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第20話 天秤は多少傾いている方が良い




 学祭が終わり、名残惜しむように残されていたテントや装飾がなくなった週明けのこと。


 レポートを書くために図書館に寄ると、本棚の間から見えたミーティングルームに美結くんがいるのが見えた。相変わらず彼を見つけるのが早い自分が嫌になる。


 (あ、)


 男女5人で楽しそうに何か作業をしているらしい。そういえば彼との会話の中で、グループ演習のある授業を取ってしまったと嘆いていたのを思い出す。


 窓ガラス越しに姿は見えても向こうが防音構造ゆえにこちらに声は聞こえない。ただ、美結くんの隣で多分声を上げて笑っている女の子は本当に楽しそうだった。

 美結くんもはにかむように笑うのを目にした最後に、私はなんとなく見てはいけないものを見てしまったような気がして、早足でその場を去った。



 (……頭が変になりそう)


 私、大学に何をしにきていたんだっけ。





 「おい」

 「……」

 「宇佐木」

 「……」

 「水止めろ水」


 にゅっと伸びてきた腕に目の前の蛇口を捻られる。我に返ると、呆れたような顔の本巣がすぐ隣にいた。


 「体調悪いなら帰れば。今日空いてるから」


 そうだ。今はバイト中で、私は溜まった洗い物を任されていたのだった。ホールにいたはずの本巣がここにいるということは、彼の言う通り今日は客入りが少ないらしい。そういえば少し前に大将も雨が降り出したと言っていた。 


 「……ごめん。ぼーっとしてた」


 思い切り息を吸って、頭を振る。作業を再開しようとすると本巣が「怪我したら大将が困んだから」と私の手から大皿を奪った。


 「人件費は貴重だぞ」

 「ごめん」

 「……いや俺はマジでいいんだけど、まあ、大将に言ってくれば。今日変だよお前」


 結局私は本巣の言葉に従って、大将に短くお詫びを入れて早退を申し出た。せっかくすんなりと許されたのに、今度はなかなか帰る用意が進まない。なんとか無理やり着替えて外に出ると、折り畳み傘では間に合わなさそうなくらい雨が本降りになっていた。

 自転車を押して歩くには適していなさそうだ。一旦店に自転車は置き去りにして明日以降また取りにこよう、ととぼとぼ帰路を辿る。


 冷たい雨が真っ黒いアスファルトを叩いているのをぼんやり眺めながら、何も考えずにただ歩いていた。


 (……実家帰りたい)


 いつも母が作りすぎるマカロニサラダも、今なら無限に食べられる気がする。


 私はもっと、色んな人の言葉をちゃんと聞くべきだった。



 「──宇佐木」



 そして内省していると、雨音に紛れて聞こえないはずの声が聞こえた。怖い。とうとう幻聴まで聞こえるのか、末期だ。土に埋まりたい。


 「宇佐木、」

 「えっ」


 声がすぐ近くで聞こえて振り返ると、大きな傘を差して心配そうに私を見下ろしている美結くんが何故かそこにいた。


 「なんで……?」

 「ちょっと前に、本巣から宇佐木が具合悪そうだって連絡あって」

 「でも、え、こんなピンポイントで」

 「……GPSつけてるとかじゃないから。宇佐木に連絡つかないからさっき一瞬店に寄って、帰ったって聞いて。自転車置きっぱなしだったしいつものルートだろうなと」


 よく見るとこんな季節なのに、美結くんは首元に汗をかいていた。慌てて携帯を見ると、確かに店を出たくらいの時間に不在着信とメッセージが数件入っている。


 「……ごめん。見てなかった」

 「全然」


 無事でよかった、なんて恥ずかしがりもせずそう言った美結くんは隣に並んで歩き出す。


 「あの、熱あるとかじゃないから」

 「どこか痛いとこは?」

 「なくて、その。なんかちょっと、疲れが出ただけというか」

 「……タクシー呼ぼうか?」

 「多分この天気だしすぐに来ないと思うし、大丈夫」


 遠慮をするべきはずの彼の厚意をうまく跳ね返せない。それでいてかつ、言い知れぬ罪悪感に襲われる。


 その優しさは私に向けなくていいのに。

 私よりももっと、同じものを同じくらい返してくれる人がきっといるはずなのに。


 (……そうか)


 ここにきて思い出す。

 私はずっと美結くんの、彼の人生のハッピーエンドをただ願っていたことを。



 「あのさ、」


 なんとなく、今なら何の捻りもなく言葉にできそうだった。



 「美結くんは私に何もしなくていいの?」



 顔は見なかった。見れなかったというより、見れば美結くんが本当のことを言ってくれなさそうだったから。



 「……と、言うと」

 「わからないけど、一緒に出掛けたいとか、家に行きたいとか、こう……触りたいとか、そういう」


 羅列するだけのレパートリーがあまりにもなさすぎて逆に口に出すのが恥ずかしかった。

 すると美結くんはしばらく黙ってから、抑揚なくこう言った。



 「叶わないことを考えても無駄だから」



 それは嫌味でも皮肉でもなく、あまりに穏やかな声色で。


 「だから言うつもりもない。ああ、でも、今の3つはもう叶えてもらったから大丈夫」

 「え」

 「これ以上何も求めたりしないから宇佐木は気にしないでいい」


 (……思ってた答えじゃなかった)


 どうしよう。これでこの話を終わらせていいのだろうかと傘の柄を握りなおす。


 「ごめんわかんないけど、恋愛感情? としての好きだったら、何かそういう、したいものなんじゃないの」


 日本語は難しい。ちょっと混乱するとうまく使えなくなる。


 「だったらやっぱり美結くんはそこまで私のことを好きじゃ、」


 言いながら何故か言葉が詰まって、詰まった場所でつっかえたように熱くなって続きが言えなかった。言えなかったのもあるけれど、

 


 「じゃあ俺がしたいって言ったら宇佐木はそれに迎合してくれるの」



 美結くんの冷たい声に遮られて、途切れてしまったという方が正しい。


 「……今の状態だけで本当に充分だし、それ以上願ったあとに宇佐木に切り捨てられるほうが怖いから。許される範囲内でいい」

 「……」

 「何か制約するつもりもない。もし宇佐木に他に好きな人ができたらちゃんと身を引く覚悟も、宇佐木が時間をくれたおかげでできるようになったから」


 あれだけ私が求めていた言葉を、今美結くんはそのまま言ってくれたはずなのに。


 (違う、そういうことじゃない)


 私の空いた部分にピースがはまらない。


 「私は」


 だめだ、もうすぐ家についてしまう。


 「美結くんの過去の意味不明な行動もまだやっぱり納得してないし、訳がわからないし、理解もできないし」


 最適解が見つからない。


 「同じように好きですっていう風には、ならないかもしれないし」


 私が、終わらせるために始めたはずなのに。


 「でもそれは美結くんがどうって言うより、私自身が、多分うまくバランスとれなくて」


 断ち切ってしまうために始めたはずなのに、もう矛盾させようとしている。


 「ずっと周りの目が気になってたけど、本当はそんなもの怖くなくて、……それよりもいつか美結くんがその、幻みたいなものから覚めるんじゃないかって」


 小さい頃に熱中したアニメも、大人になった今は懐かしい思い出の中に沈んでいる。


 「だから、」


 「……中学入ってすぐの全校集会で宇佐木の後ろに並んでた子が吐いたの覚えてる? 周りが一気に避けたとき、宇佐木は自分の新品の制服が汚されたのにそのまま振り向いて、顔色ひとつ変えずに介抱してた」


 「…………え、何の話、」


 「それが最初」


 気づけば雨足が、弱くなっていた。


 「教室に落ちてた誰かの生理用品のポーチが教壇に置かれてたとき、自分のだって言って取りに行って本来の持ち主に後で返してあげたり」

 「……」

 「かつあげまがいのことしてた他クラスの男子と廊下で取っ組み合いの喧嘩して職員室に呼ばれたり」

 「……」

 「便器の中に落ちたっていう友達の携帯を素手突っ込んで取ってあげたり」

 「……」


 「体育のテストの日に体操服を忘れた子に貸して自分は見学してたり。あ、服装検査の時にスカート交換して怒られたのもあったっけ」

 「……なんでずっとクラス違ったのにそこまで知ってるの」


 「当時、宇佐木に憧れてたのは俺だけじゃないから」


 途中からびっくりして言葉を失ってしまった。


 「でも宇佐木は助けた相手のことなんて全然知らないし興味もない。だからみんなの矢印は集めるのに、宇佐木はどこにも向けてない」


 「別に助けたとかじゃ」

 「うん、宇佐木の家族見てたら分かる。宇佐木にとっては何も特別じゃないんだろうなって」


 だから、と足を止めて美結くんは私を見下ろしていた。長い間彼の目を見ていなかった気がする。


 「最初は絶対に宇佐木には裏があると思って、絶対暴いてやろうと思ってストーカーを始めたんだけど」

 「え?」

 「裏がないどころか無自覚系主人公極めてて」

 「あの、何の話してる?」

 「そう、だから俺も気づいたらとんでもない沼に全身浸かっちゃってて……」


 沼?


 「だから宇佐木の恩情だろうが制裁だろうがどっちの意味でもこうやって傍にいさせてもらえるだけで本当に良くて。でも、」



 美結くんの傘が後ろに倒れたかと思えば、彼は私の傘の柄を握ってこちら側に入ってきていた。

 一気に近くなった顔に、呼吸もできなくなる。


 「さっきの台詞、俺が宇佐木のこと好きじゃなくなったら怖いって意味だったと思うけど、それはこっちの都合のいいように解釈していい?」


 「え」


 「俺の気持ちをずっと疑うのも、本気であってほしいって意味の裏返しだと思っていい?」


 「え、待って今だめだ日本語がわからない」


 いつか嗅いだ、美結くんのあの香りが雨の匂いを追い越して鼻腔をくすぐる。

 本能的に両目を瞑って構えていると、肩口をくすぐったのは、遠目に見てずっと柔らかそうだと思っていた美結くんの髪だった。



 「……駄目だ。好きすぎる」




 左肩に触れて重みをつけているのは美結くんの額だと分かって、私は身をよじることさえ許されずにただただ硬直していた。息をしてもいいのかどうかさえ分からない。

 美結くんの言葉が頭の中をぐるぐると回り続ける。なんて返せばいいのかわからない。


 「あ、あの」

 「うん?」

 「美結くん、背中濡れてる」


 「いいよ別に」


 どうしたらいいんだ。どう動いたらいいんだ。

 私がそれから何も言えずにいると、ふっと肩は軽くなって、けれど綺麗な薄茶色の瞳がすぐ目の前からのぞき込んでくる。


 「前言われたルールはちゃんと守るから、それ以外はいい?」

 「それは当然、……私に二言はないから」


 美結くんはプ、と笑いをこらえるような顔をしてそこでようやく離れていった。

 危なかった。魂ごと持っていかれるんじゃないかと思った。


 「今度、家の中まで入ってもいいの」

 「いいけど、うち何もないよ」

 「……すんなりいいよって言われると、それはそれで心配だな」


 じゃあ渋ればよかったんだろうか。駆け引きが難しすぎる。


 「また2人で出かけるのとか」

 「そんなに頻繁じゃなかったら」

 「……触るのは?」

 「それは、前言った通りで」

 「……。寛容すぎない?」

 「……じゃあ半径2メートル以内に入らないでって言えばよかった?」


 「それは今更無理」

 

 私のアパートまで、残り300メートルもない。

 そんな目と鼻の先の距離で、美結くんの長い指がするりと私の指を絡め取った。


 「ちょ、」

 「この前の仕返し」


 解いてしまえばそれは私が自分で提示した約束を反故することになる。だから私はそのまま歩き出した美結くんに引きずられるようにただついていくしかない。


 「大丈夫」

 

 まるで親子のようだ。歩きはじめたばかりの子供のように私の足取りはたどたどしい。


 「何が、」

 「同じように好きになってほしいとは言わないから」


 そんな台詞を、何故か美結くんは嬉しそうに言う。



 「やっと宇佐木の視界に入れた」



 それだけでもう十分だ、と。



……私にはやっぱり、彼の思考回路なんて到底理解できそうにない。



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