第9話 人の振り見て我が振り直した方が良い
そして結局。
(意地張らずにお邪魔すればよかったな)
冬以来の乗り換えだらけの電車旅で、私は実家の最寄り駅に到着した時点でぐったりと疲れていた。満員電車やら乗り換えやら、夏休み真っただ中の大移動は大した運動をしていなくても体力を削られる。
あの後、『ちょっと考えさせて』と持ち帰っておきながら、さすがに男3女1はまずいだろうと改めて慎重にお断りしたのだ。もちろん金銭面を考えて、かなり揺らぎはした。しかし現状ほぼペーパードライバーの私が長距離運転を代わってあげることは難しいだろうし、となるとそこまで仲良くない同級生に延々運転させるのもどうかと思って話を降りたのだ。
仲が良い男同士でワイワイしたいだろうし。
「こっちこっち! おかえり」
「あー、ごめん、ありがとう迎えに来てくれて」
改札で家族に合流して、ほっと息を吐く。
美結くんも無事実家にたどり着いただろうか。
その夜は半年ほどぶりに家族団欒を過ごし、高校卒業時から着々と整理されて物がなくなっていく自室に入ると丁度通知音が鳴った。
≪無事帰れた?≫
その美結くんからだった。電車で無事帰れなかったらそれはもう大事件が起きているはずなので、心配なのはどちらかといえば彼の方なのだけれど、こうやって連絡をしてくるということは先方も大丈夫だったらしい。
家族と合流できたこと、自室がどんどんさっぱりしていくこと、近所にあったコンビニが潰れていたこと、なんて取り留めのない内容をいくつかラリーしていたその時。
まるで運命かのように、滅多に連絡を寄こさない瑞穂からもメッセージが飛んできていた。
≪今日から実家帰ってるってほんと? どれくらいいるの?≫
ばくばくと心臓が高鳴りだす。こんな偶然があるだろうか。
≪1週間くらい≫
≪結構いるんだ 出かけてる日ある?≫
≪明後日高校の友達と会うけど、それ以外はいるよ≫
──そしてなんと、瑞穂がわざわざうちに顔を出してくれる流れになった。
「ねえ、瑞穂が明々後日うちに来るって。いい? そのあとお昼外で食べてくる」
「どうぞどうぞ」
母親に適当に許可を取って、また慌てて部屋に滑り込んだ。このチャンスを絶対に逃してはいけない。
美結くんあての返信を、何度も何度も文字を打っては消してを繰り返す。明々後日は何をしているか、なんて聞いたらあまりに突然すぎる。もしそこで瑞穂を引き合わせたら、何のつもりだと驚かれてしまう。瑞穂も私との約束に、呼んでもいない昔の彼氏が現れたら良い気はしないだろう。
(……でも)
座っているだけで人が寄ってくるあの美結斎が自ら私に声をかけてきて、試行錯誤して接点を持とうとしていたのだ。
どうやって私と瑞穂が従姉妹同士だと知り得たのかは分からない。もしかしたら交際中、すでに瑞穂が話していた可能性だってある。そんな中で偶然、進学先で私の姿を見つけたのに、2年になってもしばらくは話しかけてこなかった。確かにどのタイミングであっても私はビビって逃亡劇を繰り広げていたと思う。
しかし彼にも、どれほどの葛藤があっただろうか。きっと試行錯誤もしたに違いない。
慰めにしていた15番目の彼女と別れたのも、私と無事に関わりを持つことができて瑞穂への道に希望が持てたからかもしれない。現に美結くんはあれから彼女はもちろん、噂になるような女の子もいないようだった。
実家に帰るのも、より瑞穂に再会できる可能性を手繰りよせられるからかもしれない。
私が先走って失敗したら元も子もない。まずは私が瑞穂から、どうして当時美結くんと別れてしまったのか聞き出して、そこからだ。もし瑞穂から少しも未練を感じられないなら、なんとかそれを美結くんに伝えてあげたい。
なぜなら彼のおかげで単位も無事に守れたし、バイトも楽させてもらっているから。あと美味しいラザニアも食べることができたから。
瑞穂との再会の日、私は大学の初登校日の朝の5倍は緊張していた。
うちにやってきた瑞穂はまず楽しそうに彼氏の写真を私の家族に見せ、気が早いけれど遊びついでに先日結婚式場巡りをしてきたのだと言った。この時点で私は100のダメージを食らった。母親から「同じ年だとは思えないワ~」とお尻をぺちんと叩かれ更に50のダメージ。
天真爛漫、素直で清楚。瑞穂の高校時代も多分、少女漫画雑誌で巻頭カラーを飾れるくらいのエピソードになっていたと思う。
私はそんな瑞穂の背を半ば押し出すように、近所のファミレスに向かった。
そして、入店するなりぽんぽんとメニューを決めた瑞穂は、待ってましたと言わんばかりのうきうき顔でこう言い放った。
「ねえ、さすがに美結と付き合った?」
口をつけたお冷を、漫画のように噴き出しかけて思い切りむせる。痛い、鼻に入った。
さすがに?
美結と?
付き合った?
「なんて?」
「え?」
「え?」
「あっ、やばっ、あれ?」
瑞穂も私もお互い向き合ったまま、しかしお互いの言動が理解できない宇宙人同士になってしまったかのような。
「え? どういう、何の確認?」
『さすがに』。どういう時に使うものだったかすぐに思い出せない。いくらなんでも、とも言い換えられたはず。つまりどういうことだ。
まずそもそもどうして久しぶりに会った瑞穂が、2人きりになった途端に彼女にとっての元彼にあたる美結くんの話題を出してくるのか。私がなんとかして遠回しに聞こうと思っていた、まさにその人のことを。しかも付き合った? 誰と誰とが。
「待って。今の、お願い。全部忘れて」
瑞穂がテーブルに両手をついて武士も真っ青な勢いで頭を下げながらそう言った。幸せいっぱいの現役女子大生がファミレスでとるポーズではない。
「いや、私は全然いいんだけど、ごめんどういう、」
「違うの。ああああ、違うの、違うの本当に」
「えっ、なに、なんかある一定条件をクリアしたらおのずと美結くんに付き合うことになるとかそういう何かがあるの……?」
怖すぎる。そんな理不尽なデスゲームみたいな仕組みがこの世にあると言うのか。
「よくわかんないけど空間がどれだけ歪んでも私が美結くんと付き合うことはあり得ないから」
そんなことが起きたら世界を敵に回してしまうし、多分災いが訪れるし、太陽が消える。
「あり得ない……? それはそれでどういうこと?」
「いやもうお互い何言ってるかよくわかんない。オーケー、一旦落ち着こ」
2人で同時に水を喉に流し込んで、呼吸を整えた。こういう時に限って遠い血のつながりを感じる。
「瑞穂がなんで急に美結くんの話を出してきたのか知らないけど、多分その感じだと私が美結くんと同じ大学の同じ学部だって知ってるんだよね」
目の色を探る。一瞬視線を彷徨わせた瑞穂は観念したように頷いた。もちろん、私からその話をした覚えはない。ただ内緒にしてきたことではないのだから、どこからどう話が出ていてもおかしくはないのでそれはいい。
「で、えーっと……? だとして、そこからなんで」
「あー、ほら、2人って、もうかれこれ中学高校、大学まで同じでしょ? だからさすがにこう、陥落したんじゃないかと思って」
瑞穂が大げさなくらい明るい声でそう言うけれど、私の目はごまかされない。そもそも瑞穂は嘘が下手なのだ。更に、隠したいことがあると絶対に絡みにこないのだから余計にわかりやすい。
違和感はまだある。瑞穂は確か、美結くんと付き合っていた頃は『斎』と彼を下の名前で呼んでいたはずだ。これは謎多き2人の交際時に唯一しっかりと流れてきた噂。それが今や『美結』と。
(付き合って別れたら呼び方って変わるんだ?)
タイミングよくサイドメニューが運ばれてくると、瑞穂はあからさまにほっとしたような顔をした。しかし私はここで終わらせるつもりはない。
「ねえ」
「ハイ」
「……瑞穂は、美結くんに未練とかないの?」
結婚前提の長く付き合った彼氏がいる人に聞くことではないかもしれない。更に私に対してうきうき顔で付き合ったかどうかなんて言うくらいだ、愚問だとはわかっていた。わかっていたけれど。
「未練? 全然。1ミクロンも」
「……」
瑞穂は、鼻で笑って、そして心底どうでもよさそうな顔をした。多分部屋の壁を見ている時の方がもう少し表情がある。
一方の私はサイドメニューのコーンスープにスプーンをつけたまま、うまく掬えずにいた。思っていた以上に動揺している。全面一色しかない2000ピースのパズルを1時間以内に完成しろと言われた方がましだ。
未練がないと言われるのは、どこかで分かっていた。けれど、ここまでとは。これなら今の彼氏も安心していることだろう。
だけど美結くんに、こんなこと伝えようがない。
「なあに? そんなに気にするってことは、そっちは美結のこと気になってるんじゃないの?」
「全く。全くそういうのじゃない」
「……。もしかして、美結が私に未練があるとか思ってたりしないよね」
瑞穂の言葉に、ハッと思わず勢いよく顔を上げてしまった。そのリアクションは、その問いを肯定してしまうことになるのに。
「うそ。なんでそんなことに?」
そう言って、瑞穂は道端で嘔吐物を見たような顔をした。
「だ、ちが、そうじゃなくて」
「あー、なんかわかった。そういうこと。だから脈絡もなく彼氏いるかなんて聞いてきたんだ」
「違うの瑞穂」
「いいよ。未練なんてあるはずないから。今ここで美結に連絡して聞いてみようか」
自分の顔からさっと血の気が引いていく。こんなはずじゃなかったのに。
「……違う。私が、勝手に」
贖罪のつもりだった。
他人の生活をコンテンツ扱いして、娯楽のように覗き見していたこと。
望まれてもいないのに新しい彼女を観察しては誰かと比べていたこと。
理解した気になって、私の中で作った枠に当てはめて遠巻きにしていたこと。
それが少しは、軽くなると思ってしまった。
瑞穂は固まっている私を見て深く溜息を吐いて「あの馬鹿野郎が」と瑞穂にあるまじき暴言を誰かに吐いたかと思うと、今度は困ったように笑みを浮かべた。
「なぁんでそんなことになってるか知らないけど、本当に違うから。美結と私はなんだろう……今や悪友?」
「悪友……?」
「たまーにだけど連絡とることあるし。あ、もちろん今の彼氏公認だよ」
前提の全てが、ぼろぼろと崩れていってしまう。
連絡を取っている? 美結と瑞穂が? 瑞穂の彼氏公認で?
なら、どうして美結くんは私に関わろうとしてきたのだろう。
何故?
(瑞穂は、もし仮に美結くんが自分に未練があると分かっていて、瑞穂側に未練がなかったとしたら、きっと美結くんをきっぱりと断つだろう)
(瑞穂は未練がある美結くんと連絡を取るなんて、彼氏を不安にさせるようなことはしないだろう)
(悪友だなんて言って、半端な付き合いはしないだろう)
私は瑞穂の、美結くんの6番目の彼女の、そういうところが好きなのだから。
「だったら、」
瑞穂との繋がりが目的でもなんでもないなら。
瞬間、プツンと頭の中の明かりが消されたようだった。
「ね、ちょっと、顔色酷いよ」
瑞穂の声がくぐもったように聞こえる。記憶が、ぐるぐると回り出す。
『──高校生の頃、俺のせいで大変な目に遭った時、俺が止めなかったから』
私は確かに家庭科の実習をきっかけに、美結くんを支持していた女の子たちに詰め寄られた。アレルギーのことなんて、なんでそんなことを知っているのかと。ちょっと痛い思い出だけれど、私にとってはもう笑い話に昇華できる程度のもの。
止めなかったから? 大げさだ。あんなの本人が出てきて止めるほどのものじゃなかった。
『──当時、俺の、熱烈なファンだったって』
アレルギーを知っていたくらいで? 実際、私は詰め寄られた時、その話しかしていない。
まさか私に詰め寄った女の子本人が美結くんに『宇佐木シバいときました、あいつあんたのファンでしたよ』なんて意味不明な報告をするだろうか。あり得ない。普通隠すだろう。
確かに私は美結くんのことを知りすぎている。熱烈なファンだと思われても仕方がない。
だけどアレルギーの1件以外、学校の誰にもそんな話はしたことがない。
(そう、あの日)
女の子たちと揉めた日、日ごろ無神経な私もさすがに疲弊していた。
家に帰ってすぐ母を捕まえて嘆いたのを覚えている。
今日はこういうことをやらかしてしまった、明日から嫌がらせを受けるかもしれない、周りが盛り上がっている時に興が醒めるようなことを言ってしまった、謝ったけれどやっぱり許してもらえないかもしれない、明日もし早退してきたら察してくれ──なんてだらだらと全て包み隠さず自分の非と弱音を吐いた。日頃母があまり私の学校生活に突っ込んでこないこともあって、遠慮なく実名を出して説明した。
あれは高校1年の時のこと。
あの時ばかりは母も、そしてその話を母に聞いたのであろう父まで心配して部屋を訪ねてきた。結局翌日から私は何の被害に遭うこともなく、円満に高校生活を終えたのだけれど。
「……瑞穂が美結くんと付き合ったのっていつからいつ?」
「え? なに? あんまり覚えてないんだけど、高1の夏前から高2の最初くらいだったような」
「違ったらほんとごめん。なんだけど、瑞穂って美結くんと付き合ってるときに、私の話したことある?」
瑞穂はわかりやすく、顔をぎくりと強張らせた。それはもう、表情のサンプルかというように。
「や、そんなことは」
「……1年の時に私が女子軍団とドンパチやった話、美結くんに話したことない?」
「…………」
長い沈黙の後、瑞穂は「うん」と蚊の鳴くような声で言った。
「でも、違うの聞いて。それはあの時おばさんに相談されて『あの子が珍しくすごい落ち込んでるから何かあったら相談に乗ってあげてほしい』って連絡がきて、それで心配で私が……美結に。ごめん。なんか美結に言われたの?」
「ううん。それはもう全然いい。私がすっきりしたかっただけ」
思い出した。あまりに記憶の端に寄せすぎて忘れていた。
あの時、私のことを『熱烈なファン』と表現したのは、うちの母だ。
『──もしまだなんか言われるようなら、いっそのことその男の子のただの熱烈なファンなんですって言っとけばいいじゃん』
『──やだよ。ファンじゃないし』
「なんかよくわかんないけど、私が余計なことしたっぽいのはその顔ですごく伝わってきてる」
「ううん。瑞穂は何も悪くない。親の心子知らずっていうのを5年越しに理解した」
滅多に学校の話をしない私が、下校するなりキッチンにいた母に張り付いてだらだら嘆き倒したのだ。心配もするだろう。もしかしたら母は、姪の瑞穂が私と同じ学校に通う美結くんと付き合っていることを知っていたのかもしれない。
嗚呼。あの頃は『高校生なんだから自分でなんとかしなさいよ』なんて言っておきながら、母がそんな根回しをしていたなんて知らなかった。きっと何もかも瑞穂に話したんだろう。
例えば『うちの子は彼の熱烈なファンってことにしといて』なんて母が瑞穂に伝え、そしてそれを瑞穂が美結くんに伝えたのかもしれない。その時に瑞穂は私が自分の従姉妹であることも話したに違いない。
そうすれば何もかも、ぴたりと辻褄が合う。
「記憶の整理をしながら地中に埋まりたくなってる。今」
「セミになっちゃうよ……」
掘り返し遡り、心がぺしゃんこになる。
自分の中での答え合わせと、瑞穂の言葉で、どんどんパズルは完成に近づいていく。
お互いに未練のない2人。
瑞穂から当時私が起こした揉め事を聞いていた美結くん。
最初から瑞穂目的で私に声をかけてきたわけじゃなかったとしたら、どんな理由があるというのか。
瑞穂から話を聞いた時、高校も大学も、私が美結くんを追いかけてきたんじゃないかと思ったかもしれない。
謝りたかったなんて美結くんは言ったけれど、本当はもう近づかないでくれと言いたかったのかもしれない。
だけど1度は付き合った瑞穂の従姉妹だから、言い出せなかったのかもしれない。
自分の中で這い上がる嫌悪感。
熱烈なファン? 母親だからそう表現してくれただけ。
私はずっと、彼のストーカーだっただけじゃないか。
「ちょっと、大丈夫? 気分悪い?」
「大丈夫」
料理が運ばれてくる。なんで今日に限ってこれを選んだんだろう、あの日食べたラザニアによく似たミートドリアだ。香りもほとんど同じ。
なんで美結くんは友達になろうなんて言ったんだろう。
いっそその方が安心だと思ったから?
虎穴に入らずんば虎子を得ず?
君子は危うきに近寄らないんじゃなかったっけ?
いや。
『ほら、2人って、もうかれこれ中学高校、大学まで同じでしょ?』
『だからさすがにこう、陥落したんじゃないかと思って』
例えば美結くんが、私と親しくなった上で──絶望に叩き落してやろうとしているなら?
「ねえ。なんか今、頭の中で暴走してとんでもないことになってない?」
瑞穂の冷たい手が私の手首を掴んだ。
「ちゃんと話してよ」
「……どうしよう、美結くん、」
喉の奥がカラカラになる。瑞穂にどこまで、何を言っていいのかわからない。
「うん。美結がなに?」
「多分、私のこと、」
「うん? うん! うんうん!」
すると急に元気になった瑞穂が楽しそうに口角を上げた。上ずった声で「それでそれで?」と促してくるけれど、今度は謎の温度差に私が困惑する番だった。
「すごく……嫌悪の対象だと思ってるかもしれない」
「……はい?」




