第15話 基礎統計学は取らない方が良い
──そして、後期授業開始から2日。
「あいつほんとセンスない」
隣の美女はそう悪態を吐いた。
「郡上、他人の彼女の品定めするのは本当によくないと思う」
「どの口が言う?」
総合教育棟3階の吹き抜けからいつかの日と同じように郡上と時間を潰していると、ちょうど美結くんが新しい──16番目の彼女と歩いていくのが見えた。
「だって羽島だよ」
「なんだ、郡上も羽島さんのこと知ってたんだ」
そう。16番目の彼女となったのは、私と美結くんが1番最初に接触したきっかけとなった出席カードの精霊ことアプリコットヘアー・羽島さんだった。
(しかし、よくわからなくなったな)
美結くんに新しい彼女ができた。つまり、私はもう美結くんの眼中から退場させていただいてる。羽島さんと付き合い始めたという話を聞いた時、私は未だかつてないほどの安堵の溜息を吐いた。
リレーでアンカーにバトンを渡し終えた第三走者のような気持ちだった。
結局本当に美結くんの彼女リレーは短スパンだった。ますますあの時私が真に受けなくてよかったと思う。とんでもなく恥ずかしい思いをするところだった。
それにしても、羽島さんはこれまでの歴代彼女15人の特徴に当てはまらないと思うのだけれどどうだろう。とはいえ私はあくまで彼女と美結くんの話をしたくらいで、彼女が美結くんに好意を抱いていたという確信はない。
あるいは、やはり私の見立てが少し誤っていたのかもしれない。
バイトはどうなるだろうと案じていたのだけれど、どうやらそれについては変わらず続投のようで、数日前大将がいそいそと美結くんのシフトを組んでいるのを見てほっとした。
私もまた美結くんに彼女ができたと知った段階で、大将には『もう吹っ切れたので前言ったことは気にしないでください』と修正をしておいた。大将は涙ぐんでいた。
公園で別れたあとやはり完全に無視でもされるのかなと思っていたら、家に無事に着いたかどうかの確認の連絡と共に、今後バイトのこと以外ではよほどメッセージを送らないから安心してほしいと書かれていた。
本巣にもまた帰宅した旨の連絡と、おそらくもう大丈夫そうだから気にしないでくれと私から送り、収束している。
なお、その後バイト先での美結くんは驚くほどいつも通りで、プロフェッショナルを感じずにはいられなかった。さすが恋多き男だ、こういう場合も対応に慣れているのかもしれない。
なんて思いながら昼休みを早々に切り上げて3限のために大教室に足を踏み入れた時のこと。
(……あれ)
ほとんどまだ人がいない教室の真ん中、端の長机に座っている人影に覚えがあった。派手なアプリコット色の髪にタンクトップ、そこから伸びる白く細い腕。
そう、件の羽島さんが座っている。が、どうにも様子がおかしい。まるで机の頭をつけるように蹲っているように見えた。もしや2限を受けてそのまま爆睡してしまっているのだろうか。
「羽島さん?」
前期の近代日本の歴史事件のこともある。これで許されるならばと肩を叩いて──ぎょっとした。伏せたままゆっくりとこちらを見た顔は青く、華やかなメイクをしているのに血の気がないのが一目でわかった。
「え、ちょ、どうしたの」
「……大丈夫。私ちょっと生理重いの」
知っている声の5トーンくらい落ちていて、とにかく話したくないようだった。真夏ほどではないけれどまだ冷房の効いているこの教室で、彼女の今の恰好はあまりに体を冷やしてしまう。「セクハラ失礼」と言いながら指先に触れると、驚いて手を放してしまいそうになるくらい冷え切っていた。ネイルのせいで爪の色は見えないけれど、おそらく真っ白になってしまっているだろう。
「声出さなくていいから。羽島さん、3限ある?」
彼女は指先を小さく横に振った。よかった、それなら最悪この教室に残っていても問題ない。
「とりあえず、汗臭いかもしれないけどこれ着といて」
拒否されるかと思いつつ、私の日焼け対策用の長袖パーカーを肩にかけると、素直におずおずと袖を通しはじめてくれた。やはり相当冷えている。
「……美結くん呼ぼうか?」
「死んでも嫌」
すさまじく早い回答だった。確かに、女性特有の悩みは彼氏であっても異性に言いたくないかもしれない。どうしたものかと首を捻って、「とりあえず」彼女の隣の席に鞄を置かせてもらう。
「私ちょっと生協でカイロとかないか見てくるから、ここにいて」
「え、でも」
「すぐ戻ってくるから」
そして私は今来た道を猛ダッシュで戻ることにした。
早めに来ておいてよかった、行って戻ってきても10分くらいで事足りるだろう。時期は悪いが、確かカイロや温かい飲み物なら年中置いていたはず。
目論見通りになんとかそれらを入手し、私は残暑の中、開封したカイロをシャカシャカ振りながら走る謎の女と化した。ついでに医務室に寄り、事情を話してひざ掛けも拝借することに成功。なんとか3限が始まるギリギリに戻ることができた。
「はぁ、それ脱いでてよかったくらい汗かいた。ありがとう席とっといてくれて」
「ごめん……」
「え? いいよ。……私も実は羽島さんにお詫びしないといけないことがあるので」
運よく3限の受講人数は大教室がぎっしりと埋まるくらい多く、授業を取っていない羽島さんが座っていても何ら違和感はない。教授には私の隣の羽島さんは体調不良でやむを得ず居残っていること、授業中突っ伏しているが許してほしいことを伝えて事なきを得た。
3限を終えて再び声をかけると、多少顔色がましになったようだった。
「羽島さんって下宿? 実家? 4限5限ない?」
「下宿……4限あるけどいいや。出席ないし、帰る」
高速で携帯を早打ちしている姿を見たことがあるけれど、同一人物とは思えないくらいよぼよぼと支度をしている。脱ごうとする私のパーカーはそのまま押し付けて、なんとか一緒に教室を出た。
「……私にお詫びって、何?」
少し声が出るようになった羽島さんにそう尋ねられ、私はもごもごしながら例の『近代日本の歴史』の出席カードを出せなかったこと、そしてそれを今の今まで黙っていたことを明かした。さすがに今の彼女の恋人である美結くんに強奪されたとは言えず、教授にバレて没収されたのだと誤魔化した。
すると羽島さんは「なにそれ」と笑って「宇佐木さんが謝ることじゃないんだけど」と。
「でも二つ返事で受けておいて出せませんでしたはさすがに申し訳なくて……多分成績発表で気づいただろうなと」
「いーよぉ、もう、そんなの。……忘れてたくらいだし」
下宿先の住所を聞くと、大学から自転車で20分近くかかるところだった。なんでそんなところに、と遠回しに聞くと大学よりも繁華街に近い方を選んだらしい。なるほど、羽島さんらしくて納得した。
「私夜からバイトだし、動けるようになるまでうちにいる? 私レポートやってるだけだから寝てていいよ」
20分自転車をこぐよりはいいだろう。「それかタクシー乗るかだけど」と提案すると、羽島さんは目を丸くしたあと「家行っていいの?」と、前者を選ぶらしい。不思議そうな疑うような顔でそう言われた。
「普通のワンルームだけどそれでよければ」
彼女の自転車は大学に置き去りにして、私は自分の自転車を押しながらゆったりと羽島さんと並び、いつもの倍ほど時間をかけて徒歩で帰宅した。熱気の籠る部屋にゆるく除湿だけかけて、そして到着するなり崩れ落ちるように床に蹲った羽島さんをベッドの上に強引に転がして冬用の毛布をかける。
市販の痛み止めならあるけど、と水と一緒に差し出すも、それはいいと断られた。そういえば高校の時も頑なに痛み止めを飲まない人がいたな、と争うことなく私は手を引く。
「ほんとごめん宇佐木さん……」
布団でできた繭《まゆ》玉から顔だけ出し、羽島さんは気落ちしたようにそう零した。
「絶対今度恩返しする……」
「だからいいって。羽島さんの失われた2単位はこれより大きいから」
あまり話しかけても辛いだろう、とローテーブルにパソコンを開く。レポートでも書いてしまおうかと伸びをした時、羽島さんが言った。
「……私が、美結くんの彼女だから?」
「はい?」
なんでそうなるんだ、と振り返ると、どうやら冗談で言っているつもりではないようだった。
「どういう理屈?」
「だってここまでしてもらう理由がないもん……」
分かる、体調が悪い時はとにかくこの世の全てを疑いたくなる。私も1年の時に鶏刺しを食べて死にかけた時、この世の全ての神様に『絶対明日から改心しますから助けてください』とトイレで懺悔したものだった。結局私を救ったのは消化器内科の医師だったが。
「別に羽島さんが誰の彼女だろうが何だろうが変わりないし」
「でも」
「たまたま知り合いだっただけで、別に他の学年でも名前知らない人でも同じだから。まあ2単位分の責は感じてるけど……」
本意を伝えたつもりだけれど冷たく響いただろうか。確かに、強いていうなら髪色が派手だから目につきやすかったというのはあるかもしれないけれど。
その後気がつくと羽島さんはぐっすりと眠っていて、バイトに行く少し前に声をかけた。はっと目を覚ました彼女は慌てたように「うそ、今何時」とカーテンの方を見やったりと目をくるくるとさせている。
「今5時半。体調どう」
「あ、だいぶ良くなった……」
まだ血の気は戻らないけれど確かに随分回復しているようだった。しかし「じゃ、さようなら」とここで追い出せるほどにはまだ見えないし、私も鬼じゃない。
「私10時過ぎまで帰ってこないけど、問題ないならうちにいていいよ。動けるならパソコンも家電も適当に使っていいし」
「へ」
「泊まってってもいいし。それなら帰りになんか下着とか買ってくるけど」
「い、いいよ。そこまでは」
さすがに私がバイト中に出ていくと言って譲らないので「鍵閉めてポストに入れといて、迎えに来てもらうなら下に美結くん呼べばいいから」と郡上相手にしか使ったことがない合鍵を渡して、さっさと私はいつもの店に向かった。確か美結くんは今日シフトが入ってなかったはず。おそらく羽島さんが呼べば彼は来てくれるだろう。
バイト終わり、久しぶりに美結くんからメッセージが入っていた。羽島さんの件を知ったらしく、ありがとうというお礼と、彼女に連絡先を教えて構わないかというものだった。
≪大したことしてないよ≫
≪連絡先の件、OKです≫
とだけ返して、帰路を辿った。
帰宅すると確かに羽島さんはいなくなっていて、ポストに鍵も入っていた。私のものではない可愛い付箋に、細々とお礼が綴られた置き手紙まであった。蹴とばしたままでいいのに、布団はきちんと整えられていた。
(苦手だと思ってたけど、しゃべってみたら結構普通に女の子だし、いい人だった)
決めつけるのはよくないなと反省しながら、その夜はいつもと違う甘い香りの布団にしばらく落ち着けずにいたものの、なんやかんやでしっかりと爆睡した。私は神経が図太い。
それにしても穏やかな日々だった。気候もほんの数日で、あっという間に過ごしやすくなった気がする。
あの後、羽島さんはご丁寧にちょっとお高いクッキー缶をお礼にとくれた。遠慮しようと思ったけれどあまりにピンポイントで私の好みを突かれたせいで『いやいやそんな』をたった一往復だけして、結局受け取ってしまった。
そして後期授業を美結くんと極力被らせなかったからか、あれだけ前期で遭遇していた彼をほとんど見なくなった。
しかし。
(まさか一切伝えてなかった基礎統計学が被るとは……)
『基礎統計学』は経済学部の専門科目ではなく一般教養科目ながら、経済学部の専門単位数に変換することができる授業のうちのひとつだ。
しかし事前知識があるか、よほど真面目に授業を受けないと単位が取りづらいことでも有名で、少なくとも進んでその選択をする人はうちの大学には少ない。よってこの授業の受講者数は極端に少ない。
物理が得意だった美結くんなら微積分か線形代数あたりを取るだろうと思ったのに。
1回目の授業で入室した瞬間は偶然目が合って驚きのあまり声が出そうになったけれど、私が以前彼女ができたら話しかけないでくれと拝んだおかげか、お互い軽く会釈だけして終わった。さすが、ちゃんとしている。彼もまた私と同じくひとりで受けているようで、いつものキラキラ軍団はいなかった。
そんなことより、授業内容が思っていた以上に難しい。ギンギンに目を開いて聞いていても、2回目にして意味が分からなくなってきていた。痛恨のミスだ、私には向いてない。郡上にも『やめときなよ』と言われたのに『2年のうちに専門取りまくっておきたいから』なんて恰好をつけた数週間前の自分を殴りたい。
「では、来週の講義前日の午後5時までに配布した課題の回答データを私宛にメール送付するように」
2単位、諦めよう。そう悟った瞬間だった。
「──宇佐木、基礎統計学なんで取ったの」
「ね。本当にそう。誰もがそう思う」
絶対に美結くんに頼らない、聞かないと歯を食いしばっていたのに、私はすべての恥を晒してでもやはり2単位が惜しくなっていた。
美結くんと同じシフトの日、私は『素人質問で恐縮なのですが』と、基礎統計学の授業で分からなかったことをちょこっと聞いてみたところ『そんなことも分からないのか』という顔を真っ直ぐ向けられて恥ずか死にかけていた。
「その感じだとあの課題、一問も解けてないんじゃ……」
「うん。美結くんにそこまで言われるレベルだって言うのが分かっただけでも大変ありがたいです」
ハハ、と乾いた笑いが止まらない。一応授業を取る前に本屋で教科書をチラ見した時には、なんとなくいける気がしていたのに。
「課題どうすんの」
「一旦出す方向で考えてる。まずは出すことが大事だから」
「……休憩時間で良かったら教えるけど」
「多分そのレベルじゃないのでOKです」
遠慮などではなく、30分程度の休憩で分かっていたら苦労しない。困ったような「答え見せようか」という甘い言葉にも「いらないいらない」と胸を張って即答した。そんな恥ずかしいことができるはずがない。前期の経済数学概論と同じ轍は踏まない。
結果、土日を使って必死に仕上げた課題は、次の授業で100点満点中12点という過去最悪の点数と共に返却された。その12点も、教授がなんとか0点にしないように加点してくれた優しさが滲み出ている。
「想像以上に皆さんの出来が悪かったので、今回の課題の上位と下位成績者が半数ずつになるよう4名1組のグループを私が組みました。今日以降、課題はグループで取り組み、50点を下回らないよう目指してください」
なんとなく、嫌な予感はしていた。
「…………経済学部2年、宇佐木です。多分この中で1番点数が悪いです」
「同じく経済学部2年の美結です」
そしてこうなる。教授は気を遣って学部と学年がなるべく同じになるように組んでくれたのだろう。周りを見ても納得感のある構成になっていたので文句は一切ない。
私たちのグループのうち、他の2人は同じ経済学部3年生の男の先輩2人で、話し合った結果4人1組と言いつつ更に内部で2人1組になってしまった。
コントみたいに綺麗なオチだった。
しかし助かったのも事実。教授の指示なら合法的に教えを乞うことができる。しかも基礎統計学を取っている学生の男女比率は9対1で、女子生徒は私含め3人しかいない。他の2人は先輩らしく、かつ美結くんに1ミリも目を向けていないのでおそらくこの授業で彼女たちに私が〆られることはない。
もちろん羽島さんには事前にしっかりと経緯を説明している。誠に勝手ながらこの統計学の授業についてはバイト先の休憩室を借りて美結くんに課題を教わること、やましいことは一切ないけれど気を悪くしてしまったら大変申し訳ない、心配なことがあるようなら羽島さん監視の下で図書館でやりますという内容を長文で連絡した。
返事は一言。≪全然いいよ~気にしないから≫とさっぱりとした回答。
(……やっぱり、羽島さんも美結くんのことそこまで好きじゃなかったりするのかな)
それともおおらかなだけか。よく分からない。分からないけれど、美結くんが良いならそれが1番良い。思っていたより早く見つかってよかったと思う。
「この時の累積相対度数は?」
「待って、0.032……」
土曜、私はバイト開始時刻の2時間前から休憩室を借り切りノートパソコンを持ち込み、しかめっ面で課題に取り組んでいた。つくづく寛容なバイト先だと思う。
美結くんが少し遅れて現れてから、彼がしっかり付き合ってくれているのを大将が一瞬見に来て、そして2度頷いて出て行った。親のような顔をしていた。
「はああ、終わった、本当にありがとう」
ホールの掃除が始まる10分前ギリギリ、ようやく最後の問題を解き終えた。
「こんなことなら最初の課題の時に素直にお聞きすればよかったです」
「でもみんな点数悪かったって言ってたから、どのみちこうなったと思うけど」
あれだけ色々やらかした私に対しても嫌な顔ひとつしない美結斎。何をどうしたらこうなれるんだろう、と、思わず手を合わせて拝んだ。そして羽島さんという16番目の彼女の存在に感謝した。




