愛縛のペンダントは首輪に変わる〜過保護な公爵に罠を仕掛けられていたので、今度は僕が支配します〜
2作目も執着溺愛系ですが、立場逆転劇にしました。性的描写はないのですが、ダークな内容なので苦手な方はお気をつけください。
その日の午後、アルドは庭園の東屋で、友人のセシリアと久しぶりにお茶をしていた。
風に揺れる淡い金髪を耳にかけながら、アルドはカップを両手で包み込む。四年前と比べて少し痩せた頬、けれど困ったように下がる眉の柔らかさは変わらない。中肉中背の、どちらかといえば線の細い体つき。仕立ての良い上着を着ていても、どこか着られている印象を拭えないのは、生来の飾らなさゆえだろう。子爵家の生まれらしい、飾らない品の良さが所作の端々に残っていた。
「アルド様、最近お元気がないように見えますわ。何かあったのですか?」
「いや……ただ、少し疲れているだけだよ」
言いかけて、アルドは言葉を濁した。夫であるジークハルトへの本音——最近、息が詰まるように感じることが増えたという話は、誰にも打ち明けたことがなかった。胸元に下げた、結婚祝いにジークハルトから贈られたペンダントに、無意識に指先が触れる。魔石が淡く発光する意匠の美しいそれを、アルドはお守りのように肌身離さず身につけていた。
「実は、少し……夫との距離感に、悩んでいて」
セシリアにだけ、そっと打ち明ける。誰にも言えなかった小さな弱音だった。
◇◆
セシリア嬢と話したことで少しだけ気持ちが晴れたその夜、夕食の席でジークハルトが唐突に言った。
長身を椅子に預け、燭台の灯りに漆黒の髪を光らせながら、彼は静かにワイングラスを傾けている。すっと通った鼻筋と、彫刻めいた輪郭。均整の取れた体つきは、剣を扱う鍛錬の跡を隠しきれず、優雅な礼服の下にも隙のない筋肉の張りが窺えた。整った顔立ちに浮かぶ微笑は、社交界でも「氷の公爵」と呼ばれる冷徹さを微塵も感じさせない、アルドにだけ向けられる特別な柔らかさをまとっていた。四年経った今も、その笑みを向けられるたびに、アルドの胸はまだ小さく跳ねてしまう。
「セシリア嬢とのお茶会は、楽しかったか? ——最近、少し悩んでいるようだが」
アルドの手が止まった。
「……どうして、それを」
セシリアには本当に、誰にも言わないでほしいと念を押していた。あの場には二人きりだったはずだ。
「心配しているだけだよ。君のことは、何でも知っておきたいから」
ジークハルトは変わらぬ笑みで答える。長い指がグラスの脚をなぞる仕草には、いつもと変わらない優雅さがあった。だがその言葉が、いつものように甘い響きには聞こえなかった。
食事を終え、自室に戻ったアルドは、無意識に、まだペンダントに触れていた。ふと、その滑らかな魔石の表面に、指先で触れたことのない小さな刻印があることに気づく。目を凝らすと、それは見覚えのある紋様だった——結界術と、遠隔視の魔法陣を組み合わせた、複合術式の刻印。
血の気が引いた。
震える手でペンダントを外し、魔法の心得のある侍女に密かに調べさせると、答えはすぐに返ってきた。
「これは……〈視の魔石〉です。持ち主の周囲の映像と音声を、遠隔で観測できる術式が組み込まれています」
お互いに心から信頼し、愛を深めていると、思っていた。
常日頃、過保護なのは大切にされている証だと、信じていた。
けれど今、肌身離さず身につけていたそれが、監視の道具だったと知って、アルドの中で何かが静かに崩れていく音がした。
◇◆
寝室の扉を閉め、二人きりになった夜。アルドはずっと胸にしまっていた言葉を、ようやく口にした。
「ジーク、話がある」
「なんだ、改まって」
ジークハルトは寛いだ様子でグラスを傾けていたが、アルドの表情を見て、その手を止めた。
「あのペンダントのことは、もう知っている。侍女に調べさせた」
沈黙が落ちた。ジークハルトの顔から、笑みが静かに消えていく。
「……守るためだった。それだけだ」
「守るためなら、なぜ黙っていた? なぜ、僕に選ばせなかった?」
アルドの声は震えていたが、それでもまっすぐにジークハルトを見た。
「僕は、心から信頼し合って、愛を深めていると思っていた。この四年間、ずっと。でも違ったんだね。君にとって僕は、対等な相手じゃなくて、見張っておくものだったんだ」
「そんなつもりは——」
「離婚してほしい」
その一言で、部屋の空気が凍りついた。
ジークハルトは長い沈黙のあと、静かにグラスをテーブルに置いた。
「……本気で、言っているのか」
「本気だ。もう、こんな形で見張られるのは、耐えられない」
ジークハルトの瞳に、これまで見たことのない揺らぎが浮かんだ。けれどそれも一瞬で、彼はいつもの完璧な仮面を被り直す。
「わかった。君の意志は、尊重しよう」
あまりにあっさりとした返事に、アルドは逆に不安を覚えた。だが、それ以上何かを言う前に、ジークハルトは背を向け、部屋を出て行ってしまった。
一人残されたアルドは、外したままのペンダントを握りしめる。
——これで、終われる。
そう思おうとしたけれど、なぜか胸の奥は、少しも軽くならなかった。
◇◆
実家に戻ってから、半月が過ぎていた。
子爵家の屋敷は、四年前より幾分か落ち着きを取り戻していた。ジークハルトからの援助のおかげで領地の立て直しは進み、かつての困窮が嘘のように、使用人たちの顔にも余裕が戻っている。それを見るたびに、アルドは複雑な気持ちになった。この安寧も、結局はジークハルトが与えたものだ。
「アルド様、少しよろしいですか」
声をかけてきたのは、先代からこの家に仕えている老家令、ゴードンだった。白髪の交じった眉を寄せ、どこか言いにくそうにしている。
「どうしたんだ、そんな顔をして」
「実は……離縁の話が出ていると耳にしまして。もし本当に籍を抜かれるおつもりでしたら、旦那様……いえ、公爵様との結婚前の書類を、お渡ししておいた方がよいかと」
ゴードンが差し出したのは、古びた書類の束だった。四年前、子爵家が財政破綻した当時の取引記録だという。
「これが、どうかしたのか?」
「当時は気に留めませんでしたが……先日、経理を見直していて気づいたのです。あの年、うちが立て続けに取引を切られた先は、すべて同じ商会の傘下でした」
ゴードンが指し示したのは、複数の商会名。アルドには馴染みのない名前ばかりだったが、その全てに小さく書き添えられた紋章の写しを見て、アルドの手が止まった。
見覚えのある紋章だった。ジークハルトの執務室で偶然目にしたことのある——公爵家の裏事業を束ねる、非公開の商会の印章。
「まさか……」
「私も、確証はございません。ですが、もし……もしあの没落が、最初から仕組まれたものだったのだとしたら」
ゴードンの声は震えていた。長年この家に仕えてきた老人にとっても、それは口にするのが辛い可能性なのだろう。
その夜、アルドは眠れないまま、蝋燭の灯りの下で書類を何度も読み返した。日付、金額、商会の名前——一つ一つを辿るごとに、偶然では片付けられない一致が浮かび上がってくる。
四年前、社交界で見かけるたびに、遠くから憧れていた人。いつか言葉を交わせたらと、密かに願っていた人。
その人が、自分の家を追い詰めて——狩っていた。
出会いも、結婚の申し出も、何もかもが、最初から仕組まれた罠だったのだと知って、アルドの中で、これまで積み上げてきた「大切にされていた」という記憶の全てが、音を立てて崩れていった。
震える指先で、書類を握りしめる。
——僕は、選ばれたんじゃない。
——狩られただけだったんだ。
涙は、なぜか出てこなかった。代わりに、腹の底から、これまで感じたことのない冷たい怒りが、静かに込み上げてくるのを、アルドは感じていた。
◇◆
婚姻解除の儀は、王都でも由緒ある神殿の奥、契約の間で執り行われた。
高い天井から差し込む光が、中央に据えられた石の祭壇を照らしている。祭壇の上には小さな炉があり、そこに絶えず燃え続ける、青白い魔法の炎が揺れていた。この炎こそが、二人の契約の証——そして、心の真偽を映す鏡だった。
アルドは白い儀装をまとい、祭壇の前に立っていた。
向かいには、同じく儀装に身を包んだジークハルトがいる。
半月ぶりに顔を合わせた彼は、記憶にあるよりも幾分やつれて見えた。けれど、その漆黒の瞳の奥には、変わらず静かな熱が宿っている。その眼差しに見据えられるだけで、身が竦むような圧を感じた。
——もう、迷わない。
アルドは握りしめていた拳を開き、祭壇の炎に向き直った。脳裏には、あの日ゴードンから渡された書類の一枚一枚が、まだ焼きついている。
神官の厳かな声が、儀式の間に響いた。
「双方、婚姻契約の相手への想いに偽りなきことを、この炎に誓え。もし心に一片でも未練が残るならば、炎は消えず、婚姻契約は続く」
まずはジークハルトが、静かに口を開いた。
「私は——」
そこで、初めて言葉に詰まる。数秒の沈黙のあと、彼は続けた。
「私は、アルドを、想い続けている。この気持ちに、偽りはない」
炎は、揺らぎもしなかった。当然だ、と誰もが思っただろう。ジークハルトの執着は、この場の誰の目にも明らかだったのだから。
次は、アルドの番だった。
深く息を吸い、これまでの四年間——憧れ、幸福だと信じていた日々、そしてすべてが仕組まれていたと知った、あの夜の絶望を、一息に振り払うように、アルドは言葉を紡いだ。
「僕は、ジークハルトを、もう想っていません。この結婚に、これ以上の未練はありません」
声は、震えなかった。自分でも驚くほど、はっきりとした声だった。
けれど。
——炎は、消えなかった。
それどころか、アルドの言葉に呼応するように、青白い炎はほんの一瞬、色を濃くして激しく揺らめいた。
神殿の間に、重い沈黙が落ちる。
「……そんな」
アルドは、自分の目を疑った。怒りも、絶望も、これ以上ないほど本物だったはずだ。裏切られ、嵌められていたと知ってもなお、この四年間で積み上げた記憶のどこかに、まだ拭いきれない未練が残っているというのか。
顔を上げると、ジークハルトと目が合った。
その表情には、安堵と歓喜が、隠しきれずに滲み出ていた。長い睫毛の下の瞳が、微かに潤んでいる。
「——ほら。やっぱりだ」
囁くような声だった。勝ち誇るというより、縋りつくような響き。
「君の心は、まだここにある。私から、離れられない」
その声を聞いた瞬間、アルドの中で、何かが冷たく凝縮していくのを感じた。
屈辱だった。あれほどの覚悟をもって臨んだ誓いが、この場で、この男の前で、自分すら蓋をしていた未練ごとあっさりと暴かれてしまった屈辱。かつて自分がこの男に感じていた憧れも、幸福も、絶望も——すべてを見透かされ、踏みにじられたような、抜けない棘のような感覚。
「……ジーク」
低く、静かな声だった。自分でも聞いたことのない、冷たい響き。
「今、なんて言った?」
ジークハルトが、微かに眉を寄せる。アルドの様子が、何かこれまでと違うことに、ようやく気づいたようだった。
「……アルド?」
アルドは、ゆっくりと顔を上げた。その瞳には、もはや戸惑いも絶望もなかった。ただ、静かで昏い炎だけが、そこに宿っていた。
「そうか。離れられないのか、僕は」
唇の端が、微かに弧を描く。
「——なら、好都合だ」
「好都合、とは……」
ジークハルトの声に、初めて明確な戸惑いが滲んだ。
アルドは祭壇の炎から視線を外し、ゆっくりとジークハルトに歩み寄った。儀装の裾が石床を擦る音だけが、静まり返った神殿の間に響く。
「僕たちは、離れられないらしい。神殿の炎が、そう証明してくれた」
「アルド、私は——」
「黙って」
短く遮る声には、これまでのアルドにはなかった強さがあった。ジークハルトが、言葉を呑み込む。
沈黙が落ちた。神殿の高い天井に、祭壇の炎が爆ぜる小さな音だけが響く。アルドは何も言わず、ただジークハルトの目をまっすぐに見据え続けた。数秒の沈黙が、これまでの四年間よりも長く感じられた。
先に視線を逸らしたのは、ジークハルトの方だった。
「四年間、君は僕の家を追い詰めて、僕を狩った。その上で、大切にしていると嘘をついて、僕の心も、行動も、何もかも見張り続けた。——違うか?」
否定の言葉は、返ってこなかった。ジークハルトの表情に浮かんでいたのは、隠しようのない狼狽だった。
「知っている。もう、全部知っているんだ」
アルドは一歩、また一歩とジークハルトに詰め寄る。石床に響く足音の一つ一つが、まるで刻限を告げる鐘のようだった。ジークハルトは後ずさろうとして、けれど背後の祭壇に阻まれ、動けなくなる。四年間、誰よりも力を持っていたはずの男が、逃げ場を失って立ち尽くしていた。
「離婚は、取りやめる」
その一言に、ジークハルトの顔に安堵の色が広がりかけた。だが、続くアルドの言葉が、それを凍りつかせた。
「けれど、これからは、僕が決める。何もかも、僕がね」
アルドはジークハルトの胸元に、かつて自分が身につけていたペンダントをかけた。冷たい魔石の感触が、掌に馴染む。そのままジークハルトの上着の襟を、指の関節が白くなるほどの力で握りしめる。
「君が使っていた術式は、そのまま僕が使わせてもらう。君の一日、君の交友関係、君の考えていること——全部、僕が把握する」
「アルド、それは——」
「嫌か?」
低い声だった。反論を許さない、初めて聞く声色だった。ジークハルトの喉が、小さく上下する。
アルドは、初めてジークハルトに向かって、笑ってみせた。柔らかく困ったような、これまでの笑みとはまるで違う、静かで昏い笑みだった。
「君が僕にしてきたことだ。今度は、君の番だというだけだよ」
ジークハルトの瞳が激しく揺れた。
征服された恐怖か、それとも——。
アルドには、その奥にわずかな、歪んだ愉悦の色が滲んでいるのが見えた。この男は、こうしてアルドに支配されることすら、どこかで望んでいたのかもしれない。
だとしたら、なおのこと。
——誰も、対等になどなれはしない。
アルドは、ジークハルトの胸元のペンダントに、静かに魔力を通した。祭壇の炎が、ひときわ大きく揺らめく。
「僕は、君のものにはならない。その代わり——君を、僕のものにする」
かつて、この男が自分に向けて囁いた言葉と、同じ形をした台詞だった。
窓の外では、日が傾き始めていた。神殿の長い影が、二人の足元に伸びていく。
その影の中で、アルドは静かに、ジークハルトの手を取った。
振り解かせることのない、強い力で。
——愛なのか、支配なのか。
その境界は、もう、どこにもなかった。
(了)




