第三話 秋刀魚とぬいぐるみ
「おーっしゃ、買い忘れなしっと」
家と学校の間にあるスーパーの自動ドアが左右にスライドして開く。夕方とはいえまだ暑さの残る9月。ドアの外に出た瞬間に、ぬるりとした湿り気のある外気に包まれた。それに伴って上がる体感温度。さっきまで冷房のきいていた空間にいたため、温度差に少しばかりげんなりしてしまう。
あっちーな、もう。
どこにぶつけてもしょうがないような不満を抱くが、だからと言ってこのままクーラーガンガンのスーパーに戻る訳にもいかないので家への帰路を歩き出す。
あーくそ、こんな時は自転車があればいいのに!と思うのだが、通学にも使う相棒のママチャリは、パンクのため絶賛修理中だ。空気入れるのをサボった過去の自分が死ぬほど憎い。
いつもは自転車に乗って帰る道を、今日は歩きで……。そう思うと、こう、めちゃくちゃしんどい。
だるさと暑さからか、手にしているやすっぽい布地の買い物袋が、いつもよりも重く感じた。
今日買ったのは秋刀魚だ。旬ものであるため目立つ位置で売り出されており、尚且つ新鮮な見た目が美味しそうだった。
今晩は塩焼きかな……。
頭の中に、美味しそうな秋刀魚の塩焼きが浮かぶ。
脂の乗った美味しい身がほろほろ……口にした途端、ジュワッと広がる旨み。醤油かけてもいいな……大根おろし……レモン汁……。
「っと……あ?」
今夜のおかずに思いを馳せていると、曲がり角で立て看板に出くわした。
看板の奥から、ドドドドという低い機械音が聞こえてくる。見ると、どうやらこの先の道で水道管の工事を行っているらしい。看板には通行止めの4文字が書いてある。
水道管の工事やるの知らなかったな……お知らせ来てたっけか。
記憶の糸を辿ってみるが、どうにも思い出せない。今朝はこれなかったよな……見忘れてたか?
とりあえず、この道が使えないということは回り道をしなければならない。少し遠回りにはなるが。
くそ、ただでさえ今日は歩きなのに。この立て看板が憎い。つーか別に通行止めまでしなくても、横のちょっとした隙間を通らしてくれたっていいじゃねーか!
不満が次々と浮かんでくるが、こればかりは仕方ない。早く帰らないと、秋刀魚が痛まないようにと入れた氷が溶けてしまう。
すごく嫌だが、角はそのまま通過することにし、俺は真っ直ぐに歩き出した。太陽はもう傾き、辺りは眩しいオレンジで染まっている。目に突き刺さるような光が痛い。
この時間にしては珍しく、誰の声も聞こえない住宅街の道。下校時刻真っ最中な今の時刻、高校のそこそこ近くに位置するこの道には、いつもなら多かれ少なかれ人が歩いているのだが、今日は俺以外誰もいない。そのせいか、家やアパートの白い壁に反射する夕日の光には、なんとも言えない切なさがあった。
……にしても暑いなほんと。
太陽が傾こうが切なさがあろうが、とりあえず暑い。暑いものは暑い。歩くだけでじっとりと汗ばんでしまう。リュックを背負う背中なんて、もう既にビッショリだ。Yシャツが貼り付いて気持ち悪い。さっさと帰ってシャワーを浴びたいと思ってしまう。
太陽が眩しかったせいで伏せていた顔を上げる。頬にゆっくりと、汗が滑っていく感覚がした。
もう9月だぞ、そろそろ太陽は休息を取るべきなんじゃないだろうか。
襟足の長い髪が首に触れる。耳まで隠れるほどの髪は、この時期にはとんでもなく邪魔だ。髪に遮断されて外気に触れないせいで、なんというか熱が籠もって保温されてるような気がする。
あー、結んでおけばよかったか。
少々鬱陶しい髪に触れる。家にいる時や料理をする時は一つに結んだりするのだが、外ではあまりしない。あまりと言うか……絶対?
もういっそ切るか。まだ暑いし。うん……でも、でもな……耳……。
その時だ。
暑さに負けてだらだらと歩いていた俺は、猛スピードで接近してくる物体に気づけなかった。
「へぶ!!?」
「うわっ!!」
瞬間、顔面に衝撃。ぶにっと歪む感覚。何か軽い物が勢いよくぶつかって来た時の、あの感覚。
「痛って……いったい何事……」
直撃を食らった鼻を押さえる。いきなりのことで頭が付いて行けない。
何だ?何が起こったんだ今?
「……ん?」
訳が分からずに辺りを見渡すと、少し離れた所にボロボロのぬいぐるみがあった。サイズ感は丁度、両手でヒョイっと持ち上げられるくらいの。
さっきの軽い感触から察するに、衝突したのは、あのぬいぐるみだろう。ぶつかった衝撃で、あそこまで飛んでしまったらしい。
なんのぬいぐるにだろうかと思ってじっくり見つめると、どうやら動物や人型の物ではないようだ。
クリーム色のボディは、見た感じプニプニっとしてそうで手足が短い。形状的に二足歩行っぽいな。あんだけ手足が短いと、四足歩行できねーだろ。
顔のパーツは絵文字のように単純で、目と口しかない。しかも目は横棒一本。目を瞑った表情のぬいぐるみっぽいけど、ほんとに単純だ。
頭には濃い水色をしたナイトキャップのようなものを被っており、先っぽには澄んだ海のように輝く、青色の丸い飾りが付いている。
それと同じ飾りが1つ、しっぽの先に、もう3つがネックレスとして首にかかっていた。ネックレスの飾りは1つ1つが少しずつ離れていて、その間に一際目を引く金色が1つ。夕日の光に反射してキラキラと黄金に輝く、何だかよく分からないが、とりあえず綺麗な装飾が施されている鍵だ。
なんだ?架空の生き物……?アニメのキャラクターかなんかか?
「ずいぶん汚れてるな……つーかどうしてぬいぐるみが飛んで来たんだ?」
あまりにもボロボロであるぬいぐるみに近づき、ひょいっと持ち上げてみる。両手に感じるずしっとした重み。……あれ、思ったより重いな。
とりあえず、見立て通りのプニプニボディは触り心地抜群だ。ずっと撫でていられそう。なんだか分からないが、すごい安心感がある。別にそういう趣味はないけど、このままぎゅっと抱き締めて、そのプニプニを堪能したい。それほどの素晴らしい心地よさ。
あーでもこいつ熱いな。体温高っかい。この時期に抱き締めんのはキツそうだ。絶対に暑苦しい。
逆に冬は丁度良さそうだな、この体温。湯タンポ的な感じで。寒い日にこう、ぎゅっとして、こいつのぬくぬくとした体温を全身で感じる。そう、この陽だまりのような体温を……ん、体温?……体温!?
ハッと違和感に気づいた。慌てて、手に持つぬいぐるみを再度見る。
確かに両手に感じる温もり。まるで犬や猫を抱えた時に感じる、生き物の温もり。おおよそ、ぬいぐるみのような無機物からは感じ取れない温もり!
え、もしかしてこれ……生きて……!?
まさかの考えに、汗がタラリと頬を撫でた。さっきまでは暑さのせいで流れた汗だったが、今回のこれは冷や汗だ。
いや、待て待て待て。冷静になれよ俺、これどう考えたってぬいぐるみだろ?
一回、一回落ち着け俺……と、浮かんだ考えを即否定する。
いやだって普通に考えて有り得ないだろう。そんなまさか、ぬいぐるみが生きてるなんてある訳ない。確かに温かいけど…いやいや、ないないないない。
そういや重さが内臓あるレベルのずっしり感な気がしなくもないけど。綿と布じゃ考えられないような重さな、気も、しなくは、なくはない訳で……いや、だけど、これは、そう、きっと何かの間違いで……
「気安く触るな!!」
「ふぁっ!?」
俺が、そんな訳ないと浮かんだ考えを否定し続けていた所で、高い少年のような声が響く。続いて勢いよく俺の両手から飛び出すぬいぐるみ。そのままクルリと体を回転させ見事に着地を決めると、今度は俺の方に向き直った。
は……?はぁ!?
驚きすぎて言葉にならない。今目の前で起こった事が信じられずに体が固まる。
だって、いや、だって……!今、今このぬいぐるみ、自分で動いて……!?
ぬいぐるみの、さっきまで棒一本だった目は縦長の楕円になっており(それでもやっぱり単純だが)、さっき声を出したその口は、滑らかに何の違和感もなく動いてみせた。他の誰かの手を借りたようには到底見えない。
だからこれは手品とかそういう感じじゃなくて、こう、自分で動いた!という事で……!!
「ぬ、ぬぬぬ、ぬいぐるみが……しゃ、べっ……動いて……!?」
動揺して変な声が出る。所々裏返っているのだが、今そんな事を気にしている余裕はない。
だってなんだよこの状況!?ぬいぐるみが動いて喋ってるなんてなんだよこの怪奇現象!?これで冷静でいられる訳ないだろう!?なんだこれ!?
「俺は……俺はどうしたらいいんだこれ!?110番!?110番なのかこれは!?」
「五月蠅い、誰がぬいぐるみだ。バカかキミ」
俺が1人でバタバタと慌てていると(電話しようとしてスマホまで取り出した)、ピシャリと言い放つぬいぐるみ。まだ声変わりの来ていない少年のような声は、その色に反してとんでもなく冷めていた。しかも言い方にトゲがある。こちらをバカにするような言葉遣いだ。
なんだこいつ!いきなり人のことバカにするように言いやがって!
「はぁ!?なんでお前にバカとか言われなきゃいけねーんだ!」
沸き上がった不満がそのまま口から飛び出す。
この際、ぬいぐるみが喋ったとか動いたとか置いといていい。いきなりバカにするとか、こいつ!何様だ!
「キミがアホ丸出しの反応をするからだろう」
ぬいぐるみは、ふっと鼻で笑うと、俺の喚きなんて気にもしないような、明らかに上から目線な声色で答えた。
アホって言った。どう見ても俺をバカにしている!くっそムカつく!
俺が再度ぬいぐるみに吠えようと口を開きかける。だが声を上げる前に、ピクリとそのぬいぐるみが反応した。
「おい人間、ボクを安全な場所まで運べ!」
「はぁ?なんでいきなり!?」
どうしてそうなるんだ。ぬいぐるみが動いて喋って、かと思ったらいきなりバカにされて。そしたら今度は安全な場所まで運べだぁ?意味分かんねーよ!
そう思って反発した態度を見せたのだが、ぬいぐるみはいたって真剣な様子だ。それに先程俺をバカにしたような余裕さがない。どこか焦っている風にも見える。
なんだ?さっきこいつは何を感じ取ったって言うんだ?
「いいから早くしろ、ボクは悪い奴から逃げているんだ」
「悪い奴?つーかなんで俺が!?」
「困っている奴が目の前にいたら、救うのが道理だろう。ほら早く」
焦っている。目の前のぬいぐるみが確実に焦っているのは分かっている。だからこの場合、すぐに対処するべきなのだろう。分かってはいる。分かってはいるが……それでも俺はこいつの態度が気にくわない!
人に何かを頼む時はお願いしますと声にするのが道理だろうが!母さんに教えてもらってねーのかよ!なんだよほら早くって!
「お前なぁ、それが人に物を頼む態度かよ!」
「ごちゃごちゃ五月蠅いな、そんなこと気にする前に連れて行け」
「はぁー!?」
俺のもっともらしい発言にも、ぬいぐるみは上から目線の態度を崩さない。それどころかイライラしている様子だ。
あーもう頭にくる!常識ないのかこいつ!
冷静に考えるとぬいぐるみの常識とは何なのだという話なのだが、俺はこのぬいぐるみの上から発言が完全に頭にきており、冷静な判断力なんてどこかに行ってしまっていた。元から沸点は高くないのだ。
「とりあえず!お前がちゃんと頼めるまで俺は――」
「みーつっけた」
俺が文句を言いかけた時だ。それを遮るように、後ろから軽い声がした。同時に感じる、ゾクっとした寒気。
振り返ると、数十メートル程後ろに、軍服姿の男が立っている。このくそ暑い中で真っ黒い軍服。襟と袖だけは深い緑色だけど、それでも太陽光吸いまくりな服装には変わりない。高い位置で揺れる男にしては珍しいポニーテールは、お前どうやって染めたんだと言いたくなる程綺麗なミントグリーンだ。
夕暮れの住宅街に不釣り合いな男。その男を変な奴だと思う反面、ざわざわとした胸の違和感を覚えた。
なんだ、この感じ?
もやもやとした違和感を不思議に思い、もう一度その男に視線をやる。すると、ボサボサとした長い前髪の間から覗く赤い瞳が、じっとこちらを見つめていた。その不気味さに、なんとも言えない悪寒が走る。ドクン、ドクンと、嫌な音をたて始める心臓。ざわざわ、ざわざわとした感覚が、胸を支配する。
「くっ……!」
ぬいぐるみはどうやら動揺しているようで、ジリッと後ろに下がっていた。顔にはハッキリと焦りの色が浮かんでいる。
ピリっと漂う緊張感。俺の心臓は、より早く鼓動を刻んでいた。
何か言葉を発しようと思うのに、男の雰囲気に押されて声が出ない。それどころか、手足を動かす事もできなかった。金縛りにでもあったかのように、ピクリとも動かせない。
「まったくさー手間かけさせるんじゃねーってのよな、追うのすっげー疲れんのー」
男は軽い調子で言いながら、こちらに近づいてくる。
伸びの音が特徴的な喋り方は、緊迫している雰囲気の中では不釣り合いだ。
そいつは俺の横を通り過ぎると、ぬいぐるみの前に立った。そのまま前屈みになり、ぬいぐるみの方に顔を近づける。
「でも流石にもー逃げらんねーよね?鬼ごっこも終わりだよー」
男の口元がにやりと歪むのが分かる。ゆっくり、ゆっくりと、口の端がつり上がっていく。
その笑い方、瞳、雰囲気に、ヤバイと俺の本能が告げる。ドクンドクンドクンと、心臓の響きが速さを増す。
「さぁ、早くその身と鍵を差し出せよ……」
ぬるりと滑り出す声。歪む赤。ぬいぐるみへと、ゆっくりゆっくり伸びる腕。
ヤバイ。こいつはヤバイやつだ。こいつは駄目だ。駄目だ。ヤバイ。
――こいつは、ヤバイ!
ゴキン
「え……あれっ……?」
「なっ……!?」
俺はほぼ反射的に、その男の顎に一撃を喰らわせていた。
男は今まで、俺のことなど眼中になかったのだろう。状況が飲み込めていないような声を上げると、そのままドサリと音をたてて地面に倒れこんだ。
ぬいぐるみもすぐには理解が追い付かなかったようだ。倒れた男を呆然と見ている。だがすぐに我に返ったのか、驚きの色に染まった顔で俺を見上げた。
ぬいぐるみは何か言いたそうだったが、とりあえず今は逃げなきゃいけない。男から、このヤバイ奴から一刻も早く、一歩でも遠くまで!
「おい、行くぞ!」
「へ、は?」
「いいから!」
俺はぬいぐるみを抱え、走り出した。