仮初めの恋人
美術室に行くと三郷さんは窓際に腰掛けてぼんやりと外を眺めていた。教室ではいつも陽気に笑って大きな声で喋っている彼女とは別人のような、物憂げで孤独な存在に見えた。
見られていることを意識していない人の姿を見るというのは、ピエロの素顔を盗み見るのに似た好奇心と罪悪感に似ているのかもしれない。
見てはいけないと思いつつ、目を逸らせない、そんな感じだった。
「なんか用なの?」
そう声をかけると三郷さんは振り返った。僕を認識すると瞬時に顔の筋肉が動き、普段通りのニヒルな顔立ちに変わった。
「おー。白夜先生!」
「ちょっとっ……やめてよ」
「ごめん。御影先生の方がよかった?」
「そういう問題じゃないから」
先ほどまでの虚ろいだ気配は霧散し、三郷さんはおもちゃを手に入れた子供のようにからかってくる。それでも僕は先ほどまでの彼女の顔が忘れられず、うまく笑えなかった。
「小説、どうもありがとう」
彼女は封筒に入れた原稿を鞄から取り出して返してきた。
「えっ? もう読んだの?」
渡した分だけでも三十万字はあったはずだ。それを一日で読み終えたとは驚きだった。
「うん。ほぼ徹夜で読んだから」
「そこまでして読まなくても……」
「面白かったから止まらなくて」
サラッと褒められて素直に嬉しかった。自分の書いたものを面白いと言ってもらい、喜ばない作者はいないだろう。
「あ、ありがとう……」
「でもっ!」
にやけかけたのも束の間、三郷さんは人差し指をビシっと僕の眼前に突き立ててくる。
「ヒロインのウデラちゃんが主人公に恋をするタイミングが分からなかった」
「うっ……」
正に今悩んでいるところを指摘され、言葉に詰まる。
だが言い淀むと負けな気がして喉から出鱈目な言葉が溢れて、喉が擽ったくなった。言い訳がましいのは僕の悪癖だ。
「きっかけは書いてないけど世界の平和のために命を賭けて敵と戦ってるんだよ? そりゃ好きになるでしょ、普通!」
「そりゃまあ……そうかもしれないけど……うーん……なんか違うんだよねぇ……」
彼女は僕を差した指をそのまま口許に当てて、斜め上の天井辺りに視線を泳がした。
自分が辿り着けなかった答えを出してくれるかもしれないという期待で、固唾を飲んで三郷さんの言葉を待つ。
だが彼女の言葉は問題の解決ではなく、よりややこしくさせるものだった。
「それだったらその世界の女性がみんな主人公のこと好きになっちゃうでしょ? そうじゃないんだよね。女の子が恋をする理由って」
「まあ、それは……そうかも」
「それに恋人同士になっても二人はいつまでも経っても仲のいい友達程度にしか絡まないし」
「それは……戦いが大変でそれどころじゃないから……とか?」
自分の作品なのに憶測を語るようにぽそっと呟く。しかし三郷さんは僕の答えなど無視したように訊いてきた。
「てかさ、弓岡って彼女いるの?」
「い、いないけど……」
「じゃあ今まで何人と付き合った?」
「そ、それは……なんでそんなこと三郷さんに言わなきゃいけないんだよ?」
「はあ? 逆になんでそんなこと隠さなきゃいけないわけ?」
デリケートな話をデリカシーなく訊く人ほど苦手なものはいない。
僕は怨みがましく三郷さんの顔を睨んだ。
「もしかしてゼロ、とか?」
「悪いかよっ……」
「悪いよ、そりゃ!」
「え……?」
キレかけたら逆にキレ返されて思考が止まってしまった。勢いで三郷さんに勝てるはずがない。
「だって小説で恋愛描いてるのに恋愛経験がなきゃ書けないじゃない」
「そりゃ、まあ……そうだけど」
「印刷して製本して商品として販売するんだよ? プロとしていい加減なもの創れないでしょ!」
どうも書籍化デビューというものは三郷さんにとってかなりのものらしいことは伝わった。
しかし彼女がいないのはもう今さらどうしようもないことだ。
反論もなく、嵐が過ぎるのを待つように黙り込むと、三郷さんは面倒臭そうに溜め息をついた。
「はぁ……仕方ない。本が完成するまで私が仮初めの彼女になってあげるから」
「え? 仮初め……の、恋人?」
「仮初めって『一時的なこと、その場限りのこと』って意味」
「そ、そんなことは分かってるけど……こ、恋人って……い、いいよ、そんなのっ!」
どういう思考回路があったらそんなことになるのか、まるで理解不能だ。
しかし彼女の表情はふざけている様子ではなかった。
「よくないよ。作品の出来に関わるんだから。逆に言えばそこ以外はすごくよかったんだし、もったいないよ!」
言葉は随分と違うが、編集者さんと同じ意見を言われて動揺してしまう。
「でもそんなことで……疑似とはいえ恋人に?」
「仕方ないでしょ。それともこれから出版までに急いで彼女作る? 出来るの、そんなこと?」
「それはっ……難しいけど」
「でしょ? だったら取り敢えず私で我慢しなさい」
いきなり肩をガシッと掴まれる。
真正面から大きな双眼に射抜かれると、恋愛レベル2の僕は情けないことに身体が固まってしまう。
「ちょっとっ……顔近いからっ」
「わかったの? 返事は?」
「は、はい……」
しどろもどろに答えると三郷さんは「よろしい」と言って肩を離した。
こうして僕と三郷瑠奈との小説のための疑似恋愛生活がスタートしてしまった。
疑似恋愛を恋愛経験と呼べるのかとか、僕と三郷さんは根本的に合わないとか、そもそも恋愛描写を書くのに絶対に恋愛経験がいるのかとか、この時そんなことを考える余裕がなかった。
だがそもそも僕には三郷さんではない好きな人がいる。そんな状況で偽の彼女なんて作っていいものなのだろうか? それが一番の不安だった
とはいえなんの抵抗も出来ない僕は、ただ流されるように三郷さんの勢いに押されていた。