右衛門1
1
「お先に失礼して、あの世でお待ちしております。」別に待っていてほしくもないのだが、そういって家来に死なれた領主がいた。その死に方は実に鮮やかで、躊躇いもなく頸動脈を掻っ切った。武士の心得えなのだろう。あっという間に死んでしまった。「わたしにはこうはできない。」領主は全身の震えが止まらない。他の家臣の手前、狼狽は許されない。「あっぱれ。」そういうと、死んだ家臣を散々ほめそやし、場を取り繕ってその場を逃れた。そもそも奴は死ぬ必要はなかった。領主はそう思った。橋の建設で勘定を間違えた。橋は費用が枯渇し、建設は延期、残ったやり残しの橋げたは世間の物笑いの種となった。主席家老の意に添わなかった勘定方は追い込まれた。家老は勘定方を責め立てた。要するに藩主派だった勘定方を責め立てて追いやろうとする主席家老と藩主の派閥争いの巻き添えである。ただ、藩主にしてみれば、立ち並ぶ家臣の前でこうもあっけなく責任を取って死んでしまうとは思ってもみなかった。
田崎文衛門は死の前日藩主の館を訪れていた。
「殿の前で派手な死に方をご覧にいれますわ。」そう言ってカラカラと笑った。
藩主は彼の言葉を真には受け止めていなかった。たかが勘定の手抜かりで心配性な老人だ。そう思っていた。自室にこもった右衛門は頭を垂れたままじっと下を向いて必死に体の震えを止めようとしていた。「そこまで事態は追い詰められていたとは・・。」彼の目から熱い涙がぽろぽろこぼれた。半面、筆頭家老岩山に一瞬激しい憎悪が走った。ふと我に返り自分の落ち度に激しい後悔が残った。あの夜、文衛門の異変をもう少し真剣に受け止めていればこんな屈辱的な結末にはならなかったのだ。
その日以来、彼は何もかも嫌になり自暴自棄に落ちってしまった。
その後、領主は雲水になった。橋の一件が直接の原因でもなかったが、家臣らが、あの事件以来妙によそよそしく彼を避けるようになったのは確かである。最後には、姉たちの子を後継ぎに当藩を継がせようと画策する重臣まで出てきた。要するにその場にいられなくなったのである。
伊織に後の領主を譲るにはこの辺が潮時だった。さすがの家老の岩山もこの不意打ちはどうしようもできまい。そういう計算があった。
「後は頼んだ」養子に取った妻の甥にそう言うと人目につかないように屋敷を後にした。雲水の格好はしたが、別段佛に仕える修行を行ったこともない。ただ、この格好は世間をごまかすには都合がよかった。幸い知り合いの寺の和尚もたくさんいたので縁故を頼って何処へでも行ける気ままな旅人にでもなろうと思っていた。「金には困ることはなかろう。」自分の後を継いだ領主は、無茶苦茶な路銀を無心しない限り用立ててくれるはずだ。
屋敷を去って国境の宿で数日も過ごしていただろうか。領内の武士らしき男が彼を追ってやってきた。なんでも新しくなった領主がお世話をするようにとよこしたそうなのである。まあ、監視役兼連絡係とでもいったところだろう。この男、元領主の私に臆することもなく堂々とものを言う。右衛門は男のそこが気に入った。
「あれだ、その恰好では、わしと釣り合いがとれぬ。雲水の格好を装うべく、支度をととのえてまいれ。」そういってやると半日もたって夜遅くまた宿に現れた。
「こんなもので。」
おそらく領内で大急ぎ買い求めたのであろうが、どう見ても雲水の風体になっていた。頭はまるめ、さばさばと侍の風体を捨て去ったといわんばかりに、にこにこと後ろを向いて
「どうでござろう、これでよろしゅうございますか。」そういうと、くるりとむきを変えてじっと元領主の顔を覗き込んだ。
「いいだろう。これからよろしく頼む」
右衛門はそう言うと、あとは話をするでもなく、宿の自分の部屋へひっこんだ。翌日
「殿様。食事の支度ができたようで。」
「殿様はやめてくれ。これからはただの雲水じゃ。」
「そうですか。それではなんと」
「右衛門様でいい。」
「わかりました。右衛門様お食事ができました。」意外と聞き分けがいい。良すぎるぐらいであるが、元領主にはそんな彼の性格が心地よかった。
「で、お前は何という名だ。」
「はい与助です。おい、か、与助、とお呼びくだされば、問題ないかと。」元領主はこくりと頷いた。
朝飯はうまかった。粗末な椀に、宿自慢の料理が出された。右衛門は朝飯を何も言わずに熱心に食べた。特によそ見もせず、傍らで与助の沢庵をかじる音が定期的にしていた。
「うまいか」
「はあ。」与助はそう答えるとまた、みそ汁の椀を片手で掴むと口元に持っていき、ずるずると啜った。右衛門も彼をまねるように味噌汁を啜った。
2
暑い日が続いた。遠くから見ると二人の影は、陽炎のように揺らいでいた。彼らの他には街道を歩くものもいない。右衛門には少しストイックなところがあった。先代藩主であった父のにわか領主の心得を必死に会得しようとして忍耐を強いられた体験の名残かもしれない。彼は自分の藩主としての身分にも関わらず、贅沢を好まなかった。人の浪費癖は多分に人の資質によるところがある。貧困を極めている輩でも日々のちょっとした贅沢を好むものもいれば、しこたま財をため込んで、茶漬けを啜るのをこの上なく好む変わり者(?)もいる。右衛門は、生来強欲に何かを求めるという意欲に欠けているのかもしれない。だから、優遇された社会的立場にもかかわらず何かに執着するところが少なかった。
そんな彼が、いわば追われるように旅に出ることを余儀なくされたのは皮肉なものである。
しかし、存外彼は彼の選択を後悔はしていない。本来おれは領主には向いていなかったのだ。自害の一件で、領主でいることが窮屈になったのは幸運かもしれない。そんなことを考えながら暑いなか、それでも不快を感じるでもなく黙々と歩いていた。与助はというとこれもまた、不満を感じるでもなくこの暑い中、汗もかかずに黙々と彼の後ろを歩いていた。
この男本当に沢庵をうまそうに食う。彼はふと膳を前にしてぼりぼりとたくわんを食っている与助を見てにやりと笑った。
「何か面白いことが。」与助が怪訝そうに右衛門を見た。
「いや。お前があまりにもうまそうに食っているのでな。」
「そうですか。生来このようなガサツもので。」そういうとぺこりと頭を下げた。
「いや、謝るような筋合いのものでもなかろう。」そういいながら彼もたくわんをぽりぽり齧った。「ははは・・。」どちらからともなく笑いがこぼれた。
「ところで、明日からどうしようか。」
「それは右衛門様が決めること。」そう言うと椀に手をやった。
「そうか、昨日泊まった寺の和尚の話ではこの辺に名の知れた剣豪が井坂藩で剣の指南役をしているとのことじゃ。手合わせを乞いたいと思うがどうだろうかの。」
「殿様が、・・ですか。失礼、右衛門様が、ですか。」びっくりしたように与助が彼の顔を覗き込んだ。
「そうだ。ところで、おぬしはこっちのほうは達者か。」そう言って箸を手に持ったまま竹刀を振る格好を見せるように、座ったまま両腕を上下に振った。
「多少は心得が。」
「お主、主君の前でそういった手前引っ込みはつかぬぞ。」
こんな時は主君を持ち出すのか。与助は日ごろ「主君と家臣の関係ではもはやない。」などと言っている右衛門の勝手さを垣間見たような気がした。
「明日は侍の平服で井坂藩に行きたいが、用意はできるか。」
「路銀は不足なく藩より預かっているので、問題ないかと。」
「そうか、よろしく頼む。」
そういうと彼は膳を離れた。
結局、与助が指南役と御前試合をすることになった。右衛門の策略にまんまとはめられたような、なんとも後味の悪い試合になった。こんな時は主君に早変わりする右衛門を初めて苦々しく思った。
相手の凄まじい気迫をまるで呑み込むかのように、与助は木刀を正眼に構え身じろぎもせず相手の威圧を抑えていた。
右衛門はそんな与助を見ながらはっとした。「当藩に一名剣の逸材おります。」以前次席家老からそんなことを聞いたことがあった。もちろん剣には関心があった彼は詳しくその家臣のことを聞こうと耳を傾けようとしたが、たまたまその時地震に見舞われた。屋敷は一時騒然とし、彼自ら屋敷を見回ることになった。ただ、その時その家臣が、先日自分の目の前で自害した勘定方の次男坊だということだけは聞いていた。彼は一瞬ひやりとした。まさか俺を敵として狙うためについてきたのでは・・・。
そんなことを思っている瞬間、相手の指南役がついにじれて与助に打ち込んできた。勝負はあっけなく終わった。与助はその打ち込みを交わすことなく,一瞬速く閃光のような一撃が指南役ののど元に突き刺さった。そこにいた連中はあっけにとられてどよめきすら起きなかった。
「それまで!」
後は血の海となった庭先をあたふたと行きかう藩の家臣たちで大騒ぎになった。
右衛門は引きつった顔した藩主に頼み込み一番手合わせを申し出た。右衛門の試合は他愛無く右衛門が相手の突きにもんどりうった。誰もが前の試合の埋め合わせだとは知っていたが、だれもがその手合わせで胸を撫でおろした。
面子を保った当主はいたく二人を歓待し何事もなく翌日にはその屋敷をあとにすることができたのである。幸い重傷を負った指南役も何とか致命的な傷を負うこともなかった。おそらく与助の考えた通りの勝負だったのだろう。と右衛門は与助の剣さばきに感心した。
「おぬし、わざと急所を外したな。」
後ろをついてくる雲水姿になった与助は
「いえ、たまたまでございます。」と言ったきり黙々と右衛門の後をついてきた。
「まあ、あれで私もことなく済んだ。礼を言う。」振り返ることもなく右衛門は歩を進めながら、彼に礼を言った。
「ところで、お前は田崎の次男坊か。」それを聞いたとき、はじめて与助は歩を止めた。合わせるように右衛門も歩を止めた。右衛門の杖には仕込みの剣が仕込んであった。
「右衛門様、当家はあなた様のご判断次第では家名断絶を余儀なくされます。これが今のご領主様の採決でございます。当家の父田崎文衛門も、あなた様にいささかの恨みも持たぬようきつく言い渡して命を絶ちました。」
「で、お前はどうだ。私の面子をかばって命を落とした父の恨みは果たしたくないか。」
与助はじっと押し黙っていた。
「そうか。悔しいか。でもな、正直あれほど潔くためらいもなく皆の前で死なれたおれの立場も考えてみろ。言っておくが私はお前の父が死んだことを今でも割り切れぬ思いで自問しているのだ。武士とは、ただ面子を保つために生きている者なのかのう。」
与助の表情は雲水の菅笠でうかがう由もなかった。
「昨日のお主の試合の後始末を見たであろう。武士とはめんどくさいものだ。」
「はあ、殿にはご迷惑を・・・」
「いや、あれは私が命じた試合。私が後始末をつけるのが当たり前。ついでに、殿はやめてくれ。わしはもううんざりなんじゃ。領主家業は。やっと解放された幸せを壊さんでくれ。ついでに明日今の領主伊織に飛脚を遣わそう。お主の家の安堵を保つようにとな・・。」
そう言い終わるとやっと解放されたかのように右衛門はたたずむ与助を振り返ることもなくすたすたと歩き始めた。
3
与助は先に宿を決めるべく右衛門より先に宿場についた。
「お部屋は一部屋お二人様で。」
宿場の宿は普通かたまって密集しているのが多いがこの宿は他の宿から少し離れた閑静な趣のある宿だった。
「いや、できれば別々に願いたい。一つは静かな部屋、もう一つは特に注文はない。」与助は以前右衛門から一部屋でいいと言われていたが、さすがにそれは窮屈だったので、これ迄右衛門の言いつけを守らずにいる。
宿の番頭らしき男はそれでも部屋がないと二人部屋進めたが、もう一人が元領主という身分を明かすと、バッタのようにはいつくばり頭を下げ奥へ引っ込み、暫くしてやってくると注文通り部屋を用意した。ただ、さすがに与助の部屋は大部屋になった。
「くれぐれも殿には内緒じゃ、身分のこと言ってはならぬ。」男は雲水姿の与助を上から下まで眺めて怪訝そうな顔をしたが、そのまま与助を部屋へ案内した。
与助は後からやってくる右衛門を迎えるべく背中に負っていた大きな荷物を降ろすと宿を出た。右衛門の足は速いが、さすがに半日も前に分かれて休みもせずにやってきたので再会はしばらくかかるだろうと、ゆっくりと周囲を見ながら歩いた。
右衛門は「もう国へ帰れ」と一言言ったきりそれ以上何も言わなかった、その言葉に従わずに黙々といつものようについてくる与助に右衛門は何も言わず、暫くして与助が「宿を探してまいります。」と言った時もただ黙って咎めもしなかった。
変わった人だ。変わったと言えば、噂によると殿は昨年奥方を亡くされ周囲が後添いを盛んに進めるのにも関わらず、甥の伊織様を藩主後継ぎに定め、今回も自分の父の自害をきっかけにさっさと屋敷を逃げるように出られてしまった。
「わからぬ人だ。野心というものが全くない。よく言えば欲もない高潔なお方かもしれないが。」そう思った時、右衛門の顔がふと思い浮かんだ。と同時に目を上げると右衛門が与助の前に仁王様のようにたっていた。与助は蛇ににらまれた蛙のようにぽかんと口開けて彼を見ていた。
「山野ではないか。」右衛門が声をかけた男はどう見ても風体は薄汚れ、日々の生活にも事欠いている様子が読み取れた。
「誰だ」かなり酔っていると見えて、視点が定まらず、右衛門の方に定まったかと思ったらまたきょろきょろしている。
坊主頭に着流しを着た姿は一種異様であったが、決してこの界隈に馴染んでないこともなかった。要するに、やくざ者・町人・行商人などが日々の憂さを晴らす飲み屋街では許容範囲で街の背景に溶け込めた風体だった。
「俺だ。お主と同郷の見能林藩佐藤右衛門だ。」そう名乗られて改めて山野なにがしかは、相手の顔を凝視した。
次の瞬間の叫び声はこの怪しげな繁華街で日々叫ばれる奇声のどの声よりも大きかったのではないかと思われるほど辺りのすべての人の注目を浴びたことは言うまでもない。床几から転げ落ちるように土間に平服し、暫く何も言わずそのままじっとたたずんでしまったのである。困ってしまったのは右衛門である。慌ててその場から彼を引き連れて、酒代を驚いている亭主に払うと逃げるように右衛門の泊まる宿へ引きずってきた。
山野佐吉は、敵討ち成就のために半年前国元を離れた。事の成り行きは、父の田衛門が彼の屋敷に呼び寄せた配下の若者を容赦なく叱りとばしたことから始まった。原因は田衛門配下で若者の同僚でもある奥方と、この若者が付議密通を犯したことが田衛門の耳に入ったことから、田衛門息子山野佐吉が仇討として国本を離れる原因となる修羅場となったのである。
田衛門の問い正しに対して若者は一言も返答することなく。頭を垂れたままじっとうずくまり、時折「うう」とうなり声とも聞けるような低い嗚咽を漏らした。仕方なく田衛門はその場を立ち若者を残して襖を開けようとした。不覚にも彼は自分の配下の若者に油断した。まさか背後から切りかかろうとは予想すらしなかったのである。しかし、そのまさかが起こった。考えてみれば有りうることである。付議密通は大罪である。一か八か切りかかったとしてもおかしくはないのである。
事の顛末は自然と有りうるように流れた。田衛門は即死。その若者は藩を出奔し、田衛門の息子山野佐吉は仇討のため父を殺した若者、張三太夫を探して、諸国を放浪することになったのである。
与助は部屋の片隅でじっと二人の話を聞いていた。幸い敵の張三太夫はこの地で道場の師範代をしていることを突き止めた。佐吉は果たし状を出すべく決意を固めたのだが、国元の妻お政から便りが来て気持ちが揺らいだ。佐吉に子ができたのである。彼はしたためた果たし状を改めて見直して心が揺れた。
「まさか死人となるのはこの俺ではないのか・・・。」そう思うと全身の震えが止まらなかった。
相手は剣の達人である。この命運よく拾うのは容易なことではない。子が生まれると聞くまでは、そんなことを考える余裕すらなかった。しかし、妻からの便りは彼の決意をひるませた。いやそれ以上である。命が惜しい。そんな状態でここ数日を身動きが取れず過ぎていった。そんな折、右衛門に酒屋であったのである。彼の風体はその悩みを十分物語っていた。
「嘘はないな」右衛門はそう思った。
「どうだ、与助。仔細聞いたであろう。」
「はあ。幸い同郷のである私が助太刀したとしてもいささかの不自然はないかと。」彼は勇んでいる。「この男、人斬りにためらいないな。」右衛門は与助をそう評した。厄介な奴と旅をしているのかもしれない。右衛門はふと先行きに不安を感じた。
与助が後の筋の一撃をはずした。彼の剣は本来後の筋を狙う。しかし、その剣の得意技は相手の一撃を交わすことによほどの自信がないと、普通は真剣ではできない。与助の反射神経は並の人間の反応ではない。相手にとっては、一瞬彼の動きがその素早さで見えなくなるほどであった。張三太夫は与助とは同郷である。彼が助太刀を買って出たと聞いて、与助の剣豪としての噂を聞いたことがないはずがないのである。ましてや、腕に自信のある三太夫は一瞬の身のかわし方を聞いていたとしても不思議でないのである。
予想通り、三太夫は一撃では与助を仕留められず、逆に与助にかわされた後の一撃をかわし切れず腕に傷を負った。しかし、戦況は与助と佐吉の側には有利でなかった。佐吉が弱かったのである。同じく三太夫の助太刀を買って出た同僚の師範代は佐吉のかなう相手ではなかった。与助は再び正眼に構え、最初の状態に持ち込みたかった。しかし、それでは佐吉が死んでしまう。勝負ありである。
与助は一刻も早く佐吉の助太刀に回りたかった。仕方なく与助は三太夫に休むことなく責め立てた。三太夫の戦略は軌道に乗った。彼は受け身に徹した。そのうち佐吉の首は宙に舞うだろう。
しかし、佐吉にはただならぬ気迫がみなぎっていた。相手の致命的な一撃を一二度受け止めたのである。かわすうちに腹が座ったのだろうか「切られてもいい」佐吉に恐れはなくなっていた。
佐吉の顔からなぜかしら笑みが出た。与助は三太夫を一歩引かせると、体を急旋回して、三太夫の助太刀で佐吉の刺客となった師範代のほうへ向かい彼に一撃を浴びせようとした。
その時隙が生まれた。危ない!一瞬の反応で与助は三太夫の袈裟懸けから身をかわした。
「奴は只ならぬ天分があるな。」仲介役の横に座ってじっと戦況を見つめていた右衛門はなお客観的に見つめていた。ただ、このまますんなり敵が討てるとはどうしても思えなかった。
もし、佐吉の命が果てたら自分はそのままこの場を立ち去っていいのか、それとも三太夫を打つべく果し合いの法度を破ってまで、元領主の面子を保つべきか。判断はつかなかった。
「もはや、これは家臣の見殺しぞ!」誰かがささやいたように思えた。「もはや」などと言っている場合ではない。右衛門は手に持った仕込みに手をやった。
その時である。仲介役の向こう側に座っていた3名の道場の同僚らしき男たちが一斉に鞘から剣を抜き、転びそうに必死に師範代の男の剣をかわしていた佐吉の方に向かった。
「しめた!」右衛門はその状況判断を間違えなかった。
「これは作法破りぞ。卑怯千万」そう仲介役に訴えたかと思うと、3人の前面に素早く回り、仕込みだとは予想すらしていなかった3人の胴を次々とはらった。
鮮血が飛び三人の加勢人は何の反撃もできずその場に倒れた。「与助。三太夫を倒せ。佐吉はわしが・・」一挙に戦況は佐吉仇討成就に傾いた。
仲介役は、見物人たちの手前果し合いの成立を認めざるを得なかった。右衛門が用意した同意書に署名せざるを得なかったのである。予定通りとはほど遠いが、右衛門の機転で勝負はうまく転んだ。
「佐吉、この書状を持ってどこに立ち寄ることなく、国元へ帰れ!後は私が領主伊織に仔細の文を書いて送っておく・・。」そう言いながら、右衛門は佐吉の袖へ金子の束をそっと差し入れた。
佐吉はおいおい泣きながら走りに走った。「殿、殿」と叫びながら・・・
「この場で「殿」はいささか思慮がないの。」そう言って与助を見ようとすると、与助もまた片膝ついてめそめそ泣いていた。
「あほ、泣いている暇あるか。与助、立ち去るぞ」そう言うと右衛門はすたすたと歩き始めた。
ー絶命1名、片腕損傷1名果し合いにて被りし犠牲。なお、傍観者の中でいさかいあり重傷者3名(内1名手当のちに死亡)。詳細関わらず。ー仲介役・伊藤兵衛
ー果し合いの顛末報告の上、後始末は当藩にてよろしく行う。なお、この件に関し他言無用。命を破ったもの厳しくお咎めとなること承知するべし。以上ーこれですべて決着した。
4
数週間後、佐吉から便りが届いた。生まれた子は男子。大いに家族一同喜び、殿の御恩一生忘れずとのこと・・・。
「おかげで人ひとり殺してしまった。」右衛門は便りを読みながらぽつりと呟いた。
「まあ、良かったとせねば。」言い聞かせるようにため息をついた。
「おまえにも佐吉から何ぞ便りあったか。」じっと部屋の片隅で座っている与助に声をかけた。
右衛門は今無性に誰かと話したかった。
「子が生まれたこと。右衛門様に大恩を賜ったことなど。」
「そうか、おかげで・・・・」右衛門はそこで言葉を切った。
「ところでこの頃、おぬし品行がよくなったようじゃな」右衛門がにやにやしながら言った。
「・・と言いますと。」
「夜な夜な出かけなくなった。」
「ご存じでしたか。」与助は恥ずかしそうに頭を掻いた。
近頃与助は右衛門が叱責しても恐れ入るようなふりをして、心底反省をしたようには見えない。まあ長く一緒にいると、いかに主従関係とはいえ早々気をつかえるものではない。ましてや生来次男坊として親には甘やかされ、剣では比類なき地位を藩中に築いた男である。元藩主でなければ、どこかで俺のほうが強い。という子供のような自負を持って過ごしてきた男でもある。
「しかし、殿はどのぐらいの剣の使い手なのだろうか。」与助は、果し合いの一件以来、右衛門の剣の腕が気になって仕方がない。いかに仕込みで不意を突いたと言って、あのように鮮やかに腕に心得のあるものをなぎ倒すことはよほどの達者でなければできない剣さばきである。
吾が藩は武芸を奨励する気風がある。藩祖は武功をもって領地をいただいた名だたる武者だったそうだ。そのせいか、太平の世になってもやたらと家訓には、剣の道を説き諭す言葉が多い。もっとも、そのおかげで与助は藩では大きな顔ができ、何処へ行っても一目置かれた。殿にしてもそんな訳で、小さいころから剣の修行は他藩とは比べ物にならないほど教え込まれたのだろう。そんなことをあれこれ考えていると、右衛門がいきなり与助を酒に誘ったのである。
「わしはもともと筋目正しき領主ではなかった。」右衛門がぽつりと呟いた。
「だいぶ酔われたらしい。」与助は案外酒には弱い右衛門に何かほっとした。いつも自分は殿に見透かされているような気がしていた。いや、むしろ自分など相手にしてないというような、何事につけても自分の能力への自負心を持っておられる主君であった。主従の関係だからそのことにさほどの卑下は感じていなかったが、同格の武士なら鼻についただろう。酔っぱらった右衛門には愛嬌があった。与助はにやりと笑った。
「何がおかしい。」
「いや、失礼仕った。」
「私は側室の子ですらない。先代領主の側で小間使いとして仕えた母の子だ。いわゆる父のお手付きで生まれた素性怪しき身の上だ。」
与助は内心興味を引いた。そのようなことは一部の重臣しか知らぬ言わばトップシークレットだ。
なんでも、右衛門様の先代領主は二児女児がいた。右衛門様の義理の姉である。藩内ではその姫君に養子を迎え見能林藩の安泰を計る予定だった。
それが、ある時先代の気まぐれから事件が起きた。先代藩主が右衛門様の成長を確かめに、右衛門様が通う道場にお忍びで行かれたのである。生来鋭敏で頭の良かった(これは与助の父がよく右衛門様のことをほめていた言葉である)右衛門様の剣の腕前を見て、先代藩主様は、たいそう右衛門様のことを気に入られた。
「吾が実子右衛門を、次の藩主として継がせたい。」そう言いだしたのである。
面白くないのは姉ぎみ達に仕えていた家臣である。相当の反対があったらしい。しかし先代領主の意志は固く、最後まで意を唱えた筆頭家老の岩山を罷免してやっと跡目騒動は決着を見た。
岩山殿は、当藩の藩政を一手に担っていた人物で、数年謹慎蟄なっていたが右衛門が領主につくや姉上殿の進言で再び藩の中核についた当藩きっての秀才と言われた人物である。右衛門の引退に追いやられたのも、彼の根回しが一つの原因であったのではないかと言われている。
「別段領主などに未練はない。そもそも、お城に上がることも泣く泣く承諾したのだ。ただ、伊織のことを思うと心配での。岩山ほどの男、何が起こっても不思議でない。」そう言い終わると。急に現実に舞い戻ったように右衛門はからからと笑って、今度は与助の身の上を聞かせるようにとせがんだ。
「いや、わたくしなど別段語るべきこともなくごく普通の次男坊で・・」
「そうか文衛門は、いい男であった。お主と大違いじゃ。それで母御は健在か」
「はあ、いまだに文などよこし私の健康ばかり気にしています。生来おせっかいな性格の人で・・・」
「馬鹿者、冗談でも母の思いを悪く言うではない。俺など・・・」
そういうと急に押し黙ったまま頭を垂れてじっと何かを考えているようだった。
存外単純なところのあるお人だ。与助はその夜、右衛門に心のどこかで親近感を持った。
二人にとってその夜は飲んだくれての憂さ晴らしだけでは済まなかった。夜も更けて人ひとり通らない辻裏を二人いい気持でふらふら歩いていた時、だれかに襲われたのである。右衛門と与助は、坊主頭の侍姿。もちろん腰には二本差していた。誰かほかの者に間違えられる訳がなかった。与助は右衛門の先に回ると、彼の盾となるべく刀の柄に手をやって、いつでも刀が抜けるように中腰に構えた。
「やめとけ、おぬし等の敵う相手ではない。」右衛門が刀を抜きながら威圧する。それでも、一人の男が与助のほうへ飛び掛かった。グサッという鈍い微かな音が闇の中で一種不気味な流れのようにあたりの緊張の表面を波紋のように伝わっていった。
「うう・・」と唸る声と対照的に、何事もなかったように立ちすくんでいる右衛門と与助の息遣いが次第に普段の呼吸に戻っていくのとリズムを合わせるように深い闇は元あった静寂を取り戻していった。
5
つるべ落としが静寂の中でカーンと真っ暗になった闇の中で響き渡る。一つの行灯に照らされた三名の顔が薄ぼんやりと照らし出されている。おそらく手練れの侍が茶屋の周りを取り囲んでいるのだろう。人の気配は真っ暗な闇の中でも何かしら安心で満たされている。中年の男が大切そうに茶碗をいじくりまわす。すっと鼻筋の通ったこれも老齢期に入ったと言えばはばかられる簡素な着物を着ているが、凛としたたたずまいを保っている女性が男の方も向かず、かいがいしく茶の湯をもう一人の女のためにたてている。男の隣に座った茶をたてる女よりかなり若そうな女が建屋の周りを落ち着きなさそうに見回した。
この女、茶の席にしては派手な着物を着ている。一目で身分高い素性の出であることは明らかである。着物に縫い込まれた牡丹だろうか鮮やかに行灯の光に浮き上がり薄暗い部屋の雰囲気に自然と逆らっているようだった。
「ところで、右衛門はどうなりました。」茶の湯をたてていた女が、相手に視線を向けるとなく男に尋ねた。
「うまくいきませんでした。あの方には与助という当藩きっての使い手が連れ添っていまして。」そう言うと、横にいた若いほうの女が押し殺した二人の会話とは対照的に甲高い声で二人の会話に割り込んだ。
「大丈夫なのですか。ああ見えても右衛門は父がその剣にほれ込んで、周囲の家臣の反対を押し切って世継ぎに決めたほどの使い手。」
「刺客は剣のみとは限りません。」そう言うと男は冷たい笑みを浮かべた。
「あなたがいればこその謀。あやつを亡き者にすれば、伊織は失脚したのも同然。」
「御意。」この男いかにも謀には打って付けのような雰囲気を醸し出している。佐和はそう思った。
風貌は、普段は穏やかで人に威圧は与えない。しかし、時折見せる眼光の鋭さは他を圧倒するには十分だった。何しろ頭がいい。当藩きっての秀才と家臣の間では評され、藩の人材の中では群を抜いている。そのことを知ってか知らぬか、いささか気位が高い。そこをくすぐればこの男ほど使える者はいない。「そなたの忠義末代まで忘れませぬ。のう伊予。」姉の一段高い声に不意を突かれた妹は、確かめるように姉に目をやり家老の岩山の表情を確かめようと視線を向けた。
男は何の反応も示さずただじっと目を閉じて茶屋の雰囲気溶け込んでいた。
6
商人の隠居だろうか、右衛門と並んで海の眺望できる岩の上に座っている。お供のものであろう。手代風の少年と男が大きな荷物を背負って立っている。与助はというとその場を離れ、もっといい眺めの望める場所を探してもう一段高いところへと小走りに走っている。落ち着きのない男だ。右衛門はそう思った。しかし、彼はそんな与助の性格が嫌いではない。いずれ山の頂上付近から与助の来るようにと誘う声が聞こえてくるはずだ。右衛門は今のうちから無視してやろうと目論んでいた。
「あなた様方と旅をご一緒できて本当にようございました。私も毎年一回は金毘羅にお参りに行っていますが。危ない思いをしたことは一度や二度ではございません。それでも何の因果か旅をやめることができません。息子たちは旅を思い立つたびに止めるのですが、これだけは私の唯一の、いや、数ある一つの道楽でして・・。」そう言うと、後ろで立っていた奉公人が二人とも笑い始めた。
「これこれ、何がおかしい。」そう言いながらも笑顔で彼らの方を振り向いた。
よほど寛大な人柄と見える。奉公人はこの隠居をはばかりもせず素直に自分たちの思いを顔に出す。右衛門はそう思った。
「ですが、私どもは四国へ渡る寄合船で、たまたまあなたと一緒になっただけ。どうして雲水であるわれわれと同行したいなどと・・。」
「いや、私もそれなりに大阪で知られた商人。
あなた様が偽雲水かそうでないかは一目でわかります。おそらく背中の行李には二本差しが・・・。ああ、これは要らぬことを申して何とお詫びすればいいか。」
「そうですか。仏に仕えるにはいささか生臭すぎましたか。」
下の方で大笑いが響き渡った。
与助は何事かと不思議がりつつ、それでもまっすぐ上の道を目指した。季節は初夏、吸い込む空気さえも爽快なこの旅の行程はめったにありつける時間ではない。与助はそう思い大きく深呼吸をした。海のほうを見ると何の鳥だろうか一直線に海の水色のキャンパスに直線を描いて飛んでいく。彼らはこれから四国の八十八か所めぐる予定だった。今日泊まる予定の金毘羅に子供のようにワクワクする与助だった。
「与助、分かれて歩くぞ。何か起これば後ろを切り崩せ」右衛門の低いひそめた声が、雲水の傘から聞こえてくる。
さっきからの不穏な空気を察知していた与助は心得たように何食わぬ風を装い。その場を離れた。程なくして、右衛門と隠居の一行は茶屋で休むことにした。すると少し時を置いて隠居の方へ一人の男が近づいてきた。
「へい、隠居さん。この茶屋に座るにはあっしらの許しが必要だ。一人二両も出してくれりゃあ文句はありませんがね。」と脅してきた。
気づいてみれば、見るからにやくざ者らしき男たちが数人隠居と右衛門の周りを取り囲み始めた。その中でも異様を放つ浪人風の男が右衛門の前に立ちはだかり右衛門の反撃の気配を制した。
手代は後ろでうずくまり、隠居の持つ手の茶碗の水面が石を投げ入れた池のように波打っていた。
「おぬし、ただの物取りじゃなさそうだが。」右衛門が初めて口を開いた。
男は、ぴくりと全身が反応するのを隠すように刀の柄に手をやり雲水の半身を一刀で切り込める態勢をとろうとした、と同時に右衛門は杖をその浪人の前に平行にすっと差し出した。
浪人の右衛門への威圧した脅しは、うろたえに変わった。刀を打ち込む気合を杖でそがれたのである。
しかし、なおもやくざ者風の男たちが周りを囲み始めた。加勢に勢いを得たのか最初に隠居を脅したやくざ者が右衛門の方へ視線を移した。
「坊主、お前は黙ったほうがいい。片腕がなくなったら仏に手も合わせられないぞ。」とすごんで見せた。
次の瞬間囲みの外側で「ぎゃあ。」という悲鳴が上がった。与助がやくざ者の腕をばさりと切り落としたのである。こうなると人間のとる行動は大体決まってしまう。
逃げ足が残っている肝の据わったものが数人一目散に蜘蛛の子を散らしたように逃げ出した。残ったものは腰を抜かすか、這うようにその場から立ち去ろうとした。ただ、浪人はそれでも剣を抜くと右衛門の方を目で抑え、徐々に後ずさりしたかと思うと、さっと踵を返して街道をかけ去った。それに続いて物陰に隠れていたのだろうか、数人の浪人が後に従った。最後に残った腕を斬られた男は斬られた腕を持って錯乱したように走り去った。
予めこの場を離れていた与助は「自分の腕を持った男がやってくるから籠に乗せて医者に運んでやれ。」そういって雲助に金子を与えていた。
「あやつ、運のいい男です。待っている駕籠かきの方へ逃げていきました。」そう言って与助は右衛門へいたずらした子供のような視線をやった。
こんな時は言い訳をちゃんと用意している。剣を抜くことになると機転が利く、生来の人切かもしれぬ。右衛門は与助に対してそんなことを思いながら、ふっとため息をついた。
その夜は大変な宴会となり大阪の商人の力を思い知らされることになった。右衛門のような小藩の領主では思いもよらない饗応にあずかることになった。与助はさっきから女達相手になにやらへらへら笑っている。よほど愉快なのだろうか。
「無礼講、無礼講。」などと言っては女たちの方に体をよせて楽しんでいる。女たちも心得たものでよろしく与助をあしらうのである。
右衛門も、やれるものなら与助に見習いたいものだが。領主が決まった時からの父の教育は半端でなかった。彼との会話と言えば「武士たるもの」から始まった。そんなわけで右衛門は父が死んだとき何やらほっとしたものである。酒に弱い右衛門は、自分の素性を隠すのを忘れ、思いもよらぬうかつな一言を与助に向かってしゃべり始めた。
「与助、わしは腐っても元領主じゃ、そんなわしの前であまりの醜態を見せるは無礼ではないか。」そう言いながらも彼は少し赤くなった顔に笑みをたたえていた。
どうも与助の奔放さは彼にとっても心地よいものであるのは否めない事実であった。さっきから穏やかに笑みを浮かべていた宗衛門がその言葉を聞き逃すはずはなかった。
「ほう、ただなる風格があるとは思いましたがそういう素性のお方でしたか。」
そう言いながらもこの男決して恐れ入る風でもない。ただのお世辞か、それとも商いの匂いでも嗅ぎ取ったか。右衛門はそう思った。
「で、あなた様どこの藩の元領主様であられますか。」辺りの空気が一変した。
いくら小藩とはいえ元領主となると、集まった太鼓持ちや田舎芸者にはどう対応していいか戸惑っている様子であった。
「私は大阪で物品の卸しを商う大前宗衛門というものでございます。改めてあなた様にお助けいただいたにもかかわらず、今まで名乗りもせず。まことにご無礼いたしました。」そう言うと隠居は勝手に自分の素性を明かした。
通りで名乗らなかった訳である。大阪でもかなり知れ渡った大店である。素性が分かれば敢えて隠す理由もない。ましてや相手も言いたくない身元を語ったのである。右衛門は「仕方ない」あきらめたようにそう思った。
「見能林藩という小さな藩でな。」右衛門は言わずともいいものをという気持ちをずっと引きずっていた。そのせいかまるで誰に告げる様子もなくぽつりと呟いた。
宗衛門は、目で使用人に指示する。すると集まった芸人や女たちは、隠居のお供の二人に促されて潮が引くように立ち去った。残ってばつが悪そうにきょろきょろ辺りを見渡している与助は、まるでおもちゃを取り上げられた童のようにまごついている様に見えた。
「これが当藩で名の知られた剣豪というものかのう。」右衛門は与助の仕草を観察しながらにやりと笑った。
「あなた様の素性を知りやっと打ち明ける決心がつきました。」そう言うと宗衛門は今までの宴会を楽しむ隠居の顔から商人のすきを見せつつ油断をしない顔になっていた。
「いや私は元見能林藩藩主佐藤右衛門と申すもの。つい身分など名乗りせっかくお招き頂いた饗応を台無しにしてしまった。すまぬ。」右衛門は改めてそう言うと頭を下げた。
「いや、そのようなことを言われるとお頼みするのがつらくなります。そのように頭をお下げにならないでもらいます。実は昼間の浪人のことでございますが。」そう言うと宗衛門は年長の使用人の男に事の次第を説明するように命じた。
話によるとあの浪人たちは以前にも違った場所で見かけたことがある浪人で、おそらく大阪で雇われた宗衛門に向けられた刺客ではないかというのが宗衛門とこの付き添いの推察であった。
「しかし誰がそんな策略をめぐらすかのう。」右衛門が怪訝そうにその使用人の太吉に尋ねた。
太吉は話を逸らすかのように気色ばんだ口調で語り始めた。
「ご隠居様には丁稚のころから可愛がっていただいた私です。旦那様にもしものことでもあったらこの命この世で永らえるなど思いもよらぬこと。」
使用人としてはずいぶんと思い切ったことをいう。右衛門は父から言われた義理について考えていた。もっともいくら教育されようが、幼いころ素性も明かされない貧乏暮らしが染みついた彼にとってはその言葉はどうしても心から納得がいくものではなかった。文衛門の自害を目の当たりにした時の心の動揺は彼の幼いころ育った環境からくるものだったかも知れない。そんな自分だからこそこの使用人がまるで武士の忠義のようなことを言うのを、いささか面はゆい気持ちで聞いていた。
「そりゃあ名のある商人ともなれば恨みの一つや二つ買うもの当たり前なのだろう。まあ、商売敵もいるものだしのう。」と与助がぽつんと言った。
「これ、口を慎め。」間髪入れず右衛門がたしなめた。
こんなところがこの男がどうしても憎めないところなのだろう。半面、窮屈な環境で育った右衛門にとっては与助の遠慮しない言葉遣いがうらやましかった。
「ご無礼。」そう言うと与助は壁に上半身寄りかかりじっと自分の気配を消そうとしている様子だった。
「いやあなた様のおっしゃる通りでございます。」そう言って宗衛門は、申し訳なさそうに笑って窮屈になりかかった空気を和ませた。
7
結局、与助が用心棒として忠義物の使用人と共に隠居に随行することになった。与助は隠居の接待を期待してか、特段不満もなく、むしろ喜んで右衛門の命令に応じた。右衛門はというと宗衛門の計らいで与助の代わりに身の回りの世話をさせる五平という少年を右衛門に預けて出かけた。
「あなた様のお世話に必要なお金はこの五平に持たせましたが。何しろ分別を十分持った小僧とは言えず。いまだ信用がしかねます。どうか、不始末がございましたら、成敗するなりお見捨てになるなりご自由にしてくださいまし。当方としては一向にかまいません。ご自由にお使いくださいませ。」隠居は五平の方を横目で見ながら、奉公人への威圧を忘れなかった。
五平は宗衛門の言葉をかしこまって聞いていた。優しそうな隠居だと思っていた右衛門はいささか意外な言葉に大阪の商人のすごみを感じずにはいられなかった。
「旦那さまお持ちのお荷物は私が・・」五平にはどう見ても荷が重い。まだ少年なのである。
「いや、肩に背負えば気にならぬ。そういちいち気を使うな。お前は宿の手配をしてくれればそれでいい。」そう言うと右衛門はいつものように相手を気にすることなくすたすたと歩き始めた。この男歩いているときが一番楽しそうなのである。
「旦那様、今度はどちらにお寄りですか。」
「そうさな、我藩内の和尚から紹介されたお寺がある。そこへでも行こうかの。お前はどこか行きたいか。」こう聞くと五平は目を丸くして頭を振った。
そのしぐさを見て、まだ少年だ。と右衛門は改めてそう思った。
雲水と奉公人らしき少年が一緒になって歩いていくのはかなり不釣り合いなんだろうか。街道をすれちがう人の多くは、通り過ぎた後、振り返るのが常であった。しかし、二人は意に介さず。どんどん進んでいく。五平は右衛門から買ってもらった飴細工の菓子を大事そうに手に握りしめ、時折気づいたように舌でゆっくりなめている。
「うまいか五平。」右衛門が声をかけた。
「へい、有難うございます。」そう言ってぺこりとあたまを下げる。
飴で感謝されるとは安い買い物だ。右衛門は傘に隠れてにやりと笑った。この少年なかなか機転が利く。喉が渇けばいつの間にか冷たい水の入った竹の筒をどこかで買い求めて、すっと目の前に出すのである。腹が減れば、飯屋に先に行って飯を注文し彼がやってくるのをじっと見はっているのである。宿の取り方も上手でいつも静かで手ごろな場所を確保する。与助よりよほど使い甲斐がある。彼はそう思った。
右衛門には死んだ妻との間に子ができなかった。もしできていれば五平よりは幼いだろうが、こんなに無邪気に飴を舐めていただろうかと思うと、ふと五平が可愛くなることがあった。
目指す寺は阿波藩の辺鄙な場所にあった。それでも五平は一度も方向を間違えることなく、順調に旅は進んだ。季節は夏。僧の衣もいつの間にか風通しの良い薄手の衣に買い替えられていた。不思議なものでそれでも右衛門が背負う荷物の刀と侍の着物は手放せなかった。武士は結局死ぬまで武士でいたいのかもしれない。右衛門はそう思った。
「五平、今日から宿の部屋は一つでよい。お前は窮屈か。」
五平はしばらく考えているようだったが。
「殿様がそれでいいなら、おらあそれでいい。そうすりゃ、もう布団部屋で寝なくてもいいもんな。」そう言って、右衛門の方を見てにこにこ笑った。
与助と一緒の時はいつも緊張する出来事が起こったが、この少年と一緒になってからは何時もどこか平穏でいられる。緊迫した状況は、人自ら生み出してくるものかもしれない。与助には悪いが右衛門はそんな都合のいい結論に至った。
寺に着くと伊織から手紙が来ていた。彼にはこの寺に立ち寄ることを言っていたのである。
和尚は挨拶もそこそこにいきなり文を右衛門に差しだした。領主からの文だということで、かなり気に留めていたのだろう。右衛門はその慌てぶりに少々戸惑ったが、とりあえず中身を読み始めた。
-藩内の雰囲気ただ事ならず。家老の岩山が何やらあなた様の姉ぎみと頻繁に会っては何やら陰謀を懐いているようで、心配でなりませぬ。私といたしましてはあなたのおうせの通り、次席家老の野瀬清兵を何かと頼っていますが、何しろ高齢にて近頃では耳も遠いようで役に立ちませぬ。叔父上には、なにとぞできるだけ早く帰藩の上、ご助言願えればこれ以上の安心はございませぬ。-
「このぐらいのことで根を上げるとは・・」右衛門は小さく舌打ちをした。
彼にも何かが起こるのだろうとは推測がついていた。あの二人の姉と岩山が黙っているはずがない。そうは思っていた。しかし、騒動が起こる前から不安な文をよこすようでは、少し甥のことを買い被っていたのかもしれない。彼はそう思いながら、伊織の文を丸めて懐に入れた。
和尚はかなり高齢の穏やかそうな人物で、眉が長いのが少し気になる小柄な老人であった。
「あなた様のことは、仁内寺の和尚からの文がすでに届いておりますので、大体のことは分かっております。どうぞ幾日でもお泊り下さいませ。気兼ねには及びませぬ。ところでこの小僧さんは・・」
「いや途中で拾ったような小僧でしてな。大阪で大店の丁稚をしております。これ挨拶せんか。」右衛門は父親のように五平に挨拶を促した。
五平は慌てて頭を地べたに擦り付けた。
「いやいやこれはまた。ご丁寧すぎる挨拶で。」和尚はそう言って大笑いをした。
つられて右衛門と五平もけらけらと笑い始めた。
「何分、少年にて世間の作法も知らぬゆえ。」右衛門はそう言いながら五平の丸坊主の頭を何度も撫でまわした。
「いやいや、これは久しぶりの珍客、何やら楽しくなりそうですわい。」そう言って和尚は二人を快く迎い入れた。
朝早く五平は寺の掃除から始め、一段落すると、朝飯の支度にとりかかる。和尚はその間朝のお勤めのお経を欠かさない。右衛門はというと、朝飯の支度を五平が告げに来るまで縁側をぼんやり眺めている。
「朝の支度が出来ました。」五平が呼びに来る。
「そうか。」そう言った右衛門は片膝ついて立ち上がる。
雀の声だろうか。朝のぼんやりとした平穏の中を急き立てるようにひっきりなしに鳴き声を止めなかった。
和尚と右衛門と五平は膳を並べて何やら話題を探しているようにお互い相手の言葉を待っていた。
「今日はどちらに。」和尚が初めに声出した。
「さよう、この辺りをぶらぶら見て回ろうかと。」別段目的もない右衛門にとってこれ以上の返事は見当たらなかった。
「ところで五平さん。あんたはこの辺の生まれじゃなかろうかな。耳慣れた言葉使いじゃからな。」和尚は、今度は五平に言葉をかけた。
この言葉に関心を持ったのはむしろ右衛門の方であった。
「お前この辺のものか。」改めて右衛門は五平にきいた。
「へえ。もっと山奥の佐那河内でおっとうもおっかあも百姓やってます。おら、十の時から大阪へ丁稚に出されてます。」
「どうりで道にも間違えずにまっすぐこの寺まで来れたのか。」
「へえ。この辺は通ったことがあります。」そう言って何食わぬ顔で味噌汁を啜った。
「帰りたくはないか。」
「とんでもない。奉公の身ですから。そんなことが知れたら大阪の番頭様に追い出されます。」そう言って、へらへらと笑った。
この小僧やせ我慢してるな。右衛門はそんな五平の表情をじっと観察した。五平はよほど居心地が悪かったのだろう、慌てて飯をかっ込むと大急ぎで自分の膳をかたずけ始めた。
カラスの鳴く夕暮れとともに右衛門は寺に帰ってきた。
「これ料理できるか。」右衛門五平に鯛をかざして見せた。
「どうしました。こんな大きな・・」五平は目を丸くしている。
「近くの海まで行ってきた。漁師がこれ釣ったらしいのでな。漁師に売るように頼んで安く買ってきた。」そう言って自慢げに何度もその魚を振りかざした。
「へい、おいらは店の台所で手伝いしてましたから、何とかなると思います。」そう言って右衛門から大切そうに受け取った。
寺の和尚は、とっておきの酒を取り出して、鯛を肴にその夜はみんな思わぬ満足感を味わった。
「おいしゅう頂きました。」和尚は嬉しそうに右衛門にお礼を言った。
傍らで、五平がよほど満足したのだろうか、心地よさそうに寝転がって,いびきをかいていた。
「ところで、あなた様はこのままずっと旅を続けられますか」和尚が尋ねた。
右衛門は酔ってしまったのか、じっと目を閉じて和尚の問いかけに考えをいろいろ巡らしているようであった。
「領内で何やら不穏な動きもあるようで、いましばらく様子を見ようかと。」
「それでは、仁内の和尚にそれとなく文で聞いてみましょうか。」和尚は右衛門の心配に気を利かせた。
「よろしくお頼み申す。」そう言って頭を下げた。
右衛門にとって藩を出る前から、いずれは何か起こるのではないかと覚悟はしていたものの、いささか伊織の手腕に期待もしていた。ましてや信頼をしていた次席家老の清兵もいることだしなどと思っていたが、当てが外れてしまった。結局は岩山らとの対決は避けられそうにないな。と改めて覚悟を決めかけていたが、藩を離れた日々は右衛門にとって何物にも代えがたい幸せな毎日であった。それだけに伊織の手紙は右衛門の心に重くのしかかった。
8
与助が帰ってきた。右衛門にしてみると、相変わらずこの男といるとどことなく刀の場所が気になってくる。要するに侍の習性が呼び覚まされるのである。
よほど腹が減っていたのか与助は五平が慌てて支度した飯を一心不乱に食べている。
「うまいか。」右衛門がその有様を見ながら、からかうように聞いた。
「はあ、何しろ右衛門様にお伝えしなくてはいけないことが有りましてな。」与助は意に返さない。ただうまいから一生懸命食っている。人の目など気にせず食っている。
「文衛門からなんぞ言われたか。」
「はあ、あの老人我藩に興味があるらしく、いろいろ藩の内情について聞きたがりまして。別段隠すこともないと思い。聞かれるままに答えましたが。何分私は藩の重役でもなく、文衛門の期待には反したのではないかと。」
「ほう。」右衛門は意外そうに与助の言葉に耳を傾けた。
「うちの藩にはうまい醤油が盛んに作られていましたな。」
「それで。」
「はあ、あの醤油は確か播磨屋が一手に取り扱っていましたが、どうもそこに目をつけてるようで。」
「あれは岩山が事実上播磨屋と手を組んで自由にしておる。わしも何度か調べようと試みてみたが、容易には調べがつかなかった。何しろ岩山の息のかかった連中が固く秘密を守っていて、どうにも動かせないのだ。それに、藩の財政には大きく貢献している藩の財政の虎の子ということもあって、藩主といえどもどうにも厄介な案件でのう。」
「それがどうも文衛門の言うには、播磨屋はあの商品でかなり莫大な利益を出しているようで。私には分かりかねる話なのでそれ以上は聞かなかったのですが。岩山様の力の源泉もその辺にあるのではと・・。いや、文衛門のいうにはでございますが。」
右衛門の目がきらりと光った。たかが醤油と思っていたが、岩山の財力の裏付けがそんなところにあったとしたら、彼には無視できる話ではなかった。
「それより気になるのは、今の藩の実情で。」
「何か耳に入ったか。」この話には右衛門は興味というより聞きたくない話をいやいや聞かなくてはいけないような気分になった。
「大阪で道場仲間の上西という男に会いました。何やら右衛門様の様子を探るように主席家老に命ぜられ、大阪に出てきたそうなのですが。あいにく右衛門様が立ち寄ると仁内の和尚から聞いていた大阪の寺には立ち寄った気配もなく途方に暮れていました。そんな折、旅のお供をしていると聞いていた私と出会ったので、たいそう喜びましてな。奴とは幼いころからの剣で競い合った仲でして。気のいい男でしてな。」
右衛門は目を閉じて黙って聞いている。このきき方は彼の一種の癖でもある。あまり聞きたくもない話題が出ると必ず目を閉じた。
「どうしてそんな男が岩山の使い走りのようなことをするのだ。よほど家老に信頼でもされているのか。」
「いや、奴はむしろ家老は毛嫌いしているのではないかと思うのですが。何しろそれなりの剣の使い手でして、あなた様と何かあってもそれなりに対応ができると見込んでのことと思われます。」
「要するに、お前と同じムジナか。」これには与助は無気になって反発した。
「それは言い過ぎ。ご冗談にも程がありますぞ。この与助、今では殿のためなら命も惜しまぬ覚悟でお仕えしているつもりですが。」
また命か。右衛門はその言葉が好きではなかった。しかし与助の言葉にいちいちケチをつけるほど暇でもなかった。
「すまぬ。ところで、その上西とやらから何んぞ面白い話でも得られたか。」別に聞きたくもないが。と言いたかったが、押し殺した。
「奴も藩命で大阪まで出向いているので、口を閉ざして何も言いませんでしたが、ちらりと伊織様とご家老がどうも何やら対立しているようで。藩は今そのことで二手に分かれているようであります。」
与助はよほど大事な秘密を打ち明けているように声を潜めたが。右衛門は「そうか。」と言ったなりそれほど関心を示さなかった。
「その男にわしの居場所は言わなかっただろうな。」右衛門が確認する。
「はあ、もう一つ。」与助の打ち消しようからすると喋ったな。右衛門はそう思った。突然与助の顔が曇った。
「なんだ。」右衛門は突き放すように尋ねた。よほど藩の内紛が不快だったのだろう。
「この子の父親が亡くなったそうです。大前屋の主人からの伝言でして。」
あたりの空気が一変した。右衛門は素早く五平の方に目をやった。五平は一瞬顔を歪めた。それを気づかれまいと必死にこらえている。
「それは本当でございますか。」狼狽した声で和尚が聞き返した。和尚は五平を気に入っていた。裏表なく朝から夜まで一生懸命働く少年を見ては右衛門に「良い子が来たものです。」と目を細めて褒めるのであった。
いつものように右衛門は夕暮れにふらふらとあちこち見ながら歩いていた。その日はなぜか雲水姿で大きな笠をかぶり、左手にはどこか近くで買い求めたのだろうか、藁にくるまれた豆腐をぶら下げていた。傘の隙間からふと目を上げると一人の猟師らしき男が布に鉄砲を隠すようにくるんで歩いてきた。右衛門はすれ違いに猟師にしてはあまりにも不気味な殺気を感じた。足を一瞬とめかけたが、ようやくの思いで自分が身構える緊張感を押し殺すことができた。「今日は雲水の格好をしてきてよかった。」そう思いながら、十分遠ざかったのを推し量り、その男の方を振り返って男の鉄砲を確認した。
茶屋の婆さんはすでに右衛門にとってはなじみの顔になった。寺に帰るたびにこの茶屋で一休みするのである。この婆さんこの辺のことなら大抵知っていて、右衛門は、珍しい場所や物をたずねては次の日見て回る目的地を定めるのであった。
「いま猟師らしき者が通って行ったが、婆さん気づかなかったか。」右衛門はさっき会った猟師の殺気が気にかかっていた。
「あの方ならここで一休みしてくれましたわ。何やらこの村の寺のことをしきりに聞いての」右衛門の緊張感がもう一度体にみなぎった。右衛門はその緊張を隠すようにゆっくりと茶を啜った。
「ということはこの辺の者ではないな。」
「旅の方のようでした。それにしても変わったなりでしたな。この辺の猟でもするのかいな。まさかよそ者が許可もなく猟はできんことぐらいわかっていようがな。」そう言って婆さんは怪訝そうに右衛門の顔を賛同を求めるように覗き込んだ。右衛門は婆さんに答えることなく茶代を置くと、早々に寺に向かった。
寺では厨で五平と和尚が何やら話していた。ふと見ると五平の目は真っ赤になっていた。
「どうした、五平。」そう言って何も知らない右衛門は遠慮することなく二人の間に座った。
和尚の話によると、五平の母親というのは、目が見えぬらしいのである。五平は父の死を知った翌日から眠れない日々を過ごしていた。
右衛門は、いつものように五平の働く姿を見かけては内心ほっとしていたのである。しかし、和尚はすでに五平の異変に気づいていた。
今日五平を改めてこの厨に呼び出し、事情を聴いたのである。
「そうですか、私などは鈍感なものでこんな小僧の変化にも一切気づきませんでした。ここに長らく厄介になりながら情けない話です。」右衛門は五平がかわいそうでならなかった。
こんな少年が悲しみをこらえて一生懸命働いていたと思うと涙が出そうになり思わず息をのんだ。
「どうしたんですか。みんな集まって。」
その時、縁側で休んでいた与助が厨の様子に気づいてやってきた。彼は何となく沈んだ空気を察知したのか、彼らの中に割って入るかのように明るい声で三人に声をかけた。すると、
「何をのんきにうろついているんだ。ちっとは五平に見習って庭の掃除でもしてみたらどうだ。」
いきなり右衛門に怒鳴られた与助は、何が何やら合点がいかず、じっとそこに突っ立っていた。そんな与助に気を払うでもなく右衛門は、和尚に先に出会った猟師についての話をした。
「あれは国本から来た鉄砲隊の一員かと思うのですが。」
与助は右衛門の話を聞くと気配をたてぬように片隅にすっと座った。
「それがなぜこんなところに。」怪訝そうに和尚が右衛門に尋ねた。
「和尚もご存じにように我藩では私の存在を消し去りたいと思っている勢力がいるように思えてなりませぬ。」
聞いていた与助は知らず知らずと上半身を前のめりにしていた。
「ということは刺客かなにかと・・。」
和尚がその言葉を発するや否や周りの空気に緊張が走った。右衛門が和尚の問いかけに無言で頷いた。
「話は変わりますが、大前屋が五平に預けた二十両がここにございます。こいつ黙っていたらいいものを寺へ来るなり私にすべて差し出しました。」そう言って右衛門は五平の頭をぐりぐりと撫でた。
「奴らは他国へきて長居をするほどの余裕はないと思います。今晩おそらくこの寺を襲ってくるものと思われます・・。そこでお願いですが、和尚と五平は今日どこか他に宿をとり、明日五平の母を五平とともに迎えに行ってはくれませんか。帰った時には決着はついていると思いますので・・。」右衛門は和尚に言い終わると、与助に声をかけた。
「そこでじゃ、与助。」
与助は興奮しているのか片膝ついて今にも飛び出しそうな恰好をして右衛門の呼びかけに即座に答えようとした。
しかし、先に右衛門の話に答えたのは和尚であった。与助は先を期され再び板の間に座り込んだ。
「右衛門様に言われるまでもなく、そのつもりでおりました。幸い寺にも一人や二人養っていくだけの算段は付きましてな。ましてや五平のような働き者、母と二人仲ようこの寺で暮らせばいい。」そう言って和尚は五平の方を向いて微笑んだ。
さっきから五平の涙が止まらない。何度も何度も二人に床に頭を擦り付けてお礼を言った。和尚と五平は話し合いが住むと早速旅の支度を整えて寺を立ち去った。五平は何度も何度も振り向いては、見送りに出た右衛門の方へ向かって頭を下げた。
右衛門は、自分にも子がいたらこんなお家騒動にはならなかったかもしれない。とふと思うと急にさみしくなり空を仰いだ。
9
「お前ならどう守る。」右衛門が与助に尋ねる。
二人は着流しに袴、刀二本を差し紐をたすきにかけていた。鉄砲がある以上命はどちらに転ぶかわからなかった。そのことを一番心得ていたのは、与助の内に秘めた剣士の闘争心なのだろうか。今までにない殺気が漂っている。と右衛門は思った。
「上西は来ると思うか。」右衛門が与助に尋ねた。
「おそらく。申し訳ございませぬ。奴はこの場所を知っているかと。」
右衛門は与助を咎めなかった。言い争う時ではなかった。彼の剣が必要であった。
「お前ならどうする。」
「鉄砲にはおとりが必要かと。さすれば、縁側の部屋に明かりをともし人影を作ります。」
同じ考えであった。この男、人切になると頭が澄み渡るようだ。右衛門はそんな与助が嫌いになれないのが不思議でならなかった。自分は少なくとも与助のように殺気立つことで全身力をみなぎらせるような単細胞ではないという自負の気持ちがいつもあったのである。それに奴のように争いを好む方でもない。右衛門はいつの間にか与助をこき下ろすことで、逆説的に自分を褒めようとしていることに気づき、その滑稽さを打ち消すかのように自分の頭を撫でていた。
縁側で潜んでいるのは骨が折れた。やぶ蚊に悩まされたのである。お釈迦様は殺生を避けてやぶ蚊に刺されるままじっと瞑想にふけったということを聞いたことが有る。もし自分に生死がかかっていなければ到底我慢できるものではない。そんなことを思いながら与助の方を見ると一心不乱に昼間見慣れた庭の位置を頼りに周辺に見当をつけているようだった。右衛門はこの男の評価をするのはしばらくやめようと思った。もし可能ならば・・・。
これほど思うように事が運んだ作戦もない。
刺客は二名。うち一人は鉄砲を抱えて右衛門のいるすぐ近くにたたずんで部屋の人影に狙いを見定めた。それにしても不思議である。
もし人影を仕留めたとして、もう一名与助の始末は考えていないのだろうか。仮に外したとして、上西は一人で与助と右衛門を切り倒せると思っているのだろうか。
右衛門は迷った。「もしやどこかほかに刺客がいるのでは。」とっさの判断が要求される。焦りで刀を持つ手が小刻みに震えた。
「与助。奴が鉄砲を撃ったら、間を置かず奴の動きを封じてしまえ。できれば生け捕りでな。」与助が小さくうなずいた。
「右衛門様は。」与助が小声で尋ねた。
「わしは、しばらくこのまま潜んでいて、奴らの動きを見定める。言っておくが、生け捕りにできないときは迷うことなく切り捨てろ。誰かが襲ってくるかもしれんでな。」
「はあ。」
銃声が鳴った。部屋の作り物の人影が、吹き飛んだ。あれが自分であったらと思うと右衛門は身震いがした。次の瞬間与助のすさまじい声とともに猟師の人影が庭の地面に崩れ落ちた。
その時である。庭にいたもう一つの影が与助に声をかけた。
「与助、わしだ、上西だ。殿は死んだ。もう抵抗しようが無駄なことだ。」
奴は矛盾に気づいていない。右衛門はそう思った。
「なぜ、闇の中とはいえ鉄砲を撃つや否や与助が鉄砲撃ちを抑えられたのか・・・。」おそらく、生死をかけた争いとは一瞬の判断の誤りや誤解を許してはくれないのだ。
その声を聞いて、門の近くで待っていた二人の刺客が庭の方へ駈け込んできた。右衛門はその瞬間を見逃さなかった。
バサッという音が続き、次の瞬間には二人の刺客が地面に倒れていた。
「上西とやら、わしはここにいるぞ。お主、主君に刃を向けるか。」その声は何時もの右衛門の声とは思えぬ迫力が込められていた。
鉄砲の動きを封じた与助の声が間髪入れづ上西に投げかけられた。
「上西、刀を捨てろ。お主が侍の道をいまだ心得ているならばな。」
その声には相手に対するあざけりの気持ちが込められているようにも聞こえた。
右衛門に肩の右骨を折られた二人の侍は上西聡明と共に右衛門の刺客に送られた年若い藩の侍であった。鉄砲を撃った男は藩の鉄砲隊頭内田清五郎であった。鉄砲隊といっても二十名ほどのにわか武士の集団である。藩としても鉄砲隊を持つことは一種の見栄であった。大きな合戦など想像できない太平の世で鉄砲隊は一種の無用の長物である。だが、小藩といえど、武士の集団である。鉄砲隊がないのは、武士の世の武装集団としては格好にならない。そこで先々代の領主が一計を案じ近くの藩内の猟師の集団を鉄砲隊として編成したのである。「にわか」とはそう言う意味である。しかし、この集団すでに何世代か藩の役目を担っている。藩に仕えている集団としてのプライドは多少なりともあるのである。要するに中途半端な藩士の身分にぶら下っているのである。しかし、この様な身分だからこそ岩山のような知恵に長けた男には、こういう連中は使いやすいのである。「藩のため」という言葉は彼らの忠義心をくすぐるのである。認めてもらいたいと思っている連中を巧みに使う岩山の魂胆が、右衛門には手に取るようにわかるのである。何とか奴のたくらみの逆手をとってやる。右衛門は、目に見えない相手の考えの裏をかくことこそ降りかかった火の粉払う唯一の方法ではないかとひそかに計略めぐらすのであった。
まず、右衛門は鉄砲隊頭内田清五郎に、藩主伊織への請願書を託した。中身はこうである。
ーこの請願書持参する鉄砲頭内田清五郎以下鉄砲隊すべての兵士を当藩武士として他の武士団と同等の身分、すなわち上級藩士並としての扱いとする。このこと、藩主の名においてしかるべき折に上意として藩士の前で藩令の形で公表なされる旨を、元藩主右衛門の依頼として、また藩主相談役の資格をもって請願書として提言申す。-
「どうだ、これで文句あるまい。お主が刺客として命ぜられた家老岩山を裏切る見返りじゃ。呑んでくれ。」そう言って右衛門は清五郎に向かって手をついて頭を下げた。
請願書を読んでいる清五郎の手が震えている。
右衛門の頭を下げる姿を見て、慌てて頭を畳にこすりつけた。
「もったいないことで・・。失礼ながら殿様、この請願書、もし藩主様が呑まれたら大変な事態になるのでは・・。」擦り付けた頭のまま清五郎が尋ねた。
「これから、藩主に背いて大変なことを起こそうと目論んでいる連中を排除すれば、だれも文句は言うまい。これは生きるか死ぬかの争いじゃ。おぬしも元藩主に鉄砲を仕掛けたのじゃ、もはやすでにただではすまぬ大罪を犯したのじゃ。生死を賭けねば逃れられぬ渦中にいることを忘れるな。これは脅しではない。生きるか死ぬか覚悟した上、返答しろ。」
しばらくして、清五郎は頭を上げると、覚悟を決めたかのように、右衛門の方を向いてうんと頷いた。
これで岩山追い落としへの裏工作の第一歩は完了した。
もう一人仲間に引き入れる予定の上西は元々岩山にいい感情は持ってない。与助の説得で案外簡単に裏切りは成立した。もちろん上西に従った二人の青年は言うまでもなかった。どうせ暗殺失敗で命はとっくにないのである。流れは右衛門の逆裏工作に都合よく運んでいた。
右衛門の側に寝返った四人は旅支度を整えて右衛門と与助の前に座った。
右衛門の目配せで、清五郎と上西聡明の前に百両、それぞれの若者たちに三十両が置かれた。
「これは・・。」聡明が怪訝そうに右衛門の方を向いた。
「お主ら各自、藩主伊織派への同調者を募ってほしい。そのための工作資金として使ってほしい。追加の資金は次席家老清兵に伝えてくれれば、万事用意する。遠慮はいらぬ。ただ、我が藩は現在岩山一派がすべて牛耳っている。説得工作はくれぐれも慎重にな。」
四名は納得したかのように頷いて、懐にその金をしまった。
「策略の決着は、伊織が藩主を追われる前に片をつけねばならぬ。お主らが首尾よくわしの命を奪ったことを知れば、岩山の後ろ盾になっている姉上二人が早々に伊織に隠居を迫り、姉佐和の一子菊枝丸五歳を藩主にと藩の評議に申し出ること必定。追い込まれた伊織に抵抗の力はない。せいぜい時をできるだけ稼ぐのが精いっぱい。その前に事を急がねばならぬ。もちろんお主らが裏切ればその時点でこの計画は泡のように潰えること必定。わしはお主らに命を預けたのじゃ。そのこと心にとめておいてくれ。」そう言うと右衛門は四人の前で頭を下げた。
返すように四人は畳にこすりつけるように頭を擦り付けた。
「しかしどのように岩山殿らの失脚を進めるおつもりで。」与助が尋ねた。
「当藩の醤油の商い一手に引き受けている播磨屋を手掛かりにする。」そう言ったなり右衛門は詳しいことは何も言わなかった。
「とにかく次の指示は家老清兵の屋敷を拠点として双方連絡を密にし、条件がそろえば一挙に決着を着けるつもりじゃ。あとは成り行きかのう。」そう言って意外と無邪気に笑った。
その場に居合わせた連中は、なぜかその言葉に腹が座った。すでに生死をかけて争った男たちの、最後に命を捨てる覚悟を決めた経験のおかげだろうか、どこか心に残る軽率さに慣れっこになった単純明快を良しとする気持ちが芽生え、自分の将来に対する成り行きさえも良しとする無頓着さが顔を覗かせたのかもしれない。朝の光を浴びて四人の男たちは足早に寺を後にした。
10
山野伝兵衛の法事は領主が参列するほどの大きな祭事になった。これも佐吉が仇を見事にとって家名の面目を保ったおかげである。そのおかげで、岩山一派に疑われることなく、右衛門の息のかかった連中が一同に集まることができた。法要終了後、仁内寺の奥座敷に、和尚の計らいで次席家老野瀬清兵、上西聡明、鉄砲隊頭内田清五郎、法事で喪主を務めた山野佐吉、それに藩主伊織が床の間の前に座りじっと腕を組んでいる。清五郎が家老野瀬清兵から渡された伊織の上意書きに目を通している。彼の目に涙があふれ書面を持った手は細かく震えている。
「叔父上から指示されたとおりに書いたつもりじゃ。事成就した際は、わが命に代えてその約束を守る所存じゃ。」伊織は腕を組んだまま清五郎に向かって呟いた。
「これで、鉄砲隊二十名、殿並びに右衛門様に二心無き事お誓い申す。我らの悲願かない申した。死んでも本望でございます。」
「まだ死んでもろうては困るがの。」清兵がすかさず言葉をはさんだ。
一同押し殺したような笑いが起こった。
「ところで上西、おぬしはどのぐらい同士を集められた。」清兵が重ねて聞いた。
「以外に岩山殿に不満を持つものは多く、すでに百名を超す藩士が成年組に加わりました。皆血判を交わしております。」
「うん。上々、右衛門殿連絡にはこの佐吉を当てようと思う。佐吉は岩山らには一番信用されているでのう。殿の命で国を出ても疑われることはあるまい。元来野瀬の家柄は派閥政治からは何時も遠い位置でやり過ごしてきた事務方の家じゃからのう。」
つまり日和見の家か。佐吉は冗談を挟もうと思ったがやめた。恥の上塗りである。
「いや、今回ばかりは右衛門様に助けられたこの命どこまでも右衛門様に従ってまいります。」これは本心であった。
「上々。」家老の言い癖が出た。
「皆様、そろそろ。」ずっと警戒していた仁内寺の和尚がそっと会合の終了を促しに座敷に入ってきた。
「皆頼んだぞ。」伊織が頭を下げた。合わせるように皆平服した後、三々五々足早に散っていった。
さっきから右衛門は、大前屋の宗衛門からの便りと仁内寺の和尚からの文を自分の前に並べてじっと目を閉じて腕組みをしている。
「何か定まりましたか。」与助が不安そうに右衛門に尋ねた。ことは動いている。藩での同士の数は思ったよりも集まっている。よほど岩山の藩制に不満があるのだろう。
「藩では着実に同士の数は伸びてるそうだ。」
「そうれは何より。」与助の顔がほころぶ。
もっと嬉しい事に宗衛門が支援してもいいとの便りが届いているのである。
どうも播磨屋とは因縁があるようで、醤油商いの独占権を大前屋に認める許可書を藩主からもらってくれとの依頼であった。与助にそのことを話すと小躍りして喜んだ。
「藩主伊織様は、右衛門様の思うままに許可を認める書状は出すと思いますが。」与助が促すように右衛門に話しかけた。
「伊織が領主でいられればその書状も有効だがの。果たしてそううまく運ぶか。」
それを聞いて与助はさっきまでのぬか喜びを反省したように見えた。
「時が勝負ですな。どうなさいます。」
「とりあえず宗衛門に会ってみなくてはな。明日にでも出立じゃな。」
「婆さんに明日の握り飯頼んできます。ところで五平はどうなさいます。」
「母とずっと居たいだろう。寺で居られるように宗衛門にはわしが頼んでみる。いやとは言うまい。」
与助も同調するように頷いた。
11
家老岩山の住まいは広大な土地に人口の池があり、家を囲む木々は手入れがゆきとどいていた。家の離れには護衛の侍が四・五人で屋敷の周辺にじっとたたずんでいた。元々彼の家柄は主席家老を代々務める見能林藩の名門であった。時代によっては藩の実権を握り領主と言えども岩山家の意向にそぐわぬ命令を下せないほどの権勢を誇っていたこともあるのである。ところが、先々代藩主つまり右衛門の父は岩山家を重用することを嫌った。その結果、次席家老野瀬清兵を対抗させるために何かと相談役として頼ったのである。しかし、元々権力の基盤(人的・経済的基盤)が強固な岩山家を無視することは簡単ではなかったのである。その象徴が、右衛門の領主相続である。岩山は右衛門が領主になるや否や、右衛門の姉らと同盟を組んだ。右衛門はすかさず伊織を後継者に指名したが、このことは藩主と岩山家の対立を決定的なものにしたのである。要するに今度の右衛門と岩山との争いは長年の因縁であった。
「右衛門様が亡くなったという噂が藩内に広がっているようですが。」
大判頭庄内喜八郎、馬周り役土井陽明。両名は岩山の人的基盤の最高幹部であった。藩の武装組織は彼らが握っている。岩山が播磨屋と共謀して生み出す醤油専売の特権で得た資金は、庄内・土井らを通して潤沢に組織集団に流れていた。それこそが権力の源泉であり、岩山一派の強固な団結を支えていた。
庄内の言葉に土井が反応した。
「それが本当であれば伊織様も風前の灯火でございますな。」そう言って岩山の様子をちらりと覗った。
「まあともあれ、藩主は交代してもらう。代わらないと言い張るなら力ずくでも・・。」
「はあ、ご家老の下知が下ればいか様にも。ただ、田崎文衛門の一件のように追い詰められれば一番ことは上手く運ぶのですが。」
庄内も岩山の表情を覗う。
「蔵米の不始末野瀬清兵に被ってもらおうと思っている。」
岩山は、ここしばらくの間に飢饉に際して備えとしている蔵に蓄えた兵糧米をひそかに播磨屋に横流ししているのである。
「倉米の責任は次席家老の担当だからのう。責めは免れまい。その件で一挙にことを運ぼうと思っている。」
藩の重役一同が評議をする場で、野瀬を問い詰め、一挙に庄内、土井率いる武装隊を城になだれ込ませるという作戦である。要するに武装勢力を誇示しながら、否応なく野瀬失政を確定しようというのである。岩山の信念は「正義は力を持つ方にある。」である。そして、これこそ彼が描いた最終的なシナリオだった。
「その場で佐和様一子菊枝丸様家督相続と引き換えに伊織様に藩主引退を願う所存。もちろん次席家老には切腹してもらう。」
その場は静まり返った。しばらくして庄内が口火を切った。
「身震いしますな。これが武者震いというものかしれません。」
土井の言葉に三人は合図に合わせたかの如く不気味な含み笑い声を漏らした。
12
宗右衛門は右衛門を釣りに誘った。宗衛門の横には大前屋の店主である宗衛門の息子の大前喜一郎が並んで糸を垂れている。
どうもこの釣り竿にはエサがついていないようである。
「大事な話になるとここへ来てこうやって糸を垂れます。ご無礼の段はなにとぞご容赦の上。」そういうと宗衛門は釣り糸の方に目をやりながら軽く頭を下げた。
「いや、これは面白いお誘い。ここなら密談には絶好の場所。拙者は一向にかまいませぬ。」
右衛門もまた相手二人には無関心なように川に垂れた釣り糸に目線を落としている。
「申し遅れましたが、これが大前屋を切り盛りする息子の喜一郎と申します。以後お見知りおきを・・。」この店主あまり宗衛門と似ていなかった。鼻筋が通り唇は薄く、薄笑いを漏らすのが癖のようであった。そのせいか人によっては冷淡な性格ではと疑いをもたれるのは商人としては欠点であるのかもしれない。要するに人を寄せ付けるのが苦手なタイプのように見えた。背は高く聡明そうで、眉間のしわがよった時何かを考える思慮深い人物にありがちな神経質そうな印象を与えた。
「ところで喜一郎殿は見能林藩の件については了解済みですかな。」右衛門が喜一郎に話しかけた。
喜一郎はすぐには右衛門の問いに反応しなかったが、しばらくして
「私としましては、この件は乗り気ではありません。ただ、親父様がご支援するといった限りはそう簡単には逆らえません。ただ一点この件で大前屋の名が世間に出ることだけは避ければと思っています。それを確約してくださるのであれば、私は異論ございません。」
そう言って、黙ってしまった。
「むろんその件に関しては異存ござらぬ。」
右衛門がそういうと、宗衛門が後を継いだ。
「播磨屋には息子にも語れぬ昔からの遺恨が有りましてな・・。与助様からあなた様の藩の話を聞いた時から沸き立つ思いをこの年寄りに思い出させてくれましたわ。」そう言って初めて右衛門の方を向いてにやりと笑った。
「これは面白い偶然ですな。遺恨と言えば私の事情もまさにその遺恨とやらで、宗衛門殿との出会いは何かその遺恨が引き合わせたのかもしれませぬな。」そう言って二人は合わせたように笑い出した。
「ところで、藩主様の醤油商いを大前屋に任せるという許可書は頂けるのでしょうか。」
喜一郎が二人の笑いを消し去るように割って入った。
「これ、あまり失礼なことを言うもんでない。」宗衛門がたしなめた。
「ここ二三日の内に藩の者が持ってまいることになっているので、ただし、この藩主の許可書、我甥伊織が藩主でいられたらの話なので、そこはお含みおき下されよ。」
右衛門は山野佐吉が大前屋へ向けて出立したことは清兵からの便りで分かっていたのである。
「ところで、播磨屋のことですが、私どもでいろいろ探らしていましたが、朗報がございます。」
喜一郎という人間どうも、要らぬ無駄口がきらいらしい。右衛門はそう思った。
「ほお、それは。」
「播磨屋であなた様の藩と取引を任されている番頭を当大前屋で百両の支度金で雇い入れることができましてな。もちろん貴方様の件が終わるまでは播磨屋で働いてもらうつもりですが・・。」
つまり播磨屋の内情が把握できる密通者が手に入ったということである。
「さすがに大前屋ほどの商人になると凄味があるのう。いや、おぬしらの本気度を確認出来て、感謝の念に堪えぬ。」右衛門はそう言うと軽く頭を下げた。
よほどこの喜一郎を信頼しているのだろう。宗衛門はさっきから黙って二人の話を聞いていた。
「ほかに何かご入用で。」喜一郎が右衛門に尋ねた。
「鉄砲百丁何とかならんか。」単刀直入である。
「やはり命のやり取りになりますか。」黙っていた宗衛門が口を聞いた。
「侍じゃからのう。決着はそうなるだろうな。ましてや相手は藩の武装集団を握っているからのう。手を引くなら今の内じゃぞ。ただし、事至らずともおぬし等の名は決して出さぬよう計らう。これは信じてもらうしかない。」
「この件に乗った以上。失敗したときの手立ては考えております。」喜一郎は釣り糸から目も話放さず右衛門の話に対応した。
「さすが大阪で名の知れた商人じゃのう。」そう言って右衛門はまた笑った。笑うしかない。そう思った。このぐらいのことでは傾くような大店ではないと言われているようであった。
「わかりました。鉄砲の方はお任せください。それと三千両ばかりこの件のために用意いたします。どうぞご自由にお使いください。」
13
見能林藩の実質動かせる軍団は八百人ほどである。他藩とは違い、長年の金と権力の独占で、藩を取り仕切ってきた筆頭家老岩山重五郎、大判頭庄内喜八郎がいる限り藩主の命といえども、この軍団が従わないのは必定である。上西聡明等が同士を募ったとしても高々百名ほどそれにいざとなってどれだけ従ってくるか確信が持てる保証はないのである。しかし、右衛門は一案を持っていた。それは内田清五郎(鉄砲隊頭)である。鉄砲隊は元々大越村の出身者で固められていた。その村は貧しい猟師町だが、幼いころから老若男女から子供まで鉄砲が扱えるのである。村人らから、にわか鉄砲隊を百人編成すれば、鉄砲隊の数は元々の人数を含め百二十人余りになる。そのカギになる人物が内田である。彼は村の主導的存在であり、彼の説得さえあれば必ず村人たちは動くと右衛門は考えているのである。右衛門は伊織と清兵にこのことを最重要課題として打ち明けていた。
-くれぐれも内田清五郎の説得工作お願い申す。-清兵と連絡を取る時右衛門はその言葉を決して欠かさなかった。
大越村は、田畑が狭く山の猟はその暮らしを少しでも支える足しになっていた。それに、他の村に比べて貧しく、生活がみじめなことへの少しでもの見栄は、内田率いる鉄砲隊の存在と、女、子供といえども鉄砲の技術を持っているというささやかな自負であった。右衛門はその村に目を付けたのである。
「青年隊等同士の援助資金にと清兵に渡してくれ。くれぐれも内密にな。」そう言って右衛門は山野佐吉の前に三百両差し出した。
「そしてこれは大越村の有力者たちの鉄砲隊編成計画の説得工作にと鉄砲隊頭内田に渡してくれ。」
そう言ってもう百両畳の上に置いた。
「このような大金見たこともござらんな。」
そう言いながら佐吉は丁寧に行李にしまい、何度も何度も荷物の確認をしていた。
「伊織と清兵によろしくな。」そう言って佐吉の肩を叩くと、改めて「頼んだ」と言って軽く頭を下げた。
「もったいない。」そう言うと、佐吉は暇を惜しむかのように店の外に向かった。そして、右衛門に向かってさりげなく会釈をすると、足早に大前屋の正面玄関を出て行った。
佐吉が街の道を早足で去って行く。昼間の土煙が日光に反射して靄のように町のあちこちをぼやけさせていた。右衛門は何を思うでもなく晴れ渡った上空の青空をじっと見つめていた。その時喜一郎が声をかけた。
大前屋の奥座敷は簡素な作りになっている。三か所の離れ屋は敷地の中に庭を配していてどの部屋も障子が開けっ放しにしているといかにも心地が良い。特に小さな花々が彩を添えている庭の片隅に目をやるとほっとするのである。さすがに大商人だけあって華美な贅沢にはあまり興味がないのかもしれない。右衛門はそう思った。
喜一郎は何枚かの覚書を右衛門の前に置いた。播磨屋番頭弥吉に探らせていた家老岩山等と播磨屋番頭が取り交わした商売の内容がすべてこの覚書で交わされていたのである。もちろん岩山の署名もあった。
「ようこれだけのものが手に入ったものじゃのう。商人とは恐ろしい集団じゃのう。」
右衛門は見せられた書面を見ながら感心した。喜一郎は薄笑いを浮かべながら
「乗り掛かった舟を沈めるわけにはいきませんからな。」そう言って障子を開けられたままの中庭の方に何げなく目をやった。
「播磨屋の番頭はこの書面を持ち出したのでいずれ番頭の裏切りは発覚すると思います。」喜一郎がポツリと呟いた。
右衛門はこの男の大胆さと緻密さを少し理解したような気がした。宗衛門は喜一郎の横に座って何も言わず目を閉じている。
「我々が何とかする。」右衛門はそう言ったものの策があるわけではなかった。
この男にはこういう楽天的なところがあった。喜一郎はその言葉をどう解釈したのか、いや実際何も期待していたような風もなかった。喜一郎は、役目は終わったとばかりに、宗衛門と一瞬目線を合わせ、右衛門に軽く会釈をするとすっと立ち上がり何事もなかったかのように立ち去った。宗衛門と右衛門は、同じように腕を組み、これからどうするか考え込んで庭をじっと見ていた。いきなり商人風の男が二人のいる部屋に入ってきた。右衛門が彼を見ると同時に、男のほうも右衛門に気付きあわてて畳に手をついて頭を下げた。
「播磨屋番頭弥吉と申します。大前屋の若旦那様からお殿様の役に立てるなら従ってくれとのおうせでございます。」そう言って顔を上げた。不安そうな表情が顔に出ていた。
「そうか。お前岩山のことは知っておろう。」
「はあ、見能林藩は数年前からわたくしが担当させてもらっておりますから。」そう言ってまた頭を下げた。いかにも商人らしく物腰が柔らかそうな男である。背は低いががっしりした体格で、手の平だけが小さいのが右衛門の注意をひいた。どう見てもこのような大胆な裏切りをするような男には見えなかった。
「おそらく、我らが岩山を退けたらお前が一手に見能林藩の商売を扱うことになるのだろうな。宗衛門殿がそう言っておった。お前をよほど見込んでの大勝負に出たとな。」と右衛門が言った。
宗衛門は他人事のように腕を組んだまま、さっきからずっと正面にある庭の木々をじっと見ていた。少々持ち上げすぎかと右衛門は少し反省した。しかし、その言葉に弥吉は予想以上の反応を見せた。いつのまにか不安な表情が顔から消え、目に涙を浮かべて
「大阪でも指折りの大商人の旦那様がそのようなことを・・。私はそれだけで長年奉公していた播磨屋を裏切っても後悔何ぞありまへん。」
普通上級武士の前では教養ある商人ならなるべく江戸言葉を使おうとするのだが、つい感激のあまり訛りが出たのだろうか。この男思ったより単純なのか、それともそんな振りをしているのか。まあ、大金と大店の後ろ盾を得たのだから、振りをしても無理はあるまい。ただし我らの計画がうまくいけばの話だが、そう考えるとやはり弥吉にとっては大博打かもしれん。右衛門はそう思った。すかさず宗衛門が弥吉に話しかけた。
「番頭はんに頼みがあるんやが・・。聞いてくれまっか。」そう言って彼は右衛門を暗に促した。
右衛門は弥吉に鉄砲・兵糧を無事次席家老清兵のもとに届ける役目を頼んだ。見能林藩を知り尽くした彼だからこそこの重要な役目が果たせると思ったのだ。
「そのことは若旦那様からも依頼がありました。その手だてについては大前屋の方々と段取りを詰めております。」
「よろしゅう頼みます。この計画がうまくいったらあんたのことは大前屋があんじょうさせてもらいますからな。」そう言って宗衛門は満面に笑みを浮かべた。弥吉は何度も何度も頭を下げて二人のいる座から離れた。
「さてどうなさいます。」宗衛門が右衛門の顔をじっと見た。
右衛門はその場の緊張を感じ取っているのか、その雰囲気を打ち消すようににやにや笑うばかりだった。そして最後に笑みが消えると一言
「一つ大阪でけじめをつけた後、国本に極秘で帰る所存だ。」と言って、今度は一転恐ろしい程鋭い視線で宗衛門を見た。その気迫はさすがの宗衛門もぞっとするものを感じとってた。
14
次席家老は、彼の家来数人と鉄砲頭野瀬清兵を伴って大越村の寄り合いに来ていた。
十数人の村人と彼らは密かに村の名主の家に集まったのである。村人のだれもがじっと押し黙り緊張の空間は今にも張り裂けそうになっていた。顔を高揚で充血させて、これから起こる出来事を想像して何かに取りつかれているような者もいれば、うつむき加減に頭を垂れ、下をじっと見て、今からおころうとすることにおびえているような表情を浮かべている者もいた。そんな連中を代表するかのように、
「それは命のやり取りにかかわるのではございませんか。」村人の顔役らしき男が恐る恐る口火を切った。
「そうなる。じゃがのう、この話打ち分けたからには、藩主伊織様に従わない連中は反逆罪として死罪は覚悟してもらう。ところで、与平お前岩山の屋敷で奉公していたことがあるな・・・。」そう言って、清兵は与平の方に笑顔を見せながら視線を送った。
与平のの反応を説明するにはあまりにもかわいそうなほど清兵の言葉に狼狽していた。次席家老はそれを察したのか、
「いや、御家老その懸念はご心配なく。我々村人はもう一つにまとまっております。ただ、この計画、殿様の鉄砲隊に志願しないものは一切知らなかったということで、危険には曝したくはございません。それが村の話し合いで決まったこと。志願者はほぼ百数人なっております。もちろんこの話漏らしたものはこの村の責任で始末しますので・・・。」
清五郎は集まった連中に確認をとるように次席家老野瀬清兵に向かってまくしたてた。実は清五郎はこの台詞すでに清兵と打ち合わせ済みであった。
「・・で、志願者代表は来てるおかのう。」清兵がそういうとさっきから顔を真っ赤にしていた連中が七・八名ほど勢いよく立ち上がった。
「わしはこんな機会が来ることを待ち望んでいましただ。危ない橋を渡るのは承知の上でごぜえます。ご家老様わしらを使ってくださいまし、末代までの誇りと思って死ぬまで戦いますだ。」
志願者の一人がそういうと立ち上がった。連中が抑えていたエネルギ-を発散するかのように、
「おお・・。」雄叫びをあげて拳を振りかざした。座っている連中はその勢いに圧倒されたのかただひたすら押し黙っていた。
家老の目から涙がこぼれた。
「この老体恥を忍んで生きていた甲斐があった。右衛門様隠居の際は死をもって岩山らへの恨み晴らそうかと思ったが・・・。」ここで清兵は言葉を詰まらせた。
そして、顔を上げると、
「なお、くれぐれも言っておくが志願者以外関わりを持たぬことに異論はないが、もしこの計画この村から発覚するようなことあれば、おそらく村人等、いや、これに関わったすべての侍がその者末代まで恨むと承知しておいてくれ。もちろんその者の命などあろうはずがない。」家老は最後まで念を押すことを忘れなかった。
清五郎は家老の言い回しと所作がおかしくて、笑いをこらえるためにきゅっと唇をかんだ。結局のところ、この寄り合い自分と清兵の田舎芝居のように見えてきたのである。それ程入念に清兵と清五郎はこの寄り合いのために喋る言葉まで打ち合わせてきたのである。
最後に家老は家来に目配せすると、千両という大金が名主の前に置かれた。これには集まった連中のどよめきはしばらくの間収まることがなかった。
「これは右衛門様と伊織様からの村人への戦闘苦役並びに残りの村人へ危険を晒すことになったことへの補償金と労働賃と思って受け取ってくれ。後はお主らでよろしゅう処理してくれればよい。これだけの金があれば万が一事が失敗に終わっても村人全員この藩から逃げ出すこともできるぞ、いや仮にの話じゃ。」
清兵がそう言い終わると、再びあたりが盛り上がり、大きな声で自分の勇気も鼓舞するもの、うれしさで抑えきれない喜びを叫び声で表現しようとするもの・・。あたりは、しばらく収集がつかなくなったかのようだった。そんな中、
「後はよろしゅう。」重五郎にそう言うと家老清兵はふっと安堵のため息を漏らしその場を家来とともに立ち去った。
「あと少し待てばここを通るかと。」与助が寺の近くの大通りでじっとたたずむ右衛門に耳打ちをした。愛用の日本刀を腰に差し、旅支度を整えた浪人風の身なりとなった右衛門は、月夜に照らされてはいるがそれでも人を判別するには少し薄暗い、静まり返った辺りの雰囲気の中、播磨屋が来るだろう大通りを不気味な殺気をみなぎらせ、薄暗い空間に目を慣らすためだろうか、たじろぎもせず、辺りの空間を見つめていた。
「播磨屋主人に間違いないか。」
与助と共に顔見分をした播磨屋番頭弥吉が深くうなずいた。
「ご苦労。お前は先に帰って、きっと鉄砲届けてくれ。わしらも程なく後を追う。家老清兵には会えたなら右衛門が頼むと言っておったと言ってくれ。」
「へえ、ご武運を・・。」
そう言うと弥吉は一目散に播磨屋らが来るだろう方向と反対側の方向へ駆け出した。しばらく行くと再び振り向いて右衛門の方に頭を下げて闇の中へと吸い込まれた。
「他の通行人が通らねばいいのですが。月夜の大通りは目立ちすぎますからな。」
与助が大通りを見つめながらさっきから刀の束の位置を何度も確認していた。
「構わぬ。たとえ誰が通ろうと、歯向かうものはすべて切る。」右衛門のその言葉を聞いたとき、与助はぎょっとした。
それ程右衛門は普段のどこか楽天的な彼とは違っていた。全身に殺気を漲らせ、積年恨みへの復讐に燃えているように見えた。与助は改めて人を切る殺気を全身にみなぎらせようとした。
15
・・・籠の前を何も言わず右衛門がよぎった。
「何者。」護衛の浪人が五・六人さっと右衛門を囲むように散らばった。
「ほう、お主ら金毘羅参りの折の浪人じゃな。」
さっき迄与助と潜んでいた時と違って、右衛門はいつものように顔に笑みをたたえ、冷静に相手の顔を観察していた。うまく殺気を隠せるものだ。傍らに潜んでいた与助は改めて右衛門が生死をかけて剣を持った時の右衛門の所作に感心した。
「お主、大前宗衛門と一緒にいた雲水じゃな。で、それが何用じゃ。」
声だけでようわかったな。それとも以前から知っておったかもしれん。右衛門は一瞬そう思った。
大前屋という言葉を聞くや否や、籠の中でじっと様子を見ていた播磨屋の主人が籠から降りて、右衛門の方を見た。播磨屋主人には余裕の表情があった。おそらくこの浪人ども、かなり腕が立つのだろうか。右衛門はそう思ったが、自分自身への剣の心棒者でもある右衛門にとって微塵もひるむ要因にはならなかった。自信とは恐ろしいものである彼には自分が倒される想定はどうしても思い描けなかったのである。実際、そんな想定はなかった。
「わしは、元見能林藩藩主佐藤右衛門じゃ。
わしがお主を殺す理由は分かったであろう。
ようも我が藩を食い物にしてくれたのう。いずれお前と同様、岩山もお前の後を追わせてやる。悪いが死んでもらうぞ。」
言うが早いか、右衛門を取り囲んでいた浪人たちが、月の光で輝いた右衛門の刃の動きに合わせるようにバタバタと倒れた。誰一人うめき声も出せなかった。あっけにとられ金縛りにあった播磨屋主人が呆然とかごのそばで立っていた。右衛門は人を殺したすごみを帯びた眼光で播磨屋主人の動きを抑え込み、別に慌てることもなく、すたすたと播磨屋の脇を通り過ぎるときに、まるでスイカを弦から切り落とすように彼の頭を地面に転がせた。一刀両断とはまさにこのことである。与助は刀の束をじっと握ったまま、小便を漏らしていた。
「与助出てこい。すべて終わった。このまま見能林藩へ帰るぞ。」
そう言うと、右衛門は振り向きもせず、死体を残して駆け出した。与助はその言葉に初めて我を取り戻し、必死で右衛門の後を追った。
・・・「どうしたんや。ぶるぶる震えて。」宗衛門がひそかに後を追わせた手代を叱責した。
「どうなった。」
宗衛門の傍らにいた喜一郎が再び震えながらようやく見届けて帰った手代に問いかけた。
「あのお方鬼でおましたわ。」手代はやっとそう言った。
二人はお互い顔を見合わせた。その言葉は宗衛門にすべてを語った。
彼は、「うんうん。」と頷くと、そのまま奥へ引っ込んでしまった。涙を息子や手代に見られなくなかったのかもしれない。
その後詳細を手代から聞いた喜一郎は、右衛門と過ごした数日間が急に恐ろしくなり、腕で上半身を抱え込んで、ただ何も言えず呆然と立っていた。しばらくすると、宗衛門の冷静ぶりを思い起こして、今の自分との格の違いを思い知った。
「やっぱり親父とは肝の座りようが違うんやろか。不安の気色も見せへんな。」そう思った。と同時に、今やっている計画がどれだけ恐ろしいことかを改めて認識し、深入りしすぎたのではないかと不安が募るばかりだった。
16
播磨屋番頭弥吉が鉄砲と武器・兵糧を家老清兵の屋敷に運び込んだのは秋の虫が鳴く日も暮れた月の明かりもない新月の夜だった。一万両もの大金を苦もなく鉄砲・武器・兵糧に変え、知られたら首がいくつあっても足りない鉄砲をいかに精通した土地とはいえ、こうも鮮やかに運んでしまうのは並大抵の商人ではない。と清兵は弥吉が畳の上で頭を下げるのをじっと見ながら感心していた。
「ご苦労じゃったのう。」清兵は弥吉をねぎらった。
「はあ。」弥吉はそう言ったまま頭も上げず、じっと押し黙っている。
「それにしてもお主ほどの商人が一体どうして播磨屋主人を裏切ったのかのう・・・。いや、これは余計なことを言ってしもうた。この通りじゃ。」
そう言って家老は軽く頭を下げた。
弥吉は清兵が頭を下げたことに反応しなかった。よほど思いつめた思いがあったのだろうか、しばらく間が空いたが、ぽつりぽつりと誰に聞かせるという風でもなく語り始めた。
「播磨屋は以前若旦那様が店主として切り盛りなさってまして、その旦那様が二年前に辻斬りに会いました。それにとって代わったのが今の店主で播磨屋の大番頭でおました。大前屋のご隠居さんは我娘を、殺された若旦那様のところへ嫁がせていましてな・・。二人の間には大前屋の隠居様のお孫さんもおますので・・。私はそんな関係でようお孫さんが大前屋に遊びに行くたびにお供させてもらいまして・・。そんなで大前屋の隠居さんは以前から私に目をかけてくれまして・・。」
ふっと我に返ったように弥吉は清兵衛の方に視線を向けた。
「今から言うことはご家老さんにだけいうたわごとですけど、聞いてもらいますか・・。」
言うだけ言えばそれでいい。何か吹っ切れた気持ちで、弥吉は清兵の許しも確認せずに話を続けた。
「今の播磨屋の主人の警護をしている山桐高清というお方ご存じありまへんやろか。岩山様のご家来と聞いていますが・・・。」
そう言うと弥吉は、もう一度顔を上げじっと家老清兵の目を覗き込んだ。
「よう知っておる。岩山の命令で大阪へ行っておると聞いていたが・・。なるほど・・、分かった。よう言ってくれた。これで合点がいった。」清兵はそれ以上弥吉に尋ねようとは思わなかった。
「右衛門様が帰ったら、弥吉が殿様のお手伝いが出来て喜んでいた。と言っといてくださいまし。」
そう言うと、弥吉は再び頭を下げて、屋敷の誰とも接することなく急ぎ足で一目散に家老の屋敷を後にした。
程なくして、弥吉と入れかわるように右衛門と与助が闇夜に紛れて清兵の屋敷の門をたたいた。不眠不休で帰ってきたのだろう。着るものはぼろぼろ、無精ひげを顔じゅうに生やしたままで、二人とも乞食のようであった。
「これを急ぎ上西聡明に渡してくれ。」
そう言って、右衛門は大前屋からもらった岩山と播磨屋との覚書を家老清兵に渡した。
「それにな、急ぎ大越村まで行って鉄砲隊の志願者を仁内寺に集めてくれ。兵糧鉄砲は届いたか。」
思っていることを吐き出すことで一生懸命になっている右衛門を見ていると、清兵は若いころの右衛門を思い出し、涙が今にもこぼれそうになるのを必死に抑えた。
「今さっき弥吉の働きで無事届きました。」
「それをすぐに仁内寺移してくれ。それだけだ。わしと与助はしばらく寝る。」そう言うと二人は清兵の家臣に抱きかかえられるように離れの間に移された。
「いよいよだな。」清兵はそう思いじっと漆黒の闇をにらんでいた。
18
「仁内寺に続々と人が集まっております。」
馬周り役土井陽明が城に出所してきた家老岩山重五郎にそっとつぶやいた。岩山はお倉米横流しの件で次席家老野瀬清兵を問い詰めることを朝からずっと思案していた。
「原因は分らぬのか。」
岩山には心当たりは皆目なかった。ただ、少し嫌な気持ちが心をかすめたのは藩主伊織様がいまだ城に上がらず、その世話役である藩主の身近に使える家来も誰一人城に来ていなかったのである。
まもなく、城に出勤していた別の役人が慌てた様子で筆頭家老の処へやってきた。
「口々にご家老の不正を正すと叫びながら成年組の連中を中心に仁内寺に集結しているようで。その数すでに百名を超えているようであります。いかがいたしましょうか。」
「いかがなどと悠長な状況ではない。すぐ庄内喜八郎を呼べ。」
岩山の顔の表情がみるみる険しくなってきた。
筆頭家老岩山、大判頭庄内喜八郎、馬周り役土井陽明、いつもの三人が奥の間で話し合っていた。
「仁和寺の反乱兵は二百人程に膨れ上がっております。わが方の鎮圧隊も程なく城に結集するかと。」庄内喜八郎が岩山に報告した。
「これはむしろ好都合かもしれんぞ。この機を利用して一挙に藩の体制を力ずくで奪い取り、藩主伊織様には、反乱分子鎮圧後のありさまを十分お見せすれば、藩主引退の件ももはやいやとは言えまい。よしんば、いやといっても領内を武力で掌握して、抵抗する勢力もつぶされたとなればどうすることもできまい。この際、一挙に佐和様一子菊枝丸を藩主の座に就かせることが、容易に可能にるではないか。」
岩山の顔からようやく笑顔がこぼれた。ただ、側近二人への心理的不安を取り除こうとする岩山の苦肉の物言いのようにも聞こえた。庄内と土井は岩山の言葉にこれからの鎮圧でどれだけの血を流せねばならないか想像すると、岩山の陰謀による政権把握から力ずくに変わった筋書きに、話が違うではないかと少し憂鬱な気分ではあったが。内心は表情に出さず、家老に合わせてお互いに見合わせて顔をほころばせるより仕方がなかった。
しかし、時間がたつにつれ自体は悪化をたどった。仁内寺を取り囲んだ大判頭庄内配下の鎮圧隊六百の圧倒的兵力の差にもかかわらず
仁和寺に立てこもった連中は降伏する様子すら見せず、返って意気揚々と歓声を上げて鎮圧隊を挑発すらする状態であった。大判頭庄内は突入して武力で抑え込むことを迷っていた。いくら無力とはいえ、藩主の許しもなく強行すれば、万が一失敗した場合、家老岩山はかばってくれるだろうか。長年の付き合いで岩山の計算高さは舌を巻くものがあった。その冷徹な駆引きで、保身のために自分を切るようなことになれば、田崎文衛門の二の前になりかねない。荘内は決断の好機を見失いかけていた。その時事態はさらに悪化した。
「鉄砲隊頭内田清五郎以下鉄砲隊の姿が見えませぬ。」
鎮圧隊隊長の招集するようにとの命令にもかかわらず。鉄砲隊屯所には誰もいないというのである。岩山以下側近たちはこの頃になると何か訳のわからない大きな勢力がひたひたと自分たちを押しつぶそうとしているのではないかという不安で一杯になり、予想もしない事態になすすべをなくした状態に陥っていた。ただそんな雰囲気の中で岩山だけは幾たびかの争いごとに勝ち抜いてきたという自分への自信を忘れなかった。最後は頭のいい人間が冷静に判断すれば逆境は跳ね返せる。そのことを自分の体験として確信していたのである。岩山がやっと口火を切った。
「上西聡明の姿を見た者はいるか。」
あまりにも唐突な質問に側近たちは思わず顔を見合わせた。ただ、大判頭庄内喜八郎だけは岩山の考えていることを理解した。
「もしや右衛門様が・・。」
その名前は岩山以下集まった配下の連中十数名の気持ちを震撼させた。ようやく、岩山の言葉の意味を理解した側近たちのささやく声で辺りは騒然とし始めた。
「伊織様は、裏屋敷に閉じこもったまま屋敷を閉門したままうごく様子がございません。」
後から飛び込んできた岩山の側近は動揺の表情を隠すことができないまま岩山に報告した。
更に、動揺は辺りに大きな波動のように広がっていった。
「静かに・・。」
岩山が一括すると城内に設けられた評定の間はシーンと静まり返った。
岩山は次の一手を考えている。右衛門の存在が明らかだとすれば、事はそう容易ではない。彼は右衛門を軽く見てはいなかった。自分とは正反対の、どこか陽気で、人懐っこいように見えた彼の性格は、外見の性格とはまったく違うどこかその心のうちに秘める得体のしれない、執拗な人への猜疑心があった。岩山がいくら彼を騙そうとしても決して受け入れない用心深さを備えていた。「わしに似ている。」そう思って驚かされることがよくあった。
「土井、いま城内にわしらの兵は幾人ほどおる。」
馬周り役に岩山が目を閉じて思案している姿勢のまま尋ねた。
「二百は待機しております。ただし、その隊を動かせば城内を掌握することは不可能かと。」
この男まだ状況が分かっておらぬ。岩山はそう思った。しかしそんな男だからこそ、安心して使えるのかもしれない。とも思った。
午後に入り事態は決定的になった。播磨屋からの連絡が入り、播磨屋主人が山桐高清とともに殺害されたことが判明したのである。「今が動くとき」と岩山は決断した。
「狙うは、右衛門殿、きっと伊織様裏屋敷にいるに違いない。全隊率いて裏屋敷へ出兵じゃ。こうなったら、後へは引けぬ。生きるか死ぬかじゃ。皆覚悟せい。」
前に並んだ家臣に檄が飛んだ。
「庄内、お主は直ちに仁内寺に向かい。反乱者を皆殺しにせい。殺すか殺されるかじゃ。我らには圧倒的兵力がある。戦に勝つは必定。長年の確執すべてに白黒をつけようではないか。」
家老がそう言うと、初めて全員覚悟がついたのだろうか。座敷は熱気ではちきれんばかりになり。集まった連中は目的を定め、座敷を飛び出した。全員の駆け出すその足音は、さながら北へ向かう渡り鳥が一斉に飛び立つ羽音のようなけたたましい音のように、すさまじい勢いであった。
寺の方で銃声が響いた。その音は藩主浦屋敷まで響き渡るほどの大きさであった。岩山の顔から余裕の笑みが消え、みるみる恐怖で顔がゆがんでいった。寺を制圧した兵の援軍を待って、取り囲んでいる裏屋敷に総攻撃をかけようと思っていたかねてからの戦略に狂いが生じた。
その時、固く閉じていた正面の扉がゆっくりと開いた。右衛門が数人の家臣と共に悠然と立っていたのである。土塀を見ると内田清五郎率いる鉄砲隊が、大判頭庄内喜八郎率いる兵に的をしぼって、もし屋敷に突入する気配でもあれば、一斉に鉄砲の火が炸裂する構えであった。
しばらく双方にらみ合った後、右衛門が岩山に声をかけた。
「久しぶりじゃのう。岩山。ここはわしとお主、それに庄内とで決着を着けようではないか。おそらく仁内寺にいるお主らの兵は当てにはできぬぞ。」
右衛門には仁内寺の勝利には自信があった。
事実、寺での与助以下上西聡明が中心になった青年隊は、あっという間に戦況で優位に立った。それほど鉄砲の一斉射撃の威力はすさまじかった。銃声が聞こえたかと思った瞬間、寺の周りには敵兵の死体が累々と横たわっていた。その後、雲の子を散らすように敗走する土井陽明率いる鎮圧隊は統率力と戦意を完全に失い、ただただこの場から逃げ出そうと辺りを走り回るばかりだった。挙句の果てには、彼らに追い打ちをかけるべく寺から飛び出した青年武士たちに、鎮圧隊はなすすべもなく切り倒されていった。何とか応戦した何十人かの腕に覚えのある土井方の武士も塀から狙い撃ちする大越村のにわか鉄砲隊の射撃に次々と倒されていった。敗走する兵の中、呆然と立ち尽くす土井の前までやってきた上西が、いきなり土井の前で立ちどまり、何も言わずすっと剣を抜き、正眼に構えた。応じるように土井が上西に向かって剣を抜き正眼に構えた。土井の闘争心は、上西を切り倒すことに集中し、さっき迄の動揺は次第に消え失せていった。ここは剣で上西を倒し、一矢報いるまで、そう覚悟した時、土井の状況判断の迷いは一舜消えたかに見えた。すると次の瞬間彼らの前を通り過ぎて、他の敗走する兵に追い打ちをかけていた与助の剣が、土井を通り過ぎるや否や反転し、後ろからばさりと土井を切り倒した。あっけにとられた上西が与助の振る舞いに怒りを爆発させた。
「何をする。卑怯にもほどがある。」
彼の顔は与助への反感で真っ赤になっていた。
与助はそんな上西に注意を払うでもなく、
「ここは戦場ぞ。こんな場に正々堂々も武士道もあるか。むしろそれが戦場での武士の作法じゃ。」
そう言うとさっさと上西のもとを離れ、敗走兵を再び追い続けた。・・・・
程なく、仁内寺に居たはずの敗走兵が裏屋敷の近くを敗走するのを見て、岩山はすべての状況を把握した。
「この期に及んで右衛門殿の誘いに乗らぬ手はあるまい。」
そう言って剣を抜いた。庄内は初めて岩山と気持ちが一致したと思った。その後二人は何の言葉も交わさず。お互い推し量ったかのように一斉に右衛門めがけて駆け出した。右衛門は家臣の手出しを押しとどめると、一人ずんずんと岩山と庄内の方へ向かって歩き出した。
「大丈夫か叔父上は、清兵。」
後ろで様子を見ていた伊織が不安そうに尋ねた。
清兵は今から始まる三人の死闘をにこにこしながら眺めていた。
「右衛門様のお父上は、私に右衛門様のことを鬼の右衛門とおっしゃっておられました。誰もこの藩じゃ右衛門様の剣の凄まじさを知るものはいますまい。いや、与助と私を除いて・・。」
そう言ってからからと笑い始めた。
清兵の予言通り勝負はあっけなく済んだ。右衛門は、すさまじい勢いで一斉に切りかかってきた二人の一撃を分散する意図があったのだろうか、とっさに二人の正面から自分の姿を消すかのように、あっという間に自分の体を横に逸らした。それでもその動きに追随してきた庄内の一撃を難なくかわすと、遅れて打ち込んできた岩山の居合切りを、その一撃に勝る気迫で受け止めた、反動で反り返った岩山の首を鮮やかに払ったかと思うと、荘内が浴びせようとした二の矢の剣を難なくかわし、彼の体を上から下へと一刀両断に切り捨てた。二人とも即死であった。切り捨てた二つの遺体をしり目に右衛門は動揺で右往左往する庄内率いる兵に向かって、
「今直ちに、武器を捨て神妙にその場にひざまずくものにはお咎めなし。そう心得よ。」と大声で叫んだ。
任内寺から敗走する兵を見て、さらに家老岩山と庄内喜八郎が鬼神のごとく剣を操る右衛門になすすべもなく切り殺されるのを目の当たりにした兵は、その言葉に逆らうものなどいようはずもなかった。その有様を遠くから確認した仁内寺からの敗走兵達もまた、すべて状況を悟ったかのように右衛門の方に向かって武器を捨ててひれ伏した。その光景はさながら、天から舞い降りた鬼神に恐れおののき、犯した過ちの許しを請うべく、地に頭を垂れた罪人たちの群れのようだった。肩に血にまみれた剣を担ぎ、ふっと息をついた右衛門の表情は、鬼の形相から仏の表情に変わっていく伝説の大魔神の話を彷彿とさせるものだった。ただ、右衛門自身は、自分の心の中にある狂気を大勢の群衆の前に晒したことへの屈辱のような、いやむしろ羞恥心のようなものを感じていた。それはまさに血を見て興奮する変質者が、自分の姿を周りに見られて感じるいたたまれない恥ずかしさに似ているのかもしれない。
「伊織、後は頼む。早くこっちへ来い。」
消えてなくなりたいような気持で、右衛門は伊織に助けを求めると、さっさとその場を後にして、裏屋敷の方へ向かって走り去った。
慌ててやってきた伊織は、
「みな、城へ集まり家老野瀬清兵の下知に神妙に従え。」とそれだけ言うと清兵の顔を見た。
「それでよろしゅうございます。」清兵はそう言うと、笑顔で伊織の反応に答えた。空はすでに夕焼け空に変わり、見能林藩で一番長い日は、騒動への一つの解答を出して終わろうとしていた。
19
次席家老野瀬清兵,鉄砲隊頭内田清五郎,
播磨屋番頭弥吉、上西聡明、田崎与助、山野佐吉。藩主伊織の別邸裏屋敷に一同が集まった。もちろん右衛門は伊織の横に座を取って、本来あまり飲まない酒を、出席した全員からかわるがわる勧められるままに杯を重ねていた。全員の盃を受けた後、膳に盃を置き少し赤くなった顔を上げ、みんなの顔を確認するかのように見渡した後初めて口を開いた。
「皆に集まってもらったのは当然この度の一戦における感謝と、わしが皆に約束したことの藩主伊織の同意と保証を確認するためじゃ。」
そう言って右衛門は数枚の紙を一つ一つ読み上げていった。
醤油他藩の物産品を大前屋独占とする。鉄砲隊を上級武士並みに格上げする。山野佐吉を大前屋番頭弥吉との交渉役にする。鉄砲隊として役目を果たした大越村の隊員全員に金十両の報奨金を与える等々。藩主はいちいち書状にしたためた約束状に自分の名を署名していった。それぞれ書状を受け取ったものはしんみり頭を垂れ、何も言わず涙ぐむものもいた。
「これでわしも心おきなく旅に出られる。」そう言って右衛門は締めくくった。
「右衛門様。私はこれからもお供する覚悟にございます。」与助である。
「いや、それはご免被る。お主も見能林藩藩士として藩主伊織を支えてくれ。」そう言って軽く頭を下げた。
「何も旅に出なくとも。この地でお過ごしなされては・・。幸い争う相手も一掃された故。」上西である。
「おぬしら(与助、上西)、一戦以来いがみ合っているそうじゃのう。理由は聞いた。」二人の表情が硬くなった。右衛門は二人の顔を改めて確認すると、なおも続けた。
「馬周り役土井陽明という男、上西の剣の技量で切れると思うたか・・・。お主、もしあのまま切り合っていればこの場にはいないだろうよ。そのことを知って与助が覚悟を決めたのじゃ。与助の肩を持つではないが、おぬしにはあの男は切れぬ。それだけは確かじゃ。そのこと心に留めて与助といがみ合えばよかろう。」
さすがに上西はじっと押し黙ったまま畳に目線を落としている。右衛門は上西に向かってなおも続けた。
「お主には人をまとめる力がある。その能力は剣の技量など比べ物にならぬ才能じゃ。お主その器で藩主に仕えてくれ。そもそも武士が正々堂々などと言い出すとろくな結果にはならん。そのことわしの最後の忠告と思って心に留めてくれ。」
これを聞いて喜んだのは商人である弥吉であった。侍の間に一人ぽつんとたたずんでいたがその時ばかりは大きくうなずいた。
「見ろ、弥吉がうなずいておるわ。」
右衛門はもちろん、弥吉と上西以外はその場で大いに盛り上がった。右衛門が続ける。
「ところで清兵、どうじゃ頼んでおいた娘のことじゃが。」
「殿の頼みと有れば・・。」
「殿はちと差し支えあろう。のう伊織・・。」
「いや、伊織様には申し訳ないが、私の務めの最後は右衛門様の家臣で引退しとう御座います。」そう言って伊織を見た。伊織も返すように頷いた。改めて右衛門が話し始めた。
「上西、お前に清兵の娘琴絵を嫁にとのことじゃ。異存なかろうな。」
「ええ。」驚いたのは与助の方だった。
琴絵と言えば藩内敵なしの美人であった。与助は上西が羨ましかった。それだけのことだった。その思いが思わず声について出た。
「清兵はこれで野瀬の家を上西に譲るそうじゃ。後は伊織の補佐は上西に頼む。わしがたくらむ最後の頼みじゃ。後はこの藩は藩主伊織の肩にかかっておる。」
伊織は静かにうなずいて、なぜか自分の頭を二三度手で撫でた。こういう仕草がこの男の憎めないところだ。右衛門は伊織の仕草を見てにやりと笑った。上西は何も言わず。ただただ夢見心地でたたずんでいた。少なくとも与助はそう思った。酒宴は続き、みな酩酊し、最後には奥で仕えていた家臣まで酩酊して寝込んでしまった。
明け方近く右衛門は誰にも気づかれないように屋敷を出た。
「右衛門様、私を置き去りとは薄情ですな。」
右衛門が振り返ると与助が旅支度をして立っていた。右衛門はひそかに与助が来てくれることを期待していたのかもしれない。右衛門は与助の姿を認めると、いつものように朝霧の中をすたすたと歩き始めた。遠くの方で二人の姿を見るといかにも淡々と歩を進める二つの点が等間隔で平行移動しているようだった。