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第23話 嫉妬はほどほどにした方が良い





 クリスマス直前のある日。

 シフトが被った美結くんとの帰り道、少し早めの夜8時。自転車で走りながら話すには随分厳しい寒さになっている。


 いつも通り世間話をしながら自転車に跨ってから、ふと思い立ってそれを仕掛けたのは私からだった。


 「そういえば美結くんの家、言ったことない」


 と。


 「いやいやうちは何もないし」

 「じゃあ突撃しても片づけるもの特にないんだ」

 「……え、まさか今から?」

 「まずい?」


 ちらりと伺うと美結くんは少し迷って「本当に何もないから」「見せるだけだから」と念押しをしつつも、思っていたよりすんなりと話を進めてくれた。

 平静を装って自転車をこぎながら、内心はまるで肝試しにでも行くような気でいる。そんな可愛らしいものではないかもしれない。


 (……あ、駄目だ、喋るの止めたら喉が焼けそう)


 会話が止まらないように、だらだらと被っていない授業の苦労話だとか、高校の時の学生指導がいかにしつこかったかなんて生産性のない話を続けた。

 先日停めた場所と同じ場所に自転車を置いて、エレベーターの場所だって知らないふりをして乗り込んで、それはさながら刑場へ向かう死刑囚のような気分だった。


 やはりあの時見た、関さんが出てきた部屋が美結くんの403号室で間違いなかったことを、扉を目の前にして確信する。

 いっそ何か、女性の髪の毛かアクセサリーか化粧品でも見つけて糾弾すれば、私たちの話は今日終わるのだろうか。


 「……お邪魔します」


 ふわりと香るのは、美結くんからいつもするあの爽やかな匂いだった。どうやら実家ではなく、彼の使っている洗剤の匂いらしい。


 「本当に、何もないから」

 「大量の漫画があったら逆にテンション上がるのに」

 「……」

 「あ。待って。用意しなくていいから」


 また適当なことを言って惑わしてしまうところだった。


 確かに殺風景だけれど、掃除が行き届いているのが分かる。玄関マットもきちんと敷かれていて、ちらりと見えた洗面所にも同じようなものが置いてあった。


 (……本当に、いつ誰が来てもいい部屋だな)


 自分でそう思って、自分でじくりと胸を痛めた。

 7畳だという部屋にはバランスよくベッドとデスクとテレビ、それから真ん中にローテーブルが置かれている。飾り気もなく、生活感もない。


 「全然面白いものないから……」


 そしてどうしても私を早く追い出したいらしい。


 「もうちょっと見たい」


 しかしここではまだ引けない。


 「いやいやいや」

 「なんで? 見たらまずいものでもある?」

 「ないけど」

 「あ、そうか手洗ってない。洗面所借りていい?」

 「そっち……」


 あきらめたように溜息を吐いた美結くんは「ミルクティーでいい?」最初からあたかも答えが分かっていたかのような質問を投げてくる。


 「え、いいの? ありがとう」

 「……でも本当に1時間くらいで家送るから」

 「わかったわかった」


 手を洗ってから床に座り、気づかれないようにくまなく見える範囲は目をやった。なんだかんだで通してくれるくらいだ、美結くんはそんな初歩的なヘマはしないんだろう。

 美結くんが淹れてくれたホットミルクティーは、シンプルな黒のマグカップに入れられて登場した。


 (……大学生の男の子って常に、家にそんなおしゃれなもの置いてるんだろうか)


 本巣の部屋には壁一面に日本酒の瓶が置かれているのに。


 「……美味しい。これ、高級なやつだ」

 「そんなことない」

 「私ミルクティー好きだから分かるんだよ」


 ちなみに洗面所で手を洗った時、本当は鏡の裏側に隠れている棚を見てしまいたかったのだけれど、良心の呵責に苛まれて結局そこまではできなかった。

 さすがに女の子を泊めたりはしないのかもしれない。


 聞いてしまおうか。やはり隠されるだろうか。


 きっと『気にしないから』なんて言ったら、それはそれで美結くんは傷ついた顔をするんだろう。それくらいは私ももう分かるようになってきている。


 「……あのさ」


 悶々としていると、先に口火を切ったのは私の斜め前に足を崩して座った美結くんだった。


 「この際だし、物凄く、どうでもいいというか、なんなら気持ちの悪いことを聞くんですが」

 「? うん」


 「……宇佐木が"そういうこと"したのって、誰となのかなと……」


 言いづらそうに、そしてとてつもなく濁されながら、語尾は消えていくように。

 しかし私はその質問が何を指してのことかをすぐに悟った。


 「気にするんだ」


 なんとなくこの流れをすぐに無かったことにするには勿体なくて、彼が出した舟に乗ることにする。


 「いや、別に、……全然。ただこう、なんとなく宇佐木が慣れているというか、動じない理由が分かったというか」


 慣れてもいないし動じていないわけでもない。ただそう伝わっていたのなら、この応酬は私に有利に働く。


 「本当に、気にしないんだけど。いや、誰というか、いつというか、……いや。ごめん、やっぱり言わなくていい」


 「美結くんは?」

 「え」


 「そっちはいつ? 早そう。実は中学生の時とか」


 なるべく平然を装って、ミルクティーに口をつけた。こんな駆け引きの場には似合わないくらい、甘く香って喉を柔らかくしてくれる。


 「…………どうかな。覚えてない」


 予想通り、やはり濁された。それはそうだろう。ここで学年を言えばおよその相手を私に知られて気まずい思いをすることになるのだから。


 「だよね」

 「え、宇佐木は大学入ってから?」

 「美結くんに同じく覚えてないってことにするから言わない」


 なんとなく、美結くんが奥歯をぎゅっと噛み締めたのが分かった。


 「だったら、」


 なんとなく、指先がこちらに伸びてくるような気はしていた。



 「……なんで、キス以上は駄目って条件つけたの」



 (……そっちがそんな辛そうな目する資格ある?)


 口に出して言ってやりたい。

 テーブルを間に挟まなかったせいで、美結くんの手はそのまま何にも邪魔されずに私の腕を掴んでいた。私の脇にあるテーブルに置いたミルクティーはまだあと半分くらい残っている。


 「少なくとも、宇佐木は誰とも付き合ってなかったと思うんだけど」

 「だったら?」


 ここでなんでそこまで自信をもって断定できるんだなんて突っ込みは入れない。



 「付き合ってない人に許したのに、俺は駄目なんだ?」



 美結くんの声は、言葉を発するたびにトーンを落としていく。

 そっくりそのまま同じことを言ってやりたい。


 「美結くん、したいんだ。この前は好きになってもらわなくていいとか言ってたのに」

 「……」

 「そんなそぶり見せないから、てっきり私にそういう欲は抱かないんだと思ってた」

 「……宇佐木」

 「いいよ。禁止とか言ってたけど今この瞬間に解禁」


 やけになって、降参、と掴まれたままの左腕を含めて大袈裟に両手を上げてみたのに、美結くんは一向に動かなかった。


 「……するつもりない。さすがに」

 「そうなの? 別にいいのに」

 「いいから。……もう、送ってくから」

 

 少し乱暴に上に引かれた腕を、私は思わず振り払っていた。


 「また関さん呼ぶんだ」


 「……は? 何?」

 「実はこの前見たから。この部屋から可愛い関さんが出ていくところ」


 言うつもりはなかったのに、気が付いたらボロボロと全部吐き出してしまっていた。

 美結くんは口を半分開けてぽかんとしていて、それがあまりに滑稽で鼻で笑ってしまう。


 「先に言っとくけど全っ然気にしてない。何ならミーティングルームに一緒にいた時の方が正直ちょっとモヤってたけど、そこまでする仲なら逆にもう割り切ってるんだなって思うし」


 「え、」


 「ただ死んでもそのベッドには触りたくない。はい、じゃ、帰ります」


 「ちょ、っと待って待って宇佐木」


 「だから!」




 「何のことか本当に全く分からないんだけど…………」




 もう一度掴まれた手は解けなくて、そして私を見下ろしている美結くんは心底困惑したような顔をしていた。


 「……記憶喪失?」

 「いや、……待った。この前の日曜の夜?」


 ぴたりと言い当てられて、上げかけていた腰を下ろして思わず正直に頷いてしまう。


 「え、宇佐木、いたの?」

 「……ドッキリでも、仕掛けようかと」

 

 しれっと嘘を吐いてしまったけれど、美結くんはその点についてはどうでもいいようで。



 「その時から今に至るまでずっとその、意味不明な勘違いをしたままだったと?」



 すぅっと、目を据わらせた。


 「意味不明って」

 「確かに関さんうちに来たけど」

 「来てるじゃん」

 「最後まで聞きなさい」

 「はい」

 「…………、この話勝手にすると関さんに悪いから言わなかったし、宇佐木の中で留めておいてほしいんだけど」

 「何?」



 「関さん、女の子が好きだから」


 「なんて?」



 多分私は、かなり間抜けな顔をしていたと思う。


 「男は無機物に見えるっていつも言ってる」

 「え、そ、じゃあ、なんで美結くんの家に」

 「駅から家に向かってる時に変な男につけられて困ってるとか言うから、撒けるまでうちに避難してもらっただけ。10分か20分くらい」

 「嘘。それなのに一人で帰したの。せめて私送ってあげれば、」

 「……さっきまでキレてたくせに」

 「キレてない」

 「下まで関さんの彼女がバイクで迎えに来てくれてたから」

 「よかった……」



 「宇佐木」



 ほっと胸を撫でおろした私に対し、美結くんは据わった目のままこちらをじっと見ていた。


 「何が何でも俺が裏切るシナリオにしたいんだ」

 「……すみません」

 「宇佐木本人および宇佐木に近づくのに有効な人材以外は本当に俺どうでもいいから」

 「でも関さん、私関係ないのに」

 「……関さんと俺は宇佐木の推しポイントが共通してるから確かに仲間意識はあるけど」

 「何それ」


 どうして美結くんの周りにはこうも強すぎるエピソード持ちが多いんだろう。ここまで揃うなら山県くんもとびきりの設定を持っているんじゃないだろうか。

 そもそも関さんが出てくるのを見ただけで『いやでも関さん男に興味ないかもしれないしな』なんて発想ができていたらもう私は今頃小説家か漫画家にでもなっている。


 「勘違いしたのは謝るけど、でも、……異性を安易に部屋に入れるのは」

 「ついさっき、気にしてないって言った」

 「……」


 しっかり言質を取られていた。もう消えてしまいたい。


 「私は気にしてないけど、俗世間の一般的な、倫理上の問題というか」

 「嘘でも気に入らないって言ってくれたらいいのに」


 何も言うまいと唇を嚙み締める。


 「俺はこのあと宇佐木を家に帰したら、宇佐木の"最初"をもらった人間のこと一刻も早く特定してすぐにでも殺したいけど」


 「殺、」


 「宇佐木から言ってくれたら何もしない」


 するりと下りた美結くんの指が、私の指を絡めとった。

 まるで指先に全ての神経が集中してしまったかのように、目で追わなくとも動きがそのまま脳に伝わってくる。彼の物騒な言葉とその甘ったるい動作の不一致が、余計に美結くんの凄みを増幅させていた。


 最初の方に本当のことを言ってしまえばよかった。自分の勘違いのせいで余計に首を絞めることになっている。



 「誰」



 なんでそんなことを教えなくてはならないんだと、睨み返そうとして失敗した。



 「キスも、そいつとしたの」



 私には恋愛がよく分からない。

 それでも、この目の色はただの意地悪や怒気だけでにじませられるものではないことは、素人の私にも分かる。 


 「……してない」


 「うん?」

 「してないし、全部してない。勘違いしたのはそっちもそうだから」

 「……どういうこと?」


 言いたくもないことを言わされる身にもなってほしい。それはお互い様かもしれないけれど。


 「私が『生娘』って表現したのは、あくまでそういうのが何も分からない世間知らずじゃないって言いたかっただけだから」


 「…………つまり?」


 「私は処女です。よかったね」


 美結くんは目を丸くして、そしてしばらく私の言葉の意味を処理するのに随分時間をかけていたらしい。少しも動かなかった。

 それから3秒ほど経って、今度は温められたチルド弁当のようにふにゃふにゃと崩れ落ちた。



 「……なんっだそれ……」



 悲鳴のような溜息を吐いて、美結くんは顔を腕で覆った。


 「美結くん、勘違いしているんだろうなとは感じてたけど、そんなにこだわるとは思わなかったから」

 「こだわってるわけじゃない。別に宇佐木がちゃんと相手作ってちゃんと、……いや、しばらく想像して何も食べられなかった」

 「親みたいなこと言わないでよ。あと想像しないで」


 くしゃくしゃになった前髪の隙間から覗く瞳にはさっきまで浮かんでいた暗いものはもう消えていて、それどころか今はどこか泣きそうな子供のような顔をしていて思わず笑いそうになる。


 「せめて宇佐木には、そういうのを大事にしてくれる人じゃないと……」


 「なんだ。それが自分じゃないとは思ってるんだ」

 

 繋がっていた手がぱっと離れたかと思うと、自由になった無防備な腕を今度は強く引かれて、気づいたときには無様に体勢を崩していた。体を床に打ち付けなかったのは、美結くんがそのまま抱き留めてくれたからだった。

 背中に回った指先に柔く力がこもる。



 「宇佐木が、ちょっとは俺のこと気に入ってくれてると思いたいんだけど」



 耳元に彼の髪が当たってこそばゆい。首筋に温かいどころか、熱い息がかかる。

 ここで『俺のこと好きだろ』と言わないところに、人柄が出ていると思う。


 「もちろん、さっき宇佐木が解禁とか言ったのは売り言葉に買い言葉だって分かってるから。しないから」

 「別にふざけて言ったわけじゃないけど」

 「だ、」


 そのまま何を言うつもりだったのか、美結くんは口を閉ざしてしまった。


 「……今この体勢でそんなこと言う?」

 「したいならどうぞ」

 「はは、献血じゃないんだから」


 かなり動揺しているのか、会話がずれはじめているのを感じる。


 「宇佐木、落ち着いて。とりあえず離れて」

 「また自分から仕掛けておいて? 足しびれたから無理」


 「わがまま言わないで……」


 この部屋と同じ、けれどそれよりも甘い匂いがした。


 「せめて他の女に妬いて怒るくらいには俺のこと好きだって言ってよ」


 「言ったらどうなるの」


 「……分からん。死ぬかも」


 終わるために始めたものが、終わるのか。


 「好きかは、分からないけど」


 それとも、本当の終わりに向かって始まるのか、私にはもう計算ができなかった。

 だから統計学も苦手なんだと思う。




 「もし美結くんが他の人のことを好きになったら、その時は私のこと殺してほしい」




 なんとなくそう告げた言葉に、美結くんはしばらく黙ったままで。


 「…………なんだそれ」


 泣き笑いみたいな声でそう言った美結くんは、今度は何も聞かずに私の腰に腕を回して引き寄せた。


 抵抗せずに体重をかけると、彼の幼い子供のように温かい体温が移って、そのまま溶けてしまいそうだった。





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