ピンボケ空
昔に見た、異常に真っ赤な空が今でも忘れられない。
※他サイトに掲載していたモノを引っ越ししました。
ある男がいる、その男には家族がいる。
小学生と思われる6~7歳程の年齢の女の子が一人。
それと、黒縁のメガネがよく似合う真面目な雰囲気を漂わせる妻と思しき女性が一人。
その男は正確に言えば「男」である確信は無かった。
だけど、家族だと推測出来る二人の人間から出来る構成を踏まえれば、まずその男は、父親であり、「男」なのだろう。
その男はどこに住んでいて、どんな仕事をして、どんな生活を送っていたかは分からない。だけど、一つだけハッキリと分かることがある。
それは、この男は近いうちに死ぬだろう。ということ。
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私は半年前に信号を無視して飛び出してきたバイクにはねられ、怪我を負い、右目を失った。
ポッカリと空洞になってしまった右の眼窩には義眼がはめ込まれている。
当然だけど右目は動かすことができない。
左目だけが地球儀のように動かすことが出来るのに、右目はいつも真っ直ぐに虚空を見つめている。
それを人に見られることがたまらなく嫌なので、常日頃からサングラスをかけるようになった。
もともと人付き合いが苦手な私は、ますます対人恐怖が増幅されてしまい、まる一週間誰とも顔を合わせなかったということもザラにあった。
隻眼になる前は自宅でフリーデザイナーの仕事をしていたが、今は仕事をする気にはなれず一日中部屋にこもって趣味のイラストを描いて過ごす毎日。
貯えが十分にあった為、今のところはそれだけでなんんとか生活をしているが、うかうかしてはいられない。一日でも早く仕事に復帰しなければならない。
しかし、右目と同時に仕事への情熱というか、生きていく「ハリ」というモノすら失った感じがして、中々社会人としての出戻りが出来ずにいた。
そんなモヤモヤした気持ちを抱きながら、日々を徐行運転で過ごしていたある日、私は不可議でいて、妙な現象に出くわしたのだ。
■ ■ ■ ■ ■
ある日、私はちょっとした好奇心で、まだ光がある左目を手で隠し、右のまぶたを大きく開かせて見た。
その時はただ、「何も見えるワケないか。」などと心でつぶやき、終わらせるつもりだった。だけど、その何気無い、ちょっとした行為が想像もしなかった成果をあげた。
見えたのだ。
何も見えない。何も感じないハズの右目から、風景が見えたのだ。
文字通り我が目を疑った。その時私は自宅の風呂場にいたハズなのに、右目から感じ取った視界には見知らぬ部屋の天井が見え、四角い傘がついた古めかしいタイプの蛍光灯も一緒に確認できた。
さらに奇妙なことに、その時私は湯船に使っていて水平な真横を向いていたのにも関わらず、右目の風景は床で仰向けに寝転がって真上を見上げている。一瞬私は転んで倒れてしまったのかと錯覚して気持ちが悪かった。
腕を怪我や病気で失った人は、あるはずも無い腕の感覚、さらに痛みまでも感じる事があると聞いたことがある。
私の場合はそれの視覚版。恐らく脳がまだ右目が生きていると勘違いしていてデタラメな風景を映し出しているのだろう。
私は勝手にそう解釈し、さらにこの現象を「幻視覚」(げんしかく)と名付けた。
それからというもの、左目を手で覆い、右のまぶたをウィンクをするカタチで幻視覚を発現させることができるようになった。
幻視覚で見える風景は右まぶたをウィンクさせるごとに毎回違う。
どこかの天井。星空。さらには水の中だったり、コンクリートの地面だったり。見える場所、角度、時間はいつもバラバラだった。
まるで私が子供の頃に持っていた、ボタンを押すと覗き込んだ風景が変わるスライド写真のおもちゃで遊んでいるような感じがした。
初めはウィンクをする度に変化する風景を楽しんでいて、この現象に関して特にオカルトめいた恐怖を感じることなんて一切なかった。
しかし、この能力を身につけ、一週間が過ぎた頃、遂に右の義眼が映し出す風景の正体が判明してしまったのだ。
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その日はひどく天気が悪かった。
5月の不安定な気候のあおりを受け、パチンコ店の周囲に立て掛けられたケバケバしい配色ののぼり旗が何本かひっくり返る程の強風と、傘を差さずに外に出たら一瞬でプールに飛び込んだかのようにずぶ濡れになってしまう程に雨が降り注いでいた。
普段なら私は絶対にこんな時は外出なんてしない。
だけどその日に限って、趣味のイラストを描いている途中で愛用のペンタブレットの電池が切れてしまった。
部屋中探しても予備の電池は見つからなかったので、しょうがなく駅前のコンビニまで電池を買いに行くため、うんざりする天候の下に身をさらけ出すことになってしまった。
先月、コンビニのクジで当てたチェック柄の傘で視界を遮られた道中は、隻眼という事も合わさって思いのほか歩きづらく、何やら危険性を孕んだ予感すら感じさせた。
強風と横殴りの雨により全身を濡らしながらようやく最後の横断歩道までたどり着いた。
お目当てのコンビニまでは目と鼻の先だ。信号はちょうど赤。
やきもきした気持ちを抱えながら信号が変わるのを待っていると、ふと、幻視覚を試したくなった。
私にとってこの能力は暇つぶしというか、ちょっとした待ち時間を消費するにはもってこいの代物だった。
だからこの日も赤信号による足止めの時間を少しでも短く感じたいと、それぐらいの気持ちで幻視覚を発動させた。
だけど、その時幻視覚で映った景色はいつもと違っていた。
こんな事は初めてで一瞬混乱し鼓動が高まった。
なぜなら今、右の義眼の幻視覚で見ている風景が先ほどまで見ていた左目で見ていた「現実」の風景と、ほとんど変わらないモノだったからだ。
降り注ぐ雨、強風でしなる街路樹。[今]まさに私がいる場所の風景そのもの。
ただ一つ違うところは[視点]。その風景を見ている視点が違う。現実の私は横断歩道を挟んで、コンビニと向かい合うカタチで立っているが、幻視覚の風景は、あたかもコンビニを背に、横断歩道を挟んで立っているような視点だった。
それに…よく幻視覚の風景を凝らして見ると、更なる衝撃があった…。
チェック柄の傘が見えたのだ。私がクジで当てた傘の模様がバッチリと見えたのだ。つまり、私がいるのだ。幻視覚の風景の中に、私が横断歩道の向こう側で立っているのだ。
次の瞬間だった。
出来の悪いバイオリンのような掠れたけたたましい裂音が私の鼓膜を揺さぶった。
とっさに幻視覚を解き、左目で[現実]に戻った時、続いて工具箱をビルの屋上から落っことしたような金属がぶつかり合う轟音が辺りに響いた。
辺りは騒然となった。悲鳴や怒声が雨音をバックに絶えることなく喚かれた。
今、まさに私の目の前、横断歩道の向こう側に立っていた男に自動車が突っ込んだ。
男は近くの電柱と車にサンドイッチされるカタチで無残な姿に変わり果てていた。
翌日、改めて新聞でその男の死亡を確認、男は即死だったようだ。
それで私はようやく右の義眼が映し出す奇妙な風景の正体を突き止めることが出来た。間違いない。
私が見る幻視覚の風景は、誰かが死ぬ直前に見る最後の風景なのだ。
幻視覚で見えた風景が水の中なら溺れ死ぬ直前の人間の風景。キレイな天井が見えたのなら病院のベッドで息を引き取る人間の風景。コンリートの地面が目の前にあるのなら、大きな建物から飛び降り自殺をした人間の風景。
そして、未だに見てはいないが、もしも別の人間の姿が映り込んだ時は、その人間に看取られている、もしくはその人間に殺されている。というコトになるのだ。
■ ■ ■ ■ ■
あの自動車事故から3日。
今日、私は初めて幻視覚で知らない人間の顔を見ることになった。
おそらくは心臓発作か何かで自宅で倒れ、仰向けに寝ているところを妻と娘と思わしき人物が、必死に何かを訴えかけているような顔付きで覗き込んでいた。
多分、その風景を見た数秒後に一家の大黒柱は命を失ったに違いなかった。
もはや私の幻視覚は制御が不可能になりつつあった。
今までは左目を手で覆わなければ発動はしなかったのだが、今になっては、ほんの少し左目を閉じただけで、死の直前の風景を映し出してしまうのだ。
つまり、ちょっと目が疲れてまぶたをこすっただけで、睡魔に誘われ、まぶたを落としただけで、どこかの知らない誰かが一人死ぬ。
まるで私自身がその人間を殺しているような気がしてしまい、いや、ひょっとしたら殺しているのかもしれない。とにかく目を閉じることが恐怖で、苦痛で仕方がなかった。
さらには誰かが確実に死んでいるのを目の当たりにして、何一つ助けてあげることも出来ない。そんな無力感にも耐えられなかった。
どうにかしてこの幻視覚の発現を止めようと、試しに右の義眼を外して見たものの効果は一切なく、止めることは不可能だった。
途方に暮れた。ここ3日間はほとんどちゃんとした食事を摂っていない。今日までにざっと50人位の人間の死を看取ってしまった。
その中には炎に包まれた風景も見えた。恐ろしい…。食欲が湧かない。このまま私自身も死んでしまうのではないか?事故で右目を失ったところに、さらに追い打ちの絶望感が私の心を圧迫した。
今は朝だろうか?それとも夕方だろうか?時間の感覚すらどこか遠くに行き、ぼんやりと空気が重くなった部屋に、突然、聞き慣れた電子音が空気を切り裂いた。
思わず鼓動が高まり、一瞬緊張した。
だがその電子音の正体が、3日前から電源を付けっ放しのパソコンが、電子メールの到着を通知する音だとすぐに理解し、張り詰めた気持ちは一気に緩んだ。
どうせいつもの迷惑メールだろうと思いながらも、少しでも気を紛らわせる為、そのメールを確認しようとディスプレイの前に腰を落とした。
キーボードを叩くと休止状態だった真っ黒な画面にじんわりと光が灯り、徐々に女性の体がディスプレイに映し出される。
私が途中まで描いていたイラストだった。
暇つぶしに描いた適当なキャラクター絵だ。その女性キャラクターはいわゆるゴスロリ調の妖しげなコスチュームを身に纏い、早朝に曇り空の下を散歩しているような陰のある表情をしていた。
そして、全体像を描き終えてどこかパッとした印象が無かったので、アクセントに眼帯(一般的に病院等で貰える方の)を書き足そうとして、その途中だったということを思い出した。
『漫画やアニメなら眼帯もファッションになってイイな~…私も右目を失った直後は眼帯をしていたけど、ただただ痛々しくて心を躍らせることなんて皆無だったのに…。』
などと下らないことを考えながらペンを走らせていたコトも頭の中で蘇った。
そういえば3日前の自動車事故を目撃して以来放ったらかしにしたまま、未だにペンタブレットの電池を買っていなかった。
思い立った。このままではいけない。何らかの転換が必要、乗り越えなくちゃいけない。
私はいよいよ動き出すことを決意した。外に出て、電池を買い、イラストを完成させよう。特に大それた事ではない。
ただ、私には今、それがとても重要で、やらなけらばならない事柄のように思えたのだ。
外出用の服に着替え、3日ぶりの外の空気に触れた。日がうっすらと暮れて、一日の仕上げをかける自動車の喧騒が、妙に心地がよかった。天気は晴れ。私の足が揚々と動き出す。
瞬きは、文字通り、一瞬で。ほんの少しでも「溜め」を作ってしまったら幻視覚が発動してしまう。私は左の瞼に全神経を集中させた。カメレオンがベロをしならせ、ハエを捕獲する早技を頭の中でイメージして、瞬きの早撃ちを繰り返し、歩く。
イケる。今のところ幻視覚の発生の気配はない。
足取りも思わず軽くなる。コンビニが見えてきた。残り20m。このまま店内まで直進し、念願の電池を手にいれる事が出来る。
私の心はもはやセリヌンティウスのもとへと向かうメロスの気持ちになっていた。
が、そんな勢いもたった一つの短い電子メロディーによって強制停止させられてしまった。
その音は私の携帯電話に電子メールが届いた事を通知する音だった。こんな時に…とは思ったが、なんだか気になってしまい、ポケットから黄色のカバーが付いた携帯電話を取り出し、確認する。
そのメールは自宅のパソコンのメールが転送されたモノだった。
私は仕事の関係上、パソコンに送られてきたメールは全て携帯電話に自動的に転送される仕組みにしている。どうやらこのメールは先ほどパソコンに送信されたメールが遅れて携帯電話に転送されたモノらしい。そういえば、電池を買う決意をしたことに気を取られて送られてきたメールそのものをチェックしていなかった。
私はそれとなくそのメールを開封し、本文を覗き見た。
『ネット上匿名掲示板に殺害予告!?』
衝撃的な見出しが目に飛び込む。転送されたメールは速報ニュースをお知らせするメールマガジンだった。さらに記事を読み込む。
『本日午前9時頃、R市S駅にて無差別の殺人を予告する書き込みが匿名掲示板サイトにて確認されました。その内容によりますと、本日午後6時にS駅周辺に血の雨を降らす。最低5人は殺す。と書き込まれ、この事態を重く見た県警は、S駅周辺に厳戒態勢をとることを明らかにしました。』
「S駅!?」
私は人目をはばからず、思わず口に出して驚愕してしまった。記事に書いてあったS駅周辺とは、まさに今私がいる場所。目的地のコンビニはS駅の向かいにあるのだ。
私は幻視覚を発言させないことばかりに気を取られて、周囲の状況なんて全くと言っていいほど目に入っていなかった。改めて周囲を見渡してみると、妙に騒がしく、妙にパトカーが多く、いつもとは雰囲気が違うコトは明らかだった。
その時だった…この異常な事態にあっけをとられ、見てしまった。携帯電話の小さな文字を読んでいたため、思わず左目を手でこすりつけ、幻視覚で死の直前の風景を垣間見てしまった。
全身が高揚し、冷たい汗が背中に吹き出る。信じられない、喉が渇く…。
左の義眼が映し出した風景、それは、S駅向かいのコンビニを20m程手前から眺めるような風景だった。
その風景は私が今、左目で見えている風景と全く同じだった。それが何を意味しているのか理解するには時間は掛からなかった。幻視覚は死ぬ直前に見る風景を映し出す。
つまり、私はもうすぐ死ぬということ。
■ ■ ■ ■ ■
後方で誰かの悲鳴が聞こえる…。
激しくなった空気の振動が背中で感じ取れた。後ろを振り向く。人がいる。男が刃物を握りながら走っている。目の下に大きな隈を作った男が サバイバルナイフを突き立てて私の方へ向かってくる…。
目つきが危険な30代前半ぐらいの男がサバイバルナイフを私のみぞおちに突き立てようと迫ってきている……!!
時間が止まったように感じた。
ナイフの男は間違いなくネットで殺人予告をした男で、その男が何を思ったのか私を標的に選んで…殺そうとしている。
やっぱり、死ぬんだ…私。
ゴメンね…ゴスロリの女の子…名前も付けて無かったし…あなたの眼帯…描けそうにないや…。
体に強い衝撃があった。頭が揺れ、地面に叩きつけられた。
痛みはほとんど無かった。意識が朦朧とする。何が起きたのか分からなかった。
とにかく自分のお腹を触ってみる。血は、出ていない。
徐々に周りの音が耳に入ってくる。男達の怒号が聞こえてきた。
恐る恐る上半身を起こすと、目の前には大勢の警官がナイフの男を地面に押し付け、動きを封じている。その横で別の警官が地面に倒れた別の男に向かって何か叫んでいる。
「君!!大丈夫だったか?怪我はないか!?」
突然背後から話しかけられて心臓が破裂しそうになったが、振り返って見るとそこにいたのはまた別の警官だった。
「私は…大丈夫です…。」
「そうか、良かった…。」
警官は少し間をおいて地面に倒れた男に指を差し、続けてこう言った。
「あの人が君を助けたんだ。あの人が君を突き飛ばして君を救ったんだ…。」
私は猫のように男の元へ駆け寄った。そばにいた警官が何か注意しているみたいだったけど、耳に入らなかった。
よく見ると、やっぱり、男の腹には真っ赤な、大きな染みが出来上がっていた。ナイフで刺されてしまったのだ。何故?なんで見ず知らずの私なんかの為に…?
「…無事か?」
男は掠れるような声で私に語りかけた。
「…無事です…。」
「そうか…。」
いつの間にか、私の目は大量の涙で潤っていた。
「良かった……。」
「…あ、ありがとう…ございました…!」
「良かったよ…今度こそ………。」
「…今度こそ…?」
「今度こそ…間にあった。」
男はその言葉を残した後。ゆっくりと笑みを浮かべて、それ以上喋らなかった。
■ ■ ■ ■ ■
私を助けてくれた男は、搬送された病院で緊急治療を施されが、その甲斐なく、男はその命を終わらせた。
「今度こそ間に合った。」
男が最後に言い放った言葉。それが何を意味するのか、今となっては知る手段は無い。だけど一つだけ、可能性として考えられるヒントはあった。
それは、男の左目が義眼だったということ。
もしかしたら、あの人も幻視覚に悩まされていたのかもしれない。
でもあの人は、私みたいにその能力から逃げることはしなかった。何度も、何度も死の景色を見る度に、何とかしようと、運命を変えようと考え、行動していた。
私は、一生忘れることはないだろう。彼が意識を失う直前にゆっくりと浮かべた笑みを。
その笑顔は、私が今まで見てきたどんな人間の、どんな笑顔よりも素敵に輝いていた。優しさと勇気に満ち溢れていた。
事件から3ヶ月が経った今、私は右目を失った以前と同じように、デザイナーとしての仕事に復帰出来るようになった。
簡単ではなかったけど、あの人が救ってくれた私の命を無駄にするワケにはいけない。どんな苦労もどうにか前向きに乗り越えることが出来た。
そして、幻視覚については、不思議なことにあの事件以来、見ることは一切なくなった。代わりに左目を閉じると、別の風景が見えるようになった。
その風景は、真っ赤に燃えた夕焼け空。
あの人が、亡くなる直前に見た、涙でぼやけた綺麗な空が見えた。
終わり
以前テレビか何かで全盲の男が舌を鳴らした時に起こる反響音で空間を認識する。
という技を披露していました。
人体には想像を絶する不思議な現象が起こり得ます。幻視覚のような現象もひょっとしたら
実際にあるのかも…。
人体の神秘にはロマンが詰まっています。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。