情けない僕はでも 4
情けない僕はでもの続きです。
祖父の遺骨に近づくと、まだ炎の熱気が残っていてかなり熱く感じられた。燃やされたあとの祖父の遺骨は火力強かったのかほとんど人骨の姿を止めていなかった。白い無数の破片になっていた。それを僕たち親戚一同で順番に箸で骨壺に納めていった。骨は箸で持つと軽石を持っているような感触があった。
祖父の家の裏山に墓地があり、祖父の遺骨を持って僕たちはその墓地に向かった。神主が墓石の前で祈りを捧げ、その祈りが終わったあと、僕たちは順番に墓石の前に立って線香をあげ、それから手を合わせた。風が強くて近くの木々の葉が震える音が聞こえた。日が傾きはじめた空は微かに紅の色素を含んだ物悲しいような静かな青色をしていた。
東京に戻る日、僕は弟に車で空港まで送ってもらうことになった。弟は半年くらい前にワーキングホリデイに行っていたオーストラリアから帰ってきたところで、今は福岡で単発のアルバイトをしながら就職活動をしている。弟も祖父の葬式にともなって実家に帰ってきていて、弟はあと二三日地元に留まるようだった。
平日の午前中の時間帯の道は空いていた。道の右側には海が広がっていた。海は穏やかな青色をしていた。微かに黄金色の色素を含んだ透明な太陽の光がやわらかく世界を輝かせていた。
「就職活動はどんげやて?」
僕は運転している弟の横顔に視線を向けるとなんとなく訊ねてみた。弟の就職先が見つかったという話はまだ聞かなかった。テレビを点けると不況の話ばかりしているし、やはり今の時代は就職するのは難しいのだろうかと思った。
「選ばんければいくらでもあるけんね」
弟は横目でちらりと僕の顔を見ると、困ったような笑顔で答えた。
「でも、それなりに給料がいいところを探そうとするとなかなか難しいね」
「そっか」
僕は上手い感想が思いつかなくてただ相槌を打った。そしてそれからもし僕が就職活動をしたら、と、少し想像した。きっと苦労することになるのだろうなと思った。僕は大学を卒業してから一度もサラリーマンといものを経験したことがない。だから、相当苦労することになるだろうなと思った。
「兄ちゃんは就職はせんて?」
僕が黙って窓の外の海に視線を彷徨わせていると、弟が訊ねてきた。僕は振り向いて弟の顔をちらりと見た。
「うん、いまのところは」
僕はどちらかというと強ばった笑みを浮かべて答えた。でも、これからどうすれば良いのだろうと少し暗い気持ちで思った。わからなかった。ただひとつわかっていることがあるとすれば、就職はしたくないということだった。
僕はサラリーマンになって義務や目標にしばられて生きていきたくないと思っていた。限られたわずかな時間をやりくりしてそのなかで小説を書いていくのは自分には無理だと思っていた。あるいはそれは僕の思い込みなのかもしれなかったし、また甘えているということはわかっていたけれど、でも、今のところ自分の考え方を変えることはできそうになかった。
弟は僕の顔を見ると、一瞬何か言いたそうな表情をしたけれど、結局何も言わなかった。そして再び視線を前方に戻すと、
「まあ、俺も本音を言えば就職なんてしたくないけんね」
と、苦笑するように微笑して言った。それから、弟はオーストラリアでの生活がいかに楽しかったかということを僕に語った。
弟の話によると、オーストラリアという国は時給が高いので、アルバイトでも十分に生活していけるのだということだった。みんなちょっと働いてある程度まとまった金を作るとしばらく好きなことをし、お金がなくなるとまた少し働くといった生活をしているらしかった。弟もオーストラリアでは実にそういった働き方をしていて、ちょっと働いてお金ができると、色んなところを見て回るというような生活を送っていたらしかった。
「オーストラリアのひとはちょっと働けばすぐある程度のお金を稼げるかいよ、日本人みたいに老後のことをあれこれ考えて不安に思ったりするひとはほとんどおらんね。それなりの時給の仕事がいくらでも向こうはあるかいね」
「それは羨ましいね」
僕は微笑して言った。日本だとなかなかそういうふうにはいかない。生きるために働いているというよりは、働くために生きている感じにどうしてもなってしまう。果てしのない義務と目標。仕事が全てといった考え方。日本では仕事を愛することができなければなかなか人生を楽しむことができないような気がする。
「まあ、でも、そのぶん、弊害もあるんけんね」
弟は笑って続けた。
僕が弟の顔を見ると、
「向こうのひとは自分の都合を優先するかいね。サービスを受ける側としては色々と不便な面も多いね。時間通りには来ないし、色々いい加減やし、最低限のことしかしてくれんしね」
「メリットデメリット色々あるね」
僕は弟の言葉に笑って言った。
空港には飛行機の出発時刻よりも一時間以上前に到着した。僕と弟は空港のレストランに入って朝と昼を兼ねた食事を取った。僕と弟はカツ丼を注文した。運ばれてきたカツ丼はやたらと肉が固くて不味かった。窓の外には滑走路が見えて、その滑走路の上を今まさにこれから飛び立とうとしている飛行機が移動していた。その飛行機は早く空に飛びたくてうずうずしているように見えた。
「東京かぁ」
カツ丼を食べ終えた弟が麦茶を口元に運びながら言った。
「東京がどうかしたの?」
僕は窓の外に向けていた視線を弟の顔に戻して訊ねてみた。
「いや、ここからたった一時間半で東京まで行けるっていうのもなんだか不思議な気がするなと思って」
「確かに」
僕は弟の言葉に同意して微笑した。あと何時間後かには自分が東京に居るなんて全く実感が湧かなかった。そもそも僕はなんために東京にいこうとしているのだろうと虚しいような寂しいよう心に力が入らない感じがした。
「俺も東京行こうかな」
弟は冗談めかして言った。
「福岡で就職決まらんかったら」
「うん。来れば」
僕は微笑して言った。そして弟が来れば東京での生活も今よりは楽しくなるかもしれないと少し思った。
「就職活動するならうちを使えばいいよ。部屋狭いけど、頑張れば眠れなくはないし」
「そうやね」
弟は僕の台詞にあまり本気にはしていないような笑顔で頷いた。
飛行機の出発時間三十分前になると、僕は弟と別れた。そして僕は手荷物検査を済ませて搭乗口に向かった。
搭乗口付近の椅子に腰掛けて僕が飛行機の搭乗時刻を待っていると、僕が腰掛けている席の近くに女の人がやってきて腰掛けた。僕と同い年くらいの、比較的整った顔立ちをした女の人だった。
彼女はなんとなく悲しそうな顔をして窓の外に見える飛行機を見つめていた。そしてその彼女の顔は僕に昔好きだったひとのことを思い出させた。彼女は今頃どこで何をしているのかなとふと思った。彼女は元気にしているのかなとなんとなく思った。
やがて飛行機の搭乗案内がはじまり、僕は飛行機に乗り込んだ。僕の席は窓際の席だった。平日の午後の便のせいなのか飛行機はかなり空いていた。飛行機が離陸すると、すぐに窓の外に海が広がった。そしてそれからすぐに雲しか見えなくなった。僕は窓の外に広がる雲海をぼんやりと眺め続けた。
沢田が自分の書いた小説を僕に見せてくれたのは、高校に入った最初の夏休みだった。僕たちは久しぶりに顔を会わせると、お互いの近況を語り合ったり、馬鹿話をしたりした。そして話題が尽きた頃に実はやっと書き上げることができたんだと言って、沢田はプリントアウトしたばかりの小説を僕に手渡してくれた。僕はまた読み終えたら感想を送るよと言った。なるべくお手やわからに頼むよと沢田は笑って答えた。でも、結局、それから僕たちが再び会うことはなかったのだけれど。
沢田が亡くなったという話を聞いてから僕は一度だけ沢田の墓を訪ねた。沢田の墓は海を見下ろすことのできる見晴らしの良い高台のうえにあった。季節は夏の終わりで、微かに秋の気配を含んだ涼しい風が、周囲の木々の葉を静かに振るわせていた。
僕は沢田の墓の前で手を合わせると、まだ伝えていなかった小説の感想を伝えた。結構面白かったよ、と。僕の好きな感じの小説だった、と、僕は心のなかで言った。そして実を言うと、僕は沢田の影響を受けて小説を書き始めたんだ、と。なんとか沢田に負けないような小説を書けたらと思っている、と。
少し眠気を感じてきたので僕は軽く瞳を閉じた。閉じた瞼の内側に実家に戻ってきてからの日々の断片が細切れに浮かんでは消えていった。ひつぎに入った祖父の遺体と、父親の挨拶。それから高校の同級生に会ったこと。僕が実家に帰ってきたから思ったことや感じたこと。そしていつか読んだ沢田の小説のこと。それらは混ざり合って白濁した光のようになると僕の意識を覆った。僕の意識はその白濁した光の一部になって膨張するように膨れ上がっていき、やがて弾けて何もわからなくなった。