羞恥の口止め料
三郷さんはアーモンド型の大きな目に好奇の色を浮かべながら顔を近付けてくる。光に晒されて金色に見えた髪は日陰で見れば当然黒い。
スカートはかなり短めに着こなしており、胸元はボタンを外して広めに開襟してしまっている。普段女子と接しない僕は自然な視線の置き場も分からずに狼狽えてしまった。
「ねぇねぇ、弓岡って小説出版するの?」
「声っ……大きいからっ……」
「誰もいないから大丈夫だし」
注意された彼女は面白くなさそうに唇を尖らせる。ずいぶん親しげに話し掛けてくるが、僕と三郷さんはほとんど会話もしたことがない間柄だ。
三郷さんはクラスの女子の中心グループにいる、いわゆるスクールカースト上位で、僕はそのカーストで最底辺を支えるような存在だ。
「お願いだからこのことは誰にも言わないで」
「えー? なんでよ? 同級生が小説家になるなんて凄いことなのに」
「小説家になるんじゃないよ。本を出すだけ」
「それが『小説家になる』ってことじゃない」
不思議そうに首を傾げる姿は餌を啄みに来た小鳥のようだった。
どうやらからかってるわけではないらしい。確かに言われてみれば本を出せば小説家なのかもしれない。僕にはそんな自覚は全くなかったけれど。
「そもそも守秘義務があるから内緒にしてないといけないんだよ」と大人の理由を告げると「なるほど」と手のひらに小さく拳を打って合点した。
「じゃあこのことは二人だけの秘密だね」
思いの外すんなりと従ってくれて安堵したが、その判断は些か甘かった。
「はい」
三郷さんは手を差し出して何かを要求してくる。
「え? く、口止め料っ!?」
「はあ? なに言ってんの? 小説。読ませてよね」
当たり前のように言われて唖然とした。自作小説を同級生の女の子に読まれるくらいなら口止め料を払った方がマシだ。
「い、嫌だよっ……なんで見せないといけないんだよ」
「あっそ。そういうこと言うんだ?」
そっちがそういう態度ならこちらにも考えがある。三郷さんはそう言うように不穏に笑った。
ほとんど会話などしたことがないのに、数年来の友人のように気安く接してくる。そういうところがまた苦手だった。
でも彼女の態度にはスクールカーストなんて気にした様子もなく、小馬鹿にした感じも侮った口調もないのは、少し嬉しかった。
「わ、分かったよ。絶対内緒にしてよね」
仕方なく原稿を渡すと三郷さんはにんまりと笑ってペラペラと捲る。
なんだか嬉しそうだ。
「三郷さんって小説好きなんだっけ?」
「ううん。全然。ほとんど読んだことないけど?」
制服の上に羽織った絵の具だらけの白衣が物語るとおり、彼女は美術部である。同じ文化系なので小説にも少しは興味あるのかと思っていたが、そうでもなかったらしかった。
そもそも彼女の溌剌としたショートヘアや明け透けな性格、肌を無駄に露出させた制服の着こなしなどが、僕の定義する文化系女子から大きく逸脱している。
まあ僕の定義する『文化系女子』のイメージが著しく古臭く、偏見に満ち溢れているのも否めないけど。
「じゃあなんで僕の書いた小説なんて読むんだよ?」
「だって同級生が小説家になるデビュー作だよ? そりゃ読みたくなるでしょ、フツー」
機嫌良さそうに口笛を吹きながら書類を鞄にしまうと、三郷さんは「カイコウ、だっけ? 頑張って! じゃあねー」と去って行った。
元々掴み所のない変わった人だと感じていたが、その認識はこの出来事で更に強いものとなった。
困ったことになったが、こうなってしまったからには彼女を信じるしかない。お世辞にも信頼出来るタイプとは思えないけど。
────
──
胸騒ぎがする僕は図書館に行く気にもなれず、結局そのまま帰宅した。そして妹が部屋で大人しくしているのを確認してから、部屋に籠もって改稿作業を進めていた。
案の定恋愛シーンに関係のない部分の加筆修正や冗長な部分の削除などは問題がなかった。
それどころか宇佐美さんに指摘された部分を直していくと、素人が個人で書いた感丸出しの小説がすっきりとしつつも奥深いものへと変わって行くのを感じられた。
「うーん……やっぱり問題は恋愛のとこだよなぁ」
修正箇所がそこに行き当たるとキーボードを叩く指が止まってしまう。
『ヒロインが主人公を好きになっていく過程』というのは、言い換えれば『女の子は男のどういうところに恋をするのか』ということだ。
それが分からないから高校二年の秋まで彼女の一人も出来なかった僕に、誰が読んでも納得してときめくような描写をしろというのは酷なことだ。
「結局顔や見た目、じゃないのかな……」
散々悩んで出した答えがそれだった。『モテる男とは見た目がイケてる男』という発想からしてモテない男丸出しなんだろう。
そもそもヒロインが主人公を好きになる理由が『端麗な容姿』だなんて小説に書いて感動して貰えるはずもない。
描かない方がマシなレベルである。
いっそ編集者の宇佐美さんに「彼女もいないし恋愛経験皆無なんで恋愛シーンを深めるなんて出来ません」と正直に言ってしまおうか。
(って言えるわけないし……)
それに異世界に転生する話を書いてる時点で、経験の有無を理由にするのはおかしいだろう。
でも僕にとって何度も本で読んだことのある異世界転生の方が恋愛よりはまだ現実味を感じる。それくらい僕にとって健全な男女のラブストーリーはファンタジーだった。
(あぁ……どうしたらいいんだ……)
モテない方法ならいくらでも思いつくけど、それはモテる方法が分かるという逆説にはならない。
たとえば女の子にフラれる五十の方法を体験で学んだ男は、次にその教訓を活かして彼女が出来る可能性より、五十一個目の教訓を学ぶ確率の方が高い。
失敗例を並べてみたところで成功が見えてくるとは限らないのだ。それでもフラれた経験すらゼロの僕よりは行動を起こしている分だけ、マシなのだろうが。
とにかく世の中モテる奴は更にモテていくし、モテない奴はどんどんモテなくなる。そういうもんだ。
悩むだけ悩み、書いては消しを繰り返し、結局恋愛パートは一文字も進まないその日の改稿を終えた。
翌朝、教室に入るとすぐに三郷さんと目が合った。しかし彼女の方からすぐに視線を外され、なんだか避けられたような気分になる。
(昨日は自分から小説を読ませて欲しいとか言って来たくせにひどい態度だな。どうせ小説読んだら妄想が激しくて気持ち悪いとか思ったのだろう)
そんな鬱々とした妄想を抱きつつ席に着く。自分を惨めに保つことにおいては、僕は人に後れをとらない自信がある。
悲観的に考えていた方が不運な出来事があったときにショックを受けることも少ない。人よりちょっと悲しい出来事が多い気がする僕の処世術だ。
「よお、おはよう」
いつも眠そうな目をした与市が僕の席へとやって来る。こいつは僕の唯一の親友だ。
ラノベを読んでいたら話し掛けられ、それ以来の付き合いだった。
「おはよう。ってか相変わらず眠そうだね。ちゃんと寝てる?」
「寝てるよ。俺はこういう顔なだけだから」
同じ趣味を持つ同士として彼にだけは書籍化の話をしたかったが、仕事となると感情で動くわけにはいかないので堪えていた。
沢山の小説を読んできた与市ならばいいアイディアを出してくれるかもしれないのに歯痒い話だ。
ちなみに知り合いに小説を読まれるのが恥ずかしくて、そもそも小説をWeb上で公開していることすら秘密にしてある。
「なあ、与市。異世界ファンタジーに恋愛要素っていると思う?」
直接的なことじゃなければいいはずだと遠回しに聞いてみる。
しかし彼はその質問に答えず、逆に問い掛けてきた。
「なあ、高矢。肉じゃがってデミグラスソースなしでビーフシチューを作ろうとして生まれた料理だって知ってた?」
「そうなの? 確かに言われてみれば作る過程や材料は似てるかもしれないな」
「異世界ファンタジーがビーフシチューだとすれば、恋愛要素はデミグラスソースだ。それがなければ別料理になってしまう」
「そんなに大事なのかよっ!?」
「当たり前だろ。異世界に行ってチートな力を手に入れて女にモテまくって「やれやれ」。そこまでがワンセットだ。ってまあその肉じゃがレシピ発明秘話は作り話の都市伝説なんだけどな」
「なんだよ、それ……」
与市としては冗談のつもりだったのだろうが、まったく笑えなかった。
とにかく言いたかったのは、恋愛のない異世界ファンタジーはあり得ないということなのだろう。
結局その日も『愛とは何か』という、ある種哲学めいたことを考えながら一日を過ごした。
帰ろうと机の中を整理している最中、見覚えのないメモが入っていることに気付いた。
「ん?」
深海生物をディフォルメしたイラストの描かれたメモ用紙を見ただけで差出人の察しはついた。こんな不気味なものを可愛いと感じて使っている個性的な人はそうそういない。
『今日の放課後、美術室で貴様を待つ ミサルナ』
決闘の果たし状のような文面と、そのあとのふざけた三郷瑠奈さんの署名に不覚にも笑ってしまった。