上
登場人物に名前がありませんので、ご注意ください。
少々ヘビーな表現がありますが、自己責任でどうぞ。
カニバリズム的な箇所もあります。
燃え上がる炎は、貪婪にすべてを飲み込もうと数知れぬ舌をひらめかせつづけている。
黒や白の煙が翻りつづける深紅とともに既に室内に充満し、そこに残るものはいないだろうことを予想させた。
しかし。
予想は覆される。
熱に炙られ今にも焦げてなくなろうとする床の上に倒れ伏している者の背中が見える。
既に事切れているだろう均整のとれたからだのラインは、成熟した男のものだ。
身体の下に何かを抱き守るかのような体勢で、ただ炎に飲み込まれてゆこうとしていた。
男が身体の下に何を守ろうとしているのか、熱風にあおられる褐色の髪からおそらくはひとだろうことが推し量れるのみである。
未だ奇跡的に炎の魔手から逃れられていた男の顔には、どこか満足そうな笑みが刷かれている。しかし、それが見えるのも時間の問題であるようだ。魔の手は既に男の身体の大部分を燃やし尽くしていた。
「なんでっ! どうしてっ!」
絶望混じりの叫び声だった。
「煩い」
まだ少年の域を出ない褐色の髪の若者が涙声で首を振るのを一喝したのは、鋭い目元がその内面を如実に物語っているだろう、壮年の男だった。
男の鋭い一声に若者の癇癪じみた叫びがやまる。
取って代わったのは、怯え故とわかる全身の震えだった。
黒檀に上質の布を張った椅子に悠然と腰を下ろしたまま、男は、若者を見上げる。
それを、まるで今にも沼から這い上がってくる大型の爬虫類ででもあるかのように、若者は、全身を緊張させて男の次の動きを警戒するのだ。しかし、男の視線の強さに堪えられないのか、その凡庸な褐色の瞳が、男の切れ長の黒瞳を避けるかのように逸らされた。
男の口角が引き攣れるかのようにかすかな笑いを形作る。
視線を外した方が負けなのは、どの生き物にも言えることだというのにと、まるでそう言いたげな呆れた風情で、それでいて暗黙のうちに自身が勝敗を決したのを意識しない若者を哀れむかのように。
男の利き腕がまさに爬虫類めいた素早さでひらめく。
室内の薄暗さに溶け込むかのような泥大島の紬の袖から、筋張った腕が垣間見えた。
「っ!」
若者の喉から、悲鳴になりきらない衝撃がただほとばしる。
腕を掴む男の力に、男を拒みつづけた七日間が無に帰すのを、まざまざと感じていた。
まるで水中に引きずり込もうとする大型の爬虫類のような動きに無駄はない。男は若者の抵抗をものともせずに、床の上に組み伏せた。
二十畳ほどの室内には和洋の別なく部屋の主の嗜好が取り込まれ、落ち着いた風情をかもしている。
見るものが見れば地味だと感じかねないほどの色調の中、時折、螺鈿細工に使われた貝や貴石の類いが障子越しの光を鈍く宿す。
しかし。
どれほど居心地よく設えられていようとも、ここは、牢獄だった。
障子を開ければ、そこには牢獄の証のように鉄の格子がその存在感を見せつけている。
ここは、広大な敷地を誇る屋敷の一角を占める土蔵の中なのだ。
男が何故ここに閉ざされているのか、若者はその身を以て、理解していた。
自分がこの男にとって、何なのかも。
自分にとってこの男が何なのか。それがふと思い浮かんでくるたびに、気が狂いそうになった。
なるだけで、決して狂えはしなかったが。
狂っていた方が幸せなのには違いない。
けれども。
実際に狂っているのは、この男の方なのだ。
残酷な遊戯を好む、この半ば狂った男。
この男の生け贄となった自分を思い出すたびに、若者は、こみあげてくる吐き気に苛まれるのだった。
なぜなら。
母親が違うとはいえ、この男と自分とは、実の兄弟だからである。
老いらくの恋に狂った父が、母を攫うようにして囲い込み、自分がうまれた。
この地方一の分限者である一族の当主に逆らうものはいず、そうして母はいつしか大家の当主夫人の座におさまった。
ただ、母にとって、彼は苦く暗い期間の証なのだろう。
母の愛情を感じることは、きわめて稀だった。
十年以上前だろうか。
まだ幼かった若者が、妹を可愛がる母の姿に悲嘆に暮れて母屋を抜け出しさまよった。
居場所などないのだと、幼い心に絶望を宿した。
絶望は涙になり、涙は嗚咽を呼んだ。
そんな彼に、男は声をかけたのだ。
迷い込んだ庭の奥、洋館である母屋とは趣の違う、海鼠壁に蔦が這う、土蔵の二階の窓から。
自分の泣き声に興味を惹かれたのだと、男は言った。
その頭の中では、すでに残酷な遊戯が組み立てられていたのだろうか。
判るはずもない。
男は囚われ人ではあったが、牢の中では、支配者だった。彼に忠実な老爺と老婆を従えただけの、孤独きわまりない。そうして、また、危険きわまりない。
ともかく………と、若者は回想する。
自分は、肉親の愛情に飢えていたのだと。
多忙な父とは滅多に顔を合わせることもない。
跡取りは既に決まっている。若者より二十も歳上の兄がいるのだ。兄が男の弟だと知ったのはいつだっただろう。
父にとっても、母にとっても、自分はいてもいない、どうでもよい存在に過ぎないのだ。
幼い頃の自分にとって、どうしようもないくらい両親が世界のすべてだった。
あの日、男の使いだと言う者が父を訪ねて来るまで、父は実際自分になど感心はなかったのに違いない。
若者は男の使いを知っていた。男が名前を呼んでいたが、覚える気もなかったせいか、男が老爺の名を呼ぶのを聞いていたというのにいざとなると思い出すことができなかった。どちらにしても、名前を覚える必要などありはしなかったのだ。男は若者が彼以外に声をかけることを嫌っていたからである。
ともあれ、使いの老爺が父への使いで母屋に来たのは、若者が男に乞われるままに土蔵を訪れるようになった一月後のことだった。
もっともそれまでの訪問は、実を言えば訪問と呼べるようなものではなかったのだ。若者は土蔵の外から、男は土蔵の二階にある彼の部屋の窓から顔を出してのことにすぎなかった。
土蔵に暮らす、兄よりも年長の男。彼の言動に不可解なものを感じたことはついぞありはしなかった。それでも、彼が土蔵に閉じ込められているのは事実で、彼がもうひとりの兄であるということも、若者は男から聞かされて、知った。
一度、
『どうして閉じ込められているの』
と、聞いたことがあった。
子供だからこそ許される率直さだったろうと、若者は思い返す。
『愛しすぎるからだろう』
しばらくの沈黙の後に、静かな声で返されたのが、それだった。
『愛しすぎる?』
若者は小首をかしげて、ただ、繰り返した。
わからなかったのだ。
その、抽象的ともとれる短いことばの奥に、何が潜められていたのかを。
それが若者の骨身に刻み込まれることになるには、禁忌を犯すかのような土蔵への訪問が家族公認のものとなった後、十年以上が必要だった。
呼ばれる度に土蔵に行くことは、若者に課せられた役割となった。
『これで、おまえの居場所ができたろう。父も母も、おまえを無碍にすることはできなくなった』
そう言って、男は若者を膝に抱き上げる。
頭を撫でてくれた。
はじめの一月とは異なり、若者は、男の部屋に入ることができるようになった。
土蔵の脇の小屋に声をかけると、老爺が携えた鍵束から鍵を出す。
それを使って、老爺が土蔵の扉を開く。
若者が土蔵に入ったのを確認して、老爺は扉に鍵をかけるのだ。
老爺は、扉の外で、ただ若者が男に解放されるのを待つだけでよかった。
そう。
男のことば通り、両親の若者に対する態度は、それまでとは異なった。
きちんと両親が自分を見てくれる。どこにいても無視をされない。それは、幼い頃の彼にとって、この上ない至福だった。
しかし、それまで彼が味わったことのない幸せな毎日の中でただひとつだけ彼を不安にさせたのは、男ではないもうひとりの兄が彼を見るまなざしだった。ひとことだった。
『可哀想に』
たまさかに顔を合わせるつど、ぽつりとつぶやかれる兄のことばは、若者の心の奥深くに沈む小さな棘のようなものになって、彼の記憶の片隅に沈殿しつづけたのだ。
兄のことばは忘れた頃に不意に顔をのぞかせて、彼を不安にさせるのだ。
いったい何が、可哀想なのか。
問いただしたかったが、兄は本宅の外に家を構えていて、滅多なことでは会うことはできなかった。
兄に責任転嫁をしているだけだとは判ってはいたが、若者は考えずにはいられなかった。
兄に問いただす機会があれば、そうして兄が率直に答えてくれていれば、おそらくは、なんとしてでも男の元から離れることを考えたに違いないのだ。
しかし、それは、秘されつづけた。
若者は何も知らずに、ただ、危険きわまりない男との時間を持ちつづけたのである。
いつしか、若者にとって、両親よりも男こそが大切な存在になっていた。
そうして。
十年の歳月が過ぎた。
男は博識で、若者が思いもよらぬようなことを詳しく話してきかせることもあれば、ただ彼をモデルに絵を描くだけの時もあった。なにをするでなく、ただ時間を潰すだけの時もあった。
外界から隔離された狭い空間で過ごすひとときを、若者はいつしか心待ちにしていた。
しかし、いつ頃からだろう。
心の奥底から滲み出す不安を覚えるようになったのは。
やさしく触れてくる男の手が、自分を見据える男のまなざしが、自分ではない誰かにむけられているように感じられた。
誰かに向けられているかに思えた瞳のその奥に、得体の知れない熱を感じて、どうしようもなく不安になる。
瞳のその奥にある熱だけは、たった今男の目の前に居る自分に対するものだったからだ。
誰を見ているのか。
何を希望しているのか。
十七になった若者には、気楽に訊ねることはできなかったのだ。
会話がなくても不満のなかった居心地のよい雰囲気が、がらりと変貌を遂げた。
居心地の悪くなった場所を訪ねることが苦痛になった。
足が進まない。
とはいえ、これは、若者に課せられた役割だった。これだけが自分の存在意義なのだ。この家での自分の価値はそれだけなのだ。
十年になる時間の流れが、いつしか問わず語りに若者にそれを理解させていた。
それでも行きたくない。
行きたくないのだ。
若者の足が鈍る。
あの、熱。
誰か他人に向けていながら、それでいて目の前の自分を対象にする。
あくまで自分は身代わりなのだと、無言のうちに語りかけてくる。
男にとっての自分の価値も、ただ、それだけなのか。
自分を見てほしいだけなのに。
ただそれだけなのに。
鋭く黒いまなざしが、誰に向けられているのか。
誰を思っての、熱なのか。
若者の足が、ぴたりと止まった。
「情けない」
いつしかあふれだしていた涙を、若者は掌で拭った。
その日、若者が男の元を訪れることはなかったのだ。
そうして、それが、きっかけになるなどと、どうして、若者に予測することができただろう。
若者は夜中に叩き起こされた。
口を開く余裕もなく、寝床から引きずり出された。
頬を張られ、ジンとしびれた頭に、
「あれとの約束を破ったのかっ!」
怒気と怯懦との混じった声が響いて、それが父親だと、若者ははじめて知ったのだ。
どうして。
訪ねる間もない。
引きずられるようにして、広い庭を突っ切らされた。
月も朧に霞む、春のこと。
足下もさだかではない暗い闇、温む外気が、若者を取り巻いていた。
「開けろ」
「旦那様っ」
あたふたと出てきた老爺に、
「土蔵の鍵を開けろ。この馬鹿者をあの化け物のところに放り込むんだ」
「っ!」
全身を土蔵の床に強かに打ち付けた。
痛みに脈打つ全身が、心臓になったような気がした。
「己の役割をおろそかにするな。さっさと、行け!」
錬鉄の扉が重い響きを立てて閉じられる。南京錠が無情にも掛けられる音が若者の耳を射抜く。
しんとした石の床の冷たさを若者はまざまざと感じた。
行きたくはなかった。
それでも。
行かなければならないのだ。
愚か者と、化け物と、自分と男とを罵った父親の声が耳の奥に谺した。
立ち上がろうとして、目眩を感じ若者がその場に突っ伏す。
暗い土蔵の床を這うようにして、若者は階段を探る。
そのまま、二階へと這いずり登った。
さきほどの騒ぎで、男は起きたのだろう。
ちろちろと揺れる灯りが階段からでも見えた。
痛みとは別に、心臓が早鐘を打つ。
会いたくない。
けれど。
会わなければならないのだ。
あの目に、さらされなければならないのだ。
唾を飲み込む。
怖かった。
不安もなにもかもを凌駕して、約束を違えたというただそれだけが、若者を怯えさせていた。
しかし。
すべては一瞬にして打ち砕かれた。
素早く伸びてきた腕が、若者の肩を掴んだのだ。
「っ!」
涙が込み上げてきた。
情けないと思う余裕もない。
「何を気に入らないことがある?」
耳元でささやかれた。
「私の元へ来ることで、おまえの望みは適ったろう。何の不満がある」
何が足りない?
心臓がこれ以上はないというほどの速さで血液を全身へと駆け巡らせるせいで、血管が今にも突き破られそうだ。
男の顔が、真上から若者を見下ろしている。
背中に当たる、絨毯の感触さえちくちくと、神経に障った。
灯りを背負った男の顔は見えない。
しかし、不思議とその一対の瞳だけが、けだものじみた欲望を隠すことなく彼を見ているのだと、まざまざと感じられた。
男の熱い息をすぐそこに感じ、自分のとは違う、静かな心臓の音まで、若者は感じることができた。
脂汗がにじみでる。
「私はおまえにやさしかったろう?」
静かな、静謐なとさえ言える声だった。
それでも、若者の背中が、ぶるりと震える。
逆毛立つ。
「充分すぎるほど堪えた。そうは思わないか?」
そう言い放った途端、男がなにか別物へと変貌を遂げたような、そんな錯覚が若者に襲いかかった。
目の前にいるのは、若者のよく知る男のはずなのに。
冷たく静かで穏やかな、自分の孤独を癒してくれた男ではなかったろうか。
だからこそ、あれほど自分は悩んだというのに。
男の黒いまなざしが、自分を凝視してくるのを痛いくらいに感じて、若者は全身の震えを抑えることはできなかった。
「おまえは、私を知らなければならない」
私の愛し方を。
言い抜きざま、男は若者の首筋に噛みついた。
恐怖に竦み上がった若者の喉は、掠れた悲鳴を上げただけだ。
目をつむることも忘れて、若者は、ただ、自分の欲を満たそうとする男に揺らされながら、天井を見上げつづけた。
痛みも何もかも、すべては夢の中のようにぼやけてはいたが、ただこれは現実なのだと認識する意識の片隅が、その日幾度目かの涙を流すことを容認していた。




