第25話 たまには素直になった方が良い
そうして本当に美結くんが言った通り、私たちは夜9時前には最寄り駅に到着していた。
中高生でも今時珍しい健全解散。
ここ数日、これを望んでいたはずなのに、勝手なことに私は多少呆気にとられていた。
「家まで送ってく」
駐輪場に止められた自転車に躊躇なくさくさく跨った美結くんは、すでに車輪を私の家の方向に向けている。
(本当に?)
「あの」
「うん?」
「本当に、何もしなくてよかったの」
埋めた地雷を自分で掘り起こす奴がどこにいるだろうか。ここだ。
私の間抜けな発言に美結くんは少し驚いたような顔をして、けれど脱力したように破顔した。
「宇佐木からその確認が出てきただけで嬉しい」
「私にそんなつもりはなかったんだけど」
何なら、もう今日くらいふわふわしたテンションじゃないと覚悟が決まらないような気さえしていた。自分であれだけ回避したがっていたくせに。
「先は長いと思ってるから」
なんて、美結くんはまるで決め台詞のように言った。そして私たちは本当に健全に自転車を漕いで、健全に私の家の前で別れて、健全に解散後のメッセージを送り合っている現在。
(男女交際むずかしすぎるな……)
きっと結果報告を期待してうずうずしているだろう郡上にはなんとなく連絡がしづらかった。キスくらいはするだろうと散々しつこく送られてきていたメッセージを読み返して意味もなく苛ついて携帯を放り投げた。
そしてなんとなく、私はおそらく美結くんに提案されていたり、あるいは招かれていたら流されていたんだろうなという自分に気が付くことになる。
多分、サグラダファミリアの完成よりも私の方が早い。
妙に不貞腐れた気分で無理やりベッドに入ると、目が覚めたのはそれからまだ2時間ほど、日付が変わるか変わらないかという時刻だった。普段寝付かない時間に挑戦してみるものじゃない、おかしな時間に起きてしまう。
あれから何かメッセージは来ていないだろうかと携帯を開いてみるも、何もない。背中から思い切り布団に倒れこんでもう一度目を閉じてみるものの、睡魔はもうどこかへ行ってしまった。
ほんの数時間前まで目にしていた煌めきや眩さが、もう記憶の引き出しのどこかにしまわれてしまう。祭りの後の寂しさにどこか近い。
(絶対にこのキャラは死ぬだろうなって思ってたら本当に死んだときみたい)
我ながら意味不明だ。誰かに思い切り殴ってほしい。
もうすぐ25日になる、日付が変わる3分前になんとなく──意地悪い気持ちが湧いて出た。
美結くんの連絡先を表示してしばらく眺めて、そして内容も考えずただ本当に無意味に通話ボタンを押してしまっただけ。
≪……宇佐木?≫
2コールで出た美結くんはきっと不動産営業でも向いていると思う。
≪どうした? なんかあった?≫
そうだった、電話越しに聞くと少し声が低く聞こえるのだ。どこか心配そうな声に、うっかり私はほっとしてしまう。
「どうもしない。寝てると思った」
≪寝てると思ってたところにかけたんだ≫
声の質からしてまだベッドには入っていなかったのだろう。美結くんがふっと笑うと、座りなおしたような、何かにぶつかる音がする。
≪宇佐木はもう寝てると思った≫
「10時前くらいに寝て、さっき起きて暇つぶしにかけてみただけ」
≪起きてたから全然いい。寝てても起きるけど≫
私は意地悪でかけたのに、彼は少しも意地悪を返してこない。ささくれだった気持ちが萎えて、かわりに小さな罪悪感が芽生えていた。
「……ごめん。本当になんとなくかけただけ」
不貞腐れたような声が出て「もう切るから」とこちらが慌てると、
≪まだ寝ないんだったらなんか話そう≫
美結くんは何もかも分かっているような、どこか笑んだ声でそう言った。
「面白いネタ何も隠し持ってないよ私」
≪俺あるよ?≫
「あるんだ」
ぽつりぽつりと、なんとなく話し出すと会話は妙に続いてしまって、ふと時計を見た頃には夜中の1時を前にしていた。
「美結くん明日は? 予定ないの」
≪ないよ。宇佐木は?≫
「……ない、だって」
そしてそれを言ったのは、私が寝ぼけていたせいでしかない。
「多分今日泊まったりすると思ってたから」
この瞬間、おそらく私の思考力は平常時の100分の2ほどしかなかった。
美結くんが黙り込んで5秒後に、自分の言ったことを理解した。理解して咀嚼した上で次の言葉が出てこなかった。
「じゃあ、おやすみ」
寝ぼけていたということにしよう。そして私は向こう側で美結くんがまだ何か言いかけたのも聞こえないふりをして、無理やり終話ボタンを押したのだった。
──と、ここまで全て、今から"1年半前"までの回想である。
信じられないことに、あれからずっと何も変わらぬ関係が続いている。
何も変わらぬというのは本当に言葉の通りであり、何ならあのクリスマスの瞬間からここまでタイムスリップしたのではないかというくらい変わっていない。
強いていうなら在学している友人知人が皆滞りなく進級し、羽島さんは子供が生まれ予定通り退学してしまったことだろうか。惜しみながらも彼女の新たな門出を祝い、今も時折連絡を取っている。
今は大学生活最後の年、4年生の夏。
美結くんは6月には予想通り全国転勤のある飲料メーカーから内定をもらい、無事に承諾までこぎつけている。私も私で昨年一瞬公務員への道に迷ったものの、結局民間企業に就職が決まった。お互い忖度も干渉も一切なく、情報交換をしつつ本当に各々で進路を決めたのだった。
最初こそ何も変わらないことへの妙な焦りや違和感があったものの、半年も経てば随分居心地がよくなっていた。互いを比較的よく理解していて、そして2人で出かけることが多いだけの、特別親しい友人のような関係。
接触は時折気まぐれに手を繋ぐだけで、それ以上は何もない。一度もそんな雰囲気にならなかったのかと言えば嘘にはなるけれど、結局雰囲気だけで終わった。その雰囲気というのももしかしたら私の勘違いだったのかもしれない。
美結くんは飽きずに私を好きだなんだと言い続け、私はそれをはぐらかし続け、けれども彼はどこか満足そうにしていて、というのを繰り返していたらこんなにも時間が経ってしまった。
「美結くん今年はどうする? 夏休み」
「大学生最後だし旅行でも行こうか」
「だったら遠いとこ行きたいかな」
だらだらとここまで続いたことへの恐ろしさが少しもないと言えば嘘になる。
一人暮らし同士ともなるとなんとなく互いの家に半同棲になっていった。そう、気づいた時には家に美結くん用の安い布団セットがあった。……気づいたときには、というのもまた嘘だ。うまく説得されて流されて一緒に買いに行ったのだから。
一泊二日で旅行に行ったこともある。その時は値段につられてツインか、格安の時は別室を取った。いずれの場合もやはり当然のように何事もなく。
正直もう付き合っているというよりは長く連れ添った夫婦のようになっていて、もうこれはこれでいいかと私も絆されつつあった。美結くんがそれでいいならそれでいい。
スパイだった郡上との仲も良好で、当時はなんてことをしてくれたんだと糾弾したものの『いいじゃんキューピッドになってあげたんだから』と言いくるめられて結局追及はそこで終わった。
そしてその郡上にも相変わらず、美結くんと何もないことを私からは伝えていない。もしかしたら美結くんが言っている可能性はあるけれど、だとしたら私をいじらずにいられる彼女の忍耐を褒めてあげたい。
おそらくこの内情を知っている人からすればやきもきして苛々することこの上ないだろうけれど、ここまで来ると最早このまま何も変わらないでほしいと思うようになっている。
やはり美結くんは私の進路に口を出してこなかった。実際、口を出されたらおそらく喧嘩になっていただろうけれど、それでも私は彼が何か言ってくるものだと思っていたから拍子抜けした。彼が言わないなら、私も言わない。
つまりこの時点で、私たちは来年の4月から完全に分離した生活を送ることが決まっている。
冗談のように結婚にまつわる話題が出たのは、1年半前のクリスマスが最後だ。私もなんとなく避けていたし、彼も恐らくそうだったと思う。買い物の途中で結婚にまつわるアイテムやスポットを見かけてもいつも何も言わず通り過ぎていた。
「──そろそろあんたはプロポーズされるんじゃないの」
やさぐれている郡上はなんだかんだ1年以上付き合った彼氏と2か月前に別れたばかりでまだささくれ立っているらしい。分かりやすく声がとげとげしい。
「されないよ」
これはもう別に謙遜や卑屈などではない。
「なーんだカマかけたつもりだったのに。されてないわけ」
「一切」
正確には1年半前のクリスマスに、それらしい願望があることをちらりと言われただけだ。それからはぱったりと止んでいる。
私もそれなりに成長して学んではいるので、これがすなわち美結くんが私に関心を抱かなくなっているからだとは思わない。おそらく、それなりに継続して想われてはいる。
『私が美結くんと付き合うことで私が誰かに危害を加えられたらその時点で全部終わり』
『惰性もあり得ない。そっちが私に執着するのに満足するなり飽きたらそこで終わり』
今でもふと過去の自分の台詞を思いだす。前者については結局、危惧していた自分が馬鹿馬鹿しいと思うほど何も起こらなかった。そして後者についてもないだろう。
つまり終わりようがなくなっている。あとは私が切り出すほかないのだけれど、仮にこの関係性が続くのだとすれば私が無理に終わらせる理由がない。
「──あ。おかえり。間に合ったよ」
「本当にごめん……ありがとう」
その夜、美結くんだけがバイトのシフトに入っていたのだけれど雨が降り出しそうなタイミングで連絡があった。ベランダに干しっぱなしにしてしまったスーツをなんとか救出しておいてほしいという、些細な依頼事。
なんとか自転車を走らせて合鍵で彼の部屋に入り、ぽつぽつと振り始めたタイミングで取り込んだ。曰く、内定者懇親会でついた居酒屋の臭いがどうやっても取れず、外気に触れさせてなんとかしようとしていたらしい。私は私で外が本降りになってしまい、今日はここに泊まっていこうと諦めたところだった。
「でも残念ながら臭い消えてない」
「ですよね」
「お風呂場に干したあとにドライヤーしたらとれるってネットに書いてたけど」
「いや、もうクリーニング出すことにする……」
雨にも降られたらしい美結くんは「濡れたからお風呂入ってくる」とぼとぼと脱衣所に消えていく。
なんとなく彼の部屋に自分の着替え類を置いていくのは憚られて、こういった急な泊まりの時はコンビニに行って下着を買っている。美結くんにドアを挟んで一声かけてから外に出ると、傘を差しても無駄になりそうなくらいの土砂降りになっていた。雨音以外何も聞こえない。げんなりしながら、再び外界を遮断した。
「どうしよ。コンビニ行きたくないくらい降ってる」
「着替え持ってきてないんだ?」
「すぐ帰るつもりだったから」
参った。こんなことになるならマシな時に買いに行っておけばよかった。
雨足が再び弱まるのを待とう、と部屋に戻って日頃追ってもいないドラマを流すテレビをぼんやりと眺めていると、シャワーを終えたばかりで髪も濡れたままの美結くんがどこか申し訳なさそうな顔をしながら出てきた。
「ごめん、俺が勝手なこと言ったせいで」
「全然。私も前ガス切ったかわかんなくて来てもらったし」
「万が一のスケール感が違うから」
笑いながら美結くんは定位置に腰を下ろす。私との距離を50センチほど開けて横並びに座る、それがいつものお互いのポジションになっていた。
「いつもこのドラマ観てるの」
「全く。だからなんのことかさっぱりわかんない」
そのミステリードラマは番組表を見るともう5話らしい、尚更訳が分からなくて当然だ。画面の向こうでは一生懸命犯人捜しをしている。
「例の旅行、北海道とかどうかなと思って」
手を伸ばして美結くんが本棚から引っ張り出したのは旅行の雑誌だ。今時敢えてネットではなくこういうのを買ってくるのが美結くんらしい。
「じゃあ飛行機だ。夏休みだと高くない?」
「9月の平日ならよさそう。せっかくだし二泊くらいしたいんだけど」
「全然いいよ」
予算はどうだとかどの期間なら安いだとか、雑誌をのぞき込んで捲りながら結局「ネットで見た方が安そう」なんて本末転倒なことを言って笑う。
ここの至るまで、おそらく美結くんがかなり私に合わせる努力をしてくれたのだと思う。あれだけ拒絶していた過去の自分を叱り飛ばしたいほど、この空間は居心地がいい。
美結くんがどんな理由で私を気に入り、この曖昧な関係ながらも手元に置いておきたいと思ってくれているのかは未だに分からなかった。分からないけれど、もう追及するつもりはない。
この曖昧さ故に、私は自分の家族に美結くんとのことを言えずにいた。
もしかすると彼の方がこっそりと父あたりに告げるだろうかと思っていたのだけれど、どうやら嘘の吐けない身内のいつも通りの様子を見ている限りはそれもなさそうだった。彼は言わない私に不満を抱いているかもしれないけれど、それもまた何も追及がない。
「雨すごい。電車とか止まりそうじゃない?」
窓の外からの轟音で、テレビの音声はかき消されそうになっていた。言っている間に気象情報のテロップが出る。どうやらエリア一体に大雨洪水警報が出ているらしい。
「酷くなる前に帰ってこれてよかったね」
そう言いながら私は、それにしてもいつコンビニ行こうかと呑気に悩んでいたのだ。
だから、
「宇佐木」
その呼ぶ声にも、何も考えずに隣を向いた。
ばちりと一瞬目が合って、そのわずかな時間で美結くんの雰囲気がどことなく違っていることに気づいていた。ただそれが彼が頭に載せているタオルが作る影のせいなのか、この悪天候のせいなのかはよく分からなくて、それ故に私は判断が遅れた。
本能は勘づいていたのだと思う。それでも私が動けなかっただけで。
50センチだった距離は、そういえば旅行雑誌のせいで随分縮まっていた。
重なって離れるまで、おそらく1秒もかからなかったと思う。彼の濡れた前髪から落ちた雫が、床についていた私の手の甲にぽたりと落ちた。
何か言おうとして、
「……なんで今?」
出てきたのは素朴な疑問だった。咎めるつもりはなく、ただ思わず笑ってしまう。
「みゆく、」
そして何か言わせようとしたはずなのに、その息は何も言わない美結くんの唇の向こう側に再び吸い込まれていった。
(なんで、今なんだろう)
感動や衝撃は案外なく、すんなりと受け入れてしまったあとはそれならもっと今まで良いタイミングがあったんじゃないのかと言いたくなる。しかし過ぎた今そんなことを言ったってしょうがない。
「…………ごめん」
「いや、なにも、謝られるようなことは」
ぼすりと小さな頭が肩に乗ると、まだ水滴を落とす彼の髪が柔らかい棘のように頬に刺さった。ひやりと冷たく、頭を冷静にさせてくれる。
「許可も取らずに」
「取るものなんだ?」
どうなんだろう。聞かれていたら身構えていたかもしれない。
「別に怒ってないから」
「もっと他にタイミングあったと俺も思うよ……」
「まあ、それは」
そうなのだけれど。
「宇佐木」
「なに?」
「……もう一回していい?」
「二回勝手にしたくせに三回目は聞くんだ」
笑うと、美結くんも頭を私の肩にのせたままくすくすと笑って、何とも間抜けな空気の中でまるで小鳥がついばむように浅く何度も唇をくすぐられた。
「ちょ、」
「……触るだけだから」
「だけって何?」
適当に着てきたTシャツの裾の中に手が滑りこんできて、思わずくすぐったくて身をよじる。よじりながら『待てよ』と奈良の大仏のような顔をしたもう一人の自分が正座をして頭をよぎった。
これはつまり、そういうことではないだろうか。
「待って待って待って」
「待てない」
「い、今じゃないと思うんだけど、」
そう、絶対に今じゃないと思う。
「夏だし走ったし汗が」
「かいてない」
「怒んないでよ」
「……怒ってない」
「だめだから脇は、ッくく、だめ、こしょばゆ、笑う、ごめん笑わせて」
「…………」
くすぐったさに耐えきれず笑い出すと、そのまま体勢を崩して転がってしまった。
おそらく私は謀ったな、という顔をしていたと思う。まんまと床に押し倒された私は無様に彼の顔を見上げて溜息を吐いた。
「……怒んないで」
「怒ってない」
「もう、ほら、覚悟するから、せめてシャワー浴びさせて」
なんて言いながら私は少し逃げられる余地を探っていた。ここまで来たらもう抵抗する気はないのだけれど、それでも今日ではないし今ではないだろうという油断があった。
美結くんの顔には影が落ちていて、ぽたぽたと落ちる水滴と相まって思わずぞくりとしてしまう。背筋が凍る、というのは正しくない。ただこの感覚をなんと呼ぶのかは分からなかった。おそらく捕食される寸前のカエルは同じような気持ちになるんだろう。
なんだかんだで彼は私の要求を、
「……無理」
呑んでくれるはずだったのだけれど。
「え?」
私が一言入れる前に、せっかく吸いかけた息ががぶりと全て奪われて、一瞬本当に食われたのかと錯覚した。
「ん、」
他人の舌が自分の口内に入ってきた瞬間は思っていたよりも違和感が大きい。思わず追い返そうとして、しかしそうすると却って引き込まれてしまう。食われてたまるかと足掻けば足掻くほど、蟻地獄に落ちていく。
一瞬開いた隙を狙って息をするも、足りない。底なし沼で溺れかけているようだった。なんとなく後頭部が痛いな、と首を捻ると察したのか柔らかい手のひらが滑り込んで枕になってくれた。違う、そんなことをお願いしたわけじゃない。
「待っ」
待てと言って待つなら最初からこうなっていない。最初から。
ひたすら侵入者との攻防戦を繰り広げていたはずなのに、だんだんと背筋がむずがゆくなってくる。ぼうっとするのは酸欠のせいだろうか。本当に殺されるのかもしれない。凶器のない殺人。
空いた方の手がもう一度めげずにするすると服の裾から滑り込んでくると、さっきまで耐えがたいほどこそばゆかったはずなのに、今度は違う感覚に襲われる。
まずい。持っていかれる。
「待って」
唇が離れた瞬間に決死の思いで発した制止は、
「待ったよ」
濡れた色の瞳に至近距離で見下ろされると、それがいかに意味がないことかを知る。
そしてその言葉が何に対してなのか、今の頭では分からなかった。
「……、せめて、シャワー」
「そしたら逃げるでしょ」
「電気」
「いらない」
「会話、……ぁ、成り立ってな、」
電気がいらないなら消してくれないだろうか。発言する間に口づけてくるのは言論の自由を奪う行為じゃないだろうか。
そして一瞬美結くんが離れた瞬間何故か私は自分の勝利を確信したのだけれど、急にぐらりと視界が揺れたかと思うと身体が浮いた。浮いて、そして放り投げられた先は。
「待っ、落ち着いて」
「落ち着いてる」
まずい。何がまずいかと言うと、私は今日ノンワイヤーで蒸れにくく更に色が浮きにくいアスファルト色の下着をつけている。そして下の方はそのペアならまだしも全く別ブランドのこれまたボトムスにうつりにくいシームレスショーツ。昨晩適当に履いた記憶が蘇る。
「待って、今だめだから、サンダルでオリンピック400m走出るような、」
渾身のボケは中途半端に呑み込まれて、こんな土壇場で絶対に負けられないと組み敷かれながら足掻くも四肢を駆使して阻止される。
今まで長い間、絶対にもっとちゃんとスイッチを押していたシーンがあったはずなのに。
どうして今日、今、この瞬間だったのか本当に分からない。
角度を変えて重ねられる唇はそろそろふやけそうで、脳も前頭葉あたりがそろそろ煮え切っている。デニムパンツの面倒くさいダブルボタンが外されていることに気が付いて起こそうとした上半身は、耳をくすぐられて力が抜けて、再び柔らかい海に沈んだ。
だめだ。馬鹿でも生娘でも分かる。
「ぁ、そっちは、触らないで」
「……うん?」
「それ、」
濡れてるから、と言い切ったか否かのタイミングにはまた噛みつかれるように唇で覆われて、もうよくわからなくなっていた。
不幸中の幸いと言えば、しげしげとこのダサすぎる装備を見られずに済んだことだろうか。
お互い始めてなのだから美結くんもキャーキャー恥ずかしがりながらなんだろうな、笑ってやろうと思っていたのに、全くそんなことはなくて不平等を感じた。
どこを触られても何をされてもずくずくと下腹部が疼いて、頭の奥がぼうっとする。恐る恐る触れた指の腹がそこを往復すると電流が流れて、まるで壊れかけの玩具のように声とも息ともわからない音が喉から漏れる。
「ん、……ぁ」
こんなに何もしなくて怒られないのだろうかと、美結くんの顔を見たかったけれど、視界がうるんでよく分からなかった。
「……指入れていい?」
「なんできくの」
予防接種じゃあるまいし、という突っ込みは残念ながら初めて経験する違和感のせいで口に出せなかった。
「ッ、ちょっと痛い」
「ごめん」
「……、あ、そこ、」
チカ、と視界に光が跳ねた。うっかりピンポイントで反応したせいか、執拗に追い立てられてどんどん頭が馬鹿になっていく。ひざ下に引っかかったデニムパンツが邪魔で下ろし切ろうとした手にも力が入らない。
あちこち柔く嚙まれたり口づけられたりしながら、頭の奥で火花が何度も散る。もうまともな日本語が分からなくなってくる頃、気が付くと2本に増えていたらしい指がずるりと抜けて足の先が一瞬痺れた。
「……つらくない?」
「…………きかないでってば」
ガタ、と頭の天辺で物音がしたのは、多分それなんだろうなと覚悟する。妙な休憩時間を与えないでほしい。せっかく惚けていた頭に理性が戻ってきてしまいそうだった。
駄目押しのように指の腹で中心部分を撫でつけられたかと思えば、覚悟していた以上の異物を押しあてられて思わずぐっと息を呑んだ。
「宇佐木、」
本当に、なんで今日なんだともう一度文句を言いたい。
「私の、……名前」
「うん?」
「呼んで」
絶対に痛いだろう。見ていないけれどそれはなんとなく感覚で分かる。
多分私はしかめっ面をするだろうし、下手をしたら悲鳴を上げるだろう。それでも覚悟をして、目を閉じた。
「……私も、もう、好きだから」
私の名前を呼んだ美結くんの声が泣きそうだったのは、ただ欲に呑まれていたからではないと思う。




