右衛門7-2
1(江戸薩摩藩邸)
四人の男たちが薩摩藩邸で集まった。この四人が揃うと、ろくなことがない。
薩摩藩筆頭家老 別所広家、稀代の策士であり、数々の陰謀をやり遂げてきた。目的のためには手段を選ばず、しかも、この男が企む事は、何時も公儀の目を盗む大事であり、途方もない利益をもたらす案件が多かった。やり方は陰湿で、手段を選ばず、人の一人や二人殺めることなど、蚊の刺すほどの良心の呵責も持ち合わせてはいない。そんな彼の鉄のような心の支えになっているのが「お家のため」という絶対的価値観だった。
そして、そんな彼の陰謀の片棒を担いできたのが、三人の男たちである。一人は、天草の豪商であり、薩摩藩のお抱え商人である石本善兵衛。二人目は、薬士実人、示現流指折りの実力者であり、数々の人間を葬ってきた暗殺者という裏の顔を持っていた。そして最後に、稲葉秀郷、家老の忠実な側近である。
「上野生馬様(老中筆頭)も不甲斐ないのう。せっかく幕府の頂きに立ったというのに、尾張藩筆頭家老 成瀬様への配慮を欠いて、あっという間に、元大目付柳生義親様の逆襲にあってしまった。今度の大目付 秋山正直は、義親様の家老ではないか。さらに、ずっと安藤様(紀州筆頭家老)の反対で、懸案になっていた紀州水野様も老中に就任なされた。あのお方は、老中筆頭の器ではないのかもしれんな・・・。」
別所(薩摩藩筆頭家老)は、最後に上野の力量に判断を下して、誰に視線を向けるでもなく、襖の牡丹を見ながらせせら笑った。
「どういたしましょうか・・。柳生義親様に近づいてみましょうか。」
稲葉秀郷(薩摩藩家老側近)が、小声で別所に打診した。
「あのお方は、なびくまい。柳生といえば、権現様以来仕える幕府剣術指南役であり、何度となく大目付として、全国の藩に目配せをしてきた家柄。我ら外様には常に警戒心を持っておる。それに、あのお方は、我らの示現流には何かしら敵対心があろう。何せ、示現流といえば、今や実力では柳生を凌ぐ、天下にとどろく薩摩の必殺剣。のう、薬士・・。」
そう言うと、別所は薬士に目をやった。
薬士は、その視線を感じてにやりと笑った。
「ところで、今度のオランダとの密貿易はうまくいってるのか・・。何せ、船ごと平戸には寄港させず、海上でごっそり商品を密貿易するのだからなあ。うまくいけば、殿もご満悦だろう。あの方の蘭壁は、異常だからなあ・・。この前も、わざわざ、平戸へ行かれて、オランダのカピテンと直接オランダ語で談笑されるほどのオランダ通だから・・。」
別所は、ぬかりなのない視線で、今度は石本善兵衛を見た。
「長崎会所の役人には、いつものように手は打っております。奴らとて、薩摩の長崎商法で黙認してきた積み荷の件もあり、今までの根回しで受け取った賄賂もあることですし、今さら我らを裏切ることはありますまい。もし、逆らえば、自分の首が飛ぶことは、知らないことはないと思います。」
石本は、そう言って、余裕の笑みをこぼした。
長崎商法とは、薩摩藩が琉球貿易で得た唐物を、長崎会所(海外貿易の唯一の取引場所)で交易することが許された特権であった。この特権は、薩摩に莫大な利益をもたらした。そもそも、なぜ幕府は、外様である薩摩にこのような甘い特権を与えたのか・・。それはひとえに、藩主島津公の三女が将軍の御台所として幕府のなかで、大奥の力を誇示しているからであった。島津公は、現将軍の岳父(妻の父)に当たるのである。そんな理由で、彼の権勢は、幕府の中で幕閣と肩を並べる実力を誇っていたのである。
この島津公、稀代の浪費家であった。いい意味で言えば、派手な社交家であり、全国雄藩の藩主と交際があり、京都の公家たちの間でも、その財力を頼る公家も相当いた。性格は豪快で、何事にも面白いものに関心を示した。中でも、西洋の珍品には、いたって目がなかった。気に入ったものは、値段も聞かず、即決で購入した。噂では、これらの品を買ったせいで、薩摩の借金は数十万両に及ぶと言われているのである。
そんな島津公が、財政面で全幅の信頼を置いているのが、薩摩藩筆頭家老 別所広家であった。彼は、島津公が作った借金を、まるで手品師のように片づけていったのである。もちろん、こんな大金、まともなやり方で精算できるわけがない。稀代の浪費家には、稀代の金を生み出す陰謀家が側についていたのである。
「問題は、通詞でして・・・。密貿易ともなると、相当信頼できる実力者を選ばねば・・・。」
石本の表情が、少し曇った。
「いつも使っている通詞はいないのか。」
稲葉が、言葉をかけた。
「薩摩様が交渉なされるときは、通詞など気にも留めず、役人に頼んでおいた通詞が交渉にあたったのですが・・・。密貿易となるとそうもいきません。通詞も役人のように抱き込まなくてはなりませんからな。」
稲葉に答えるように、石本が難題を説明した。
「誰か、オランダ語ができるものはいないのか・・。別に長崎通詞でなくとも・・・。」
稲葉が、さらに石本に質問をたたみかけた。
「この密貿易、相手には、都合により海上で取引をするが、長崎奉行は了解の上という手筈になっていまして・・・。オランダ側には、密貿易だとは言っていないのです。もし、長崎通詞でないとなると、相手が怪しんで交渉に応じますまい。」
石本の表情は、次第に悩みの解消を、別所に頼ろうとしているようだった。
それにしても、この別所という男、これほどのやましい陰謀にも、顔色一つ変えていなかった。ある意味、相当の大物なのかもしれない。
「稲葉、何とかしてやれ。どうしようもなくなれば、薬士を頼ればいい。」
別所は、そう言って、薬士の表情を確認した。
薬士は、黙ったまま、家老が企むいつもの陰謀に、いやな表情一つ見せていなかった。
2 (長崎通詞大屋吉長の屋敷)
「何をしている。お前が玄関を入らねば、わしらはじっとこのまま、玄関前で立ち続けねばならないではないか。」
右衛門が、困った様な顔をして、大屋隼人が自分の家へ最初に入るように促した。
早朝、備前の宿を出発した右衛門達三人は、休むことなく、目的地の長崎平戸までやって来た。右衛門達が大屋の屋敷にたどり着いたのは、もう夕日が沈みかけた夕暮れだった。
屋敷前で、自分の家に入るのを躊躇する隼人に、到着を知らせるように右衛門が促した時、どこかでからすが鳴き、あちこちで夕餉の支度の煙が立っていて、じっとたたずんでいると、どこからかおいしそうな夕飯の香ばしい匂いがしてきたのである。
するといきなり、陽明が望遠鏡の部品を地面におろし、つかつかと玄関の戸を引いた。
「ごめん下され。隼人が帰ってまいりました。お久しぶりでございます!」
そう言って、奥の座敷に向かって大きな声を上げた。
右衛門と隼人は、あまりにも突然の陽明の行動を、ただ、ぽかんと見ているだけだった。
すると、奥から障子を開ける音が聞こえ、大きな足音を立てて、小走りに玄関に向かう誰かの姿があった。
次の瞬間、
「ぎゃあー!」
女の悲鳴がしたかと思うと、誰かがそのまま廊下に倒れてしまった。
慌てて、陽明に続いて駆け込んだ隼人が、
「母上!しっかりなさいませ。」
そう言って、倒れた女の上半身を抱き起した。
続いて、数人の屋敷の住人だろうか、血相を変えて隼人の母の元に駆け寄ってきた。
「誰か、医者を呼んで来い!」
隼人の父らしき男が、悲壮な声を上げて助けを求めた。
「隼人!お前、医者だろう。何とかせんか!」
いつの間にか、隼人の傍に立っていた右衛門も、その場のあまりにも切迫した雰囲気に呑まれて、大声で隼人に救急の処置を促した。
「濡れた手ぬぐいと、湯飲みに水を・・・。」
右衛門の声に促されるように、冷静さを取り戻した隼人が、傍らで立ちつくしていた使用人に命令した。
隼人の処置が功を奏したかどうかは定かではないが、奥の間に担ぎ込まれた隼人の母は、まもなく布団の上で意識を取り戻した。
少し時が経ち、屋敷の辺りがすっかり夜になった頃・・・。
母の布団を挟んで、右衛門、大屋吉長(隼人の父)、右衛門、陽明、それに隼人が、絶えず大きな声で笑っていた。
「なにせ、隼人の声を聞いて、あまりの嬉しさに慌てて玄関へ行ってみたら、この家を出て数年になる隼人が、依然の姿より小さな少年になっていたのですもの・・・。それを見て、何が何やら分からなくなり、もののけに憑かれたように目の前が真っ暗になり、その後何が起こったのか、何も覚えておりません。」
隼人の母の多江が、申し訳なさそうに言い訳をした。
「お前は、日ごろから少し抜けたところがあるが。いくら長いこと我が子を見てないとはいえ、この陽明さんを隼人と思い込むとは・・・。」
吉長は、そこまで言うと、また笑いが込み上げたのか、最後まで言葉を言うことなく、笑い始めた。
「いや、この陽明の突飛な行動が、大変な騒ぎになりました。幸い、御内儀が、何の支障もなく回復されたので良かったものの・・。改めて、お詫び申す。」
右衛門は、そう言うと、多江と吉長に頭を下げた。
「いやいや、右衛門様にそのように頭を下げられますと、返す言葉もありません。私どもこそ、我が息子のことでどうお礼を言ったらいいか・・・。こちらこそ、この通りお礼を申す。」
吉長はそう言うと、改まって、右衛門に深く頭を下げた。
その時、
「旦那様、あちらの間に夕食の用意ができました。」
そう言って、女中が障子を開けて、声をかけた。
吉長は、軽く頷くと、
「まあ、何はともあれ、長旅お疲れでしょう。陽明さん、隼人、右衛門様、話は後にして、とりあえず夕飯を取られては・・。」
吉長のその言葉に、すぐに反応したのは陽明だった。
「ああ、腹がすいた。叔父上、遠慮なく夕飯をいただきましょう。」
そう言って、笑顔を見せると、辺りの連中から思わず笑顔がこぼれた。
「陽明さんは、本当にかわいい子ですねえ。隼人との再会をこんなに笑顔で迎えられたのも、陽明さんのおかげです。ありがとう。」
そう言って、多江が陽明にお礼を言った。
「ほんになあ・・。まさか隼人を、こんな笑顔で迎えられるとは思ってもいなかった。わしからも、陽明さんにはお礼を言わなくてはなあ・・。」
吉長が多江に同調して、陽明に頭を下げた。
「お前は、どこか皆に好かれるところがある。得な性格だ。」
右衛門は、真剣に陽明の不思議な性格を考えているいるようだった。
3
数日後、大屋吉長は、陽明、隼人、右衛門を伴って、筑紫忠平の屋敷に行くために紋付き袴を着て、廊下をうろうろしていた。
すでに、右衛門と陽明は、支度を整え三人で隼人が部屋から出てくるのを待っていた。
「何をしているのだ、隼人は・・。見てこい。」
夫の傍で、四人を見送るためにじっとたたずんでいた多恵に、吉長が命じた。
(多恵が隼人の部屋に向かう)
隼人と多恵のかわす会話が、右衛門たちにも聞こえてきたが、何を言っているのかは判別がつかなかった。
しばらくして、
「旦那様、隼人の様子がおかしいのです。いくら早く来るように促しても、私に背を向けて、じっと座っているのです。」
そう言って、多恵は怪訝そうな顔をしていた。
「何をしているのだ。」
吉長はそう言うと、じれたように隼人の部屋に向かって大股で歩き始めた。
それに従うように、陽明と右衛門が、吉長の後を追って隼人の部屋に向かった。
「早くせんか、隼人。陽明さんや右衛門様もさっきから玄関でずっと待っているのだぞ。
何をしているのだ。筑紫忠平殿は、一年ほどだが通詞の仕事をしたことがある。わしはその縁で、あのお方を知っておるから、こうやって、陽明さんとお前のために筑紫忠平殿の所へ行こうとしているのではないか。お前は、筑紫殿の弟子になりたいのではないのか。」
吉長は少しじれている様だった。
右衛門を待たせていることが申し訳なかったのだろう。
その言葉に、応じるように隼人がくるりと向き直って、父の顔を見て、
「父上、私は筑紫忠平様の弟子になるのをやめにしました。考えてみれば、私は父上に背くように西先生を頼って本島まで行き、西洋の学問を勉強してきました。ケプラ先生、ニウトン先生などの考えた西洋の学問を学び、いづれ塾を開き西洋学問を広げることが、私の天職だと思っていました・・。ところが、陽明が西先生の所で学び始め、私と同じ部屋で一緒に西洋の書物を学ぶうちに、私には陽明のような才能がないことを、いやというほど知らされました。陽明は、算術、天文、語学を私より後から始めたのに、すいすいと理解し、あっという間に私を追い越していく・・。「塵劫記」(算術書)など、まるで浮世絵を見るように、一回読めばすべて会得する・・・(いつの間にか、隼人は自分の本音を漏らしながら、涙を流していた)。それでも、何とか陽明に負けまいと、長崎に帰ってきましたが、母上や父上の顔を見て、やっと自分のやるべきことが分かったような気がします。」
隼人は、自分の感情を抑えることができず、目から大粒の涙を流して、父に訴えているように見えた。
後ろで、隼人の話を聞いている右衛門は、腕を組み、じっと目を閉じて、隼人の気持ちを察している様だった。
「それで、お前は何をやるのだ。」
じっと聞いていた吉長が、隼人の決意を確かめた。
「私は、大屋家の後を継ぎ、長崎通詞になるつもりです。父上にも負けない立派な通詞になって、父上や母上を安心させたくなりました。」
隼人は、しっかりした口調で、みんなの前でそう宣言した。
いきなり、
「お前は偉い、隼人!おぬしのやってきたことは決して無駄にはならんぞ。よう決断した。
これでやっと、おぬしも親孝行ができるなあ・・。人が生まれて死ぬまでに、納得できて何かをなせば、才能などはくそくらえじゃ・・・。いかに高い身分で生まれても、納得した生き方ができねば、身分など猫に小判じゃ。ところが、今のお前は、自分で自分の生き方をつかみ取ろうとしている。」
右衛門が、感動したように、隼人の決断を称賛した。
「私は、叔父上の言っていることが、あまり理解できませんが・・。なんで、隼人先輩が偉いのか・・・。要するに、いったん志した道を変えただけではありませんか。」
陽明が呟いたその言葉は、その場の雰囲気を何とも言えない気まずいものにしてしまった。
「陽明、その通りだ。わしはお前に負けたのだ。かなわないから、違う道を選んだだけだ。」
隼人は、そう言って、自分の負けを正直に認めた。
「それでも、わしは隼人が偉いと思う。陽明のような子供には分からないのだ。認めたくない自分を素直に認める・・。それも、決してあっさり認めるのではなく、悩みに悩んで、苦しみに苦しんで、やっとみんなの前で自分の決断が言えるのだ。わしは、隼人が偉いと思う。」
右衛門は、自分の最初の言葉を譲らなかった。
右衛門がふと吉長の顔を見ると、彼は息子の言葉に嬉しさのあまり涙を流していた。
右衛門は、見てはいけないものを見たように、さっと視線を庭へ移すと、
「大屋殿、今日は陽明と私だけで筑紫忠平殿の屋敷へ行こうと思う。お気遣い下されるな。」
右衛門はそう言って、陽明の手を引いて外に出た。
陽明は、何だか状況をつかめぬまま、右衛門に強引に引っ張られて筑紫忠平の屋敷に向かったのである。
「叔父上、何故隼人さんを褒めるるのですか。私にはわかりません。」
手を引かれて、筑紫の家に急ぐ右衛門に、陽明が改めて疑問をぶつけた。
「わしは、自分の家のしがらみが嫌で、こうやって気ままに生きている。それとは逆に、隼人は自分の家の定めを、親の願いを考えて、引き継ごうとしている。親孝行な奴だ。お前には、そんな隼人の決断が分からぬか。」
右衛門は、諭すように陽明に言った。
「しかし・・・。」
陽明は、そう言って、なおも頭を傾げた。
すると、いきなり右衛門が、陽明の頭に拳固をおみまいした。
「痛いではありませんか。」
陽明が、真っ赤な顔で右衛門にくってかかった。
「やかましい。これでいいのだ。子供は黙っておれ!」
右衛門は、そう言って、拳固で陽明を抑え込んだ。
陽明は、痛そうに頭を何度もさすりながら、半泣きで、右衛門に引っ張られて行った。
(二人がしばらく歩いていると、吉長が二人を追ってきた。)
「待たれよ。私もお供仕る。陽明さんの大事な弟子入りだ。何としても、役に立たねばな。」
息せききってきたのだろう。吉長の息はかなり乱れていた。
「いや、大屋様にご迷惑はかけられません。」
右衛門が、恐縮して、吉長に遠慮した。
「やらせてくだされ。隼人が、あんな嬉しいことを言ってくれたのじゃ。これも右衛門様と陽明さんのお陰だ。わしにも恩を返させてくだされ。」
吉長は、そう言って右衛門の辞退を受け入れなかった。
(筑紫忠平の家の座敷)
右衛門が想像していたように、筑紫という男、どことなく世間離れがしていた。
大屋吉長が陽明を紹介した時も、あまり関心もなく、大屋の頼みで陽明を弟子に取ってくれるように頼んでも、了承の返事は得られなかった。
「大屋様にそう言われましても、私は弟子をとれるような境遇ではなく・・・。自分一人食っていくのもこの有様で・・・。」
筑紫は、無精ひげを生やし、自分の衣類にも関心を示さないのか、ところどころ破れが目立つ小袖を着ていた。三人の訪問で、慌てて人が座れる場所は作ったものの、辺りを見渡しても書物の山であった。いつも向かっている長机には、書き損じた半紙が山のように積まれていた。右衛門は、いっこうに筑紫に話しかけるでもなく、じっと後ろの方で胡坐をかいて、吉長と筑紫の話を聞いていたが、筑紫の貧乏所帯の話を聞いて、
「いや、金なら心配いりません。この子と私はこの近くで貸家でも借りて、先生の所へ通わせるつもりです。もし失礼でなければ、先生のご指導には、なにがしかの授業料を用意させてもらいます。」
右衛門は、筑紫という人物の様子がつかめたのをきっかけに、筑紫の前へ座を変えた。
「案外、堅苦しく考えなくてもいい御仁かもしれん。」
右衛門は、そう思ったのである。
「いや、授業料などもらえば、教えることが義務になる。それだけは困ります。(しばらく黙って考えて・・。)それでは、大屋様の依頼でもあり、気が向いたときに来て、私に何なりと聞いてくだされ。できる限り対応いたしましょう。」
筑紫は、そう言うと、陽明の方を向いて笑顔を見せた。
「それでは先生、先生はケイル全書を翻訳なされているとのこと、その本を見せてくれませんか。」
陽明が、遠慮もせずに筑紫に頼んだ。
「ほう、陽明さんはそんなことまでご存じか・・・。この分だと、オランダ語も西先生から仕込まれたのかな。」
筑紫は、陽明のことが気に入ったのか、絶えず笑顔を絶やさず陽明に聞いた。
陽明は、筑紫の言葉にこくりと頷いた。そして、おもむろに西から与えられた「ガラムチカ」の写本を自分の前に置いた。
「これは!」
筑紫と大屋吉長は、驚きを隠しきれない様子をして、お互いの顔を見た。
「西先生は、この写本は何かと交換に人にお貸ししなさいとおっしゃられた。私は、筑紫先生のケイル全書と交換にこの写本を先生にお貸ししたいのです。」
陽明の態度は、決して筑紫を尊敬している様子でもなかった。むしろ、同じ学問を目指す仲間のように思っていたのかもしれない。自分の知らないことを知っている人から教えを乞う。ただそれだけだと言わんばかりであった。
「面白い子だ。わしは、この本をお借りしたい。陽明君はケイル全書を借りたい。交渉は成立ですなあ・・。明日にでも、余分の写本があるのでお貸しします。ついでに、いつでもこんなところでよければ、勉強しに来なさい。私が知っていることはあなたに教えましょう。」
どうやら、筑紫は陽明が気に入ったようである。
「やれやれ、これでほっとした。ところで、陽明さん、このガラムチカ、わしにも貸してはくれませんか。噂では、西家の家宝と聞いていたが、こんなところで目にするとは思いもよらなんだ。」
吉長は、自分がガラムチカを借りれなかったことによほど未練があるのだろうか、自分の希望を率直に打ち明けた。
「心配しなくても、隼人先輩もこの本の写本をしていましたから・・・。」
陽明が、にこにこしながら、吉長に言った。
「そうですか。隼人がなあ・・。」
吉長は、それを聞いて率直に喜んでいる様だった。
「この本、それ程の価値があるのですか。」
右衛門が、不思議そうに大屋を見た。
「通詞にとっては、宝物です。いや、オランダ語をたしなむ者にとって、この本は、何物にも代えがたいのです。そうですなあ・・。」
そう言って、吉長は筑紫の顔を見た。
筑紫も、その書物を借りた嬉しさを少しも隠すことなく、吉長に大きく頷いた。
「考えてみれば、西先生は、よほどのものをお前に与えてくれたのだなあ・・。」
右衛門は、改めて、西の懐の広さに感心した。
「ところで、さっきから言おうか言うまいかためらっていたのですが・・。失礼ですが、陽明君の叔父上は、人の気を読み取る余程の感覚がおありかと・・・。」
筑紫の言葉に、右衛門はぎょっとした。
一見、剣の相手としては何の注意を払わなくてもいい人物から、剣豪のような言葉を聞いたのである。
「筑紫殿は、剣術をたしなむので・・・。」
右衛門は、そう聞いてみたものの、そんなことはありえないと思っていた。どれだけ、感覚を研ぎ澄ましても、彼には人を殺せるような妖気がないのである。
「いや、剣など無縁の人間ですが、この世は気でできているというのが私の思想でしてな。」
筑紫は、場違いな返答したのではないかと、ためらいながら右衛門の質問に答えた。
「そうですか・・・。」
右衛門は、そう答えるしかなかった。学者の考えることが、分からなかったのである。
「それは、中国からの思想だ。私は、筑紫先生とは違う。西洋のニウトン先生やガリレオ先生の書物から学問の思想を学びたい。」
陽明が、ぽつりと言った。
筑紫は、陽明の年齢に騙されていたような気がした。彼は、すでに学問においては自分と対等だったのかもしれない。しかし、元来、学者というんのは余り包容力がある人種ではなかった。ことに自分の思想にケチがつくことは、耐えがたい不満を感じた。
「申し訳ありません。こいつは、人の心に土足で入ってくるところがあるのです。」
筑紫の気持ちを察した右衛門が、そう言うと、陽明の頭に拳固を見舞った。
「叔父上、今日二回目ですぞ!」
頭を押さえながら、陽明が泣きそうな声を出した。
不思議なものである。この光景は、筑紫の気持ちをいっぺんに陽明への好感へと変えてしまったのである。
「しばらくは、この子についていなくてはなるまい。」
右衛門は、陽明の泣きべそをかいた顔を見ながら、そう思ってにやりと笑った。
4 (長崎石本屋別邸)
大屋吉長は、石本善兵衛(薩摩藩商人)の長崎にある豪邸に呼ばれた。
日ごろから、薩摩の長崎商法を一手に任された善兵衛と大屋は古い顔なじみであったが、長崎貿易に関しては、大屋は通詞として薩摩島津公の西洋商品の買い付けで数回オランダの船長と交渉の通訳をしただけだった。通常、島津公の買い付けには、誰もが喜んで仲介の労をとった。島津公がどうしても欲しい商品を買い付けるときなどは、値段にいとめはつけず、成功した時の通詞への報酬も破格の仲介料が支払われた。
大屋の期待は膨らんでいた。直接石本の屋敷に呼ばれ、通訳の依頼を受けるのである。
並の商売ではないことは、察しがついた。
「よう来られた。こちらは稲葉秀郷(薩摩藩家老側近)様、今度の交易で担当される薩摩藩家老 別所広家様のご家臣でございます。」
善兵衛が稲葉を紹介した。
稲葉は、大屋が座敷に入ってきても、一切視線を合わせないで、どこか大屋を無視している雰囲気であった。善兵衛から自分の身分を紹介されても、大屋に視線を合わせず、頭を下げることもなかった。本来、大屋は長崎通詞として、幕府から公認されたれっきとした侍である。稲葉の横柄な態度は、吉長の気分を少し害していた。
「大屋殿、今回はちと厄介な通辞の依頼でしてなあ・・・。」
いきなり、稲葉は大屋の顔を見ると、そう切り出した。
善兵衛は、役目を終えたように、稲葉の言葉に耳を傾けながら目を閉じている。
「はあ。」
吉長は、稲葉の言葉に一抹の不安を抱いた。
稲葉は、薩摩藩家老 別所広家の側近である。何か、厄介な一件を持ち込んだとしても不思議ではないのである。そう考えた時、初めて吉長は不吉な予感を感じ始めたのである。
薩摩藩家老 別所広家はここ長崎でも、知らぬ者はいなかった。
薩摩藩の強大な力を背景に、数々の陰謀が行われていたことは、吉長の耳にも入っていた。別所の横暴に長崎代官も気づいていないはずはないのだが、見て見ぬふりをしていたのである。何しろ島津公と言えば、将軍の岳父(妻の父)になられるお方であり、大奥を牛耳る御台様の力は、幕府の政治にまで影響を及ぼしていたのである。いかに老中と言えども、容易に薩摩藩家老の不正の詮索ができる相手ではなかった。
「実は、近々オランダ船が、ここ長崎にやってくる予定になっておりましてなあ・・・。」
稲葉は、そう言うと、眼光鋭く吉長を睨みつけた。
「しかし、私どもの情報では、オランダ船来航は、来年になっておりますが・・・。」
吉長は、怪訝そうな顔をして、稲葉の顔を見た。
「いや、今度のオランダ船は、薩摩藩が独自に交渉した船でしてなあ・・。船は平戸に寄港することなく、我が藩が独自に、沖合で交易する手はずになっていましてな・・。」
吉長の表情をじっと観察する稲葉の視線は、吉長からそらせることはなかった。
吉長の顔が、みるみる恐怖の表情を浮かべ、顔色が真っ青になっていった。
稲葉と善兵衛は、吉長のその様子の変化を楽しんでいるかのように、顔に薄笑いを浮かべている。
「それでは、密貿易ではありませんか。幕府役人の私に対して、そのようなお話は、いささか不都合ではありませんか・・・。(膝にやった手が震えている。しばらくして・・)この話は聞かなかったことにしますので・・。せっかくですが、この通辞の御依頼は、お断りいたします。」
吉長は震えた声できっぱりと言った。
「なあに、相手のオランダの方には、この交渉、正式に長崎代官が認めたように知らせております。それに、我ら薩摩藩は、御台様の大奥での権勢のお陰もあって、御高誼も手が出せない雄藩でしてな・・。たとえ大屋殿が、薩摩藩が関わる密貿易に手を貸したとしても、いっこうに累が及ぶことなどありますまい。」
稲葉が、言い含めるように大屋を説得し始めた。
「なんと言われようと、このお役目はお断りいたします。」
大屋の決意は固かった。
「大屋殿、いったんこの一件をあなたに打ち明けた以上、そういう訳にはいかないのですよ・・・。(稲葉の高圧的な態度は、吉長の不安を、もてあそんでいるようだった。)我が藩を、あまり軽んじにならないほうが、身のためだと思いますが・・・。」
稲葉の言葉は、一種の脅しであった。
「別所様は、裏切られた方には厳しいお方でしてなあ。私どもも何度となく、その方々の末路を拝見させてもらっています。むごい死に方をされたお方も、一人や二人ではありますまい。」
善右衛門が、視線を伏せたまま、二人の会話に割り込んできた。
「あなたの言いようは、明らかに脅しではないか。」
吉長が、善兵衛に詰め寄ろうとした。
「大屋様、私を甘く見てもらっては困ります。別所様の傍らで、危ない橋を渡ってきたこの忠義者を、そんな言葉で抑え込もうとしても通じるものではございませんよ。いかにあなた様が、お侍だとしても・・。」
そう言うと、善兵衛はまっすぐ吉長を睨みつけると、目の鋭さで吉長の気勢を抑え込んだ。
「まあ今日はここまでにしておこう。大屋殿にも覚悟の間を与えねばなあ・・・。」
稲葉はそう言って、にやりと笑った。
吉長には、もはや二人に立ち向かう気力も残っていなかった。
「奴らは、筋金入りの悪党だ。」
吉長は心の中で、悔しい思いをはっきりと自覚するしかなかった。
「悪いが、これからは、おぬしの身辺を見張らせてもらうからな。あまり、余計な行動はとられないほうが身のためですぞ。命がいくらあっても足りませんからな・・。」
稲葉が、最後に吉長を脅して、余計な反抗をしないようにと念を押した。
5 (右衛門の借りた貸家近くで・・)
右衛門と筑紫が、右衛門の貸家の前の路地を出た大通りに床几を並べ座っている。
「なるべく、同じ速さでな。」
くまに筑紫の指示が飛ぶ。
右衛門の家のまかないを頼んだ「かね」のつれあい「くま」は、かごかきだった。
右衛門は筑紫の依頼を受け、金を払って、くまのかごかき仲間を、夜が明けると同時に、誰もいないこの大通りに集め、通りの半町(50メートル余り)の間を何度か大八車を二人がかりで引かせている。走っている大八車の上には陽明が乗り込み、小さな手毬を持っていて、右衛門と筑紫が座る道の正面を通過するたびに、その手毬を、真上に放り投げてみる。その手毬の軌道を、右衛門と筑紫が注意深く観察していた。
「どうでしたか。」
筑紫が、真剣な顔をして、右衛門に尋ねた。
「山のような弧を描きましたなあ。」
右衛門が、自分の記憶を確かめるように、慎重に答えた。
「わたしも、同じです。」
筑紫は、そう言うと、今度は大八車が止まったところで待っている陽明に声をかけた。
「どうだ。」
筑紫は、相変わらず真剣な顔である。
「まっすぐ上がって、まっすぐ落ちてきました。」
陽明の、甲高い声が、静まり返った夜明けの大通りに響き渡った。
「もう一回。」
筑紫の指示がとんだ。
「またかい。今度は、とめとはちの番だ。」
くまはびっしょり汗をかいている。
十数回、二人ずつ、代わり交代で同じように陽明を乗せた大八車は、誰もいない大通りを均等な速さで、半町足らずを一生懸命走るのである。さすがのかごかきたちも、根を上げ始めた。
「先生!これが最後に願えませんか。」
くまが、懇願するように、筑紫に向かって大声を張り上げた。
すると、筑紫はこくりと頷いた。
次第に、何事が起きたのかと、人が集まりだしたのである。
「子供の遊びを大の大人が朝から真剣にやっているのだから、たいしたものだ。」
右衛門や筑紫を見ながら、ところどころでそんな声も聞こえ始めた。
しかし、陽明や筑紫、右衛門は、そんなささやきを少しも気にせず、真剣なまなざしで、陽明が真下に落とす手毬に神経を集中していた。
「要は、手毬に速度があるのです。だから、外から見ている二人(右衛門、筑紫)には、横に動いている手毬を放り投げたように、上の力(放り投げた速さ)と横の力(手毬の速さ)が釣り合ったように見えるのです。ところが、陽明は手毬と同じ速さで大八車に乗っている。いわば、手毬と並走しているようなものです。だから、陽明には、手毬の横の力が相殺される。大八車の上にいる陽明には、止まった手毬を放り投げたのと同じ状態になるんです。だから、真っすぐ一直線で上がり、真っすぐ落ちてくる。まあ、手毬が持つ横の速度が、陽明と我々では違って見える。これが、ガリレオ先生やニウトン先生の言う慣性の法則なのです。」
筑紫が、さっきやった大八車の実験の結果から導いた法則の講釈をたれた。
右衛門は、彼の言葉を、腕を組み、目を閉じて黙って聞いている。そう言われても、なかなか理解できないのである。かねの作っているみそ汁の匂いがぷんと漂ってきた。
「要するに、手毬と私は、くまさんたちの力を受けて大八の上で動きを持ったようなものです。いったん動き出したものは永遠に止まらない。これが、ニウトン先生の言う慣性の法則なのです。」
筑紫の解説を捕捉するように、陽明が右衛門に説明した。
「だがなあ。わしは、手毬のような小さなもので、動いて止まらないものなどあまり見たことがない。」
右衛門は、やっと陽明の説明の不思議な説得に異議を唱えた。
「それは、地球には空気があって、動くものを止めようとするのです。叔父上は、摩擦が物を止めるのまで否定なされますまい。あれと同じなのです。」
陽明は、説得にあきらめることなく、右衛門の疑問に丁寧に答えた。
「本当を言えば、今やった実験も、空気抵抗があるので理想的な実験ではないのだが・・・。」
筑紫が、陽明の言葉に、そう付け加えた。
筑紫は、最近、陽明と右衛門が借りたこの貸し家に入りびたりであった。一つの理由は、ここに来れば、飯の支度を自分でしなくても、かねが朝食と夕食を出してくれた。しかも、自分の作った料理とは比較にならないほどうまかった。もう一つは、陽明の頭の明晰さに驚いていたのである。本来、科学というものは、一握りの人間の常人では思いつきもしない発想から発展していくものなのである。ニュートン、デカルト、レオナルド、ケプラー等は、科学を引っ張ってきた牽引者たちなのである。そんな、牽引者の仲間に入るかもしれない天才少年が、自分の目の前に現れたかもしれないのである。筑紫のような、科学者にとって、この種の人類は、羨望ではなく、憧れなのである。
右衛門には、筑紫と陽明の言葉が、何か魔法のごまかしが含まれているようにしか思えなかった。
「しかし、解せんなあ・・。」
右衛門は、そう言って、頭を横に傾けた。
「叔父上も、それだけ真の事実を知りたければ、勉強をなさい。何の努力もせずに、興味だけ持って、我々にとやかく文句をつけるのはいささかみっともない。」
右衛門の煮え切らない理解度に、業を煮やした陽明がズバリと右衛門の痛いところを突いてきた。
「陽明、そう言ってしまえば、みもふたもない。やはり、お前は子供だ。」
今度は、筑紫が陽明の痛いところを突いたように見えた。
「やはり、筑紫先生は偉い。陽明の未熟さをしっかり諭してくれる。わしは、この子を筑紫先生の弟子にしたことを、満足していますぞ・・。」
右衛門は、おおいに筑紫の言葉に満足した。
「あああ。これだからな・・・。」
陽明はそう言うと、不満を抑えるようにごろりとその場で横になった。早朝早く起きたことが、今頃眠気が襲ってきた原因であった。
ふと、右衛門が前を見ると、くまと三人の仲間が、じっと胡坐をかいて俯いていた。
「くま、筑紫先生と陽明が言ったことをどう思う。」
右衛門は、からかうような目線で、くまに話しかけた。
「ああ、なんかおっしゃっていましたなあ・・・。わしは眠たいので転寝して、何にも聞いていませんでした。」
くまは、悪びれもせず右衛門の言葉に答えた。
残りの三人も俯いているようだが、寝ているのだろう。
「そうか、これは今日の手間賃だ。四人で一杯飲んで来い。もっとも、日が落ちるころまで、待ってのことだがなあ・・。」
右衛門は、そう言って、懐から小判を畳の上にころがした。
すると、さっきまで俯いて寝ていたくまの仲間まで、目を皿のようにその小判をじっと見つめている。
「いいんですか。こんなに・・。」
くまが恐る恐る右衛門の表情をうかがった。
同じように、この金に驚いて、反応したのは陽明だった。
「叔父上、こんなにやったら、われわれの生活はどうなるのですか。」
陽明の言葉に、そこにいるみんなが納得したのだろうか、合わせたように頷いた。
「心配するな。弥吉が近々ここに尋ねてくると便りがあった。」
右衛門は、すました顔で、悪びれる様子もなく、陽明の疑問に答えた。
他の連中は、まだ腑に落ちない顔をして、小判を見つめている。特に、筑紫の顔は真剣そのものだった。ただ、陽明だけは右衛門の言葉に納得したのか、それ以上右衛門に何も尋ねなかった。
外に出たくまと仲間の三人の気勢を上げる叫び声が、遠くに遠ざかるまで鳴り響いていた。
「あんなことなさって・・・。旦那にはこれからも一生懸命食事を作らなくては、罰が当たる。」
かねは満面の笑顔をたたえていた。ただ、亭主がみんな使ってしまわないかという一抹の不安はあったものの・・・。
6
大屋の屋敷で事件が起きた。
夜遅く、隼人の母の多江が、真っ青な顔をして右衛門の家の玄関の戸を叩いた。
早朝から忙しく動いた右衛門と陽明は、すっかり熟睡していたので、なかなか多江の戸を叩く音に気付かなかった。
右衛門は、かねに頼まれて、かねの息子の平吉と娘の鈴の手習いを教え始めた。その噂を聞き付けた近所の連中の子供が、数人同じように右衛門に手習いの教えてくれるように頼んできたのである。評判はすこぶるよく、特に陽明の教え方は、子供たちの算術の腕前をおおいに上げたのだった。いつの間にか、昼間は右衛門の貸し家は、子供たちであふれかえっていたのである。
「おい陽明、誰かが戸を叩いている。行って見てこい。」
右衛門が陽明に指図した。
陽明は、熟睡しているのか、右衛門の言葉に全く反応しなかった。
「仕方ない奴だ・・。」
右衛門は、眠そうな目をこすりながら、玄関に向かった。
多江の声は震えていた。
「夫の吉長が首を吊るところを、灯りで障子に映った影の姿を見つけた隼人が、夫のいる座敷に駆け込みまして、すんでのところで夫の自殺を押しとどめることができました。
いま、隼人が夫の行動を見張っております(多江の声は恐怖で、何度もかすれてしまい、聞き取りにくなった。)。隼人が急いで右衛門様に知らせるように申しますので・・・。こうやって、取るものも取らず、あなた様の家の戸を叩いた次第で・・・。」
そう言い終わると、多江は玄関の板の間に泣き崩れた。
「陽明!わしは、急ぎ大屋殿の屋敷に向かう。隼人の母上の様子が落ち着いたら、後から母上と一緒に大屋殿の屋敷に来い!いいな。」
右衛門の切迫した声に、陽明はすっかり眠気を覚ましていた。
(大屋の屋敷で・・。)
右衛門、隼人、多江が、大屋吉長を囲むように座っている。どうやら、陽明は、右衛門の判断で、使用人と共に別の間で控えていた。
「どうにもならんのです。相手が悪い。あの薩摩の家老 別所広家様に目をつけられたのですから・・・。通詞として、密貿易の片棒を担げば私は身の破滅です。(膝を両手で支えて、俯きながらしゃべっている)。もし発覚すれば、この大屋の家は断絶。私は打ち首でしょう。ところが、断れば、私の命を薩摩藩が狙いに来るのは必定・・・。この長崎では、たとえ代官所といえども、薩摩藩の家老に逆らえば、ただでは済まないのです。いくら右衛門殿が思い直すように言われても、生きる手立てがないのです。私が自害すれば、せめて隼人や多江には危害は及びますまい・・。」
吉長は、涙ながらに、自分を襲った理不尽を右衛門に説明した。
「しかし、父上、薩摩に従えば、一縷の望みがあるのでは・・・。」
隼人が、説得するように吉長に訴えた。
「わしに密貿易に加担しろというのか。発覚すれば、この家を潰すかもしれんのだぞ。もちろんお前たちは一家離散になる。そんな真似だけはできぬ。同じ死ぬのでもな。」
吉長の自害の決意は固かった。
じっと聞いていた右衛門が、初めて口を開いた。
「薩摩といえば、島津公は幕府でも将軍の岳父として絶大な力を持っている。幕臣でもやすやすと手が出せない相手・・・。それをいいことに、薩摩藩家老 別所広家の所業は、こんなところまで及んでいたか。噂には聞いていたが・・・。」
さすがの右衛門も、彼らに抵抗する覚悟が揺らいでいた。
彼らは、財力、権力、暴力全てを兼ね備えていたのである。
「紀州や尾張よりも厄介な相手だ。」
右衛門はそう思った。
右衛門は、迷っていた。吉長を見殺しにすることはできない。しかし、右衛門が仲間たちに声をかければ、仲間たちの方が危険にさらされる恐れがあったのである。打開策を見出すこともなく、しばらく沈黙が続いた。
「私が仲間に頼めば、どうにかなるかもしれん。ただ、今回ばかりは、慎重に事を計らねば、解決する自信はない。だが、このまま吉長殿を助けられる可能性を潰すわけにはいかんしな・・。これからは、私に任せてくれんか。できる限りの知恵は使ってみる故・・。だから、死ぬのだけは待って下され、大屋殿。」
右衛門は、訴えるように吉長に自害を押しとどめさせたのである。
「あなたは、何者なのです。」
右衛門に説得された吉長が、怪訝そうに右衛門に尋ねた。
「口止めされていたので黙っていましたが。この方は、剣豪の鬼の右衛門と呼ばれている方なのです。父上もその噂だけでもご存じでしょう。」
隼人は、右衛門の素性を打ち明けた。
吉長は驚いたように、まじまじと右衛門を見た。
「あの尾張柳生や小野派一刀流の剣豪をねじ伏せてきた鬼の右衛門か・・。しかし、どう見てもそれほどの剣豪には見えないのだが・・。それ程の剣豪ともなると、それなりの重みというか、威厳というか・・。」
吉長はそう言って、再び右衛門に目線をやった。
「父上!冗談を言っている時ではありませんぞ!」
隼人が、自殺を試みた吉長の拍子抜けするような言葉に、いら立ちを見せた。
「いや、父上の言う通りだ。自分で言うのもなんだが、何か難題になれば剣で勝負する以外にはとりえのない男なのでな。人格的には、いささか欠陥があるのかもしれん。」
右衛門が、頭をかきながら吉長の言葉を追認した。
すると、その場の雰囲気が、その言葉をきっかけに妙に和やかになり始めたのは、隼人の気のせいだろうか。吉長の死は、ひとまず失敗で終止符を打った。
何はともあれ、大屋吉長の自害を押しとどめた陽明と右衛門は、深夜の街道をわが家へ向かった。その時、二人の前方で月明かりに照らされて、数人の人影が動いた。
右衛門はその人影に殺気を感じ、とっさに手で陽明を後ろに遠ざけた。
「おぬし、今、大屋の家から出てきたな。」
人影の一人が、威圧をかけるような声で、右衛門の動向を聞いてきた。
右衛門は、その男の詰問に答えることはなく、自分に立ちはだかった人影と自分の間合いを推し量っていた。
相手は四人。たたずまいからして、それ程の使い手はいないと判断した。
「薩摩者か。」
右衛門が、吐き捨てるように、自分に声をかけた男に言葉をかけた。
右衛門の無礼な言葉使いは、いっぺんに四人の侍の敵意を誘った。
「わしらは、薩摩藩藩士で示現流をたしなむものだが、おぬしがわしの問いに答えぬとなると、いささか手荒い真似をせねばならない。それでもわしの質問に答えぬか。」
その男は、これだけ言えば十分相手は自分たちに従うと思った。
その時、
「叔父上、私は向こうの方に離れていますので、鬼の右衛門の剣を、こいつらに披露されてはいかがですか・・・。」
さっきから、隼人先輩を苦しめているこの連中に怒りで震えていた陽明が、たまらず右衛門に声をかけた。
しかし、陽明の言葉は、その場の緊張を一挙に高めた。
「ほお、おぬしが右衛門か・・。これは思いがけないところで、示現流の凄まじさを世に知らせる機会を得た。断っておくが、我らの剣は、柳生や小野とは一味違うでな・・・。」
侍たちの頭目らしき男が、いきなり声をかけたかと思った瞬間に、右衛門の剣が、月夜の中で、何回か怪しい閃光を放った。
次の瞬間、右衛門の並外れた運動能力と、一瞬の太刀さばきで、その男たちの二人は腕を、残り二人は手首を、局所だけ剃刀が深くえぐったように斬られていた。辺りは、四人の男たちの苦痛をこらえるうめき声で、異様な恐怖に包まれた。
「陽明!行くぞ。」
右衛門の斬りつけた一閃で、男たちが刀を持てないのを確認すると、離れて見ていた陽明に声をかけた。
「はい。」
陽明の澄みわったった声が、何故かその場に不釣り合いだが、爽快に響き渡った。
7 (江戸薩摩屋敷)
長崎での右衛門出現は、すぐさま別所広家(薩摩藩家老)の耳に入ることとなった。
「わしらも、長崎に行かねばなるまい。あの右衛門が現れたそうだ。しかも、通詞の大屋吉長と知り合いだそうで、稲葉が大屋の周辺を見張らせていた薩摩藩士を、あっという間に片づけてしまったそうだ。ただ、命はとっておらず、藩士等はそのまま長崎にとどまって、稲葉のもとに逃げ帰ったそうだ。(そう言いながら、別所の目が、怪しげな光を放った。)右衛門と言えば、柳生の両巨頭、江戸の義親殿、尾張の義重殿とも気脈を通じておる剣豪だ。老中筆頭上野生馬様の対抗勢力として、幕府の大目付一派の黒幕と言って間違いない義親殿・・。義重殿は、今では尾張藩家老 竹腰正博様の最側近。近ごろでは尾張藩の中心人物になっておる。我らにとって、右衛門とやら、あまり油断のできぬ相手かもしれん。」
薬士実人(示現流実力者)にしてみれば、別所の話は長かった。いまや、右衛門の名を知らない剣術家はいないのである。もちろん、彼が数々の派手な事件を引き起こしてきたことも・・。
「右衛門が現れたとなれば、我が示現流にとってまたとない機会。この日の本で最強の剣の流派を知らしめる絶好の好機かもしれません。」
やはり薬士にとって、示現流が第一であった。
薬士の考えとは違っていたが、別所にとっても、長崎での密貿易が、思わぬ権力争いに巻き込まれ、引くに引けない陰謀になってしまうのではないかと、懸念し始めていた。
もし、右衛門の後ろにいる権力者たちが、右衛門を利用して、別所らの陰謀(密貿易)を阻止する立場をとったなら、薩摩藩島津公の威信に傷がつきかねないのである。今や、島津公の実力は、江戸の幕臣たちにも止められない権勢を誇っていた。薩摩藩が少しばかり長崎で不正を横行しても、彼らは見て見ぬふりをするのが、いつものやり方になっていたのである。それ故、今度の密貿易も、たとえ幕府に発覚しても、押し通さねばならなかった。幕府の連中が、これを先例にして、薩摩藩家老 別所広家のこれからの強引な陰謀に介入してくる危惧があったからである。
「奴は早めに葬ったほうが、後々心配の種にならないかもしれんなあ・・。」
別所は、遠回しな言い方で、薬士に右衛門暗殺を命じた。
「心得ました。長崎に私の刺客を送り込みます。おそらく、我らが長崎に着いたころには、右衛門の問題は解消しているかもしれませんぞ・・・。」
薬士は、自分の分身となって、邪魔な相手を殺害してきた本橋慎吾の顔を思い浮かべて、にやりと笑った。
本橋慎吾という若者は、「薩摩の人切り慎吾」と呼ばれた男であった。
薬士の命で人を斬る、薩摩の若い侍の中では敵なしの使い手である。生まれは、貧しい下級侍の息子であったが、剣術を習うことが大好きで、薬士の道場に使用人として雇われ、合間を見て剣の鍛錬をするようになった。やがて、彼の才能が薬士の目に留まり、道場で剣の立ち合いを許されようになった。それから程なく、薬士の道場では、慎吾にかなうものはいなくなっていた。そんな慎吾の才能を利用して、薬士は彼を血に染まった殺し屋にしてしまったのである。
「そう願いたいものだが、右衛門は、世間では最強の剣豪と呼ばれている男だ。万が一に備えて、おぬしにも、配下の者を連れて長崎に行ってもらうぞ。」
別所が、薬士に「いや」とは言わせぬ強い口調で、長崎行きを命じた。
「ところで、右衛門にあしらわれた薩摩藩士四人、どういたしましょう。」
薬士は、別所の意図を察して、四人の殺害を提案した。
「長崎で薩摩藩士の悪い噂でもたっては、おぬしも後々やりにくいだろう。奴らには気の毒だが、薩摩のために死んでもらおうか・・。」
別所は、どうにも納得できない理屈を正当化して、薬士に殺害を命じた。
8 (江戸柳沢義親屋敷)
道場で、与助と汗をかいた柳沢義親は、大目付 秋山正直の訪問を告げられ、与助に道場を任せて、道場に隣接した義親専用の別邸で正直に面会した。
障子が開け離れた小さな座敷からは、義親自慢の庭が見渡せた。職人の手の入れられた丹精な庭には、苔の生えた灯篭が小さな池の真ん中に配置され、周りは低木のままにした松の木が青々と池の水に生えていた。時折、池にいる錦鯉が水面にはねると、閑静な趣に深みを与えるのである。
「なんじゃ朝から、よほどの急用か。」
稽古を中断した義親は、正直の顔を見て、不機嫌そうに声をかけた。
「はあ、お忙しいところ申し訳ありません。」
義親の機嫌を察して、正直が申し訳なさそうに謝った。
「大目付殿のわざわざのおこしに、わしの物言いは無礼であったのう。この通りじゃ。」
そう言って、義親は正直に向かって軽く頭を下げた。
「おからかいめさるな(慌てて頭を下げて、義親に応対する)。(少し沈黙が続いた後)実は、昨日長崎代官から知らせがありまして・・。」
正直が、用件を切り出した。
「あの地はいつも厄介な問題しかない。長崎の代官は、近ごろ幕臣の中では厄介職と言われているそうじゃが・・・。」
義親は、何か嫌な予感を感じた。
「今度もその厄介な問題で・・・。」
先に義親に警戒されて、正直は幾分言葉が重くなった。
「薩摩か・・。」
義親が察しをつける。
「さすがは殿、その通りで・・。(一息置いて)実は薩摩藩家老 別所広家殿が、また密貿易を企てているようで・・。懲りない御仁です。どこまで幕府を軽んじるか・・。」
正直がそこまで言うと、義親が口をはさんだ。
「おぬし、何のために大目付をしておる。この問題をどう処理するかもわからんでは、いよいよやきがまわったのう。放っておくしかなかろう。いずれ風向きは変わる。その時まで、手を出さぬが最良じゃ。」
義親は、そう言うと、
「わざわざくだらぬ話をもってきおって・・。」
そう思いながら、ごろりと畳に寝転んだ。(「帰れ!」という催促かもしれない。)
「ところが、もう一つ・・・。この問題に、右衛門殿が絡んでいまして・・・。」
正直は、そう言うと、寝転ぶ義親の背を見ながらにやりと笑った。
義親の反応は、正直の予想通りだった。
義親は、その言葉に、すっと身を起こし、
「それを先に言わんか!(少し合間を置いて)あの男、なんで長崎などに・・。」
腑に落ちない義親が、頭を傾げた。
「何でも、甥の陽明とかいう子の天文教育のために長崎の学者を訪ねて・・・。そこで、どういう事情か分かりませんが、大通詞の大屋とかいう侍が、薩摩の別所の配下の者とのいざこざに関わったとのこと。右衛門殿が、大屋を見張っていた別所殿の家臣を斬ったということで、薩摩藩では大騒ぎになっているとの知らせで・・。すでに薩摩藩家老 別所殿の耳に入り、別所殿は長崎に向かったとのこと・・。」
義親には、あいまいな正直の話では、事件の大筋がつかめなかった。
「おぬしの話では要領が得んのう・・。じゃが、右衛門が関われば、奴の仲間が動き出す。この一件、わしらも注視せねばなるまい。それにしても、あの男、よほど騒動には縁があると見える。正直、この一件動いてみろ!わしに情報を入れることを忘れずにな・・・。もしかすると、薩摩が揺れだすかもしれん。」
いつの間にか、義親の表情は生き生きとし始めていた。
「言われなくとも動きます。殿も右衛門殿の名前を聞いて、急に浮足立ち、さっきの表情とは打って変りましたなあ・・。」
正直は、皮肉を込めて義親を見た。
義親の耳には、正直の言葉は届いていないかのように、庭を見ながら知略をめぐらす目になっていた。
「一刻も早く、詳しい事情を知らせろよ。」
義親が、正直に向かって、念を押すように催促した。




