プロローグその1
勝負事には勝ち負けが憑き物である。
その勝負の結果が偶然であれ必然であっても、この残酷な世界では0か100、つまりは勝者と敗者に分けられる。分けられてしまう。
勿論、引き分けと言う結果に為ることも在るにはあるだろう。しかし本当に大きな大会などのシチュエーション、状況によってはそんなことは…引き分けと言う結果で事が終わることはあり得ないしあってはならない。
例を挙げるならばサッカーやラグビー等のワールドカップ、またはオリンピック。その決勝戦。
こんな状況で、
“勝負しましたが結果は引き分けでした。決着はつけません。応援ありがとうございました”
何てことになってみろ。……断言してもいいが世界のどっかで間違いなく暴動がおきる。
そしてもうひとつ、勝負事に関してこんな言い伝え、もとい諺がある。
“勝負は時の運”
この諺の意味はまあ字面の意味そのものなのだが一応注釈しておくと……
勝負の結果、決着の仕方は誰にも分かることではなくその時の状況、考えていること、仕草、閃きなどで決まるのでありあらかじめ確定などしていない。故に勝つも負けるもその時次第である。
…という意味だ。
この諺が表しているように、今俺達が生きて過ごしている現代社会において運というものの存在意義、必要性は非常に高いといわざるをえない。
それは、現代社会において運によって決められているものが相当に多いことが理由である。例えば高校生である俺の身近な所では……
全く勉強していない教科のテスト範囲を全て前日に勉強するのでは時間と手間が掛かりすぎるためヤマを張ってテストにいどむ。
誰かが風邪などの理由で休んだことにより必然的に余ってしまう給食のデザートを獲得するために欲しい人全員でじゃんけんをする。
遠い所で表現するならば競馬・ルーレット・麻雀などの所謂ギャンブルか。
このように今生きているほとんどの人はこの運に恵まれたり、見放されたりしまっているのだろう。
……そう………ほとんどの人は………
この運というものは言い換えれば確率である。
じゃんけんで勝つことが出来る確率は勝つか負けるかの二通りだから50パーセントの確率で勝つことが出来るだとか、年末にある大手企業がやっている宝くじの一等が当たって億万長者になることが出来る確率は一千万分の一。0.0000001パーセントだとかそういう話。
それを考えるならばじゃんけんに負け続けて50パーセントの確率を外し続ける。いくら宝くじを買っても当たらない(こちらは当たる確率の方がかなり少ないが)ということもあるということにならないだろうか。
そう、いつも運に恵まれずに負け続けてしまう哀れな人が、この世には極めて少ないだろうがいるということになる………
その不幸の星の下に生まれてきたとしか思えない、負け犬の権化とでも言うべき人間の一人として大変不本意極まりないがこの俺の名前を、存在をあげることができる。
来栖エルという名前を。