第26話 大切なことは覚えておいた方が良い
「──ねえ」
「うん?」
「もうちょっと、こう、分割とかできないの……」
最初の行為というのはまず"1回きり"で、その本試合のあとはとにかく体をいたわってゆっくりするものだと思っていた。
奥まで到達して富士山の山頂に登り切ったような達成感にほっとしていたのに、最初こそ遠慮していたはずの美結くんが私が慣れてきたと分かるとぐずぐずと腰を揺らし始め、そして気が付いた時には私はもう喉がガラガラになってまともに声が出なくなっていた。
「可愛すぎて訳が分からなくなって……」
「全身、もう、全部痛いんだけど」
「ごめん」
「待って、もう無理、ちょ、なになになに、ぁ、だめ」
きちんと整えられていたはずのシーツはぐちゃぐちゃによれ、枕はずり上がってベッドサイドに半分かかっている。時計を見るともう1時をとっくに回っていて、3時間以上もこうしていたらしいことを知ってぞっとした。
「もう一旦休憩!!」
せっかく被った掛布団は引っぺがされ、制止のために起こしかけた身体はまた沈められ──その後気を失うように眠ったかと思うと、鋭い朝日で目が覚めた時には朝の10時を回っていた。バイトの入り時間は10時20分。
そう、絶対に間に合わない。
「最悪……」
ガラガラの声で少し遅れる旨を大将に電話すると、昨日の大雨で風邪を引いたのではと休むように言われてしまい、現在の罪悪感は最高潮に達している。
「すみません……」
「ああ、だめ、動けない」
汗やらなにやらで髪はとんでもないことになっている。よろよろと床に落ちた下着を拾って、そしてまた絶望した。結局替えの下着も買っていなければ、メイクも落としていないし、更にはシャワーも浴びていない。
「うわごめん、これ血だ」
ふとシーツに滲む小さな変色を見つけて慌てて隠すと、美結くんがにへらと気持ち悪い笑みを浮かべた。
「……何笑ってんの」
「いや、いつも通りだなと思って」
「いつも通りなわけないじゃん……」
腰も股関節も、頭も喉も痛い。本当に風邪を引いたような気がしてくる。
「やりすぎだから。もう絶対こんなにしないから」
「ちなみに、今すでにしたいけど」
「ちなむな」
屍のような体を引きずってなんとかシャワーを浴びて出てくると、私の好きなホットミルクティーがタイミングよくテーブルの上で香りを上げていた。
「喉酷いね。ごめん」
「誰のせい?」
「録音しとけばよかった」
近くにあったクッションを全力で投げつけると綺麗に美結くんの顔面に当たった。それでも美結くんは穏やかな顔をしていて気持ち悪い。
「鎮痛剤飲む……?」
「だいじょうぶ」
「駄目だ。今多分宇佐木が急に寿限無唱えはじめても欲情しそう」
「怖」
怖すぎる。美結くんは顔を覆ったまま「全部夢かもしれない」と天井を仰いだ。
「……今更なんだけど、なんで昨日あのタイミングだったの」
シャワーを浴びながら考えたけれどやっぱりわからなかった。なお、その際身体のあちこちに鬱血が見つかり、これは当分肌を見せられないとげんなりした。
「ずっと耐えてたのにね」
「耐えてたんだ」
「何? 宇佐木は俺が出家したとでも思ってた?」
「全然そういうそぶり見せないから」
「見せてたら怖がって家に来なくなってたくせに」
それはおそらく、いや間違いなくそうだっただろう。図星を突かれて思わずぐっと言葉に詰まる。
「自分でもよく分からないから、下手したら今後宇佐木が何してても襲うかもしれない」
「……」
「でも宇佐木だって散々気持ち良」
思わず真顔で彼の太ももを叩いてしまった。一切ダメージを受けていないようだけれど。
「ちなみに」
「なに」
「週何回までだったら許される……?」
「聞くな」
蔑むためにゆがめた唇がふいにがぶりとまた噛みつかれた。もう意味が分からない。溜まりに溜まった遠慮と我慢のダムがいよいよ決壊してしまったのか。
「あと、」
「なに?」
「平常時でも、名前で呼んでいい?」
「…………やだ」
「え」
なんで、とぐずるように絡んできて、それを鬱陶しがりながらホットミルクティーを啜り、あちこち痛む体に溜息を吐いた。
やはり何もかも予想通りになんていかない。こんなはずじゃなかったのに。
(でも、まあ、)
「……宇佐木」
「はい」
「無理。いい? ちょっとだけ」
「……は?」
私もずっとこうなりたかったのかもしれないと、今までの意地も何もかも全て捻じ伏せて納得させられるくらいには、もう溺れている。
それから。
「──美結くん」
「うん?」
「いつまでうちにいるつもり?」
北海道旅行の前に実家に少し帰りたい、と美結くんに告げると案の定彼はついてきた。彼もまた地元なのだから問題はないのだけれど。
今年はせっかくだからとレンタカーを借りて、2人だと割高になる道中をそれなりに楽しんだ。2年前に断った時のことを思い出して今更詫びると『いいよ、俺も普通に電車で帰ったから』と。続けて『宇佐木いないのに野郎を乗せて帰るメリットなくない?』とも、悪びれることもなく言った。無茶苦茶すぎる。
そして別に"そういうこと"をしたからではないし、何ならなるべく言いたくはなかったけれど、遠方への旅行で万一何かあったらと家族には美結くんとの今の状況を打ち明けた。
思い出したくもない。
両親揃って手を取り合っての狂喜乱舞で、その夜は地球最後の日かという晩餐が用意された。もちろん美結くんも同席である。
そして母の『あなたは息子同然だから今まで以上にいつでも家に遊びにきてね』という言葉のせいで、彼は実家滞在3日目にしてまだ我が家にいる。宿泊先は私の隣にある弟の部屋だ。
「自分の実家帰りなよ。もう社会人になるんだからしょっちゅう帰ってこれなくなるよ」
「実の息子はあんまり帰ってこないくらいの方が可愛がられるから」
どんな論理だ。
美結くんを帰らせない人間のうちのひとりである弟はもう大学生になったにも関わらず「いっくん、ゲームしよーよ」とノックもなく私の部屋に顔を出してくる。
そして、
「てか思ったんだけど、もうそんな付き合ってるってことはやっぱ結婚とかすんの?」
などとあっけらかんとデリカシーの欠片もないことを言い、
「それはもう、うん」
そこで美結くんが平然と頷いたせいで、
「え?」
私は弟を追い払おうと腰を上げたまま動けなくなってしまった。
「でも社会人になったら絶対こいつより良い女に出会うと思うけど」
「はは、ないない」
「だってさ。よかったな。じゃああとでいっくん俺の部屋来てよ」
バン、と機嫌良さそうに扉を閉めて出て行った弟が心底憎い。状況が状況じゃなかったら追いかけている。
「数馬、結構シスコンだよね」
「……まあ」
あっけなく流れていった先ほどの話題に安堵していると、美結くんは「そうだ」携帯の画面をこちらに見せながら手招いてくる。
「宇佐木はどのへんに住みたい?」
「何の話?」
「まだ早いかと思ったけど、今のうちからエリアは絞っておいた方が良いかと思って」
「聞いてる?」
やむを得ず画面を覗き込むと、私が大学進学時に見ていたような不動産のサイトを開いていた。どうやら美結くんは家を探しているらしい。
誰の?
「ごめん全然追いつけてない、話に」
「2人で同じ部屋借りた方が安いし。あ、ちなみにご両親からは快諾頂いてるから」
「え? 今の部屋引き払うの? もう卒業なのに」
ここまでで一旦、彼が同棲の話をしていることまでは理解できた。理解した上で、突拍子もないけれど確かに言い出してもおかしくないとは思うのでそのまま会話は続けようとして、しかし。
「? 来年の4月からのだけど」
何故か美結くんの方が不思議そうな顔をしていた。
「どういうこと? 留年するつもり?」
「そうじゃなくて、働き始めてからの話」
「いやいや」
あなた全国転勤あるでしょうが、と分かり切ったことを指摘すると美結くんが思い出したように顔を明るくする。
「言ってなかった。本社勤務だよ俺」
「……知らなかった。だから?」
「うちの内定先の本社、宇佐木の勤め先から4駅しか離れてないでしょ」
あたかも知っていて当然かのように、彼は言った。
「え?」
「宇佐木の就職先が決まってから、1番近いところの内定承諾したから大丈夫」
「何をおっしゃってる?」
「まあ細かいことはいいから。つまり来年からも一緒だよ」
意味が分からない。
美結くんはもうそこでこの話題を終えたものとして、楽しそうに引き続き賃貸情報を見ているけれど。
「な、なんの相談もなく……」
「宇佐木に話したら絶対『そんな理由で進路を決めるな』とか言いそうだったし」
「それは、」
多分、いや確実に、言っただろうけれど。
「結婚の話を詰めたらまた悩みそうだし」
「……そ、」
そんなことは、なくはないだろうけれど。
「もっと早く手出してたら、今は学業がどうとか言って変に距離置いてきそうだったし」
「……」
「大変だったんだから、俺も」
そう、つまり、全て見抜かれて何もかも計算されていたと。
「もう全部片付いたんだから、いいよね?」
卒論以外の単位もほとんど取り終えて、就職も決まって、確かにこれ以上ない状況だけれど。
「でも、さすがに、就職先をそんな決め方で……」
「いいんだよ。俺どこで何やっても幸せだから。家に宇佐木がいるなら」
「そんなに私面白い人間じゃないんだけど」
掛けられるものがあまりに重すぎる。今からすでに膝から崩れ落ちそうだ。
「ちなみに、27歳まで待たないから」
美結くんがどこか拗ねたようにそう言って、私は何のことか分からずその数字の意味を頭の中で探る。しかし見当たらない。
「……何の話?」
「宇佐木が言ったんですけど。結婚するなら何歳って」
「言ったっけ……?」
私が首を捻ると美結くんは愕然としたように目を丸くして、そして大げさなくらいに肩を落とした。
「……宇佐木は人生を左右する重大発言を今後適当にしないでくださーい」
「それ言い出したら美結くんだって適当に結婚とか」
「適当じゃないよ。あとは宇佐木が腹括ってサインしてくれたら出すだけなんだから」
適当ではないことくらい、私だって分かっている。
目の前の男は何もかも計算づくなのだから。
「……ちゃんとプロポーズとかされてないし」
「したかったんだけどうっかり数馬があんなこと言うから」
「殺してくる」
「そんなにしてほしかった?」
くすりと妖しく笑った美結くんの顔が近づいてきて、一瞬流されそうになったのを慌てて「ここ、実家だから」と突っぱねる。
「してほしかったわけじゃないし。あと"そういうこと"は今しないから」
「俺は全然見られても問題ないけど」
「私はあるから」
いじけたように、くすぐるように首筋を唇で食まれる。最悪だ。少しでもぐらりときそうになった自分に拳を向けたい。
「あーあ、車の中で宇佐木に殴られたみぞおちが痛いなぁ」
「それは美結くんが急に盛ってくるからでしょ」
「急に盛ったことなんて1回もない。常に、」
「小学生みたいなこと言わないで」
ギリギリの攻防戦の中、美結くんはくすくすと笑ってふざけながら私の腰を掴んで抱き寄せる。こんな季節に暑いったらない、けれどこれくらいならまあいいかと凭れ掛かってすぐに後悔した。
「ちょっと」
「……うん?」
「絶対にしないから。何度でも言うから。実家だから」
「失敗した。うちに来てもらえばよかった」
「っだから、当てないでよ」
「当ててるから」
「隣、弟いるの」
「いいよ別にお互い大人なんだから」
「そ、ういう問題じゃ、」
「宇佐木が声我慢したらいいんじゃないの」
確かに、と納得しかけて3秒後。
「いっくん遅くね? って、おい。こら」
漫画のような邪魔が入って、私はそのまま白目を剥いた。
しかし気まずいはずの美結くんは私を腕の中に収めたまま楽しそうにけらけら笑っていて、これも絶対全部計算していただろうと心底腹が立つ。
そして私はこんな時になって思い出すのだ。
高校生の頃、美結くんが元々工学部に進もうとしていた頃よりもう少し前のこと。
私が『付き合うなら理系男子がいい。私全然得意じゃないから』と言ったことを。
それからしばらくして『大学で彼氏作りたい』と追加したことも。
まさかとは思うけれど、しかしこの男ならやりかねない。
「……今後自分の発言に責任持とうって決めた」
「うん。そうして」
でも振り回されるのにも結構慣れたから別にいいよ、とも美結くんは笑う。
「宇佐木の、気づかないうちに色々周りに影響与えちゃってるところが好きだから」
「いや、最悪な人間じゃん」
「だからあんまりSNSとかやらないでね」
いつからだったか、なんて分からない。
どこが始まりだっただろうか。
思い出せる限り過去に遡ろう。
私が彼にまつわる発言で古い記憶にあるものはたったひとつだけ。
『──私、4組の美結くんとだけは絶対結婚したくない』
なんで?
そう聞かれてこう答えた。
『だって美結くんと結婚したら"美結結々"になるもん』
それは、確か中学1年生の春のことだった。
眼中にない君のこと
【完】




