下
父親に何と罵られようと、懇願されようと、若者は、部屋を出ようとはしなかった。
いつ自室に戻ったのか、記憶にはない。
ただ、治療をされていることから、彼の身に何が起きたのか、医者を呼んだ誰かは知っているのだ。
そう思うだけで部屋から出たくなかった。
あとは、本性を曝け出したあの男。
あのことを思い出すだけで、血が下がり、全身が震えてくる。
私の愛し方を知らなければならない……と、男は言った。
けれど、あれは、愛なんかじゃない。
あふれだす涙を堪えることなく、若者は枕を噛み締める。
死ぬかと思った。
殺されるかと。
すぐそこまで死が迫っているのを、何度感じたか。
首に絡む手、皮膚を喰い破ろうとする歯、皮膚を断とうとする爪、内臓を穿つ熱く固い杭。
男のすべてが、凶器だった。
幾人もの人の血を知る、残虐な凶器。そうして、自分は、残忍な嗜虐の主に捧げられた、生け贄に他ならないのだ。
たとえ殺されても惜しくもない。そんな存在だったのだ。
自分は、男に、父に、母に、すべてに騙されていたのだ。
なんて愚かな。
無様な。
最初は、そう、小鳥だったか。
朦朧とした意識の狭間に、男の寝物語めいた独り語りが散らばっている。
次は猫。
犬。
可愛くてたまらない。なのに、可愛がれば可愛がるだけ、怯え、やがては血をながす。
哀しくなって血を舐めた。
次は、啜った。
肉を咀嚼した。
愛しいからこそこの身にすべてを取り込もうと、飲み込んだ。
彼らはこの血肉と化すのだと。そう思えば、味など問題外だった。
ただ、ひたすらに、嬉しかったのだ。
怯えた、この私を恐れたモノたちが、否応なく私とひとつになる、その現象が。
至福だった。
しかし。
それが、異端だと。
父が私を詰った。
出来損ないだと、化け物だと、殺そうとした。
哀しかった。
そう。
私は家族を愛していたのだから。
父も母も………。
みんな、愛しかった。
しかし。
私が愛するものは、だれも、私を愛してはくれなかった。
だから、母が私を庇ってくれたのがとても嬉しかったのだ。
父を、まさに父を絞り殺しかけていた私を止めるための方便だったとしても。
母が庇ってくれたから、母の決めた罰に従うことを決めた。
そうして、私は今、ここにいるのだよ。
ここにこうして、ただ闇を見つめながら。
そんな毎日に飽き飽きしていた時に、おまえが現れた。
私がどれほど自分を律したか、わかるか?
私が本来の愛し方でおまえを愛せば、おまえは私を嫌っただろう。
嫌うだろう?
そう。
わかっている。
わかっているのだ。
けれど。
あのままであったとしても、おまえは何故だか私から離れてゆこうと考えていただろう?
許せるはずがない。
おまえは、私のモノなのだ。
父が私にくれた、私の愛する者。
存分に愛せる者。
愛してもいい存在なのだ。
誰にも会いたくない。
誰が知っているのか判らない、もしかして、家のものはみんな知っているのかもしれない。
そんな状況で、家族で食事をしろと、男の所へ行けと、父親は言うのだ。
若者は、耳を塞ぐ。
目を、口を、きつく閉ざした。
あの夜の無防備なさまとは違い、今若者の部屋の扉には内側から鍵がかけられている。
気づいてすぐに若者がしたことだった。
全身の痛みに挫けそうになりながら、それでも、這いずるようにドアまで行き、そうして、鍵をかけたのだ。
掛けた刹那に、その場から動く気力を失ってしまったが、それでもかまわないと、思った。
なのに、今、部屋に居るのは、誰なのだ。
喚き立てる父親の気配が消えたしばらく後に、外から鍵が外される音がした。
ベッドの上に起き上がった若者は、ドアを凝視せずにはいられなかった。
そういえば、この部屋の前の持ち主は、彼だったのだ。鍵のスペアを持っていたのだろう。
「×××」
名前を呼ぶのは、兄だった。
下の兄が、怖いようなまなざしで、若者を見据えている。
見下ろしてくる瞳にあるのは、憎悪だろうか。
わずかばかりの憐憫と、それをすら越える、憎悪だった。
なぜ。
判らなかった。
あまり親しく接したこともない、他人のような兄である。
顎を持ち上げられ、咄嗟に走った悪寒にその手をたたき落としていた。
「兄に抱かれたのか」
全身が熱くなった。
「よかったか?」
震える。
「感じてみせたのか? 善がってみせたのか?」
首を振る。
そんなことはないと。
なぜ、そんなことを言われないといけないのだと。
そこでふと思い出す。
若者に不安を覚えさせた、彼の一言を。
『可哀想に』
この兄は知っていたのだ。
若者に向けたことばの奥に、彼は男がどういう者なのかを知っていたのだと、今になって、やっと、理解する。
ああ。
そうなのか。
刹那若者が悟ったことを、彼は感じ取ったのだろう。
「そんな目で見るなっ!」
首を絞められていた。
ベッドの上で、下の兄が若者に馬乗りになる。
笑える行為だ。
なぜか、こみあげてくる笑いを、若者は堪えることができなかった。
首を絞める行為自体も、あの男を思い出させる。
嗜虐癖のある男は、おそらくこの下の兄をもその毒牙にかけたのだろう。
だからこそ、一見して好青年と言った風情のまま年を経たこの兄も、心を病んでしまったのだ。
自分に嫉妬するなど。
自分を見ていなかったあの男のまなざしの先には、きっと、この兄の存在があったのだろう。
馬鹿みたいだ。
遠のいてゆく意識の中で、若者は、そう一人語ちていた。
おそらくは、女中が偶然若者のようすを見に来なければ、若者はそこまでの運命だったろう。
しかし、若者は助かった。
錯乱した下の兄は、そのまま屋敷の奥の部屋へと隔離され、医者が呼ばれた気配があったが、若者は詳しくは知らないままだった。
血の繋がったふたりの兄からの仕打ちを鑑みるに、父親も若者に強く出ることを憚ったのか、数日は若者をそっとしておかれた。
しかしもとより大家の当主である彼の父親は、我意を抑えることを苦手とするらしい。
絶望に立ち尽くす若者に、父親は容赦なかった。
拒絶も謝罪も聞き入れることなく、いつかと同じく、土蔵に閉じ込めた。
対峙するしかなくなった男に、若者は震える喉から、
「なんでっ! どうしてっ!」
絶望混じりの叫び声をだすのが精一杯だったのだ。
「煩い」
男の鞭のような声に、若者は竦むよりなかった。
そうして。
いつかと同じ、狂った宴が繰り広げられた。
それはいつしか日常となった。
喉の奥で男が笑う。
止めどなく溢れる涙が目に染みる。染みたことでまた涙があふれだすのだ。
「もう、逃げられないな」
悦に入った男の声に、若者の悲鳴だけが反応をする。
差し入れられるのは、ふたり分の膳だった。
部屋に若者の着物までもが揃えられていることに気づいて、彼は逃げ出そうとした。
若者を捕らえる男の腕がそれを許しはしなかった。
「おまえは私のものだ」
存分に愛してやろう。
男の存在は、そこにあるだけで、若者にとっては凶器以外のなにものでもなかった。
狂った愛は、ただ若者を傷つけるばかりで、若者は窶れ果てていた。
箍の外れた男に、容赦ということばはなかった。
若者の血を求め、男をただ受け入れることを望んだ。
流れ出る血を舐める男に怖気がこみあげてくる。
傷の疼きは日常となった。
けれど、若者は、これが最終地点ではないことを知っていた。
危険な人食いの化け物と同じ部屋で暮らす恐怖を、何に例えればいいのか。
狂いたかった。
何も考えることができなくなればいいと、そう願った。
けれど、若者はすべてを明瞭に感じることができた。
苦痛は苦痛として。
ほんのわずかばかりの快感を快感として。
男は、苦痛に歪む若者の表情にそそられると嘯いた。
絶望に流す涙を、愛しいとささやく。
狂気を隠そうともしなくなった男に、震えるのみだ。
部屋の隅、ベッドの隅で小さく震える若者を、男は抱き寄せる。
まるで、小さな子供が気に入りの人形にそうするかのように、片時も放すことはない。
そうして、肉を食まれる恐怖に怯える若者を知りながら、血を啜るのだ。
空気が動いた気配があった。
食事が運ばれてきたのだろうと、男は振り返ることさえもしなかった。
喘ぎを紡ぐくちびるにそっと自分のそれを寄せる。
触れ合ったそこから、するりと舌を滑り込ませた。
もう、若者が彼の施すどんな行為をも拒むことはない。
ただ、眉根に寄せられたかすかな縦じわが、行為そのものを望んでいるのでもなければ好んでいるのでもないのだと,声にすることなく物語るだけだった。
それでもいい。
存分に愛せる相手がいる至福に比べれば、そんなことは些細な問題でしか なかった。
意識を失った若者の湿った髪を撫でながら、ふと、男は思い出す。
犬の次に愛したのは誰だったろう。
いつだったか、めっきり口数の少なくなった若者が、ふと漏らした一言が、男の記憶を刺激したのだ。
『あんたが本当に愛したのは、下の兄なんじゃないのか』
若者ではない弟のことだ。
『可愛いことだ』
顔を弛ませてそう言うと、若者は真っ赤になって顔を背けた。
嫉妬したのかと思えば、愛しさも募る。
その後の行為は、いつにもまして若者を泣かせるものとなったが、男が後悔することはない。
若者は自分の不用意なことばに後悔したに違いないだろうが。
「馬鹿なことを」
上の弟のことなど、忘れていた。
途切れた過去の記憶のなか、血に染まった少女と泣きわめく弟の姿があった。
『愛してるんだ』と、掻き口説いてくる小学生の弟の顔があった。
涼しげな白皙の面を醜魁に歪めて、抱きついてくる。
『あんな下賎の娘に兄さんを取られたくない』
そう言った弟の手に握られていたナイフは、血に染まっていた。
あの子の血だと思えば、喉が鳴った。
浅ましいと震えはしたが、止めることはできなかった。
弟から奪い取ったナイフを舐めずにはいられなかったのだ。
甘い血の匂いにそそられて、ナイフでは物足りなくなった。
倒れる少女は既に事切れていた。
悲しみよりも、愛しさよりも、血を舐めたいと、そう思う自分を嫌悪した。
それでも。
誘惑に負けたのは自分だ。
愛しい少女が流す命のワインを、少女を形作っていた肉を、口にせずにはいられなかった。
そこを父に見咎められ、そうして、自分は今、ここにこうしている。
何十年も、ただここにいるのだ。
しかし、今は、愛しい存在が腕の中にいる。
「×××」
旨酒に酔う心地で、若者の名を口にする。
これ以上の至福はない。
そう思ったときだった。
「兄さん」
と。
背中から冷水を浴びせかけられたかのようだった。
振り向いた先には、いつかのようにナイフを手にした弟の姿があった。
能面のようにどこかバランスの悪い泣き笑いの表情で
「舐めてよ」
と。
嫌悪とも恐怖ともつかない感情に囚われていた男は、数瞬だけ反応が遅れた。
しかし、それが、致命傷となった。
若者の。
「×××っ!」
あっけなく事切れた若者を呆然と見下ろす男に、上の弟はナイフを差し出した。
「×××の血だよ。兄さんにあげる。だから、いつかみたいに舐めてよ」
呆然とただふたりの弟を交互に見る男の耳に、外の騒動と何かの爆ぜるようなぱちぱちという音が聞こえてくる。
男の鼻孔を、いがらい何かの燻る匂いが満たす。
「なにをした」
喉に絡む声で、問いただす。
「外がうるさいねぇ。みんなしてぼくを狂ってるって入院さそうってするから、逃げてきたんだ。ああ、途中で、ちょっと、火をつけたけど、別にいいよねぇ」
「ぼくはただ兄さんが大好きなだけなのに」
幼い口調でそう言ってしなだれかかろうとする弟を避けて、男は立ち上がった。
腕に、若者の亡骸を抱くのを忘れてはいない。
ナイフをサイドテーブルに置きながら、
「悪いが、お前のことを、私は愛しいとは思わない」
昔は憎んだこともあったろうが、今は何とも思わない。
口にしなかった最後のことばは、しかし、弟には通じてしまったのだろう。
「嘘だっ!」
振りかぶった手には、若者の血に染まったナイフがあった。
それが、男の肩口を深く強かに切り裂いた。
飛び散る血潮が、弟に降り掛かる。
「兄さんの、血……」
呆けたように自分の両手を見る彼を、最後の力で男が部屋の外へと追いやった。
階下に複数のひとの気配がしたと思えば、何度も外から扉を叩く音が聞こえたが、男は内側から鍵をかけた。
この傷では駄目だろう。
「先に行かれてしまったな」
ほんの少しずつ、自分に愛情らしきものを見せるようになった若者の血以上を彼は欲しいとは思わなかったが。
それでも、それは、彼の彼たる本能だったのかもしれない。
泣きわめくこともない若者の首筋にそっと口を寄せた。
そうして、ひとくち、歯を立て肉を喰いちぎる。
肉を静かに咀嚼する。
ふと血と肉以外の何か別の味がすると思った彼は、自分が泣いていることに気づいた。
意識が遠ざかる。
かすむ意識の中で、彼は若者をかき抱いた。
「これで、おまえとひとつ……」
それが男の最期のことばだった。
男は静かに目を閉じた。
煙が、炎が、ふたりの亡骸を燃やし尽くした。
そうして、最期の男の望みは叶ったのだ。
後には、ただ、土蔵の骨組みだけが残っていた。
上下で大体原稿用紙43枚程度。
もう少し短い話になる予定だったのですが、長くなりました。
下の兄のせいですね〜。
まさか参戦するとは、工藤自身思いもよりませんでした。
少しでも楽しんで頂けると嬉しいです。