信用していい言葉
『平服でお越しください』
招待状に書かれたその言葉に素直に従ってしまったわたしは、結婚式2次会会場で一人、辱めを受けた。まるで制服を着ている中で一人だけ体操着を着せられているような気分だ。
『平服でお越しください』
この言葉、ツイッターで話題になってテレビにも取り上げられてた「信用してはいけない言葉選手権」にもあったのに。信用して嫌な思いをした経験があるから「ああ、それそれ、あるある」って納得する言葉なんだろうが、イケメンの誘いのごとく、分かっていながら信用してしまった。自分にも少なからず非があるような気がして悔やまれる。
吉祥寺のイタリアンレストランで着飾るなんて、逆に恥ずかしいといきがってみたが、ドレスコードというものは場所ではなく、イベント主催者によって作られるもののようだ。祝福する気持ちがあるなら、もう少し華やかな服装で来るべきであった。
新婦である高校時代の友人は、アパレル関係の仕事に就き、社内恋愛の末、結婚することになった。服が大好きなおしゃれ夫婦の結婚パーティーは参列者もファッションショーかってぐらい皆華やかだ。予想はできたのに、自分がこの会に呼ばれたことで、そんな心配は無用なパーティーだと思っていた。
しかし、小さな商社で事務職をしているわたしの平服は、地味すぎた。合コンで張り切ってオシャレして金の無駄だったと思ったばっかりだったので、わざわざ新調する気持ちもお金もなかった。別に新しい出会いを求めてきてるわけじゃないんだから、モテコーデで男ウケする必要も無い。無難に目立たないようにしようと思った。新婦以外は知らない人だから、どう思われてもいいやと、休日出勤の合間に来たみたいな通勤服で来てしまった。いっそ、そういう架空の設定にして途中で帰ったりしようかな。
平服を着崩してドレスアップさせる技術も、服装など気にしないでいられる自分の中身に対する自信も、浮いてる自分をこの会場に溶け込ませるコミュニケーション能力もない。わたしは、隅っこの席、なるべく照明の当たらない場所に座っていた。
「平服って書いてありましたよね?」
「え?」
配達に来た花屋の店員かと思ったほど、カジュアルな服の男が声をかけてきた。
わたしは招待状に対して物申したい賛同者が現れたと思い、嬉しそうに顔を上げたが、
「これ、信用してはいけない言葉だ。騙された。可愛い子連れてくるからって期待して行った合コンみたいだ」
そのあとに続く男のつぶやきに、瞬時に不快になった。「信用してはいけない言葉選手権」を知っていてわざと言っている言葉かもしれないが、合コンであからさまにがっかりされた記憶がうずき、男の例え話に反論したくなった。
「騙してはいないんじゃないんですか。きっとみんな普段もああいう服着てるんですよ」
「そっか」
男は「こりゃ一本取られた」みたいな苦笑いのあと、勝手にわたしの横に座り嬉しそうに笑った。わたしの意見をあっさりと受け入れる男を見て、一旦苛立ちを飲み込んだ。
失恋したわたしを慰めようと友達が誘ってくれた合コンで、惨めな思いをお持ち帰りした。来て早々「可愛い子連れてくるっていうから、参加したのに」とあからさまに暴言を吐く男に、女としての尊厳をズタズタにされた。服のセンスもバカにされた。男の傷は男で癒やすのがいい、これまた都市伝説みたいな信用しちゃいけない言葉だったのかもしれない。誘ってくれた友達にも何度も謝られ、しばらくこういう出会いはいらないと思った。
可愛いかどうかも最終的に主観。その着飾った服が平服か礼服かも、その人次第。礼服の可愛い子がそろってるかと思えば、平服のブスばかり。ん? 逆か。
もう、どうでもよくなってきた。本当に仕事とウソついて帰ろうかな。
「あ、どちらかというと、試験前に、全然勉強してきてないよ~みたいな感じか」
「はい?」
男は会話をまだ続けていた。
「この騙された感、そんな感じじゃない? 勉強してないって言ったのに、いい点とる奴いるじゃん。そういう奴って、確かに試験勉強はしてないのかもしれない。普段授業ちゃんと聞いてて、普段の状態が違うだけだった」
この人絶対、選手権知ってる。ってか、投稿してただろう。と思える発言だった。
そういうわたしも、このツイッター大喜利が好きだ。
「騙された感だけでは、そうですけどね。でも、それって、キレイな人が何もしてないっていうのと一緒で、元々持ってるものが違うのに同等に見るから信用できないだけで、服とはちょっと違う気がする」
「おお。真面目に分析してくれるね。君、面白い」
「そうですか」
「え、じゃあ、じゃあ<アットホームな職場です>っていうのは?」
「ああ、普通は家庭的で仲のいい職場の雰囲気を強調してるって感じですけど」
「そう思うよね。普通さぁ。俺もそう思って、個人経営の事務所に就職したらさあ、もう、すげえ時代錯誤の家父長制の家庭でさあ。社長はワンマンだし、男の俺から見ても可哀想になるくらい男尊女卑が酷いし。そこで、家庭の形はひとそれぞれ、家庭的、アットホームな職場です、とかで片付けられる?」
男は、一般論から入りつつ自分の意見を言おうとしたわたしの言葉を横取りして、自分の職場の酷さを訴えた。わたしも同じようなことを言おうと思っていたのに、男は自分だけが言葉の真意を知っているかのようにまくし立てる。
「そう、です、ね」
同じ平服だがどこか質が違う。少し哀れな気がして、わたしは男に微笑みを返してみた。この人の場合は、本当に仕事の合間にやっとこれたから、着飾ってる余裕がないだけなのかもしれない。新郎新婦と同じ職場の人ではなさそうだし、新郎とは古い付き合いなのだろうか。
別にこの人は、わたしのことを合コンにいたブスと形容したわけじゃない。個人的な記憶が苛立たせただけ。この人は悪くない。
居心地の悪い空間で、自分と同様に浮いている「友人」として、隣に座ってくれたことに少し安心感が生まれてきた。
突然、会場の照明が変わり音楽が流れた。手をつないだ新郎新婦が登場した。披露宴の衣装そのまま着てきたんじゃないかってぐらい、すごい衣装だ。
旦那さんは写真で見ただけで、イケメンというほどではないが、めちゃくちゃオシャレでモテそう。
二人が中央の席に着くまで拍手は続く。
幸せいっぱいの友達と旦那を見つめながら、素直に祝福できない自分を自覚した。事務的に、拍手をしている。
新婦とは高校を卒業してからはメールで近況を伝えあうぐらいだった。結婚の知らせを聞いて正直呼ばれるとは思わなかった。式は親族だけだからと、二次会に呼ばれたが、場違いな気分だ。おしゃれになった自分、おしゃれな旦那と結婚して、おしゃれな仲間に囲まれて仕事もしてます。っていう幸せを見せつけ自慢するために呼んだんじゃないかと思えてしまう。
共通の友達を何人か呼んだが、みんな予定が合わなかったという。みんな先に「ママ」になってしまい、わたしのように自由ではないらしい。
親しい友人仲良し順に上から呼んで、全員断られて、わたしまで来たのか、ふとそんな嫌なことを考えてしまった。でもそれは、わたしというより、彼女の人脈のなさだから、ここで恩を売っておくぐらいの気持ちで来た。
でも、新婦の友達もきっとママになったら、わたしは置き去りにされるんだろうな。
わたしは、ちらりと隣の男を見た。
嬉しそうに拍手を送っている姿は無邪気な少年のようだ。
ちょっとチャラいけど、悪い人ではなさそうだ。
独身かな。
思わず左手をのぞく。指輪はしていない。
話しかけるタイミングが分からず、これ以上の会話はできなかった。
新郎新婦の横で、職場の同僚らしき幹事が、一生懸命盛り上げようとマイクで喋っている。内輪ウケな内容で部外者のわたしには全然面白くない。
隣の男は笑っている。本当に面白いと思ってるのかな。
ああ、もうちょっと、アットホームな職場について突っこんで話せば良かった。でも、新郎新婦が入場してまで話続ける話でもないし。わたしが会話の糸口を頭の中で探していると、隣の男は新郎のグラスにお酒をつぎに行ってしまった。
やはり新郎の友達のようだ。わたしも同じように新婦のところに行こうと思ったが、オシャレ軍団に囲まれた所に入り込む勇気はなかった。帰り際に一言話せればいいかなと諦めた。
その後男は、どこかに行ってしまいわたしの隣に戻ってくることはなかった。
次々と料理が運ばれてくる。目の前にあるものに対応していれば、なんとなく退屈な時間は過ごせると思ったが、それなりに苦痛だ。
みんな、それぞれの友達と固まって楽しそうだ。知らない人と隣り合っててもグループ同士て仲良くなっていく。みんなオシャレで同じようなカテゴリーに属している。ここにいない共通の知り合いの話をして意気投合してる。
一つのピザを分け合うだけで、楽しそうに見える。
どこにも所属していないのはわたしだけ。あのピザ食べたいけど、手が出せない。
わたしはひたすら、自分の目の前にあるオードブルをチビチビ食べて、ワインを飲んでいた。お酒に強いわけじゃないので、同じくらい水も飲んでいた。
お腹がちゃぽちゃぽになってしまった。
退屈なのでトイレに行くことにした。
入り口横、レジと反対側の通路奥にトイレがある。
ドラマとかでは、こういう時に「二人で抜け出さない?」って男に誘われたりするんだよね。わたしは、ガラス戸の入り口やトイレの前を見た。無意識に隣の男がいればいいのにと探していた。
いや、いや、二人で抜け出したところで、照明の明るいところにいたら「もっと可愛い子かと思った」とか言われてしまうかもしれない。
くだらない期待はやめとう。
わたしはトイレに入った。
店内はイタリア風でオシャレだが、トイレは清潔感重視か無機質でオフィスみたいだ。個室から出ると、二つある手洗い場のもう一つに、オシャレ軍団の一人が手を洗っていた。
並んで鏡に映る姿を見ると、同じイベントに参加しているようには見えない。
手を洗って、鏡に映る自分を見てふと思い出す。
先月、職場のトイレに居合わせた後輩に「あの人」の近況を聞いた。わたしと付き合っていたことは知っていたのか、知っていても知らないふりをしてわざと言っているのか、ただ「この間、係長に会ったって人に話聞いたんですけど」的な話で、丁寧に報告し始めた。
既婚者である同じ部署の上司と付き合っていた。三ヶ月前、彼の転勤を機に関係は終わった。その後輩の情報によると、転勤先で子供が生まれたという。
『妻とは別れる』
最も信用してはいけない言葉にすがり、二年も付き合ってしまった。
遠距離になったので仕方なく終わらせた関係だと、自分は愛されていたのだと思いながら別れを受け入れていたのに、子供が生まれた。いろいろ逆算すると、自分と関係していた時、妻が妊娠中であったという最悪なパターンだったことを知る。もう二度と会うことはないだろう。
元々人の道に外れていた恋だけど「そんな男とは別れて当然」以外の慰めが得られない状況は、今の自分を支える救いが一つもない。
信用してしまった自分を責めたくなかった。
二年間、幸せだと感じていたから。
隣で手を洗っていたオシャレな人は先に出ていった。
無機質なトイレで一人、どうしようもない孤独感が押し寄せてきた。
友達の結婚式の二次会で、失恋を思い出して泣き出すなんてバカ過ぎる。
やっぱり、仕事だって言って帰ろう。
人の幸せを見れば、幸せな気分になれるかと思ったが、このアウェイ感は傷口に塩を塗るようだ。
わたしは鼻を思いっきりかんで、トイレを出た。
レジ前を通ると、平服の男が外から入ってきた。
「トイレ? 顔色悪いけど大丈夫?」
「大丈夫です」
「そう。飲み過ぎた?」
「はい。つまんないで、飲むか食べるしかなくて」
オシャレな人たちから距離があるので、わたしは少し毒を吐きたくなった。
「そっか。俺は会社から電話だよ」
右手に持ったスマホを軽く振って嫌そうに言う。店の外で電話していたようだ。入り口すぐは喫煙所になってるから、たばこを吸わない人は、もっと離れた場所にいくだろう。
「忙しいんですね」
「ほんと、社長がクソで」
「ブラック企業ですか」
「いや、そういう系ではない。俺は信用されてる証拠だと思ってるけどね」
「ええ、大丈夫ですか?」
「社長はクソだけど、専務は、俺の第二の母ちゃんみたいなんだ」
「へえ」
「母ちゃんに頼まれると、俺、頑張ってしまう」
「それなりにアットホームじゃないですか」
「え? そう言われるとそうだな」
男は、また一本取られたみたいに笑った。
そんなに上手いことを言ってないのに、粋な会話がデキる女みたいに思わせてくれるこのノリが心地いい。
「意外といい奴なんですね」
「だろー。なのに、誰も嫁に来ない」
意外とはなんだ!と反論するかと思ったら、素直に肯定して自虐的になる姿にちょっとキュンとした。
独身か。
わたしも誰ももらってくれないんです、と言おうと思ったがやめた。わたしの自虐は、自分で自分の傷を広げかねない。
とりあえず笑った。
「ねえ、公園入り口の焼き鳥屋って行ったことある? なんか、すっげーキレイになっててびっくりした」
男は久しぶりに会った親戚のおじさんが、女の子の成長ぶりに驚くかのように言った。
井の頭公園の入り口に八十年の歴史を誇る焼き鳥屋がある。入ったことはないが、何年か前に改装しておしゃれ居酒屋みたいになっていた。そこのことだろう。
「行ったことはないです」
「大学の時さ、あいつとよく行ってたんだ。もっと汚ねえ店でさ」
男は、懐かしそうな目で遠目に新郎を見てる。
あのオシャレな新郎も、汚い店で飲んでたんだぜと言いたいようにも聞こえた。
「あとで一緒に行かない?」
「え、わたしとですか?」
さりげなく誘われた。
旧友である新郎の素朴アピールかと思いきや、お誘いの導入部だったとは。わたしは戸惑いつつも、何かが始まる予感に鼓動が早くなっていくのを感じた。
「久しぶりにあそこの焼き鳥食いたいんだけどさ、おしゃれすぎて一人じゃ入れなくて」
おしゃれすぎる店といいつつも、焼き鳥屋。ここにいる人たちの中では、わたしが一番店に馴染むだろう。わたしと行きたい理由として納得できる。
「それに、他に友達来てないんでしょ」
ドキッとした。
まあ、誰だって見ればわかるけど。
「はい。正直、帰ろうとかと思ってました」
「俺もぼっち。なんか会社の人たちばっかりでもつまんないよな。飲み直したい」
これは、ただ単に焼き鳥屋に行きたいだけじゃない。わたしと行きたいって意味に受け取ってもいいでしょうか。自分に聞く。
司会者の寒いギャグにも笑っていたので、それなりにこの空間を楽しんでいるように見えた。飲み直したいと思うぐらいだったとは、ちょっとびっくりした。つまらなそうにしてたら、友達が悲しむという配慮のようで、印象が変わっていく。
調子のいいことを言っている人だと思ったけど、友達を大事している。新郎がどうしても来てくれといったんじゃないかと勝手に想像してしまう。
『平服でお越しください』
この言葉が呪いのようで会場の雰囲気に耐えられなかった。呼んでくれた友達に対して、祝いたいはずなのに苛立ってた。けど、見た目も含め自分の社交性のなさが悪いんだとどこか諦めてやりすごすしかないと思った。
実際、ちっともやり過ごしていなくて、不満がにじみ出ていたかも知れない。ひとつ嫌だなと思うと、嫌なことが芋ずる式に思い出されて、自分がどんどん惨めになっていく。トイレで失恋をおさらいまでしてしまう自分のダメさをお持ち帰りして、今日の日を合コン並に悔やむのだろうと思っていた。
だけど、平服の男の出現で「君は悪くないんだよ」と言われたような気がした。肩の力が抜けていく。この男が、居心地の悪い場所から救い出してくれる心優しい紳士に見えてきた。
別に、新しい出会いとか、独身とか、そういうの考えないで、ここから抜け出して飲み直したい気分だ。
「いいですね。チーズとワインもういいから、焼き鳥とビール行きましょ」
「やった」
嬉しそうに男は笑った。
三次会のカラオケに行く一行に背を向け、わたしは男と公園口の焼き鳥屋に向かった。
焼き鳥屋の外観、入り口は料亭のようだった。以前の面影が全くなさそうな清潔感のある店内、おしゃれな照明に男は驚き緊張していた。しかし、変わっていないメニュー、味に、嬉しそうに目を細め、学生時代に戻ったかのような笑顔を見せた。
その笑顔にわたしはなんとなく癒やされながら、老舗の焼き鳥屋の味を堪能した。
二杯目のビールを注文する頃、友人からメールが来た。
来てくれて本当に嬉しかったというお礼と、会社の人たちの内輪ウケに対する謝罪みたいな内容だった。幹事である新郎の同僚が暴走したんだと察しは付く。新婦が気にすることではないが、気に掛けてくれたことが嬉しかった。わたしは友達ランキング上位に最初からいたんだと思ってもいい気がした。たとえ一人でも来て欲しいと思われたかなと。卑屈になって友情を疑ったことを申し訳なく思いつつも『平服で行ったおかげでイイ出会いがありました』と少しの嫌みをこめて返信した。
そして、そこから平服の彼との交際が始まった。
……始まったのだろうか。
連絡先を交わしたけど、再び会う約束もないまま1ヶ月が過ぎた。
昼休み、わたしは給湯室で、インスタントカフェオレを入れたカップにポットのお湯を注いでいた。今日のランチは自分の席でコンビニサラダとサンドイッチだ。
後輩と他の部署にいるその子の同僚が、カップを持ってやって来た。ポットに用らしい。
別に、わたしなんぞに聞かれても問題ないんだろう。二人は、最近付き合い始めた彼氏のことを話し続けている。
「最後のメッセージが<仕事忙しい。時間できたらこちらから連絡する>だよ」
「それって<そっちから連絡してくるな>ってやつじゃん」
「やっぱり」
「永遠に連絡こないね」
「だよね。しつこく送ったら既読にもならないもん」
「それは終わってる」
え。
ゴゴゴゴッゴボッ
ポットのお湯がなくなった。
動揺して給湯スイッチを押し続けていた。お湯が切れてくれて良かった。危うくやけどするところだった。
「ごめん、お湯なくなっちゃったみたい」
「あ、いいですよ。私たち、入れておきます」
「ありがとう、よろしく」
その話、もっと聞きたかったが、わたしは給湯室を出た。
ああ。終わっている。
彼からの最後のLINEは「仕事が忙しくてなかなか連絡できなくてごめん。時間ができたらこちらから連絡するから待ってて」だった。
彼女たちによると、これは微妙な男女関係における信用してはいけない言葉の代表例らしい。確かに、永遠に連絡が来なくても、ウソはついていないことになるから、自然消滅決め込むにはいい言葉だな。
浮いてる会場での暇つぶし相手だったのに、一人じゃいけない焼き鳥屋に入るための女だったのに、うっかりノリでLINE交換などしてしまった。酔いが覚めて見たら全然タイプじゃないし、連絡してこないでくれ、忙しさを理由に自然消滅させよう……。そういうことだ。
わたしは彼の言葉を信用して「OK」のスタンプを最後に、こちらからメッセージを送信しなかった。未読のままか既読スルーされるかも確かめていない。
アットホームな職場の場所や住んでるアパートの最寄り駅、細かいことは何も聞かなかった。電話もしちゃいけないような気がするし、会いに行くとか、彼女っぽいこともできない。
そもそも、付き合ってもいないのか、わたしたち。
冷静に考えてそんな気がしてきた。
お互い独身だってことを確認して、焼き鳥を食べただけじゃないか。楽しいね、また会いたいって言ったけど、会う約束はしてない。
わたしは始まってもいなかった恋の終わりを受け入れた。
何を信用すればいいのか、分からなくなってきた。
席に戻り、カフェラテをコースターに置いてスマホを見た。
今日もメッセージは来ていない。
コンビニのサラダのふたを開けた。付属のドレッシングのマジックカット「こちら側のどちらからでも切れます」は、信用してはいけない言葉だ。いつもいつも切れない。
なのに、今日はやたら切れ味が良くて、力入れすぎたら中身が飛び出してた。服に思いっきりはねた。地味な平服に茶色い水玉模様がつき、ほのかにタマネギの匂いがする。
ドレッシングのタマネギなのに、涙が出てくる。
さらに1ヶ月が過ぎたころ「仕事がひと段落ついたので会いたい」と彼から連絡が来た。諦めきっていたので、何も感じなかった。スタンプ欲しさに友達に追加した洋服屋のセー
ルのお知らせと同じくらいに思えた。
社交辞令の「また会おう」を律儀に実行してくれた、二次会で知り合った人に会う。そういうつもりで、わたしは彼に会うことにした。
待ち合わせのカフェで少しやつれた彼は嬉しそうに笑った。
「何も疑わずに待ってくれた人、初めてだよ」
「え?」
「いつもさ、忙しくて連絡できないっていうと、スタンプ送るぐらいできるだろうとか、他に女いるんだろうとか、本当はもう好きじゃないんだろうとか、どんどん想像で悪い男にされて一方的に振られる」
「はあ」
「俺の言葉、信用してもらえないんだよね」
彼は人懐っこい笑顔で一方的に喋った。
世の中のイメージとして、この笑顔はメールとか秒速で打って軽く返せるマメな男に見える。疑ってしまう元カノの気持ち、分からないでもないと思った。
だけど『アットホームな職場』で正直すぎて忙しい日々を送っていた彼の余裕のなさも想像できた。
疑う以前に信用しないようにしていただけなのに、彼にとってわたしは自分を待っててくれる最高にいい女に仕上がってしまったようだ。
わたしを信用してくれた彼が、ものすごくいい奴に思えた。
つまりは、わたしたちは、付き合ってたってことでいいでしょうか。自分に聞く。
一人で彼を待っていたカフェの店内と、今この瞬間、自分の目に映るものは、何も変わっていないのに、まったく違う場所にいるような気がしてきた。
長いことサングラスをしていて、やっと外されたような感じだ。
「わたしが信用して待ってたと思うんですか?」
「え。あ。別にそういうことではないのか。あ、今日、来てくれたのは」
彼の顔が不安そうになっていく。また振られる予感でもしてる顔だ。
最近、常に振られる側だったわたしは、不安になっていく彼の姿が愛おしく映る。自分が主導権を握っているのが楽しくなって、少し芝居がかった先生口調で言ってやった。
「どれだけ忙しくて、連絡ができなかったのか、怒らないから正直に話しなさい」
「うわ、それ、絶対信用しちゃいけないやつだ。絶対怒るでしょ」
「怒られるようなことしてたんだ」
「ごめんなさい。疲れ果てて一人で温泉旅行とかは行きました」
「なにそれ」
「ああ、でもすべての通信機器の電源を切ってたんだ。だから」
調子に乗っていたずらをした生徒のように、彼はわたしの前で小さくなっていく。
わたしは、なんだか可笑しくて笑った。
「え、なんで笑うの」
「怒ってないから。信用して待ってましたよ」
「ほんとに?」
「ええ。だって平服で着た人なんだから信用します」
わたしは、終わりを勝手に受け入れていた恋をまた始めるために、待っていた女を演じた。勉強したのにしてないと言い、おしゃれしてきてるのに平服だと言い切る人のように、あざとく。
「よかった」
彼はわたしが焼き鳥屋に行く誘いに乗った時みたいに、嬉しそうに笑った。
「専務、第二に母ちゃんは、息子の将来どう思ってるのでしょうか」
「どうって?」
「仕事忙しくてデートもできない。嫁どころか、恋人にも振られる。それ話したら、少しはお休みとかくれるんじゃないんですか。あ、それとも本当は娘がいて、くっつけようって計画があるとか? でもタイプじゃないから実は逃げてる?」
「違う違う。子供は男だけ。現社長がその息子なんだ。そいつが使えないの。だから母親である専務が頑張ってる」
「息子か。それで家父長制の男尊女卑なの?」
「うん。社長はまだ四十代で、頭はいいんだけど商売向いてないっていうか。社長の器じゃないんだよね。若いのに新しいこと考えないで、先代がやってきたことなぞってるだけだから。男尊女卑思考は引き継がなくていいのに」
「そうなんだ」
「※印つきの、実質0円!みたい」
「どういう意味?」
「四十代若手社長。といいつつ実権は六十代の母が握っている」
「はあ」
「社長が若くていいと思いきや、中身は変わらず、いや、むしろ前より大変だけど、そうは言わない。もう大変」
「全米が泣くね」
二人、笑った。
もっともっと、一緒に同じ時間を過ごして同じものを見て、同じ言葉を交わしたい。この人の言葉を信用して、私の言葉を信用されるように。
彼と、一般的なイメージのアットホームな関係を築きたい。そう思った。
終わり