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第2話 ノートは人に貸さない方が良い



 「──そしてこれがこの長い歴史における最初で最後の会話となった……」


 「それ会話になってなくない?」


 すべての授業が終わって構内の喫茶店で郡上と合流した後、早口でこの事件を説明すると「普通に暴力受けてて笑う」と真顔で言われた。

 

 「てか代返バレてたのは一部始終見られてたってことでしょ。で、それが彼の正義に反してたと」

 「だとしたらその時に言ってくれたらいいのに」

 「まあそれはそう」


 郡上は適当に頷いて「前々からその女のことが気に食わなかったんじゃないの」と付け足した。


 「あの授業1回でも出てなかったら単位落とすのに」

 「おもろ。じゃあそいつ、単位落としてから気づくんだ」


 鼻で笑って片眉を上げる様はあまりに悪役にふさわしい。一度も染めたことがないという長く艶やかな黒髪に真っ赤なマットリップ。天然の真っ白い肌に、流行りをものともしない黒く長いアイライン。この顔なら多分明日から急に金髪になってしまっても馴染むだろう。同じ店に入ってきた人もメニューよりも先に郡上の顔に視線をやるくらいだ。

 私の学生生活はじまって以来の大事件の話はそこで終わり、それから郡上のハイブランドのアクセサリー談義が始まってどれほど経っただろうか。


 私たち2人のテーブルに、ふっと影が下りた。


 先に顔を上げたのは郡上だった。私はと言えば空いたグラスを店員が下げに来たのかなと思った程度で、郡上がテーブルを軽く叩いて私の意識を引くまで気づかなかった。


 「ちょっとなに……」


 それは郡上に対してだったのだけれど、返事をしたのは頭上の人だった。



 「宇佐木(うさぎ)



 落ち着いた低い声が()の名を呼んだ。その声を私が知らないはずがない。

 そして、ほんの数時間前にすぐ隣で聞いたばかりの声なのだから尚更高い解像度で脳が処理をする。


 「は」


 私はその男の前で、五十音の一文字しか口にできない呪いにかけられたのかもしれない。


 何故、なんで、が5種類くらい頭に一気に浮かんで、さっきのやりとりで余程の怒りを買ったのだろうかとサッと背筋が凍る。このレベルの人間を敵に回せば学生生活は死んだも同然。卒業しても後ろ指を指されながら生きていくことになる。


 しかし謝ろうにも謝る相手はこの人ではなくてどちらかといえば教授の方だ。謝る義理はないんだぞとようやく口を開きかけた時──


 「水曜の1限、経済数学概論取ってる?」


 「え?」


 一瞬、日本語が分からなくなった。

 分からなくなって1秒後に理解して、けれど今度はなんで今ここであたかも友達みたいな会話をするんだという疑問で頭がいっぱいになる。


 「……取ってるけど」


 でも嘘はつけなかった。

 向かいの郡上は口を真一文字にして、他人のふりをして窓の外を見ている。


 「俺先週休んでて」

 「あぁ、うん?」


 知っている。彼の15番目の彼女が階段教室の真ん中で大きな声で嘆いていたから。


 「ノート、貸してもらえたらと思って」


 (いや、なんで今?)


 あんぐりと開いた口が閉まらない。先ほどあれだけ強引に出席カードを奪い取り握り潰した大きな手が行き場なくだらんと落ちている。


 「……全然いいけど、ごめん今日持ってない」


 乾いた口で無理に話したせいで、変なところで声が裏返った。郡上が笑わないように必死に窓の外を見て肩を震わせている。笑ってるじゃん。


 いや、なんで今? 何度でも言いたい。さっき出席カード握り潰したその勢いで言ってくれればいいのに、いやもっと言えば、


 なぜ、私に。


 「ああ、うん。いつでも大丈夫。ごめん」

 「あ、そう……?」


 いつでもいいなら尚更、なんで今?


 「また見かけたら声かける」

 「いやいやいやいいよ。誰かに渡しとくし。毎日持ってるわけじゃないから」

 「じゃあ来週、授業終わったら」


 美結くんはそう言った後スタスタと店の奥へ入っていき、私たちを背にしてひとりで1人席に座った。何事もなかったかのように。


 しばらく呆然としていると、郡上が大げさに息を吐き出してからくつくつと低い声で笑いはじめる。


 「なに、どういうこと」

 「分からない」

 「少女漫画だと1巻の真ん中あたりの展開じゃん」

 「違う違う違う」


 私はそこまで馬鹿じゃない。

 ここで『ドキッ! 彼ったらもしかしてずっと前から私のことを見ていてくれたんだ』なんてことは思わない。

 そもそも私にとって美結くんはそういうコンテンツじゃない。

 シンプルに怖い。おかしい。どうして今更、どうして今日に圧縮させるんだ。


 「そもそもさ、さすがに中学高校大学同じだったら、お互いしゃべらなくても知ってるもんじゃないの」


 郡上が呆れたように言う。

 確かにお節介な先生が情報を漏らしていてもおかしくない。大学合格後に高校に挨拶をしに行って、その時に『そういえば同じ大学に行くやつがいるぞ』と親切心で言ってしまった先生がいるかもしれない。


 「この先死ぬまで話しかけられたくない、どうしよう」

 「なんでよ」

 「超ド級の人気者に声をかけられて喜ぶのはフィクションだけだよ……」


 私は知っている。


 中学3年の春、美結くんと仲が良かった女の子がいた。

 付き合ってはいなかったと思う。私も廊下で2人が楽しそうに話しているのを見たことがある。どちらかというと美結くんの方がよく話しかけていたようで、その女の子と同じ塾に通っていた私は彼女が周りの友達に美結くんネタを楽しそうに話すのを地獄耳で聞いていたものだ。平たく言えば彼女はその当時の貴重な情報仕入れ元である。


 結果、その女の子は中学3年生という大事な時期に学校に来なくなってしまった。理由は美結くんの特別扱いによる目に見えない圧力によるものだったと思う。現代の魔女狩りを見たような気がした。


 会話したことがない私ですら詰められたのだから、彼の生活圏に存在してしまっている以上、今後の平和の維持はいかに美結くんと遠い位置で生きていくかにかかっている。


 「待って? もしかしなくても郡上狙いじゃない?」

 「は?」


 天啓(てんけい)得たり。


 この郡上窓香もまた顔がいい。表裏がなくさっぱりしていて性格もいい。


 「だってほら、郡上って初見殺しだし」

 「本人を前にしてよく言ったな」


 私がこのキャンパスを誰かと歩くとすると、その誰かというのは基本的に郡上だ。お互いマイペースなのでみっちり同じ授業を取っているわけではないけれど、被っていたら隣に座っている。郡上と言えば私、私と言えば郡上だ。これまでも郡上とお近づきになりたい人から繋いでほしいとお願いをされたことがあるし、美結くんもその例に漏れない可能性がある。


 「いやでもあの人、彼女がいるときは他にいかないはずなんだよね……」


 本人が同じ店内にいるというのにコソコソと申し訳ない。

 ジ、とコーヒーの最後の一滴を啜って、私と郡上はその場を後にした。



 そして翌週水曜1限、経済数学概論。

 私はまるで戦場にいるかのような心地で階段教室の隅に座っている。


 いつも1限は少し早めに来て前の方の席を取るのだけれど、今日に限ってはなるべく授業が始まるギリギリに参じて、後ろの出口に近い位置を確保した。万が一美結くんが先週のノートの約束を覚えていたら、授業開始前のみちみちに生徒がそろった空間で私の姿を探されて声をかけられる恐れがある。


 それだけは死んでも避けなければならない。終わったら、と彼は言ったけれど、最悪そうなったとしてもなるべく人がはけきってからにしてもらいたい。


 しかも美結くんの現在の彼女も同じ授業を取っているのだから尚更だ。彼女を差し置いて私のようなモブキャラがしゃしゃって彼にノートを貸そうものなら私の一人暮らしの可愛いアパートに松明を投げこまれるかもしれない。


 私の知る限り、美結くんは彼女以外の誰かが火あぶりにされないように気を配ってくれるありがたい生き物のはずだ。とはいえ先週の件がある以上それは分からない。私のことがどうでもよすぎるかムカつきすぎていっそ燃やしたろうくらいに思っているかもしれない。


 (いた、よかった)


 階段教室の右後方に座った私に対し、美結くんは彼女と並んで中央前方に座っている。ここなら彼らの動きが確認できる、下手に接近されそうになったらダッシュで──


 「あ」


 ダン、と私の隣にピンクの合皮トートを置いたのは、私に出席カードを渡したのに美結くんに握り潰されたアプリコットこと羽島さんだった。そして私は分かりやすく声を上げてしまった。


 やばい。敵は本能寺にあり。


 「ねえ」

 「はい」

 「美結くんの今の彼女どう思う?」


 開口一番の話題としてそれはどうなんだろうか。

 とりあえず先週のことはバレていなさそうだ、と胸をなでおろして、私はきわめて平静を装って「どうって?」質問に質問を打ち返した。


 「めっちゃブスじゃない?」


 ストレートすぎてびっくりした。


 「いや全くそんなことは」


 そんな話で盛り上がるような仲じゃないでしょ私たち、そう言いたくて、しかし奇抜な色の瞳が怖くて言えない。日和った私は言葉を濁した。


 「前の子の方が可愛かったことない?」

 「まあ、ううん、そうかも」


 しっかりと着席した羽島さんはどうやらこの授業はバックれないつもりらしい。そして私の隣で決めたらしい。というかちゃんと1限来れるタイプなんだ、と感心した。今まで気にしたこともなかったけれど。


 「だよねぇ」


 私も郡上に6番目の彼女の方が良かった、と偉そうなことを言ったけれど。

 美結くんの歴代の彼女には統一性がなく、過去の片思い勢の皆さんも傾向と対策が分からんと嘆いていた。毎回タイプが違うのだ。だからこそ誰もが中途半端に期待して、幾人もの猛者たちが折れていった。歴代の彼女についても、どうして彼女になれたのか、その決定打を誰も知らない。そればかりは私も知らない。

 教授が到着して授業が始まると、羽島さんは机の下で携帯を熱心にいじり始めた。ここまでキャラがブレないと安心する、ずっとそのままでいてほしい。


 さて、私は私で授業終盤はもう気が気じゃなかった。ノートを取りながら、思わずちらちらと彼の後頭部を見てしまう。

 先週から今日に至るまで散々考えた。ノートを渡せば、返してもらう必要がある。もう1ターンやりとりが追加されてしまう。かといって準備よくコピーを用意していたら、周りに見られた時にどう思われるだろうかと。貸してくれと今日までのうちに言われていて、いそいそとコピーまで用意した女。


 それはまずい。下心があると勘違いされてしまう。全くないのに。


 「では本日はここまで。あ、そうだ、今日は後ろの席の人から順に出席カードを提出してください」


 何?


 今まで適当だったくせに今日に限って後ろからという謎の指定が入った。意味は分かる。いつも前列の人から殺到して、教室の後ろの方でとんでもない混雑が生まれるからだ。多分誰かから指摘されてそうなったんだろう、でもなんで今日。


 出席カードにもはやトラウマが生まれかけていた。また提出する時に声をかけられたらどうしようという恐怖。しかしよく考えればここは大教室、美結くんの席から遠い通路を行けば良い話だ。


 そうだ。自意識過剰すぎた。


 カード片手に立ち上がってしばらくは思考停止していたけれど、「ねーえ私のも出しといて~」という羽島さんの甘ったるい声で我に返った。

 というか、今日は逃げよう。よくよく考えれば美結くんにノートを貸してやる義理など1ミリもない。勝手に観察してごめんという気持ちは多少あるにしても、本人には何も迷惑はかけてないのだから。 早足で駆け下りて、漫画のように偶然ずっこけるなんてことはなく、美結くんの方向を絶対に見ないように徹底して私は無事に出席カードを提出するというミッションをこなした。


 こなして、そして「ねえこの後暇なら」と声をかけてきた羽島さんに「ごめんお腹痛くて!」と大嘘をこいてトイレに向かって猛ダッシュを決めた。


 (いや、なんで私がこんな罪悪感を?)


 便座に座って虚無感と向き合ってから、かれこれ5分経つ。

 そろそろ教室から人がはけきった頃だろう。念入りに手を洗うふりをして、くノ一のごとくひっそりと廊下に顔を出すと、どうやらさっきまでいた階段教室には次の授業を受ける人たちが入りはじめているらしい。


 ほっと安堵の息を吐いてこそこそと俯いたまま小走りで経済学部棟を出ていこうとした瞬間。


──第六感は『それ見たことか』と嗤っていた。



 「宇佐木」



 嗚呼、神よ。


 「ヒッ」

 「あ、ごめん」


 思わず先に喉を走ったのは悲鳴だった。

 美結くんはハッとしたあと、申し訳なさそうに目を伏せた。やめてください、謝るのはこっちの方ですとその瞬間に土下座を決め込みたくなって、けれどスッと息を吐いて思考を止めた。レントゲンの前のように。


 「まだいたんだ、よかった。私お腹壊しちゃってずっとトイレこもってたんだよね」


 そう、ここで私が特別なリアクションを取ってはいけない。私はコマの端っこに映るへのへのもへじ。その場に応じて最も都合がよく目立たない台詞を吐くのが仕事。


 「これ、例のノート。渡せないかと思った。来週までに返してもらえたらいいから」


 無駄なくバッグからノートを取り出し、平常時5倍速で何の変哲もない台詞を添えて。


 私が滞りなく言葉を続けられたのは、タイミングよく彼の周りに誰もいなかったからだ。美結くんの彼女がどこに行ったかとか、いつもの華やかなお友達はどうしたとか、そんな疑問のすべてを捨てる。


 「それじゃ」


 そして二歩踏み出して──



 「宇佐木」



 なんだろう。私の名前流行ってるのかな。

 「はい?」

 なんで私の名前知ってるんですか、とここでも改めて10回くらい聞きたい。でも無駄だから聞かない。


 「俺なんかしたっけ」

 「え、いや」


 しいて言うなら出席カード強奪事件くらいだ。でも怖いから言わない。

 なんかしたっけとは何だ。一体何を気にしているというのか。


 「別に何もされてないけど、逆に、なに?」


 そもそも、どうしてあたかも私が彼のことを知っていて当然だといわんばかりの態度をずっと貫いてくるんだろう。


 「あのさ、この前言えばよかったんだけど、その。私たち知り合いじゃないよね? 名乗ったことすらないし」


 頭の奥でぷつりと音がして、それと同時に出たのは自分でも驚くほど暗く張り詰めた声だった。


 散々彼の情報を集めておいて、我ながらちぐはぐなことを言っているとは思う。私のことを認知していてそれを気持ち悪いと思うならそう言えばいい。だけど美結くんだって、今まで散々有名人として振舞ってきたくせに、どうして私のリスクについては考えてくれないんだ。こんなところで私みたいなモブキャラが美結くんと揉めたりしたらうっかり動画に撮られて『やばい修羅場見た』なんてSNSに晒されるかもしれないのに。


 そして私はここまでで一度も美結くんの顔を見れなかった。

 理由は簡単。怖すぎたから。


 「……ごめん。知ってると思って」


 (しお)れたようにそう言われては、


 「……し、……知ってるけど……」


 私も(しお)れざるを得ない。

 この瞬間、一気に体の奥底から湧き出てた羞恥心が喉の奥をチリと焼いて声が出なくなった。私は今しがたモブにあるまじき逆ギレムーブをかましている。美結くんがその気になればもう問答無用で消されるだけの条件がここに揃っているのだ。


 「あああの、ノートは本当にいつでもいいから。じゃあ、ごめん私本当にお腹が痛くて!」


 これ以上しゃべったらボロが出る、と、会話を強制終了させた私は今度こそ高校の時の体育祭のリレーの5倍本気で駆けだした。


 当然のことながら、美結くんは追いかけてこなかった。



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