来る。そんなときに、お前のような女に巡り合えるなど思ってもみなかった。わしにも運が向いてきたようだな・・。」

右衛門はそう言って、何の駆け引きもせずに、大きな声で笑った。

「不思議な人ですね・・・。」

笑っている右衛門を見ながら、春はぽつりとそう言った。

「もしかしたら、昨夜のこの人に抱いた嫉妬は、私の勘違いだったのかもしれない。」

春は、着物に着替えて、まだ床にいる右衛門の横に座って、そんなことを考えていた。

「あなた、好きで、好きでどうしようもない人がいるでしょう。」

春は、右衛門をからかうようにそう言った。

「ああ、そんな女がいる。」

右衛門がそう言ったとき、一瞬、春の心に嫉妬心が再び芽生えた。

「そうだと思った。私の勘は鋭いでしょう。」

春はそう言いながら、鋭い目で、右衛門を見た。

「だが、もう死んでしまったが・・。わしの女房殿は・・。」

右衛門はそう言うと、本当に悲しそうな表情を浮かべ、一瞬、うつむいた。

「わたしが、あなたの奥さんの代わりをしてあげようか。」

初々しい娘のような自分の言葉に、春は自分ながら驚いた。

「やめとけ!わしなんぞにかかわっても、何の得にもならないから・・・。」

右衛門はそう言うと、女の会話を打ち切ろうと、布団をはねのけようとした。

「嘘じゃ、ないったら!」

いきなり春はそう言うと、右衛門に抱きついてきた。彼女の中で、何かが変わり始めていた。今までの生きる信念まで溶解しそうな熱い気持ちが、湧き上がってきたのである。



(平賀の宿)

平蔵が、平賀の滞在する宿に駆け込んできた。

「お二人は、まだ遊郭にいるようですなあ・・。」

平蔵の顔が、浮かぬ表情を浮かべている。

「あんたが連れて行ったんでしょう。それを今更・・・。」

平賀は、植物図鑑に熱心に目を通しながら、五平の方には振り向きもせず、そう言った。

「それはそうですが・・。もう三日もい続けているようでしてなあ・・。」

平蔵は、平賀の言葉に反論するかのようにそう言った。

「遊郭で、三日ぐらい過ごしても不思議ではないでしょう。」

平賀はそう言うと、初めて平蔵の顔を見た。

「それはいいのですが・・・。今朝、ちょっと遊郭に立ち寄ったら、何と主人の春様が佐藤様のお相手をして、すっかり夢中になっているとのこと・・・。よりによって、旦那様の依頼でこの地に来られた方と・・・。あの春様が、あのように男に夢中になるとは、驚きました。」

平蔵は、真剣に悩んでいるようだった。

「その春とか言う女主人、何者なのです。」

平蔵の狼狽ぶりに、平賀は少々興味を示した。

「あの方は、私の主人の本間光秀様に見染められ、あの店をお与えになった旦那様のお気に入りの女でしてな。以前は、売れっ子の遊女でしたが、今は客を取ることはなく、旦那様の御相手だけで・・。他の誰にも手は付けられない方なのですが。」

五平が、言葉を選びながら、困った理由を説明した。

「しかし、本間様は相当のお年、よほどその春とか言う女将に入れ込んだものですなあ。

あっちの方は、ないでしょうに・・・。」

平賀は、そう言ってにやりと笑った。

「私などにはわかりませんが、旦那様のおっしゃるには、ただ見ているだけで飽きないそうで・・・。まあ、立派な盆栽のようなものなのでは・・・。」

平蔵が、まじめにそんなことを言ったので、平賀は思わず大きな声で笑い始めた。

「そうですか。途方もない金持ちというものは、我々下々の者には理解できませんなあ・・・。」

平賀は、そう言って、又、笑い始めた。

「そこで、平賀様にお願いですが・・。お二人を何とか遊郭から誘い出してくれませんか。遊郭の払いは私が、すべて始末しておきますから・・・。」

平蔵は、すがるように平賀に頼んだ。

「それは良いが、私が思うに、あの二人、私が男色好みであることを知っているようで・・・。

おそらく、そのこともあってあの遊郭で居座っておるかと・・・。どうです、番頭さん、お二人に一軒、宿を探してみては・・・。」

平賀は、何のためらいもなく自分の性癖を平蔵に話した。

「さすが、江戸の名の知れた学者だ。この地では言ってはいけないことでも、何のためらいもなく公言するとは、我々とは次元のちがうお方だ。」

平蔵は、平賀の言葉を聞いて、妙に感心するのであった。



(米沢藩)

米沢藩と言えば、上杉謙信以来の名門大名であるが、関ヶ原で石田方について、徳川の世になり米沢に封じ込められた外様大名であった。そんな過去の家臣団を抱えた米沢藩は、石高は十八万石とは言え、家臣の人数は大大名並みの規模であった。おのずから、藩は財政的にひっ迫し、おまけに今の藩主 上杉実典の前の藩主は、浪費家で贅沢を好み、藩の借金はどうしようもなく膨れ上がり、藩主が進んで藩を幕府に返上したいと願い出るほどひっ迫していた。

しかし、ここまでくれば、現藩主 上杉実典は、誰の遠慮もなく藩改革を実行できた。この 実典は、もともと小藩藩主の次男坊で、格から言えば、米沢藩の藩主になれる身分ではなかったが、今言ったように、この藩は見かけと実情が天と地ほど違っていた。米沢藩を維持し家臣を養うためには、それなりの才覚と頭脳明晰で、藩を改革できる人物でない限り、この藩の明日はなかったのである。そんな事情の中で、白羽の矢が立ったのが、世間でその才覚が噂されていた実典であった。

彼は、期待にたがわず、果敢に藩改革に取り組み、自らも質素倹約に努め、藩士たちにも節約を強いた。そのため、「米沢藩士は、武士というより百姓になり下がった。」などと、揶揄する他藩の藩士も少なくなかった。当然、米沢藩士の中には、実典の藩政に不満を抱き、藩主転覆のために暗躍する反藩主の抵抗集団も存在した。

その筆頭となり、藩士の反藩主の旗頭であったのが、米沢藩筆頭奉行 清原清十郎であった。

 

「お奉行は、藩主 実典様が最近頻繁に酒田の本間家に行かれていることを、把握しておられますか。」

清原の支持者であり、米沢藩士の武装集団の代表である飯島直江が、話を切り出した。 

清原の屋敷に、総勢十五名の藩士が集まった。皆、藩主 実典の改革に不満を募らせる飯島の道場に通う青年藩士である。

「どうせ借金の申し出でもしているのだろう。殿にとっては、本間殿は、藩政改革の一番の理解者だからなあ・・。本間殿がいなければ、今頃あの方は、とっくに藩主の座を追われているであろう。」   

清原は、そう言うと、嘲笑するような笑みを浮かべた。

「いずれにせよ、殿には藩主の座を降りてもらわねば・・・。今や、この藩では、武力衝突が起きれば、殿の味方をする武士などいますまい。清原様さえうんと言えば、われらはいつでも決起する覚悟です。そうなれば、明日にでも、あの方は藩主の座を上杉正虎様(先代藩主長男)にお譲りになりましょう。」

飯島の言葉に耳を傾けていた清原の表情には、余裕があった。

ただ、実典を藩主の座から追い落としても、この藩の財政的窮地を救える手段にはならないことは、清原も十分理解していた。


そんな折、一縷いちるの望みとなる情報が、清原のもとにもたらされたのである。

ここ米沢藩の山林に、広大な芒硝ぼうしょうの群生が見つかったのである。芒硝とは、赤痢・下痢止めに多大な効用がある薬草のことである。それが、「ぶつるいひんしつ」(平賀源平)の中で紹介され、薬に関係する商売人が血眼になって全国を調査していた。もちろん、幕府にとっても関心の対象であった。

この当時、衛生環境は現在とは比較にならないほど劣っていた。そのため、下痢は庶民にとって、日常茶飯事に苦しめられる体の異変であった。もし、赤痢・下痢が止められる薬草が見つかれば、米や絹にも優る商品になるのである。

もし、この芒硝がこの地で大量に採取され、藩主 実典や幕府に知られることなく流通経路が確立できれば、実典の追い落としはもちろん、次期藩主に代わっても、財政的心配は格段になくなるのであった。

「わしに策がある。飯島、決起はしばらく待て・・。決して、独断で動かぬように・・。」

清原はそう言うと、自宅に押しかけた青年藩士らを見渡して、自信の笑みを浮かべた。


一方、藩主 上杉実典は、この藩士たちの不穏な動きを察知していながら、一向に気にする気配もなかった。

「気に入らないならいつでもやめてやる。」藩主辞退の腹はくくっていたのである。

自らも、質素倹約に努め、只々米沢藩士のために改革にまい進してきた自分を追い落とすなら、いつでも追い落とせという覚悟は、常に心に秘められていた。

そんな実典が、今一番頼りにしているのが、酒田の本間家当主 本間光秀であった。

この本間光秀という人物、本間家家訓通り「世のため人のため・・・」という、まるで徳の塊のような方針を、まともに実践していた。ある意味、この国でも類を見ない程の徳のある商人であった。もちろん、このような治世を実践できるのは、先祖代々の途方もない土地を所有する大地主であり、何よりも北前船による交易で莫大な利益を上げている商人でもあったことが、徳を行える力の源泉であったことは言うまでもない。

「本間様にはお呼びもせぬが、せめてなりたや殿様に」という歌にまで歌われた、日本指折りの豪商であった。

今、そんな環境と事情の中、平賀と右衛門はこの北の地を訪れたのである。




(本間光秀の屋敷)

平賀と右衛門、慎吾が本間家に招かれたのは、右衛門と慎吾が自分たちの宿に移って、数日たった日のことであった。平賀はすでにこの地の植物を採取し、薬草などになる価値を調べていた。

「どうです、平賀先生、この地で何か面白いものが見つかりましたか。」

本間光秀が、穏やかな笑みを浮かべながら、平賀に聞いた。

「せっかくの本間様の依頼ですが、今のところは何も見つかっていません。この庄内平野には多種多様の植物が群生していますが、薬の効用となるような植物と言えば、今のところヨモギぐらいで、これでは商売にならないかと・・。」

平賀が、申し訳なさそうに本間に答えた。

この本間家の応接間は、西洋の丸いテーブルと椅子が並べられ、右衛門にとっては、まるで長崎にいた時、オランダの船室の中でのように、椅子に座ってお互いが話をしているのである。平賀にしても、慎吾にしても、すでに椅子とテーブルは珍しい家具でもなかったようである。慎吾は、本間と平賀の会話には興味がなさそうで、さっきからテーブルの上に出されたイナゴの佃煮を珍しそうに観察しながら、里芋の芋煮を箸でついては、この地の地酒と共に、何度か口に運んでいた。

「先生は、鉱山の方にも知識がおありとか・・。この地の山には、興味がおありでしょうか。」

少し失望した本間は、それでも執拗に平賀に、他の可能性を聞いてみた。

「私は以前、鉄の鉱脈を求めて出羽三山を歩き回った経験がありますが、望みはかないませんでした。もし鉱山が見つかったとして、本田様の財力を注ぎ込んでも、利益が上がる希望の鉱脈は見つかりますまい。むしろ、まだ成果は上がってないですが、この地の植物を調査するほうが、可能性があるかと・・・。」

平賀は、本間の質問に丁寧に答えた。

一方、本間の方は、平賀の言葉に耳を傾けながら、わざわざ江戸から有名な平賀源平を招聘した意味がなかったのではないかと思い始めていた。しばらくして、本間は吹っ切れたかのように、その話題から遠ざかり、慎吾と右衛門の方を見た。

テーブルに座っている右衛門の正面からは、手入れの行き届いた季節の趣を備えた庭が見え、塀に沿って植わった地蔵桜の紅色の花の隙間から、うっすら雪をかぶった出羽三山が、雄大にそびえているのが眺められた。

右衛門は、その景色をぼんやり眺めながら、なぜか遊郭でなじみになった春のことを思い浮かべていた。

「ところで、お二方は、娘の美津が厄介に巻き込まれたのを助けてくださったそうで、平賀様との話に夢中になり、お礼を言うのが遅くなりました。改めてこの通りです。」

本間はそう言うと、二人に向かって頭を下げた。

「やはり、本間殿のご息女でしたか。きれいな娘さんですなあ。」

右衛門が、社交辞令の言葉を選んで、本間に答えた。

「あの子は、私が年がいってできた子でしてな・・。ついつい、わがままに育ててしまい、あのような場所にも、家の目を盗んでは、出かけるようで・・。困ったものです。」

本間は、そう言いながらも、困った表情は見せていなかった。

余程、美津のことが可愛いのだろう。しかし、とうとう美津は、慎吾や右衛門の前には姿を見せることはなかった。慎吾にとって、そのことが心の中にぽっかりと隙間を開けて、その隙間を満たしてくれない不満を抱いて、本間の屋敷を後にした。



(米沢藩の芒硝)

平賀は、庄内平野を後にして、右衛門と慎吾を伴い米沢藩の山中に分け入った。

「この辺を調査する許可は、あるのですか。」

平賀の行動を不審に思った慎吾が、平賀に尋ねた。

この時初めて、平賀は、今回の旅が本間家の依頼以外に、幕府の内密の調査依頼があったことを、二人に打ち明けた。

「幕府の依頼は、誰が出したので・・・。」

右衛門は、そのことに驚きもせず、平賀に尋ねた。

「私には、直接の依頼相手は告げられませんでしたが、こんなことは今回だけではないのです。鉱山の調査や、今回のような植物の調査の依頼があれば、必ず幕府に秘密で届け出ることが義務づけられておりまして・・・。実を言うと、私がこうやって生活の心配をしないで、暮らしていけるのも幕府から決まって給与が与えられるおかげなのです。つまり、私のような名前だけは知られた学者も、所詮、何の支えもなければ、浮き草暮らしの浮浪人なのですよ・・。」

平賀は、すっかり打ち明けると、ほっとしたように薄笑いを浮かべた。

「なるほどなあ・・。」

右衛門は、平賀から打ち明けられて、納得したかのように頷いた。

慎吾は、そんな右衛門を見て、平賀を追求するのをやめることにした。

「それで、今は何を探しているので・・・。」

慎吾が、話題を変えた。

「米沢藩に、下痢止めの薬草(芒硝)が見つかったのでは・・、という情報が、私の知り合いから入りましてな。幕府に知らせたところ、折を見て調べよとのことで・・。たまたま本間家からの植物調査の依頼が舞い込んだので、こうやってこの地まで来たのが本当の目的でして・・。」

平賀の情報網は、全国にあった。幕府もその平賀の情報網に価値を見出し、平賀を幕府の隠密と同じ処遇で養っていたのである。

「しかし、そう考えてみると、先生とわたしは平賀殿の用心棒としてこの地に連れられてきたことになるのでは・・・。」

慎吾が、腑に落ちない気持ちを、なにげなく吐露した。

それを聞いた平賀の顔が真っ青になり、慌てて

「いや、そんなつもりは・・・。ただ、右衛門様が私の屋敷をお訪ねくだされたとき、たまたま申し出たまでで・・・。」

と、言葉を詰まらせながら、慎吾に言い訳をした。

「慎吾、いいではないか。あまり平賀殿をいじめるな。わしとて、平賀殿と同じように、ただ興味だけでこの地に来たのではない。大前屋や弥吉と一緒になって、自由な船の航路を全国有数の酒田の港へ伸ばしたいという色気がないと言えば、嘘になる。だから、本間家という名前を聞いて、平賀殿の調査に乗ったのだ。私とて、平賀殿の企みを非難できるような資格はないのだ。」

右衛門は、そう言って平賀をかばい、薄笑いを浮かべた。


山から出て、川を下ってやっと開けた場所まで戻ってきた三人に、案の定、米沢藩の刺客が放たれていた。崖と川に挟まれた一本道を、前に三人、後ろに三人。刀を抜いて白刃のままで、小走りに間合いを詰めてくる連中を見ながら、右衛門は、

「慎吾、後ろを頼めるか。なるべく、殺さずにな!」

そう声をかけた。

「人斬りと言われた私に難しい注文ですな。されば、示現流、下段からの逆袈裟かけ斬りをお見せしましょうか・・。」

慎吾はそう言ってにやりと笑い、二人をその場に残して、後ろの三人の侍に立ち向かっていった。

「平賀殿は、自分を守れますかな。」

右衛門は、やさしそうな笑顔を見せながら、そう言って平賀を見た。

「わしとて、元高松藩藩士、何度も危ない橋を渡った人間です。使い手ではありませんが、なるべく右衛門殿の足手まといにはならないよう努めます。」

平賀はそう言うと、恐怖の表情も見せず、腰の刀をすっと抜いて、前の刺客をじっと睨んだ。

後ろでは、慎吾のけたたましい奇声が上がと、最初の刺客は、慎吾の下段から振り上げられたすさまじい速さの刀の一撃についていけず、体のバランスを失って横の川に転がり落ちた。その鮮やかな剣さばきに、威嚇された残りの二人が一斉に刀を慎吾に振り下ろそうとした瞬間、慎吾の刀の一閃いっせんが、二人の振り下ろそうとした腕を、一遍にさっと風のように通っていったかと思うと、次の瞬間、二人の腕は鮮やかに斬られて、赤い鮮血がほとばしった。

一方、右衛門は、襲ってくる侍の方へつかつかと歩いて行ったかと思うと、三人の間合いに入った瞬間、鯉口を切って刀を抜くと、二度三度と目にも止まらぬ速さで、三人の周辺に白刃を走らせた。次の瞬間、侍たちの苦痛でうめく声が、静寂の谷間に響き渡った。三人とも、測ったかのように同じ手首の部分を斬られて、滝のように血を流していたのである。

「ひけひけ!」

死闘の様子を遠くで見ていた頭目の頭だろうか。大声を出して、刺客の侍たちに撤退の命令を出した。その声を機に、負傷を負って血を流している侍たちは、泣き叫ぶような声を出して、消え去っていった。

「慎吾!おぬし、なかなかのものだなあ・・・。」

刀を鞘におさめながら、右衛門が慎吾に声をかけて、にやりと笑った。

「何とか、死人を出さずに済みました。」

慎吾は、右衛門の注文に答えられたことに満足しながら、何気なく右衛門に手を上げることで、間接的に自慢したのだった。



(美津と慎吾)

日も暮れ、とっくに冷静な気持ちで帰路に就いた慎吾だったが、さっきの死闘の興奮を、どこか体が覚えていた。

平賀と別れて、自分たちの宿が見えた時、右衛門は宿の前、薄暗がりの中で、子供たちと遊んでいる若い女に気が付いた。

「慎吾、あれは本間の家の娘ではないのか。」

右衛門が、慎吾に声をかけた。

慎吾はとっくに気づいていた。美津の後ろで、不安そうに風呂敷き包みを抱えて、じっと主人を見ている侍女が、

「お帰りになりました。」

と、美津に声をかけた。

美津は、子供たちと遊びに夢中になって、気づかなかったようで、二人の姿を認めると、恥ずかしそうな表情を見せた。

「さあ、さあ、みんな、日も暮れかけた。お帰り!」

侍女が、子供たちを追っ払うように、大きな声を張り上げた。


「何をしているんだ・・。こんなところで・・。」

慎吾が、不思議そうな顔をして、美津に声をかけた。

「先日、私の屋敷にお越しになったというのにお声もかけてくださらず、お帰りになったと聞いて・・。私は、別室でじっと呼ばれるのを待っていたのですよ。」

美津は、先日からずっと思っていたことを、慎吾の顔を見るなり、抑えきれずにいきなり口に出した。

「慎吾、もう日も落ちる。中に入ってもらえばどうだ。」

右衛門は、この娘が自分ではなく、慎吾に会いに来たことをすぐに悟った。

「いや、本間屋敷の近くに、水茶屋がありましたな。話が終わったらすぐ送り届けるように、あそこへ行きたいのですが・・・。ついては・・・。」

慎吾は、そう言うと、後の言葉を言いにくそうに右衛門に懇願するような視線を送った。

「何だ。」

右衛門は、慎吾の言いたいことがわからない。

「お金ならうちの侍女が払います。」

慎吾の言いたいことを補うように、美津が口を挟んだ。

「ああそうか。これはわしがうかつだった。ほれ、これだけあれば十分かな。」

右衛門は、自分の勘の鈍さを恥じながら、袖を探って三両、慎吾に差し出した。

「ええ、そんなに!」

横で見ていた三つの侍女が、大きな声を上げた。

「いいのだ。持っていけ!それにしても、おぬし本当にからっけつなんだな。店で菓子を食う金もないのか。言えば、いつでも出してやったのに・・・。恥をかかせよって。」

右衛門は、本当に恥じ入っているようだった。そして、美津をちらっと見て頭を掻いて、照れくさそうに笑った。


(水茶屋で・・・)

美津は屋敷の近くということで、侍女を屋敷に返し、慎吾と二人で店に入って行った。

水茶屋と言っても、かなり高級感のある男女のあいびきに格好の店であった。

店の中は、小さな座敷ごとに仕切られていて、窓からは酒田の港の灯台だろうか、明々と辺りを照らしている光が、妙に幻想的に輝いていた。

美津と二人きりで面と向かって、何を話すでもなくじっと外を見ていた慎吾は、今までに味わったことのないような胸の高まりを感じていた。

美津は、俯いたまま、何を言おうかと、いろいろ考えをめぐらしては、慎吾の顔を見ると声が出なくなった。

「妙な気持ちだな。お前といると、なんだか心が躍るような気持ちになる。」

慎吾は、たまらず本音を言って、自分の窮屈になった気持ちを開放したかった。

しかし、その言葉を聞いた美津は、舞い上がってしまい、今にも卒倒しそうになった。

「私は、初めて会った時から、あなたのことが忘れられなくて・・・。思い切って、あなたの宿に行くことを決めたんです。」

美津の声は、今にも消え入りそうだった。

「そうか。」

今度は、慎吾の鼓動が波打った。

「何だか。うまくいきすぎだな。」

慎吾は、ついさっきまで、美津と出会ってこんな感情に襲われるなんて、想像もしていなかっただけに、余りにも早急な男女の接近に、何だか不思議な気持ちになっていた。

「わしもお前のことが、気になっていたのだ・・・。まさか、こんなに早くお互い、自分の気持ちを言い合うとはな・・・。男と女は、不思議なものだな・・。」

慎吾は、自分でも何を言おうとしているのか、見当もつかなかった。そして、自分の言葉が、自分でも恥ずかしくなって、真っ赤な顔になっていないかと、不安で仕方がなかった。

美津は、すでに耳たぶまで真っ赤になっていた。

二人は、初めて会った時から相思相愛だったのかもしれない。そんな二人が、二度目に会った時、水素の入った風船が、いきなり火に触れたかのように、前触れもなく大爆発を起こしたのだった。



(米沢藩主 上杉実典)

「佐藤右衛門殿ではないか!」

春にせがまれて、茶屋で汁粉しるこを食べて出てきたところで、大名籠に呼び止められた。大名籠と言っても、籠を担ぐ駕籠かきと、それに伴う家臣が一人いるだけだった。

右衛門は、一瞬ぎくりとして、その場で立ち尽くした。この酒井の町で、自分の名前を呼ぶ人物がいるなどとは、想像もしていなかったのである。

籠から現れたのは、米沢藩主 上杉実典であった。

「上杉殿・・・。」

右衛門は、あまりにも驚いたので、次にいう言葉が見つからなかった。

米沢藩藩主と言えば、十八万石の中堅大名である。その実典の風采は、いくらひいき目に見ても立派な身なりとはいいがたかった。

「驚いたか、右衛門殿。藩主と言っても以前よりもっと財政は厳しくてのう。こんな身なりじゃ。家臣どもに、わし自身模範になって、質素倹約を推し進めねばならん有様でな・・。」

木綿の小袖に袴姿の実典は、右衛門に言い訳するように、そう言った。

「殿、われら向こうの方で控えていましょうか。」

家臣が、気を利かせて、実典にそうささやいた。

「お前たちは、先に帰っておれ。わしはこの方と少し話がある。」

実典のその言葉に、何の抵抗も示さず、家臣と駕籠かきは、さっさと街道を進んでいってしまった。

「おぬし、お内儀をなくされたというに、そのお女中は再婚相手か、それとも・・・。」

実典は、そう言って、春を見ながら微笑んだ。 

「よろしければ、遊郭ですが、私の店においでになっては・・・。」

事情をつかめない春が、微笑んでいる実典にそう誘った。

「それは・・・。」

右衛門がためらっていると、

「それはよい。遊郭など久しぶりじゃな。のう右衛門殿・・・。」

実典が、右衛門に向かってそう言うと、

「お殿様と佐藤様は、御一緒に遊郭など行かれたことが・・・。」

すかさず、春がそう言って、右衛門の顔をちらっと見た。

「江戸にいる頃、見能林藩の佐藤殿と、多度津藩の京極殿は、妙に気が合ってな・・。

変装しては、うまいものを食いに三人でよく出かけたものじゃ。浅草の蕎麦屋を覚えておられるか、佐藤殿・・・。」

実典は、遊郭という言葉をうかつに話題にしたのをごまかすように、早口で春にそう言った。

「そうれじゃあ。佐藤様も藩主様だったので・・・。」

春の驚きは、遊郭ではなく、右衛門が藩主であったことに移っていた。

「おまえ、この方は、米沢藩藩主だぞ。もっと口の利き方に気をつけんか。」

右衛門は、さすがに春の動じない態度に驚いていた。

「いや、わしの藩は、庄内藩主 酒井様とは違ってな・・。力はない、権威はない、金はないのないない大名じゃ。春さんが動じるような殿様ではないのだ。春さん、その調子で話してくれ。」

実典が、そう言うと、春は腹の底から屈託なく笑った。

「それでは、ともかく、春の店まで・・・。」

右衛門は、春の笑いの豪快さが辺りの注目を集めないかと、ひやひやしながら、実典に春の店に行くことを促した。

遠くの方から、駕籠かきと別れた実典の家臣が、実典のことを心配して、再び右衛門たちの輪の中に、大急ぎで近づいてきた。



右衛門、実典、実典の家臣本橋源九郎の三人が、遊郭の客間に通されて座っている。

「遊郭と言っても、ずいぶん立派な座敷だなあ。わしの屋敷より数段豪華だ。のう、源九郎・・。」

実典が、まじめな顔をして家臣に話しかけた。

「まことに。ここは本間光秀殿が、この店の主人に任せている遊郭と聞き及んでいますが。」

源九郎が、そう言って、右衛門の顔を見た。

「その女主人が、春だ。」

右衛門は、隠すこともなくさらりと言った。

「どうりで、美しい人だとは思っていたが・・。本間殿は、女のことで嫉妬するような御仁ではない。わしも、ついさっき、本間殿に借金の申し出をしたところだが、何の注文も付けずに応じてもらった。徳を極めれば、あのような人物になれるのかもしれん。」

実典は、自分で言って、自分で納得している様だった。

「ところで、佐藤様、平賀殿はご存じで・・。」

源九郎が、さっきからずっと聞きたかった質問をぶつけた。

「わしは平賀殿の用心棒で、この地に来たのだ。おぬしらの家臣を斬ったのも、わしだ。」

右衛門は、「何か文句があるか。」と言わんばかりに、素直に先の事件を認めた。

「それで納得いきました。あれほど鮮やかな剣さばきができる武士がこの地でいるはずがないと、皆で噂しておったのですが・・・。やはり、右衛門様でしたか。」

源九郎は、少しも恨みを抱いた様子もなく、右衛門の剣に感心していた。

「あ奴らは、わしと敵対する清原清十郎(米沢藩筆頭奉行)の手のものでしてな・・。

いきなり平賀殿を襲うとは、軽挙にもほどがある。平賀殿と言えば、江戸随一の学者。幕府が関わっているかもしれん、と考えなかったのが、思慮に欠ける・・・。」

実典は、そう言って、探るように右衛門の表情を覗った。

「上杉殿、言う通りだ。幕府が関わっている事実は、推察通りだ。」

右衛門は、実典の探りを入れた言い回しに素直に答えた。

「しかし、なぜ、平賀殿は、天下に聞こえた剣豪の右衛門殿を伴って、我が藩などをうろうろされるのか。いくら、我が藩が貧乏外様とはいえ、隠密のような真似をする価値があるのだろうか・・・。」

実典は、右衛門が他に何か知っていると感じ取り、真剣なまなざしで、右衛門の返答を待った。

「実典殿は、下痢止めの薬草(芒硝)の群生が、米沢藩で発見されたことをまだ知らぬらしいなあ・・・。」

この右衛門の言葉に、実典と家臣源九郎が、膝を突き出さんばかりに前のめりになった。


芒硝のことに関して、右衛門が実典に話した後、

「実は、わしは近々藩主引退届を幕府に出そうと思っていたのだ。すでに我が藩の実権は、前に言った通り、清原清十郎(米沢藩筆頭奉行)の手にある。奴と争っても、わしには武力もなく、誰かに頼るにも金もなく、しまいには、わしが出した指図にも家臣がついてこん。春さんに言った通り、ないないずくしだ。残ったのは、ここにいる源九郎と数人の家臣だけ・・・。米沢藩の侍は、謙信公以来の家臣だけに気位だけ高く、藩の台所が火の車だというに、わしが推し進める倹約さえも不満で、わしを追い落とすことしか考えておらん。わしは、元々小藩の三男坊。米沢藩に愛着もないのに、長年奴らのためを思って、こうやって自らも質素倹約に努めたのに、振り返れば源九郎しかわしを主君とは考えてはいないようだ。今度ばかりは、愛想が尽きた。と、腹を決めていたが、右衛門殿の話を聞いて、少し決心が揺らいだ。もし、その芒硝のお陰で財政が好転すれば、米沢藩復活の兆しが見えてくるかもしれん。」

傍で、実典の言葉を聞いていた源九郎が、下にうつむき、泣くのをこらえていた。

しかし、右衛門にとって、米沢藩での実典の境遇を聞かされても、自分には関わりがないことである。

「上杉殿、勘違いされては困る。わしが芒硝の話をしたのは、わしがここにいる理由を、包み隠さず話しただけのこと。決して、米沢藩をどうこうするために話したのではない。」

右衛門は、慌てて実典の過大な希望が、自分に掛けられるのを避けようとした。

「わしは、つい最近、江戸で多度津藩の京極殿に会う機会があってな・・。おぬしの仕掛けた策謀のお陰で、多度津藩が北前船の寄港地になり、財政が一変したと聞いた。まさか、わしを見捨てるようなことは、すまいだろうな・・・。」

実典は、そう言いながら、右衛門に懇願するような視線を送った。

「あれはたまたまうまくいったが、正直言って、今度の薬の植物の話は、事情が分からんのだ。いくら昔のよしみを頼られても、済まんがどうしようもできん。」

右衛門は、きっぱりと断ったつもりだが、実典は、どうもあきらめた様子がなかった。

「事情は、これからわしが探ってみる。何かわかれば、この源九郎を差し向けるので・・・。

わしは、おぬしが親友を見捨てるような男ではないと信じている。」

いつの間にか、右衛門は実典の親友にまでなっていた。

「昔、江戸で冷遇されていた大名同志が、肩寄せ合っていただけではないか。」

と、右衛門は突き放したかったが、実典の懇願するような目でじっと見られたことで、どうしても一挙に突き放せない自分が情けなかった。さらに、実典の横で、源九郎が涙を流しながら、両手をついて平伏しているのを見ると、ついつい二人のペースになっていったのである。

「何もできんが、おぬしの情報次第ということで・・・。」

ついぽろっと言ったのが、運の尽きだった。

二人は、何度も何度も礼を言って帰っていった。

残された右衛門は、何とも憂鬱な気分で、部屋に入ってきた春に複雑な苦笑いを見せた。


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