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最後の鬼

作者: 志水了
掲載日:2012/12/17

 その鬼は、森の中にひっそりと隠されている階段をいくつもいくつも上った先の屋敷に住んでいた。

 彼はその頭に角があり、確かに人とは違う生き物であるのだが、普段暮らしているそれは人よりも人らしいそれだった。村人達と開墾した棚田のひとつを貰い受け、そこで稲を育てて暮らしている。この村でその鬼を恐れる者はいないけれども、やはり人と違うことを気にしてか、彼があまりその長い階段を下りてくることはなかった。必要な折に下りてきては、村人と言葉を交わす。黒曜石を思わせるその目はいつも穏やかに笑っていた。

 彼は、屋敷よりさらに奥、深い山のことにも詳しかった。時々私達村人は山に入って、山菜などを取るのだが、村人の誰よりもその山菜がある場所を知っていたのだ。

 とくに、今でも記憶に残っている出来事。それは、私が道しるべを見失い、山のどことも知れない場所で迷ってしまったときのこと。

 私が山の中で迷っていると気が付いたとき、すでに陽も傾きつつある時間だった。この辺りは日が落ちるのも早い。

 この時間に迷ってしまっては、これはもう間に合わないうちに夜になってしまい、そして山に住む獣達に襲われてしまうのではないか、とそのときからなかばあきらめの気持ちであった。夕暮れ時になっても村に戻らず、次の朝に山の中で冷たい姿で見つかった、などという話は山ほど聞くのである。

 家の者には山菜をとりに行く、と伝えてはあったが、それでも夜にならないと私が帰ってこないことには気が付かないだろう。それが当たり前の日常なのだから。とにかく、日が落ちるまでは何とか道を探そうと、わずかな記憶を頼りに歩いていたのである。

 そうしていくうちに日も落ち、心身共に絶望しきったときだった。私は歩くのも疲れて、木の根元に腰を下ろしていた。

 木々の隙間から見える空は茜色で、早くも端から夜の藍色が近づきつつある。

 その美しい景色を眺めながら、これももう見納めで、夜になればそこらを徘徊する熊に自分は食べられてしまうのだろう。そんなことを考えていた。

 そんなときだった。さく、さく、と土を踏みしめる音が私の後ろから聞こえてきたのだ。もう熊がやってきたのか、と一瞬思ったが、それにしては足音が変だということにすぐ気が付いた。

「……えっ?」

 いったい何がやってきたのだろうか、何を見ても怖くない、と覚悟を決めて振り返る。

 その先にいたのは、見慣れた彼の姿だった。いつもと変わらない渋い色合いの着物を着て、ちょっと散歩の途中でもあるようにも見える。

 鬼は、私を見つけると、なぜだか安心したように笑った。

「よかった。探したんだ」

「探したって……」

 私は思わずその先を言い澱んだ。おそらく村のみんなはまだ私が迷ってしまっている事にも気が付いていないだろう。それなのに、どうして。

 私のそんな疑問に気が付いたのだろう、彼は小さく笑みを口元に浮かべた。

「山が、教えてくれたんだよ。あなたが迷っていたこと」

 だから探した。その言葉に、彼が改めて人でないことを思い知った。そして同時に、その暖かさに思わず必死にこらえていたものが崩壊してしまったのだった。

 そんなことがあってから、少しだけ鬼と私の距離は近付いたようにも感じた。たまに彼の住処に遊びにいくこともあった。彼は想像通り、私たちと同じようなものを食べ、同じように過ごしているらしかった。

「ここは、穏やかでいい」

「前はそうじゃなかったの?」

「まあね」

 彼がそう言いながら作ってくれた鍋は、野菜と、山菜と、鹿の肉が入った山の味がするものだった。

 そんな穏やかで、毎日が同じ、変わらない日々。私も、鬼も、そして村の皆も、このような穏やかな毎日がずっと続くものだと信じていたのだ。

 だが――。

 それは突然やってきた。

 村人を集めての集いの時に、村長が悔しげな声で、この近辺が「だむ」とやらの水を溜める湖となって、その底に沈むことになった、とそう告げたのだった。

 そのことに、私も村人も皆が戸惑い、驚きながらもそれでも受け入れざるを得ないというあきらめの気持ちであった。けれども、ひとりだけ、そう簡単にはいかない者がいるだろう。村人達の集いの中、隅にひっそりと座っていた鬼に、皆の視線が向く。

「私は、ここに残ります」

 彼はいつもと同じような穏やかな笑顔で、そう言った。彼も何かを覚悟したはずなのに、そんなことを微塵も感じさせない表情だった。

「でも、この村は沈んでしまうのよ? あなたの住むところだって、きっと」

 私はその穏やかさに耐えきれず、思わず鬼にすがった。鬼はそれでも、いつもと同じ笑みを浮かべたままだ。

「私は、人ではありません。それでもこの村の人達は同じように接してくれました。でも、それもこの先続くわけではないでしょう」

「この村皆で引っ越すんだ。君のことを悪く言う輩なんて、我々で黙らせてやるさ」

「その気持ちはとてもありがたいです。ですが、皆さんが新しい町に受け入れてもらう時、私のような異分子がいるのはよくない。どうなるか、それはあなた達も分かるはずです」

 彼は淡々と、そう述べた。それは紛れもない事実であることが、無性にかなしかった。

 ただでさえ、これから余所者扱いをされるだろう新しい町で、彼のような者がいたらどんな事をされるか。その事がありありと脳裏に浮かんだのだろう。村人皆が黙り込む。私も何も言えず、ただ静かに、掴んでいた着物から手を離す。

「私は、この村最後の住人として、皆さんが愛したこの地を見守ります」

 鬼のその覚悟を決めた表情が、どうにもできないこの状況が、ただ、ただ――歯がゆかった。


 *


 そして日々は過ぎ、私たちが村を離れる日が来た。最後にどうしても彼に会いたくて、私はその長い階段を上っていく。ひっそりと階段の上に佇む屋敷の扉を開けてみるが、彼の姿はどこにも無かった。山にでも出かけているのだろうか。

 最後に、あの鬼の姿を焼き付けたかった。それができなかったことに肩を落としながら、仕方なく階段に足をかける。目的が果たせなかったせいか、その階段はいつもよりも途方もなく長く感じられるようだ。

 階段も中ほどまで降りたところで、もう一度だけ、と後ろを振り返った。その先に見えたものの姿に、私は思わず息を呑む。

 階段の終わりに、いつの間にか鬼が立っていたのだ。

 いつもとは違う、表情を消した無表情で私を見下ろしていた。

「あ」

 私は何といったら良いのか言葉が浮かばず、ただ口をぽかりと開けて突っ立っていた。鬼はそれを見てか、くすり、と少しだけ笑みをこぼした。そこには少しだけ寂しさが混じっているような気がして、途端に私も寂しくなる。

 彼は笑みを浮かべたまま、小さく私に手を振ってくれた。私も涙をこぼすまい、と必死にこらえながら手を振って、階段を降りていく。ずっと涙をこらえていたせいか、目のあたりがきゅうと痛くなった。

 美しい木々の中、ひそりと佇む鬼。

 不器用で、どこまでも優しい、鬼だった。


(了)

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