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この作品には 〔ガールズラブ要素〕〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

沈みゆく船

作者: underarea

 どうやらアメリカ軍がノルマンディーに上陸をしたらしい。

 三夜(みや)が窓を開けると、レースカーテンがぶわりと大きな音を立てて舞った。一息遅れて、初夏の熱気が入りこんでくる。眠い目をこすって外をみれば、もう時刻は夕方だった。パリの街はオレンジ色に輝いていて、目にまぶしい。

 下を見ると、通りには静かな喧騒が広がっていた。ヴィクトール(勝者)と名のついたその道を歩く人々は、みな落ちつかない様子だった。枯れはてて久しい「希望」の文字を、誰も彼もが大事そうに抱えている。誰が叫んだわけでもなかったが、ノルマンディー上陸の知らせはとっくに街中に広まっていた。

 光から逃げるように窓を閉めると、室内にはふたたび静寂がもどった。ひどくメランコリーだと思ったが、それを口に出すともっと憂鬱(Mélancolie)になりそうなので、その言葉をぐっと飲みこんだ。

「日本は何をしてるんだ……」

 若い女声がぽつりと毒づく。その声は遥か数千キロ先の日本へと届くこともなく、静かな室内に吸いこまれて消えた。


 時は一九四四年、第二次世界大戦の末期。フランスがドイツの占領下に置かれてから早くも四年が経とうとしていた。その状況を打破するべく、アメリカ軍によるノルマンディー上陸作戦が開始されたのは同年六月六日のことである。

 待ちに待った解放の兆し。それはほとんどのフランス人にとって吉報だったが、三夜にとっては別の意味を持っていた。

「お別れか……」

 秋月三夜は生粋の日本人である。三夜は幼いころから勉学に興味を持ち、男児に劣らぬどころか一つ二つ上の男児にさえ勝るほどの優秀な成績を収めていた。その類まれなる能力と本人の熱意により、三夜はわずか十七歳にしてフランスに渡る権利を手にすることになった。それはちょうど第二次大戦が始まった頃だったが、三夜は悩んだ末に渡仏を決意した。

 家族は別れを惜しみながらも応援してくれて、特に父と兄が「絶対に外国の男を家にあげるな」と何度もくり返していたのをよく覚えている。

 そうして四年をパリの地で過ごし、ようやく成果が実ろうとした矢先に起きたのが、このノルマンディー上陸作戦というわけだ。

 日本はドイツと同盟国だが、ドイツとフランスは敵である。毎日のようにレジスタンスが花火を上げていて、三夜もその被害に遭ったことがある。

 もしもアメリカ軍が勝利を収めれば、フランスはふたたび自由を得ることになる。ドイツに四年もの間占領されたフランスが、日本人(てき)を好き好んで置いておく理由など、どこにもない。在仏日本人は良くて牢獄行き、悪ければ死だろう。どちらにせよ、よい結末は待っていない。

 きっと明日にも、うるさい日本大使館が「ドイツに移れ」と騒ぎたてることだろう。しかしその救いの手を掴むことは、フランスでの研究と美味しいコーヒーを投げだすということでもあった。

「沈みゆく船か」

 三夜はふたたび毒づいて、椅子から立ちあがる。カーテンを閉めると、部屋は薄い暗闇の中に落ちた。不安が一気に押しよせてくるような気がして、大きくため息を吐いた。

 パリに居れば、『哀れなドイツ』の話題には事欠かない。もちろんその一部はプロパガンダなのだろうが、それを加味してもどうして降伏しないのか不思議なほどだった。

 遠くないうちにドイツは負けるだろうと、どこか他人事のように思う。日本がそのあとも戦争を続けるかどうかは定かではないが、少なくとも勝つことはありえない。それは巨大な可能性というより、一つの確定した未来に近いものだった。

「乗りかえたいな……」

 日独伊という巨大な船は、今まさに沈みつつある。日本もいずれ歴史の中に消えてしまうのだろうかと考えると、心が淀んでゆくのを抑えられなかった。

 かといって、『では、あのナチスがさらに力を持つのが理想なのか?』と問われれば、それも違う。あくまでドイツが戦争に負けて、でも自分は被害を被らないように。そのためにはどうすれば良いのか。答えは最初から分かっている。

「日本さえ降伏してくれれば、いや、――」

 これ以上はやめよう。

 叶わないであろう希望を追い払って、三夜はベッドへと倒れこんだ。


 一週間がたっても、街はいまだに静かなお祭り騒ぎだった。耳を傾ければ「救世主(le Sauveur)」などという言葉さえ聞こえてくる。それを避けるように、三夜は沈んだ表情でパリ六区の日陰を駆けぬけてゆく。三夜は日本人の女性ということもあって一等身長が低く、それが余計に心細い。

 頭の中では、大使館からの命令と研究者としての未練が渦を巻いていた。もちろん、ドイツに行くことが最善であることは重々承知している。しかし心の中ではこのままパリに残って研究を続けたいという想いがあって、決意を固めるにはまだ早すぎるように思えてならなかった。

 七月になるとパリにも度々爆撃の音が響いてきて、いよいよ然るべき時が来たのだという実感が街全体に広がった。なにかあるたびに停電して、爆撃によって市電も動かない。壊れてゆく街と、フランス人の興奮した表情の乖離が三夜にとっては奇妙で、自分はつくづく外国人なのだなと痛感する。

 それで同じ境遇の人間に共感を求めようとしたが、日本人は日本人で、ふんわりとしたスコーンにジャムをたっぷりと塗って、コーヒーカップにミルクを注ぎながら、「あなたのように()()()研究されている方は良いですね」と皮肉を言うものばかりだった。目の前でサクリと音をたてて崩れるスコーンの形状はどこか、爆撃で崩れる建物に似ている。言い返すのも癪だったので、三夜は「そうですね」と返事をした。

 何もかもを忘れて研究をしようとしても不安のせいで手が進まず、余計に憂鬱な気分に落ちていく。

「メランコリーだ」

 情報を聞かないように努めていたが、「どこそこが陥落した」「パリまであと何キロメートルだ」といった噂は吸いこむ空気から入ってくる。ひと月の間、文字通り息さえできないような雰囲気の中に置かれて、三夜はようやく後ろ向きな心を固めることができた。

 八月十五日、奇しくもそれは日本が敗戦する丁度一年前。三夜はベルリン行きの最終便の自動車でパリを去った。夜陰を裂く車は民衆の空気に逆らって、北東へと走ってゆく。その中で三夜が何をしていたかと言えば、いつものようにメランコリーだとくり返し呟いていただけだった。


 ベルリンの街を吹き抜ける風はパリよりも湿っていて、どこか砂の味がする。そんな荒んだ風に馴染んで、早くも一ヵ月が経とうとしていた。夏が終わる間に何をするわけでもなく、三夜はただ部屋に転がって日々を過ごしていた。壁紙すらない部屋は捕虜の入る監獄のようで、目を開けていることさえ億劫に感じる。大使館が仕事(ティーパーティー)の片手間に用意した部屋にしては、水道が通っているだけマシなのだろうか。部屋を初めて見た時はその狭さに文句を言おうともしたが、住んでみれば特になにも困らなかったので、三夜は黙っていることにした。

「ああ…………帰りたい」

 研究以外のことをこれっぽっちもできないのだな、と痛感する。ベルリンに着いてからは、パリでの研究漬けの生活とは比べものにならないほど暇だった。大使館のおかげで苦労せずとも衣食住にありつくことができるため、これといってすることがない。何かしようと思っても、そもそもドイツ語が怪しい。

 結局、三夜は部屋に籠って考えごとをするだけの生活に身を置いていた。ドイツが負けて、それからどうするか。研究は続けられるか。しかし何を考えても思考はネガティブな方向へと進んでゆく。

 アパートの四階から空を眺めると、はるか上で穏やかな雲が流れていた。気温は普通、天気は晴れ時々空襲警報。

 最近はもはや、防空壕に入ることすら気怠くなってきていた。それで寝転がっていたらかなり近くに着弾して、相当に肝を冷やした。以来しっかりと防空壕に入るようになったあたり、自分はどこまでも臆病な人間なのだなと思う。

 まるで一度電気を流された動物のようだ。そう自虐をこめて笑っても、気分は沈むばかりで救いようがない。

 その憂鬱に拍車をかけるように、季節は冬へと向かいつつあった。


「三夜さんはどう思われますか」

 配給切符を持って列に並んでいると、日本人の男が三夜に話しかけてきた。近くでは憲兵が睨みを利かせている。こういう時に「言語が違う」というのは便利だ。

 日陰の通りにそって秋風が吹いていて、まだ真昼だというのに人々は脚を震わせていた。左右には量産型の住居が軒を連ねている。

「どう……とは」

 連合軍が勝利するであろうという予測は三夜だけのものではなく、欧州にいた多くの日本人は同じ予想を持っていた。

「日本はどうなるかと」

「考えない方が幸せだと思います」

 三夜が溜息交じりに答えると、男はううむと唸って黙ってしまった。察するに、言いたいことは理解しているがそれを認めたくないのだろう。

「フランス人は訛りに厳しいですから、勉強するならフランス語以外がいいですよ」

 三夜はジョークのつもりで言ったが、男の顔は険しくなるばかりだった。その暗い表情を見て、もし本当に日本が消失したらどうしようかなどと考えてしまう。

 目の前から不審がった憲兵が歩いてくるのを見て、二人は何もなかったように押し黙った。配給の列はみな女性か老人、でなければ小さい子供で、たまに若い男がいるかと思えば四肢のどれかが欠けている。それがどうにも他人事のように思えるのは、偏に人情が薄いということなのだろうか。三夜はぼんやりと考えごとをしながら食糧を受け取った。

 そのあともどこか上の空でいたせいか、アパートへ帰る途中に三回も躓いた。それを見られていたのか、三回目に転んだ時は後ろから走ってきた小さなシルエットにひょいと配給をつまんで持っていかれてしまった。すぐ近くに居たはずの憲兵はなにも見なかったかのように目を伏せて、あとには誰も残らなかった。


 爆発の衝撃が地面を伝って、防空壕に響く。その中で目をとじている三夜は別段驚くでもなく、相変わらず憂鬱な気分に浸っていた。

 十月初めのベルリンには、なんとも言えない閑散とした雰囲気が漂っていた。それに呑まれたように勉強を怠っている自分に気づいて、またメランコリーだと呟く。パリであれほど研究に飢えていたはずの三夜は死んで、今はただ何もせず、怠惰の任せるままにしていた。

 防空壕から出ると、半月が浮かんでいた。秋風が吹いて、もくもくと上る煙をどこかへと流してゆく。その寒さが心地よくて、もう少し外にいたい気分がした。

 停電した街の夜は静かで、ささやき声すら聞こえない。小さな足音さえ立ててはいけないような気がして、三夜はそこにただ立ちつくしていた。

 振り返ると、月とは反対側にある自分の部屋に目が行く。灰色の小さな箱を寂しいと思ってしまうのは恥ずべき贅沢か、それとも失うべきでない人間性か。ふいに強い風が吹いて、体がふらついた。同時に、はるか上の方から何枚かの紙が舞うぱらぱらという音が響いた。

 論文の頭の数ページがひらひらと開いた窓から飛んでいく。荒廃した街並みに光る白い紙は、まるで天使の落とした羽のようだった。その光景に見とれるのも一瞬のこと、三夜の顔にどっと冷汗が浮かんだ。例え無害であってもフランス語で書かれた論文がドイツ市民や軍に見つかろうものなら、どんな突飛な濡れ衣を着せられるか分かったものではない。

 数分ほどかけて全て拾い終えたかと思えば、肝心の秋月三夜という名前がでかでかと記された表紙がない。冷えた体がさらに秋風に晒されて、全身が震えあがる。

「これ」

 後ろの方から、低い女性の声がした。声の方を振り返れば、三夜と同じくらいの身長をした白人の少女が立っていた。手には論文の表紙を持って、汚れた頬をぐっと固めて警戒した表情を浮かべている。薄い服から伸びる細い腕と鋭い視線が相まって、三夜はその少女に一本の針のような印象を受けた。

 とっさに何かを言おうとしたが、舌先に乗るのはフランス語と日本語ばかりでドイツ語が出てこない。

「フランス語だろ?」

「は、はい」

「泊めろ」

 しどろもどろになる三夜に、少女は表紙を握る手を緩める。

「……はい」


 アパートの部屋はそもそも一人用というより、〇・五人用といった方が正しい。相変わらず停電は続いていて、少女がスイッチを入れても部屋は真っ暗なままだった。三夜はパンを渡したが、少女はそれを口にすることなくその場に座りこんだ。

「何人だ?」

「……日本人」

 三夜はドイツ語を正確には聞き取れていない。しかし、少女の淀んだ瞳が全ての状況を物語っていた。

「へえ、お仲間か」

 血痕の薄化粧をした少女は皮肉気味に笑う。しかし三夜がただ黙っているだけだったので、少女は舌打ちをして外を向いた。

 端的にまとめるなら、ゾフィーという名前の少女は十六歳の孤児だった。戦前はそれなりの身分だったはずが、戦争で親を失い、家すら失くしてしまったのだという。当然、配給切符など持っていない。保護を求めるには大きすぎて、一人で暮らすには小さすぎる。十六という年齢が彼女を死の淵に縛りつけていたのだろうということが、灰色にくすんだ肌から痛いほどに伝わってきた。

「私を殺すか、一緒に暮らすか、どっちでもいい」

 殺す、という単語だけがやけにはっきり聞こえた。ゾフィーの背中には諦観や覚悟にも似た威圧感があって、本当に手をあげようとも彼女は全てを受け入れてしまうような気さえする。

 そのまま一時間が経った。緊迫した空気の中で精神をすり減らしていたのだろうか、気がつけば三夜は深い眠りに落ちていた。無警戒に横になった日本人を見て、ようやくゾフィーは小さな口でパンをかじった。

 ふと力を抜けば、何ヵ月もためこんでいた涙が溢れだした。ゾフィーは真っ赤な目を擦って、そのままぐったりと倒れこむように眠った。


「……メランコリー」

「いつも言ってるけど、口癖か?」

 三夜がゾフィーと暮らし始めて、あっという間に一週間が経った。夜風は鳥肌を逆立たせるようになり、ひゅう、という音がくしゃみを誘う。満月を眺めながら、二人はいつものように無言で座っていた。

「多分……口癖だと思う」

 二人は一日の大半を共に過ごしていたが、微妙な距離は一向に縮まらなかった。

 それこそ呉越同舟のようなもので、二人は沈みゆく船の中でナイフを持って睨み合っているに等しかった。ただ生き延びるために最善だからという理由だけが、ギリギリの関係を保っている。

 言い換えればこれこそが戦争なのかも知れない。奪い奪われ脅し合う関係性こそが戦争の本質で、その最小形こそがこの距離感のような気がしていた。

「ふーん、メランコリーね」

 だというのに、ゾフィーは怯える素振りさえ見せない。ただそれが当然だと言わんばかりに、淀んだ瞳を三夜に向けている。その後ろに光る満月は、どこからか上る煙で曇っていた。

 ゾフィーが立ち上がると、ちょうど背中がスイッチに触れた。回路がうなるような嫌な雑音がして、それから電球に薄ぼんやりとした光が灯った。

「「あ……!」」

 二人して、天井に手を掲げる。掌に微かな熱がこもって、思わず顔がほころぶ。三夜が隣を見れば、ゾフィーも同じように微笑んでいた。

「なあ、ドイツは勝てるのか?」

「分からない」

「フランスから来たんだろ?」

「それは……」

 三夜はそのあとを濁したが、ゾフィーは瞳に書いてある文字を読み取って笑った。

「そうか、負けるのか」

 怒りや絶望などとは無縁な、乾ききった声色でゾフィーは言う。傍目に見ればそれは非国民とでも言うべきものなのかも知れないが、三夜はそれを見てどこか近しいものを心に感じていた。

「……いいの?」

「良い訳ないだろ」

 でも、とゾフィーは一呼吸を置いて続ける。

「ドイツがどうなろうが私の負けは変わらない」

 それは紛れもなく、孤独を知る人間の、周囲から切り離された人間の言葉だった。


「……憂鬱だ」

 配給食糧の少なさに三夜は思わず「メランコリーだ」と呟きそうになったが、すんでのところで日本語に変換した。言語の違うつぶやきに、憲兵の目が厳しくなる。三夜はそそくさと立ち去って、冬の乾いた昼空を見上げた。

 そのまま歩いていると、ゾフィーよりも小さい少女が路上に座っているのが目に映った。俯いていて顔は見えなかったが、生気のない輪郭はまるで水彩の線が滲んでいるかのようで、思わずその場に立ち止まる。

 三夜が近づくと少女は顔を上げて、虚ろな、しかし鋭い瞳で一瞥した。

「……お姉さん、そういう人?」

「え、どういう……こと?」

 三夜が全くわからないといった様子で首を傾げるのを見て、少女は小さな体に狼のような殺意を宿した。返す言葉が思いつかず、三夜はパンを一切れ渡して逃げるようにその場を去った。

 安堵したのも束の間、ぽつりと頬に雨が当たり、数分も経たないうちに辺りは薄霧に覆われた。振りかえれば配給に並ぶ人々は体を寄せあって、寒さをしのいでいる。普段なら他人事だと目をそらすはずが、この時だけはどうしてか心が痛んだ。

 本当に戦争なのだな、と歩きながら思う。何十万人が死んだと聞いても空爆を受けても棺桶を見ても沸かなかった実感が、今になってようやく三夜の心の中に芽生えつつあった。

「これだけか?」

 冷たい瞳に睨まれて、三夜は思わずびくりと体を震わせる。それはまるで小動物のような動きで、ゾフィーは大きくため息を吐いた。

「負けるってのは本当みたいだな」

 ゾフィーは一人の腹さえ満たせなさそうな食糧をつまんで、口の中に入れる。それを雨水で流しこんで、窓の前に座った。

 三夜は少女のことが気になって事の顛末を話したが、あろうことかゾフィーにもまったく同じ鋭い目線を向けられてすっかり縮こまってしまった。

 雨が止んで、また降って、太陽が沈んで、また昇って。

 毎日が繰り返しては少しずつ薄くなっていくのが、くっきりと感じられた。弱っていく体に、静かな冬が突き刺さる。誰もそれを口にはしなかったが、しかし寒さはゆっくりとベルリン市民の命を蝕みはじめていた。

 

 十二月になって、ようやく三夜は棘のある空気に慣れてきた。はじめは粗末だったドイツ語も板についてきて、幸か不幸かゾフィーの発する皮肉もよく理解できるようになっていた。

 冬が厳しくなるにつれて太陽は影を潜め、おととい昨日と降りつづいた雪でベルリンの街は白く覆われていた。昼だというのに辺りは薄暗くて、体に吹きつける風が言いようのない恐怖を煽る。体を動かさねば寒いが、体を動かせば腹が減る。誰もがそんなジレンマを抱えていた。ジャムがたっぷり乗ったスコーンがひどく恋しい。食べると口がぱさぱさになって、それをミルクのたっぷり入ったコーヒーで流しこむ。

 あいにく、ベルリンにあるのは食べかけのスコーンのように崩れた建物と、泥水の流れる川だけだった。

「寒いですね」

 配給を待っていると、久しぶりに日本人の男が話しかけてきた。懐かしい日本語が口から出なくて、三夜はしばし口をもごもごと動かす。

「――そう、ですね」

 列に並ぶ大衆はみな背中を丸めて、寒さに足を震わせている。憲兵の着ている服すら幾分か厚い程度のもので、まるでドイツという国全体が冬風にさらされているように思えた。

「メランコリーだ」

 減った配給はやがてそれが平常になり、誰も文句を言うことはなくなった。

 人々は皆渡された食糧を睨んで、どうにか増えないものかと勘案する。しかしそれは政府が数か月にわたって悩み続けてきたものだ。そう分かっていても、三夜も手渡されたそれを見つめずにはいられなかった。

「日本はどういうところなんだ?」

 積もった雪が街灯に照らされて、街中が淡い光源のようになっている。それを窓から見降ろしながらゾフィーは呟いた。

「あんまり覚えてない。でも堅苦しい国だったよ」

 ドイツと同じだなとゾフィーは笑う。最初に出会った頃の棘のある笑顔と比べると、無邪気な子供のような笑顔は随分と眩しく見えた。

 その日の夜は特別寒くて、二人は体温を分け合うように同じ毛布の中で肩を触れ合わせていた。気がつけばふたたび雪が降りはじめて、それが街の光を反射してきらきらと輝いている。三夜がなにを言った訳でもなかったが、ゾフィーは一人でに昔話を始めた。

 屋敷の中でどういう暮らしをしていたか、親はどういう人間だったか……断片的に紡がれる過去はとても暖かくて、三夜はゆっくりと頷きながら微笑んでいた。

 それに答えるように三夜も日本やフランスでの思い出を話した。研究漬けだった日々は話にして映えるようなものではなかったが、それでもゾフィーは面白いなと月に笑いかけていた。

「そしたら『あなたみたいに一人の人は良いですね』なんて言われてさ」

「……ちゃんと殴り返したか? まさか『そうですね』なんて言ってないよな?」

「え、あ……そう言ったんだけど……」

 話が終わりに近づくにつれて、どこか寂しい気分になってゆく。しかしきっとそれはゾフィーも同じだろうという確信があって、自然と笑顔が浮かぶ。

「沈みゆく船、ね」

 ゾフィーはその比喩が気に入ったのか、何度もそう口にしていた。


 昨日も今日も、明日もいつも通りの日。外に出て深呼吸をすると、肺が内側から凍りつくような感じがした。いつもと同じように寒くて、食べ物は無くて、新聞は輝かしい戦果で腹を満たせと言う。ゾフィーは「希望の味がする」と千切れた新聞を持って笑っていた。三夜も一口食べてみたが、まさしく希望の味がして吐き出した。「たしかに希望の味だね」笑わなければ、どうにかなりそうだった。

 食糧配給は不十分ではあったが死に至るほどではなかった。しかしそれはあくまで一人分のものを一人で食べた場合の話で、三夜とゾフィーは違う。一日一五〇〇キロカロリーならば生きていけるが、それが七五〇キロカロリーとなると生きるのは不可能だ。

 戦時のドイツにおいて配給切符は『食糧引換券』ではなく、『購入権』を示すものであり、いくら金を持っていても配給切符の分までしか購入することはできないという規則だった。大使館から支給される給費は十分以上だったはずが、金を食べ物に替えることができなかったのだ。配給で足りない分を闇市で買おうと思えば、金は湯水のように溶けていった。

 二人はとっくにこれが非効率的だと理解していたが、それを口には出せずにいた。

 ただ、いつも通り笑い合いながら同じ毛布の中でナイフを向け合っているだけ。限界は手の届いてしまう位置にあって、手繰り寄せようと思えばいつでもできた。

「稼いで来る」

 そんな一月の夜の静寂は、ゾフィーによって破られた。

 この飢えの原因は、どう言い訳をしようとゾフィーにある。それを理性では諦めていたとしても、やはり無意識のうちに顔に出てしまっていたのだろうと三夜は思う。

「……どうやって?」

 そう口にしてから、それが大きな傷跡なのだと気づいた。

「お前から食糧を奪ったとき、どうして私が憲兵に追われなかったと思う?」

 大きな冬の空気の塊が三夜を襲って、それから歪んだドアの閉まる音が部屋に響いた。瞼の裏にはゾフィーの苦しげな顔が焼きついていて、罪悪感だけが重く肩に残っていた。

 ゾフィーは思っていたよりもはるかに多くの戦利品と擦り傷を抱えて帰ってきた。細い腕から小さな袋が滑り落ちて、からからと缶詰が転がる。それらをどうやって手に入れたのかは聞かずとも分かった。

 ゾフィーは灰色に濁った水道水を一気に口の中に含むと、窓から吐き出す。それだけでは飽き足らず、積もった雪さえも手で掴んで口に放りこんだ。

「はぁッ……ぁあ!!」

 嗚咽と共に、灰色の塊が口から吐き出される。三夜はただそれを見つめていた。


 それから三夜は配給の食糧を、ゾフィーは()()()()()稼いできた食糧を食べるようになった。

 栄養状態が良くなっているはずなのにゾフィーの顔色は悪くなるばかりで、時には一日中口を開かないときもあった。気がつけばゾフィーの雰囲気は最初に二人が出会った頃よりも真っ黒に淀んでいた。

「どうしていつも起きてるんだ?」

 その夜にゾフィーが帰ってきたとき、時計は深夜一時を指していた。途切れ途切れの息は真っ白で、乾いた風が頬の傷を抉るように吹く。その様子に三夜は思わず目をそらしたくなったが、ぐっとこらえて真っすぐ見つめ返した。

「……その、やめようよ、もう」

 ゾフィーが心を失っていく様子は今までの日々を逆再生しているかのようで、それが自己中心的な考えだと分かっていても三夜はそう言わずにはいられなかった。

 「元に戻っただけだ」

 ゾフィーはそう吐き捨てたが、それはどこまでも後ろ向きな自己暗示のようだった。


 二月のある吹雪の日、深夜に部屋に戻ってきたゾフィーの顔には大きなあざがあった。それは今までのどの怪我よりも酷くて、口の端からは血が垂れている。羽織っていたはずの外套はなくなり、ベルリンの冬風に晒された体は今にも凍りつきそうな様子だった。

 しかし、小さな顔はそれでもなお無表情を保っていた。三夜が慌てて近づこうとしたが、獣のような殺気がそれを阻んだ。

「大丈夫……?」

 ゾフィーの手を取ると、氷のような感触がして思わず放しそうになる。三夜が体を抱きしめると、底なしの冷気が部屋の中にふわりと広がった。ぐったりとしたゾフィーは顔を歪ませて真っ赤な歯を吐いた。

 そのまま何秒が経ったのか、気がつけばゾフィーは俯いたまま肩を震わせていた。

「……あはははははは!!!!!!」

 静まり返った深夜のベルリンに、少女の高い笑い声が響きわたる。ゾフィーは涙を浮かべるほど笑って、笑って、笑った。血と涙が混ざった痛みが床に垂れる。ゾフィーが笑うのをやめても、三夜の頭には甲高い笑い声が張りついて離れなかった。

 まるで止まった時間の中に囚われたように、三夜の体は動けない。ゾフィーの瞳が月のように輝いて、三夜をじっと縛りつけた。

()()()()()()()()

 ゾフィーは今まで見せたこともないような妖艶な笑みと共に、そう言い放った。十六歳の少女のとびきり冷たい「綺麗」という言葉に、三夜は心臓を握り潰されるような錯覚を覚えた。

 ゾフィーはそんな三夜を見て、もう一度心の底から笑い転げた。


「ああ、メランコリーだ」

 憂鬱な声の主が冬の夜空を見上げる横で、三夜は地面を見つめて押し黙っていた。毛布の中では体が触れあっていたが、心の距離はその何倍も広がっているような気がした。何分何時間と手を重ねていても、ゾフィーの手は凍ったまま無限に温度を吸いこんでいるようだった。

 道に座りこんでいた少女は今頃どうしているのだろうか。ベルリンの過酷な冬の中を生き延びているのか。それとも、誰かに看取られることもなく消えてしまったのか。それを考えていると、三夜は心の中までが寒さに侵される気分がした。全てを覆う吹雪の中で、しかし確かに、握った手からは小さな鼓動が感じられた。

 朝になると吹雪は止んで、あとには真っ白になったベルリンの街が残された。三夜は死んだように倒れこむゾフィーの息を確認して、傷の手当をして、静かに外へと出た。まだ朝日も寝ぼけている時刻だからか、道を歩く人間はいない。三夜は無意識のうちに、あの日出会った少女の方へと歩き出していた。

 道路には雪の白絨毯が敷かれていて、誰かが作った足跡がどこかへと続いている。新たな線を描きながら歩いていくと、数分もしないうちに少女の座っていた場所にたどり着いた。しかしそこに人影はなく、ただ鉄と銀の世界が広がっていた。

 それより先に踏み出す勇気はなくて、三夜は振り返って自分の足跡を踏む。後ろを見ると、ぱたりと途絶えた線があって、それは安全な位置から出ようとしない自らの姿を映しているようにも思えた。

 昼になってもゾフィーはまだ目を閉じたままだった。体温は昨夜よりもずっと暖かくて、同じ毛布に入っていればじんわりと暖かさが染みる。夜の間眠れなかった三夜は、羊を数えるまでもなく意識を手放した。


 三夜が起きると、太陽は小さな電球になっていた。部屋の灯りから目をそらすと、隣には目を覚ましたゾフィーの姿がある。声をかけようともしたが、魂が抜けてしまったかのような瞳は、無表情でもなお近寄りがたい雰囲気を持っていた。

 しばらく水を飲んだり缶詰を開けたりして過ごしていると、ゾフィーも起きてきて無造作に食べ物を口にした。

 何を話したわけでもないが、二人は結局いつものように空の見える位置に戻っていた。ただいつもと違うのは、毛布の中の体が触れていないということ。互いの気配だけを感じ取りながら、二人はぼんやりと月を眺めていた。

「なあ」

 ゾフィーは空気を絞り出すような声で喋る。喉がひどく枯れていたのか、苦しそうに咳こんだ。

「お前は私にどうして欲しいんだ?」

 三夜はとっさに「元気でいてほしい」と言おうとしたが、その言葉は喉に詰まって出なかった。果たして本当にそれがゾフィーの望むことなのか、安全な場所から苦を強いているのではないかという疑念が膨らんで、心が言いようのない恐怖に覆われていく。

「そんなに意地悪だったか?」

「……ごめんなさい」

 その夜は、それ以上何を言うでもなくただゆっくりと溶けていった。


 それから十日あまりが経って三月になると、微かな春の陽気が訪れはじめた。配給を待っていると、久しぶりに日本人の男に話しかけられた。

「三夜さんは最近どうですか」

 配給の行列は相変わらず死人の行進のようで、三夜はすっかりその中に馴染んでいた。

「どう……とは」

「元気がなさそうですので。いや、元気があるのはむしろ変なのですが」

 はは、と中身のない笑い声がする。しばらく話したあとに憲兵のコートが見えて、二人はいつものように口を噤んだ。憲兵の表情は数か月前よりも厳しく、寒さは和らいでいるというのに大衆の背格好は冬よりも丸まって見えた。

 ベルリンの姿は九月と比べて大きく変わった。秋にはフランスやソ連と戦争をしていた市民の姿はもうなく、彼らはみな飢餓と戦っている。爆撃で全てを失った人間は数知れず、二メートル四方の平らな地面と食糧だけを大事そうに抱えて生きている。

 つい先ほどの爆撃で水道が止まったらしく、何人もの男が濁った川の前に立って悶々としている。三夜はそれを見ていると余計に喉が渇いてくるような気がしたので、目をそらして歩きさった。

 建物が壊れていたり通行人が皆地面を向いていたり……といったことを挙げればきりがないが、その姿を一言で表すのなら「色あせた」というのが相応しいだろう。ベルリンは一日また一日と経つたびに白黒写真の中の存在に近づきつつある気がした。

 三夜が部屋に帰ると、ゾフィーは十一月や十二月と何ら変わらぬ様子で寝そべっていた。白黒の背景に、その凛とした姿は確かに色をもっているように見える。

「また減ったのか」

 配給切符に書かれている数字は幻想となって久しく、食糧は減る一方だった。

「メランコリーだ」

 はあ、とゾフィーは大きくため息を吐く。それからパンを半分にちぎろうとしたが、少しだけ大きさが歪になった。ゾフィーは悩んだ末に大きい方を三夜に渡して舌打ちをした。

「言いたいことがあるなら言えよ」

 ゾフィーはしばらく返事を待っていたが、三夜がなにも喋らないのでしびれを切らして固いパンを噛みちぎった。

「……ごめんなさい」

 暖かくなるにつれて、次第に二人の距離は離れていった。冬の間は少しでも多く体を合わせていなければ凍えてしまいそうだったのが、今はもう暑い。路上の雪が少しずつ溶けていく様子を見るたびに、三夜は言いようのない痛みを感じていた。

 そして、春が訪れるということはもう一つ別の意味を持っていた。そもそも寒ささえ克服してしまえば、ゾフィーは一人で生きていける。冬が終わってしまえば、二人が共に暮らす合理的な理由はもうどこにもないのだ。

 それを後押しするかのように、あの日から二人はふたたび耐えがたい飢えに襲われていた。その中で「離れ離れになれば良い」と一度も思わなかったと言ってしまえば、それは嘘になる。しかし三夜の中ではそれ以上にゾフィーの心を殺したくないという感情が強かった。例えそれが、自らの身を削ることだとしても。

「……ごめんなさい」

 三夜はもう一度、ただ謝った。

「それが本当に言いたかったことか?」

 ゾフィーの瞳が厳しくなる。それは敵意というより呆れに近いものがあったが、それでも三夜は怖かった。再び「ごめんなさい」と言うこともできなくて、ただ下を向いていると、ゾフィーが口を開いた。

「正直に言われたら出て行ったんだけどな」

 はは、と冗談めかしてゾフィーは言う。しかしその声色はどこか苦しそうだった。

 普段なら笑い合って終わる皮肉も、今日だけはどうしてか気まずい空気になって残ってしまった。じわじわと暗くなる部屋の中で、互いの顔が黒く染まっていく。目が慣れるよりも早く、辺りはすっかり夜になった。

 暗くなるのにあわせて風が吹き始め、嵐となってあっという間にベルリンの街を覆った。窓を閉めると、雨漏りの音が響いて聞こえる。

「……どうして、出て行かないの?」

 数時間続いた静寂を破ったのは、珍しいことに三夜の方だった。体一つ分離れたゾフィーに向けて呟く。言ってから、『出て行け』という意味にとられていないかと不安になったが、ゾフィーは三夜の瞳を見てふっと笑った。

「ここにいた方が楽だ」

 目の前にある開いた缶詰に、天井の隙間から水滴が垂れる。一定のリズムを刻む小さな楽器は、雨が溜まるにつれて少しずつ音色を変えていく。一言一言の間には星が傾くほどに長い静寂があって、気がつけばあっという間に缶詰は水で満たされていた。

「それに、暖かい」


 四月一日は復活祭だった。ゾフィーは配給の卵に血で何を描こうかと思案していたが、栄養が勿体ないからやめたと加熱して食べてしまった。

 三夜が自分の分はどうしようかと迷っていたら空襲が来て、残っていた卵はぐちゃぐちゃに割れてしまった。ゾフィーはそれを見て冷たい目をしたが、目つきとは裏腹に口元は少しだけ笑っていた。

 ベルリンの街を覆っていた雪はどこかへと消え去り、市民の間には冬を越したのだという安堵が広がっている。しかし生き延びたと呟く人々の顔には希望などなく、ただ極限まで溜まった疲労が張りついているのみだった。

 それに追い打ちをかけるかのように、雪解けにあわせて戦争は動き出す。ベルリンの街は、まるでスコーンのように次々と崩れていく。市民の間では「東部前線はここから一〇〇キロメートル先らしい」という噂がまことしやかに広がりつつあった。

 それが日を追うたびに九〇、八〇と短くなっていき、あっという間に五〇キロメートルというところまで来た。

「五〇キロメートル……」

 遠いなと三夜は思ったが、計算してそうでもないことに気づいた。戦況が拮抗しているならまだしも、圧倒的にドイツ軍は劣勢。仮に一日五キロでも進めば猶予はたったの十日しかない。

 十日の間に逃げられるだろうか。そこまで考えて三夜の心にはじめて戦争に対する明確な恐怖が湧いてきた。

 今まで他人事だと思っていた戦争が、急に背中まで迫っているように感じられた。


 今日何度目かの空襲警報があって、二人は共に防空壕に隠れた。ドイツ軍が押されている上に、陽が長くなったせいだろうか。今までよりも街が壊れる速度が速くなって、もう誰もそれを直そうとはしない。

 三夜がメランコリーだと呟いて目を閉じた瞬間、耳が割れるような轟音と衝撃が二人を襲った。それに続いて、近くでがらがらと建物の崩れる音がする。

「ああ、メランコリー……」

 外に出れば、嫌な予感はそっくりそのまま現実のものとなっていた。二人の暮らしていた空間は跡形もなく消え去って、その下には瓦礫が積みあがっている。見れば、他にも沢山の建物が爆撃によって崩れていた。

 そのときだけは、やけに夕陽が長く感じられた。

「悲しんだ方がいいか?」

 泣き崩れる人や茫然と立ち尽くす人々の中で、ゾフィーは呟く。いつもの皮肉を言うときのように、笑いかけながら。三夜は普段なら黙っていたが、今は不思議とゾフィーの言うことに共感できた。

「……別に」

「悲しくないのか?」

 そう言われて、三夜は自分が全く悲しんでいないことに気づいた。それどころか、監獄から解放されたような、どこか清々しい気分だということにも。

「思い入れはないし」

「それもそうだな」

 三夜はこの瞬間はじめて、ゾフィーや自分が他のベルリン市民と違って見える理由を理解した。それは自由だ。ゾフィーも三夜も、命以外の何にも縛られていない。土地にも、人にも、思想にも、勝敗にも関わらず、何もかもから少し離れた位置にあって、それら全てを俯瞰している。それは誰の利害にも関わらないという気楽さでもあって、愛着というものを持たない寂しさでもある。

 理由が無くなっても二人が共に暮らし続けたのは、その寂しさを埋め合いたいと強く願っていたからだろう。無意識の底で、暖かさを求めていたのだ。

「ここから逃げよう」

「どこに?」

「……日本大使館に行けば、なんとかしてもらえると思う」

「じゃあ行けよ」

 その言葉を聞いたとき、三夜は「綺麗だな」と言われたときと同じ感覚がした。近くにいるはずなのに距離があって、声が聞こえているはずなのに姿は見えない。そしてなによりも、それがたまらなく苦しい。

「逃げるなら私は要らないだろ」

「そんなことない」

 ゾフィーは反論されたことに驚いたように目を開く。焼け跡に滲む夕陽は沈みつつあって、まだ春になりきれていない風が少し寒い。

「一人より、二人の方が良いと思う」

 いい台詞が浮かばなくて、三夜は大真面目にそう言うフリをした。ふふ、とゾフィーが笑いをこらえられずに声を漏らす。辺りはいつの間にか真っ暗で、惨状を嘆く声もどこかへと去っていた。

 焼け跡のベルリンに、二人の笑い声がこだました。


 大使館に事情を説明すると、マールスドルフ城に日本人が集まって籠城しているとの情報を得ることができた。逆にいうなら、手伝ってはくれなかった。ベルリンから出る寸前に「ちょっとだけ」とゾフィーが言うので三夜がしばらく待っていると、急に腕を掴まれて夜の街中を走ることになった。ゾフィーの手元を見れば配給何回か分のパンが抱えられていて、その上にはいつもの不敵な笑みがあった。

「……大丈夫だったの?」

 一瞬だけ、三夜は不安になる。しかしゾフィーは問題ないと手を振ってふたたび歩き出した。その手には誰かを殴った痕が見えたが、三夜はなにも言わなかった。

 それから市電に乗って、爆撃で止まっている区間は歩いて……というのを一日中繰り返して、ようやく二人はマールスドルフに辿り着いた。マールスドルフ城の前に立ったときは既に夕陽が横から差していて、喉はからからに乾いていた。

 城には既に五十人ほどの日本人が集まっていて、三夜が中に入ると城主夫妻と日本大使館の人間が出迎えてくれた。

 挨拶をしている間、ゾフィーはフードを深く被って三夜の後ろで小さく丸まっていた。可哀相な孤児を拾ったのだと説明しても大使館の人間は認めてくれなかったが、城主夫妻の厚意によって二人は一緒に籠城させてもらえることとなった。

 日本人はみな生きた人間の顔をしていて、ここなら安全だという雰囲気が城全体に漂っている。長らく死地に身を置いていた二人にとって、城の澄んだ空気は新鮮そのものだった。

 部屋はなかったが、狭い三段ベッドの一番下が寝床として明け渡された。二人で入れば寝返りも打てないほど窮屈だったが、疲れのせいか二人ともすぐに眠りについた。


 ベルリンは今まさに地獄になっているらしいと、三夜はたびたび話を聞いた。何千もの死体が路上に打ち捨てられて、銃弾よりも感染症が猛威を振るっているという。

 そんな恐ろしい噂が、日に日に尾ひれを増しながら街中を泳いでいく。ただ一つ三夜に確信できるのは、どんな噂よりもベルリンの街は酷い状態にあるのだろうということだけだった。

「本当にドイツなのかここは」

 騙されてるみたいだ、とゾフィーは続ける。春の昼空は澄んでいて、日向ぼっこをするには最高の空気だった。気温は普通。天気は晴れ時々十二時の鐘の音。辺りの野原は戦争など嘘のように静かで、花々が風に合わせて揺らいでいる。時刻を知らせる鐘が、地面を伝って体に響く。

 籠城をはじめてから一週間が経って、三夜はむしろ平和すぎて落ちつかずにいた。頭で理解していても、空襲への警戒が体に染みついていて離れない。ゾフィーはそれがもっとひどいようで、むしろベルリンにいたときよりも疲れているようだった。

「平和すぎて死んでるみたいだ。ここは天国だな」

 どこか狂ったその比喩は、戦争という狂気を的確に表していた。


 それから数日して、ヒットラーが死んだという速報が飛びこんできた。表向きは官邸でソ連の大砲に当たって死んだと報道されたようだったが、そんな滅茶苦茶な死因があり得るはずもない。裏切りか、逃亡か、自殺か、三つのうちのどれかだろうと三夜は思った。

「もう終わりだな」

 ゾフィーの声にもう前のような絶望は無かった。三夜は今更になって、「どうなろうが私の負けは変わらない」という言葉の重みが理解できたような気がした。

 そしてその言葉の通り、五日後の五月七日にドイツは無条件降伏を選んだ。

「――生き残ったんだな」

 ゾフィーは心ここにあらずと言った様子で、母国が沈んでいく様子を眺めていた。

 三夜は部外者なだけに、敗北という実感が全くと言っていいほど無かった。それは城に籠っていた日本人全員に共通していたようで、城の中を歩く人々は皆どこか呆然とした様子だった。三夜が外に出てみれば、昨日と同じように太陽が浮かんでいる。空もあるし、大地もある。なんら変わりない世界がそこにあった。時間は続いているという事実が、この時だけはとても奇妙に思えた。

「ドイツは負けたのですか……」

 それっきりドイツ人である城主夫妻は言葉を失ってしまって、その日は城の中に混沌が漂っていた。一見暗い空気かと思えば、日本人同士で「ソ連が城に来る前に降伏してくれて良かった」と目線で語り合っている。大使館の人間でさえ、その喜びを隠せていない。三夜も腹の底では同じ気分だったが、今はゾフィーを心配する気持ちの方が上回っていた。

 ベッドに座るゾフィーはすっかり落ちついていて、むしろ清々しいほどだった。それは別段おかしなことでもなく、今までのように戻ったと言った方が正しい。それでも心配の目線を向ける三夜を見て、ゾフィーは乾いた声で笑った。

「すぐにお仲間だ」

 『まさか怒らないよな?』とゾフィーが目線で語り掛ける。すっかりその棘のある言い方に染まってしまったのか、三夜は「ラストホープ(逃げ遅れ)っていうんだよ」と笑い返した。

 安堵の溜息を吐くのも束の間、三日も経てば城内は「これからどうなるのだろうか」という重い不安の中に沈んでしまった。平和になっても心配事を作らずにはいられないのが人間というものなのだろう。生存という問題が解決された今、日本人にとって重要なのはその先だった。

 日本に戻るのはそれこそ飛んで戦火に入る夏の虫であるし、ドイツに居ても飢えに喘ぐことになるのは目に見えている。三夜はパリに人脈を持っているが、フランスに行けば日本人はまず間違いなく牢獄行きだろう、と考えて頭が痛くなった。


 結局、現実には選択肢など存在しなかった。籠城生活の終わりは唐突で、ある朝三夜が目を覚ますと、「米ソ連兵が入城するので()()()に退去してモスクワからシベリア鉄道で日本に帰れ」という声が耳に飛びこんできた。日本人はみな顔を青くして、憂鬱など一瞬でどこかへ吹き飛んでしまった。

 慌ただしく駆け回る日本人とは対照的に、城主夫妻は我が子を失ったような悲痛な様子だった。夫妻に恩があるゾフィーはせめてものお礼だと言って、「健気な少女」という猫を被って寄り添っていた。三夜も慰めの言葉をかけようかと考えたが、自分のことに手一杯で結局最後にお礼を言うだけにとどまった。

 別れの時にも夫人は涙を流していたが、城主である伯爵はさすが軍人と言うべきか、ぐっとこらえて夫人の肩を抱いていた。


「……残らなくて良かったの?」

「ああ」

 揺れるトラックの中で、ゾフィーは三夜の質問に頷く。出発の前、ゾフィーは最後の最後まで悩んだ末に「城主夫妻の養子となる」という選択肢を蹴った。三夜はそれが最良の選択肢だと思っていただけに、ゾフィーが今こうして隣にいることが意外だった。

 外を眺めていると、風景が少しずつ壊れていくのがよく分かった。空爆による被害はベルリンに近づくにつれて悲惨さを増して、特にドイツ軍の焦土作戦によって破壊された鉄道路線は見ているだけで胸が痛くなるほど。辺りに散らばった瓦礫を見ていると、自分がスコーンを食べた後の食器の上にいるように思えた。

 結局その日は陽が沈んで、トラックはヴァンゼーに止まることになった。電気は当然途切れてしまっていたので、手持ちの蝋燭を頼りに夜を過ごす。軍人がどこからか持って来た酒を開けたり、夜空を見上げて感慨に耽ったりと思い思いの過ごし方をしている横で、三夜とゾフィーは静かに佇んでいた。

「最後の夜だな」

 ゾフィーにそう言われて、三夜は感情が締めつけられていくのを止められなかった。夜が明ければトラックはふたたび走り出して、ベルリンでゾフィーを捨ててモスクワへと向かう。これが二人がゆっくり話すことのできる最後の機会で、もしかすれば一生の別れになるかも知れない。

「そう……だね」

 俯いた三夜の顔が蝋燭の小さな灯りに照らされて、赤く染まる。風が吹くのに合わせて、二人の瞳の中で炎がゆらゆらと揺れていた。

「……ありがとう、お陰で鼠の餌にならずに済んだ」

 これは笑うところなのだろうかと三夜は一瞬考えてしまったが、ゾフィーが笑っているのを見て三夜の表情も柔らかくなる。

「私こそ、ありがとう」

 少しずつ周囲の音がなくなって、夜が深まっていく。一分一秒でも長く喋っていたいのに、その時間に声は似合わないような気がした。

 やがて眠気が訪れて、二人は少しずつまどろみの中に落ちていく。三段ベッドのせいで肩が触れることに慣れてしまっていて、広い地面がとても寂しかった。


 朝日が頬を叩いて、三夜は目を覚ました。ぱちぱちと瞬きをすると、ゾフィーの顔が視界の真ん中にある。

 太陽はまだ焼け跡に隠れていて、二人だけが静かな朝を眺めていた。朝食に小さな缶詰を開けて、それを半分に分けて食べる。口内の水分がうばわれる感覚はどこか、ジャムがたっぷり乗ったスコーンを食べた時に似ている。

「私と一緒に……その、日本に行かない?」

 その台詞は、きっとお互いに言わないようにしていたのだろうと、三夜は思う。叶わない願いに想いを馳せることのないように抑えこんで、蓋をしていたのだろう。

「どうやってだ?」

「それは方法さえあれば付いてきてくれるってこと?」

 三夜は意地悪に笑う。ゾフィーは言い返されたことに驚いたようで、三夜の顔を見てしばらく戸惑ってから答えた。

「……見つかればな」

 素直じゃないなと思って、三夜は微笑んだ。

「じゃあ、約束してくれる?」

「――ああ」

 もしも許可が下りたなら、二人で一緒に居ようと。朝日に溶ける街の中で三夜はそっとゾフィーの手を握った。





 一九四五年、秋のベルリンの街角に一人の少女が佇んでいた。

 崩れた建物のかたわら、汚れた路上に腰を下ろして、地面をじっと見つめている。伸びた髪が地面に垂れて、灰色の水たまりに浸かっていた。それを指でなぞるように少女の手が動く。遠くでは、夕陽が焼け跡の彼方に沈もうとしていた。

 一人の男がその前に立った。細い影が少女の手の甲に覆いかぶさる。

「悪いな、()()()()()

 一瞬だけ少女は動きを止めて、それから大きく深呼吸をしてそう答えた。

「――ッ!!」

 男の脚が少女の頬を蹴った。不意の一撃に少女は態勢を崩して、頭を強く地面に打ちつける。くらくらと眩暈がして、ようやく立ち上がったときには男はどこかへと消えていた。

「……Me()lanc()holi()e」

 少女は頬の血をぬぐって、ふたたび瓦礫に背中を預ける。腹がひどく減っていたので、近くに落ちていた新聞を千切って食べた。土と火薬と血の混ざった、希望の味がした。

 夕陽に当たってほのかに火照る体は、誰かに抱きしめられているように暖かい。瞼を閉じればすぐにでも眠ってしまいそうで、少女は汚れた手で目を擦る。そのうち涙が止まらなくなって、無意識のうちに上を向いた。


 沈みゆく船という言葉が、今になって頭の中に浮かんだ。さしずめ自分は沈んだ船の乗組員といったところだろうか。

 夕暮れの暗い青が涙に滲んで、ぐるぐると歪んでいく。

 その光景はまるで、深海から見上げる水面のようだった。

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