右衛門7-1
右衛門7
1 (又五郎との別れ)
黒龍党壊滅と共に、佐那河内にも変化が訪れた。
安住助左衛門が佐那河内で亡くなったのである。
「又五郎殿、わしのたっての頼みじゃ・・。早苗と田原藩へ帰って安住家を継いではくれぬか。おぬしには、礼を言っても足りぬ程、わしに尽くしてくれた。その上、わしの願いを言うは心苦しが、我が家の血を引くは、陽明と小夜の二人だけ・・・。何とか我が家を再興させてはもらえぬか。」
清兵はすでに、高齢のため源一郎の相談役を退き見能林に帰っていた。そんな理由もあり、助左衛門は田原藩家老笹久内からも木内又五郎の家老就任を依頼されていたのであった。
「早苗の実家からも何度も頼まれてなあ・・。わしはこの地を去って田原藩に行くことにした。」
又五郎は、なぜか、右衛門に言いにくそうに打ち明けた。
「わしは、大賛成じゃ。おぬしほどの男、この片田舎でずっと引き留めるは、何か後ろめたかったのだ。これでわしはほっとしたぞ。」
右衛門は、心底、又五郎の田原藩家老就任を喜んだ。
又五郎一家が旅立つ前、
「どうか、源一郎をよろしく頼むな。」
それが右衛門の最後の頼みごとになった。
(与助との別れ)
別れと言うものは、別の離別を誘うものかもしれない。
この年、江戸では上様がお隠れになった。それを機に、大目付柳沢義親は職を辞し、柳生家頭首として、江戸柳生流の復活に力を注ぐことになった。
その義親が、二度目の佐那河内来訪となったのは、又五郎一家が佐那河内を離れて三か月もたってはいなかった。
「田崎与助殿を江戸の柳生新陰流師範として迎えたいのだが、承知してくれまいか。」
義親は、そう言って、右衛門の承諾を得ようとした。
「願ってもない話。与助には、私が話しましょう。」
右衛門は、快諾した。
「江戸柳生の流儀、このわしが与助殿に直々に教え込みたい。正幸も、知っての通り、長谷部家頭首としてやらねばならぬ役割もあり、柳生流を担う役目からは遠ざかるばかり・・。その正幸が、熱心に推薦したのが田崎与助殿でのう・・。何分、与助殿は右衛門殿の一の家臣、おぬしの許可を得ねば、前には進められんからな・・・。」
右衛門の快諾を聞くと、義親はほっとしたように内情を打ち明けた。
「しかし、殿はわしがいなくなってもよろしいので・・・。」
義親の柳生流師範の依頼を与助に打ち明けると、彼は寂しそうに右衛門に訴えた。
「与助、おぬし、子を持つ父親だぞ。いつまで、わしについてくる気だ・・。志摩のことも考えて、将来の安定も考えねばなあ。わしは、お前に会いたくなったら、いつでも江戸まで行くつもりじゃ。いたって気楽な身の上だからな。」
そう言って、右衛門は無理やり高笑いをした。
与助は、目に涙を浮かべて右衛門を見ていた。
「殿の主命とならば、仕方ありますまい。」
それが、与助の承諾の言葉であった。
(与助、又五郎が去った後)
右衛門は、この地の変革を次々と行った。佐那河内での道場は、与助と又五郎がいなくなると火が消えたようになった。道場に通っていた侍に対して、右衛門はこの地で生きるすべを学ぼうとしないものを次々と選別していったのである。あるものは弥吉の商売に携わり、ある者は百姓か漁師としてこの地に残り、ある者は新たな仕官を求め、この地を旅だった。
幕府も大きく体制を刷新した。新将軍のもと、老中筆頭は森直道から上野生馬に変わり、幕府新体制は今までの解放経済を引き締め始めたのである。その方針は徹底され、佐那河内のような自治区でも、その意に反しては存続の可能性は絶たれるのであった。
考えてみれば、江戸幕府の支配体制は、上から下まで頂点に向かっての忖度で、同じ方向に並んでいた。それはまるで、鉄粉を白い紙にばら撒いた後、磁石を近づけたように整然と一つの流れが浮かび上がるのである。このどうしようもない息苦しさは、かつてこの国になかったほどの動かしがたい強固な社会階層を築きあげた。人々は言われなくても支配階層に従順に従うことを最善とする。いわば、生得の道徳のような精神構造を拠り所に生きるようになり、社会の規範に逆らう気概さえ失いつつあったのである。
今の右衛門は、その世間の風潮を息苦しく感じながら、ことさらに逆らう闘志も持ち合わせてはいなかった。しかし、そんな精神的自由が失われつつある今の幕藩体制の中でも、弥吉の商売だけは、目立つ派手な商売の手法を取らず、確実に実績を上げていたのである。豪商になりつつあった弥吉自身も、人目に付くような派手な生活はせず、方針を転換した右衛門の自治区運営に寄り添うように、ただひたすら人材育成に金を惜しまず費やした。
そして、商売の本拠地を、大阪に移すこともせず、主要な使用人を佐那河内に留めたのである。そうすることが、商売拡大にもかかわらず、幕府の目をかいくぐる隠れ蓑になっていたのも、弥吉の計算に入っていたのかもしれない。
右衛門と佐吉は、商売に携わる希望者に、読み書き算術を教える機会を与えた。今や、剣術の道場は、佐那河内の住民たちの寺子屋になったのである。彼らの身分は一切問わず、農民、漁師も同じように、机を並べて実学を学んだ。そのことが、武士たちの不満となり、ますますこの地を離れるきっかけになっていった。しかし、それでもこの地で生きていこうとする一部武士たちは、誰よりも熱心に商売のやり方を学んだ。そんな人たちのために、弥吉は優れた商売を知る教師を大阪から呼び寄せて、彼らの教育に当たらせた。
「佐吉は、すっかり弥吉の右腕になったな。」
右衛門は、そろばんを一生懸命はじいて帳面をつけている佐吉に声をかけた。
「私は、元々見能林藩では勘定方でしたし、身分にこだわらねば、弥吉の商売は私の天職のように思えてなりません。」
右衛門の方を振り向いた佐吉は、にこりと笑ってそう答えた。
「偉いなあ。わしなど刀がなかったら何のとりえもない男だからなあ・・。」
右衛門はそう言って、弥吉の笑顔に笑顔で答えた。
「そうでもないでしょう。弥吉が言っていましたよ。右衛門様は侍にしておくには惜しいお方だと、宗衛門殿が言っていたと・・・。」
その言葉には、二人は、思わず笑わずにはいられなかった。
「殿は、いったい何を考えておられるのですか。」
いきなり、佐吉が真剣な顔になって、右衛門に質問した。
「それがわからん。わからんから風まかせだ。そのうち何かを見つけるだろう。又五郎も与助もいなくなったこの佐那河内を、また武装集団の村にしても仕方なかろう。それだけは、はっきりしている。だから、暗中模索で、次の生き方を見つけねばな・・。」
右衛門は、自分に言い聞かせるように、真剣な顔をして佐吉の質問に答えた。
「やはり、二人の別れは殿には堪えましたなあ・・・。」
佐吉が、同情するようにそう言うと、
「馬鹿を言え、人はいつまでも同じ仲間といられるものじゃない。別れを機会に、わしも変われねば・・。そんなところだ。」
右衛門は、そう言って寂しそうに笑った。
2 (伊予の死)
続く今度の別れは、さすがの右衛門も人に自分の傷心を隠すことができなかった。右衛門の姉の伊予が、突然、肺炎で亡くなったのである。
「姉上・・。美代殿、志摩、早苗殿が集まってくれましたぞ。」
病で憔悴して、すっかり痩せこけてしまった伊予が、右衛門からそう聞くと、目を閉じたまま微笑みを浮かべた。
「楽しかったわね・・・。四人で黒龍党の襲撃を跳ね返したときは・・。」
伊予はそう言うと、目じりから涙がつたった。
それに、呼応するかのように、見舞いに来た三人が押し殺すように嗚咽した。
「美代様、お気を確かに・・・。」
志摩の気丈なその言葉が、みんなが悲痛にくれる伊予の病床にむなしく響いた。
「右衛門、陽明を頼みます。」
伊予が、右衛門の手をしっかり握って、最後に発した言葉は、我が子の行く末を右衛門に託す言葉であった。
(伊予の死後)
母を亡くした陽明を気に留めて、右衛門は陽明の側でいることが多くなった。
「右衛門様、今日も浜辺まで陽明様とお散歩ですか・・。」
通りかかった漁師の老人が、親しそうに右衛門に声をかけた。
その言葉に、右衛門は、陽明の手を引いたまま照れ笑いをして頷いた。
「陽明様には、お気の毒になあ・・。あんなお優しい母様をなくして、わしらもみんな何て言うていいか・・。こう言うては無理かもしれんが、陽明様、元気出されよ。」
老人は、そう言うと、陽明にほほ笑みかけて、そのまま通り過ぎて行った。
「陽明、わしはお前から決して離れぬからな。安心しろよ。」
そう言いながら、右衛門は自分の方が泣きそうな顔になった。
「叔父上、足が痛くなった。肩車してくれ!」
陽明は、右衛門の優しさに答えるのが辛かったのか、右衛門にいつもの肩車を懇願して、その場の悲しみを振り払おうとしているようだった。
「この子は利口な子だ。」
右衛門は、十歳になった陽明の利発さにいつも感心するのである。
(夕暮れ時、縁側で和尚、右衛門、陽明がスイカを食べている。)
伊予が死んで以来、右衛門は陽明から目を離さない。伊予がいる頃、寺の隣で伊予と暮らしていた陽明を、寺の奥座敷の自分の部屋に引き取った右衛門は、片時も離さずこの子の世話をしていた。
「和尚様は、母上が月にいるかもしれないとおっしゃっていましたよね。」
スイカにかぶりつくのをやめた陽明が、和尚に話しかけた。
「ああ、夜空には満天の星が輝いているが、中でも月は別格じゃ。昼間は、お天道様がみんなを見守ってくれ、その太陽がお隠れになると、その代わりに、月を大将にして星たちが、我らを見守ってくださるのじゃ。お前の母後は優しいお方じゃったから、一番偉い月の元へ行かれたのかもしれんぞ。」
和尚が、にこにこしながら陽明に答えた。
「そんなもんかなあ・・・。私は、夜空をじっと見ているとき、ひょっとしたら、月より星の方が大きいんじゃないかと思うのです。ただ、星は私たちよりずっとずっと向こうにあるから、あんなに小さく見えるんじゃないかと・・・。」
陽明は、夜空をじっと見ながらそう呟いた。
「陽明は、時々私を驚かせるなあ。わしも、偉い学者からそんなことを聞いたことがある。」
西先生の言葉を思い出し、右衛門が陽明に感心したようにそう呟いた。
「ほんに、この子は聡明な子じゃ・・。わしも時々、読み書きを教えたことがあるが、幼い子とは思えぬほど、すぐに何でも覚えてしまう。陽明は、将来、何になりたいんじゃな。叔父上のように剣豪か。」
和尚は、にこにこしながら陽明に話しかけた。
「私は、剣が嫌いです。だから、叔父上のように強くなりたくはない。それより、もっともっといろんなことが知ってみたい。まずは、和尚様がおっしゃった月のことを学びたい。もし母上が月にいるなら、いつか月への行き方を学ばねば・・。」
陽明はそう言って、夜空に向けていた視線を和尚の方へ向けた。
何故かその言葉に、深く反応して、悲しみをこらえるような表情になったのは、右衛門だった。彼は、すでに二人の姉と、その夫の死を見送ってきた。そのたびに、姉たちが残した源一郎と陽明のことが心配で、心を痛めてきたのである。そしてその悲しみは、次第に深くなっていった。幼い時から、肉親の愛情が薄かった右衛門にとって、いつも二人の姉の存在は、自分の生きる証を確認できる存在であった。たとえ、一度は裏切られたにもかかわらず・・。
「和尚、わしはこの地を出て、西先生のいる本島で陽明に西洋の学問を教えてもらおうと思っているのですが・・。身びいきかもしれませんが、この子は学問で身をたてる才能を持ち合わせているように思うのです。」
右衛門は、やっと自分がなすべき方向が定まったような気がしていた。
「いや、わしもこの子には、何か特別なものが授かっているような気がする。この子の和算の能力は、ただ事ではない。つい最近も、四方(正方形)の面積が分かれば、その辺の長さが分かる(開平または、平方根の解法)と言い出しましてなあ・・・。」
和尚がそう言うと、右衛門が驚いたように、
「陽明、お前本当に分かるのか。」
陽明の方を向いて問いただした。
「元の四方(正方形)の中を、大きい四方(正方形)と小さい四方(正方形)と二つの四角(縦は大きい正方形、横は小さい正方形の辺と同じ長さの長方形)に分けるのです。元の四方(正方形)の面積から、その中を二つに分けた大きい四方(正方形)の面積を引いて、その残った面積を、大きい四方(正方形)の辺の二倍で割った商が、小さな四方(正方形)の辺のめどになる。最後に、その小さい四方(正方形)の辺と大きい四方(正方形)の辺を足してやると、元の四方(正方形)の辺のめどが立つんです。ただし、分けた大きい方の四方(正方形)の辺の長さは、できるだけ大きくとらなくてはならないのですが・・・。」
陽明は、頭の中で真剣に大きい正方形の一辺の目安の立て方を考えているようだった。
「そうか、なるほど・・。」
右衛門は、陽明の解説を理解したようにそう答えた。
「お分かりか。」
和尚が、驚いたように右衛門に聞いた。
「いや、さっぱり。」
右衛門がすまして答えると、和尚が今まで聞いたことのないような大きな声で笑い始めた。
(旅立ち)
右衛門は、背中に背負った荷物の上に、陽明を乗せて佐那河内を離れる道を歩いて行く。
「船で行かれるようにお勧めしたのですが、子供には船酔いは酷だと申されまして・・」
坂の上から、ついさっき見送った右衛門と陽明を見ながら弥吉が呟いた。
坂の上で別れを告げるのは、ここの住人にとっての慣例になっていた。
佐吉、佐吉の妻春、弥吉の妻志乃、和尚、丹波、丹波の妻滝、三郎、哲太、将太等が、二人がこの寺を遠ざかっていくのをじっと見ていた。
右衛門と陽明の後姿は颯爽としていた。いや、右衛門は、見送るみんなに心配をかけないためにも、無理にでもそうしなくてはならなかったのかもしれない。
とにかく、二人は目的を見つけて、前に進む生き方を歩み始めたのである。伊予の住んでいたこの佐那河内を後にして・・・。陽明にとっては、母への思いを心の中にしまい込んで、二人で暮らした空間への未練を断ち切って、将来の夢に進み始めたのである。
「三日もすれば、阿波の境も越えられましょう。陽明様にとっては未知の世界じゃ。どんなお人に成長されるやら・・。我が見能林藩祖の末裔として、立派になって下されよ・・。」
佐吉は、陽明を見送りながら、少し感傷的になっていた。
「本島はここからすぐそこじゃ。佐吉様は少し大袈裟ではありませんか。」
佐吉の言葉をじっと聞いていた丹波が、すかさず佐吉をからかった。
「この人は、生涯、見能林藩の人間なのです。」
佐吉妻の春が、丹波に言い訳をした。
「優しいですなあ、春さんは・・・。かつての勇ましい女傑たちがこの地から消えてしまい、滝さん、春さん、志乃さん等の大和なでしこが、この地で新しい世界を作っていくのかもしれませんなあ・・・。」
和尚は、右衛門と陽明から視線を逸らすことなく、感慨深げにこれからの佐那河内を占っていた。
3 (高松に着いた右衛門と陽明)
「ぼうず、うまそうにうどんを啜っているなあ・・。」
浪人風の男が、一生懸命うどんを食べている陽明に声をかけた。
陽明は、その言葉に反応することなく黙って、食べるのをやめない。
「こいつ耳が聞こえないのか。」
陽明の態度に腹を立てた男が、一段と大きな声で陽明に声をかけた。
その声に呼応するかのように、今まで長椅子に腰を掛けていたその男の連れの浪人が、にやにやしながら陽明の周りを囲んだ。
「お前、背中にそろばんを背負っているが、なかなか立派なそろばんではないか。背中から外して、わしに見せてくれんか・・。」
連れの無精ひげを蓄えた男が、にやりと笑って陽明を睨んだ。どうやら、この連中、陽明のそろばんが目的らしい。
陽明は、佐那河内を離れると間もなく、そろばんを背中に紐で結んでかけた。
「妙な格好をするのだな。」
それを見ていた右衛門が、陽明の姿を見て声をかけた。
「このそろばんは、母上が私のそろばんの上達を喜んで、弥吉さんにわざわざ頼んで、大阪で購入した高価なものなのです。私はこれから、このそろばんを背中にかけて持ち歩こうと思っているのです。」
このそろばんを背負ったのは、これから望む勉学への陽明の決意の表れだったのだ。
「それもいいが、ほどほどにな。お前の意気込みは分かるが・・・。」
右衛門が笑いながらそう言うと、陽明は納得がいかない表情を浮かべて、
「はあ。」
と、答えるだけだった。
「おまえたち、私のおじさんが、ねぎを畑かとって帰ってくるから、その前に向こうへ行ったらどうかな。ひどい目にあわないうちに・・・。」
陽明は、三人の浪人に囲まれたにもかかわらず、動揺一つ見せずに三人を挑発した。
「生意気なガキだな。」
もう一人の浪人がそう言った時、後ろで刀の鯉口を切る音がしたかと思うと、一瞬、刀の一閃が、三人の背中をそよ風のように通り過ぎた。
「何者だ!」
陽明にからんだ一人の浪人が、右衛門に気づいて後ろを振り向いた。
右衛門は、その男にはかまうことなく、浪人を押しのけるように陽明の横に座って、
「陽明、ねぎを取ってきたからうどんに入れるか。」
と言って、陽明のどんぶりに、手に持ったねぎを入れた。
「こいつらの着物を斬ったから、ねぎが潰れてしまったなあ・・。」
右衛門は、そう言って、残念そうな顔をして陽明を見た。
陽明は、気にすることなく右衛門に笑顔を返すと、また、うどんを啜り始めた。
ぽかんと、二人の会話を聞いていた一人の浪人が、大きな声で悲鳴を上げた。
三人の小袖の後ろが、見事に袴ごと、真二つに斬り裂かれていたのである。
その時、後ろの方で大きな声で叫ぶ声がした。
「あれは、右衛門だぞ!」
その声に一番素早く反応したのは、三人の浪人であった。すでに、褌だけになった姿で、自分の着物を抱え、大きな叫び声をあげながら、命からがらうどん屋を逃げ出したのであった。
「だから言っただろう。向こうへ行けと・・・。」
陽明が、その姿を見送りながら、小さな声で囁いた。
「おやじ、あいつらの食った分は、わしが払うから心配するな!」
右衛門が、奥に向かって声をかけた。
「毎度ありがとうございます。さすがは、剣豪右衛門様だ・・・。」
帳場からのれんを上げて、店の主人がにやりと笑い、右衛門に礼を言った。
辺りの客のどよめきは、右衛門と陽明が店を出るまでずっと続いていた。
(高松の宿屋)
「お客様、今日はどういう訳か、混んでいましてなあ。申し訳ありませんが、相部屋をお願いしたいのですが。」
宿屋の主人が、右衛門に申し訳なさそうにそう言った。
「ああ、かまわぬ。」
右衛門は、勇人から貰った西洋の気球の写本を熱心に読んでいた。
陽明は、旅で疲れたのだろう。軽いいびきをかいて、右衛門の膝を枕に寝ていた。
部屋に入ってきたのは、身なりのきちんとした侍だった。ただ、この侍、どことなく派手な衣装といい、しゃれた髷の結い方といい、どこかの大店の若旦那と言った風情があった。ただ、確かに大小の刀を差しているところを見ると、商人ではないらしい。
「ああ、昼間のお二人ですなあ。」
二人の顔を見ると、その男は、嬉しそうにそう呟いた。
右衛門が、その声に応じるかのように、本から視線をその男の方に向けた。
「私は、昼間、あなたが三人の浪人の着物を真二つに斬り裂いたのを、びっくりしながら見ていましたよ。あれほどの腕の持ち主が、こんな四国にもいるのに感心しながらね・・。」
その声に、驚いたように陽明が目を覚まし、目を凝らしてその男を見つめ始めた。
「これは、申し訳ない。坊ちゃんを起こしてしまったようで・・。昼間の痛快な光景を目の当たりにして、再びあなた方に会えたのが、つい嬉しくて・・。申し訳ありません。」
その男は、申し訳なさそうに、ぺこりと頭を下げた。
「いや、相部屋になったのも何かの縁・・。こちらへきて楽になされよ。」
「なにやら面白い男が入って来た。」
と思い、右衛門はその男に興味を示した。
「ほう、あなたがお読みになっていた本は、西洋で空に上げられた気球の写本ですな。
どこでこのようなものを・・・。」
その男が気球について知っていたことに、右衛門は驚いた。
「これは、本島で住んでおられる蘭学者の西洋英先生の弟子から貰ったもの・・。しかし、お手前、どうして気球について知っておられるのか。」
右衛門が、不思議そうにその男に尋ねた。
「なるほど、西さんから・・・。いや、これは申し遅れました。私は、元高松藩士 平賀源平という者。今は、脱藩し、江戸で諸事雑多なことをして暮らしている蘭学かぶれの変わり者です。この度、高松藩主松平様から西洋の面白い話などするように命じられて、何年かぶりで帰って来た次第で・・。こんな片田舎で、この様に面白いお方に出会えるとは、私もついていますなあ・・・。」
平賀はそう言って、始終機嫌がよかった。この男、元来珍しいものが好きで、その意味で、右衛門の昼間の曲芸のような剣さばきに、すっかり関心を持ったようである。
「坊ちゃんは、わしの風呂敷の包みが気にかかる様ですなあ。」
平賀は、すかさず陽明の視線に気づき、言葉をかけた。
陽明は隠すことなく、こくりと頷いた。人は、自分の非常に関心があるものが側にあると、なぜかわからないが、その物を見抜く嗅覚があるらしい。今の陽明は、平賀の持ってきた風呂敷の中身が気にかかって仕方がなかった。
「陽明、物欲しそうに人の物を見るではない。平賀殿が困っておられるではないか。」
右衛門が、陽明をたしなめた。
「いや、一向にかまいません。それに、私こそ、坊ちゃんが寝ているところの邪魔をして・・。それに、この坊ちゃん、昼間お見受けしたところ、ただの子供ではありますまい。肝の据わり方が、普通じゃない・・。よっしゃ、今日は特別に、高松の殿さまに見せる前に、坊ちゃんにご披露しましょうか。」
平賀は、そう言うと、包みを手元に引き寄せて風呂敷を取った。
二人の目が、点になって、平賀が開いた包みの中身を見つめている。
「これは何ですか・・・。」
右衛門が、不思議そうに平賀に尋ねた。
「これは、エレキテルです!」
陽明の関心は頂点に達して、部屋中に響き渡るような声で叫んだ。
「坊ちゃんは、やはりただもんじゃないようですな。エレキテルをご存じとは・・・。」
平賀が、感心したように陽明を見た。
「私は、弥吉から貰った「万事博物」という瓦版で、このエレキテルのことについて、見たことがある。そうすると、あなたが有名な平賀源平様か!」
陽明は、改めて、平賀の顔をじっと見た。
「そんなにじっと見んでください。顔から火が出ますわ。ぼっちゃんが言った通り、わしは、江戸では大山師と言われた浮かれ者ですわ。」
陽明の尊敬のまなざしを、内心快く思いながら、源平は自分を謙遜して見せた。
「わあ、火が飛び散った。」
無邪気に大きな声を出して驚いたのは、右衛門であった。
「坊ちゃん、今度は、坊ちゃんがこの取手、回してみなさい。」
源平は、陽明を促した。
陽明は、言われる前から、エレキテルの取手を回したくて仕方がなかった。
「うわあ、また火が出た!」
また右衛門が、叫んだ。
「叔父上!少し冷静に・・。」
陽明が、右衛門をたしなめると、平賀が腹を抱えて笑い出した。
「これだから、カラクリはやめられません・・。これだけ高名な剣豪の右衛門様でも、こんなに子供のように驚くのを見たら、何やら体中がぞくぞくしますなあ・・。」
源平は、そう言って、再び大きな声で笑った。
陽明と右衛門は、その夜遅くまでいろんな話を平賀から聞かされたのだった。
「西先生は、私と同じ蘭学病にかかってしまわれたお人だが・・、世の中にはもっともっと変わった蘭学者がいますからなあ。」
平賀は、頭の中で誰かの顔を思い浮かべているようだった。
「そうですか。西先生も相当変わりものですがなあ・・。」
右衛門が、感心したように言った。
「ぼっちゃん、確かにあなたには何かがある。人には、いくら努力しても真似のできない才能を、神さんに授かって生まれた人がいるものです・・。」
平賀がそう言ったが、
「その人こそおぬしではないか・・。」と、右衛門は心の中で思った。
「西先生は、オランダ語を知っておられる。ただ、どんな書物でも自由に読めるほどの能力はない。世の中には上には上がいますからなあ・・。もっとも、剣では、右衛門様がてっぺんかもしれんが・・・。」
平賀はそう言って、右衛門にごまをすった。
ところが、右衛門は何の関心も示さず、平賀のよいしょが無駄になった。
「私は、星のこと、天文のこと、この世の不思議を学びたい。」
じっと平賀の言うことに耳を傾けていた陽明が、訴えるようにそう言った。
「それなら、長崎に行きなされ・・。あの地には西洋のあらゆる現象、力や天文を知ろうと、必死で物の成立ちを説いた分厚い本(ケイル全書)を翻訳しておられる方がいる。何十年もかけて・・・。ケプラーとかニウトンのような西洋の知識を通して、この世のありようを必死で自分の物にしようとしておられる変わり者がいますよ。」
平賀は、幼い陽明に、まるで大人に話すように説得していた。この子には、年齢を超えた、自分と同じ知識人としての匂いを、平賀は感じ取っていたのかもしれない。
「わしも、ニウトンや重力のことを、勇人から聞いたことがある。」
少し二人の会話から放っておかれた右衛門が、必死で会話に入ろうとした。
「そうですか。」
平賀はそう言ったなり、前とは逆に、あまり右衛門の言ったことに関心を示さなかった。
「私は、いつか長崎に行く。よろしいよな。叔父上!」
平賀に刺激された陽明が、充血した目で右衛門に懇願した。
その後も、平賀の珍しい話は、湧き出す泉のように次から次へと移っていった。
しばらくして、
「夜ももう遅い。寝るとしようか。」
眠気と必死に戦っている陽明を見て、右衛門がやっと切り出した。
「この子は面白い・・。右衛門様、何年かしてこの子を連れて、必ず江戸にいる私に会いに来てくださいよ・・・。」
平賀が、右衛門にそう言った。
「必ず、先生の所に行きます。」
しっかりした口調で、そう答えたのは陽明だった。
4 (一年後)
「弥吉さん、手に取るように月が見えるよ!」
陽明の興奮した声が、縁側に座っている弥吉に呼びかけた。
「それは、ようございました。」
弥吉が、笑顔で答えた。
「弥吉、無理をさせたなあ・・。天体望遠鏡は高価な珍品と聞くが・・。」
右衛門が、申し訳なさそうに弥吉に言った。
「何でも、この望遠鏡、江戸の鉄砲鍛冶の名工が、オランダの反射望遠鏡の図面を写して、自分で作った正真正銘の日本製でして・・・。本物の西洋の望遠鏡より良く見えるとのこと・・。何とか頼み込んで譲ってもらいました。」
弥吉は、自慢したいのを一生懸命我慢して、右衛門に話しているようだった。
「私もその鉄砲鍛冶の名工のことは聞いたことがあります。国友一貫斎と言う名で、何でも百年に一度の名工だとか。レンズの磨き方は、西洋人も及ばぬとか・・。」
西が、弥吉の自慢を助長した。
勇人と陽明の興奮した声が、時折、満天の星空の下で、熱気を帯びて聞こえてきた。
「おぬし、わしに何か期待しているな。」
右衛門が、弥吉らしくない望遠鏡の自慢話に何かを嗅ぎ取った。
「右衛門様には、何も隠せませんな・・。実は、私どもは、右衛門様が長崎に陽明様を伴って行かれると聞いて、すぐ、商売の匂いを嗅ぎ付けまして・・。」
弥吉は、右衛門の疑いに、なにも隠そうとしなかった。
「長崎貿易か・・。」
右衛門が、当てをつけた。
「ほう、弥吉さんはオランダ商品に興味がおありか。」
右衛門の言葉に、最初に反応したのは西先生だった。
「これからは、西洋の品ですから・・。それにしても、右衛門様には何も隠せませんなあ。先日、宗衛門様(大前屋隠居)に、右衛門様が陽明様を伴って、元オランダ通詞の筑紫忠平様に会いに行く話をしたら、すぐに、興味を示されまして・・・。」
弥吉が、そう言うと、ちらりと右衛門を見た。
「お前たちには悪いが、今回ばかりは商売の匂いはしないと思うがなあ。」
右衛門はそう言って、にやりと笑った。
「それでいいのです。ただ、旦那様(大前屋宗衛門)の言うには、もし、ひょんなことから商売の話になったら、大前屋はいつでも準備はできていると、右衛門様への言伝でして・・。」
「準備とは・・・。」
西が興味ありげに言葉を挟んだ。
「金と政治力・・・。商人の準備とは、いつもそんなところです。」
弥吉が、単刀直入に西に答えた。
「政治力と言えば、宗衛門殿から聞いたのだが・・。秋山正幸殿の実兄秋山正直殿が、大目付に就任されたとか。」
西から意外な情報が飛び出した。
「先生もご存じでしたか。その通りで・・・。我々も上野生馬様が老中筆頭になられてからというもの、粛清の嵐が吹きまして、じっと我慢をしていたのですが・・・。あの方のやり方では一向に景気が上向きません。当然、世の中では不満がたまるばかり・・・。そこへきて、尾張犬山藩主 成瀬様(尾張筆頭家老)の家臣が江戸で刃傷沙汰を起こしまして・・。老中上野様の息のかかった大目付 前野様が、成瀬様に報告もせずに寺社奉行に命じて、成瀬様の家臣を捕縛してしまいましてな・・・。その家臣は、江戸の牢獄でお亡くなりになったのです。」
弥吉は、いかにも見て来たかのように、熱を帯びて話し始めた。
「弥吉は、この手の話になると、力が入るからなあ。」
話の途中で、右衛門がからかった。
「そら、私も商人ですから。商売にからんでくると、話が止まりません。そしたら、その話を聞きつけた元大目付 柳生義親様が、竹腰様(尾張藩家老)の側近で、尾張柳生実力者 柳生吉重様に協力を呼び掛けて、尾張三家老 成瀬、竹腰、渡辺様をあっという間にまとめ上げ、筆頭家老 上野様に大目付の交代と、何と、紀州水野様の老中就任を迫ったのです。紀州まで加われば、いかに老中筆頭とはいえ、ひとたまりもありません。柳生義親様の目論見通りになりまして・・。今や柳沢義親様が、再び陰の実力者に復権したと、もっぱらの評判です。」
いつの間にか、弥吉の表情は、満面の笑顔になっていた。
「そうなると、紀州水野様、柳生吉重様や義親様に近い大前屋とおぬしが喜ぶわけだ。」
右衛門が、弥吉の話に解説を付け加えた。
「おっしゃる通りで。もっとも、柳生義親様は、右衛門様と御昵懇というだけで・・。」
「何やら、複雑なお話ですなあ・・。まあ、ともあれ、そのおかげで、大前屋さんも政治力をつけたと考えていいので・・。」
西先生が要約した。
「まあ、そうなりますなあ・・。」
弥吉が笑顔で、回答した。
(陽明が、夜更けまで西の屋敷の小さな庭で望遠鏡を見ている)
「陽明いつまで望遠鏡を見ているのだ。早く寝なさい。」
右衛門は、陽明を叱った。
「はい。しかし、叔父上、こうやって星を見ていると、何だか、母上が、本当にこの望遠鏡で見えるどこかの星で、暮らしているのではないかと思うのです。」
陽明は、望遠鏡を覗き込んだままそう言った。
それを聞いた右衛門は、それ以上陽明に注意することなく、じっと縁側に座り込んで、あきらめたように庭にいる陽明を見守った。
「陽明は、長崎へ行って、天体や重力を学んでいる先生に会うつもりか。」
右衛門が、話しかけた。
「宿であった平賀様も、会うのを勧めてくださったし、叔父上もいいと言ったではありませんか。」
陽明は、すでに蘭学者の筑紫忠平に会えることを確信していただけに、右衛門の言葉は自分への裏切りのように聞こえた。
「それなら仕方あるまい。お前には、厄介な約束をしたものだ・・。しかし、武士に二言は許されぬ。弥吉にまた、出費を申し入れなくばなるまいなあ・・。」
右衛門には、弥吉への頼みごとが億劫だった。先日、弥吉から長崎での商売に関わってほしいような話を聞いて以来、右衛門は、長崎行きを以前ほど気乗りがしなくなっていたのである。
「右衛門殿、夜も長いので、酒でもどうかな。」
陽明と右衛門の話声を聞きつけた西が、そう言って、右衛門の横に徳利を置いて胡坐をかいた。
「先生、陽明はまじめに学問をやっていますかな。」
右衛門は、にこにこしながら西に尋ねた。
「あの子は、一年もたたないうちにオランダ語が解るようになってきた。近所の子供らと遊んでいるのを見かけると、何でもない童だが・・・。この子は、天から知力を授かったようですなあ。それも、普通でない・・・。」
西先生は、望遠鏡で星を見ている陽明をじっと見ながら、そう言った。
「そうですか。そうなると、姉上のためにも、この子の才能を伸ばしてやらねばなりませんなあ・・。」
右衛門は、姉たちの子供である源一郎と陽明のために自分が働かねばならないことを、天から命じられた運命のように思い始めていた。
「私はこの子に、わが先祖伝来のオランダ文法書の書写をやらせているのです。当初、まだ幼い陽明がこの本の価値がわかるわけはあるまいと思って、書写の勉強のためにやらせたのですが、この子はこの文法書の内容をしっかり理解して、私の教えるオランダ語にちゃんと応用しているのです。私は、そのことに気づいたとき、何やら背筋が寒くなりました。」
西先生は、秘密にしていた話を打ち明けるように右衛門に話した。
「そうですか・・・。」
そう言ったなり、右衛門は、改めて、望遠鏡を夢中で見ている陽明をじっと見ていた。
「右衛門様、陽明は程なくグラムマチカの写本を終えます。その時が、あの子の旅立ちの時かと・・・。」
西は、右衛門に長崎行きを促すような言葉を言った。
「そうですか。西先生が長崎行きを勧めるのであれば、余程、あの子に将来の可能性があるのでしょう。私も覚悟を決めねばなりますまい。」
右衛門は、迷いを吹っ切れたように、前を向きだした。
5 (田原藩)
田原藩は、今や武道においては、他藩の注目の的であり、関兼定(田原藩指南役)の田原藩道場は、修行のため他藩から預かった門弟であふれかえっていた。
藩主 佐藤源一郎は、毎日道場に通うほど剣に熱心で、田原藩の両家老は、小野派四天王木内又五郎と尾張柳生指南役だった笹久内が務めているのである。武道には条件がそろっていた。さらには、尾張柳生の実力者である柳生吉重が、笹久内と関兼定の後見人である。自然と、田原藩は尾張今尾藩(吉重所属の藩)の影響が大きくなっていた。
「右衛門殿が動き出したと聞いたが・・・。」
柳生吉重が、田原藩に立ち寄った大前屋の喜一郎に尋ねた。
吉重の訪問とあって、藩主 源一郎、家老二名、指南役が、藩邸に駆けつけた。
「はあ、甥の陽明様と長崎に行かれるとか・・。この陽明様というのは、ここにおられる田原藩主 源一郎様とは従妹同士で、亡くなった伊予様のお子でございまして・・・。」
喜一郎の説明に、吉重は関心を示した様子がなかった。
大前屋にとって、吉重は政治力の源泉であった。将軍の死去で、一旦は幕府の権力を失った大目付 柳生義親が、親友である吉重を頼って、尾張三家老を味方にまとめ、今や老中筆頭 上野生馬をけん制する勢力に返り咲いたのである。自然と、幕府政変で重要な役割を果たした吉重は、尾張三家老の信頼を勝ち得て、尾張での地位は絶大なものとなった。
「そうなると、ここにいる誰もが気になることがございますなあ・・。」
又五郎が、思わせぶりな口調で言った。
すなわち、右衛門の剣が、いつ相手を見つけるかであった。
安住家を継いで、田原藩家老となった又五郎は、同じ剣豪である笹久内がもう一人の家老であり、しかも、彼も田原藩生え抜きではないという幸運に恵まれた。
二人は、藩政運営で対立したことがないほど二人三脚で、藩制を取り仕切っているのである。今の田原藩は、他藩から見ると羨望の的だった。
その良好な藩運営の原因は、大前屋の商売で藩の港が潤っていることが大きかった。吉重の仕える今尾藩の方針もあり、尾張からも大量の商品が田原に流れ込み、江戸へと送られた。かつて、指折りの貧乏藩だった田原藩は、商業の拠点として生まれ変わったのである。この藩の好転は、田原藩重役からすると、自分たちが構想した努力の成果でもなく、ある意味、周りが作り上げた好条件が重なった運のよさかもしれなかった。あくまで藩側からしたら・・・。
ただ、商人たちの側からみると、ここまで田原藩を商業の盛んな中継地にするのには、莫大な資金と人脈を駆使したのである。大前屋の宗衛門、喜一郎、弥吉等のあらん限りの策略と知略は、ここにいる武士にとっては、別世界のねじれの位置での努力であった。
「示現流か・・・。」
笹が、みんなの思い(喜一郎を除く)を代表してポツリと言った。
「長崎と言えば、薩摩藩の長崎商法・・。藩主 島津公は無類の西洋好み。あの方が、出島で西洋の品物に使った金は天文学的と言われてますからなあ・・。」
何処から仕入れたのか、関が長崎での薩摩藩の噂を披露した。
「叔父上の剣が示現流に負けるなど、考えも及ばぬ・・。」
年上の吉重や家臣達に遠慮して黙っていた源一郎が、初めて会話に加わった。
しかし、意外なことに誰も源一郎に賛同する者はいなかった。
「木内殿なら薩摩の示現流、どのような剣か知っておるのでは・・。」
笹が、又五郎の方を見た。
「奴らの剣は、殺戮のための狂気の剣じゃ。右衛門がどう対処するか・・。もちろんわしも、右衛門を信じているが・・・。考えてみれば、右衛門は最強の剣になるべく、自分の意志に反して、絶えず最強に向かって階段をゆっくり駆け上がっているのかもしれんなあ・・。」
右衛門に対する運命観を総括するような言葉が、又五郎から飛び出した。
右衛門の剣の行方を注視している仲間達は、どんなに離れていても、彼の生き様が気になっているのかもしれない。右衛門本人は、そんなことには無頓着かもしれないが・・・。
「考えてみれば、ここにおられるお武家様は、右衛門様の剣の話ばかりで、甥の陽明様がどうして長崎に行かれるか、誰もお聞きになりませんなあ・・。」
側でみんなの話を聞いていた源一郎が、そう言って場を和らげるように笑い出した。
「そうじゃ。それじゃ、いったいなぜ、その子は長崎などに行くのかのう・・。」
やっと、吉重がその話題を取り上げた。
「その陽明様というのは、ただならぬ利口なお方で、すでに本島で西様からオランダ語を教えられ、誰よりも早くオランダ語を理解なされようで・・・。長崎の筑紫様とか言われる方のところに、天文の勉強のために行かれるそうです。」
喜一郎が、そう説明すると、
「そうか。」
又五郎が、一言そう言っただけで、誰もそれ以上そのことに興味を示さなかった。
「侍というのは、やはり商人とは違う生き物かもしれない。」
喜一郎は、そう思って、これ以上話題を広げるのをあきらめた。
更に言えば、右衛門が何のきっかけもなく示現流の実力者と剣を交えるはずがない。それにもかかわらず、ここにいる連中は、まるで右衛門が、示現流と争うのを必然のように話しているのである。喜一郎は、不思議に思ったことを、この連中に聞いてみようかと思ったが、何故か無駄な気がして、これ以上彼らの会話に入るのを断念した。
6 (本島の西の屋敷で、隼人、西先生、右衛門、陽明が集まっている)
「実は、昨日、この隼人が私の所にやって来て、長崎に陽明と共に行き、帰郷したいというのです。元々、隼人は長崎通詞大屋家の御曹司でして、通詞の職を継ぐことで、親父殿と意見が合わず、私のところへ家出同然でやって来たのを預かっていたのです。」
西先生の口調は、歯切れが悪かった。親に同意も得ず、隼人を弟子に取ったことが気にかかっていたのだろう。
「しかし、いきなり隼人が長崎に帰っても、両親が受け入れるかどうか・・・。それに、私としても、両親に何と説明すればよいものか。」
西の話を聞いて、右衛門は隼人の扱いに困惑していた。
「私は、親元に帰らなくてもいいのです。右衛門様と陽明と一緒に長崎に行き、陽明と共に、筑紫様に学問の手ほどきを受けたいと思っているのです。こんな小さい陽明が、真剣に学問を学ぼうとする志を持っているのに、自分は長崎に帰ることにためらっている。そんな自分が情けなくて・・・。どんな嫌なことがあっても、学問のためなら、避けてはだめだと・・。」
隼人の真剣な顔は、誰も彼の意志に反対できないような気迫を持った雰囲気だった。
「私は、隼人先輩が一緒に行ってくれたら、こんなに心強いことはありません。」
陽明が、隼人に助け舟を出した。
右衛門は、しばらく黙ったまま、どうすべきかを迷っているようだった。
しばらくして、
「わしは、学問がどれほど人を掻き立てるものか、想像はつかぬが、隼人がそこまで決意を固めているなら仕方はあるまい。ただし、お前の両親に黙って、長崎で過ごすことはできんぞ・・。どんな親であれ、長く会っていない息子を心配しない親はいないからな。」
右衛門は、そう言って、隼人の同行に条件を付けた。
「それは当然です。なあ、隼人・・。」
右衛門の条件にいち早く同意したのは、西だった。
少し困ったような顔をしていた隼人が、しばらく考えていたようだったが、あきらめたように頷いた。
「これで私も、少しはほっとした。隼人を預かった時から、何度かこの子の両親に報告しなければならないとは思っていたのですが・・。隼人から、それだけはやめてくれと、懇願されていたものですから・・。ついつい、放っておいたのです。右衛門様には、私の重荷を背負わすようで申し訳ないのですが・・・。」
西は、そう言って頭を下げた。
右衛門は、この手の家族問題が苦手であった。死んだ妻の雪との間には子供がなかったこともある。姉たちの子供の世話を焼く羽目になったことは仕方ないとしても、隼人の家庭内の問題に口を出すなど、想像もしていなかったのである。
「隼人さん、明日は望遠鏡を解体して、二人で長崎へもっていきましょう。」
陽明が、にこにこしながら、隼人に声をかけた。
「そうだな。」
隼人は、陽明の言葉に無邪気な笑顔で答えた。
「やはり子供だ。」右衛門は、二人を見ながら、そう思って苦笑した。
「ところで、隼人の旅の路銀のことなのですが・・。」
西が、言いにくそうに切り出した。
「それは、心配ない。弥吉の奴、下心があるのか、長崎で家を借りて陽明の世話ができるようにと、大金を置いていった。」
右衛門は、そう言うと、屈託なく笑った。
右衛門は、幼い頃はかなり貧乏をしたが、米の飯がなくなると、豆や雑草まがいのものでも口に入れて空腹を満たせば、何の文句も言わなかった。彼の母は、そんな我が子を見て、どれだけ癒されたか知れなかった。不思議なもので、そんな貧乏暮らしから一転、藩主になっても、衣服や食べ物にはことさら注意を払わなかった。あるものを着て、出されたものを食べる。そんなものだと思っていたのである。元来、そういう人間には、金の方から寄ってくることはないが、ことさら避けることもしないのだろうか。ここしばらく、彼の生活で金に悩まされることはなかった。そして、悩まされないことを有難いとも思っていない様子であった。
「右衛門様を見ていると、何の気にもせず頼りたくなる。有難いことで・・・。その代わりと言っては何ですが。陽明が写本した私の先祖の家宝であるグラムマチカ(オランダ文法書)・・。あの本は、通詞ならだれもが欲しがる貴重な本です。陽明、決して気安く人に貸さぬように・・・。貸すときは、相手の何か大切なものと交換にしなさい。」
西は、そう言うと、少し狡猾な表情をした。
長崎の通詞というのは、代々世襲制で、オランダ語を知っていても誰でもなれる職業ではなかった。だから、オランダとの商談も彼らなしには成り立たなかったのである。長崎通詞にも見習いから大通事まで階級があって、それぞれの世襲の家の子孫たちは、お互いに競争し切磋琢磨してオランダ語を学んでいた。西の家もそんな通詞の世襲できる身分の家柄であった。西と隼人は同じような環境なので、隼人は幼いころから、西のことは知っていて、お互い気性が合うのか、西は隼人の面倒をよくみてやった。隼人は、自然に彼のことを師と仰ぐようになった。そんな西が、若くして通詞の職を辞して、学問のためにこの本島に居を構えたのである。そして、西に憧れて、彼を頼ってきたのが、隼人であった。




