落下の少女たち
空から少女が降ってきた。即死だった。
わたしは薄らぼんやりとした人間なので、たった数メートル離れたところで起こった現象に気づいたのは、パァン! という魚をまな板に叩きつけたような破裂音の数秒後、黄色い悲鳴をあげながら各自の端末で潰れた少女の写真を撮りまくる人混みの形成が終わったあとだった。
人混みが人混みを呼び、ちょっとやそっとでは近寄れない状態になってしまったので、しばらくは遠くから様子を伺っていた。
「すみません、もしもし。アーバンスクエア前なのですが……」
「どいてくださーい。写真、とらないでくださーい」
あれよあれよの、慌ただしさ。
ぼんやりのわたしも、さすがに様子が気になった。
にじり、にじり、と人混みに分け入っていく。
「自殺?」
「や、近くにそんな高い建物ないよ」
「じゃあもしかして、落娘禍?」
「あの娘、服着てなくない?」
「まじか、まじか」
「えー、ほんとに? これ、らくじょーか?」
身長の小さいわたしの頭上では、そんな囁きやら呟きやらが興奮気味に飛び交っている。誰もが頬を紅潮させていて、知らない人同士が憶測や伝聞を交わしている。
らくじょうか、という言葉が何度か耳に入り、わたしはそれが『落娘禍』を指していることにやっと思い至った。ああ、薄らぼんやり。
落娘禍という現象は、年間に世界で十例程度の発生が報告されている自然現象である。
詳しいメカニズムは未だ解明されていないが、上空の大気や、気圧配置の関係で大気中に人体が――とりわけ少女が発生し、落下してくる自然現象である。
人口密集地で発生すれば、落下してきた少女との衝突で命を落とすという不幸な事故も起こりえる。先日の『世界ギョーテン映像大祭典』というテレビ番組でも、アメリカのカンザス州でフェスティバルの会場に少女が落下してきてテントが大破するというショッキングな映像を見たばかりだ。「幸い、この事故での死者は出なかった」というナレーションが入っていたが、本当かしら。
その番組では、年間十数件たらずの落娘禍の発生報告というのは非常に少なく見積もられており、海上や人の目に付かない場所への落下を考慮すると年間五十件、下手をすると百件程度発生しているのではないか……とも言っていた。
落娘禍は昔から観測されている自然現象で、平安時代の日記文学にもすでにいくつか記述や言及が認められる。
落娘禍の語源自体は中国語にあるらしく、和語では【おとしめが降る】、ないしは長野以西での方言で【おちめが通る】だ。漢字を当てれば【落とし女】【落ち女】なのだろうが、いずれもひらがな表記が通例である。そこから転じて近代に入ると、太平洋戦争末期にはおとしめが降る頻度が異常に高かっただとか、ポップなところで言えば「落娘禍=おとしめを見ると、嫌いな相手を貶められる」だとか、そういったいわゆる都市伝説が語られるようになり、落娘禍の発生現場には肝試し半分、丑の刻参りもどき半分といった様相で黒山の人だかりが出来るようになっていった。――これは、学校の古典の授業で習った知識である。
遠くにサイレンが聞こえる。もうじき、救急隊が到着するようだ。
いそげ、いそげ……と、やっとの思いで人混みの終着点――落下してきた少女の死体までたどり着く。
特等席でまじまじと裸の少女(の死体)を眺める、肩にふけの積もったリクルートスーツの大学生の越しに、落下してきた少女をのぞき見る。
死体を見るのも、落娘禍を見るのも、はじめてだ。
トクトク、と胸が鳴った。
「あっ」
わたしは、思わず声を上げた。
彼女は、ほとんど、人の原型を留めてはいなかった。肉片と液体に変成してアスファルト上に広がる少女は、それでも背中から落ちたことが原因だろうか、顔かたちだけが奇跡的に判別できる状態だった。
少女は美しいかんばせを持って上空に発生したらしい。白い肌に、大きな瞳――もしかしたら、墜落の衝撃で眼球が飛び出ていただけかもしれないが――その、ガラス玉のような瞳が、わたしを射貫いた。
なんて、きれい。
何人かの野次馬は、そのあまりに美しい光景に耐えきれずウプウプとえづいたかと思うと、げぇーっと勢いよく吐瀉物を発射した。ゲロって我慢すればするほど勢いよく吐いでしまうよな、と観光バスに乗るたびにエチケット袋のお世話になるわたしはそれを横目に評論家気取りで思った。
「はい、どいてください! 離れて、離れて!」
到着した救急隊が、慌ただしくブルーシートで少女を秘匿する。
わたしは、そっと場を離れた。次の電車に乗らなくては学校に遅刻する。
地下鉄のホームに駆け込み、冷房の効いた電車に乗り込んだ。下り路線の通学電車は、朝の時間帯にもかかわらずそこそこに余裕がある乗車率なのだ。
腕時計を確認する。セーフ。
電車がゆっくりのGを発生させつつ動き出す。
ふいに、まさかセーラー服に血やら脳漿やらが飛んでいたりしなかろうな、と気になった。
***
「これが、わたしの原風景ですね」
記者がふむふむ、と真剣な表情でメモを取る。
「なるほど、いまや世界的な落娘禍研究家である桂木キララ教授の」
「准教授」
「失礼、桂木キララ准教授の原風景は、ご自身が実際に体験された落娘禍である……と」
記者はわたしよりも5歳前後年下の女性だが、嫌に早口で喋るのが気になった。小学生のときに一瞬だけ、ノートの文字を出来るだけ小さく書けば書くほど「字が上手認定」されるという時期があったけれど、早口であればあるほど仕事が出来る認定されるとかいう文脈なのだろうか……と勝手に彼女の価値観と労働環境とを心配する。
数年前ならばこう言った類いの記者が研究室を訪れることは考えられなかった。あまりにありふれた現象である落娘禍を、防災や気象予報の見地からではなく、落下してくる少女達そのものにフォーカスして研究をするということ自体が非常にマイナーな学術分野なのだ。
わたしの発表した論文も非常に地味なものであったはずなのだが、数年前に業界紙に投稿した論文が示唆した内容がセンセーショナルに一般メディアに取り上げられたことで、こういった取材の依頼が入ってくるようになってしまった。
上空で発生してから地上に落下する瞬間まで、落下してくる少女には意識がある。
――専門家からすれば、どちらかというと今までの推測が事実であることを証明するべく行った一連の研究だったのだが、世間一般の反応は違った。
いままで、落娘禍に対しての認識はただの自然現象であり、上空で発生した少女はあくまで雨粒や雹と同様の無機質な物質として扱われていたのであった。
わたしの論文によって、彼女たちは墜落のその瞬間まで意識があり、おそらくは自我を持った個体として生存しているということが世の中に知れ渡ると、世間はありふれた災害のひとつである落娘禍に対して、非常にセンシティブでヒステリックな議論を始めたのだ。
人権団体、医療団体、福祉団体。そのあたりが議論の中心となり、世界中で【落下の少女たち】を救えという論調が強まってきている。
「ええ、まあ。原風景は原風景なのですが、件の論文で取り扱ったテーマ……落下の少女たちの意識や自我について考え始めたのは、もっと別の理由があります。というか、むしろ今後の研究で落下の少女の自我や、救命活動の必要性について疑問を投げかけていきたい――個人的にはそう思っているんですよ」
記者はわたしを睨み付けるように見つめながら、手元も見ずにメモをとる。今まで語られなかった新事実……そんな匂いをかぎ取ったのだろうか、鼻孔がひくひくと膨らんでいた。
***
落娘禍を生まれて初めて目の当たりにしたその日、セーラー服には一点の汚れもないことを確認したわたしは、日常をなぞるように学校へと向かった。ホームルームは規律正しく行われ、授業も粛々と進行する。
五時間目の数学の授業では順列組み合わせについての基礎的な説明が行われていた。けれども、わたしの頭を支配していたのは、CでもPでもなく、落下してきた少女の汚れのないかんばせとどこまでも透明な瞳であった。
また、会えたらいいな。
六時間目の倫理の時間。黒板に黄色いチョークで書き付けられたヴィトゲンシュタインという文字列を眺めているとき、わたしは非常に奇妙なことに気づいた。
わたしは、落娘禍にまた会いたい。
わたしは落娘禍に、落下してきた少女に恋をしてしまったのだ!
放課後のカフェで、わたしは興奮気味にそのことを当時の友人に話した。栗色の髪を縦ロールにセットした、煌びやかで麗しい少女だった。生まれて初めて目撃した落娘禍の血と脳漿が、ひどく美しかったという話を臨場感たっぷりに話したせいで、彼女は食べ終えたばかりのサンドイッチのほとんどを、その場で吐き戻してしまった。
「ぅおえっ」
店内騒然。
「うわ。汚いっ、やめてよほんと」
わたしは猛抗議したが、彼女の繰り出す平手打ちをもろに右頬に食らったうえに、差し出してもいない左頬までひっぱたかれて完全に沈黙。酷すぎる。
「あんたがやめろよ、気持ち悪い」
友人は、きっぱり、はっきり、そう言った。
かくして、美しい落娘禍へのわたしの恋がいわゆる「異形」のものであることが友人の吐瀉によって証明されてしまった。なお、後年、あるキワモノロックバンドの熱烈なファン代表として地上波に15秒だけ映ったのを目撃したのが、卒業後の彼女との唯一の接点である。嗚呼、友情とはかくも儚い。
なお、この放課後吐瀉事件があっという間に学年中に知れ渡ったせいで、わたしは高校を卒業するまで変わり者のファニーガールとして同級生たちから一歩も二歩も距離を取られる生活を送ることとなってしまったことは、いうまでもない。
ああ、ぼんやり。ぼんやり。
――また、落娘禍に会いたい。会いたい。会いたい。
突発的に訪れた孤独な日々の中、わたしの思いは日に日に強くなっていった。
孤独は勉学の友である。
わたしは落娘禍の研究家を志した。幸運なことに落娘禍現象の権威と呼ばれる研究者が首都圏の大学に勤務していた。彼――夏目川浩二は、当時S大学の准教授であった。やや偏差値の高い大学ではあったが、孤独を味方につけた受験生に不可能はなかった。
華の女子大生として夏目川の小さな研究室を訪れたわたしは、思わずうっとりと涎を垂らした。彼の研究室には、ホルマリン漬けになった落下の少女たちの破片が至る所に陳列されていたのだ。眼球から、臓器から、腕まで、あらゆる器官が揃っていた。わたしは、学部生の頃から夢中になって研究に勤しみ、夏目川の研究室に入り浸った。当然のように大学院の修士課程、博士課程に進み、ポスドクとして大学に通い続けた。
――わたしが夏目川と男女の関係になったのは非常に自然な流れだった。
「綺麗だ、君は綺麗だ」
夏目川は、私を抱くときにいつもそう繰り言を発していた。そんなときには私は決まってこう聞き返すのだ。
「落下の少女たちよりも?」
そう言うと、彼は絶対に酷く傷ついた顔をする。わたしはその表情を気に入っていた。
彼の小さなおちんちんをいっぱいに使ったセックスは気持ちが良かったけれど、実際のところ一番気に入っていたのは彼のコレクションしている落娘禍の欠片たちに囲まれながら行為に及ぶことだった。
彼のコレクションの中には、あの日わたしが目撃した落下の少女も含まれていた。国内で発生した落娘禍のサンプルのほとんどは、夏目川のもとに送られてくる。
視神経や周辺組織が無事に採集できた貴重な例として保存されていたのだ。ふやけた皮膚や肥大した眼球は、あの運命の日に見た彼女の震えるほどの美しさには遠く及ばなかったけれど、わたしの心は満たされていた。
クローン技術を取り入れることで、落娘禍研究の分野は飛躍的な発展を遂げた。
「すごいよ、キララ。これで落下の少女たちを再現できる」
理学実験の許可が下りた日、夏目川は興奮して赤ワインを傾けていた。
「落下の少女たちの自我や意識の有無については、先行研究や君の研究によってほぼ結論が出ているけれど、実際に彼女たちが『人間』と呼び得るかどうかはかなり哲学的問題を孕んでいるから」
「そうね、落下の少女たちが墜落時に意識を保っていた例は報告されていないから。彼女たちがどういった知的レベルなのかとか、そういったことがクリアになるわけだわ」
「そうさ。彼女たちは、胎児や嬰児を経ずに、ぜったいに少女として出現する。気象分野だけじゃない。生殖や医療の問題を解決する糸口になるかも――人類全体への福音になる可能性もある」
実際のところ、落娘禍の発生を人為的に再現することは今の技術では不可能だ。
気をよくした夏目川は、まるでそういった技術的な課題がすべて取り払われたかのような口ぶりだった。
理学実験が開始すると、落下の少女クローン第一号はすくすくと育っていった。サンプルには、あの日の少女が使用された。
あの、美しいかんばせに再会することができる。
わたしは、胸を躍らせた。
「死ね、死ね、死ねよ!」
だから、目の前に夏目川にそっくりの鼻をした少女が現れてそう絶叫した日もわたしは夏目川研究所にいた。クローンの成長を逐一記録したかったのである。
ぶしつけにも急に研究所にやってきて、こうしてぎゃーぎゃー叫んでいるこの少女は、まぎれもなく夏目川浩二の娘であった。
夏目川の家庭生活が破綻に近い状況であることは知っていたけれど、こういった事態になるまで、わたしにとって実感のないことであった。
敵意というか殺意というかそういった激烈な感情は嫌いだ。それが自分に向けられた者であればなおさら嫌になる。
「あの、あなたは夏目川さんの娘さんですね」
「そうよ! とぼけたこと言わないで、この売女!」
夏目川ドーターは父親と違って非常に感情的な起伏に富んでいて、彼女はその後も飽きることなく、父親をかすめ取った女を責め立て続けていた。
その日、夏目川は海外出張に出かけていて帰国は四日後と聞かされていた。
ああ、また。ぼんやり、ぼんやりだ。わたしはため息をつくと、少女はさらに甲高い声を上げた。なんて醜い。―――それから、何があったか。ぼんやりとしたわたしには、ぼんやりとした記憶しかない。
次の日、わたしは出張中の夏目川に代わって、S大学のキャンパス内に発生した落娘禍の見聞をした。落下の少女のかんばせは、どこか夏目川の娘に似通っていた。
即死した少女の見開かれた目は、やはり、どこまでもどこまでも、美しかった。
***
「結局、クローン実験も失敗におわりました。クローンは九十一時間足らずで死んでしまいましたし、意識を保っていた二日間のあれは……どうにも醜いものでした。人の形をして、意識を持って――わたしが恋に落ちた彼女と同じ顔なのに、似ても似つかない」
しかもですね、とわたしは続ける。
「S大学構内で起きた落娘禍から採集した脳から、非常に明確な『落娘禍には落下の直前まで意識がある』っていう痕跡のデータがとれてしまってね。研究者としては、発表せざるを得ないですよね」
記者は真っ青な顔で肩を震わせている。
「でも、個人的には落下の少女には意識なんていらないと思っているんですよ。記者さん。だってね、あの日わたしに死ねと叫んだ夏目川の娘は、すごく、すごくすごくすごくすごくすごくすごく、醜かったんですよ」
ゆっくりと足を組み替えると、記者が大袈裟にびくりと身体を震わせた。
「そういうわけで、わたしはこれからも落娘禍現象の研究を続けていきたいなと。ライフワークにしたいなと。わたしの原風景――おわかりいただけました?」
長い沈黙。記者は、今にも消え入りそうな声で口を開いた。
「……桂木教授、」
「准教授」
「………っ、あなた、そんなこと許されるとでも」
正義感と、嫌悪感に燃える瞳。ああ、たまらない。
「……っぷ、うふふ、んっふふう」
わたしは、思わず吹き出してしまった。
「あっははは、記者さんってば」
「え……?」
「ふふ、ぜんぶ冗談に決まっているじゃないですか。そんな怖い顔しないで」
そう言ってスマホで盗撮した彼女の怯え顔を見せつけると、やっとのことで記者は大きく息をつき、「は……、はは」と乾いた笑いをあげた。
その顔があまりに傑作で、あまりに傑作で……ホルマリンに漬けたくなった。わたしが愛する、即死体のように。
今日も、空から少女が降ってくる――その少女たちは、即死する。
即死でなくては、ならないのだ。