本と猫と少年と、
後期試験前の日は寝る間を惜しんで勉強に励むのが僕だ。親の監視の元で自宅学習の猛威に振る舞わされている。学問に励むこと自体は嫌いではない。何が嫌かと言いえば、人の気持ちを理解しようとしない親の態度だ。一日10時間以上は机に向かって塾のテキストや学校で渡された問題集の山を処理している。そこに親の余計な手助けが入らなければ、このことに何の文句は無かっただろう。
両親は共に学校の教師を務めている。母は高校。父は中学校。この両親は勉強に励む僕を見て「これだけで良いのか?」と言っては両親一押しの分厚い問題集を渡される。そこに反論の隙は無い。現に僕の成績は卒業を間近に控えていながら低下の兆しを示している。
僕にはどうしても合格しておきたいと『F高校』いう第一志望校があるのだ。そこの平均値が馬鹿みたいに高い。そして卒業した先輩の話によると「あの学校は生徒を入学させるという考えが一切無いくらい入試のレベルは高いよ」だそうだ。そしてこの言葉は両親の耳にも届いていた。合格させたいという親の気持ちは伝わってくるが、勉強の山にまた一つ山を加える親を見て「息子を過労死させたいのか?」という思いが僕の中に募る。
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そんなテスト前の休日。僕は親に嫌気が指して家を出た。親が用意した問題集に一切手を付けていないことを注意された。それもたちの悪い母親に。どこの親もそういうものだと友人に聞いたのだが、うちの母親は一度僕のことで怒りだすと終わりが見ない。勝手に怒りだしてはグチグチと細かいことに注意し始めて、ついには嘘話まで作って僕を出来の悪い息子として馬鹿にしてくる。「小学六年の時に名前を書き忘れてテストが0点」なんて馬鹿な嘘をつくのは止めてほしい。我慢の限界に到達した僕は1冊の本を持って家を出た。
その本はオグマンティーノ薯の『十二番目の天使』というタイトルの小説だった。学校の図書室でたまたまその本を手に取り、たまたま隣にいた図書の先生に「その本を選ぶなんて、良いセンスしているねM君!」と熱く絶賛されて、勢いそのままに借りてしまった本だ。正直なところ僕はあまり本を読む方じゃない。図書室にはいつもマンガを読みに来ているだけなのに―――
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本を読むとしたら僕は迷わず公園を選択するだろう。僕の近所には『菫橋公園』という広い公園がある。公園の中に小さな湖がありその上に大きな橋が架かっている。それが有名な菫橋がある。なぜ公園の橋が有名なのかという話はまた別の機会にでも話します。
「えっと…ここで良いかな?」
その湖の近くに木製の丈夫なベンチが置かれていた。僕はそのベンチの上の枯葉を手で払って力を抜くように腰を下ろした。とても静かな公園だった。九月に鳴くセミの音の他に耳に入る雑音は無い。いつもならマラソンやら散歩で人を見るのだが、今日に限っては1人も見当たらなかった。これ程までに菫橋公園を心地良い場所だと思ったのは人生で初めてだと思う。これで本を読む少年がいれば絵画が何かのモデルになれるかもしれない。
「よし! 本を読もう!」
覚悟を決めて『十二番目の天使』の最初の1ページに目を落とした。数分前まで数式に目を落としていた僕から見た小説の文字の並びは、少しだけ新鮮に感じられた。世界的童話作家であるハンス・クリスチャン・アンデルセンの『すべての人間の人生が、神によって書かれたおとぎ話である』という言葉が目に入った。深い言葉だと感心しつつ次のページに目を向けようとしたら、僕の靴の上に不思議な重みが感じられた。慌てて足元を見たると、そこに一匹の猫がいた。茶色くフサフサとした毛並みの、大きな猫である。
首輪がついている所からしてどこかのペットなのだろう。大きく丸いペルシェ猫だ。
この猫は僕の靴を前足で踏みつけると、丸々とした自分の体を靴の上に乗せて横になってしまった。随分と人懐っこい猫だ。読書に勤しむ身としてはとても不愉快な奴だ。
「あっち行け! シッ! シッ!」
足を動かしたり、声で威嚇したり、手で体をどかしたりと色々試してはみたが、その猫は僕の足の上から動こうとしない。手を出した途端に指先を噛まれてしまう始末だ。
「この野郎…どうしてくれようか?」
猫が邪魔で読書ができない。猫好きな人からすればとても羨ましい光景なのかもしれないが、僕は猫があまり好きではない。猫より犬派だ。猫は主人の命令を聞かずに自由勝手に行動を起こして「世界は俺を中心に回っている」とでも言いそうなあの態度が嫌なのだ。その点に比べて犬は扱いやすく人間の命令に従う優れた動物だ。救助や警察で活躍しているところがまた利口だ。救助猫や警察猫なんて聞いたことがない。
「足の上に乗るのは止めてくれ! どうしても読書に集中したいんだよ!」
人がいないのを良い事に僕は猫に大声で叱ってしまった。誰かに見られていたらきっと笑われていたことだろう。足元の猫から離れるために僕はベンチから立ち上がって、デブのペルシャ猫から猛ダッシュで逃げた。驚いた様子の猫はあとから僕を追って駆けて来たが丸く太い体なので体力が長くは続かなかった。道の途中でペタリと座り込んで動かない。
こうして僕は邪魔な猫をどうにか巻いた。にしても何であの猫は俺にくっ付いてきたのだろうか? あんなにデブ猫に好かれるようなことは一切していないのに?
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僕はさっきまで座っていたベンチがある位置から湖を半周して、向こう側に当たる位置にある同じ木製のベンチの上にある枯葉を手で払ってから座った。これは立派なデジャヴというものだ。それから猫の一件を忘れようと本に集中した。この『十二番目の天使』という本はどうやら野球をやる子供の親の話の様だ。始まって早々に主人公が自殺しそうになっている所から本の物語に引きこまれていった。続きがきになり次のページをめくった途端にアイツはやって来た。ベンチの後ろにある茂みの中から茶色の塊が突然、勢いよく飛び出してきた。それは僕が走ってまで追い払ったあのペルシャデブ猫であった。
「おいおい…もう足の上には乗るなよ」
僕は二度現れたその猫に精一杯のキツイ視線を送った。それをものともしないデブ猫はさっきの体力からは考えられない程に素早い動きでベンチの上に登り、どういう訳か僕の膝の上に自分から乗っかって来た。茶色い抜け毛と茂みの葉っぱが黒いポロシャツにくっ付いてくる。汚れが目立つので、早急にどかそうと両手で猫を持ち上げると、デブ猫は僕の膝の上で力の限りに暴れて、僕の手を巨体で振り払った。それに加えてこの猫は想像以上に重たかった。この猫はこんな体でよく動き回れるなと本気で感心してしまう程だ。
我儘なデブ猫をどうやってどかそうかと必死に考えている最中に、遠くから聞き覚えのある声が聞こえた。この声はあのAさんの声だった。僕が手を振ると散歩中のAさんはペットのゴールデンレトリバーと共に僕が座っている木製ベンチへやって来た。
「M君が1人で公園にいるなんて以外だね…あれ? それ、猫だよね!?」
「うん、そうだよ。猫だよ」
他に何だって言うのだろか? どうみても間抜け面の太い猫としか言いようがない。
「可愛い~! 私、猫大好きなんだよね~!」
「犬は好きじゃないの?」
「両方とも大好きなの! 動物なら何だって好きなの!」
そんな動物大好きなAさんは、僕が密かに惚れている女性の1人であった。
同じ剣道部に入部している容姿可憐な美少女である。元気で明るく純真な彼女の虜になってしまう人は後を絶たない。恥ずかしいながらも僕もその一人だった。それが目的で剣道部に入り彼女と仲良くなってからその魅力はまた一段と増して行った。そしてAさんがあの馬鹿みたいに入学困難な高校に受験すると言いだしたので、僕もAさんを追うように第一志望をその『F高校』にした。Aさんと一緒になれるなら先生から出された課題の山も塾の宿題もどんとこいであった。そうして両親が加わって今に至る。
「ペルシャ猫だよね。これってM君のペットなの?」
ここでAさんと距離を縮める為に僕は、このデブ猫を利用して嘘をつこうと考えた。
「そうだよ。『リック』っていう名前なんだよ!」
「へぇ~変わった名前だね」
慌て『十二番目の天使』に出て来る主人公の息子の名前をデブ猫につけてしまった。そのデブ猫はヘラヘラと笑う僕の顔をジッと見て呆れた様に大きな欠伸を掻いていた。
「そういえばM君ってあの『F高校』に受験するんだよね?」
「え?……そうだけど、何でそんなこと今聞くの?」
Aさんから予期せぬ質問を受けた。『F高校』のことは忘れていたかったけど、Aさんとの会話を続ける為には言うしかないのだろう。「僕は貴方と同じ高校に行きます」と。
「実は私も『F高校』にしようかなって思っていたんだけどね、先生に相談したら私の成績じゃあとても無理だろうって言われちゃって…それで『F高校』の受験は諦めたの」
「えぇ!? それじゃあ『F高校』やめるの!?」
驚愕のあまり、ベンチから腰を上げようと体が勝手に動き出した。だが、膝の上で堂々と横になるデブ猫の体重に負けて、僕はベンチに座ったままAさんの顔を凝視した。
「いや、そんなに驚かなくても…」
確かにそこまで驚くことではない。でも自分の積み上げてきた努力の意味が、Aさんのたった一言によって見事に粉砕されてしまった、という事実への驚きは隠せなかった。
「M君はどこの高校に受験するの?」
「僕の第一志望は『F高校』になってるんだけど…」
頭の中で積み上げて来た今までの努力の意味は、Aさんの思いもしない言葉の一撃によって木端微塵に砕け散って綺麗に去って行ってしまった。
「M君すごいじゃん! がんばって! 応援するね!」
「あぁ……ありがとう…」
そう言い残すとAさんは、話が終わるまで律義に待っていてくれたゴールデンレトリバーを連れて軽い足取りで僕の前から遠ざかって行ってしまった。
数ページから全く進んでいない本に、今も僕の膝の上で横になっているデブ猫と、勉強に対して虚無感を抱きつつある自分。木製のベンチの上には本と猫と少年と、儚く散った恋色の高校生活の妄想が寂しく残っていた……。
― ― ― ―
本を読む気が起きない。ベンチから立ち上がる気力がない。膝上の猫を動かす行動力が全く出ない。このまま家に帰っても机に向かうこともしないで一日が終わるだろう。『F高校』への入試は取り止めにして、もっと簡単に入学できる高校にしようかな……?
そう考える僕の膝の上でデブ猫はまたしても大きな欠伸を掻いる。呑気な猫につられて俺も猫程ではないけど大きな欠伸を掻いた。目から流れた小さな涙が僕の頬を伝って落ちていく。欠伸をした後に流れる涙はどうにも好きになれない。意味もなく(生体的な意味とは別として)現れては消えていく涙。そう考えると欠伸の後の涙はどうにも余分な物でしか感じられない。僕は嫌いな涙を服の袖で脱ぐってから手に持っている本に目を移した。
「あら、アンタそんな所に居たのね!」
その声は本に移る目と同じタイミングで聞こえてきたのだ。野太い声に似合う体格の女性が僕のベンチに向かって歩いてくる。そうして僕の膝の上で横になるデブ猫をいとも簡単に持ち上げてしまった。それを見た僕は驚きのあまり大きな声が出てしまった。
「ごめんなさいね…読書の邪魔になっちゃったでしょ? 全くこの子ったら…」
こんな時に「とても邪魔でした」と素直に伝えられないのが僕だ。「そんな事ないですよ!」と笑って嘘をついた。女性に持ち上げられているデブ猫の細い視線が僕を見つめる。
「相手してもらって良かったはね…さぁ、お家に帰りましょうね、リックちゃん」
「えぇ、『リック』ちゃん!?」
なんとそのデブ猫の名前は本当に『リック』という名前だった。聞けば名前の由来は読書好きの親戚から付けてもらった名前だという。もしかして、この猫の名前って……
「この本から取った名前ですか?」
僕は『十二番目の天使』という本を女性に見せた。けれども女性の方は本に興味がなく、実際にその親戚の人が猫の名前を本から取って付けたのかは分からなかいそうだった。
「でも、もしかしたら、そうかもしれないわね…」
と女性は一言のこしてから僕の前を去って行った。あのデブ猫とはさよならの一言もなく別れた。勝手に現れては勝手に消えて行く。まるで欠伸の涙そのものだ。「だから僕は猫が嫌いなんだよ」と1人残されたベンチの上で小さく呟いた。
おわり
注意 この話にでてくる少年Mは作者のことではありません。




