第五話 秋刀魚をどこかにぶん投げて
後ろから聞こえた声。間延びしたあの声。ふり返ると、そこにはあのミントグリーン野郎が、にやりと笑いながら立っていた。
「ま、じで……!?」
驚きで声が掠れる。
アクアンが追いかけて来てるって言ったけど、こんな早く……!?
そんな、だって……おかしいだろ……!まじで瞬間移動できるって言うのかよ……!?
「んー?驚いてるー?悪魔をなめちゃいけないよー?」
そんな俺の様子をゆかいに思ったのか、男はケタケタと笑った。その笑みが、なんだか不気味でしかたない。
「あーあ。天界の鍵とその青い化身くんさえ渡してくれれば、きみなんてどーでもよかったんだけどなー」
男は一歩、二歩と俺に近づいてきた。
ドクン、ドクンと先程と同じように心臓が鳴る。じっとりと、嫌な汗が滲んでくる。
「くそっ……」
アクアンは俺の影に隠れて、ぎゅっとYシャツの袖を掴んだ。
「一発殴られちゃったからねー。どうしよっかなー」
一歩、また一歩。男が近づいて来るのに比例して、俺の心臓は早くなっていく。ガンガン鳴り響く脳からの危険信号が止まらない。こいつはやばいってのが分かる。
なのに足が動かない。石みたいになって、ピクリともしない。
もう余裕なんてないのに、アクアンのYシャツを掴む手から、やけにはっきりと、震えが感じられた。
「あ!そーだ、君にも一緒に来てもらおうかなー」
にっ、と音がしそうなほどに弧を描いた口元。もう目の前に立つ男。後ろに逃げようと重心を傾けると、背中に硬い感触がした。冷たいコンクリートの塀。気づかぬ間に、壁際に追い込まれていたのだ。そしてそれは、もう逃げ道がないことを意味していた。
「わ……たさない!鍵も、この世界も、絶対に……!!」
「ん-?この状況でまーだ言うんだー、それー?」
アクアンのこの場で立ちすくむことなく出た、強い意志を感じる声も、男はあっさりと封じる。
絶望的状況、勝ち誇った笑み。
アクアンは何も言い返せずに、ぐっと言葉を詰まらせた。
「ほーら、そろそろ諦めてー、鍵ちょーだい?」
男はゆっくりと、俺に向かって手を伸ばした。まるでお菓子でもねだるような手の動き。日常で当たり前のような仕草が、漂うビリビリとした緊張感にそぐわない。
間延びした声が、どろどろと溶けているように思えた。チョコみたいに甘い物じゃなくて、もっとこう、ドロドロとしてて、気持ちの悪い。
もし、ここで諦めたら……?もしここで諦めて、鍵を渡してしまったら……?このまま鍵が、アクアンが目の前の男の手に渡ったらどうなってしまう?俺がそのまま付いて行ってしまったら、俺はどうなる?
頭の中に、先の景色が浮かんだ。
悪魔だ。悪魔に鍵が渡ってしまう。そしたら世界は滅んでしまう。悪魔に壊されてしまうんだ。今までの日常、生活、友達、そして、家族の笑顔が。そんなの嫌だ。嫌に決まってる。なくなってしまうんだ。無くなって、亡くなるんだ。
護らなきゃ。戦わなきゃ。悪魔から。悪魔と。誰が?どうやって?
今ここには何がある?アクアンはさっき何と言った?
先程の会話を思い出す。アクアンは檻の中に力があると言った。「心力」と、「力を扱う」と、「開ける」と、「檻を、開ける」と言った。そして鍵。天界の鍵。鍵!
今ここで、そうだ、今ここでだ!鍵を使って、檻を開けばいい!
誰が?誰がいる?ここには俺がいる。俺しかいない。俺だ。俺がやるんだ!
俺が天界の鍵を使って、自分の檻を開ける!
何よりも……俺の本能は、さっきから警告を鳴らす本能は、奥底で、こいつと戦えと言っている!
「アクアン」
「……何だ」
「檻を開けるには、どうしたらいい?」
「……!!何を言っているんだキミは!?」
俺の発言に驚いたのか、アクアンは大きな声を出した。Yシャツを掴む手の力が緩む。
眼前の男も同じく驚いたようで、赤い瞳を小さくし、目を見開いていた。
「へ、へー?何ー?檻開けるつもりなの-?」
そのまま、間延びした声は相変わらずだが、どこか上滑りした声で俺に問いかける。
「そうだな」
俺は少し引きぎみな男の顔を真っ直ぐに見返し、できるだけ普通に答えた。(ここで声が裏返ったらカッコ悪い)
「いや、バカかキミは!?さっきボクが話した事を忘れたのか!?バカ!」
「2回もバカ言うな!覚えてるわ流石に!今はそれしか方法がねーから言ったんだよ!」
「それは……いや、でも……」
歯切れの悪いアクアンはそのまま押し黙る。
「なんだよ!今これしかねーのは分かりきってんだろ!何悩んでんだ!」
アクアンの煮え切らない様子に少しムッとなり、俺は強い言い方をした。
買い物袋を握る手に、力を込める。
「護りたいんだろ!!この世界を!!そのためにお前はここにいるんじゃねーのかよ!」
「……っ!!」
背中越しに、アクアンの息を飲む音が聞こえた。
「だったらさっさと、今できる最善の方法を選びやがれ!!」
俺は叫んだ。これ以上迷わせる訳にはいかなかった。
躊躇ってはだめだ。こういう崖っぷちの状況では、進まなくてはだめだ。可能性が低くても、かっこ悪くても、それでも希望があるなら、這ってでもそうするべきだ。少なくても俺は、いつかそうだと学んだ!
「……分かった」
少し黙った後、アクアンは静かに口を開いた。
零れたのは、了承の言葉だ。
「檻を開くには、胸に天界の鍵を突き立て、解錠すればいい」
「つきた……え?」
「そうだな、簡単に言うと、ぶっさす」
「刺すの!?」
え、えー?そんな痛そうなことやるとか聞いてねーんだけど?
アクアンが鍵を使う事を許してくれたのは嬉しいが、なんか急に怖くなってきた。まさか血とか出んの……?え……?
「そしてかけ声、『アンロック』!」
「かけ声!?変身みたいだな!?」
Yシャツから手が離れ、アクアンが今度は肩に乗っかった。そこそこの重量が、ぷにっとした感触とともに肩にかかる。
「とりあえずやってみろ!どうにかなる!」
「嘘だろ!?」
さっきまであんなに渋ってたくせに!なんでそんな投げやりなんだよ!おかしいだろ!?
「ちょっと、そんなことやらせるとでも思ってんのー?」
俺とアクアンのやりとりが、少年漫画的なそれからプチ漫才になりかけていると、さっきまで固まっていた悪魔が口を挟んだ。
相変わらず口元がつり上がっているが、その笑顔は完全に引きつっていた。
男は差し出した状態で止まっていた右手を引っ込め、左足を少し引く。
「流石にアンロックされると面倒だからねー、ここで止めさせてもらうよー!」
そう言い終えるのと同時に、男は引いていた左足で踏み込み、構えた右拳を俺に向かって振りかぶった。俺がそれを避けようとしたところで、アクアンの声が響く。
「防壁!」
アクアンが叫ぶと共に半透明の壁が現れ、目の前に迫っていた悪魔の手をはじき返した。
え?何今の!?
「ちっ!」
男ははじかれた手の反動で後退しながら、ひとつ舌打ちをする。
「ぼーっとするな!早くしろ!」
「お、おう!」
アクアンに叱咤され、慌てて男と距離を取った。男の体制が整わないうちに、できるだけ後退する。
今は、さっきの壁なに!?とか気にしてはいけないようだ。
「覚悟はいいな」
「あぁ」
アクアンが鍵を手にしながら、俺の胸の前までふわりと移動した。そして、俺に最後の確認をしてくる。その問いに俺は短く答えた。
もし飲み込まれてしまう可能性があったとしても、それでも、この状況が切り抜けられるなら、希望が少しでもあるなら、やる。決めたんだ。今更迷わない。
俺は背負っていたリュックと、肩にかけていた買い物袋を道の端に投げた。
「させるか……!」
俺が檻を開けるのを防ぐためだろう。男は焦ったように足を大きく踏み出し、俺に向かって飛び込んできた。いつの間に取り出したのか、両手にナイフを構えている。
だが男の刃が届くより先に、アクアンが俺の胸に鍵を、突き立てた。
とぷりと、胸の中心に鍵の先が埋まっていく。不思議な感覚だった。痛みはないし、血も出ない。
「この鍵は水の鍵。今から開く檻は、水の力が閉じ込められている檻だ」
アクアンはそう言って、ゆっくりと、鍵を回した。
「アンロック!」
アクアンと俺の声が重なる。
ガチャリと、何かが外れた音がした。
瞬間、ぶわりと、体の中から何かが溢れ出した。