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第5話 安易に断らない方が良い





 色々あった水曜1限の経済数学概論は何事もなく終わり、私はほっとした。そして先日バイトを紹介してくれなどと意味不明なお願いをしてきた美結くんと関わらなくなってから、1週間ほど経った頃。


 「美結くん、彼女と別れたらしいよ」


 その一報が、号砲のようだった。



 どうやら15番目の彼女と美結くんが破局したらしい。


 高校生の頃は大学というのはとてつもなく広く、これまでのような噂話とは縁がなくなるものだと思っていたのだけれどそうでもない。現に私から聞いたわけでも求めたわけでもないその情報が、交友関係の狭い私の元にすら入ってくるのだから。

 ちなみに今この破局情報が放たれたのは私宛ではない。必修の中国語の授業で斜め後ろに座った、顔と名前が一致しない同級生がその隣の友人に話しているのをただ耳にしただけ。


 「うそ。短くない?」

 「えーでもあんま長く続かないもんらしいよ」

 「じゃあこれから付き合う人は美結くんの夏休みもらえるんだ」

 「もらえはしないでしょ」


 やいのやいの言っている間に教授が入ってきて、シンと室内は静まり返った。


 (美結くん、中高大の長期休みに彼女と遊んだことは1度もないらしいけどな)


 長期休みに彼女がいないわけじゃない。いても遊ばないらしい。そしてこの時期でよく話題になる海水浴や夏祭りにも行かないらしい。そしてそのことについて歴代彼女たちは文句も言わず受け入れるのだという。確かに美結くんがそんな不特定多数の集まるイベントなんかに行ったら目立って仕方ないだろう。過去に嫌な思いだってしたかもしれない。





 「──おーい、こっち」

 「ごめん本巣、ありがとう」


 昼休み、私はお昼の約束をしていた本巣と合流した。夏休みのバイトをどうするか今のうちから計画を立てるためだ。


 バイト先の大将からは、2人同時に長期間休まれると辛いと言われている。本巣は今年合宿で免許を取るつもりらしく、できればその期間中は私になるべくバイトに入ってほしいという。持ちつ持たれつの関係だ、断るつもりはない。


 「そういやお前短期バイトやるんだっけ?」

 「うん。イベント設営とかだから単発だし問題ないと思う」


 大学のいいところはいくつかあるけれど、男女でご飯を食べていても誰も注目しないところにもひとつあると思う。高校までは(はや)し立てられるそのシチュエーションが、大学になると急に何の変哲もないものに化けるのだ。当初は本巣に誘われても拒否していたけれど、拒否する方が恥ずかしいような気がするようになり、今や対面でカツカレーをむさぼっている。


 「実家は?」

 「帰ってもお盆に1週間かな。こっちの家賃もったいないし」


 郡上と話したのとほとんど同じような会話をしていると、「やっべ、そういえば」ほとんど皿を空にした本巣が思い出したように顔を上げて、そしていつかの私のように周りをきょろきょろと見まわした。


 「今朝話しかけられたんだよ」


 ぐっと声のトーンを落として、顔を寄せてくる。


 「誰に」


 「美結」


 「は? なんて」


 「昼休み──」


 そこまで言いかけた時、私は左後方から強い気配を感じて思わず肩を震わせた。




 「宇佐木」




 そして同時に、ビリリと背筋を走り己の中を這いあがるは殺意。


 「…………はい?」


 大学入って以来、最悪のシチュエーションランキング第1位がたった今更新された。


 昼休み待っただ中、ここはあらゆる生徒でごった返す1番大きな食堂だ。私たちの席は出入口に近い端の席。


 美結くんの声は低く、決して通りやすいものではない。しかし彼が私を呼んだ瞬間、少なくとも半径5m以内の人が一気にこちらに目を向けたのが分かる。


 もちろん学内の全員が美結くんを知っているわけではない。有名人であることは間違いないけれど、だからといってその声でみんなが反応するわけではないことは分かっている。


 そう、おそらく反応したのは私の名字にだろう。

 字面だけ見ればよくある漢字が3つ並んでいるだけなのだけれど、読みは『うさぎ』だ。

 病院、銀行、呼び出しの度に見知らぬ人が数名『うさぎさんだって』と反応する。そこに悪意はないと思う。


 呼んだのが見目麗しい長身の男で、呼ばれたのは『うさぎ』。そんな面白い場面なかなかないだろう。


 「今週の土日、何してる?」


 その話、絶対に今この場所でしなくちゃダメだったんだろうか。



 「バイト」



 一切顔を見ずに嘘を吐いた。少なくとも土曜はバイトじゃない。真実を知っている本巣をちらりと見ると、バツが悪そうに目をそらされた。しかしさすがにここは空気を読んでくれるらしい。

 最悪なことに美結くんの後ろにはチーム経済学部キラキラ男子が3人もついていた。黙ってはいるが物珍しそうにちらちらこちらを見ているのが視界の端に映る。目の前の残り僅かなカレーがどんどん冷たくなっていくのが分かる。


 言ったのに。そっちだって言ったはずなのに。


 『俺と関わるとロクな目に遭わないのも分かってる』って、はっきりその口が言っていたのに。


 「……何か用事だった?」


 返事がないのでしびれを切らして横目で様子を窺うと「いや、」美結くんもまたふいっとそっぽを向いて空いている奥の席の方に歩いて行ってしまう。

 そこでようやく、切り取られた世界が再開した。キラキラ男子の最後尾がもう一度私の方を二度見したのも気づかなかったふりをする。

 無視もできないし下手に媚びても目立つ軽くあしらっても、どうやったって目立つ。しかしさすがに今の会話レベルなら悪目立ちはしないはず。と、信じたい。


 「…………お前、マジであいつに何した?」

 「わかんない」


 本巣はまだビビり散らかしていた。

 「すげえ睨まれたよ、俺なんもしてないよ……昼休みに面貸せって言われたの忘れてたくらいだよ……」と、ちびちび水を飲みながら。


 実は何もなかった一週間、調べはしたのだ。


 もしかして私が知らないうちに美結くんに何かしたんじゃないかと、あらゆる記憶と記録をひっくり返して調べつくした。


 本当は小学校や幼稚園時点で出会っているのではないか、中学高校のすっぽり記憶が飛んでいるどこかで美結くんに関わったことがあったんじゃないかとか、実家の親に連絡してアルバムを送ってもらってまで探しに探した。ドラマや漫画のように美結くんをうっかり救ってしまった可能性まで考えて、けれど見つからなかった。

 だとしたらやはり大学に入ってからの話で、そしてあの羽島さんの出席カード強奪事件の直前に何かあったに違いないと毎夜ひたすら記憶を辿るも、やはりない。


 しかし、ここまで来ると私も察する。

 美結くんは私がどれだけ拒絶して嫌がっても、何か重大で少々長くなる話を私にしたいのだろう。

 自意識過剰ではと自分の中で否定し続けていたけれど、さすがにもう避けられない。


 (……でもその心当たりが全くない)


 立ち話では済まない上に、先日の理学部棟での数分でも足りないレベルの長話。同じバイトまでさせてくれと言うほどだ、もしかしたらドラマのように日ごと分割されるのだろうか。どんな話だ、怖すぎる。そこまで追いつめられる重罪を私は無自覚に犯したというのか。




 そして金曜日。


 食堂での一件のあと、考えに考え抜いた私は腹をくくった。

 もうこれ以上、美結くんの気まぐれな一進一退を恐れていたくない。

 

 「おわ。宇佐美さんだっけ?」

 「宇佐木です」


 よく間違えられるのでそれはいい。


 私が声をかけたのは美結くんの取り巻き、もといご友人のうちのひとりのナントカくんだ。名前は知らない。先日の食堂でも美結くんの後ろにおり、かつ取り巻きの中でも比較的単独行動が多い人だ。いくつかの授業が被っていて、顔だけは覚えていた。今日も4限の一般教養が被っている。その帰りになんとか追いかけて捕まえることに成功した。


 「どした? なんで僕?」

 「全然関係ないのにごめんなさい、お願いがあって」


 私が差し出した紙きれを見て、ナントカくんは目を丸くする。


 「……ラブレター?」

 「あ、違います。全然中身見てもらってもいいから、それ美結くんに渡してもらいたくて」


 私たちのことは誰も気に留めず、ぞろぞろと避けるように生徒が出ていく。そう、一対一のやりとりというのはこれくらい、どうでもいい景色のひとつであるはずなのだ。美結くんが相手でさえなければ、これほどにスムーズなのに。


 「えぇ、尚更なんで僕なの」

 「ご、ごめんなさい」

 「いいけど、いつ渡したらいい? 今日?」

 「ああ、いや、全然。もう週末だし……来週でも」


 ナントカくんは頷いて、その場で紙を開いて確認したかと思えば真顔のまま噴き出した。


 「何これ。果たし状じゃあないですか」


 ひょろりと細長い体を揺らし、あまり変わらない表情のまま声だけ笑って「いいよ。渡しとくね」と去っていく。


 (……いい人だな……)


 そしてその日のバイト後、携帯を開くと知らない番号から不在着信が1件入っていた。


 ごくりと息を呑んだ。

 間違いじゃなければ、おそらくこれは──美結くんからだ。



 私がナントカくんに渡したのは、私の携帯番号を書いた紙だ。

 そこにはこう添えた。


 "御用があるなら下記までご連絡ください。1度だけならお話伺います。"


 今度こそ、これで終わりにしてくれという意味を込めて端的に。

 ナントカくんがこれを一目見てそれ以上突っ込んでこなかったことが、美結くんが私に用事があることを証明している。普通なら『いや何このおこがましい内容』と白い目を向けてくるだろう。おそらくナントカくんは知っていたのだ、美結くんが私に用事があるのに、それをまだ済ませていないことを。


 帰り道コンビニに寄って、一通り好みのアイスとお菓子と飲み物を買って心を落ち着かせた。それにしてもナントカくん、行動が早い。今日のうちに渡してくれるとは思わなかった。

 家に着くと22時だった。さすがにまだ寝ていないだろう、着信があったのは20時頃。


 ベッドの真ん中に携帯を置いて、何度も通話ボタンを押しかけては躊躇った。

 この感覚をなんと例えよう。何が入っているか分からない箱に手を突っ込むような気分というか、多分裏返したら絶対に幼虫がついている葉をめくろうとしているような心地というか。


 嫌なことは先に済ませて、とっととお風呂に入ろう。私は決意した。多分、メロスと同じくらいの決意だった。


 ボタンを押して、呼び出しコールがかかって、息を呑んだ次の瞬間。


 ≪……はい≫

 

 それはやはり、美結くんの声だった。


 ぐっと抑えた深呼吸のあと、「夜分にごめんなさい、宇佐木です」分かりきっているだろうけれど、形式上名乗らざるを得ない。


 「あの、さっき出れなくて。バイト終わって、こんな時間で」

 ≪ああ、いや全然≫


 正直、まさか本当に連絡を寄こされるとは思っていなかった。ナントカくんが律儀に渡してくれたことにも驚きだけれど、美結くん本人が気分を害してかけてこない可能性だってあると思っていたから。


 そしてここで沈黙。こうなるとは思っていたけれど。


 「この前、ほら。食堂で声かけてきてくれたと思うんだけど」


 早く終わらせたかった。顔が見えない会話はこんなに怖かっただろうか、ばくばくと心臓が跳ねている。


 「なんかやっぱり、私にまだ用があったんじゃないかって……あの時ちょっとびっくりして、よく考えたら態度悪かったよね」


 刹那、向こう側の美結くんがすっと短く息を吸った音が聞こえた。


 ≪こっちも、急に話しかけてごめん。本当は本巣に伝言頼むつもりで≫

 「ああ、なんかそれ、本巣も言ってた。忘れてた~って死にそうなくらい反省してた」


 食べ終わってからも寿命が縮んだと大騒ぎしていた本巣を思い出す。

 美結くんがそこでくすりと鼻で笑った。縮こまる本巣を彼もまた頭に浮かべたのだろうか。


 「それで、その。何だった? 色々考えたんだけど、前謝ってくれたことはもう気にしてないし。むしろ、私の方がわーってこっちが言ったから、傷つけたかなとか……」


 口に出してみると、ぽろぽろと弱い本音が零れていく。遅い時間だから余計そうなってしまうのかもしれない。

 思い返してみれば、美結くんは何か悪いことをしただろうか。振り返ってみればひとつもしていない。私が勝手に、自分の身可愛さに近づくなと吠えただけだ。彼はごく自然に中高の同窓生に声をかけただけのこと。会話の内容だって何もおかしなことはない。家を訪ねてこられたのには驚いたけれど、そうでもしないと話せないと思って強行突破したのかもしれない。私も小学生の時に大喧嘩した子の家を突撃訪問したことがある。


 ≪宇佐木が謝ることない≫


 やけにきっぱりと、美結くんはそう言った。


 ≪こっちも色々勘違いして、変なこと言ったし……≫


 『熱烈なファン』のくだりだろうか。それはそう。


 「いやいや、うん」


 それにしても話が進まない。各駅停車の普通列車より進まない。

 どうしよう。もう切り札がない、このままだと強めに『で?』って言いたくなりそうだ。思っていたよりも私は短気らしい。


 「あ、あ~そうだ、バイトの件だったりする? ごめん、前も言ったけどうちの店のオーナー、死ぬほど癖が強くて」


 ≪それはこっちこそ急に無茶なこと言ったし≫


 じゃあ、何だ。


 「えっと……?」


 お風呂に入りたい。額に脂汗が浮いて前髪がべとべとしてきた。


 ≪……≫


 がさりと衣擦れの音が聞こえた。今の生活音、美結くんファンなら垂涎すいぜんものだろう。


 「あの」


 ≪明日、バイト何時に終わる?≫


 脳天から変な声が出そうになった。


 「え、いや」


 何を隠そう明日はバイトがない、しかし私はしっかり食堂で嘘を吐いたのでバイトがあることになっている。


 「実はその、他の人とシフトだぶってたみたいで、明日はバイトなくなっちゃって……」


 しどろもどろになりながらそう言うと、また間が空いた。


 『何時に終わる?』ということは終わったら時間を寄こせということだ。

 そもそも何故明日なんだろうか。


 「話って今この電話では言えないようなことなんでしょうか……?」

 

 そして脳で()すことなく思ったまま口に出してしまう。

 一目を気にするなら電話が1番だと思っていた。どうやら相手は違うらしい。


 ≪ああ……1日休みだったらゆっくりしたいよな≫


 それはそうだけどそういうことじゃない。


 「ええっと、明日もう一度電話をするということで?」

 ≪いや≫


 ずっと交互に『いや』って言いあっているような気がする。



 ≪もし迷惑でなければ、昼か夜、ご飯でもと思って≫



 脳の大事な部分に、隕石が落ちた。


 「い、」


 嫌ですと言いかけて自分で左手の甲をつねった。そしてあぐらをかきなおして一休さんを憑依させる。これは高度な情報戦だ。

 "ご飯を食べる"?

 何かの隠語かもしれない。次こそお前の息の根を止めてやるという意味かもしれない。


 「ご飯……?」


 考えた末に口から単語だけ出てきた。オウムより酷い。


 ≪なるべくうちの学生がいないようなところにする≫


 そうなんだけど、そう、そういうことじゃない。


 「それはその、私と美結くんが一緒にご飯を食べるということ?」


 そして最近日本語を覚えた人のような聞き返し方になった。美結くんは今頃『は?』って顔をしているだろう。私が逆の立場だったら鼻で笑う。


 ≪もちろんわざわざ出てきてもらうんだから俺が出すし≫


 そんな心配はしていない。


 「え、ご馳走されるようなことしてな……あっこの前のノート!? ノートのお礼!? いいよそんなの!」


 ≪違うそうじゃない≫


 そういうことかと声を上げたら即座に斬られて羞恥のあまり頭を壁に打ち付けた。 


 ≪そうじゃなくて普通に、色々高校の時の話とかちょっとできたらと……≫


 なんだそれは。怖すぎる。


 「高校の……話……?」


 花が咲くどころか燃えそうだ。


 ≪せっかく同じ大学にいるんだし、あとほら、試験のこととか≫

 「ああ、授業色々被ってるもんね……」

 ≪……もし2人がまずいなら、本巣とか呼んでもいいし≫

 「あ、それはいらない」


 そんな面子(めんつ)、混沌を極めすぎてしまう。


 考えろ。これはチャンスだ。人目につかないところでタイマンを張ろうと言ってくれている。

 最終決戦の舞台を彼が整えようとしてくれていると受け取っていい。


 「……ちなみに、お昼でもいい?」


 受けて立つわりに、私から出てきたのは随分弱気な声だった。


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