理不尽な夜明け
翌朝。
僕を揺り起こしたのは、石畳の隙間から這い出してきた湿った空気と、街道の拠点『リバティ』に響き渡る教会の鐘の音だった。
昨晩の出来事は、僕の悠久の記憶の中でも最下位に類する、救いようのない喜劇だった。
全財産を宿屋の主にむしり取られ、行き場を失った僕たちは、結局、街の隅にある湿った路地裏で夜を明かす羽目になったのだ。
石畳の上に布切れ一枚。
そんな無様な姿を晒すわけにもいかず、僕は指先一つで大気中の水分を編み上げ、路地裏に小さな氷のドームを築いた。
聖域の神殿を模したそれは、内部の魔力密度を極限まで高め、外界の汚れを拒絶する、僕なりの矜持だった。
「不思議だね、カイト。君という種族は、この絶対零度に近い空間でなぜ平然としていられるんだ?」
狭い氷の殻の中で、僕は隣に座る男に問いかけた。
僕の肌はたとえ吹雪だろうがもろともしないが、人間は本来、熱を失えば死ぬはずの脆弱な生き物だ。
「ああ、これか? 『環境耐性:極』。勇者ってロールに付随する基本スキルの一つだよ。世界が『寒いから凍えろ』とか『暑いから干からびろ』ってルールを押し付けてきても、俺の身体が自動的に弾いちまうんだ」
カイトは事もなげに言った。
勇者。その響きに、僕は微かな違和感を覚える。
この世界を統べる『神の台本』によれば、勇者とは世界の危機の際に「選ばれる」存在であり、定められた敵を倒すための「装置」だ。だが、カイトからはその装置特有の、運命に縛られた悲壮感が一切感じられない。
加えて、彼は世界の理を「無視」している。この男の存在自体が、神の綴った台本に対する重大な規約違反なのだ。
僕は氷の壁に背を預け、冷たい溜息を吐いた。
「君を見ていると、時折、この世界の理を理解した上で、わざと読み飛ばしているような錯覚を覚えるよ。君は本当に、この世界の住人なのか?」
「さあな。俺のいた場所じゃ、世界はもっと理屈っぽくて、奇跡なんて一滴も混じってなかった。数字と論理で全部が決まる、クソ真面目な世界だったよ」
カイトは遠い目で、氷の壁の向こう側――彼がかつていたという、魔法も龍も存在しない異世界の幻影を見ているようだった。異界の記憶持ち。
通りで、僕たち龍族に対する畏怖が欠落しているわけだ。
僕たち龍族は、この世界の「属性」そのものを体現する守護者だ。
• 南端の火山帯を統べる『豪炎龍イグニス・ヴォルカ』。
• 西の暴風域を根城にする『翠風龍フィウ・ゼフィエル』。
• 東の巨大山脈を玉座とする『剛岩龍ガイアス・ゼオラ』。
• 空の果て、雲よりも高い天界を回廊とする『聖光龍ルミナス・ソル』。
• 空間の裏側――別次元の深淵に潜む『深淵龍エクリプス・ノクト』。
そして、北の最果て。この世で最も澄んだ「水」と「氷」が支配する聖域で、凍土の静謐を守るはずだったのが、僕――『蒼水龍リル・アクエル』だ。
僕たちはそれぞれの聖域に流れる「龍脈」を通じて、意識の深層で常に繋がっている。数千年に一度、あるいは神の台本に無視できない揺らぎが生じた時、僕たちは精神世界という名の純白の虚空で邂逅し、世界の理について言葉を交わすのだ。
もっとも、僕にとってそれは不愉快な記憶でしかない。
龍の姿にさえなれぬ「なり損ない」の僕を、彼らは容赦のない嘲笑で迎える。
唯一、西のゼフィエルだけは、「リル君のその姿、僕は結構お気に入りなんだけどね」と、ハープを奏でるような軽やかな旋律を意識の海に響かせて僕を庇うが、他の連中の嘲笑は留まるところを知らない。
奴らにとって、数千年も幼い人間の姿のまま「龍化」できない僕は、格好の玩具なのだ。
精神世界という名の虚空で、山のような巨躯を誇る龍たちに囲まれ、一人だけ豆粒のような少年の姿で立ち尽くす僕の心境を、少しは想像してみたまえ。
彼らはその力ゆえに神の台本に従順であり、世界の均衡を保つための生ける重しとして鎮座している。僕もまた、その「なり損ない」として、聖域に鎮座し続けるはずだったのだ。
だが、この男が全てを壊した。
そもそも、なぜこの男は、人間にとって死の領域である僕の聖域を訪れたのか。
「ねえ、カイト。君はそもそも、何を求めて僕の聖域に来たんだ?」
「ん?宝探しだよ。あそこにある『魔鉱水晶』一個売れば王族並みの暮らしができるって噂を信じて、命がけで山を登ったわけだ」
魔鉱水晶。僕が数千年かけて聖域を磨き、その過程で削り出された魔力の結晶。
「ねえ、カイト。初対面で言っていたよね。魔鉱水晶を売れば、一体いくらになるだろうって」
「ああ。それが目的だったからな」
「それで。その、一生遊んで暮らせる金塊は、今どこにあるんだ?」
カイトの動きが、凍りついた。
彼はゆっくりと自分の荷袋を漁り、それから空っぽの腰袋を二度、三度と叩き、最後に自分の頭を抱えた。
「……拾うの、忘れた」
「……」
「いや、言い訳させてくれ! あの時の演出……お前を連れ出すあの瞬間のカタルシスに全神経を注ぎすぎたんだ! 後のことなんて考えてなかったんだよ!」
「君は、本当に馬鹿だね、カイト。君の言う理不尽とは、単なる無計画の言い換えだったのか?」
「うるせえ! お前だって一個も持ってこなかっただろ!」
「湧き水が自ら瓶を抱えて流れる光景を、君は見たことがあるのか? 僕は『価値』の源泉そのものだ。持ち歩く必要なんてないんだよ!」
「あーもう理屈はいいよ! 要するに二人して一文無しってことだろ!」
最強の龍族と、詰めが甘すぎる勇者の記念すべき初夜は、狭い氷穴の中で互いの無能を罵り合うという、この上なく不毛な形で更けていったのだった。




