右衛門5-3
1
尾張今尾藩剣術指南役 柳生吉重屋敷・・・
関兼定(尾張柳生頭首代行)は、密かに柳生吉重に会いに来ていた。
「おぬし、折が悪い時に来たものだな。昨夜から、大目付柳生義親殿が我が屋敷にお泊りだ。理由は、わしと親睦を深めると言って江戸を出て来たらしいが、その実、おぬしの師 柳生孫之丞(尾張剣術指南役)への不服をわしに聞かせるためじゃ。どうだ、会ってみるか。」
吉重は、関の困った顔を楽しむように、にやにや笑いながら言った。
その時、座敷の障子が勢いよく開けられて、義親が無表情に入ってきた。
「関に面会の是非を尋ねることはないぞ、吉重殿。ちょうどよい機会じゃ、兼定の考えも聞かねばなあ・・。もう説明する必要もなかろう、おぬしの門弟が、正幸、小野忠成、右衛門に勝負を申し入れ、ことごとくはね返されたのだからな。特に、秋山正幸への立ち合い、当方も見捨てておくわけにはいかん。」
最後の言葉を発したとき、義親の表情が険しくなった。
「はあ、何とお詫びしたらよいか・・。わが師柳生孫之丞様の言うには、小野派の御曹司と親交を深めて、正幸殿は柳生流をないがしろにしていると・・。師に従うは、忠義でありまして・・。」
関の体は、汗をびっしょりかいていた。
「いらぬ喧嘩をうりおって。まあいい。柳生孫之丞殿には、そろそろ引退願わねばなあ。のう、吉重殿。」
義親は、吉重に同意を求めた。
「おぬしが言えばよかろう。わしはご免じゃ。あの老人、頑固だからな。それに、江戸柳生が尾張柳生に口出ししたとなれば、あの老人何をしでかすか・・。何せ、あの老人の後ろには、尾張筆頭家老成瀬重住様がいるからな。いかに、大目付とは言え、まともに喧嘩はしづらかろう。おぬし、前の騒動では紀州の筆頭家老にも恨みを買ったらしいからなあ。」
吉重は、義親の弱みをつかんで離さないとばかりに、単刀直入に義親を揺さぶった。
義親は、吉重の言葉に、言い返す言葉を探しているようだったが、
「まあいい。しかし、幕府を甘く見ていると、尾張もどんな苦杯をなめるか・・・。
おぬしも、尾張公徳川宗治様と将軍吉宗様の教訓、忘れたとは言わせんぞ。」
この言葉に、吉重と関が思わず目を合わせた。二人にとって義親の言葉は禁句である。
徳川宗治の隠居で決着のついたこの事件は、尾張藩始まって以来の大事件であり、幕府に対する消すことのできない敵対心の始まりであった。
「おぬしの不満は、昨夜さんざん聞いた。おぬしの思い、きっと竹腰正博 (尾張藩付家老、今尾藩主)様にお伝えする。今回ばかりは、竹腰様との直談判だけは、わしに免じて抑えてくれ。」
いつの間にか、形勢は逆転して、吉重が義親の機嫌を取り始めた。
「ところで関、おぬし何の用で吉重殿に会いに来た。」
義親は、吉重の最後の言葉を受け入れたという意味もあって、関の話題に話を移した。
「田原藩の事ですが。最近、田原藩の家老の屋敷に右衛門が訪れまして・・・。」
関が、田原の事情を話そうとした。
「その一件なら、おぬしよりわしらの方が熟知しておる。忍びの者が、逐次、わしのもとに知らせるようになっておるからな。どうやら、成瀬様の方が、分が悪いようだな・・・。田原藩士は、右衛門の存在に自信をもって、成瀬様が送り込んだ浪人どもに、田原藩士たちが復讐し始めたそうではないか。あの方は、右衛門を甘く見ている。紀州の安藤様の荷の舞にならねばよいが・・・。」
義親は、そう言うと、にやりと笑った。
「おぬし、それを望んでおるのだろう。よくそんな白々しいことが、言えるな。」
そう言って、吉重が笑った。
「私は、正直、田原藩とか、相続争いとかあまり興味がないのですが。そうも言っておられぬ事態になりました。私も、右衛門は小野派最強の半兵衛を破った男であることは知っていたので、そうやすやすと笹が勝つとは思ってはいませんでしたが、案の定、こんな結果に・・・。田原藩の混乱もあって、御家老成瀬様自らが私をお呼びになって、右衛門と果し合いをせよとのこと。右衛門を始末せねば、あの方は身動きが取れないのでしょう。そこでお願いなのですが、吉重様に、右衛門との果し合いの仲介人になってもらえまいかと、こうやって参った次第で・・・。」
そう言って、関兼定は、二人の前で、深々と頭を下げた。
大目付の目が輝いた。
「関、半兵衛と右衛門の果し合いを見届けたのは、わしだったのを知っておるか。」
義親が身を乗り出すように、関に話しかけた。
「いや。」
関は、驚いたように義親の言葉に反応した。
吉重の方は、そんな義親を見ながら、ずっと笑みをこぼしていた。
「義親殿、おぬしは尾張柳生の人間ではない。ましてや、幕府の重役が仲介人になど・・、なれるわけがなかろう。」
吉重はそう言って、義親の仲介人になりたいという子供のような願望を、息で蝋燭の火を消すように一蹴したのだった。
2
安住家屋敷・・・
「ちょっと、尾張まで行かねばならなくなった。後は頼む。」
右衛門は、柳生吉重の書状を一読すると、又五郎にそう言って、床の間に置いてあった刀を差して、玄関に待たしていた吉重の家臣と共に尾張へ行ってしまった。
「右衛門様は、どうなさいました。」
朝食を運んできた早苗が、不思議そうな顔をして又五郎に尋ねた。
「尾張に行ってしまった。何の用かも言わずに・・、おかしな奴だ。 今日は、小夜と寺の方へ行く約束があるので、わしも朝飯が終わったら出かけますぞ。」
又五郎は、そう言いながら、右衛門のことはすっかり忘れてしまっているようであった。
「わたしも、お供しましょうか。」
早苗がそう言うと、又五郎は少し顔を赤らめながら、
「よろしければ、いつでもおいでなされ・・・。」
うつ向いたまま、小さな声で呟いた。
果し合い・・・
右衛門は、関兼定の一振りを、踏み込んでしっかりと刀の刃で受け止めた。
関の太刀筋は、連続技を仕掛けて、相手の体制が崩れるのを待って仕留めるという激しい動きを得意としていた。その攻撃は俊敏で、切れがあった。しかし、関の三度の打ち込みは、ことごとく、右衛門の僅かな対応の早さが関の動きを上回り、刀を振り回す激しい攻撃を封じる不連続な動きの繰り返しになった。
関のリズムに狂いが生じ、右衛門の次の動きが次第に読めなくなった。
「なぜわしの一振りを、踏み込んで受け止められるのだ。奴は、わしの気合いが読めるのか・・・。」
関は、三度目に正眼に構えた時、冷静に今までの右衛門の動きを反省した。
しかし、動揺はなかったのである。 右衛門からの攻撃がない以上、いかに右衛門が自分の一振りを受け止めたとしても、常に積極的に仕掛けているのは自分であるという優越感に裏打ちされていた。
一方、右衛門は、関の太刀筋から、構えた姿勢の癖を見極めていたのである。右衛門は関の体の重心が、少し前の三回の攻撃の時と違っているのを察知していた。
「奴の次の打ち込みは、連続技をあきらめて、踏み込む足を思い切って右にずらし、斜め下に振り下ろす一閃で仕留めようとするはずだ」
右衛門はそう判断した。
おそらく、踏み込む角度を間違えなければ、自分の刀の水平横一閃で、関の手首が捉えられる。右衛門は、三度の関の攻撃で、踏み込む左足の角度を探していたのだった。
「右衛門は、自在流と聞いていたが、相手の動きを冷静に見極める試合もやれるのか・・・。右衛門と言う男、限界が見えんな。」
柳生吉重は、獲物の位置をじっと見極めているフクロウのような、右衛門の狩る目に注目していた。
次の瞬間、関の素早い刀の一振りは、標的を一瞬見失い、空を切った。彼の動きは、見切られていたのである。
「しまった!」
そう気づいたときは、関の手首が血に染まっていた。死角をつかれた関には、右衛門の動きがどうなったのか一瞬分からないまま、小手を決められたのである。
刀を握れなくなった関は、その場にうずくまった。
いつものように、右衛門は、吉重に向かい一礼し、続いて、うずくまる関の姿に向かって一礼し、気遣う様子もなく立ち去ろうとしていた。
「右衛門殿!尾張柳生の負けじゃ。笹に続き、関までも敗れれば、わしらの完敗じゃ!いずれ、わしとお相手願えるかな・・・。」
立ち去ろうとする右衛門に、吉重が声をかけた。
「柳生吉重様、わしは、柳生でも小野でも、流派と戦うつもりはさらさらござらん。
できれば、あなたとも理由もないのに戦いとうはござらん。この試合、わしは誰にも言ってはいないし、これからも誰に言うつもりもござらん。」
右衛門は、死闘で疲れた体を、やっと支えているように見えた。
「今度の田原の一件、わしはわしなりに、右衛門殿の意向に沿う形で動いてみよう・・・。
それを、おぬしが果し合いを受けてくれた返礼とさせてくれ!」
そう言って、吉重は、去っていこうとする右衛門に深々と頭を下げた。
3
「余程困っているらしい。成瀬殿が泣きついてきたわ。」
安藤継正(紀州筆頭家老)は、成瀬重住(尾張筆頭家老)の書状を、薄笑いを浮かべながら読み終えた。
「右衛門を甘く見ているから、こんな無様な結果になってしまうのだ。わしは、あの方との最初の密談から、何度も忠告していたはずなのに・・・。まあいい。これも予想はしていた範囲だ。 上原(安藤継正側近)、黒龍党の腕の立つ浪人、五十人程、田原藩で工作している矢野和正(成瀬重住家臣)の基に送り込んで加勢してやれ。それに、万座屋に矢野和正への工作資金支援するように知らせておけ。勝負はこれからよ。」
そう言って、安藤は手に持っていた扇子をぎゅっと握りしめて、
「今度こそ、右衛門には、先の騒動での失敗のお返しをせねばなあ。」
と続けて、右衛門への恨みを噛みしめているようだった。
紀州付家老安藤継正の加勢が功を奏して、田原藩では、再び治安が悪化するとともに、尾張藩の威光を背景に、矢野和正の動きが活発になり始めた。
彼は、田原藩相談役として藩政に口出しし、次期藩主に成瀬宏明 (成瀬重住三男)を飲ませようと執拗に迫っていた。
一方、右衛門と安住助左衛門を中心とする田原藩家臣は、江戸幕府に源一郎を藩主にと願い出ていた。
「たとえ、幕府の許しが出ても、尾張藩が認めなくては、源一郎様をすんなり藩主にすることは、難しいのがこの藩の宿命でしてな・・・。」
助左衛門が、右衛門たちに説明した。
「この藩は、御三家に隣接しているために、我が見能林藩より難しいですな。」
佐吉が、腕を組んだまま、いかめしそうな顔をして呟いた。
「とりあえず、江戸幕府が源一郎様を藩主に認めてくれれば、打つ手はある。御家老、その承認はいつぐらいに決まりますかな。」
佐吉が、重ねて助左衛門に質問した。
「江戸にいる家臣の知らせでは、大目付様や筆頭老中の森様が、動いて下さっているようなので、近いうちには必ず。」
助左衛門は、幕府の承認には自信があるようだった。
「わしは、この争い、どこかで大勝負になるような気がする。すでに、矢野和正 が居座る宿には、大勢の腕の立つ浪人がいるらしい。三郎の知らせでは、その連中、黒龍党の者らしい。ということは、紀州の筆頭家老と尾張の筆頭家老が手を組んでいるということ・・・。幕府の承認だけで藩主が決まるとは、到底考えられないなあ。」
右衛門もまた、腕を組んで目を閉じたまま、自分の考えを言った。
「明日は、この地で祭りがあるらしい。当分は、わしの出番もなさそうだし、小夜のお供で、街に出かけてみようかと思っているのじゃが。」
又五郎が、三人の話に興味もなさそうに、にこにこしながら右衛門に自分の行動の承認を取ろうとした。
「おぬし、この頃、何かといえば、小夜か早苗殿の話ばかりだな。ひょっとして・・・。」
右衛門が、又五郎の反応を覗き込むように確かめた。
「あほう!源一郎のことを話し合っているのに、変なことを言うな!そう言うのを、下衆の勘繰りと言うのじゃ!」
そう言って、又五郎は真っ赤な顔をして、右衛門に喰ってかかった。
それを横で見ていた佐吉と助左衛門は、何とも意味深な笑みをこぼしていた。
ただ、右衛門だけは、又五郎がなぜそんなに慌てているのか理解できなかったのである。
4
悲劇が起きた。伊予の夫の林七が、嘘の誘い(助左衛門が、寺に来るようにと・・。)に乗って、待ち伏せに会い数人の浪人に殺害されたのである。
戸板に乗って、安住家に担ぎ込まれた林七は、すでに虫の息であった。
「右衛門殿に会って、一言告げたい。」
それが、林七の頼みであった。そこで、血だらけになった林七を戸板に乗せた田原藩士がやっと運んできたのだった。
「右衛門殿、わしは、おぬしが鬼のように怖かった。伊予が、毅然とおぬしを待ち受けているのをしり目に、わしと恒明(源一郎の父)殿は、家族を捨ててこの田原に逃げ帰ったのじゃ。こうやって、誰かに襲われて斬り殺されても仕方がないのかも知れん。いまさら生きようなどという気持ちはさらさらない。自業自得というものじゃ。ただ、陽明のことが・・・。こんなことを言える義理ではないが、伊予と陽明の事、よろしくお頼み申す。」
林七は、左手で右衛門の手を固く握り、右手で自分の刀を抜き身のままで、束をしっかりつかんでいた。
「林七殿、おぬしは決して、臆病ではないぞ、見られよ!抜いた刀の気迫が、今でもわしに伝わってくる。姉上と陽明には、きっとおぬしの雄姿伝えますぞ!」
右衛門は、鼻水と涙でぐしゃぐしゃになった顔を林七に向けて、しっかりと林七の手を握りしめていた。
林七は、右衛門の言葉を聞くと、満足したようにかすかに笑い、死を静かに受け入れた。
「おのれ、ただでは済まさんからな!」
横で、見ていた又五郎が、怒りを抑えきれなくなって、立ち上がった。
「又五郎、おぬしだけで、五十人を切り倒せるか!今は、静かに林七殿を見送ってやってくれ。この恨みは、必ず晴らしてやるから・・・。」
右衛門は、そう言って又五郎の暴走を押しとどめた。
又五郎の後ろで、早苗が忍ぶように嗚咽していた。
「わしは、伊予姉君に何て言っていいのか・・・。情けない限りだ。」
右衛門は、そう言って、玄関の地べたに座り込んで、しばらくの間放心状態になっていた。
「殿、賽はふられましたぞ!」
右衛門は、佐吉がしっかりした声で右衛門に話しかけたのを、遠くの方でぼんやりと聞いていた。
右衛門は、与助、小野忠成、長谷部正幸、又五郎に、旭屋にたむろする黒龍党の浪人たち五十名の襲撃に加勢してくれるようにと、要請したのである。
彼の怒りは凄まじかった。仲間を総動員して、林七の復讐を準備したのである。
5
大阪大前屋屋敷・・・
「ご苦労やった。忠成さんらは、無事、田原まで送り届けてくれたかいな。」
大前屋店主喜一郎が、田原の港まで無断で、忠成、正幸と与助を船で送った弥吉に、首尾を確認した。
「みなさん、一言もしゃべらず、船の中は火の消えたようでしたわ。さすが腕の立つ侍が死闘を前にすると、あんな雰囲気になりますのやな・・・。よう喋る与助さんや正幸さんまで、じっと何か考え込んでいるように、目をつぶっていましたわ。」
弥吉が、船の様子を説明した。
「そうか、わしらからしたら、あれだけの剣豪が集まれば、たとえ五十人でも必勝かと思うとったが、そうでもないんやな。」
喜一郎は、弥吉の話に、少し不安を感じ始めているようだった。
「それで、田原の港は使えそうか。」
じっと黙っていた宗衛門が、二人の話題をいきなり変えた。
「問題ないかと・・。大阪、勝浦、田原と船が停泊出来たら、江戸までの航路は完璧になります。私など、商売のことを考えると、よだれが出そうでした。」
弥吉は、そう言って宗衛門に笑顔を見せた。
「この計画、どうしても成功させたいなあ。」
喜一郎が、自分の願望を思わず漏らした。
「まだまだこれからや。引き締めてかからんと・・。相手は御三家と万座屋や、油断はできん。まれにみる剣豪の右衛門様やそのお仲間と出会った幸運あってのここまでの結果や。この幸運、大事にせなあかん。」
宗衛門は、そう言って二人の顔を見た。
彼の言葉に、気を引き締められたかのように、喜一郎と弥吉が姿勢を正して頷いた。
「二日前に、尾張の柳生吉重 (尾張藩剣術指南役、竹腰正博側近)から、内々の打診があってな・・・。尾張筆頭家老成瀬様に二万両、同じく、付家老竹腰様、付家老渡辺様にそれぞれ一万両、献上できんかとのことや・・・。もし同意なら、源一郎様田原藩相続のこと、成瀬様に相談してみるとのことや。」
宗衛門がそう言うと、二人の様子が色めき立った。
「四万両ですか・・。老中森様も二万両、紀州藩付家老水野様にも一万両すでにお渡ししているので、総計七万両ですなあ。弥吉、あの港、それだけの価値があるんかいな。」
そう言って、喜一郎は弥吉の顔を見た。
「大前屋が、日本一の大店になるには、安い買い物かと・・・。私も、大旦那様にこの計画加えていただいた御恩に報いるため、二万両程出ささしてもらいます。」
弥吉は、そう言って、まっすぐ喜一郎の顔を見た。
「それはあかん。お前には、廻船問屋を任せたんや。この航路の開発はあくまで大前屋にやらせてもらいます。見てみい、喜一郎! お前は、弥吉の商魂をもっと勉強させてもらえ!」
宗衛門は、そう言うと、喜一郎を叱るような眼で睨みつけた。
「右衛門様等が、今度の旭屋襲撃を成功させた時が、絶好の機会かと・・・。成瀬様は、これでしばらく打つ手がなくなりますさかい。」
弥吉が、柳生吉重の誘いを受けるように促した。
「お前の言う通りや、この機を逃したらどうなるかわからなくなる。喜一郎、早速、四万両、尾張の柳生吉重様に承諾の連絡伝えて来い!」
宗衛門は、弥吉の知略についていけない喜一郎に、さっきから不満気であった。
「では、さっそく。」
喜一郎は宗衛門の視線を避けるように、すぐに座を立って、きまり悪そうに部屋を出ていった。
6
鬼の嵐・・・
後に、「鬼の嵐」と呼ばれる、右衛門たちの旭屋襲撃が、早朝に始まった。
まだ、朝日も出ていない早朝に、いきなり丹波と三郎が、木槌で旭屋の玄関の雨戸を打ち壊し始めたのである。寝ていた黒龍の浪人たちは、いっぺんに混乱状態に陥った。
しかし、対応が早いものは、すでに刀を抜いて、壊された正面玄関に向かう者もいた。
すると今度は、丹波が、叩き壊された正面の雨戸から、中の土間に向けて、焙烙玉という火炎煙幕を投げ込んだのである。
未透視をなくして、目を覆う浪人たちの隙をついて、目のあたりを湿った手拭いを巻いた与助が、宿の中へ突っ込んだかと思うと、あっという間に、玄関に出ていた浪人たちを斬り倒して二階の階段を上がっていった。
その素早い行動をじっと見ていた右衛門が、与助の後ろを固めるために、間をおいて、与助と同じように二階へ上がっていった。
又五郎と忠成は、左右に分かれ、一階で寝ていた浪人たちに襲撃をかけ、彼らの背後を守るべく、又五郎には田村(田原藩藩士)が、忠成には平田(大阪小野道場門弟)が、二人に遅れて追随した。
そして、三方から逃げてくる黒龍の無頼漢を、正幸と丹波、三郎たちが、正面の土間で迎え撃った。その体系は、何の打ち合わせもないにもかかわらず、相手にとって最高の襲撃体制となってしまった。
襲撃された浪人たちと、右衛門たちの剣の技量は、余りにも違いすぎた。初めに突進した与助の凄まじい刀の一閃に、刀で受け止められる浪人は一人もいなかったのである。十数分もたたないうちに、宿のあちこちに累々たる死体が横たわり始めた。
いつの間にか、又五郎は、余裕すら感じ始めたのだろうか、血でべったり染まった自分の刀を肩に乗せて、薄笑いを浮かべながら、向かってくる浪人たちを、無駄な動作もなく、一刀で仕留めていった。
忠成にいたっては、最初に向かって来た三・四人の男たちを、あまりにも鮮やかに斬り殺したことで、生き残った浪人たちは、勇気を出して忠成に立ち向かおうとするものすらいなくなった。追い詰められたネズミのように、窮鼠猫を噛むかのごとく、奇声を上げながら突進するのだが、彼らの刀の一撃が、忠成に届く前にバタバタと倒れていった。
やっと、混乱をかいくぐって、正面玄関までたどり着いた連中はもっと哀れであった。
正幸の剣が、逃げ出そうという黒龍の浪人の望みを、容赦なく打ち砕いていったのである。
階段を降りようとした右衛門の背後から、一人の浪人が凄まじい勢いで、刀を振り下ろしてきた。しかし、振り下ろされる一瞬の合間に、背を向け半身になった後ろ手で、右衛門の刀の一閃が、その浪人の腹を一直線に通って行った。男はたまらず階段から、右衛門を通り越して、階段の下に転がり落ちた。男の息はすでに途絶えていた。
逃げ出せたものは、ほとんどいないという圧倒的な急襲に、右衛門でさえ予想もしなかった完全勝利で、この企ては半時分足らずで終了してしまった。
ふと気づくと、やっと朝日が、この修羅場にも差しはじめ、いかに凄惨な死闘がこの場で行われたかを、改めて、右衛門たちは確認せざるを得なかったのである。
この襲撃に加わったが、右衛門の仲間たち剣豪の余りにも凄まじい襲撃に、平田と田村は、ただ茫然と立ちすくむばかりであった。
「皆に礼を言う。」
返り血を、多量に浴びた右衛門の着物は真っ赤に染まっていた。
それでも、自分の姿に異を介すそぶりもなく、右衛門は死闘を終えて、玄関の土間に集まってきた仲間に深々と頭を下げた。
「わしらは、このまま真っすぐに国元に逃走する。これで黒龍の奴らも、わしらの強さを思い知っただろう。願わくば、しばらく大人しくしていればいいのだが・・・。」
忠成が、代表するように、右衛門の感謝の礼に応対した。
まず、正幸が、笑顔を見せながら、頭を下げている右衛門の肩をポンとたたくと、そのまま外に出て、朝日に向かって歩いて行った。続くように、忠成も右衛門の肩をポンとたたくと、正幸の後を追い始めた。慌てて、追随すべく平田が、頭を下げたまま、姿勢を崩さない右衛門に一礼して、二人の後を追うべく駆け出した。
「これで、伊予様に弔い合戦の報告を、胸を張ってできます。」
与助は、そう言いながら、右衛門に一礼し、流れていた涙を着物の袖で拭うと、平田と同じように正幸と忠成の後を追って飛び出した。
「さあ、帰ろうか・・・。田村、後は頼むぞ。」
又五郎はそう言って、去って行く仲間をじっと見送っている右衛門を促した。
「はあ、程なく我が仲間の藩士が、後始末に参ります。後は、助左衛門様の指図通り、この死体は、この地の寺で葬るつもりです。万事手はず通りに・・・。ご心配なく。」
平田は、そう言うと、茫然とたたずんでいた自分を取り戻したかのように、又五郎に笑顔を見せた。丹波と三郎は、右衛門に何も告げずに、いつの間にか姿を消していた。
これが、後に、世間の人が噂する「鬼の嵐」の顛末であった。
7
柳生吉重が、安住の屋敷を訪れたのは、「鬼の嵐」が終わって一週間ほどが経っていた。
「右衛門殿はおられるか。」
対応に出てきた安住助左衛門は、吉重が玄関に立っているのを見て、しばらく茫然としていた。
「柳生吉重様で・・・。」
助左衛門が確認すると、吉重は、穏やかな笑顔を見せて老人に頭を下げた。
「しばしお待ちを・・。右衛門殿は、離れでおられますので。早苗!早苗! 右衛門殿に、大事なお客様が参られたと知らせてまいれ!」
助左衛門は、始終落ち着かない様子で、奥にいる早苗に声をかけた。
柳生吉重と関兼定(以前右衛門と果し合いをした。)が、助左衛門と早苗に案内されて、離れの座敷に通されたとき、又五郎と右衛門は、廊下に出て熱心に冷やしそうめんを啜っていた。
「どなたかな。」
箸でそうめんをつかんだまま、最初に顔を上げたのは又五郎だった。
吉重と関は、見てはいけないものを見たかのように、決まりの悪い思いをしながら、座りこんでそうめんを啜る二人に頭を下げた。
「これは、柳生吉重様!」
やっと気づいた右衛門が、何も気に留めることなく、屈託のない笑顔を二人に見せた。
「この方が、あの柳生吉重様か・・。」
又五郎が、驚いたように右衛門の言葉に反応した。
「少し話がしたいのですが、よろしいかな。御家老もよろしければ一緒に・・。」
吉重は、始終笑顔を見せている。
「源一郎殿が、次期田原藩藩主になられることに、尾張藩は何の意義を挟まぬことで、成瀬様、竹腰様、渡辺様、三家老の同意が取れた。今日はそのことを知らせに参ったのでな・・・。」
離れの座敷に座った吉重は、そう言うと障子が開け放たれた中庭を一瞥した。
「まるで夢のようなお話だが、我々は柳生様の今のお話、手放しで喜んでいいので・・・。」
右衛門は、吉重の言葉を疑うように、確認を取ろうとした。
「ここにいる関との一件で、わしは、おぬしの意に添うように努力すると約束したからな・・・。その約束を果たしたまでだ。幸い、先日おぬしらが起こした黒龍党襲撃事件で、成瀬様に選択肢はなくなっていたのも幸いしたのじゃ・・・。もう一人、大目付柳生義親殿が、我が殿竹腰正博殿と、渡辺殿を幕府の方針で同意させたのも功を奏した。付け加えて言うと、大前屋の努力は想像がつくだろうと思うが・・・。つまり、わしだけの力ではないのだけは言っておかねばな。」
そう言って、我慢していた嬉しさをさく裂させるように高笑いをした。
吉重は、右衛門との約束が叶えられたことを、自分の事のように喜んでいたのである。
それを聞いていた助左衛門のすすり泣きが、いきなり聞こえてきた。
「御老体、泣くことはあるまい。田原藩士の願いがかなったのじゃ。」
又五郎が、そう言って、助左衛門のすすり泣きをからかった。
「ただし、一つわしからの頼みがある。この関兼定を、田原藩の重役として迎えてくれんか・・・。」
吉重は、そう言うと、助左衛門の方を見た。
「関様と言えば、尾張犬山藩柳生の剣術道場代表でもあり、次期尾張剣術指南役が約束された大幹部ではありませんか。成瀬様が、お手放しになるとは思えませんが。」
助左衛門が、怪訝そうに吉重を見た。
「わしは、犬山藩では、お役御免になった。・・・」
関がそう話し始めた時、いきなり右衛門が、口を挟んできた。
「御家老、いろいろ話を広げれば、幸運が逃げて行きますぞ。尾張藩も田原藩に縁を切るわけにはいかないのでしょう。ここは助左衛門殿、即断をした方がよろしいのでは・・・。」
右衛門の助左衛門への忠告は、いつもの彼の気性に似ず、強引だった。
「わかりました。関殿には家老職で田原藩にお迎えしたい。ただし当藩次席家老も、関殿と同格の家老に昇格するということで・・・。田原藩は二頭体制で藩政を行いたい。」
助左衛門の決断は早かった。
「それでは、安住様の筆頭家老の役回りが、見えませんが・・・。」
すかさず、関が矛盾を突いた。
「わしは、新しい藩主様の就任を機に、家老職から身を引くつもりです。」
助左衛門が、すでに決めていた自分の引退を、しっかりした口調で宣言した。
「それでは、この屋敷で隠居生活を・・・。」
右衛門が、確認するように助左衛門に尋ねた。
「いや、わしは又五郎殿や右衛門殿と共に、孫の陽明や小夜がいる阿波の佐那河内で余生を過ごしたいと思っておるのだが・・・。右衛門殿、又五郎殿、かまいませんかな。」
話が妙な方向に発展し始めたのを、吉重は、他人事として興味ありげに耳を傾けていた。
「陽明は、確かに佐那河内にいるが、小夜はこの屋敷にいるのでは・・・。」
右衛門が、何か腑に落ちない話を、確かめるようにぽつりと言った。
「それがな、右衛門。早苗殿がわしの女房になってくれるとのことでな・・・。」
又五郎の顔が、火のついたように真っ赤になり始めた。
「えええ・・・!」
右衛門は、又五郎の言葉を聞いて、しばらくどう言っていいのかもわからず、ぽかんと又五郎の顔を見つめるばかりであった。
「何やら、めでたい話ですなあ。右衛門殿、佐那河内は日増しに仲間を増やしていきますなあ。わしも一度訪問したいものだ。」
吉重は、そう言ってその場の雰囲気をやわらげた。
「こんなめでたい話の座で何ですが、どうしてもお願いしたい事がもう一つ・・・。」
関が、上目遣いで、家老安住助左衛門の顔を見た。
「ご遠慮なく、お伺いしましょう。」
助左衛門は、機嫌よく関の依頼に応対した。
「わしの弟子の吉田八郎(正幸と死闘となるが、忠成に仲間が斬られ逃走。)を、この田原藩の剣術指南役に雇ってもらいたいのですが・・・。」
関兼定が、言いにくそうに切り出した。
「それは願ってもないこと。早速、家臣の者に手配させます。」
助左衛門は、関の依頼に即応した。
やっと難題が解決したかのように、関の顔がほころんだ。
一方、助左衛門の気持ちは、すでに達成感で満たされていた。
「林七!わしが伊予に会って、おぬしが言いたかった詫びを、代わりに伝えてやるからな・・・。」
助左衛門は、部屋の虚空に向かってそう言うと、すべての決着に満足したかのように、独りうんうんと頷きながら、涙を浮かべてほほ笑んでいた。
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右衛門の依頼で、見能林から清兵(見能林藩元家老)が駆け付け、源一郎のために田原藩相談役として、空き家になった安住家の屋敷に住むことになった。
「大急ぎで、遣って来た甲斐がありました。今日旅立たれる安住の方々とも、屋敷引き渡しのあいさつができましたし、田原の港から、和尚様や又五郎殿をはじめ佐那河内へ帰る皆様をお見送りができました。」
清兵はそう言いながら、にこにこしながら右衛門の顔を見た。
清兵は、見能林から藩政を担当していた優秀な家臣を伴って、田原藩主の相談役として、源一郎の基にやってきたのである。彼は、自分の人生の締めくくりとして、右衛門に有終の美を飾れる場を与えられたことに、大いに満足していた。
「源一郎の祖母や父、それに林七殿の法要まで、佐那河内の和尚をこの地に招いて、厳かに執り行うこともできた・・・。さすがの和尚も、帰りの船で、助左衛門殿や又五郎の妻と子を伴うとは、思ってもみなかっただろうが・・。」
そう言って、右衛門は高笑いをした。
港まで見送りに来た田原藩の二人の家老 関兼定、金光佐平、それに、田原藩家臣 田村勝信、森下正弘が、つられるように笑い出した。
「わしも、ここらで、失礼するか。」
ひとしきり笑い声が収まったころに、決心したように右衛門がぽつりと言った。
「叔父上は、これからどちらに・・・。」
源一郎が、船に乗らなかった右衛門を不思議に思い、尋ねてみた。
「見能林の仁内寺の和尚に会いとうなってな・・・。今度もいろいろあったし、源一郎のことを、いちばん案じている、清兵以外の人と言えば、あの和尚だろうからな。酒でも持参して、お前のことを報告に行ってくるつもりじゃ。」
右衛門は、そう言って、照れくさそうに頭をかいた。
「殿は相変わらずじゃな・・。浮雲のようにふらふらしておる。」
清兵がそう言ってからかうと、再びみんなから笑いが起こった。
するといきなり、右衛門が源一郎の手を取り、真剣な顔をして、
「お前もこれから、何かと大変だが・・。天国で姉様やおばば様、それに恒明殿が見守っていてくれると思って頑張らねばな! 清兵、関殿、金光殿、それにおぬしらも(田村、森下の方を向いて・・。)、源一郎をよろしく頼む!」
右衛門が、そう言うと全員合わせたように深々と頭を下げた。
「私は、叔父上のように、植松が大きくなるまでこの藩を守り、おばば様の望み通り、父の家名三宅家を立派に守り抜き、誰にも文句は言わさぬつもりです。その後は、植松に藩主の座を譲り、叔父上のように自由に生きるつもりでいます。」
そう言った源一郎の目は輝いていた。
「源一郎様は、すっかり殿にあこがれて、心酔してしもうたな・・・。」
清兵が、そう言いながら、困った顔をした。
「あこがれているのは、源一郎様だけではありませんぞ、それがしも・・・。」
清兵の言葉に反応するように、田原藩士田村勝信が、いきなり口を挟んできた。
「いや、それを言うなら、このわしも・・、又五郎殿のように右衛門殿の仲間になりたいものだが・・・。」
家老関兼定が、予想もつかないタイミングで、予想もつかないことを言い始めた。
これには、思わず、みんなの視線が、一斉に兼定の方へ向いた。
「関殿、冗談はそこらで・・・。それより、おぬしの人望は、わしの耳にも届いている。
尾張柳生を支えてきたのは、孫之丞殿ではなく、お主だということをな。犬山藩の藩主は、先が思いやられるな。おぬしのような人材を放っておくとは・・・。おかげで、田原藩は大儲けじゃ。関殿、改めて、源一郎をよろしく頼みます。」
右衛門のその言葉で、すっかり雰囲気は元に戻った。
そう言われた、関が満足しないわけがない。
「わしの命に代えて・・・。」
そう言って、大見えを切った。
「その言葉、わしも聞きましたぞ。」
タヌキ清兵が、その言葉を聞き逃すはずがなかった。
「それでは。」
切をつけるように、右衛門はみんなに背を向けると、振り返ることなく、速足で田原の連中から遠ざかって行った。
「そうだ。和尚からは、三十両貸すように文が届いていたな。」
右衛門は、歩きながらふと仁内の和尚の依頼を思い出した。
「仕方ない。見能林へ行く前に大前屋の宗衛門を訪ねてみるか・・・。」
そう思うと、宗衛門のにこやかな顔が思い浮かんで、ついつい右衛門の速足は、小走りになっていくのであった。
「右衛門5」終わり




