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第10話 たまに俯瞰して見た方が良い


 その日のそれからのことは随分あやふやで、ただ瑞穂が必死に『違うから! 何の根拠も言えないけど絶対に違うからしっかりして!』と叫んでいたことだけはしっかり頭に残っている。頼んだものはきっちり食べたけれど、味は覚えていない。作った人に申し訳ない。



 "ストーカー"


 どうして今までこの言葉を自分に当てはめなかったんだろう。



 話したこともない人間が自分の食べ物の好き嫌いを知っていたらどう思うだろう。絶対に気持ち悪いだろう。

 なのに私は自分のことは棚に上げて、ああ、駄目だ。瑞穂とのことを都合よく勝手に勘違いしていたことまで恐ろしくなってきた。


 (漫画で何回も見たことある……敢えて敵の懐に入っておいて完全に仲間だと思ったタイミングで『俺は最初からお前が憎かったんだ』と最終話のあたりで斬りつけてくるやつ……)


 瑞穂には申し訳なかった、せっかくの夏休みにわざわざ従姉妹のところまで遊びに来てくれたのに何も楽しませてあげられなかった。

 

 (でもよかった、美結くんが瑞穂に叶わぬ恋を長引かせてるわけじゃないなら)


 実を言うとまだその可能性に少し賭けていたいと思っていた。しかし瑞穂に別れ際もう一度念押しされたので、瑞穂の名誉のためにもその思い込みはやめておこう。




 私が悪い。



 でももっと他にも、美結くんの過激ファンはいたと思う。自分がストーカーという事実は認めるにしても、高校時代に酷い追っかけをしていた同級生もいたはずだ。

 隠していたはずの進学先まで同じだから? だけどさすがに私だってそれは知らなかった。入学してから知ったのだ、何なら美結くんがいると知っていたら志願先を変えていたかもしれない。


 たまたま近くにいたから眺めているのは楽しかったけれど、なんとかして近づきたいなんて思ったことは本当に、1度たりともない。


 しかし美結くんにとっては私が1番恐ろしかったのかもしれない。何か彼の、触れてほしくないところに触れてしまったのかもしれない。


 ぼうっとしながら夕飯をとり、早めにお風呂に入って、頭を乾かしながら何度も何度も考えた。


 そして決めた。

 全て白状して、美結くんに謝ろうと。


 仮にこれが自分のためのエゴだとしても、いずれにしたってお互いにとってこのままではよくない。たった4年しかない大学生活、避けたい者同士が暗い気持ちを抱えたまま仲良くしたって何も結ばない。


 そして過去を猛省し、綺麗さっぱり美結くんの記憶を消し去り、遠い未来の幸せを願って視界から消える努力をする。


 大学を辞めるのはさすがに無理なので、後期はまるっきり違う教科を取るように調整しよう。

 後期の授業調整は9月に入ってからだ。となると、早く美結くんと決着をつけなければならない。


 「よし」


 洗面所から部屋に戻って携帯を確認した瞬間、気を失いそうになった。


 美結くんご本人からの、2度の不在着信。2回目の方は20分前、私がお風呂に入っている頃だ。


 (もしかして瑞穂に何か聞いたんじゃ)


 今も瑞穂は美結くんと繋がっていると言った。でも私は瑞穂に、今日のことは美結くんに言わないようにと念押ししたはず。


 「……ねえ」


 しかしあの瑞穂のことだ。私がダークゾーンに入っていたのを見て美結くんに報告していてもおかしくない。


 「おい! おねえ、なに無視してくれとんだ」

 「なに、ノックしてよ」

 「したわ!」


 蹴り開けるように部屋に入ってきたのは弟だった。部活から帰ってきたらしい、ユニフォーム姿で汗臭い。


 「急ぎ? 今忙しいんだけど」


 私は思考を整理しているところだったのに。


 「客」


 「はぁ? ……瑞穂?」

 「瑞穂ちゃんだったら言うわ。男。今外にいる」

 「男? 私に来客の予定なんてないよ」

 「知るかよ。お父さん帰ってきたら面倒くせーから早く」

 「や、お姉ちゃん一応女だからさすがに見知らぬ男の来客は……」

 「母ちゃんが通していいって言ったからいいってば」

 「へ? なんだお母さんの知り合い?」

 「多分。さっきしゃべってたし」

 「じゃあ中通してあげたらいいのに」

 「俺も言ったけど向こうが頑なにいいって言うから。だから早く行けってば」

 「名前わかんないよ」

 「見りゃわかるってば」


 会話になってない。反抗期真っただ中の色黒高校2年生の気持ちは私には分からない。


 いや。


 まさか。


 「……待って。その人、綺麗な顔してた?」

 「だから早く行けってば」


 そのつっけんどんな態度、つまり肯定と見なしていい。


 「……えっ、怖」


 討ち入り? 忠臣蔵(ちゅうしんぐら)

 もし万が一、億が一にも美結くんだったとしたら、母が知っているはずがない。しかしよく考えれば、瑞穂がとっくの昔に自分の彼氏として紹介している可能性がある。


 そんなことより私は今、すっぴんの上髪の毛が半乾きで、何もかも最悪なのだけれど。


 (……いや、別に最早それは気にすることじゃない)


 半袖半ズボンのパジャマにカーディガンだけ羽織って、とぼとぼと玄関の前に通過するリビングに顔を出すと、一方の母はうきうきしていた。今日の瑞穂のように。


 「ちょっとあんたなんで顔そのままなの!?」

 「いいよ別に」

 「まあいいわ、ずっと待ってくれてるんだから。そうだ、あと多分10分くらいでお父さん帰ってきちゃうから、もしなんだったら裏の公園でも」

 「いい。すぐに終わるし。ていうか誰?」

 「いいからいいから」


 よくない。

 なるほど、確かに母のこの反応、見覚えのないおじさんが急に訪ねてきたような感じではないだろう。母がこんなにうきうきになるはずがない。彼女は相当面食いなのだ、10人グループの韓流メンズアイドルのメンバーも全部言えるくらい推している。


 予期せぬ来訪。1ミリも台本を考えていない状況での対峙。


 玄関扉をちょっとだけ開けて『その声は我が友、李徴子ではないか?』くらいの掴みのボケを入れた方がいいだろうか。駄目だ、確実に滑る。相手が山月記を知らなかった場合最悪の滑り方をする。


 「……お待たせしてすみません、」


 裸足に中学生の頃のサンダルを引っ掛けて、ろくな覚悟もしないまま外に出る。

 もう驚きはしなかった。


 逆に美結くんの方がものすごく驚いていた。

 

 「え、髪大丈夫?」

 「ああ、いいの。普段からそんなしっかり乾かさないから」


 第一声は半乾きの髪の心配だった。


 あれだけ瑞穂の前にいたときは波打っていた胸の中が、生ぬるいこの夜風のおかげか自然といでいる。

 諦めに近い。かくれんぼで見つかってショックを受けたその2秒後の、逃げなくていいというほんの少しの安堵が私の中にあった。


 「また電話取れなくてごめん」

 「いや……全然」

 「ていうかこっちの家も知ってるんだね」

 「……稲里(いなさと)から聞いた。ごめん」


 稲里というのは瑞穂の姓であり、そして彼女の叔母である母の旧姓だ。美結くんがここですんなりと瑞穂の名前を出したということは、つまり今日のことはどこまでかは分からないにしろ、すでに瑞穂から聞いているのだろう。瑞穂め。


 「本当は電話で話せばよかったんだけど、……電話、出てもらえるかわからなかったから」

 「あ、この通りお風呂入ってて、」

 「だよな。ごめん」

 「美結くんが何回も謝ることないよ」


 美結くんの後ろをバイクが通りすぎる。うちの玄関灯の橙色に照らされた彼の顔に、綺麗な凹凸を描く影が落ちる。影の付き方まで芸術的だった。車通りも街頭も少ない、住宅地の外れ。きっとここではどんなに小さな溜息も聞こえてしまう。


 何か言おうとして、美結くんが口を薄く開けた。けれど彼の方は顔を背けて、結局閉ざしてしまう。


 「……せっかく来てもらって勝手だと思うんだけど、……私から話していい?」


 ずっとお互い黙っているわけにはいかない。


 私がそう言うと、美結くんははっと顔を上げたあと「全然、大丈夫」なぜか覚悟したような顔をした。覚悟をするのは私の方なのに。


 肺に入るだけ息を吸って、腹を括った。うまく言えるかわからなかった。


 「私、前も言った通り、美結くんの熱狂的なファンでもなんでもない」


 でも、という接続詞は、みっともないくらい頼りなく地面に落ちていく。


 「そう思われても仕方ないくらい、……なんていうか、その、そう。私、中学の時からストーカーみたいに美結くんのこと知ってて」


 これは最終話、最終決戦だ。


 そう思っているのに、私は美結くんの顔を少しも見れなかった。視界の端に、彼の綺麗なスニーカーのつま先だけが入っている。


 「だけど本当に、ただ聞いて、知ってるだけ。何かしてやろうとか、そんなこと少しも思ったことなくて。ただなんとなく噂を聞いて集め出したら、なんだろう。トレーディングカードみたいな……もちろん聞いたことを誰かにしゃべったりしたこともない。前に言った、アレルギーのことくらいで。それも本当にうっかりで」


 口に出せば出すほど言い訳がましくなる。


 「美結くんは私にとって遠い世界の人だから。それこそ次元が違うというか。だからそのあたりの境界がすごく私の中でも、曖昧になってて」


 一人の人間であることを分かっているつもりで、分かっていなかった。


 「前に言ったことは本当。下心はなんっにもない。誓っていい。美結くんの今までの彼女に危害を加えたことだってもちろんない。進学先が被ったのもたまたまだし、私から誰かに美結くんの話を聞こうとしたことだって1回もない。……もしかしたら無意識に、聞こえるところには寄って行っちゃってたのかもしれないけど。だけどそれも続きが見たい、みたいなそれくらいの気持ちで」


 今更嘘を吐いたって何の意味もない。美結くんにはどうかこれから先、ストーカーの1人がいなくなることに安心してほしい。


 「お恥ずかしながら、気持ち悪いことしてたんだって自覚したのは最近。本当にそれまで、なんの罪悪感も抱いてなかった。怖いくらい」


 「……」


 「ごめんなさい。今まで、本当に」


 勢いよく頭を下げると、半乾きの髪が頬に張り付いた。私みたいに、気持ち悪い。


 美結くんはしばらく黙ったまま何も言わなかった。沈黙の長さが怒りの程度を表しているようで、私は顔を上げた瞬間に殴られてもいいように歯を食いしばる。


 「宇佐木。顔上げて」

 「でも」

 「……お父さんが、そこで気まずそうにずっと隠れてる」

 「え?」


 え?


 『お父さんが』という言葉に美結くんの指さす方向を見やると、ガレージの中、エンジンを切った車内でじっと腕組をしている我が父の横顔があった。


 「え、い、いつから……?」

 「……宇佐木が出てきたくらい。大丈夫、窓閉められてるし、話の内容聞こえてないと思う」

 「ちょ、ちょっと待ってて」


 タイミングが悪いのは遺伝レベルなのだろうか。慌てて車の窓を叩いて、ジェスチャーで出てきてくれと合図をするとしおしおになった父がこう言った。


 「……痴話喧嘩は、あんまり家の前でしない方が良いぞ」


 「違う。お父さんもう黙って家入ってて」

 「というか家の中で話せばいいのに。なんで外なんだ、暗いところで話すと余計に」

 「っいいから」


 「あ、そうだ美結くん」


 美結くん、と呼んだのは私じゃない。

 父だ。


 「え、」


 なんで父まで、彼の名前を。


 「明日暇? 久しぶりに釣り行かない? アジ狙い」

 「は!?」

 「いいんですか? ぜひ」

 「え? いやいやいや」

 「なんだお前さっきから」


 「ちょっと、もう、ややこしくなるから、あとで聞くから家入ってて!」


 夏の悪夢だろうか。

 扉の向こう側に父を押し込むと体中からどっと汗が噴き出てくる。中に入った父がまだ「暑いんだから中入ってもらえよお」と言っている。もう黙ってほしい。


 何が何だか、もう分からない。


 「……つ、釣り仲間だったんだ。うちのお父さんと」


 アジ狙い? 何かの隠語?

 気になるけれど、そこを追及しはじめたら収拾がつかなくなりそうだった。でも美結くんも『ぜひ』なんて言っていた。行くんだ、釣り。


 「宇佐木、」


 「あの、とりあえず私が言いたかったのはさっきの話で全部だから。一方的でごめん」


 「宇佐木」


 「私は美結くんの幸せを祈ってる。心の底から応援してる、邪魔なんて絶対にしない。ううん、この先絶対に美結くんの人生には干渉しない。関わらないって約束する。誰に拷問されても美結くんの秘密とか漏らしたり、」


 言葉が切れたのは、その瞬間美結くんに腕を掴まれたからだ。瑞穂とは正反対の、高い体温が伝わる手に。


 「……知ってたよ」


 薄い色の瞳に橙色が反射して、私をまっすぐに見る目はまるで宝石みたいだった。



 「宇佐木が俺のことを何でも知ってるのは分かってた」



 私とはあまりに対照的なくらい、穏やかで優しい声だった。


 「でも程度ってものが、」


 うまく息ができない。


 「……この前、トマトの話された時はちょっと笑ったけど。でも宇佐木、知ってから調べてくれたんだろうなって。俺が中学の時にアレルギーの話をしたのは、キウイだけだったのに」


 『──果物ほとんどアレルギーで食べれないから』

 『──あれ、でも美結くんトマト、』

 『──トマトも検査上は引っかかってるけど』


 (やっぱり、あれも気づかれてたんだ)


 キウイにアレルギー反応を起こす人は、程度こそ違えど多くの果物で同様の症状を示すことが多い。バナナ、リンゴ、メロンに桃にパイナップル。野菜で代表的なのはトマトだった。最初にキウイのことを知った時、私は確かに美結くんの言う通り図書室に行って調べたのだから。


 「それは、……珍しくて」


 「その件で女子と喧嘩した時も宇佐木が相当言い返したのも知ってる。あの後ぱったり食べ物渡されることなくなって、自分でもびっくりするくらいほっとした。……だからいつか謝って、お礼も言わなきゃって思ってたのに」


 想定していた言葉はひとつも美結くんから放たれなくて、それでも私はまだ何もうまく言えないでいた。


 「お礼って」

 「宇佐木は自分じゃ大したことないって思ってても、他の人にとったらすごいこといくつもしてる。郡上さんと出会った時の件だってそうだよ」


 そうじゃない。私は本当に、大した人間じゃない。


 あの時私は素性も知らない郡上を純粋に助けたかったのかと言われたらそれは分からない。ただ、見て見ぬふりをした後の自分を苦しめるだろう罪悪感の種を、事前に殺してしまいたかっただけだ。


 「俺も、宇佐木のそういう話を色々知ってる。……宇佐木はそれを知らないだろうけど」


 美結くんは決して無理に腕を引っ張ったり動かしたりせずに、ただ熱い手で握るだけだった。


 「確かに、関わりのない人に自分のことを知られてたら気持ち悪いだろうし、実際そういう人にもうやめてくれって言ったことは俺もある」

 「……」

 「でも、宇佐木だったらいいよ。俺のこと、朝顔とかトマトみたいに観察してくれてただけなんだから」


 そう言って美結くんは笑った。


 「……観察ってレベルじゃないよ」

 「プロフィール全部埋まった状態で話せるって考えたら気楽だし」


 ポジティブ大魔王みたいな台詞だ。

 

 美結くんの言葉の文脈が分からないまま、私はちらりと彼の顔を窺った。怒りも呆れも、憎しみのようなものもその目の色からは感じ取れない。これで演技だというならもう俳優になった方が良い。成功するだろう。


 「だから俺が宇佐木と友達になりたいって言ったことには、何の裏もない」


 曲解しようもないくらい、あまりに分かりやすい言葉を真っ直ぐに投げられる。


 「でも、もし宇佐木が、これまで俺を知ったことで関わりたくないって言うならもうそれは諦める」


 「そんなことは」

 「関わることで誰かに嫌がらせされるようなことがあったら、絶対に俺がなんとかする」

 「いやそれは別に」

 「なら、問題ない?」


 ここでノーと言える人がいたら引っ張り出してきてほしい。郡上だったら言えるだろうか。



 「宇佐木が損するようなことは絶対にないようにする」



 受け取る側がうっかり取り違えたらプロポーズになりかねない、宇佐木くんは誰かと友達になるたびこんなに熱烈にスカアウトするのだろうか。だとしたらキラキラ軍団への見方も変わってくる。


 「わ、わかった。ごめんなさい、私もなんか色々と取り違えてて。すごく美結くんを貶めるような……」


 「こっちこそうまく距離詰めれなくて強引なことしたから勘違いされたんだし、謝ることない」


 「とりあえず今後も、なんというかお友達として何卒……」


 よく分からない。よく分からないけれど、美結くんがほっとしたような顔をしたから、多分これでよかったのだと思う。

 

 よっぽど瑞穂が誇張して美結くんに何か言ったのだろう。そうじゃなければ彼がわざわざうちまで来るはずがない。もしかしたら私の命の心配までしてくれていたのかもしれない。


 (高校まではクールでドライな人だと思ってたけど、本当はものすごく情に深い人なんだろうな)


 罪悪感が少しだけ尾を引きながら、しかしここ数か月で1番の安堵を私は美結くんからもらった。 

 ここまで労力をかけてくれたのだから、私もそれに応えたいと思う。

 


 「……ごめん。よく考えたら美結くんのこと誰にも言ってないって言ったの、ちょっと嘘かもしれない」

 「嘘?」

 「郡上にちびっと……瑞穂のこととか。もう言わないようにする」


 「なんだ。いいよそんなの」



──こうして、正式に美結くんが私の"友達"となった。



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