第13話 分からないふりをした方が良い
「──ああそうだ今日本巣とだった。免許取れた?」
「取れてないのにここにいたらやばいだろ」
ランチタイム前、いつものバイト先に出勤すると日焼けした本巣がいた。シフトが被っているのをすっかり忘れていた、どうやら無傷で免許合宿を終えられたらしい。
「今日予約多いって大将言ってたの聞いた?」
「聞いた。なんで今日に限って美結とじゃないんだろうって思っただろ? 俺もだよ」
「しかもベテランさん全然いないし」
予約票を見ると昼はもちろん、特に夜はぎっしりと埋まっている。ない時は1組も予約がないのに、時々まるで図ったように集中する日がある。
「本巣何時上がり?」
「一応9時」
「……絶対無理だね」
そしてようやくひと段落ついた夕方4時、私と本巣は休憩室で屍になっていた。
「駄目だ。死ぬ」
本巣の縁起でもない台詞に黙って頷いた。こんな混雑はこの店で働き始めてから初めてかもしれない。
「だってこれ以上の組数、夜に来るんだろ? 絶対無理」
「しかもコースじゃなくて席予約」
ランチタイムだけで大将もかなりキリキリしていた。店の回転率は元々あまり高くない。予約していた人達にうまく捌けてもらわないと、いつもの常連さんが入れなくなる。今日もすでに2組ほど入り口で引き取ってもらうことになってしまった。
「今から俺大将に聞いてくるから、もしオッケーだったらヘルプで美結を召喚してくれません?」
「なんで私が。本巣が連絡したらよくない?」
「俺に頼まれるよりお前に頼まれる方が良いに決まってんじゃん」
「そもそも予定空いてるとは限らないし」
「空いてる空いてる」
止める間もなく本巣は本当に大将のところに交渉しに行ってしまった。そして待つまでもなく「是非にってさ。早急に美結に連絡しろよ」すぐに本巣は帰ってきた。
別に連絡を取るのも、顔を合わせるのも全く問題はない。ないのだけれど、ここで私が美結くんに頼んでしまったら彼だって断りづらいに違いない。なんて思うのはおこがましいだろうか。
「……本巣が連絡してよ。言い出しっぺなんだから」
「だぁから俺は大将に交渉するって大役果たしたじゃん」
「仲良いんじゃないの。美結くんと」
「お前ほどじゃないもん」
何が『もん』だ。
結局、私は決して私からのお願いではなく、大将からの頼み事だということが伝わるように考えに考え、メッセージを送った。そして返事はほぼ1分後、以下の通り。
≪30分後くらいには行くって伝えておいて≫
駄目だ。厚意の重さと同じくらいの罪悪感がずっしり肩にのしかかる。
「美結くんのせっかくの休みが……」
「向こうは気にしてないって」
「なんで分かるわけ」
「は? だってお前、美結と付き合ってんじゃん」
意味が分からず、腹の底から渾身の「はぁ?」が解き放たれた。デジャブだ、頭に浮かぶのは瑞穂の顔だった。
「何それ。誰に何聞いたらそういうことになるの」
「だってあんだけ前に美結のことボロカスに言ってたのに、普通に仲良さげじゃん」
「ボ、」
ボロカス。確かにそうだ。本巣との帰り道、その場にいなかった美結くんへの悪態を吐いた覚えはしっかりとある。あの頃の自分の、なんと愚かなことか。
「それはそうだけど、……行き違いがあったのをすり合わせて、ただ友達になっただけ」
嘘は吐いていない。
「お前、あの距離感で付き合わずに友達だって言うのはもう誰かに刺される覚悟があるものと見なされるぞ」
「分かる。とてもすごくよく分かるけど、本当にただの友達」
「それ芸能人が週刊誌にとられた時に言うやつ」
なんとか本巣を誤魔化しながら休憩を終えると、今来たばかりらしい美結くんが大将と話しているところだった。目が合った瞬間、ごめんというジェスチャーを慌てて取ると美結くんは小さく手を振って薄く笑った。
「まあ確かに万が一にでも美結と付き合うってなったらさすがの俺も同情する。やめとけやめとけ」
「しつこ。だからないってば」
「最初に付き合う男があいつって、ハードルが高すぎる。体育成績2のやつにオリンピック出ろって言うようなもんだろ。それに、その後に付き合う奴と毎回比べることになりそうだし」
言い得て妙だ。それには私も納得する。
美結くんに聞こえないようにひそひそとそう言い交わして、私たちは夜の部の準備に入った。
その日、私が上がれたのは予定時刻を1時間過ぎた夜11時だった。9時退勤予定だった本巣はすでに帰ったあとだけれど、彼もまた1時間ほど上がるのが遅くなっていた。店にはまだ大将と常連客数名が残っているけれど、もう帰っていいと言われ大将からは家で食べる用のお土産をもらった。
「ほんとごめん美結くん、結局こんな時間まで」
「全然」
足は棒のようで、身体はぐったりとして頭が少し火照っている。終盤に1度畳の上でビールグラスを派手にひっくり返して叩き割ってしまい、その瞬間はどうなることかと思ったけれど、美結くんのフォローで何とか事なきを得た。感謝してもしきれない。
それにしても今日くらいは自転車で来るべきだった。何も考えずに徒歩で来てしまった昼前の自分の頬に往復ビンタを食らわしてやりたい。
日付が変わる直前ということもあり、私たちが歩いている夜道には人も車もあまり通らない。お盆に美結くんが実家を訪ねてきたあの夜のような静けさの中、しばらく黙って歩いていた。
多分、美結くんは私のことを何とも思っていなくても、今日は来てくれていただろう。本巣だって誠心誠意お願いしていれば、おそらく結果は同じだったと思う。
しかし何がどうひっくり返っても私は美結くんに応えられないし、それについて考えることすら引け目がある。
自分自身が果たしてこの世の平均よりも特別劣っているかと言われればそうではなく、私なりに頑張って生きているという自負はある。とてつもない劣等感があるわけではない。家族に愛されて育った自覚だってある。それをベースとした自己肯定感もあり、よっぽど下手なことをしなければ人並みに幸せになれるとは思っている。
ただ美結くんを前にしたら、それは途端に適用されなくなるのだ。別格中の別格、生まれる星か次元を間違えてしまったような人だ。
私は生きている間に、例えば働き始めてからでもいい、いつかそれなりにお互い良いなと思えるような普通の人に出会えたらとは思っている。誰かが自分に強烈に想いを寄せることはなくていいし、私もまた破滅するほど激しい愛を知りたいわけじゃない。普通の人というのが今時なかなかいないことも分かっているから、それだって高望みしない。稼ぎが足りないなら私が頑張ればいい。
私の望みはそんな、可愛らしいお茶碗の中に入るようなサイズ感なのだ。
ダイヤのドレスで宇宙旅行に行って月に家を建てないなんて思ったことはない。
「今年は蚊が少なくていいね」
いつも通り自分の家の反対側にある私のアパートに向かいながら、美結くんはぽつりとそう言った。これもまたいつも通り、当たり障りのない優しい会話のはじまり。
「あ、確かに。出会ってない」
「結構刺されるほう?」
「刺されないんだけど、存在が嫌じゃない? なぜか寝る前に限ってぶんぶん聞こえるのが」
私は確かに、彼のこれまでの15人の彼女を知っている。それを踏まえてああだこうだと評価するようなことまでしていた。今はそれがとてつもなく恥ずかしい。彼女たちには、私にはない覚悟もあって肝も据わっていたのだ。
(後期、とんでもない万能美少女が現れて、美結くんの心をかっさらってくれますように)
なんて、とても本人には言えない願いを、星がひとつも見えない夜空に投げ飛ばしたのだった。
そしてそれは9月上旬の、ある日のこと。
大型スーパーで行われる地方アイドルのライブ設営という短期バイトを終え、せっかくだしと店内の喫茶店でアイスカフェオレを飲んでいたら、見かけてしまったのだ。
美結くんの15番目の元彼女と、仲睦まじくお揃いの飲み物を楽しんでいる同年代くらいの男性を。
テーブルをいくつか挟んで、私と15番目さんは斜め向かい合わせとなっている。
思わず顔を伏せ、携帯の画面に熱中するふりをした。一瞬、世間で話題のレンタル彼女だったりパパ活だったりを考えたけれど、だとしたらこんなところには来ないだろうと思う。実際、2人の仲の睦まじさは遠目で見ている素人の私にすら伝わってくるくらいだ。
(……美結くんと別れてから、そんなに経ってないような)
いやしかし他人の恋愛観にどうこう言える立場ではない。幸せならオーケー、これに尽きる。
いずれにせよ見なかったことにしようと心に決めた。彼女を見て瑞穂の方が良かったのに、なんて思ってしまった過去への後ろめたさもある。正直、彼女に美結くんとのことを疑われたあの時間は何だったのかと、今の2人を見ていると思うところはあるけれど。
とにかく気づかれる前に退店しておこう、と、勢いよく残り吸い込んで席を立つ。そしてテーブルの間を縫って店外へ出ようとした時にはすでに振り切れないくらい、後ろのヒール音が近づいてきていた。
「宇~佐木さん」
「え」
15番目さんは随分嬉しそうで、そして親しげに声をかけてきた。彼氏をテーブルに置いてきてまでわざわざ追いかけてきたらしい。
「すごい偶然。家このへんなの?」
しゃべり方や声の高さまで変わっている。人間は怖い。
「いえ。バイトで」
「そうなんだ。あ、ごめんね話しかけて。ほら、前に絡みにいったこと謝りたくって」
怖かったでしょ、と15番目さんは小首をかしげて悪びれることもなく言う。「いやもう過ぎたことなんで」と改めて去ろうとすると、細い指先に手首を掴まれた。この界隈では手首や腕をつかむのが流行っているのだろうか。
「あれから美結くんとはうまくいった?」
"また"だ。
「……はあ、いえ。よくわかんないですけど」
元彼女のくせに、どうしてみんな揃いも揃って同じことを聞いてくるんだろう。
「え? うそ、付き合ってないの?」
「あの、」
いや、この人に言い返したって何の意味もない。その顔に悪意は浮かんでいない。どうやら純粋に疑問を投げかけているに過ぎないようだった。
もしかして美結くんの彼女・元彼女というのは、回覧板形式かなにかなのだろうか。
『新しいゴミ捨てのルール見た?』と同じ感覚で次の候補者か何かに『美結くんとそろそろうまくいきましたか』とパスする潔い文化でもあるのかもしれない。そう思うくらい、15番目さんの言い方、テンションはあの時の瑞穂によく似ていた。2人にはすでに新しい恋人を見つけているという共通点もある。
「あ、そうなんだぁ、ごめんねなんか変なこと言って」
「全然。デート中なのに声かけてもらってありがとうございます」」
ちょっとした意趣返しに嫌味を言ったつもりだったけれど、15番目さんは『デート中』という単語に反応したのか、にへらと笑って私を開放してくれた。またね、なんて随分機嫌よく言いながら。
(さすがに、)
周りの反応に対して、私は改めて言い知れぬ疑問、違和感を感じ始めていた。
過去の美結くんの彼女たちには、確かに見た目や性格に全く共通項がない。
しかしよく考えたら、全員が美結くんと別れてすぐに新しい恋人を見つけている。瑞穂が今付き合っている彼氏も高2からで、それも美結くんと別れてから間もなくだ。先ほどの15番目さんも例に漏れず、私が知る限りその他の誰もが同じく半年以内には次がいたはず。
確かに美結くんと付き合うほどの女性なのだからいくらでも次の彼氏ができてもおかしくないとも考えられるけれど、一方で先日の本巣の言葉にも納得感があった。
『最初に付き合う男があいつって、ハードルが高すぎる』
『それに、その後に付き合う奴と毎回比べることになりそうだし』
しかし誰も美結くんに未練があるようには見えない。瑞穂も15番目さんも、振り返ってみれば他の誰も、そんなことを口にしていたという情報が私の頭の中にはない。
『──未練? 全然。1ミクロンも』
瑞穂も心底あり得ないと言った様子だった。気遣いの塊である彼女がああやって吐き捨てるくらいだ。
(……実はああ見えて、付き合ってみたらとんでもない人格が出てくるとか?)
だとしたら交際中にそんな噂が流れて私の耳に入ってきただろう。女子の噂の流れるスピードは中身が不幸事であればあるほど増し、拡散力が上がる。
そして誰も彼も最近になって急に、この私と美結くんが付き合うだろう、そうなるだろうと踏んで声をかけてくる。
今まで美結くん周辺でこんな現象は起きていなかったはずだ。
「……もしかして」
美結くんの彼女の絶対条件が、──"彼に好意を抱かない人"なのだとしたら?
そしてそのことを、歴代の彼女だけが共通して知っているのだとしたら。
(いや、だとしたら辻褄は合うけど、彼女たちは一体何のメリットがあって彼に時間を捧げるんだろう)
(美結くんも美結くんで、自分に想いを寄せない人と交際をする理由は?)
瑞穂のこともそうだとは思いたくないけれど、例えば彼女たちの方には、美結斎の彼女である・彼女だったという箔がつくだろう。美結くんに近づく人たちには、それが目的であることが多いのは私も知っている。
だとしたら美結くんは何のために?
まさか、そういう性癖なのではないだろうか。あるいはそうしないといけない、何か理由があるのかもしれない。
『この先死ぬまで話しかけられたくない、どうしよう』
『全然熱烈なファンとかじゃなくて。全然もう、何の下心もなくて』
『美結くんには何の感情もないです』
『美結くんは遠くにいてくれないと困る。私の平和が壊れるから』
『嫌いとかじゃなくて、興味がないっていうか、ほら。タイプじゃないし』
──そう。これまで私はいかに美結くんに興味がなく、どうでもよく、干渉したくないかを本人含め色んな人に説明してきた。もっと包み隠すべきことまで吐露に吐露を重ねてきた。
これが美結くんの中で決め手になったのではないだろうか?
そう、やはり私は意図せず選抜試験を受け、うっかり合格してしまっていた。そういうことではないか。
だとしたら美結くん側にもちろん私を騙したり、からかう意図はないと思っていい。本気も本気、絶対に自分を好きにならない私を16代目の彼女に据え置きたいのだろう。
(それなら尚更、郡上だって土俵に上がりそうなのに)
しかし暫定、口に出して美結くんNGを周囲に表明しているのは私くらいかもしれない。避けるつもりで行ったことが、1番近づく結果を呼んでしまったらしい。
これらの答えに行きついた瞬間、途端に目の前に光が差したようだった。雲間から差し込む天使の梯子さえ見える気がする。
きっかけをくれた15番目さんには、感謝しなければいけない。




