平成最後の夏、世界が終わる
「平成最後の夏だって」
同じ車両にいた女子高生のもらい話だった。
彼女たちは海外に行きたいとか、車の免許を取りたいだとかそんなことを話して盛り上がっていた。
今年で平成は終わる。
来年の夏は、もう平成じゃない。
僕は平成最後の夏をどう過ごすだろう?
真面目に考えてみると、何も思いつかない。
今までの夏のような普遍的なことばかりしか思い浮かばなかった。
どうして彼女たちはあんなにぽんぽんとやりたいことが出てくるのだろう。
走り去る電車の音が遠のいてからも、僕はずっとそんなことばかり考えていた。
「花は平成最後の夏、何をしたい?」
薄ピンク色に染まる空を見上げながら、僕は隣を歩く幼馴染に声をかけた。
彼女は前を向いたまま、僕の方をちらりとも見ず、「ずっとそんなこと考えてたの」と言って笑った。
「なんで分かったの」
「だって、彗って考え事してるとき、いつもぼーっとして黙り込むんだもん、わたし三回話しかけたよ」
「うそ!」
「うん、うそ」
彼女は可笑しそうにまた笑った。
柔らかい春の風が、彼女のボブヘアーをいたずらするように吹き抜ける。
「平成最後の夏?私は、世界が終わるときにするようなことがしたい」
「はぁ」
僕はいつもの想定外すぎる返答にぽかんと口を開けた。
彼女は昔から、破天荒なことをよく言う。
掴みにくい性格をしてるから、同性の、いわゆる友達と呼べるような人は見かけたことがない。
平凡過ぎる僕とは全く異なった思考回路を彼女は持っている。
「だって、平成の終わりって、なんだか世界が終わるみたいじゃない?
だから、なかなかできない世界の終わりを疑似体験するの。」
彼女は珍しく目をキラキラとさせていた。
「最後の晩餐を決めたり、死ぬ場所を決めたり。
もしかしたらこれが最後かもしれないって思いながら食べるご飯とか、見る景色って、いつもより美味しく感じたり、綺麗に感じたりすると思うんだよね」
花らしい返答に僕は頷いた。
「あとはね、いろいろ終わらせたい!次に向けて、全部リセットするの」
「例えば?」
「例えば、これ。早く私のものにしたい。」
彼女は背中に重そうに背負われたギターのケースを顎で指した。
去年の秋に一年のローンで購入したと、買ってすぐに聞いた。
それから彼女は夕暮れ色に染まる空を見上げてぽつりと呟いた。
「あとは……もういっそ、人生とかも終わらせちゃいたいな」
「え?」
流石に聞き捨てならなくて、僕は思わず聞き返した。
「うっそー」
少し間をおいて、彼女はいたずらっぽく笑って僕を見た。
僕はため息をついて「洒落にならないから」と諭すように呟いた。妙な間が恐ろしかった。
そんな僕の気持ちなんかよそに、コロコロと笑う彼女の声は、5月のあぜ道に消えていった。
「彗は?何したいの?」
「僕は……」
回答に困って、ふと空を見上げた。
まだほんのりと明るい空には、気の早いいちばん星がぽつんと独りで白く輝いている。
「これといってないけど、強いて言うなら、海に星を見に行きたい。」
先日の地学の授業を思い出したのだ。
夏の星は綺麗だと。
「なーんだ、相変わらず彗は彗らしいね」
花はつまらなさそうに笑いながらも、夏休みに一緒に星を見に行く約束をしてくれた。
でも、その約束は果たされなかった。
平成最後の夏は、各地で最高気温を更新し続けるという異常気象から始まった。
熱中症の危険性があちこちで話題となり、僕の高校の終業式も、クーラーの効いた涼しい教室で、放送によって行われた。
夏休みが始まろうとしているのに、僕の後ろの席は相変わらず空っぽだった。
あんなに生き生きと平成最後の夏にやりたいことを話していた花は、平成最後の夏を迎える前に、いなくなってしまった。
『うっそー』
そう言って笑った彼女の声が、ずっと僕の頭の中に居座っている。
彼女がいなくなって1ヶ月経った今も、僕は喪失感の渦に取り残されていた。
僕は彼女の最期の姿を見ていない。
『ごめんなさいね…損傷が酷くて、人に見せられないの』
僕を幼い頃から知る彼女の母は、涙ながらにそう言っていた。
僕がこの日に限って早退なんかしてしまったから。
いつもみたいに彼女と帰っていたら、今も花は僕の隣で笑っていたかもしれない。
花がいなくなってから気づいた。
確かに僕は、花に恋をしていた。
花がいなくなって、僕は独りぼっちになった。
幼い頃から人付き合いが苦手だった僕が、唯一心を許せたのが花だった。
僕にない見方をたくさん持っている花は、一緒にいるだけで新鮮な気持ちでいれた。
彼女がつく嘘を信じてあげてしまうのが僕の役目だった。
小さな嘘から、悪質な嘘まで、全部。
でも、僕は突然、その役目を奪われてしまったのだ。
予告も何もなしに、それは簡単に奪われた。
彼女はもう、嘘もつけない。
僕の中で花はあまりにも大きすぎた。
心に穴があく程度ではない。
体がすっからかんになってしまう感覚を味わえるほどに。
まだ友人同士で会話を楽しんでいる同級生たちの間をすり抜けて、僕はそっと教室を抜け出した。
今まで、夏休みはいつも花と過ごしていたから、今年の夏は急に暇になってしまった。
夏休みどころじゃない。
人生そのものが暇になってしまった。
『世界の終わりを疑似体験するの』
そう言って笑う花の影が僕の視界にちらつく。
無念だっただろうな。
あんなに楽しそうに話していたのだから、彼女はきっと、僕を大いに巻き込んで、これを実行する予定だったのだろう。
僕の足が止まる。
今にも「彗、一緒に帰ろう」と僕を呼ぶ声が聞こえてきそうな気がする。
あそこのCDショップに寄ったら、花がいそうな気がする。
花の気配が、僕にこびりついて消えない。
……しょうがないなぁ。
彼女のやりたかったことを代わりにしてあげられるのは、僕しかいないじゃないか。
僕はふとそう思った。
……僕しかいないじゃないか。
あぁ、だめだ。
泣いてしまう。
また情けないと、彼女に笑われてしまう。
僕は反射的に上を向く。
涙はなかなか引っ込まなかった。
僕にできることを僕なりに考えた結果。
それは彼女がやりたかったことを代わりにやることだった。
花がそれを望んでいると思ったからじゃない。
僕が花の死を受け入れるためにやらなくちゃいけないと思ったからだ。
他の誰のためでもない、僕のために。
彼女がやりたかった『世界の終わりの疑似体験』は、僕が花になりきらないとできない。
僕はため息をついた。
だって、彼女の考え方は突飛だから。
「ねぇ、花、危ないよう…」
僕の見つめる先は小学校の校庭にある大きな銀杏の木の上。
そこにいるのは僕の幼馴染の花。
「うるさいなぁ。手を離さなきゃ落ちないのよ、分かる?」
煩わしそうに僕を睨みつけて、花はどんどん木を登っていく。
僕は弱虫だから、彼女を追いかけて止めることもできない。
ただ、下で「危ない」と喚くばかりだった。
「彗もくればいいのに。高いところって一度にたくさんいろんなものが見えるんだよ。すごく綺麗なんだよ。」
木のてっぺんから僕を見下ろす彼女は、にこにこしながらそう言った。
「彗、彗!!」
突然名前を呼ばれて、視界が霞み始めた。花の声が遠のき、銀杏の木も花も消えていく。
ぼんやりと辺りを見渡す。
いつもと何も変わりない自室である。
なんだ…夢か。
「彗!!」
バタバタと慌ただしい足音の後、僕の部屋の扉がバンッと大きな音を立てて開いた。
母は相変わらず忙しない。
「今から仕事行ってくるから!!お昼は適当に!ね!!」
それだけ言うと再び騒がしく階段を駆け下りて行った。
僕はベッドから起き上がった。
まだ夢の余韻がじんわりと残っている。
花は高いところが好きだった。
いつも大きな木を見つけては登り、そこから見える景色を楽しんでいた。
そんな彼女は一度、木から落ちて足を骨折したことがあった。
それでも、毎回僕が止めても、彼女は聞かず、いつもこっぴどく先生に叱られていた。
そうだ…木、あの銀杏の木。あそこに何かヒントがあるかもしれない。
僕は直感的にそう思った。ベッドを抜け出し、目に付いた服を適当に着て、僕は家を飛び出した。
僕の家の向かって左側が花の家だ。だから小学校も中学校も花と同じ学校だった。ついでに何の縁か、クラスもずっと一緒だった。
うだるような暑さと肌を刺す陽の光にうんざりしながら、僕は懐かしい小学校の通学路を進んだ。
住宅街を抜ける横断歩道で、僕は立ち止まった。
信号は赤く熱を帯びてゆらゆらと光を放っている
。
僕は、信号機の柱に立てかけられた、「2018年6月20日にここで起きた事故の情報を集めています。」と書かれた看板にそっと触れた。
金属でできたそれは、火傷をしてしまいそうなくらいの熱を持っていた。
花はここの横断歩道で死んだ。
ひき逃げ事故だった。
花の体は見るに耐えないほど損傷が酷く、病院に搬送される前に救急車で亡くなったという。9年間毎日一緒に渡った横断歩道。まさかここでこんなことが起こるなんて、僕はちっとも考えていなかった。
僕はその日、具合が悪くて早退した。
外の異常な騒ぎに、目が覚めて外を見ると、救急車やパトカーの赤い光がたくさん集まっているのが見えた。
僕はその時、花が事故にあったことを知らなかった。
少し体が楽になったこともあり、ちょっとした興味本位で事故現場に足を運んだのである。
その時のこの横断歩道は酷い有様だった。真っ赤な血が、あちこちのコンクリートに大きな染みを作っており、血に染まったガードレールは歪み、へこんでいた。
血痕の主はもう運ばれてしまったようで見当たらず、警察官が事故現場の片付けを始めているところだった。
背中がぞっとした感覚を、僕は今でも忘れることができない。
見に来るんじゃなかった。
そう思いながら僕は自宅に帰った。
家に帰ると、僕の母親は、携帯電話を片手に泣きながら僕を抱きしめた。
僕はこの時初めて、花が事故に遭ったことを知った。
あのコンクリートの赤は、数回の雨で綺麗に流されてしまった。
ガードレールも綺麗なものに取り替えられ、横断歩道は、まるで何もなかったかのような顔をしている。
隅の方に置かれた瓶に挿されたひまわりが、今日も風にゆったりと揺られていた。
信号が変わり、僕は歩き出した。
足はちょっぴり震えていた。
小学校は僕の家から歩いて15分程度のところにある。ちょっとした丘の上にあるため、始終登り坂だからなかなかに大変な道のりである。
小学校の門扉に貼られた「関係者以外立ち入り禁止」の看板を無視して、僕は思い切り門扉を引いた。
ガラガラと大きな音を立てながら扉は開いた。
そっと元のように門扉を閉めてから、僕はあの懐かしい銀杏の木を目指した。
銀杏の木はあの頃と同じ場所にしゃんと背を伸ばして立っていた。緑色の葉を茂らせ、風にそよそよと遊ばせている。
『彗もくればいいのに。』
風に乗って、花の声が聞こえたような気がした。
『高いところって一度にたくさんいろんなものが見えるんだよ。すごく綺麗なんだよ。』
わかったよ。
今行くよ。
僕は1番低いところにある枝を掴み、太い幹に足を掛けた。木が痛そうにみしりといった。
「ごめん」
僕は歯を食いしばりながら次の枝に手を伸ばし、太い枝を選んで足を掛ける。
「でも、どうしても上まで行かなくちゃいけないんだ」
額に、鼻に汗が滲む。顔が赤くなっているのが自分でもわかる。
手がじんじんと痺れるように痛い。こんなに大変な思いをして、花はいつもこの木を登っていたのかと思うと、ちょっと感心してしまう。
何分この木と格闘していたか分からない。
なんどももう無理だと思った。
でもその度に思い浮かぶのは花の笑顔と僕の記憶にこびりついて離れない、彼女が僕を呼ぶ声。
ぎゅっと手足に力が入った。
それでも手の力も、足の力もほとんど入らなくなった頃、僕は銀杏の木のてっぺんについた。
頬を撫でる風が気持ちいい。
僕は荒くなった息を整え、視線をゆっくりと前に移した。
僕の視界に広がっていたのは、街のジオラマのような景色だった。
たくさんの家々は小さな点に見える。
ところどころに木々の緑が混じり、1番遠くには海が煌めいている。海の上には綿飴のような白い雲が飾られた真っ青な空が広がっている。
ここから見る景色が、こんなに美しいなんて知らなかった。
街、森、海、空…
まるで世界が全部見えているみたいだった。
花は、いつもこの景色を見ていたんだ。
これが好きだったんだ。
きっと花が世界の終わりを迎える場所はここに違いない。
僕はそう思った。
「世界が終わっていく姿を、1番眺めのいいところで見ていたいの」
そう言ってる花の姿を、僕は容易に想像できた。
花はもういないから、これは僕の考えでしかない。答え合わせはできない。でも、どうだろうか。少しでも花の考えに近づけているだろうか。
僕はため息をつきながら目を閉じた。瞼の向こうの太陽が眩しかった。
「ちょっと!そこの君!!なにしてるの!今すぐ降りて来なさい!!」
僕は恐る恐る木の根元を見下ろした。
1人の女性教師が立って、こちらを見上げているのが見える。
まずいな…
僕は最悪逃げることも考えながら、素直に銀杏の木を降り始めた。
木は登るより降りる方が楽ではあるが、案外怖い。足を外さないように慎重に木の枝を探りながら丁寧に降りていく。
「うぁっ!!!」
あと少しというところで、僕が足をかけた枝が折れてしまった。手を伸ばすも掴んだのは空気だけで、僕は2メートルほどの高さから情けなく腰から落ちた。
「いた…」
腰を強く打ち付けたようで、僕はなかなか立ち上がることができなかった。
「ちょっと、大丈夫!?」
あの女性教師がこちらに駆け寄ってくる。
もう逃げることさえ諦めた僕は大人しく彼女の顔を見上げた。
それは見知った、懐かしい顔だった。
「高嶺先生…?」
僕はおそるおそる名前を呟いた。
女性教師は分かりやすく驚いた顔をして、それから僕を見て笑顔になった。
「菜野原くん。君、菜野原彗くんだよね!」
僕は今、職員室にいる。
「せっかくだから」と高嶺先生に強制的に連行されたのだ。
まぁ無断で校内に入った上に木登りをしていたのだから、そのまま返されるわけなかったのだけれど。
高嶺先生は僕と花が小学6年生だった時の担任だ。
快活で明るいが、たまに笑顔が怖い。
それを除けば良い先生だ。
「久しぶりねぇ。大きくなったね。あんなに背が小さかったのに、子供の成長てすごいよね」
麦茶を僕の前に出すと、先生はにこにこと笑いながら僕の向かいの席に座った。
カランと氷が溶ける音が嫌に響く。
「そういえば、花ちゃんは元気?」
僕は黙り込んで下を向いた。
花は家族葬だったから、花の近くにいた人しか彼女の死を知らない。
「いつも一緒にいたよね、2人。
本当、仲良し……彗くん?」
限界だった。
こんな情けない姿を見せるのは花だけでいいのに、僕は涙が止まらなかった。
僕はまだ、彼女の死を受け入れられていないようだ。
「……花は………もういません」
それから僕は高嶺先生に包み隠さず全てを話した。
花が死んでしまったこと、
僕がまだそれを受け入れられないこと、
僕がこれからやろうとしていること。
先生はその綺麗な瞳にうっすらと涙を溜めながら、黙って僕の話を聞いてくれた。
「だから木登りなんかしてたの」
先生はぐすんと鼻をすすって笑った。
僕は今まで誰にも話せず溜め込んでいたものを吐き出せて随分と心が軽くなっていた。だから、僕も笑いかえすことができた。
「花ちゃん、いっつも登ってたもんね」
「一回骨折したし…」
「ねぇ、ほんと」
高嶺先生は弱々しく呟いた。
そのあと、高嶺先生は卒業アルバムに載せきれなかった写真をたくさん持ってきた。
あまり目立つ方ではなかった花と僕の写真はほとんどなかったけれど、たまに見つかる僕らの写真は、いつも2人揃っていた。
写真に写る花はショートカットで、小さなきのこみたいだった。
笑っている写真はあまりなく、つんと澄ました顔ばかり。
花らしいなと僕はちょっぴり可笑しくなった。
高嶺先生は僕と花の写真を全部くれた。
「私にできることはこれくらいだから。」
彼女はそう言って弱々しく笑っていた。
僕はお礼を言って、写真を手に小学校を後にした。
いつになく太陽が眩しかった。
夏休みが始まって一週間が経った。
ここ数日は、台風の影響で不安定な天気が続いている。今日も風の音と、雨の音で僕は目を覚ました。
今回の台風は勢力が強いらしい。
南から北に進む異常な針路の台風は、今晩、僕の住むこの街にやってくるようだ。
十分な警戒と対策をするようにと、昨晩からどのニュース番組でも呼びかけていた。
僕は昨日の夜、母親から玄関先に置いてあるプランターを家の中に入れておくように頼まれたことを思い出して、ベッドを抜け出した。
あれから、僕は身動きが取れなくなってしまった。
いよいよ花がわからなくなったのだ。
もし僕が花だったら、世界が終わる前に何をするだろう。
考えれば考えるほど、その答えは出てこない。
「死に場所を探す」と「最後の晩餐を決める」は彼女自身が言っていたからすぐに行動に移すことができた。
彼女に相応しい死に場所は先日見つかったし、最後の晩餐はなんとなく見当がつく。でも、きっと、人間というものは、世界が終わる前に色々したがるものだ。今までできなかったこと、したかったこと、これら全部を、できるだけ終わらせようとする。
よく考えてみると、「僕だったら」が思い浮かばないのに、「花だったら」が思い浮かぶわけがない。こういうわけで、僕は僕だったらどうするかをここ数日の間考えているのだが、一向に答えは見つからなかった。
プランターを家に入れようと外に出た。
強い風が、僕を煽るようにして吹き荒れる。強い雨が僕の服を濡らす。
『あとはね、いろいろ終わらせたい。』
『次に向けて、全部リセットするの』
ふと花の声が風に紛れて聞こえた気がした。
そういえば、彼女が言ったやりたいことの中には、死に場所と最後の晩餐を決めることの他にも、もう一つあった。
ーーーもういっそ、人生とかも終わらせちゃいたいな。
いや、違う。
そんなわけがない。
もう少しで世界が終わるっていうのに自ら死んでしまう人なんて、いるわけがない。
僕は「ばかだなぁ」と自分に言い聞かせた。
そんなわけがない。
花に限ってそんなこと。
「なにしてるの…?」
プランターを手にぼうっとしていた僕は、その声で我に返った。
声の主は、僕と花の家を仕切る柵の向こう側にいた。
「夢ちゃん」
夢は花の2つ下の妹だ。
花とは正反対で、友達が多く、流行りに敏感な、今の子らしい女の子である。
小学校低学年の頃は3人で一緒に登下校をしていたが、いつしか夢は分かりやすく僕らから距離を置くようになった。
おそらく、姉の花が「変わり者」と学校内でも有名だったからだろう。
「濡れてるけど」
夢はそれだけ言うと家に戻ろうとした。
「待って、あのさ」
夢はドアを開けかけた状態でピタリと止まって、視線だけ僕の方に向けた。
「花って、なにかやりたいことあったのかな」
夢は想定外の言葉だったのか、ぽかんと口を開けた。
それから、僕をギッと睨みつけた。
「その名前、聞きたくない」
夢はそれだけ言って踵を返すと、家の中に入っていった。
雨に紛れてドアが冷たく閉まる音が聞こえた。
僕は雨に打たれながら呆然と立ち尽くした。雨は酷く冷たかった。
8月も半ばに入った。
まだまだ夏休み真っ只中だというのに、ここのところ日中も涼しくて過ごしやすい。
日が落ちると肌寒いくらいだ。
まるで夏が終わってしまったみたいだった。秋がすぐそこまで来ている、そんな空気だった。
寒い。僕は窓から落ちてくる冷気に震えた。
携帯の画面を開いて、時間を確認する。
目覚まし時計はまだ鳴っていないようだった。
僕は足元にまとまっていた毛布を手繰り寄せた。
寝転がったまま、窓を閉めようと手を伸ばしたが届かず、僕は役目を果たせなかった左手を、ぼとりとベッドの上に落とした。
世間はお盆である。
この辺りは核家族が多い。そのため、お盆の時期になるとほとんどの家が実家に帰省してしまい、とても静かになる。
だが今年は違った。
昨日から花の家にはたくさんの人が出入りしていて、毎年のあの静けさはない。
花の新盆だからだ。
僕は、昨日からぼんやりと窓からその様子を眺めては眠るを繰り返し続けていた。
僕もどこかで、花の家に行かなければならない。
でも、どうしても気がすすまずに、まだ行くことができていないのである。
「……あれ?」
窓からぼんやりと見つめる先に、ちらりと花の影が見えた気がした。僕は窓ガラスに張り付くようにして花の姿を探した。そんなわけないのに、花がいるわけないのに。
『盆にはね、亡くなった人が帰ってくるんだよ。私らはそれをちゃあんとお迎えしてやらなきゃならない。だからこうやって、準備をするんだよ。』
幼い頃、花と一緒に聞いた祖母の話を思い出す。
さっきのあれは…もしかしたら…
捨てきれなかった淡い期待を胸に、僕は外に飛び出した。
「花、いるの」
僕はポツリと呟く。
返事はない。ただひんやりと気持ちの良い風がそよぐだけだった。
やっぱり花はいなかった。
すぐに家に戻る気にもなれず、僕は何気なく高校の通学路をとぼとぼと歩き出した。
あぁ、あのカフェ。よくテスト前に花と一緒に行ったっけ。
ガラス張りで透明感のあるカフェを通り過ぎながら僕は思い出した。
そういえば、ハーブティーとバナナのシフォンケーキが、花のお気に入りだったなぁ。
それからあの古本屋。
埃っぽい本の香りと、窓から差す柔らかい光の中、嬉しそうに本棚を回る花の姿が好きだった。
『ねぇ、彗。今年は浴衣を着て花火に行きたい。』
4月のある日、この店でくるりと振り返りながら、突然花はそう言った。
花らしくない言葉に僕は驚いて、黙り込んでしまった。
まぁ、これも彼女の嘘だったのだけれど。
通学路は僕と花との思い出で溢れかえっていた。
あちこちに花の姿が見えるような気がして、僕は胸が苦しくなった。
何気なかった毎日が、こんなに幸せなものだったなんて、あの頃の僕は気づかなかった。
失ってみなければその大切さに気づけないというのは、どうやら本当のようだ。
気づくと、僕は最寄駅の前にいた。
小さくて古くて、コンビニもない駅。
いつもここから出る上り電車に乗って、僕らは高校に通っていた。夏休み中の朝早い時間の駅は、人も少なく、とても静かだった。
僕の足は、自然と下り電車のホームに向かっていた。
ここに来る電車に乗れば、海に行ける。
「花の嘘つき」
周りに人がいないことをいいことに、僕はため息と一緒に呟いた。
「一緒に、海に星を見に行くって約束したのに。嘘って、言わなかったのに。」
これは、僕の目の前を通過する特急電車の音にかき消された。 特急電車は風と一緒に遠くへ走り去って行った。
決めた。今日は、僕が世界が終わる前にやりたいことをやろう。
花と、海に星を見に行こう。
だって、花は僕の中で、まだちゃんと生きている。
だから花の気配が消えないんだ。
花の影が見えてしまうんだ。
今日は僕の中の花と星を見よう。
僕はその後すぐに来た電車に乗った。
ここから大きな駅まで30分。
そこでローカル線に乗り換えて20分。
さらに駅からバスで15分の所に、海岸がある。
空っぽだった電車は、30分経つ頃にはそこそこ人が増えていた。そしてローカル線に乗り換えると、水族館や海水浴に行く家族連れで、車内はいっぱいになった。
もちろんバスも満員で、今度は座ることさえできなかった。僕はつり革を掴んでバスに揺られるがまま、ぼうっとこれからのことを考えていた。
夏が終わる日、それを8月31日だとすると、この日が僕と花にとって世界が終わる日である。
さらに日没した直後に地球が終わることにしよう。
だから、8月31日までに悔いのないようにやりたいことをやっておかなければいけない。
そうだ、もっと現実味を出すためにちゃんとした設定をしよう。
8月31日の日没と同時に、太陽が爆発する。
これをひょんなところから僕と花だけ知ってしまった。僕らは国からそれを口止めされている。
よし、そういうことにしておこう。
ちょっとベタだけど。
そこまで考えて僕は顔を上げた。
窓の向こうに、太陽の光を反射して眩しく輝く海が見えた。まるで波立った鏡のように煌めくそれは、本当に綺麗だった。
バスを降りて海に向かって歩く。
歩きながら気づいたことは、かなり早めに来すぎてしまったということ。
現在10時0分。
日が落ちて星が出て来るまであと9時間はある。
だが、悲しいことにこの周辺には時間を潰す場所がない。水族館はあるけれど、さすがに1人で行くのはためらわれた。
仕方なく、僕は海の家で日が落ちるのを待つことにした。
コーラを頼んで、日陰の席に座り、ゆったりと流れる雲を眺めたり、砂浜で遊ぶ人々の楽しげな声をぼんやりと聞いたりしながら、穏やかに時が過ぎていくのを待った。
「これ」
突然声をかけられて、僕は驚いて「わっ!!」と声を上げてしまった。その声に相手も少し驚いたようだったが、やがてケラケラと笑いながら置きそこなった皿をテーブルに置いた。
皿の上にはポテトと唐揚げが乗っていた。僕は状況が飲み込めず、皿を差し出した相手を見上げた。
50代前半くらいだろうか、青いアロハシャツを身にまとった男性は、僕の顔を少し見つめると、にこりと笑った。
「あの、これ、頼んでないです…」
アロハシャツで、僕は彼がこの海の家の店員だと判断した。
僕の言葉に彼はガハハと笑うと、「サービスだよ」と言って僕の隣にしゃがみ込んだ。
「君、ひとり?」
「そ、そうですけど…」
僕は人見知りを炸裂させていた。
相手の目を見ることもままならない。
「そうしたら、1つ頼みごとがあるんだ」
彼はそういうと、海の家の隅の方でうずくまって本を読む少年を顎で指した。
それから困ったような笑みを浮かべる。
「これを食べてからでいい。あとで、少しでいいから、あいつの相手をしてやってくれないか?」
僕は何が何だか分からず、とりあえず頷いてしまった。彼は、「ありがとう」と言って立ち上がると、店の奥へと消えていった。
ポテトとから揚げは揚げたてだった。
朝ごはんを食べずに家を出て来てしまったからか、なんだかいつもより、格段においしく感じた。
食器をテーブルの隅にまとめると、僕はあの少年をもう一度見た。
少年は、さっきと変わらない状態で本を読み続けていた。
僕はゆっくりと立ち上がって、少年の方へ歩き出した。床の軋む音で、少年は何かを察したのか、パッと顔を上げて僕の方を見た。
「なに」
冷たい目でじっと僕を見つめる少年に、僕はなぜか親近感を抱いた。少年には、僕が人と接する時に感じる違和感も感じなかった。本を読んでいるからだろうか…いや、違う。
どことなく似ているんだ。僕に。
僕はそっと少年の隣に腰を下ろした。
少年はじりと僕から距離を置く。
僕は何をするでもなく、ただ少年の隣に座っていた。少年は本を読み続け、僕は少し居眠りをした。
さわやかな海風が心地よかった。
「1人で来たの?」
30分経って、やっと少年は沈黙を破った。
視線は相変わらず本に落とされたまま。
僕は「そうだよ」といって頷いた。
「友達いないの?」
子供の質問は実にストレートである。
僕は素直に頷く。
「たった1人の友達を、ついこの前になくしたところ」
「え」
僕の言葉で、やっと少年と目が合った。
少年は驚いた顔でじっと僕を見つめた。
「それって…」
「死んじゃった。交通事故で」
僕はため息と一緒に呟いた。
「だから、ひとりぼっち。」
少年は再び本に目を落とす。
「俺もだよ。俺もひとりぼっち」
僕は少年の話に静かに耳を傾けた。
波の音にかき消されそうなほど小さな声で、彼はぽつりぽつりと話し出した。
「死んじゃったんだ。お父さんも、お母さんも。
車で、遊園地から帰る途中に。
今は、おじさんと一緒に暮らしてるけど、やっぱりお父さんとお母さんが…」
少年は大きな瞳からぼろぼろと涙をこぼし始めた。本にいくつもの涙の染みができていく。
僕は震える手を伸ばして、少年の頭を撫でようとした。でも、途中で僕は手を引っ込めた。なんだか違う気がした。
もし、僕が彼ならそうされたって嬉しくない。そう思ったのだ。
「でもね、僕はひとりぼっちだけど、ひとりぼっちじゃない。」
僕の言葉に、彼はぱっと顔を上げた。
「確かに花は死んだ。死んでしまってもういない。だけど、僕の中にちゃんといるんだ。記憶とか、思い出とか、形のないものだけどね。」
また、少年と目が合って、僕は力なく笑った。
少年はそれきりまた黙り込んで、本に視線を落とした。
きっと、この本を読み終えるまで自分の世界に入り込むつもりなのだろう。かっこいいことを言ってみたものの、僕の中で、まだ花のことは整理しきれていない。もう少しだけ、考えることを先延ばしにしておこう。僕は再び目を閉じた。
彼に動きがあったのは、それから2時間後だった。少年は、うたた寝をしていた僕の肩をつついて、僕を起こすと、砂浜を指差した。「向こうに行こう」ということらしい。
僕らは砂浜の上を散歩しながら、他愛のない会話をした。
少年はこの辺の小学校に通う小学3年生。
名前は、沢田 臨。
両親を亡くした彼は、最近この街に引っ越して来た。まだ友達もできていないらしい。家族を失ったという事情もあり、周りも接し方に悩んでいるのだろうと僕は思った。
「どんな子だったの?
お兄ちゃんの、たった1人の友達って」
臨は、ビーチサンダルで砂を蹴散らせながら僕を見上げた。
「すごい変わり者」
僕は苦笑いしながら言った。
「普通の人がしないような考え方ばっかりしてたから、友達は僕以外にいなかったよ。
妹にまで避けられる始末。
でも、花の言うことってすごく深くって、正しいことばかりだったな。
ひとつの物事をいろんな視点から見てる花を、いつもすごいと思ってた。
いつも嘘ばかり言ってたけど、本当は色々考えていて、気難しい性格なのは素直になれないからって感じだった。」
「お兄ちゃんは」
臨はぴたりと立ち止まって、空を見上げた。
僕もそれに続く。
雲ひとつない青空が僕ら2人を見下ろしている。
「その子のことが大好きだったんだね。」
「んな!別にそんな…」
「だって、楽しそうに話すから」
臨は僕をからかうようににやにやと笑った。
全く、これだから小学生は…と僕はため息をついた。
でも、こうやってからかわれるのも悪い気はしなかった。小学生の頃、クラスメイトたちが好きな人のことでからかい合って楽しそうにしているのを、少し羨ましく思っていたからかもしれない。
「……大好きだったよ」
直接花に言えなかった言葉。
伝えられなかった気持ち。
でも怖かったんだ。幼い頃からずっと築き上げてきた僕らの関係を、たったの一言で壊してしまうのが。たった1人の友人を失ってしまうのが。
そうやって、僕がうじうじしている間に花は死んでしまった。
「俺も言えなかった。
お父さんにも、お母さんにも、いつも思ってたこと。
ありがとうも大好きも、何も言えなかった。
だって、ずっといると思ったから。
これからもずっと隣にいると思ってたから。
まさか、死んじゃうなんて、思ってなかったから、言えなかった。」
臨は再び歩き出した。
「いなくなっちゃうって、分かってたらちゃんと言ったのになぁ」
臨は僕のティーシャツの裾を掴んで、泣きじゃくった。
僕は泣きじゃくる臨に、自分の姿を重ねていた。
弱虫でいつも泣いてばかりいた僕。
それを支えてくれたのはやっぱり花だった。
普通の人なら優しく慰めてくれるところを、彼女はいつも「もっと泣けもっと泣け」と言いながら僕の頬をつねった。
「涙が枯れれば泣き止むでしょ、自然に」
というのが、彼女の考え方だった。
今思えばめちゃくちゃだ。
涙なんて、無くなるものじゃないのに。
それでも僕は、そんなめちゃくちゃな彼女の言葉のおかげで、何度も何度も立ち直ってきた。
そう考えると、やっぱり花はすごい。
だって僕は、今こうして目の前で泣いている少年に、されるがままでいることしかできない。無力だ。
臨はたくさん泣いて疲れたせいか、海の家に戻ってくると、すぐに眠ってしまった。
すやすやと眠る少年に毛布代わりのバスタオルを掛けながら、あのおじさん、真壁さんは優しい笑みを浮かべていた。
「優しい子なんだ」
真壁さんは僕に冷たい清涼飲料の缶を差し出した。
受け取った僕の手のひらが、ひんやりと冷えていく。
「ありがとうな」
真壁さんはキッチンに戻っていった。
何もしていないのに、と思いながらも、僕は少し照れくさかった。
海の家が閉まるのは午後の6時だった。
僕が今日、1人で海に来た事情を説明すると、真壁さんのご厚意で、閉店後もお店の座敷を使えることになった。
気を利かせた真壁さんは、閉店後、臨を連れて早々に帰っていった。臨は嬉しいことに僕を気に入ってくれたようだった。
「僕がお兄ちゃんの友達になってあげるよ」
生意気に笑う臨と、またここで会うことを約束して、僕らは別れた。
あれから1時間たって、やっと夕暮れの中に星がちらほらと見え始めた。地平線の向こうに夕日が沈んで、紺色が夕日の忘れ物を塗りつぶしていく。
やがて海岸は闇に包まれた。
僅かな星明りを頼りに、僕は海の家を出て、砂浜の上を歩き出した。
民家が少ないためか、星がいつもより大きく見える。いつも見えないような細かい星も、ちゃんと見える。宝石をばらまいたような夜空は、思わず息を呑むほど美しかった。
僕は誰かの忘れ物のビニールシートを見つけて、その上にごろんと寝転がった。
どこを見ても星、星、星。
今にもこちらに降ってきそうな星を眺めながら、花との思い出に想いを馳せた。
『あれでいいよ!』
これは確か、中学2年生の冬だった。
日が落ちるのが早くなるこの時期。僕らが帰る時間はいつも星が綺麗だった。
『あの星でいいから、彗、取ってきてよ』
『はぁ』
花の無茶振りに僕は呆れた声を出した。
『あの星を取ってきてくれたらねぇ…そうだなぁ、彗のお嫁さんになってあげましょう!』
『かぐや姫かよ』
僕のツッコミに、珍しく花は笑ってくれた。僕はそれがたまらなく嬉しくて、温かい気持ちになったんだっけ。
「人は死んだら星になる」という話を聞いたことがある。
もし、それが本当だとしたら、花はどれだろう。
僕は星の中に花を探した。
きっと花は、他の星とは色も形も大きさも違った、ちょっぴり変な星に違いない。
すごく目立つ、だけど綺麗で明るい星。
今日の星空の中に、花らしい星は見つからなかった。きっとその星も、花みたいに気まぐれなのだろう。
僕はそっと目を閉じた。
瞼の向こう側で、星は眩しく輝いていた。
気づくと星は無くなっていた。
朝が来たのだ。
空はすでに白み始めていて、空を覆っていた闇は何処かに消えてしまっていた。
終電で帰ろうと思っていたのに、しっかり眠ってしまった。
僕は慌てて立ち上がる。体の節々がキリキリと痛み、僕は声にならない悲鳴をあげた。こんな砂浜の上で1日寝たのだから、当然の結果だった。
僕はスマホで現在の時間を確認する。
急げば始発に間に合う時間だった。
僕は荷物を片手に慌てて駅に向かって走りだした。
お盆が終わるのを見計らったように、太陽はまた本気を出し始めた。
先日の涼しさが嘘だったかのような暑さに、僕はため息をついた。
どっちにしろ家に引きこもってばかりの僕には関係のないことなのだけれど。
僕は溜め込んだ夏休みの課題を消化しながら、だらだらとした日々を送っていた。
長々しい数式も、嫌になってしまうような英文の羅列も、僕は無心で解き続けていた。勉強することが嫌いではない僕は、課題をやっている間だけは花を忘れることができた。
僕の集中は、玄関チャイムの音で途切れた。
僕は階段を降りて、玄関のモニターを確認する。
モニターに映るのは、夢だった。
僕は静かに扉を開けた。
「どうしたの?」
夢は手の甲で鼻の頭の汗を拭うと、右手に握られた小さなノートを僕に差し出した。
「これ。掃除してたらでてきたの。」
夢は半ば強引に僕にノートを握らせると、隣の自宅に走って帰ってしまった。
僕は小さなノートの表紙を見た。
『やりたいことリスト』
ノートの初めには花の字でそう書いてあった。
僕は息を呑む。
僕はぎゅっとノートを握り、自室に駆け戻った。
ベッドに腰掛けて、ノートの表紙をもう一度見る。
手のひらサイズの小さなノートには、涙の跡のようなものがところどころに残っているのが目立つ。
花なのか夢なのか、それとも他の人の涙なのかはわからない。
あちこちにシワがあるボロボロのノートを、僕はそっと開いた。
ノートには、彼女の癖字で箇条書きでやりたいことが綴られていた。初めに書かれた小さな四角形の枠に、チェックがつけられるようになっていた。
だが、チェックがついている枠はほとんどなかった。
『コンビニのイチゴのスイーツを食べる』
『女の子らしい服を買う』
『新作のケーキを食べたい』
花は僕が思っていたよりずっと女の子らしくて、普通だったと、これを読んで僕は初めて知った。
ページをめくる。
次のページには、
『◻︎最高の、最期の夏にする』
これだねポツンと書いてあった。
下に、
『平成最後の夏が私にとって最期の夏になるなんて思ってなかった。やりたいことを全部やりたい』
と小さな文字で補足されていた。
私にとっての最期の夏…そうか、この夏で世界が終わるという状況を、こう書くことでリアルにしているのか。
面白いな、そう思いながら僕はページをめくった。
『彗と星を見にいく』
『死に場所を見つける』
『最後の晩餐を決める』
ここまでは花が生前言っていた通りだった。だが、その次の項目を読んで、僕は下唇をぎゅっと噛み締めた。
『彗と花火に行く』
心当たりがあった。
あの古本屋で、花は僕と花火に行きたいと言った。
でもすぐ返事ができなかった僕に、彼女は、
「うそだよ〜!本当だと思った?やだなぁ」
そう言ってやけに明るく笑った。
『彗に私の歌とギターを聴いてもらう」
『彗と旅行に行く』
『彗とまた古本屋に行く』
『彗と夏休みの宿題をやる』
『彗にお弁当を作る』
『彗に気持ちを伝える』
僕の名前がある全ての項目に、心当たりがあった。
そして、どれも彼女に嘘だとはぐらかされたものだった。
僕はやっと気付いた。
彼女の「うそ」は「ほんとう」なんだということに。
彼女が嘘をついている相手は、他ならぬ彼女自身だったのだということに。
そういえば、平成最後の夏の話をした日、彼女は僕に三回話しかけたと言った。
もしかしてこれは…
『彗に気持ちを伝える』
これだったんじゃないか…?
そう気付いた途端、僕の目から涙がこぼれた。 暖かい涙は僕の頬を伝ってノートに落ちた。
文字を歪ませながら、小さな水溜りはノートに染み込んでいった。
僕は馬鹿だ。
彼女のことを一番近くで見ていたくせに、ちっとも気づけなかった。
彼女のことを分かったつもりで、何も分かっていなかった。
すぐ隣にいたのに。いつもいたのに。
ノートにはまだまだたくさんの「花のやりたいこと」が書き連ねてある。
『彗と夏祭りに行く』
『彗とカラオケ?に行ってみたい』
『彗とクリスマスにお出かけしたい』
『雪が降ったら、夢と彗と3人で雪遊びがしたい』
『高いカメラが欲しい』
『彗と同じ大学に行きたい』
僕はちょっとした違和感を感じた。
花のやりたいことが、「平成最後の夏」の枠を大きくはみ出していたからだ。
夏祭りは9月だし、クリスマスは冬休みだ。
大学なんて、まだまだ先の話だ。
なんだか、おかしい。
それに、彼女がついた嘘で僕が忘れられないもの。「人生を終わらせてしまいたい」という嘘。こんなに未来にやりたいことがあるなら、あの嘘は本当の嘘だったということになる。彼女の嘘が本当のことをはぐらかす為のものだったとすると、どうにもつじつまが合わない。
ジリリリリ
再び玄関のチャイムが鳴った。
今日は来客が多い。
タイミングの悪さに少し腹を立てながら、僕はタオルケットで涙を拭って階段を降りた。
玄関モニターを見る。
そこに映るのは、花の母親だった。
僕は驚いて、慌ててドアを開けた。
玄関の前に立っていた花の母は、困った顔をして、花によく似た大きな目に涙をいっぱいに溜めていた。
「こんにちは、彗くん。ちょっと聞きたいことがあってきたの」
震える声でそういった彼女を、僕はリビングに上げた。
もともと華奢な花の母親の背中は、いつもよりやけに小さく見えた。
僕は麦茶のコップを彼女の前に置くと、正面の椅子に座った。
「聞きたいことって」
話は僕から切り出した。
花の母親は「実はね」とぽつりぽつりと話し始めた。
「連絡があったの。事故を見たっていう中学生から。その子、夢の同級生で、あまりにもショックな出来事だったから、今まで本当のことを言うかすごく悩んだんですって。知らない方が、私たち家族が幸せなんじゃないかって。」
「それじゃあ、事故の詳細がわかったんですか」
今まで誰も分からなかったあの横断歩道での事故。
花の母親が頷くのを見て、僕はごくりと唾を飲み込んだ。
でも、彼女の言った真実は、僕の求めた真実とはかなり異なっていた。
「自分から、車に向かって飛び出して行ったんですって、あの子」
「え?」
僕は思わず聞き返した。
聞き間違いだと思いたかった。
「確かに車も速度違反をしてた。
でも、横断歩道の信号は赤だった。
それなのに花は、車が来るのが分かった上で、道路に飛び出したのよ。」
僕は足が震えるのを手でぎゅっと抑え込む。
「それって…花は自分で死んだってことですか…?」
彼女は静かに頷いた。
僕は訳がわからなくて頭を抱えた。
「それで、彗くんに聞きたいんだけど、彗くんは、そのことについて何か心あたりはある?」
僕は、平成最後の夏の話をしたあの日に、花が「人生を終わらせたい」と言っていたことを伝えた。
彼女はなんで自ら死を選んだのか、僕にも分からない。でも、彼女はちゃんとサインを出していた。
僕は十分にそのサインに気づくことができたし、花の死を止めることができた。
そう思えば思うほど、僕の中の後悔の渦は少しずつ大きくなっていく。
僕が花を殺したようなものだ。
花の母親の一言を聞くまで、僕はそう思っていた。
「本当にあの子の考えはわけがわからないわ。
だって、花はもともと、もう長くは生きられなかったのに」
僕はパッと顔を上げて、彼女の顔を見た。
彼女は、「やっぱり、聞いてなかったのね」と小さく呟いた。
「あの子、夢にも隠してたのよ。」
花の母親は困ったような笑みを浮かべると、ぽつりぽつりと話し出した。
「花は病気だったの。今年の3月に、余命宣告をされていたの。
長くて5年。健康に生きられるのはあと半年って。」
ぽた、ぽたと台所のシンクに水滴が垂れる音が響いた。
花の病気は筋肉がだんだん衰えていく病だった。
やがて歩けなくなって、話せなくなって、最後は心臓を動かすことさえできなくなって、死ぬ。
花は2月頃から、体が重く、思うように歩けなくなった。
つまづくことが増え、怪我をしたことをきっかけに、母親に連れられて病気で検査をしたという。
そこで病名が発覚した。
花の場合、一般の患者よりも進行が早かった。
だから今年の夏は、平成最期の夏であると同時に、花が元気に過ごせる最期の夏だったのだ。
『最高の最期の夏にする』というのは、そういうことだったのだ。
僕は言葉を失うと同時に、自分に幻滅した。
花が最近よく転ぶのも、歩くのがやけに遅いのも、病気のせいだったのだ。
急に髪を短くしたのも、髪を洗う負担を減らすためなのだろう。
目で見て分かる彼女の変化に、僕は疑問を抱こうとしなかった。そんな僕が自分で嫌になった。
「でもね、花はいつも彗くんのことばかり話してたのよ。
口数は決して多い子ではなかったけど、口を開くといつも彗の話だったわ。
…彗くんに病気のことを話さなかったのは、きっとあの子なりの考えがあったからなんだと思う。
私でも掴めない子だったから」
花の母親はそう言って帰っていった。
テーブルに残されたコップの氷は全て溶けてしまっていた。
僕は自室にこもって、考え込んだ。
『花は横断歩道に飛び出す直前、どんな顔をしてたんでしょうか』
僕は花の母親の帰り際に、ずっと気になっていたことを聞いた。
笑っていた。
彼女はそう答えた。
悲しそうに、でも嬉しそうに笑っていた、そう夢の同級生が言っていたと、彼女は答えた。
やっぱりわからない。
花は難しい。
さりげなく手を置いたところに、あのノートがあった。
『平成最後の夏にやりたいこと』を書くノートではなく、『死ぬまでにやりたいこと』が書かれたノート。
僕はノートを手にとって、さっきの続きのページを開いた。
ページをめくれどもめくれども僕の名前がたくさん書かれていた。
何ひとつ叶えてあげられなかった。
こんなにたくさんあったのに、ひとつも。
途中からはぱったりとやりたいことが書かれなくなった。
その代わりに、花が誰にも言えなかったことが書き連ねてあった。
『体が重くてだるい。まっすぐ歩けない。』
『箸を持つのが辛い。ご飯を食べるのも辛い。』
『周りには上手く隠せている。』
『指が動いてくれない。大好きだったギターも思うように弾けなくなった。』
『今日、とうとう上手く笑えなくなった。頑張らないと笑えない。』
当たり前のことができなくなっていく辛さや悲しさが、花の文字で書かれている。
ただでさえ綺麗でない花の癖字が、ページをめくるたびに、どんどん歪んでいく。文字を書くのもやっとだったのだろう。
『これ以上生きていたら、彗に病気がばれてしまう。それに彗との思い出を増やしたら、ますます死にたくなくなっちゃう。
でも、私はもっと彗と生きていたい。
だからどうしたらいいかわからない。』
『私は花だ。どうせ死ぬなら、花のように綺麗に散りたい。でも、その前に、夢と仲直りをしたい。』
これが最後の花のやりたいことだった。
これ以降のページには、何も書いてなかった。
僕はノートを閉じて、ベッドサイドの小さな机に置いた。
ごろんとベッドに寝転がった。
何もない白い天井が、真実を知って自分の愚かさにやっと気づいた僕を、ぼんやりと見下ろしている。
僕は無性に死にたくなった。
死んで、今すぐに花に会いに行きたくなった。
「ごめんね」と謝りたかった。
「気づいてあげられなくてごめんね」って、「何ひとつやりたいことを叶えてあげられなくてごめんね」って。
でも、花はずるい。
僕がそうできないように、しっかりと裏から手を回してある。
花は生前のある帰り道で、僕に言った。
『もし君が私より早く死んだらさ、私は彗の後を追わないよ。』
急な話に驚いて、僕は「何言ってるの?」と笑った。
花は、そんな僕を、『真面目な話をしてるんだよ』と言って睨んだ。
『あのね、もし彗が私より早く死んじゃったら、私が、彗の見れなかった未来を見て、私が死んだ後に教えてあげたいから。
それで、こんな面白いものが見れなくて残念だったねって笑ってやるんだ。
だから、逆に私が彗より早く死んだときには、後を追わないで。待ってるから。』
僕は花のこの話を、いつもの花の奇抜な例え話だとしか思っていなかった。
だからあのとき、僕は花のこの話を適当に流して、頷いた。
でも違った。
花はもう、この頃は自分がもう長くないことを知っていた。だからこそ、僕にこんな話をしたんだ。
花が死んだら僕も死にたくなってしまうことを、花はちゃんと分かっていたんだ。
花は僕のことをよく知っていた。僕は花のことが分からないのに、花はちゃんと分かっていたんだ。
花はすごい。すごい女の子だ。
僕はただ、悲しむことしかできない。僕の情けなさに、嫌になることしかできない。
無力で愚かな男の子だ。
だって、花が最後にやりたかった、「夢と仲直りをする」ことを、叶えてあげることさえできないんだ。
そうため息をついたときだった。
バンッと扉が開いた。
お母さんが、息を荒げながら立っている。
僕は驚いてベッドから起き上がった。
「彗、夢ちゃん知らない?」
「え?お昼頃に、うちに来たけれど…夢ちゃんがどうかしたの?」
「夢ちゃんが、さっき出て行ったっきり、帰ってこないんだって。
今みんなで探しているの。
彗も手伝って!」
僕はいつも持ち歩いているショルダーバッグに、花の小さなノートを入れて、階段を駆け下りた。
玄関のドアを開けると、さっきまでの晴天は厚い雲に覆われてしまっていた。
今にも夕立が来そうな空だった。
僕は夢のいる場所に大体の見当がついていた。
きっとあそこだ。
僕たち3人で、小さい頃よく遊んだ、あの、秘密基地。
僕は走った。走って走って走った。
秘密基地はあの廃工場の中。
僕らの家からは少し遠いところにある。
ぽつり、ぽつりと雨が降り始めた。
大粒の雫が、僕の髪を、顔を濡らす。
僕は強くなっていく雨の中、水溜りも気にせずに、秘密基地を目指して走り続けた。
懐かしいあの廃工場は、あの頃から時間が止まったように、姿形がひとつも変わらないまま、ひっそりと佇んでいた。
僕らがここを見つけたのも、今日みたいな雨の日だった。3人で雨宿りをしながら、この廃工場を探検した。そしてここを僕らの秘密基地にしようと決めたんだ。
僕は施錠された門の隙間に身を滑らせて、荒れた工事の庭を進んだ。
工場自体に鍵はかかっていないため、簡単に入ることができる。
夢は、埃臭い工場の中に入ってすぐに見つかった。
誰かが持ち込んだのであろうソファに座って、夢は泣いていた。
僕が夢の前に立つと、夢は僕の気配に気づいたのか、ゆっくりと顔を上げた。
「私最低だ」
夢は嗚咽を漏らしながらぽつりと呟いた。
「私がお姉ちゃんを殺したんだ。私があんなにひどいことを言ったから」
僕はただ黙って、彼女の言葉を聞いていた。
「お姉ちゃんが事故に遭う前の日に、お姉ちゃん、私に謝ったんだよ。
『ごめんね、こんな変なお姉ちゃんで』って。
『仲直りしよう』って。
それなのに、私…お姉ちゃんのせいで私まで友達に変な目で見られるって、お姉ちゃんのせいで嫌な思いたくさんしてるのに、今更許せないよって言っちゃった。」
夢の両目からぼろぼろと涙がこぼれ落ちる。
「お姉ちゃんなんか、いなきゃよかったって、言っちゃった…だからお姉ちゃん、自殺しちゃったんだ。
私がこんなこと、言ったから…。
私の方がいなきゃよかったのに。きっとお姉ちゃん、怒ってるんだ。
私のこと、怒って自殺しちゃったんだ。」
「ちがうよ」
「ちがくなんかない」
「ちがうよ。花はそんなことで自分で死んだりしない。」
僕はカバンからノートを取り出すと、夢に差し出した。
「これを読めば分かるよ」
「読んだもん、彗くんに渡す前に」
「最後まで、読んでごらんよ」
僕は最後のページを開いて夢に持たせた。
夢はノートに視線を落とした。
「花は、近いうちに死んでしまう病気だった。
それに、ここに書いてある感じだと、花はもともと死ぬことを決めていた。
だから、夢ちゃんのせいで死んだんじゃない。
花はいろいろ考えて、自分でそうすることを決めたんだ。」
僕は最後の一文を指差した。
「花はね、最後に夢ちゃんと仲直りをしたかったんだと思うよ。そんなお姉ちゃんが、妹のことまだ怒ってると思う?」
夢は下唇をぎゅっと噛みしめた。それから、花にそっくりな瞳からぼろぼろと涙をこぼしながら首を振った。
「うわあああああぁぁぁぁ、うわぁ、うわぁぁぁ、ごめんなさいっ、ごめんなさい、本当は大好きだったのにっ、素直になれなくて、ごめんなさいっ、うっぐっ」
夢は声を出して泣き続けた。
僕は震える手で、そっと夢の頭を撫でた。
小学生のとき、一度だけ花がお母さんと大げんかをして、僕の前で、声を荒げて泣いたことがあった。
そのとき、僕は花の頭を撫でてあげたかった。
それなのに、勇気がなくてできなかった。
やっとできた。やっとできたよ、花。
僕は自分も泣きたいのを我慢して、夢が落ち着くまで側に居続けた。
「よかったね、花」
僕は心の中でそっと呟いた。
花が最期にやりたかった夢との仲直り。
少し遅くなっちゃったけど、できてよかった。
僕が死んだら、そのこともちゃんと花に伝えるよ。忘れないからね。
8月31日。
夏休みが終わる。明日は土曜日だけど、補講がある。
今日が世界が終わる日だ。
僕は少しでも花のノートの項目にチェックを入れたくて、小さなノートを片手に、色々なところへ足を運んだ。
コンビニでイチゴのデザートを食べた。
新作のケーキも食べた。
カラオケに行って、古本屋にも行った。
花のやりたかったことは、どれも案外簡単だった。だからこそ、僕は虚しくなった。
太陽が西に傾いてきた。
空気や風は、どことなく涼しく、秋の訪れを感じる。
蝉の声も小さくなった気がする。
僕は小学校に向かって歩き出した。
あの横断歩道には、今日も瓶に差された向日葵が揺れている。
あぁ、そうか。
僕はやっと気付いた。
ここにいつもどうして向日葵が飾ってあるのか。百合でも菊でもなく、どうして向日葵なのか。
彼女は、花は「夏野花」。
つまり「夏の花」だからだ。
僕は思わず笑ってしまった。
もし、花が向日葵なら、太陽を追いかけずに月を追いかけていそうだなと思ったからだ。
世界の終わりを迎える場所を目指す。
8月上旬に行った時には、小学校に着く頃には汗だくだったのに、今日は少しも汗をかかなかった。
季節の移り変わりを目の当たりにした気がして、なんだか胸の辺りがギュッとした。
僕の事情を知っている高嶺先生のご厚意で、本来なら空いていないはずの正門は空いていた。銀杏の木には、最初よりもずっと早く簡単に登ることができた。太い枝に座って、僕は小さく息をつく。
あと数時間で世界が終わる。
みんなあと少しで死んでしまうんだ。
日が落ちる前に、
世界が終わる前に、
僕は最期にやらなきゃいけないことがある。
僕はカバンから小さな封筒を一枚取り出した。
薄い黄色の、愛らしい封筒。
破れないように、優しく封に貼られたシールを剥がして、僕は中の便箋を取り出した。
この封筒は、今朝、ポストに入っていた。
今日、僕に届くように、花が郵便局に預けていたらしい。
どこまでも抜かりがない。
そこがまた、花らしい。
封筒の裏には、「世界が終わる直前に読んでほしい」と書かれていた。
何度も書いて消した跡が、文字の下に残っている。
一生懸命、丁寧に書いたことが伝わってくる。
中には便箋が3枚と、勿忘草の押し花で作られた可愛らしい本のしおりが入っていた。
細かい字が難しかったのだろう。
文字は2行を使って、大きめに書かれていた。
僕は大きく深呼吸をする。
なんとなく書かれていることは想像がつく。
でもやっぱり、少しだけ怖かった。
『彗へ
これを彗が読む頃には、大体のことがわかっているかと思います。
どう?怒ってる?
彗が怒ると怖いから、ちょっとここには言い訳を書いておきます。
まず、私が死んだ理由。
それは、あと数年後にはどうせ死んでしまうから。
私の病気はだんだん体の自由が効かなくなって、最後には自分で何もできなくなってしまう病気。
本当はもっと生きてみたかったけど、
弱った私を見られたくなくて、
彗の記憶に生きる私は、元気だった私だけにして欲しくて、
少し先を急いでしまいました。
ごめんなさい。
次に、平成最後の夏が来る前に死んだ理由。
それは、彗との楽しい思い出をこれ以上作りたくなかったから。
ただでさえ死んでしまうのが惜しいのに、余計死ぬのが嫌になってしまうと思ってしまいました。
彗といる時間は本当楽しいから、ついね。
最期だかららしくないことを書くけど…
死ぬのがとても怖い。
今まで当たり前にできていたことができなくなっていくことが苦しい。
もっと彗と一緒に居たかった。
一緒に生きていたかった。
だってやりたいこと、ほとんどできてないし。
彗、私はね、彗が思っているより、普通の女の子になりたがっていたんだよ。
私のこの選択は、たくさん悩んで、考えた結果。
分かってほしいとは言わないよ。
でもせめて、私らしいと思ってほしいな。
彗には何も残してあげられなかったから、彗に言ったら私らしくないって笑われそうでずっと隠していた趣味を同封します。
どうぞ、見て笑ってください。
あと、ずっと好きでした。
今までありがとう。
夏野 花』
あぁ、本当にずるい。花はずるい。
泣き虫な僕を、こうやっていじめるんだから。
嫌いだ。
嫌いだ、嫌いだ、嫌いだ。
僕のことを置いて死んでいく花なんて大嫌いだ。
本当のことを言ってくれなかった花なんか大嫌いだ。
そこまで思って僕は涙の混じった声でそっと呟いた。
「うっそー」
最後まで花は素直じゃない。
そんな、花言葉なんか使わなくたって、僕は花を忘れないよ。
やがて、小さなジオラマは真っ赤に染まった。
あぁ、世界が終わっていく。
たくさんの作品の中から、この作品を見つけ出していただき、ありがとうございます。
平成最後の夏、どんな夏でしたか?
私はこの夏に何かひとつ作品を仕上げたいと思っていました。
そんな時に、友人と夏休み中に小説を書きあって、新学期が始まったら読み合おうという話になり、この作品を書くに至りました。
作者の自己満足小説ですが、楽しんでいただけたなら光栄です。
最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。
平成30年 9月10日