第8話 善意は時々疑った方が良い
「──今回死んだかも」
「成績開くまでは死なないから」
「シュレディンガーの鳥だっけ?」
「猫だよ」
全ての試験を終えた私と郡上は試験のない授業のレポートを提出したその足で人のほとんどいない食堂に向かい、冷房を浴びながら平和にアイスをかじっていた。
「全体的に難化してた。絶対」
郡上は隣でずっと『終わった』『死んだ』『4単位は消えた』と嘆いている。
「そういや経済数学概論。私とってないけど今年やばかったらしいじゃん」
「ああ、うん」
因縁の水曜1限、経済数学概論。かつて美結くんとのノート貸し借りで私が暴れていた授業だ。
「会う人会う人、教授に抗議にしに行くって目ぇ血走ってたけど」
郡上の言う通り、今回受けた中で一際難しくなっていたと思う。過去問があっても、持ち込みが許されたノートがあってもおそらく太刀打ちできなかったに違いない。
「……何? あんた大丈夫だったの」
「うううん、多分」
「すご。ヤマカン当たった?」
「そんな感じかな……」
半分嘘で、半分事実だ。
あの勉強会のあと、連絡先を交換したもののその日はやりとりがなかった美結くんからメッセージが来たのは翌々日のこと。金曜の午前に声をかけていいかと事前に言われて、待ち合わせた例の理学部棟のベンチで渡されたのは目がチカチカするほどに整理された資料だった。
『これ。概論の対策』
経済数学は、文系の高校生が高校までに勉強してきた数学の知識だけでは到底乗り越えられない。いくら教授が丁寧に解説してくれても週1回の授業で完全に理解できる人は少ないだろう。そのため、これまでの過去問は授業に出てきたものがほとんどだったのだけれど。
『多分今年は難化するはずだから』
『なんでそんなこと』
『厳しいって有名な学部長に去年変わったの知らない? 各教授、試験について相当言われてるらしくて』
なんでそんなことを知っているんだと言うのを3回くらい聞きたくて、しかし弱い私は結局その資料を頂いてしまったのだ。
もちろん最初は美結くんの労力に対して返せるものがないと断ったけれど、
『男同士だと行けない喫茶店があるんだけど。そこに今度一緒に行ってくれるなら』
というあまりに甘すぎる甘言に一本釣りされた。ものの見事に釣られた。
『他の人には言わないように』
しっかり口封じもされた私は、当然郡上にすらこの話を言えない。
(なのにここまでしてもらっておきながら、私は瑞穂のことを何一つ進められてない)
喫茶店に同行するくらいではどう考えたって釣り合わない。事実、多くの学生を阿鼻叫喚の渦にぶちこんだ経済数学概論の試験に対して、あの資料をノートにひたすら転記して挑んだところ恐らく単位は確保できただろうという手ごたえがあった。そういえば羽島さんもいたはずだけれど、彼女は大丈夫だろうか。ついでに言えば近代日本の歴史も私のせいで単位を落とすことになるはず。
「郡上。恋人がいるのに他の人を好きになることってあると思う?」
「待ってなに? 急になに?」
しかし美結くんに報いようと思ったら、それは今の瑞穂とその彼氏の破局を願うことになる。それはそれでどうなんだろうか。結婚まですると言っているのに。
「よく分かんないけど、そりゃあるでしょ」
あるだろう、この世には浮気も不倫も数多にあるのだから。分かっていながら聞いてしまった。溜息が出る。
美結くんには資料のお礼と、おそらく試験は突破できたというメッセージを送った。よかった、という返事が切ない。非力な自分が情けなくなってくる。
「そういえば郡上、結局彼氏できずだっけ」
「そうですが?」
「見込みある人は?」
「全然」
郡上が全然というときは、もう間違いなく全然なのだ。つまり山県くんは歯牙にもかけられていない。私はもはや塁に誰もいない上に空振り三振している状態にある。
(花火大会の件も、美結くんに止められてるから下手に話題にできないし)
こんなことならもっと中学高校で他人の恋愛に首を突っ込んでおくべきだった。美結くんの歴代彼女遍歴を聞いて感心している場合じゃなかった。
やや下降した気分のまま突入した夏休み初日。
私はその日、泡を吹いて倒れそうになった。
「ああ、宇佐木さん。知り合いだろうから紹介は端折るけど、今日から夏休みの間だけ入ってくれる──」
美結くん。
「えっ」
私と同じ格好をした、美結くんが私のいつものバイト先にいた。
「え、えええ、え」
口から出るのはモールス信号。バイト前に休憩室でぼうっとしていたら美結くんが現れたのだからこうなるのも仕方ない。パートのおじさんに「一通り昨日のうちに教えてあるから!」と背中を叩かれた美結くんは少し気まずそうな顔をしている。
休憩室に2人で取り残されて10秒くらいは思考停止して何も言えず、はっと気づいて「よ、よろしくお願いします」とりあえずの挨拶を死ぬ気で絞りだした。
少なくとも、バイト先の同僚こと本巣からこんな話は1ミリも聞いていない。
「どうやってここに?」
「いや、……本巣に頼まれて」
「嘘!? あ、本巣が免許合宿で抜けるから!?」
しかしそれについてはすでに話はついていて、その期間中はほぼ私が出ることになっていたはずだ。よほど大将も人手不足に困っていたのだろうか、言ってくれればいいのに。
それに。
「……だとして、よく大将から合格もらったね?」
どこから目線の質問だと思われるかもしれないが、本巣推薦の私ですら初対面では蹴散らされたのだ。受かったのは、郡上と私の出会いを本巣がぽろっと大将に話したから。口封じをしていたのにと最初は憤ったものの、結果的にそのエピソードだけで敗者復活戦を勝ち抜いている。
「本巣と宇佐木が実績作ってるからじゃないかな」
と、美結くんは言っていたけれど。
『ああ、なんでも、本巣くんと張るかそれ以上にお酒詳しいらしいよ。日本酒だけじゃなくて焼酎とか洋酒も。あと料理にも精通してて何でも作れるんだって。大将が感心して泣いてた』
それは後から、おしゃべり大好きパートさんに聞いた話だ。確かに大将は感動するとすぐに泣く。子供のおつかい番組ですら泣く人だ。
(美結くんが本巣以上にお酒に詳しい?)
そんな話は聞いたことがない。お酒が飲めないはずの美結くんがお酒に詳しいなんて、だとしたら絶対に誰かが噂するはずなのに。それに本巣の日本酒知識レベルは相当だ。小学生の自由研究は毎年日本酒テーマだったと自慢してくるくらいだし。
日本酒に興味があって、とは美結くん本人も言っていたけれど、まさかそこまでとは思っていなかった。
「そう。頼んだのは、そう……俺です」
「なら、事前に教えてくれたらよかったのに」
その後シフトが被った本巣に詰め寄ると半端に目を泳がせながらそう吐いた。少し前には『あの店に美結みたいなのが来たらとんでもないことになるわ』なんて言っていたくせに。
幸運にも店の敷居が少し高いからか、美結くん目当てにという学生や若い客層が殺到することはなかった。ランチの時間に上品なマダム軍団が現れ、美結くんを捕まえてお酒の話をする男性客の方が増えてきたのは目に見えて分かる。
確かに聞いている限り、美結くんは相当お酒に詳しいらしい。いつもカウンターに座る常連の人も『あの子逆にスパイとかじゃない?』と聞いてきたくらいだ。
癖の強い大将もなぜか新入りの美結くんに絶大な信用を置いているようで、新メニューの相談までされていた。
「本巣のポジション完全に奪われてない?」
「いいんです。いいんですよ」
周りのパートの人たちも『夏休みだけと言わずずっといてくれたらいいのに』と男女問わずメロメロで、そして私と美結くんがタイミングよく同じ時間に帰る時にはニタニタしている。気持ちは分かる。私も美結くんが新しい彼女と歩いているのを見かけるたびに生まれたてのカブトムシを見るような気持ちで眺めていたから。
「──宇佐木、帰る?」
「あ、うん」
つまり結果から言えば、美結くんがうちのバイトに入ってきたところで私と本巣は何の迷惑も被っておらず、それどころか店は繁盛し大将も心なしかいつも上機嫌なのだ。恩恵しか受けていない。
美結くんもシフトが被っても休憩時間以外は当然話しかけてこないし、ちゃんとお互い敬語で声を掛け合う。正直、本巣よりも遥かに全方位に気が付く美結くんは、一緒に働いていてものすごく楽だった。
「大将、またテレビの取材断ったって」
「逆に断り続けるからネットが盛り上がっちゃうのにね」
お盆を前にする頃には、あれだけ抵抗していた美結くんとの帰路も自然なものになっていた。
「そういえば宇佐木って、なんで大学は自転車で通ってるのにここのバイトは徒歩通勤なの」
本巣同様、自転車を押しながら横を歩く美結くんがそう尋ねてくる。
そうだった。当然のように歩いていたけれど、送ってくれている美結くんからすれば私の通勤スタイルは意味不明だろう。自転車に乗れという話だ。
「……大学入ったら全然歩かなくなっちゃって、ちょっと太ったから」
と、同じことを言った時、本巣がゲラゲラ笑って『じゃあ大学も歩いて通えよ』ともっともらしい突っ込みをしてきたのを思い出して腹が立ってきた。
「大学はほら、棟と棟の移動とか自転車がないと間に合わない時があるから、やむを得ず自転車なんだけど」
「? 太ってなくない?」
「ははは……」
美結くんは私の中学高校の頃の姿を知らないからそんなことが言えるのだ。少なくとも5キロ太ってやっと2キロ痩せたところなのに。全ては美味しすぎる大将のまかないのせい。
「でもよく考えたら私の不毛なダイエットのためだけに美結くんまで歩かせてることに気づきました……」
本巣はいい。本巣も太ったから、歩いたほうがいい。
「いや、俺も最近歩かなくなったし、ちょうどいい」
ちょうどよくはないだろう。
「でも」
「宇佐木と歩いて帰るの、普通に楽しいし」
すごい。全てを極めた人はちょっとした返しまで気づかいが行き届いている。私ごときにそこまでの施しは必要ないのに。
「今度から面白いネタ仕入れとくね」
大学が休みだと郡上の過去の名言をピックアップするくらいしか話題がない。そう言うと、美結くんはまた笑った。こんなに笑う人だったというのも私は今まで知らなかった。伝聞だけで、彼の人となりを知った気になっていたと何度も実感して、恥ずかしくなる。
「そういえば」
「うん?」
「もうすぐ、お盆休みだけど。何日から帰る?」
美結くんがそう言った瞬間、私もハッとした。瑞穂と何のアポも取れていないことを思い出した。まずい。
「えっと、お盆の前の日からかな。そこから1週間はバイト入れてないから」
すでに日程は確保してしまっている。その期間中のいつものバイトは私がいない間、本巣が入ってくれることになっているから今更変更のしようがない。そしてお盆の後は再びバイト三昧だ。予定していた短期バイトももう決まっている。
「特急?」
「ううん。高いから色々乗り継いで帰る」
「じゃあ片道3時間かかるくらいか」
「まあ急ぐわけじゃないから」
そこで会話が途切れると、美結くんはしばらく考えるように黙り込んで──
「……一緒に帰らない?」
と、言った。
「え、いや、いいです」
びっくりしすぎて私の方は間髪を入れずにお断り申し上げてしまった。
「私遠出する時いっつも用意もたもたするから待ち合わせるの絶対無理だし、駅まで来てから忘れ物思い出したりするタイプだから」
それに3時間も美結くんと何を話せばいいんだ。ものすごい縛りのしりとりか大喜利でも仕込んでいかないと無理だろう。なんて、さすがに本人には言えまい。
「決して美結くんと帰りたくないとかではなく、合わせてもらうのが申し訳ないというか」
「……いや。こっちも突拍子もない提案して申し訳なかった」
地元に近づけば近づくほど旧友たちの遭遇率が増していくだろう。もし一緒に帰省しているのを見られようものなら私の名前がSNSでタグ付けされて現代の晒し首に遭うところまで見えた。そういった意味でも絶対に無理。
さすがに気まずくなって、私は無理やり明るい声を捻り出した。
「私去年免許取ったんだけど、いつか車とか買ったら帰省するのも楽しそうだよね」
と。そして衝撃の事実が明らかになる。
「そうだ、ごめん言ってなかった。レンタカーで帰るつもり。同じ方面の奴、他に2人くらい乗せて」
「え」
「乗り捨てで片道1万5千円くらいだから。人数増えると、安くなるし」
「…………」
私は自分が今しがたとんでもなく恥ずかしい勘違いをしていたことに気づき「ごめん!!」私は夜道にも拘わらず叫んでしまった。
それはそうだろう。何が面白くて私と2人で帰省の旅をしようなんて提案を美結くんがしてくるのか。ちゃんと話を聞けばよかったと頭の中で悶え苦しんだ。




